スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
-------- : スポンサー広告 :
Pagetop

池田SGI会長指導選集 「幸福と平和を創る智慧」 第2部 人間革命の実践 第12章 桜梅桃李 12-1〜12-9

池田SGI会長指導選集 「幸福と平和を創る智慧」

第2部 人間革命の実践

第12章 桜梅桃李

この章を読むに当たって

 「信仰するというのは、何か型にはまってしまうような気がします」――未入会の青年の率直な声に、かつて池田SGI会長は、こう答えました。
 「日蓮仏法は桜梅桃李と説きます。梅は梅、桃は桃――皆が桜になろうというのではなく、自分が最も自分らしく生き抜いていくための信心です。日蓮大聖人の御書には、『はたらかさず・つくろわず・もとの儘』とあります。ありのままでいいんです。ありのままの自分が尊いんです。取り繕った分、気取った分、自分が弱くなってしまう。
 『ありのまま』と『そのまま』は違います。そのままでいい、というのでは成長はない。自分とは何か、何のために生きるのか――それを追求しながら、努力して、努力して、努力し抜いていくなかでこそ、自分自身の使命の花を咲かせることができる。それが、桜梅桃李の実践なのです。
 人間革命なくして、真に自分自身に生きることはできません。この人間革命を目指していくという『型にはまる』のであれば、悔いのない青春ではないですか」
 この確信あふれる激励に、青年はほどなく入会しました。
 誰もが、かけがえのない使命の種を持っています。それを芽吹かせ、思う存分に咲かせていくための人生です。
 「信心とは」――SGI会長は語っています。「人を羨んだり、自分を卑下したりしないこと。自分自身に生き切り、自分にしかできない使命を、自分らしく果たしていくこと。そして、自分が尊敬できる自分をつくっていくことだ」と。

 12-1 されど我は咲くなり

 東北の山形を訪問したSGI会長は、仏法の桜梅桃李の原理をわかりやすく示しながら、自分自身の使命に生き抜く尊き人生を、と呼び掛けました。


【池田SGI会長の指針】
◎山形県総会でのスピーチから 
        (1983年4月18日、山形)

 山形へは9年ぶりの訪間となった。一日も早く山形の友のもとへとの思いをいだきながら、新潟から列車の旅をした。車窓には、山々の残雪のなかにも、青い水の流れ、木々の緑が広がっていた。黄色いレンギョウの花も、雪柳も、水仙も、桜も、自然を彩って、生きいきと咲き薫っていた。
 それらを眺めながら「桜梅桃李の己己の当体を改めずして……」(御書784㌻)との御聖訓を思い起こしていた。
 この御文は、われわれの生き方の根本的姿を御教示くださっている。
 桜は桜のままに咲き、みずからの使命に生きている。梅も、桃も、李もそうだ。
 われわれ一人ひとりの人間も同じでなくてはならない。一人ひとりが個性をもっている。また人格をもち、尊い生命をもった存在である。ゆえに、あくまでも自分らしく、主体性をもって生きていけばよいのである。
 自分にしかない使命、生き方があるものだ。あの人のようでなければならないということはないのである。
 桜には桜としての生命と因縁がある。梅も桃も李も同じくそれぞれその生命となった因縁があるだろう。と同じく、信心の眼《まなこ》より見れば、自分自身のこの世に生まれた使命と、それぞれの因縁があるといってよい。それを、それぞれ心から楽しく自覚できるのが、この妙法である。
 妙法の信心の力によって自分のなかにある仏界を涌現させていくことが、人生にとって根本の幸せなのである。
 皆さんのなかには、東京などの大都会にいる人々をうらやましく思っている人もあるかもしれない。また、はなばなしい職場で働き、大きい家に住みたいと思っている人もいるかもしれない。
 しかし、澄んだ空気、月の輝き、星辰のまたたき、朝空にうかぶ蔵王をはじめ、かすかに白い鎧を着た美しい山々の自然は、とうてい東京では見られない。とともに人生の幸福境涯というものは、その国土世間、その職場、その家々の大小で決まるものではない。
 他のものはよく見えるのが、人間の常である。山形におられる方々は、大都会に生きることが幸せそうに見えるかもしれないが、大都市の人々は、山形のこの美しき自然環境にあこがれる。
 ゆえに、その地域にあって、日先の次元に惑わされることなく、要は己の力を存分に発揮し、使命を果たしていくことである。
 ある文人が「見るもよし、見ざるもよし、されど我は咲くなり」とうたったが、私どもの行動はすべて御本尊がお見通しである。
 ともあれ、桜梅桃李の原理のごとく、だれ人が見ていようが見ていまいが、あくまでも妙法につつまれて自分らしく生きていくことが大事なのである。

