池田SGI会長指導選集 「幸福と平和を創る智慧」 第2部 第10章 10-1〜10-8

池田SGI会長指導選集 「幸福と平和を創る智慧」

第2部 人間革命の実践

第10章 宿命を使命に

この章を読むに当たって

 「宿命を使命に変える」――この大いなる人間革命の生き方を、池田SGI会長は常々、呼び掛けてきました。
 あるとき、夫人を若くして病気で亡くした友を、こう力強く励ましました。
 「強く生きるんだよ。決して負けてはいけない。
 戸田先生も若いときに奥様と娘さんを亡くされた。先生は、『人は、伴侶や子どもを亡くしたり、大病を患ったり、借金で苦しんだり、大変な宿命に直面してこそ、深い次元の人生を、使命の人生を生きていくことができる』と言われていました。
 誰しも愛別離苦は避けられません。今は順調そうに見える人も、いつか辛いことに直面する。そのときに、あなたは、大きな境涯で皆を励ましていく存在になっていける。宿命を使命に変えていくんです。
 奥さんは、あなたを仏にしようとしてくれている。今こそ、仏になるときなんだよ」
 いつしか壮年の目には、深い使命の光が輝いていました。
 人生は、ある面、思い通りにいかないことの連続といえます。しかし、宿命を使命に変える強い一念の転換があれば、冬は必ず春となります。いな、冬をそのまま春としていけるのです。
 自分の大切な「命」を、何のために「使う」のか。使命を深く自覚した瞬間から、宿命転換と人間革命のドラマは大きく展開していきます。

 10-1 願兼於業の法理

 法華経では、菩薩は人々を救うため自ら願って悪世に生まれてくると説きます。この「願兼於業」の法理を通して、信心に生き抜く人は、いかなる苦悩に直面しても、宿命を使命に変えていけると語っています。

【池田SGI会長の指針】
◎山梨最高協議会でのスピーチから 
        (2006年9月3日、山梨)

 戸田先生は、教えてくだっさた。
 「人生に、苦しみというものはある。
 苦しみがなければ、遊楽という楽しみを、しみじみと味わえないのである。そこが、よくわかると、生きていること自体が楽しくなる。
 それが、信心の極意である」
 さらに先生は、こう指導しておられた。
 「いかなる組織や団体でも、大きくなれば、さまざまな問題や事故はあるものだ。これは必然である。
 しかし、それらの問題を解決しながら、さらに大きく発展させていくのが、妙法の力であり、価値創造なのである」
 苦しみを楽しみに。
 困難を飛躍の力に。
 その原動力が、信心である。学会活動である。
 大変な戦いを乗り越こえた分、宿命を転換できる。より大きな自分になれるのである。
 「信心をしてきたおかげで、こんなにも健康になりました」――。
 私のもとには日々、こういう声が、大勢の方から寄せられる。何よりもうれしい。
 戸田先生は、病気を抱えた同志に対して、こう励まされた。
 「石につまずき、大地に倒れたら、大地に手をついて立ち上がるだろう。
 同じように、病気という宿命を使命にかえ、信心で乗り越えていきなさい」
 「人生に病気がなければおもしろくありません。法華経には、仏も病気になることが説かれています。天台大師が釈していうには、衆生は皆、病気をもっている。そこで、その衆生を救うには、仏自身も、病気をもっていないとつきあいにくいからです」
 法華経には、「願兼於業」(願《ねがい》、業《ごう》を兼《か》ぬ)の法理が説かれている。
 菩薩は、人々を救うことを誓い、その誓いを果たすために、自ら願って悪世に生まれてくるというのである。
 信心に生き抜く時、いかなる苦悩に直面しようと、「宿命」を「使命」に変えていける。
 そして我らには、ともに戦う同志がいる。励ましがあり、希望がある。
 生き生きとした生命と生命の触れ合い――それが、どれほど、健康長寿の活力の源泉となっていることか。
 学会こそ、最極の、「常楽我浄」の安全地帯なのである。

