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池田SGI会長指導選集 「幸福と平和を創る智慧」 第2部 第9章 9-1〜9-9

池田SGI会長指導選集 「幸福と平和を創る智慧」

第2部 人間革命の実践

第9章 仏法は勝負

この章を読むに当たって

 精一杯頑張っているのに、仕事においても活動においても思うような結果が出ないと悩むアメリカSGIの友に、かつて池田SGI会長は、こう語りかけました。
 「大丈夫! そうやって悩みながら、もがきながら、祈って、動いて、苦労しているときが、一番、人間革命ができる。一番、宿命転換が進むんです。
 だから、焦る必要はありません。今は勝利の因をじっくり創ることです。種をしっかり植えることです。その種を、鳥にもっていかれるかもしれない。そしたら、また植えればいい。若芽のときに折れることもあるだろう。そしたら、また植えればいい。そうやって何回も何回も繰り返していけば、最後は大森林地帯となっていく。これが、仏法の法則です。
 朝の来ない夜はない。必ず朝が来ると信じるのが、この仏法です。大切なのは、やめないこと。諦めないこと。常に何か行動していくことです。挑戦していく限り、必ず前進していける。戦っていること自体が勝利です。負けないことが勝つことなのです」
 人間革命の前進には、さまざまな困難や障害が立ちはだかります。それらに向き合い、怯まずに挑戦し続ける中にこそ、わが胸中に人生勝利の仏の生命が燦然と輝いていくことを、SGI会長は繰り返し語ってきました。
 「仏法は勝負」――なぜ仏法は勝負を重んじるのか。何と戦い、何に勝つのか。勝利の人生のために何が大切か。この重要な哲学をSGI会長の指針から学んでいきます。

 9-1 仏法は勝負、人生も勝負

 この節では、「仏法は勝負」の意義について、御書を拝しながら語り、胸中における仏と魔との戦いに勝つことが根本であると強調しています。

【池田SGI会長の指針】
◎『御書の世界』から
        (第3巻、2005年3月刊)

 「仏法は勝負」という原理は、表現はさまざまですが、大聖人の御書全編にわたって拝することができる。なかんずく、端的な表現として「四条金吾殿御返事」(別名「世雄御書」)に「仏法ともうすは勝負をさきとし」(御書1165㌻)と明快に仰せです。牧口先生も、この仰せを引用し、ここに「宗教の生命」があると述べられている。(『牧口常三郎全集』10)
 仏法は勝負であり、人生も勝負です。
 仏法は、仏と魔との戦いという生命の根本の闘争に万人が勝っていけるために説かれたと言っても過言ではない。
 魔を打ち破って成仏を遂げるか、魔に負けて迷妄の人生を送るか。人生における仏法の意義は、究極するところ、この根本的な勝負に勝つことにあるのです。
 この仏法究極の生き方においては、人生のあらゆる局面は、勝負、勝負の連続になる。それがまた、人生の実相です。
 そして、この戦いに挑戦する人にとっては、人生に起こるさまざまなことは、それが世間のことであっても、すべて仏道修行に通じていく。すなわち「仏法は勝負」との原理に適っていくのです。
 大聖人は、「仏をば世雄と号し」と仰せです。「世雄」とは現実社会における勇者のことです。勇敢に魔と戦い、しかも仏界の生命力を現しながら、世間法のなかで正しく生きぬいていくのが仏です。
 大聖人が在家の門下の中心者である四条金吾に「仏法は勝負」と教えられているのは、仏の「世雄」の生き方を継ぐのが、仏法者であることを示されていると拝することができます。
 「仏法は勝負」といっても、結局、何によって勝つのか。それは「心」です。
 「仏法は勝負」と強調されているのは、いかなる困難にも立ち向かっていく強靭な心をもて、ということです。臆病な心では、胸中の魔にも、社会の魔にも勝てないからです。
 「臆病にては叶うべからず」(御書1192㌻)です。
 〝わが門下よ、断じて世間の荒波に負けるな〟〝卑劣な魔軍に負けるな〟という、大聖人の万感こもる励ましです。「法華経に勝る兵法なし」の原理もそうです。
 「法華経の信心」とは、観念論でも抽象論でもない。現実の社会で勝利するための具体的な智慧を発揮しゆくものでなくてはなりません。
 大聖人御自身が、師子王の心で、勝利また勝利の大闘争を続けてこられた。決定《けつじょう》した一念にこそ諸天善神も動くのです。
 「諸天善神等は日蓮に力を合わせ給う故に竜口《たつのくち》までもかちぬ、其の外の大難をも脱《まぬか》れたり」(御書843㌻)と仰せです。偉大なる勝利宣言訓です。
 人生も、生活も、社会も、変化、変化の連続です。そして、変化は、良く変わるか悪く変わるか、中途半端はない。だからこそ、信仰も勝負、宗教も勝負を決する以外にないのです。

