池田SGI会長指導選集 「幸福と平和を創る智慧」 第2部 第11章 11-1〜11-7

池田SGI会長指導選集 「幸福と平和を創る智慧」

第2部 人間革命の実践

第11章 「病によりて道心はをこり候」


この章を読むに当たって

 生老病死は戦いです。なかんずく、病とどう向き合い、どう乗り越えていくかは、万人が直面する課題といえます。仏法の叡智は、病気を、忌《い》むべきものではなく、仏の境涯を開きゆく人間革命の契機と捉えます。
 かつて、池田SGI会長は、夫が病に倒れた婦人部の友を、力強く励ましました。
 「断じて健康にしてみせるという強い祈りに立つことです。その一念通りに開かれていきます。それが一念三千の仏法です。
 病魔に紛動されてはいけない。『私たちの人生は楽しい人生だ。何があっても幸福な人生だ』と決めていくのです。『どんな状況であろうと、最高に幸福な我が家を築いてみせる』―― この一念でいくんです。
 『南無妙法蓮華経は師子吼の如し・いかなる病さはり《障》をなすべきや』です。たとえ病気であったとしても、それが幸福への妨げにはならない。むしろ『病ある人仏になる』と捉えるのが仏法です。
 仏法の眼から見れば、三世から見れば、全て、幸福になるための、成仏していくための姿なのだから、何も心配ありません。ご主人と一緒に、朗らかに、堂々と、勝利の人生を生ききってください」
 仏法に生き抜く人は、何があっても楽しく、何があっても朗らかに、病をも人生勝利の原動力に変えていくことができます。本章では、この仏法の智慧に基づいた池田SGI会長の哲学と洞察を収めています。

 11-1 病気と闘いが生命を健康にする

 御書に「このやまひは仏の御はからひか・そのゆへは浄名経・涅槃経には病ある人仏になるべきよしとかれて候、病によりて道心はをこりて候なり」(1480㌻)と仰せです。病気によって、信心を深め、仏の境涯を開くことができるのです。ここでは、そうした病気の捉え方を明確に示しています。

【池田SGI会長の指針】
◎『健康の智慧』から 
                  (1997年2月刊)

 「生」「老」「病」「死」を四苦といって、仏法は「病苦」を人間の根本的苦悩の一つとしています。その解決をめざすという点では、医学も目的は同じだと思います。心身ともに、はつらつと、充実した日々を生きるには、何が必要なのか――。
 「病気がない」だけが「健康」なのではない。一生涯、何かに挑戦する。何かを創造する。前へ前へと自分の世界を広げていく――この〝創造的人生〟こそ真の〝健康人生〟ではないだろうか。
 戸田先生は、現代人に二つの誤りがあると言われていた。一つは「知識と智慧」の混同。もう一つは「病気と死」の混同です。
 「知識と智慧」はイコールではない。その関係については、いろいろ論じられます。
 今、医学と仏法について、大ざっぱに言えば、医学は「知識」を使って病気と闘う。一方、仏法は、人間の「智慧」を開発して、自身の生命のリズムを調整する。また生命力を高める。そうすることによって、医学知識の助けを得ながら、みずから病気を克服する、という関係になるのではないだろうか。
 要するに、「医学」を無視したり、否定するのは愚かです。それでは〝狂信〟になりかねない。病気を克服するためには、「医学」を賢明に活用することです。その「智慧」を引き出すのが仏法です。
 「健康」も「智慧」です。「長生き」も「智慧」です。「幸福」には「智慧」が必要なのです。「健康の世紀」とは、「智慧の世紀」と言えるでしょう。
 「病気」と「死」について、「病気」は必ずしも「死」にはつながらない。御書に「病によりて道心はをこり候なり」(1480㌻)と仰せのように、病気が自分自身を見つめ、生命と人生を見つめる大きなきっかけになる場合がある。
 病気と闘うからこそ、人生の裏表もわかるし、不屈の精神力も鍛えられるのです。私自身も幼いころから病弱だった。結核のせいもあって、医師から、30歳まで生きられるかどうか、と言われた体です。しかし、だからこそ病弱な人の心もわかるようになった。だからこそ、一瞬一瞬を大切に生きよう、片時もむだにせず、生あるうちになすべきことをなそう、と完全燃焼で生きてこられたのです。
 体が健康でも生命が病んでいる人は、たくさんいる。体が病気でも、生命それ自体は健康である人もいます。また、生きているかぎり、何らかの病気はあるでしょう。だから、どう病気と上手につきあうか、という智慧が大事なのです。