 10-2 地涌の菩薩の誓願に生きる

 末法における広宣流布を誓願し、立ち上がった「地涌の菩薩」としての生き方こそ、何よりも尊い使命であると、青年に語っています。

【池田SGI会長の指針】
◎『御書と青年』から
                   (2012年9月刊)

 「諸法実相抄」では、「皆地涌の菩薩の出現に非ずんば唱えがたき題目なり」(御書1360㌻)といわれています。題目を唱えられるということ、それ自体が、いかに深い宿縁であるか。
 大聖人は「日蓮と同意ならば地涌の菩薩たらんか」(同㌻)とも仰せです。広宣流布に生き、題目を唱えゆく青年は、皆、最も尊極な地涌の菩薩なのです。
 友の幸福を願い、広宣流布を願って題目をあげていく。学会活動をし、折伏に挑戦していく。
 それ自体が、立派な「誓願の祈り」であり、「誓願の実践」なのです。
 地涌の菩薩は、法華経の涌出品で大地の底から現れ、末法における広宣流布を誓願した。私たちは、その誓願のままに創価学会員として生まれ、戦っているのです。
 私たちは、誓願の祈りで、深く強く結ばれている。
 創価学会は「我、地涌の菩薩なり」との自覚で立ち上がった仏勅の団体です。
 どれほど尊いか。この地涌の菩薩の覚悟がなければ、三類の強敵をはね返して、悪世末法に広宣流布を進めることはできません。
 地涌の菩薩は、最も大変な時に、最も大変な場所に勇み立って出現する。
 今、直面している困難は、信心の眼《まなこ》で見れば、自ら願った使命です。そう確信して前進することが、「誓願の祈り」の証です。
 仕事のこと、経済苦、人間関係の悩み、病気の克服など、目下の課題に打ち勝つために、猛然と祈ることです。自分自身が、断固として勝利の実証を示していくことが、同じような苦しみに直面する友を励ます光となる。
 「宿命」を「使命」に変える。これが「願兼於業」の祈りです。
 勇気を奮い起こして、自他共の幸福を祈ることだ。そこに深い慈悲がある。
 自分だけでない。人の幸福を祈る中で、自分の悩みを悠々と見下ろせる境涯が開かれていくのです。
 自らの悩みを抱えながら、それに押しつぶされない。「難来るを以て安楽」(同750㌻)と広宣流布のため真剣に祈り、勇敢に学会活動に打って出る。広布の祈りは、仏・菩薩の祈りです。
 大きな悩みを引き受け、大きく祈った分だけ、大きな境涯を開くことができる。気がついたら、小さな悩みは全部、包まれ、乗り越こえられている。ここに「煩悩即菩提」の原理があります。
 自分の人生の課題を祈ることと、人々の幸福を願う広宣流布への祈りとは、一体です。共に前進の力です。
 自分の勝利が、広宣流布の実証になる。広宣流布を進める創価学会の大発展を強盛に祈っている人は、どんなことにも負けない自分自身になる。王者のような境涯を必ず開《ひら》けるのです。
 地涌の菩薩は、いかなる時も「其の心に畏るる所無なし」(法華経466㌻)である。常に「随喜の心」を発《おこ》し、舞を舞うが如く戦う。
 地涌の使命に目覚めることは、汝自身の生命の本源を知ることだ。なぜ生まれてきたのか。なぜ生きゆくのか。その究極の意義を知ることです。自分の永遠の使命に目覚める以上の歓喜はない。これほどの充実はない。これに勝る誇りはありません。
 大聖人は、流罪の佐渡の地で、愛弟子と共に「喜悦はかりなし」(御書1360㌻)と宣言されました。地涌の生命を現すことは、人間の無窮の内発性を開花させることです。これは人類の意識を根底から変革し、至上の高みへ飛翔させ、結合させゆく平和の大偉業なのです。

 10-3 偉大な人間革命のドラマを

 小説『新・人間革命』では、山本伸一会長が日本からブラジルに渡ったメンバーらと交わした質問会の中で、夫の死によって自身の宿命を悲観し、希望を失った婦人部の友を励ます場面が描かれています。