 12-2 性格をより良く輝かせるために

 小説『新・人間革命』では、学生部の会合に出席した山本伸一会長が、〝気が弱い〟という自分の性格に悩むメンバーを励ます様子が綴られています。

【池田SGI会長の指針】
◎小説『新・人間革命』第16巻「入魂」から
       (2006年10月刊)

 〝優しさ〟と〝気の弱さ〟は、一つの性分のあらわれ方の違いといえるだろうね。性分が〝優しさ〟として生かされれば長所となるし、〝気の弱さ〟となってあらわれれば短所となってしまう。そして、性分が常に短所となって作用すれば、それが不幸の原因にもなる。
 たとえば、カッとなる性格の人は、職場でもすぐに喧嘩をしがちだ。すると、周囲から疎んじられ、人間関係もうまくいかなくなる。場合によっては、会社を辞めることにもなりかねない。
 その要因は自分の性分にあるから、どこに行っても同じようなことを繰り返してしまう」
 「人間の性分自体は変わらないが、信心によって、自分の性分を良い方向に生かしていくことができる。御書には『桜梅桃李の己己《ここ》の当体を改めずして無作三身と開見《かいけん》すれば……』(784㌻)と仰せです。
 桜は桜、梅は梅、桃は桃、李は李と、それぞれがありのままの姿で、自分を最大限に生かしながら、幸福になる道を説いているのが仏法なんです。
 すぐにカッとなる人というのは、情熱的で、正義感が強いということです。信心に励めば、つまらぬことでカッとなるのではなく、悪や不正を許さぬ正義の人になる。また、誰かの言いなりになってしまう人というのは、優しさや人と調和する力がある。その長所の部分が引き出されていくんです。そうなっていくことが人間革命なんです。
 それには、具体的にどうしていけばよいのか──これが大事です」
 「根本的には、唱題に励み、生命を磨き抜いていくことです。自身を見つめ、自分の問題点や生命の傾向性を自覚していくことが大切です。
 たとえば、誰にでも、〝不幸は人のせいだと考えてしまう〟〝堪え性がない〟〝人の意見を聞かない〟等々、それぞれ欠点がある。それは自身の成長や幸福を妨げる一凶となる。
 ところが、人間は、言われなければ、なかなかこの一凶に気づかない。だから、それを厳しく指摘し、切磋琢磨してくれる、先輩や友人をもつことが必要になる。
 この自分の一凶と戦い、転換していく、真剣な祈りがなくてはならない。
 さらに、学会活動のなかで、自分を鍛え抜いていくことです。御書には『くろがね《鉄》をよくよくきた《鍛》へばきず《疵》のあらわるるがごとし』(1083㌻)と仰せです。
 自分に負けず、一つ一つの活動に勝利していくなかに、鍛えがあり、自身の一凶に打ち勝つ人間革命の道がある。学会活動の場は、自分の生命を鍛え上げる道場です。広宣流布の使命に生きようと心を定め、自身を鍛え抜くなかに、宿命の転換もあるんです」

 12-3 自己自身に生きよ

 SGI会長は、戸田第2代会長の祥月命日を記念して行ったスピーチで、戸田会長の指導を紹介し、「自分自身に生きる」ことの大切さを強調しています。

【池田SGI会長の指針】
◎「4・2」記念各部代表懇談会でのスピーチから
(1993年4月3日、東京)