 11-2 「少老病死」を「常楽我浄」に

 SGI会長は折々に、病気と闘う友に、病に負けずに常楽我浄の人生をと、温かな励ましを送っています。


【池田SGI会長の指針】
◎『若き君へ――新時代の主役に語る』から
  
             (2012年7月25日、26日、27日、「聖教新聞」掲載)

 「生老病死」は誰も逃れられない。その意味で、一生が病との闘いです。ゆえに、病気を恐れることはない。しかし、侮ってもいけません。迅速に具体的な治療に励むことが大切です。
 御聖訓には「この病は仏のお計らいだろうか。そのわけは、浄名経、涅槃経には病がある人は仏になると説かれている。病によって仏道を求める心は起こるものである」(御書1480㌻、通解)と御断言です。
 病気という苦難を糧にして、自分の信心を強め、境涯を深め広げていくことができるのです。
 病気との闘いは、妙法に照らして、永遠の次元から見れば、すべてが幸福になり、勝利するための試練です。
 健康は、何があっても負けない自分自身の前向きな生き方の中にこそあるのです。「生老病死」の苦しみを転じて、最高の「常楽我浄」の人生を勝ち抜いていくのです。これが「創価」の生命です。
 病気になることは、決して敗北などではない。信心が弱いからでもない。広宣流布に生き抜く中で起きた病気という苦難は、成仏を阻もうとする魔の働きである。ゆえに、怯んではならない。
 勇敢に立ち向かって、一生成仏を勝ち開いていく勇気を教えられているのです。
 大事なことは、病気になった時にこそ、いよいよ強盛の大信力を奮い起こしていくことです。今こそ、信心の偉大な力を発揮するのだ! 人間として大きく飛躍するのだ! と腹を決めて、題目を唱えていくのです。
 「南無妙法蓮華経は師子吼の如し・いかなる病さはり《障》をなすべきや」(同1124㌻)です。あらゆる病苦を打開する根源の力が、妙法にはある。妙法は最強の「生命の大良薬」です。戸田先生もよく「人間の体は一大製薬工場だ」と言われていました。
 今、受けている治療が最高の効果を発揮していくよう、全身に仏の大生命力を現して病魔を打ち破っていくよう、祈り抜き、祈り切ることです。信心を根本に戦っていくならば、必ず一切を変毒為薬できます。
 「妙とは蘇生の義」(同947㌻)です。
 大聖人は、病気の家族を抱えた門下に、こう仰せです。
 「それは、決して鬼神の仕業ではないでしょう。十羅刹女が、信心の強さをお試しなのでしょう」(同1544㌻、趣意)
 諸天善神が守らないわけがない。絶対に一家で乗り越えられると励ましてくださっています。
 御書には、「大闇《おおやみ》をば日輪(=太陽)やぶる」「法華経は日輪のごとし」(1114㌻)とも仰せです。妙法を唱え、実践する私たちの胸中には、赫々たる希望の太陽が昇る。あらゆる闇を打ち晴らし、どんな宿命の鉄鎖をも断ち切っていけるのです。
 自他共の病気との闘いの中で、人間として本当に輝く健康体を勝ち取っていくことができる。ゆえに、一切を御本尊に任せて祈るのです。臆さず、粘り強く、戦うのです。断じて負けてはいけない。一歩も退いてはいけない。最後は必ず勝利するのだから!
        ◇
(うつ病など心の病について)
 長い人生だし、決して焦る必要はありません。専門家に相談して、じっくりと適切な治療を行っていただきたい。
 皆、いろいろな状況がある。一律に「こうすればいい」という処方箋はありません。
 でも、一点。妙法を持《たも》った皆さんが不幸になることは絶対にないと、私は断言できます。
 周りの人は、病気で苦しむ本人を温かく、また長い目で見守りながら、ご家族に真心からの励ましを送っていただきたい。
 側《そば》で支えてくださっている方々は大変です。時には工夫して、休息をとっていただきたい。
 心の病を抱えた人を大切にすることは、本当に深い慈悲の境涯を開いていくことです。豊かな人間性の社会を築いていくことです。
 ともあれ、悩んだ人ほど偉大になれる。つらい思いをした人ほど、多くの人を救っていける。偉大な使命があるんです。これが仏法です。菩薩道の人生です。
 戸田先生は「時には、〝貧乏菩薩〟や〝病気菩薩〟のように見えるかもしれない。しかし、それは人生の劇を演じているんだよ。正真正銘の地涌の菩薩なんだ」と、よく言われていた。
 また「大病を患った人は人生の深さを知っている」と語っておられた。全部、意味があるのです。
 日蓮大聖人は「三千大千世界(大宇宙)に満ちる珍宝をもってしても、命に替えることはできない」(同1975㌻、通解)と仰せです。病気の姿を現していても、その生命の偉大さ、尊さ、素晴らしさには何の変わりもありません。皆さん全員が、一人も残らず、最高に尊貴な宝の存在なのです。