【池田SGI会長の指針】
◎小説『新・人間革命』第1巻「開拓者」から 
       (1998年1月刊)

 質問会も終わりに近づいたころ、会場の最後列で、何度か途中まで手をあげかけていた婦人がいることに、伸一は気づいた。
 彼は声をかけた。30代半ばと思われる、やつれ切った顔の婦人であった。
 「何か質問があるんですね。どうぞ、おっしゃってください」
 彼女は力なく立ち上がって言った。
 「あのー、私の夫は病気で他界してしまいました。これからどうやって生きていけばよいのか……」
 婦人の一家は、契約労働者として入植し、農業に従事していた。しかし、働き手の夫を失ってしまった以上、もう農業を続けることはできない。彼女には、まだ小さな何人かの子どもがいた。いっそ死のうかと思っていたところ、同じ入植地の学会員から仏法の話を聞き、一週間前から信心を始めた。すると、サンパウロ市内の工場に仕事が決まり、住まいも提供してくれることになったという。
 「でも、子どもを抱えて、何もわからない異国の地で生きていくことを思うと、不安で仕方ないのです。私は、つくづく業が深い女なんだと思います。でも、そんなことを考えると、これから先、まだ何が起こるかわからなくなり、やり切れない気がするんです……」
 伸一は、微笑を浮かべて言った。
 「大丈夫、信心をしていく限り、必ず幸せになれます。そのための仏法です。それに、あなたが今、不幸な目にあい、辛い思いをしているのは、あなたにしかない尊い使命を果たすためです。宿業なんかに囚われて、惨めな気持ちになっては、いっさいが負けです」
 婦人は不可解な顔で伸一を見た。彼女は、紹介者の学会員から、夫と死に別れなくてはならないのは、過去世で罪を犯し、悪い宿業を積んだからだと教えられてきたのである。
 確かに仏教では、人に悪をなしたことによって、悪の報いを得、不幸な人生を歩まねばならないと説いている。しかし、それだけでは、人間は過去世の罪などわからないだけに、茫漠とした不安をいだきながら、罪悪感をもって生きねばならないことになる。また、運命は、既に定められたものとなり、人間を無気力にしてしまうことにもなりかねない。
 日蓮大聖人の仏法は、こうした表面的な因果応報の枠を突き抜けて、根本の因果を明かし、久遠元初の、本来の清浄な生命に立ち返る方途を示している。その方途が、地涌の菩薩の使命を自覚し、広宣流布に生きるということである。
 伸一は言った。
 「仏法には、願兼於業ということが説かれています。これは、仏道修行の功徳によって、幸福な環境に生まれてくるところを、自ら願って、不幸な人びとの真っただ中に生まれ、妙法を弘通するということです。
 たとえば、もともと女王のような何不自由ない生活をしていた人が、信心して幸せになりましたといっても、誰も驚きません。しかし、病気で、家も貧しく、周囲からも蔑まれていた人が、信心をすることによって幸福になり、社会のリーダーになれば、仏法の偉大さの見事な証明になります。みんなが、信心したいと思うようになるでしょう。貧乏で苦しみ抜いた人が、それを乗り越えることができれば、生活苦に悩むすべての人に、希望を与えることができます。また、病気に悩んできた人が元気になり、健康になれば、病苦の友の胸に、勇気の灯をともすことができる。更に、家庭の不和に泣いた人が和楽の家庭を築き上げれば、家族の問題で悩んでいる人たちの模範となります。
 同じように、ご主人を亡くされ、しかも、言葉も通じない外国の地で、あなたが幸せになり、立派に子どもさんを育て上げれば、夫を亡くしたすべての婦人の鑑となります。信心をしていない人も、あなたを慕い、あなたに指導を求めに来るようになるでしょう。つまり、苦悩が深く、大きいほど、見事に仏法の功力を証明することができる。宿業とは、使命の異名ともいえるんです。
 私も、貧しい海苔屋の息子です。病弱で胸を病みながら、戸田先生とともに事業の倒産の苦しさも味わってきました。人生の辛酸をなめてきたからこそ、民衆のリーダーとして、こうして広宣流布の指揮がとれるんです」
 伸一は、一段と力を込めて言った。
 「皆さんは、それぞれの事情から、たまたまこのブラジルにやって来たと思っているかもしれない。しかし、そうではありません。地涌の菩薩として、ブラジルの広宣流布のために、この国の人びとを幸せにし、ここに永遠の楽土を築くために生まれてきたんです。いや、日蓮大聖人に召し出された方々なんです。この偉大なる地涌の菩薩の使命を自覚し、広宣流布に生きる時、胸中の久遠の太陽が輝き、過去の罪障は露のように消え失せ、大歓喜と幸福の悠々たる人生が開かれていくんです。
 あなたの苦しみも、仏法の深い眼から見れば、本来は富裕な大女優が、舞台で悲劇のヒロインを演じているようなものです。家に帰れば、何不自由ない生活が待っているのと同じです。しかも、人生劇場の舞台の上でも、ハッピーエンドになるストーリーなんです。心配はいりません。必ず幸せになります。私が断言しておきます。大女優が、悲劇のヒロインを楽しんで演じるように、あなたも、堂々と、その悲しみの淵から立ち上がる人間革命の大ドラマを演じてください。
 人は皆、人生という原野をゆく開拓者です。自分の人生は、自分で開き、耕していく以外にありません。信心というクワを振るい、幸福の種を蒔き、粘り強く頑張ることです。広宣流布のために流した汗は、珠玉の福運となり、永遠にあなたを荘厳していきます。どうか、ブラジル一、幸せになってください」