 「自己」を知り、「人間」を知り、「生命の尊さ」を知る──ここに宗教の重要な意義がある。
 戸田先生は、こう語られている。(巻頭言「自らの命に生きよ」、『戸田城聖全集』第1巻。以下同じ)
 「貧乏して悩むのも、事業に失敗して苦しむのも、夫婦げんかをして悲哀を味わうのも、あるいは火ばちにつまずいて、けがをするのも、結局、それは皆自己自身の生活である。
 すなわち、自己自身の生命現象の発露である。かく考えるならば、一切の人生生活は、自己の生命の変化である。ゆえに、よりよく変化して、絶えず幸福をつかんでいくということが大事ではないか。
 されば、自己自身に生きよ……いや、自己自身に生きる以外にはないのだ、ということを知らなければならない。あの人が、こうしてくれればよいのだとか、この世の中がこうであれば幸せなのだといって他人に生き、対境(=そとにある対象)に生きるということは間違いではないか。
 しかし、人間の力というものは弱いものである。自己自身に生きていると、いかに力んでみても、他人に支配され、対境に支配されやすいものなのである」
 「そこで、自己自身の生命が、もっとも強く、もっとも輝かしく、もっとも幸福であるためには、十界互具、一念三千の仏法に生きる以外にはないと、吾人(=私)は信ずるものである」と。
 生命力が強い人は幸せである。確信が強い人は幸福である。人生を切り開ていける。
 「弱い人」は不幸である。また、不幸を自らつくりだしてしまう。仏法の信仰は、自分自身が最も強くなるためにある。ゆえに、すべてを「信心」で受けとめ、「信心」で乗り越えていこうという生き方に、永遠の「幸せの道」がある。いちばん尊いのは「自分自身」である。皆さま方である。そのことを、大迫害を受けながら教えてくださったのが大聖人であられる。そして、この〝仏法の真髄〟を、そのまま信受し、民衆に教えたのが牧口先生、戸田先生なのである。
 われらは大確信をもって、大聖人直結の「この道」をまっしぐらに進んでまいりたい。
 戸田先生は、青年部に、こう指導された〈昭和32年(1957年)6月、男子部幹部会『戸田城聖全集』第4巻。以下同じ〉。
 「若い時代にとくに大切なものは、自分の心を信ずるということである。自分の心というものは信じがたい。中心が動揺し、迷っている若い時代は、ことにありがちである」
 「私はアメリカのポパイという漫画を見た。ポパイは、あれは弱くて負けてばかりいるが、ホウレン草を食べるとすぐ強くなる。たちまち敵を投げとばしてしまう。あれはホウレン草というものを信仰しているのである」
 「自分の心にひとつの確信なくしては、生きていけません。自分は御本尊様を信じている。だからどんなに困ってもかならず助かっていく、だいじようぶだ。この確信があれば、なにをしてもよろしい。
 人生に生きる道であるなら、正しいと思ったなら、御本尊様を信じて、御本尊様を確信の芯にするのです。病気、貧乏であろうと、絶対、克服できる。それには、信というものが、かならずなくてはならない」
 「その心が強ければ強いほど、いかなることがあっても、青年は敗れることはない。青年はみずから信ずるものをもたねばならない。みずからの心を信じなけれならない。この心はあぶないものであるから、御本尊様によってこの信をたてるのです。そうすれば、一生涯、ゆうゆうと生きていけると信じます。この立場にみずからも生き、他人をも指導していってほしい」と。
 青年をこよなく愛し、先生は何よりも喜ばれたのである。だれよりも青年に期待を寄せる先生であられた。信心の確信に満ち満ちた青年の活躍を、先生は何よりも喜ばれたのである。

 12-4 かけがいのない自分を大切に


 アメリカSGIの友との質問会において、「自分に自信が持てない」という率直な悩みに、温かな励ましのエールを贈っています。

【池田SGI会長の指針】
◎アメリカSGI文化本部代表との質問会から
  (1992年8月7日、長野)