 11-3 題目は生命力の源泉

 病気と向き合い、病気を人間革命の契機としていく原動力こそ、題目であると訴えています。

【池田SGI会長の指針】
◎代表幹部会でのスピーチから 
         (2005年8月15日、長野)

 私と妻は、全ての同志の「健康勝利の前進」を毎日、真剣に祈っている。
 なかには、病と懸命に闘っておられる方もいらっしゃるだろう。しかし、病気だから不幸なのではない。病気だから立ち上がれないということはない。妙法を持《たも》った人間が、不幸になるわけがない。
 スイスの哲学者ヒルティは言う。
 「病気は、より高い人生の階段を登ってゆく通路にすぎない」(『病める魂』斎藤栄治訳、『ヒルティ著作集』8所収、白水社)
 病気をした人は、その分、人のことを思いやれる。慈愛が深まる。病気は、いろいろなことを教えてくれる。死を見つめたり、生きる意味を考えたり、人生のかけがえのなさが見えてくるものだ。すべて、より高い人生の頂へと登っていくための通路なのだ。教科書なのである。いわんや、妙法を根本にすれば、 一切が「幸福のエネルギー」となり、「向上の糧」となっていくのである。
 戸田先生は、大確信をもって言われた。
 「(御本尊の利益は)生命力が絶対的に旺盛になるということである。生命力が旺盛であれば、悩みだ、苦しみだ、貧乏だなどと、いろいろな愚癡をいう世界が、明るい楽しい世界に変わる」
 「題目の力は偉大である。苦しい業を感ずる生命が、あたかも美しい花園に遊ぶがごとき、安らかな夢のごとき状態に変化するのである」
 苦しい時こそ題目。行き詰まったら題目だ。題目をあげれば、生命力がわく。勇気きがわく。状況も変えていける。信心は、 一切の勝利のエンジンなのである。

 11-4 病も価値創造の原動力に

 仏法の智慧は、病気をも価値創造の力にしていくことができます。病魔と闘い、断じて生き抜こうとする強い一念に立ってこそ、偉大な人間革命を成し遂げることができるのです。


【池田SGI会長の指針】
◎『御書の世界』から
               (第3巻、2005年3月刊)