 10-4 どんな宿命にも必ず意味がある

 SGI会長は、『開目抄講義』の中で、「宿命を使命に変える」という仏法者の境涯に立てば、いかなる難も人間革命の原動力にしていくことができると語っています。

【池田SGI会長の指針】
◎『開目抄講義』から 
       (2006年6月〈上巻〉 8月〈下巻〉刊)

 大聖人は、(「開目抄」において)御自身が受けられている大難は、実は衆生を救う願いのために、あえて苦しみを受けていく菩薩の願兼於業と同じであるとされています。そして、菩薩が衆生の苦しみを代わりに受けていくことを喜びとしているように、大聖人も今、大難という苦しみを受けているが、悪道を脱する未来を思えば悦びである、と言われている。
 願兼於業こそ悦びであるとの仰せは、本抄の一番最後の結論部分と一致します。
 「日蓮が流罪は今生の小苦なれば・なげかしからず、後生には大楽《だいらく》を・うくべければ大に悦ばし」(御書237㌻)
 願兼於業とは、仏法における宿命転換論の結論です。端的に言えば、「宿命を使命に変える」生き方です。
 人生に起きたことには必ず意味がある。また、意味を見いだし、見つけていく。それが仏法者の生き方です。意味のないことはありません。どんな宿命も、必ず、深い意味があります。
 それは、単なる心の在り方という次元ではない。一念の変革から世界の変革が始まる。これは仏法の方程式です。宿命をも使命と変えていく強き一念は、現実の世界を大きく転換していくのです。その一念の変革によって、いかなる苦難も自身の生命を鍛え、作り上げていく悦びの源泉と変わっていく。悲哀をも創造の源泉としゆくところに、仏法者の生き方があるのです。
 その真髄の生き方を身をもって教えられているのが、日蓮大聖人の「法華経の行者」としての振る舞いにほかならない。
 「戦う心」が即「幸福」への直道です。
 戦うなかで、初めて生命は鍛えられ、真の創造的生命が築かれていきます。また、いかなる難があっても微動だにせぬ正法への信を貫いてこそ、三世永遠に幸福の軌道に乗ることができる。一生成仏とは、まさに、その軌道を今世の自分自身の人生の中で確立することにほかなりません。
 「戦い続ける正法の実践者」こそが、大聖人が法華経を通して教えられている究極の人間像と拝したい。
 その境地に立てば、難こそが人間形成の真の基盤となる。「魔競はずは正法と知るべからず」(御書1078㌻)と覚悟して忍難を貫く正法の実践者は、必ず妙法の体現者と現れる。そして「難来るを以て安楽と意得可きなり」(同750㌻)、「大難来りなば強盛の信心弥弥悦びをなすべし」(同1448㌻)という大境涯に生きていくことができるのです。
        ◇
 大聖人は本抄で、「鉄《くろがね》を熱《やく》にいた《甚》う・きたわざればきず隠れてみえず、度度《たびたび》せむれば・きずあらはる、麻子《あさのみ》を・しぼるに・つよくせめざれば油少きがごとし」(同233㌻)と仰せです。