 みんな、自信なんかありません。むしろ、ないのが普通です。
 かえって「自信がある」などという人は、傲慢な場合が多く、まわりとケンカばかりして、みんなに嫌われたりする。
 人間は自信がありすぎても不幸であるし、自信がなくても不幸である。
 要するに、大事なことは、〝自分らしく〟輝き、〝自分らしく〟一日一日を勝ち取
り、〝自分らしく〟人生を向上させていくことではないでしょうか。目的に向かって、自分で自分を錬磨していくような前進であればいいのです。
 所詮、自分は自分であり、人は人です。人と比べてどうかではない。自分の人生です。自分が心の底で現実に何を感じているかです。
 仏法では「桜梅桃李」(御書784㌻)「自体顕照」と説きます。桜は桜。桃は桃です。桜は絶対に桃なれない。なる必要もないし、なっても不幸でしょう。
 〈自体顕照=万法の本体(自体)を照らし、真理を顕すこと。 「曾谷殿御返事」(御書1055㌻)に「仏になる道は豈境智の二法にあらずや、されば境と云うは万法の体を云い智と云うは自体顕照の姿を云うなり」とある。ここでは、妙法への信仰によって、自身の生命の本来の働き、使命を発揮していく意味で使われている〉
 自分も、どこまでも自分である。なりたくても、絶対に他人にはなれない──その、かけがえのない自分を、大事にし、励まし、満足できる自身になることです。
 その根本は唱題です。妙法を唱えることによって、ありのままの姿で無作の「仏」と輝いていくことになる。ここに根本的な、最高の自信があり、この「自体顕照」の光が我が身を飾り、荘厳にしていくのです。
 堂々たる自信を持っていただきたい。〝最高の人生〟を〝美しい心〟で生きておられるのだから──。

 12-5 個性は鍛えの中に輝く

 中学生の後継の友に向けた『希望対話』では、個性とは何か、自分らしく生きるとはどういうことかについて、わかりやすく語っています。

【池田SGI会長の指針】
◎『希望対話』から 
                 (2003年6月刊)

 「個性的」になろうと思って、流行の格好をしてみる。ところが、その結果、個性的どころか、反対に、「みんな同じ」に近づいてしまう。それでは、つまらない。
 意地悪く見れば、「個性的」というひとつの「型《かた》」があって、それに合わせているようにさえ見える。しかも、その「型」は、じつは多くの場合、マスコミや商売の人たちが「つくった」ものだったり、わざと「はやらせた」ものだったりすることも非常に多い。
 だから、本当は「個性的に生きる」というのは、結構、大変なんです。個性的に生きるためには、自分というものを、しっかりもっていないといけない。「自分の目」を開いて、ものごとを見、「自分の耳」を澄ませて人の話を聞き、「自分の頭」をフル回転させて考え、「自分の信念」を貫く勇気が必要だ。
 それよりはむしろ、「みんなと同じ」という「型」に入っていたほうが「楽」なんです。
 だから、いろんな束縛から自由になろうとするときでさえ、何か人の決めた「型」に入ろうとする。日本人は、「右むけ右」の「ファッショ(全体主義)」になりやすいのです。
 本当の個性は「見た目の個性」なんかではない。内から外へと、にじみ出てくる「中身の個性」です。
 こんな言葉もある。
 「個性とは、この世界で、その人しかもっていない宝の一品である」
 その「宝」が何かは、なかなかわからないかもしれない。しかし必ず、自分だけの「宝」をもっている。もっていない人は、ただの一人もいない。絶対にいない!
 いるとしたら、「自分なんか、ダメなんだ」と、自分で決めつけてしまった人だけです。その決めつけが、自分で自分の「宝」を壊してしまうのです。
 もちろん「自分らしさ」といっても、それが、何《なん》なのかわからない――そういう人も多いでしょう。わからなくて当然なのです。
 むしろ「これが自分らしさだ」「これが自分の個性だ」と思っているものが、人の借りものにすぎない場合も多い。だから「今の自分」が自分のすべてだと思ったら、大きな間違いを犯してしまう。「人間は変わる」ものだからです。
 「今の自分」は、もっと素晴らしい「未来の自分」への出発点でしかない。
 たとえば「私は口べただから、人前に出ないよ出ないようにしよう」――こういうの「自分らしい生き方」ではない。
 口べただけれども、いじめている人を見たときには、堂々と注意していける自分になっていこう。いざというときには、勇気を出して「正しいことは正しい」と言える自分になろう――こう一生懸命に努力していくなかに、〝はじめから口達者な人〟とは違った、あなたならではの持ち味が光ってくる。これが「自分らしさ」です。
 「自分らしさ」とは――自分のもっている力を、ぎりぎりまで、しぼり出して努力したときに、初めて輝き始めるものなのです。
 自分を鍛えないと、できない。「鍛え」の中からしか、「個性」は輝かない。ちょうど「剣《つるぎ》」を炎の中で鍛えるみたいに。
 「個性」というのは、人生を切り開いていくための「自分だけの武器」なんです。「宝剣」なんです。
 そして、見事に自分の個性を鍛え上げた人は、美しい。だれが見ても、ほれぼれ
するほど美しい。すぐ消えてしまう「一時の美」ではなく、ずっと続く「一生涯の美」です。
 何より、その人自身の心が、夏の高原の青空のように、晴れ晴れとしている。その人は、人をうらやまない。人を妬まない。
 人の個性の「足を引っ張る」人が多い日本です。「出る杭は打とう」とする狭い心の日本です。それは、自分自身が、あっちを見たり、こっちを見たり、ふらふらと、ぐらついていて、個性がなく、自信がないから、他の人を妬むのです。
 その反対に、努力、努力で個性をぞんぶんに鍛え上げた人は、他の人の個性の開花を喜ぶものです。応援するものです。人の成功が、うれしいものです。人のために、尽くせるものです。
 そういう大きな心の、本当に「美しい人」に、みなさん、なってください!「あの人の生き方に憧れてしまう!」と言われる人になってください!