 よく戸田先生が語られていた。
 「病気になるのも自然の道理です。同時に、病気になった体から、病気を治す力
ちからも人間には備わっている」
 御書に「三界《さんがい》之相《しそう》とは生老病死なり」(753㌻)と仰せです。病気そのものも人生の一つの相である。
 病気になるから人生の敗北があるのでは断じてない。
 まして、「病気になったから信心がない」などと、周囲の人が決めつけるのは、あまりにも無慈悲です。病気と闘う友には、心から励ましてこそ同志愛です。
 門下が病気になった時は、大聖人御自身が、全力で励まされている。
 病気と闘う力の究極が、南無妙法蓮華経の師子吼です。
 「南無妙法蓮華経は師子吼の如し・いかなる病さはり《障》をなすべきや」(御書1124㌻)との仰せを絶対に忘わすれてはならない。
 病気との対決を通して、新たな生命の充実をもたらしてこそ価値創造の人生です。だからこそ、あらゆる障魔と戦い抜く師子王の心が大切になってくる。
 「負けない魂」「負けじ魂」です。だからこそ日々、「信」「行」にわたり、また自行化他にわたって南無妙法蓮華経と唱え、いかなる病魔にも狂わされない強き信心の一念を鍛えていくことが大切なのです。
 大聖人は、富木尼が重い病気になった時に、何度も何度も激励を繰り返されていました。勇気を吹き込まれていた。
 〈大聖人は「尼ごぜん又法華経の行者なり御信心月のまさるがごとく・しを《潮》のみつがごとし、いかでか病も失せ寿《いのち》ものびざるべきと強盛にをぼしめし身を持《じ》し心に物をなげかざれ」(975㌻)と激励されています〉
 「なげかざれ」です。戦う心が大切です。法華経の行者としての気迫です。また「身を持し」とも仰せです。病気を治すための、しっかりとした行動が大事です。
 最初から〝病気に負けよう〟なんて思っている人はいない。しかし、病気のために、生活や仕事に支障をきたし、弱気になり、絶望感が募るような場合もある。
 おそらく、富木尼の場合も、なかなか良くならないことから、あきらめの気持ちが芽生えてしまったのかもしれない。大聖人は、〝生きて生きて生き抜きなさい〟と指導されている。
 〈富木尼に与えられた「可延定業書」に、「命というものは、この身の中で一番貴重な宝です。一日であっても命を延ばすならば、千万両もの莫大な金にもまさるものです。(中略)早く志の財を積み重ねて急いで急いで病を治しなさい」(同986㌻、趣意)とある〉
 もちろん、信心していて短命の場合もある。しかし、必ず深い意味がある。人生の価値は寿命の長さで決まるものではない。
 「百二十まで持《も》ちて名を・くた《腐》して死せんよりは生きて一日なりとも名をあげん事こそ大切なれ」(同1173㌻)と仰せです。
 ただ、ここで大聖人が富木尼に強調されているのは、「志の財」と仰せのように、「生きぬこうとする意志」です。意欲と言ってもいいかもしれない。
 私たちの一日の生命は、広宣流布に直結した生命です。一日の活動が、そのまま広宣流布の大願成就につながっていく。
 だから絶対に病魔、障魔に負けてはならない。
 大聖人は、病は仏の御《おん》はからいであると仰せられている。病によって求道心が起こるからです
 私たちが、現実社会の万人に向かって、慈悲の振る舞いをするための長寿であり、健康です。
 もちろん、自分自身のために健康・長寿を祈っていくことは当然です。まして不節制や油断から、自分の健康を損ねてしまっては反価値的行為です。
 生活は賢くなければいけない。その日のうちに疲れを取るとか、疲れたら休むとか、賢明な行動で健康は勝ち取るものです。健康は賢者の勲章です。
 そのうえで、何のための健康なのか、何のための長寿なのか。法のため、家族のため、同志のため、民衆のため、わが使命の実現のため、広宣流布の大願成就のための健康・長寿です。
 大事なことは、広宣流布のなかで戦う生老病死です。その姿そのものが、三世永遠の常楽我浄の実証です。
 生老病死は忌むべき苦悩ではなく、常楽我浄の凱歌をとどろかす生命の舞台です。私たちは、生老病死のドラマを通して、人間勝利の歓喜の劇を演じているのです。

 11-5 題いかなる病も幸福への障害にはならない

 小説『新・人間革命』では、関西を訪問した山本伸一会長が、体調が優れない壮年部の友を励ます場面が描かれています。

【池田SGI会長の指針】
◎小説『新・人間革命』第10巻「桂冠」から 
        (2001年10月刊)