 また、他の御書においても、「宿業はかりがたし鉄《くろがね》は炎《きたい》打てば剣となる賢聖《けんしょう》は罵詈して試みるなるべし」(同958㌻)――宿業ははかりしれない。鉄は鍛え打てば剣となる。賢人・聖人は罵られて試されるものである――、「各各・随分に法華経を信ぜられつる・ゆへに過去の重罪をせめいだし給いて候、たとへばくろがね《鉄》をよくよくきた《鍛》へばきず《疵》のあらわるるがごとし」(同1083㌻)――あなたがたは、法華経を懸命に信じてきたので、過去世の重罪を責め出しているのである。たとえば、鉄を十分に鍛え打てば内部の疵が表面に現れてくるようなものである――と仰せです。
 護法の実践で鍛え上げられた生命は、謗法の悪業という不純物をたたき出し、三世永遠に不滅となります。無始以来の生死の繰り返しのなか、この一生で日蓮大聖人の仏法に巡り合い、謗法を責め、自身の生命を鍛えあげることで宿命転換が実現し、永遠に崩れない仏界の境涯を胸中に確立することができる。それが「一生成仏」です。
 この日蓮仏法の透徹した実践は、私たちの人生における苦難の意味を一変させます。
 もはや、苦難は避けて通るべきマイナス要因ではなく、それに打ち勝つことで自分自身の成仏へと向かっていく積極的な要素となるのです。もちろん、苦難の渦中にいる人にとってみれば、苦難と戦うことは楽なことではありません。辛いこと、苦しいことを待ち望んでいる人などはいません。なければないほうがいいと考えるのが人情です。
 しかし、たとえ現実に苦難に直面したとしても、大転換の秘法を知って、「悪と戦ったからこそ、今、自分は苦難にあっている」と理解し、「この苦難を乗り越えた先には、大いなる成仏の境涯が開かれている」と確信していく人は、根本的に強い人生を生き抜くことができる。
 この究極の仏法の真実を、生命の奥底で体得しているのが、わが創価学会の同志であると確信します。
 その証《あかし》に、わが同志は、苦難に直面した時に「強い」。そして何より「明るい」。それは、宿命転換という生命の根源の善のリズムを、すでに体験的に知っているからです。また、自分は経験していなくても、会得した他の同志の姿に日常的に接しているからです。
 宿命と戦いながら広宣流布の信心に立つ人の姿には、すでに願兼於業という仏法の究極の真実が映し出されています。
 どんな苦難も恐れない。どんな困難も嘆かない。雄々しく立ち向かっていく。この師子王の心を取り出して、「宿命」を「使命」に変え、偉大なる人間革命の勝利の劇を演じているのが、わが久遠の同志の大境涯といえます。
 したがって、仏法者にとっての敗北とは、苦難が起こることではなく、その苦難と戦わないことです。戦わないで逃げたとき、苦難は本当に宿命になってしまう。
 生ある限り戦い続ける。生きて生きて生き抜いて、戦って戦って戦い抜いていく。この人生の真髄を教える大聖人の宿命転換の哲学は、従来の宗教の苦難に対する捉え方を一変する、偉大なる宗教革命でもあるのです。
 〝大変な時ほど宿命転換ができる〟〝苦しい時こそ人間革命ができる〟〝いかなる苦難があろうと必ず最後は転換できる〟――この大確信に生き抜いていくのが、日蓮仏法の信心であります。そして、日蓮大聖人に直結して、この宿命転換の道を現実に歩み、宗教革命の大道を世界に開いているのが、わが創価学会であります。この誇りと喜びをもって、さらに前進していきましょう。