 12-6 自分が太陽になる

 SGI会長は、『青春対話』の中で、高校生をはじめとする青年に向けて、自分にしか果たせない使命を見つけ、輝かせていくために大切なことについて語っています。

【池田SGI会長の指針】
◎『青春対話』から 
                 (1993年3月刊)

 自分は自分らしく生き抜くところに、自分としての価値が光る。
 仏法では「自体顕照」と説く。自らの体《たい》を、本来の自分を顕現させる。顕し、輝かせていく。そして周囲を照らしていく。これが最高の「個性」であり、「独創性」です。
 大事なのは「じっとこらえて今に見ろ」の精神です。青春は、あせってはならない。君たちの人間としての真価が問われるのは十年後、二十年後、三十年後です。その時にどうかです。その時に使命を果たしたかどうかです。
 すべての人に、自分でなければできない、自分の使命がある。使命がなければ生まれてきません。
 世界には、たくさんの山がある。高い山、低い山。世界には、たくさんの川がある。長い川、短い川。しかし、みな山であり、みな川であることに違いはない。
 穏やかな万葉の奈良の山もあれば、勇壮な阿蘇がある。壮大な白雪のヒマラヤもあります。それぞれに美しいし、味がある。川も、 鮭の故郷となる石狩川もあれば、詩情の千曲川もある。対岸が見えないだ大黄河があり、アマゾン川がある。その川にしかない魅力がある。
 人間も、それぞれの使命があって存在するのです。いわんや若くして、妙法に縁した君たちです。君には君でなければできない、君の使命がある。必ずある。そう確信し、誇りをもってもらいたい。
 (自分の使命を見つけるにはためには)じっとしていたのではわからない。何でもいい、何かに挑戦することです。その努力の積み重ねのなかから、自然に方向性が決まつてくるものです。だから、今、自分がやるべきことは何なのか、それを避けてはいけない。
 「目の前の山を登れ」ということです。山に登れば、ともかく足は鍛えられる。鍛えられた分、次のもっと大きい山に挑戦できる。この繰り返しです。そのための生命力を自分の中から、わきたたせていくのが唱題です。
 題目をあげて、「目の前の山に登れ」。登った山頂から、もっと広い人生が見えてくる。自分だけの使命も、だんだんと、わかってくるのです。
 「使命があるんだ」ということを忘れない人は、強い。どんな悩みがあっても、負けない。悩みを全部、希望へのエネルギーに変えていけるのです。
 「自分が太陽になる」ことです。そうすれば、すべての闇は消える。
 何があっても、「私は太陽なんだ」と、悠然と生きるのです。もちろん、太陽といっても、曇の日もある。しかし曇っていても、太陽は太陽だ。人間も、苦しんでいても、心は輝きを失ってはならない。
        *
 だれにでも、自分にしかできない自分の使命がある。しかし、その使命は、努力もしないで、いつかだれかが教えてくれるわけではない。自分で見つけるのが根本です。
 宝石だって、初めは鉱山の中に埋まっている。掘り出す努力をしなければ埋まったままです。掘り出してからも磨かなければ原石のままです。