 「寿量品に『更賜寿命』(更に寿命を賜う)とありますが、死ななければならない寿命さえも延ばしていけるのが仏法です。強盛に信心に励んでいくならば、ほかの病が克服できないわけがありません。どうか、たくさんお題目を唱え、うんと長生きをしてください」
 「大聖人は、病の原因について、天台大師の『摩訶止観』を引かれて、こう述べられています。『一には四大《しだい》順《じゅん》ならざる故に病む・二には飲食《おんじき》節ならざる故に病む・三には坐禅調わざる故に病む・四には鬼《き》便りを得《う》る・五には魔の所為・六には業の起るが故に病む』(御書1009㌻)」
 ──この意味を詳述すると、次のようになる。
 最初にある「四大順ならざる」の四大は、地・水・火・風をいう。東洋思想では、大自然も、また人間の身体を含めた宇宙の万物も、四大から構成されていると教えている。「四大順ならざる故に病む」とは、気候の不順等で大自然の調和が乱れると、人間の身体に重大な影響をもたらし、各種の病気が発生することをいう。
 第二の「飲食節ならざる故に」と、第三の「坐禅調わざる故に」は、飲食と生活の不節制のことである。
 生活のリズムが乱れ、その結果、食生活が不節制になったり、また、運動不足や睡眠不足になると、内臓や神経、筋肉の病気につながっていくことをいわれたものである。
 さらに、第四の「鬼便りを得る」の鬼は、身体の外側から襲いかかる病因であり、細菌、ウイルス等々の病原性微生物もあれば、外界からのさまざまなストレスも、ここに含まれるといえる。
 第五の「魔の所為」とは、生命に内在する各種の衝動や欲求などが、心身の正常な働きを混乱させることである。この「魔の所為」によって、仏道修行を妨げるための病が起きる。
 第六の「業の起るが故に」は、生命の内奥から起こる病気の原因である。生命自体がもつ歪み、傾向性、宿業が、病気の原因になっている場合をいう。仏法では、この生命の歪みを「業」ととらえているのである。
 病気の原因は、このように六種に分けて考えることができるが、具体的な病気について分析してみると、これらのうちの、幾つかの原因が重なり合っている場合が多い。
 インフルエンザの流行を例にとれば、ウイルスが原因であり、それは「鬼便りを得る」にあたると考えることができる。しかし、この「鬼便りを得る」には、気候の不順等、つまり「四大順ならざる」ことが引き金になったり、「飲食節ならざる」生活から体力を弱め、それが機縁になったとみることもできよう。
 さらに、その奥には、仏道修行を妨げようとする魔の働きがあったという場合もあるし、人によっては、「業」まで考慮しなければならない場合もある。
 伸一は、この病の起こる六つの原因を、御書の御文に即して、詳細に説明していった。
 「つまり、病気を防ぐには、まず、環境の変化に適応できるように、衣服などにも十分に気をつけることが大事です。また、規則正しい生活をし、暴飲暴食を慎み、運動不足、睡眠不足にならないようにすることです。
 これで、三番目までの病の原因は除けます。この予防のための知恵を働かせていくことが信心です。また、医学の力を借りることによって、第四の細菌などによる病の原因も、除くことはできます。ただし、どんな病気でも、それを、どれだけ早く治せるかどうかは、生命力によります。その生命力の源泉こそ、信心なんです。