 9-2 人間革命とは自分との戦い

 人間革命は常に自分との戦いであり、信心を妨げようとする魔の働きとの闘争です。「仏法は勝負」とは、自分自身との戦いに勝つことであると呼び掛けています

【池田SGI会長の指針】
◎男子青年部幹部会でのスピーチから
        (1990年6月26日、東京)

 「仏法は勝負」ということについて、少々、申し上げておきたい。
 戸田先生は、よく教えられた。「信心は、人間の、また人類の行き詰づまりとの戦いいだよ。魔と仏との闘争が信心だ。それが仏法は勝負ということだ」と。
 前進していれば、当然、行き詰まる場合がある。その時は、いちだんと題目をあげ、行動することだ。そうすれば、また必ず大きく境涯が開けてくる。ふたたび前に進んでいける。
 この限りなき繰り返しが信心である。
 その自分との戦い、行き詰まりとの戦い、魔との闘争に、勝つか負けるか、それが〝勝負〟なのである。しのぎをけずるような厳しき自己との闘争を忘れれば、もはや堕落である。遊戯である。ぬるま湯にひたっているような安逸は、もはやそれ自体、敗北の姿なのである。
 日蓮大聖人は仰せである。
 「夫《そ》れ仏法と申すは勝負をさきとし、王法と申すは賞罰を本とせり、故に仏をば世雄と号し王をば自在となづけたり」(御書1165㌻)
 ――そもそも仏法というのは勝負を第一とし、王法(政治、社会)というの賞罰を根本とする。ゆえに仏を「世雄」と号し、王を「自在」と名づける――。
 賞罰にはランクがあり、相対的なものである。百点のうち十点とか六十点とか、また勲章の等級とか、〝より良い〟また〝より悪い〟と比較できるのが賞罰である。
 これに対し、勝負とは絶対的なものである。勝つか、負けるか。中間はない――。
 仏とは、この勝負に〝勝った人〟のことである。「世雄」とは、人間の世(世間)にあって、最強の勇者ということである。
 このほか仏典には、〝仏の別称(別名)として、次のような表現が使われている。
 「戦勝《せんしょう》」「勝導師《しょうどうし》」「勝陣《しょうじん》」「勝他《しょうた》」「勝他幢《しょうたどう》」(幢《どう》とは、はたほこ、王将である象徴)。また「健勝破陣《けんしょうはじん》」すなわち魔軍の陣を破り、勝つ健者、勇者。「十力降魔軍《じゅうりきごうまぐん》」すなわち十の力で魔軍を降《くだ》し全滅させる強者――これが、仏なのである。
 すなわち、魔との勝負に「勝つリーダー」(勝導師)こそ仏だというのである。勝ってこそ仏法、勝ってこそ信心なのである。
 魔軍との戦いについて、大聖人は、こう描写されている。
 「第六天の魔王・十軍のいくさを・をこして・法華経の行者と生死海の海中にして同居穢土を・とられじ・うばはんと・あらそう、日蓮其の身にあひあたりて大兵を・をこして二十余年なり、日蓮一度もしりぞく心なし」(御書1224㌻)
 ――第六天の魔王が、十の軍隊をもって戦争を起こし、法華経の行者と〝生死の苦しみの海〟の中で、同居穢土(娑婆世界のように、六道の凡夫と四聖〈声聞、縁覚、菩薩、仏〉が同居する国土)を、「取られまい」「奪おう」と争う。日蓮は、その身にあたって、仏の大軍を起こして二十余年になる。その間一度も、退く心はない―― 。
 魔の十軍とは、煩悩の軍隊のことである。『大智度論』(大正新脩大蔵経25巻)では次の十種を挙げている。