 諸君は、皆、絶対に宝石をもっている。全員が「宝石を秘めた山」です。それを埋めたまま一生を終わってはつまらない。
 「だれでも、何かの天才である」という言葉がある。音楽や文学やスポーツの天才だけが天才ではない。人と話す天才、友達をつくる天才、人を和やかにする天才、看護の天才、ジョークの天才、物を売る天才、節約の天才、時間を守る天才、忍耐の天才、地道の天才、優しさの天才、チャレンジの天才、楽観主義の天才、平和の天才、人を幸福にする天才……。
 「桜梅桃李」です。桜は桜、梅は梅です。自分らしく咲けばよいのです。自分の宝石、自分の天分が必ずある。それがわかるためには、どうすればいいか。
 限界まで努力するしかない。勉強でもスポーツでも何でも、限界まで全力疾走して初めて、自分の力が引き出される。
 いちばん大切なことは、そうやって「限界まで努力する」習慣を身につけることなのです。ある意味で、結果は大した問題ではない。高校時代の成績等は、それ自体が人生を決めるのではない。ただ、「限界まで努力する」習慣が身についた人は、その後、何をやっても、その習慣を発揮して、必ず頭角を現すものです。自分の天分も光らせることができる。
 「人間は自分の夢以上にはなれない」とも言われる。夢は大きくていい。そのうえで、夢は夢、現実は現実です。大きな夢を実現するためには、現実を冷静に見つめて「死にもの狂いの努力」が必要なのは当然です。戸田先生は「青年は、何かで第一人者になろうというだけの執念をもつことだ」と言われた。執念です。自分の宝石を光らせることは、なまやさしい努力ではできない。

 12-7 伸び伸びと着実な前進を


 かつてインドを訪問したSGI会長は、メンバーと闊達な質問会を行いました。そのなかで、壮年メンバーの真剣ゆえの悩みを、大きく包み込むように激励しています。

【池田SGI会長の指針】
◎記念勤行会での質問会から
         (1992年2月16日、インド)

 (SGIの指導として、「雄弁」や「知性」「慈愛」などが目標に挙げられていますが、自分はなかなか実行できません」との壮年の声に)
 ありのままの自分でよいのです。題目をあげきりながら、自分らしく、伸び伸びとと進んでいけばよいのです。自体顕照です。本来の自分自身を輝かせていくのが大聖人の仏法です。そうでなければ、偽善者になってしまう。
 人間革命への努力は、当然、必要ですが、つくられた「雄弁」や、つくられた「慈愛」、見せかけの「知性」など必要ありません。
 日々、題目をあげて、皆の幸せを祈っていく。また、できる限り人に親切にし、優しくし、自分の人格を磨ていく。そうした努力を重ねることは大切でしょう。
 しかし、なかなか奥さんも大事にできないのに、他人を大事にできるわけがない(笑い)。「慈悲」なんか、なかなか出るものではありません。このことは戸田先生も、よく言われていた。
 ありのままの「凡夫」そのもので進んでいく。題目根本に、少ししずでも向上していく。これが正しい姿であり、人間らしい生き方ではないでしょうか。仏法は無理のない、万人に開かれた大法なのです。