 また、同じ病気であっても、その根本原因が『魔』と『業』によるものである場合には、いかに医学の力を尽くしても、それだけでは治りません。
 御本尊への強い信心によって、『魔』を打ち破り、『業』を転換していく以外にないんです」
        ◇
 (〝糖尿病で、インシュリンの注射を続けているが、医師から、一生、治らないと言われ、人生の希望を断たれたように感じている〟との壮年の声に)
 「強盛に信心に励んでいくならば、持病があっても、必ず希望に満ちあふれた、最高に幸福で、充実した人生が歩めます。御書には、『南無妙法蓮華経は師子吼の如し・いかなる病さは《障》りをなすべきや』(1124㌻)と仰せです。南無妙法蓮華経は師子吼です。その声を聞けば、どんなに獰猛な動物も逃げ出すように、いかなる病も、幸福への、また、広宣流布への障害にはなりません。
 現代人は、みんな〝半健康〟であるといわれるぐらい、なんらかの病気をかかえているし、年齢とともに、体も弱っていきます。
 では、病気だから不幸なのか。決して、そうではない。病に負けて、希望を失ってしまうから不幸なんです。広布の使命を忘れてしまうから不幸なんです。
 体は健康でも、精神が不健康で、不幸な人は、たくさんいます。反対に、病気をかかえたり、体が不自由であっても、自らも幸福を満喫し、人をも幸福にしている同志もいる。
 生命の根源においては、健康と病気は、本来、一体であり、〝健病不二〟なんです。ある時は、健康な状態として現れることもあれば、ある時は病気の状態となって現れることもある。この両者は、互いに関連し合っているがゆえに、信心に励み、病気と闘うことによって、心身ともに、真実の健康を確立していくことができるんです」
 インシュリンの注射を続けることは、大変かもしれない。でも、考えてみれば、人間は、毎日、食事をし、睡眠をとらなければ、生きていけないではないですか。そこに、もう一つ、やることが加わっただけだと思えばいいではないですか。打ちひしがれていても、何も開けません。
 あなたの場合は、病気をかかえていても、『あそこまで、元気に生きられるんだ』『あれほど、長生きができるんだ』『あんなに幸福になれるんだ』と、同じ病をもった方が、感嘆するような、人生を歩んでいってください。そうすれば、仏法の力の見事な証明になります。それが、あなたの使命です。絶対に、自分に負けてはいけない。頑張るんです。挑戦し抜くんですよ
 広宣流布に生き抜く人を、大聖人がお守りくださらないはずがありません。
 大聖人は、南条時光が病にかかった時、お手紙に、こう記されています。
 『鬼神め《奴》らめ此の人をなやますは剣《つるぎ》をさか《逆》さまに・のむか又大火をいだくか、三世十方の仏の大怨敵となるか』(御書1687㌻)
 日蓮門下を病で苦しめる鬼神は、『剣《つるぎ》を逆さまにして飲むことになるぞ。大きな火を抱き、身を焼かれることになるぞ。全宇宙の仏の大怨敵になるぞ』と、鬼神をも激しく叱咤し、門下を守ってくださっている。
 私たちは、この大聖人の大確信、御一念に包まれているんです。
 ですから、皆さんも、『鬼神めらめ! 絶対にお前たちなどに負けるか!』という大信念と不屈の心をもつことです。勇気を奮い起こすことです。
 かつては、私も病弱で、医者からは、『三十まで生きられないだろう』と言われていた体です。しかし、今は、元気になり、どんな激務にも耐えられるようになりました。
 皆さんも、必ず健康になれます!」