 10-5 題目こそ変毒為薬の力

 題目こそ宿命をを使命に変える力です。粘り強く題目を唱え抜いていけば、いかなる悩みや悲しみも幸福に変えていくことができると語っています。

【池田SGI会長の指針】
◎ブラジル記念講堂でのスピーチから
      (1993年3月3日、ブラジル)

 この娑婆世界は「堪忍《かんにん》」の世界とされる。耐え忍ばねばならない。さまざまなことが、つねにある。どんな悲しみも、どんな苦しみも、どんな宿命も、全部、悠々と乗り越えて、最も幸福な境涯を得ていけるのが、日蓮大聖人の「仏法」であり、創価学会の「信心」である。
 自分や家族の病気、また死、経済苦、人間関係の悩み、欲しいものが得られないつらさ、その他、生きているかぎり、ありとあらゆる戦いがあり、苦しみがある。これは避けようがない。どうしようもない人生の現実である。
 「信心」とは、「唱題」とは、それらをことごとく変毒為薬する力である。苦しみの毒が、幸せという薬に変わる。
 煩悩即菩提で、悩みが悟りに変わり、幸福に変わる。悩み、悲しみが大きければ大きいほど、より大きな幸福に変えていける。これが題目の力である。ゆえに妙法を唱える人は、何ものも恐れない。恐れる必要がない。
 木も、小さいうちは、少しの風にも揺れる。大木になれば、どんな嵐にも揺るがない。人間も、生命力が弱ければ、少しの悩みの風にも紛動されてしまう。
 娑婆世界である以上、風を止めることはできない。自分が強くなる以外にない。自分が大本になれば、どんな大風も平気である。むしろ楽しんでいける。そういう人生、生命へと、人間革命していくための信仰なのである。
 目には見えないが、木は毎日、生長している。私たちの唱題も、目には見えないが毎日、自分自身を福運の大木へと育てている。
 10年、20年、学会のなかで信心が貫いていけば、やがて必ず、大樹となった福運が、はっきり目にも見えるようになる。
 妙法は宇宙の最高の宝である。唱題することは、毎日、わが生命に宝を積み重ねていることになる。一方、生命のなかの過去の罪業は、清浄な水に濁った水が押し出されるように、洗い流されていく。
 だから、完全に清浄になるには、ある程度、時間がかかる。初めのうちは、少し濁った水、すなわち自分の宿命との戦いがある。それも唱題の力で軽く受けているのである。ゆえに「持続」することである。やがて、すっかり生命が清浄になれば、どんどん、すべてがよくなってくる。
 福徳に満ち満ちた、何ものにも壊されない「絶対的な幸福」の境涯に、必ずなっていく。何があっても、楽しい。名声やばずがなくても(笑い)満足である。一瞬一瞬が、最高に充実している。喜びに満ち、すべてが美しく見える。何を見ても、ぱっと正邪がわかり、本質がわかる。何があっても、人のことを考えてあげられる。そういう自分になっていく。
 だから、幸福への道は決してむずかしいことではない。広布の世界のなかで、ともかく題目をあげぬいた人が、最後には勝つ。必ず「絶対の幸福境涯」、すなわち「仏」の境涯をを得ていけるのである。根本は、これひとつ覚えておけば、人生は永遠に盤石である。

 10-6 わが宿命転換のドラマが友の希望に


 ここでは、釈尊の受難の意味に触れながら、私たちがさまざまな難を乗り越えることが、後継の同志にとって希望になり、励ましになると語っています。

【池田SGI会長の指針】
◎中部総会でのスピーチから 
          (1989年1月29日、愛知)