 12-8 皆、尊い使命がある

 誰も皆、かけがえのない使命があり、かけがえのない個性がある。この仏法の洞察に立てば、互いの個性を認め合い、違いを尊重する百花繚乱の世界が広がっていくと語っています。


【池田SGI会長の指針】
◎『青春対話』から 
                 (1993年3月刊)

 春が近づいてきた。梅が咲き、桃が開き、もうすぐ桜の季節になる。
 「冬来たりなば、春遠からじ」(「西風に寄す」から)と詩人のシェリーは歌ったが、どんなに苦しく寒い冬が続いても、冬は必ず春となるのです。
 これが宇宙の法則であり、生命の法則です。だから人間も、どんなにつらい冬が続いても、希望を捨ててはいけない。希望をなくさない限り、必ず春が来る。春とは「開花」の季節です。
 何度も言うように、仏法では「桜梅桃李」と説いている。桜には桜の美しさがある。梅には梅の香りがある。桃には桃の彩りがある。李には李の味わいがある。
 人それぞれに使命があり、個性があり、生き方がある。それを認め、尊重することです。それが自然です。
 現に、花たちの世界はそうなっている。百花繚乱です。
 ところが人間の世界は、違いを尊重できないで、「差別」をしたり、「いじめ」をしたりする。人権の破壊です。ここに根本的な不幸が生まれる。
 だれもが、人間として、人間らしく開花し、人間としての使命をまっとうしていく権利がある。自分にもある。人にもある。それが人権です。
 人権を尊重しないだけでなく人権を侵害するのは、すべての秩序を破壊しているようなものです。人権を大切にし、人を尊敬できる――そういう「自分自身の確立」が必要です。

 12-9 多様性輝く調和の世界を


 SGI会長は、ハワイの東西センターで行った記念講演の中で、桜梅桃李の法理に触れながら、仏法に脈打つ多様性の尊重、縁起観に根ざした自他共の尊厳について論じました。他者の多様性を敬うことが、自らの本然の輝きを増していくのです。

【池田SGI会長の指針】
◎東西センター記念講演「平和と人間ための安全保障」から
 (1995年1月26日、アメリカ) 

 仏典に「 桜梅桃李の己己の当体を改めずして」(御書748㌻)とあります。すべてが桜に、あるいはすべてが梅になる必要はない。なれるはずもない。桜は桜、梅は梅、桃は桃、李は李として、それぞれが個性豊かに輝いていけばよい。それが一番正しいというのであります。
 もとより「 桜梅桃李」とは一つの譬喩であって、それが人間であれ、社会であれ、草木国土であれ、多様性の重視という点では原理は同じであります。
 「自体顕照」というごとく、自らの本然《ほんねん》の個性を、内から最高に開花させていく。しかも、その個性は、いたずらに他の個性とぶつかったり、他の犠牲のうえに成り立つものではない。相互の差異を慈しみながら、花園のような調和を織り成していく。そこに、仏教の本領があるのであります。
 仏典には、「鏡に向って礼拝を成す時浮べる影又我を礼拝するなり」(同769㌻)――鏡に向かって礼拝すれば、映る姿もまた、私自身を礼拝するのである――という美しい譬えがあります。
 仏教の精髄ともいうべき、万有を貫く「 因果律」のうえから、他者の生命への尊敬が、そのまま鏡のごとく、自身の生命を荘厳していくという道理が示されているのであります。
 このように、人間や自然の万象は、縁りて生起する相互関係性のなかで、互いの特質を尊重し、生かし合いながら存在していくべきことを促しているのが、仏教の縁起観なのであります。

 12-10 自他共に向上する智慧

 SGI会長は、1998年の「SGIの日」記念提言において、調和と共生の世界を構築しゆく視座として、桜梅桃李の思想を提示しています。この哲理に立脚するとき、自他共に向上する智慧が薫発され、いかなる差異も新たな価値創造の源泉となる。そのためにも、 一人一人の可能性を引き出す人間教育が大切であると論じています。