 11-6 信心とは律じ抜くこと

 病病気の苦しみや死の恐怖を乗り越えて、荘厳な生のドラマを綴り残した一人の少女の話を紹介しながら、たとえ病気を抱えたままであっても、強盛な信心を貫いていけば、必ずや勝利の人生を飾っていけると語っています。


【池田SGI会長の指針】
◎『青春対話2』から 
                  (2000年9月刊)

 「生と死」の法則 は、全宇宙に通じる普遍的なものです。しかし、その表れ方は、どこまでも個別的であり、人によって千差万別です。あまりにも複雑に、いろいろなものがからみ合っている。
 たとえば、「定業《じょうごう》」と言って、その人の過去世の行いによって、寿命とか根本的な軌道が決まっている面がある。
 また「不定業《ふじょうごう》」と言って、報いを受けるかどうか決まっていないものもある。病気に譬えれば、定業は「重病」であり、不定業は風邪みたいな「軽病」です。
 だれが悪いのでもない。「自分は、どうして、こんな家に生まれたんだろう」「自分は、どうして、もっと美人に生まれなかったんだろう」とか悩む人もいるだろうが、全部、自分の過去の「行い」が招いた結果です。
 業《ごう》とは「行い」のことです。心に思ったこと、口で言ったこと、実際にやったこと、そういう「行い」が、すべて自分の生命に刻まれる。善の行いをすれば、幸福な善い結果が、悪の行いをすれば、不幸な悪い結果が、いつか出てくる。
 生命に刻まれた善悪のエネルギーは、死によっても消えない。次の生へも続いて、持ち越していく。「エネルギー不滅の法則」に似ているかもしれない。
 そういう「宿業」も、しかし日蓮大聖人の仏法では全部、転換できるのです。
 定業も転換できる。いな、転換しなければならない。
 どんな苦しいことがあろうと、最後の最後まで生きぬき、戦いぬき、勝たねばならない。最後に勝てば、その人が「人生の勝者」です。途中で決まるのではない。最後に勝てば、それまでのすべてが「意味があった」と言える。
 最後に負ければ、それまで、どんなに順調でも、すべて無意味になってしまう。
 (たとえ病気が治らなくとも)本当に強盛な信心を貫いて死んだ場合は、その人は「勝った」のです。
 自分が病気で苦しみながら、最後まで広布のために祈り、友のために祈り、周囲の人を励ましながら亡くなった人も、いっぱいいます。
 そういう生き方、死に方が、どれほど多くの人に「勇気」を与えたかわからない。すぐに健康な体で生まれてきます。
 ある少女は、11歳のときに脳腫瘍になり、14歳で亡くなった。
 しかし、病院の大人の人たちにも「明るさを分けてあげる」くらい快活に振る舞っていた。病気が、どんなに苦しかったか、わからない。しかし彼女は題目をあげぬいて、皆を励ましていった。
 そして最後には、お見舞いにきた人に、こう言っていた。
 「私ね、病気なんて、どうなってもいいんだ。自分のこと祈るのなんか、もうやめたの。私より不幸な人がいるんだもの。その人が、この信心をやって、一日も早く御本尊のすばらしさをわかるように、一生懸命、祈るんだ」
 そして家族にも、にこやかに、こう語ったそうだ。
 「もし、この病気、お父さんがなったらどうする? 困るでしょ! お母さんがなっても困るし、弟がなったら乗り越えられない。だから、私がなってよかったんだよ」
 「私は、きっと生まれる前に、こうなることを約束してきたんだと思うの。だから私を知っている人たちが、私の姿を通して何かを感じてくれたら、それで幸せ」
 私も、少女の闘病を聞いて、「バラの花」を贈った。
 「福光」としたためて扇を贈ったり、あやめが群れ咲く風景を撮った写真も贈った。
 本当に喜んでくれたようです。
 少女が、周囲の人に残した言葉は「信心とは、信じて信じぬくものよ」の一言だった。
 彼女は、その一言を、自分の生き方で示しきったのです。
 葬儀には、長い長い弔問の列が続いた。14年半の生涯に、1000人を超えるであろう人々に、妙法の偉大さを少女は語り続けたのです。
 彼女は「勝った」のです。私はそう思う。全部、意味があった。いな、自分の戦いで、自分の苦悩に意味を与えた。
 〝前世で約束してきた〟という言葉があったが、「願兼於業《がんけんおごう》(願《ねがい》、業《ごう》を兼《か》ぬ)」と言って、「あえて願って、苦しみの姿で生まれ、その苦しみと戦い、打ち勝つ姿を見せて、人々に仏法の力を教える」生き方がある。菩薩の生き方です。
 信仰者が、初めからすべてに恵まれていたならば、人々は仏法のすごさを知ることができない。
 だから、あえて悩みの姿で生まれて、「人間革命」してみせるのです。劇です。ドラマみたいなものです。

 11-7 病魔を笑い飛ばして


 病魔に負けずに晴れやかに勝ち越えた婦人部の友の姿を通して、何があろうと希望を失わず、冬を春に変えていく強盛な信心を貫くことの大切さを語っています。


【池田SGI会長の指針】
◎『母の詩』から 
                    (1997年8月刊)

 ある日、婦人部の会合の終了後であった。私のよく知る婦人が入院するという報告を受けた。学生時代からずっと見てきたし、ご両親もよく存じ上げている。
 あごの下にしこりができ、気になったので診てもらったところ、まだ病名は定かではなかったが、どうも軽い病ではないらしい。日ごろ、まったく健康で、元気いっぱいに活動してきた彼女である。まさかと思った。本人自身、どれほど不安なことだろう。
 そう思った私は、すぐに歌をよみ、伝言として託した。