 なぜ釈尊のような仏が、いわれなき誹謗を受けなければならなかったのか。
 この点について、釈尊は、仏典の中で「それはすべて、未来の仏道修行者のためである」と明かしている。
 すなわち、仏道修行を行っていると、いろいろな人から謗《そし》られたり、迫害を受けたりする。それでイヤになって、信心をやめようとする人も出てくるだろう。そうしたとき〝仏でさえ、あのような、いわれない誹謗を受けているではないか〟と思い起こして、みずからを励まし、ふたたび前進していくことができるように、あえて方便として、今、このような難を引き起こしている、というのである。
 信心に励んでいる人が、未来永劫にわたって退転しないように、その歯止めとなるように、仏みずからが難を受けていく――これが仏の慈悲である。
 私どもの現在のさまざまな難や労苦も、一面からいえば、すべて末法万年にわたる広宣流布のためにあるといってよい。長い長い未来のために、一つの「原点」となるものを示し、広布の「図式」と「模範」を残しゆくためである。
 そして〝なるほど、あのときはこうだった。これがいつの時代も変わらない難の構図なのだ。だから負けてはいけない。すべて、信心で乗り越えていける。だから戦おう〟というように、後世の友が、そこから、限りない勇気と、希望と、励ましをくみとっていく源泉ともなるにちがいない。
 その意味で、私どもの信心のうえでの数々の苦難との戦いは、この短い一生という劇場で、壮大なる広布と人生の永遠の勝利にも通じゆくためのドラマと一大叙事詩を、演じ詠っているといえるかもしれない。
 また広げていえば、幹部であっても当然、病気になったり、家族に不幸があったりする場合がある。しかし、それは病気で苦しんでいる人や、家族に事故があって悩んでいる人にとっては、〝私も負けないで頑張ろう〟との大いなる励ましともなるにちがいない。
 ともあれ、御聖訓に照らし、難と戦い、妙法広宣に懸命に進む勇者には、仏の加護は厳然とある。広布に励む仏子を、必ず守っていく――これが釈尊の御心であり、そして大聖人の大慈大悲であられる。
 その強盛な祈りは、全宇宙の仏界の力用を揺り動かし、さらに一切の菩薩、二乗、諸天の働きとも共鳴しあいながら、所願満足の大勝利の人生を開いていくことを、皆さま方は確信していただきたい。

 10-7 人生勝利の逆転劇を!

 SGI会長は、随筆の中で、宿命を使命に転換して偉大な人間革命の人生を開いていったアメリカSGIの婦人部の友に光を当て、最大に讃えています。その人でなければ果たせない尊い使命を担った菩薩の集いが、SGIなのです。

【池田SGI会長の指針】
◎「随筆 人間世紀の光」〈〝母の勝利〟を讃う おお幸福博士に万歳!〉から

                   (2004年1月19日「聖教新聞」掲載)