【池田SGI会長の指針】
◎第23回「SGIの日」記念提言「万年の遠征――カオスからコスモスへ」から
                          (1998年1月26日)

 真の教育とは(イデオロギー教育などのように)人間を一様性の鋳型にはめこもうとするのではなく、人間と人間、師匠と弟子という、精神と精神との撃ち合いのなか、人間の内なる善性を薫発し、自己抑制や他者への共感を通じて、多様な個性を開花させゆく直道であります。
 仏法の知見には、「桜梅桃李」といって、桜は桜、梅は梅、桃は桃、李は李というように、それぞれの差異を認め合ったうえで、皆が平等に、自分自身を光輝あらしめ、麗しい人間共和の世界を築いていく、人間や文化の多様性を最大に尊重し、生かし、また調和させゆく哲理があります。
 この点、牧口初代会長の教育哲学にも造詣が深く、アメリカ哲学界の権威の一人であった、今は亡きデイビッド・ノートン博士は、この「桜梅桃李」という仏法思想の意義を、教育という観点から次のように語っております。
 「来るべき再編された世界のために、教育者が果たすべき責務は、生徒たちの中に自分たちのものとは違った文化、信条、実践に対する理解と尊敬の念を育むことです。これはちょうど、桜、梅、桃、李のそれぞれが、独自の美の側面を表しているように、他の文化や信条、実践が、真実と善の側面を具現しているとの認識の上に立ったとき、初めて可能になると思います。このことは、生徒たちが、一番慣れ親しんでいる信条、実践が真実と善を独占しているという考え方――つまり、パロキアリズム(偏狭性)、狭量な心――を捨て去ることを意味します」(「世界市民と人間教育」、「聖教新聞」1991年10月27日付)と。
 思えば、戸田第2代会長は、東西冷戦のイデオロギー対立が鮮しさを増ますなかで、戦後いち早く「地球民族主義」を主張しましたが、これは今日的にいえば、狭隘なナショナリズムや自己中心主義からの脱却を目指す「地球市民主義」と同根であり、その先見的な思想であったといえるでしょう。
 「文明の衝突」論に見受けられるように、文明間の対立は不可避であるとの見方が一部でありますが、私は、仮に衝突するとしても、それは文明と文明ではなく、それぞれの文明に〝宿痾〟のようにひそむ野蛮(蛮性)同士であろうと思うのです。短兵急な押し付け合いではなく、忍耐強く、長い時間をかけて接触を続けていくならば、本来、文化とは人間性を豊かにするものであり、文化間の差異はむしろ新しい価値創造の源泉と捉えるべきものなのです。
 そこで宗教が薫発すべきは、〝自他ともに向上するための智慧〟であらねばならない。仏典に、「妙と申す事は開《かい》と云う事なり」(御書943㌻)とあるように、人間の生命には、どこまでも可能性を開き、向上しようという特性があり、その特性を最大限に発揮させていくための宗教こそが、今まさに要請されているのであります。これまでの人類の歴史には、宗教が原因となって血で血を洗う悲劇が幾度となく引き起こされました。その流転を止めるためにも、「まことの・みち《道》は世間の事法」(御書1597㌻)と仰せのごとく、宗教は「民衆に応える」「社会的課題に応える」という点を第一義とし、また平和的競争の精神基盤となるものでなければならないと思われます。
 ともあれ、戸田第2代会長が難じていた狭隘な自己中心主義を乗り越え、同じ地球社会に生きる隣人として、牧口初代会長の提唱した人道的競争=「共創《きょうそう》」を通し、希望の未来を開いていく――私どもSGIが目指す「人間革命」運動の眼目はこの一点にあります。
2015-07-03 : 池田SGI会長指導選集 :
Pagetop
« next  ホーム  prev »

プロフィール

fmiokun

Author:fmiokun
FC2ブログへようこそ!

最近のトラックバック

月別アーカイブ

カテゴリー

メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

ブログ内検索

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。