 堂々と 生き抜ぬけ 勝ち行け
    病魔をも 笑い飛ばして
     長寿の 王女と

 その翌日、あらためて色紙にしたためて、贈らせていただいた。
 いよいよ入院するという前日、重ねて伝言した。
 「心配することはありません。毅然としていきなさい。妻も祈っています。安心して、何と言われようとも、病気に対して臆病ではいけない。負けるようではいけない。心配することはないよ。お元気で」と。
 そして、翌日(入院日)も、またその翌日も、私は、伝言を託した。連日、検査が続いているはずだったから、少しでも励ましたかった。
 「ともかく朗らかにいきなさい。三世の生命観に立てば〝生も仏、死も仏〟ではないか。生きていて苦しんだのでは損をする。何があっても朗らかにいくことが大事です」と。
 私の代わりに、婦人部の方にお見舞いに行ってもらった。彼女はとても元気で、私の伝言を本当に喜んでくれ、しっかり病魔と戦う決意で祈っている、と報告してくれた。
 半月後、検査結果が出るという前日、私はまた伝言を、電話で伝えてもらった。
 「元気にしていますか。私がしっかり祈っているから大丈夫だよ。必ず良くなる。病気をしたことで、祈りが深くなるし、体験となって力になる」と。
 検査の部果は、悪性のリンパ腫。お腹の奥に、握りこぶし台の腫瘍も認められた。手術はできないので、化学療法で抗ガン剤を点滴で投与。月1回ずつ10回続ける。2、3カ月入院し、あとは通院で行うとのこと。
 医師からは、髪の毛が抜けること、食べられなくなったり、気分が悪くなるなどの強烈な副作用があることが伝えられたという。
 それまで、痛いとか、苦しいとか、自覚症状はまったくなかっただけに、彼女は初めて″命にかかわる〟という実感をもった。お年をとられたご両親はじめ家族の衝撃は大きかった。どれほど心痛され悩まれたか、察するにあまりある。
 彼女からは、決意の手紙が届いた。
 「先生の重ねての激励のおかげで、冷静に受け止めることができました。『病魔を笑い飛ばして』との言葉どおり、朗らかに戦いきって、必ず乗り越えてみせます」
 心が決まった人は強くなる。腹を決めた祈りは、生命力をますます強めていく。  病棟は、皆同じような病の患者ばかり。いかにも辛そうな姿、苦しさのあまり死んだほうがましと言う人。側《そば》で見ていれば、その厳しさは十分わかる。不安も恐怖もあって当然であろう。しかし彼女は毅然として挑んだ。
 第1回の抗ガン剤投与は、不思議と何の苦しみも痛みもなく、無事終わった。喜びにあふれた報告を聞いて、私はうれしかった。
 まもなく髪が抜け始めた。しかし、2回目も無事終了。そして退院が許された。食欲も減退することなく、かえって太るほどだったという。しかも、腹部のしこりは、3分の1に縮小していた。
 その報告が訪問先のロシアに届いた。私はさっそく「おめでとう、無理をしないように」と伝言。妻も絵葉書に「まずは第一段階の勝利です。これからは、焦らずに、完全勝利の日まで、ご養生なさってください。病魔を笑い飛ばしてください」と書いて送った。なんとか、このまま全快してほしいと祈りながら――。
 その後、通院しながら毎月の抗ガン剤投与も順調に進み、終了した。腹部のしこりはほとんど消えていた。約一年間、免疫機能の低下するなか、決して油断はできなかったが、髪が抜けた以外、何の苦しい症状もなく、出勤もし、病気と言わなければわからないほど、明るく元気で過ごせた闘病生活であった。医師も、本当にびっくりされたようだ。
 喜びと感謝にあふれた手紙が、彼女から届いた。逐一、経過は聞いていたが、本当に良かったと思う。私の「病魔を笑い飛ばして」との一言を、いつも自分に言い聞かせ、心の支えにしたとあった。
 今、以前にもまして活躍する彼女のもとに、病気の人からの相談がとみに増えたという。彼女が大病を乗り越えたことを知ってのうえである。
 彼女は、その一人一人に真心こめて、自分の体験を語り、激励している。体験にもとづく確信からの励ましほど、安心と希望を与えるものはない。
 自分自身だけでなく、多くの同じ悩みをもつ人たちに希望を与え、救うことができる。それが、病気を克服した、もう一つの意味であろう。
 いろいろなことが人生には起きる。常に変化、変化である。
 結局、大事なことは、何があっても負けないこと。戦うこと。希望を失わないことである。
 人生も、「これ以上無理だ」とあきらめる自分、「もうこれくらいでいいだろう」と妥協しそうになる自分との戦いである。「断じてあきらめない」「断じて負けない」と、自己との闘争に勝ちゆくことだ。
 苦労を避けてはならない。断じて悩みに勝たなければならない。自分の宝は自分でつくる以外ない。自分自身が自分自身で「良かった」「勝った」と言える人生の価値を創ること、その人が栄光の人、人格の人である。
2015-06-12 : 池田SGI会長指導選集 :
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