 日本中の街々で、世界中の国々で、わが尊き広布の母たちは、強く、また強く、断固として生き抜いている。
 そうした一人に、アメリカSGIの婦人部の方がおられる。
 日本で国際結婚した彼女が、幼い長男を連れて渡米したのは、1966年(昭和41年)のことであった。
 軍人の夫がベトナムヘ従軍すると、彼女は、英語も不自由ななか、力仕事などで生計を立てた。夫の帰還後も経済苦は続いた。
 やがて次男を授かったが、自分で体を動かせない、重いハンディキャップを背負っていた。医師からは施設に預けるように告げられたが、彼女は自らの手で育ててみせると決めた。洋服、着物、鍋……売れる物は全部売った。それでも食事代にも事欠いた。
 なぜ、こんなに苦しまねばならないのか。宿命の波浪はあまりにも厳しかった。
 しかし、日本で地区の幹部として戦ってきた彼女は、絶対に逃げなかった。昼は働き、夜は広布の最前線を必死に走り抜いた。
 ある晩、彼女は、いつもの如く仏前に端座した。朗々たる祈りが深夜に及んだころ、豁然と光が差し込む思いがした。
 〝私は誉れある学会員だ。私には御本尊がある。何も怖いものはない。絶対に幸福になれないわけがない〟
 「歓喜の中の大歓喜」(御書788㌻)の涙があふれた。
 今、ここで、生活に戦い、人生に戦い、広宣流布に戦う──その生命に幸福の旭日は赫々と昇りゆくのだ。
 「我れ等は仏に疑いなしとをぼせば・なに《何》のなげ《歎》きか有るべき」(同978㌻)とは、大聖人が女性の門下に贈られた一節である。
 法華経には、「願兼於業」という透徹した法理が説かれる。菩薩は、苦悩の人びとと同苦するが故に、人びとを救うことを誓い、自ら願って悪世に生まれてくるというのだ。いかなる苦悩をもち、いかなる境遇にあろうが、その人でなければ果たせぬ尊き使命がある。それを深く自覚した時、すべては変わる。
 久遠の「大願」を果たすために、私たちは、今ここに生まれてきた。宿命は即、使命となり、わが勝利の逆転劇を荘厳する舞台となるのだ。
 いかに現実が多事多難であろうとも、ここから離れて、幸福の大地はどこにもない。
 そうした強き母の後ろ姿を見て育った長男は、名門のエール大学の卒業を、見事に首席で勝ち取った。
 若き英邁な経済学者の彼は、やがてアメリカ創価大学(SUA)の初代学生部長に就任。新しき世界市民の育成に尽力を開始した。
 2001年8月、SUAのオレンジ郡キャンパスの第1回入学式に、彼女と、ご主人の晴れやかな笑顔があった。体を動かせないといわれた次男も、今や走ることさえできるようになり、会合にも参加されている。
 この1月、79歳になった彼女は毅然と語る。
 「全然、年をとった気はしません。広布のために、一生涯、創価の正義と真実を叫び続けます!」
 母は勝ったのだ!
 いずこの地でも、「この母ありての広布かな」と、どんなに讃えても讃えきれない、偉大なる母たちの大行進曲が、来る日も来る日も奏でられている。
 私と妻は、広布に戦い、生きゆく女性たちの無限の幸福の人生を、真剣に懸命に祈りゆく毎日だ。
 創価の太陽の母たちよ! 「勇気」と「正義」と「勝利」の歓声を、さらに響かせゆくのだ。そして強く愉快な賢き声を、一段と朗らかに共鳴させながら、前進されんことを、私は、一生涯、祈りゆくものである。

 10-8 最も苦しんでいる人が仏になる

 仏法は、宿業を自らが「地涌の菩薩」として立てた誓願ゆえの憐みと捉え、宿命を使命に変える「一念の転換」の重要性を教えています。

【池田SGI会長の指針】
◎『法華経の智慧』から
              (第2巻、1996年11月刊)

 戸田先生も。「初めから立派過ぎたのでは人びとの中に入っていけないからわれわれは仏法を弘めるためにわざわざ貧乏や病気の姿をとって生まれてきたんだよ」「人生は芝居に出ているようなものだよ」と、しばしば言われていた。
 また、「戸田は妻を失い、娘まで亡くした。事業も失敗した。そういう苦悩を知っているからこそ、創価学会の会長となったのだ」とも言われていた。
 苦労もない、悩みもないというのでは民衆の心が分かるわけがない。人生の辛酸をなめた人であってこそ、人々を救うことができるのです。
 自分の苦しみを「業」ととらえるだけでは、後ろ向きになる。それを、あえて「使命のために引き受けた悩みなのだ」「これを信心で克服することを自分が誓願したのだ」と、とらえるのです。
 願兼於業は、この「一念の転換」を教えている。宿命を使命に変えるのです。自分の立てた誓願ゆえの悩みであるならば、絶対に乗り越えられないはずがない。
 インドの国父、マハトマ・ガンジーは言っています。
 「私がもし生まれてくるとしたら、不可触民として生まれてきたい。悲しみや苦悩や彼らに与えられた侮辱を分かちあい、みずからと不可触民をその悩める境遇から救い出すよう努めるために」
 この心は「願兼於業」に通じると思う。慈悲です。「ともに生きる」ということです。
 いちばん苦しんでいる人の中に、生まれてくるのです。
 いちばん苦しんでいる人の中に、仏はいるのです。
 いちばん苦しんでいる人を、いちばん幸福にするために仏法はあるのです。
2015-06-11 : 池田SGI会長指導選集 :
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