 すなわち
 ①欲。五欲にとらわれて、修行を怠るようになる。
 ②憂愁。気がふさぎ、ものうくなってくる。
 ③飢渇《けかち》。うえとかわきにさいなまれる。
 ④渇愛。愛欲や執着によって堕落していく。異性への愛着や、酒などの快楽におぼれる姿も、これに関係していよう。
 ⑤睡眠。まったく眠るなということではなく、惰眠を続けるような真剣でない生活であり、態度といえよう。眠りをさくような向上への努力もせず、要領よく生きていく人生をも含むかもしれない。
 ⑥怖畏《ふい》。おそれに負けて臆病になる。
 ⑦疑悔《ぎげ》。修行者をそそのかして、疑いと悔いを起こさせる。
 ⑧瞋恚《しんに》。怒りの心によって、修行が妨げられる。
 ⑨利養虚称。名利と虚名にとらわれて、成仏への道を踏ふみはずす。
 ⑩自高蔑人《じこうべつにん》。自己を高くし、人を見くだす。
 これは、これまでの反逆者に共通する傲慢な生命であった。また彼らは、要するに、この十の魔軍にみずから敗れ、捕らわれて、向こうの陣についてしまった者たちである。
 この魔軍を打ち破る武器は何か。それはただ一つ、信心の利剣以外にはない。
 ゆえに広布のリーダーは、第一に〝信心強き〟勇者でなければならない。そうでなければ、どんなに優秀なリーダーに見えたとしても、根本的次元における魔との〝生命の戦い〟に勝利することはできない。
 「信心」が強いかどうか、それが真の強者か否かの基準なのである。
 ともあれ、この御文のとおり、宇宙という「生死《しょうじ》の海」(苦しみの海)を舞台に、仏と魔との戦いが繰り広げられていると、大聖人は仰せである。
 宇宙全体が〝勝負の世界〟なのである。創造の力と破壊の力。〝調和《コスモス》〟へのエネルギーと〝混乱《カオス》〟 への乱気流。〝結びつける〟慈愛の力と〝切り離す〟憎悪の力。生と死、光と闇、幸福と不幸、前進と後退、上昇と下降、開放と閉鎖、希望と絶望、〝生かす〟エネルギーと〝殺す〟衝動――。幸福になりゆく法則に従うか、反対に、黒い不幸の世界に化《か》していく天魔に従属してしまうかである。
 絶対に私どもは、永遠に幸福になりゆく法則に従い、崩れざる常楽の世界をつくりゆかねばならない。これが仏法者の使命である。

 9-3 仏法は釈尊の「心の戦い」から始まった

 小説『新・人間革命』では、極端な苦行では悟りは得られないことを知った釈尊が、菩提樹の下で、いよいよ成道する場面が描かれています。それは、無明という己心の魔を打ち破っていく仏法勝負のドラマでもありました。

【池田SGI会長の指針】
◎小説『新・人間革命』第3巻「仏陀」から
        (1998年11月刊)

 菩提樹の下で、釈尊の思惟は続いた。
 仏伝によれば、この時、悪魔が釈尊を誘惑したとある。その誘惑の方法は仏伝によって異なるが、優しく語りかけたとしているものもあることは興味深い。
 〝お前はやせ細り、顔色も悪い。まさに死に瀕している。このまま瞑想を続ければ、生きる望みは千に一つもない……〟
 悪魔は、まず生命の危機を説き、生きることを促したあと、バラモンの教えに従っていれば、そんな苦労をすることなく、多くの功徳を積むことができると説得する。そして、釈尊のやっていることは、無意味であると語るのである。それは、己心の激しい葛藤劇であったととらえることができる。
 釈尊は迷い、心は千々に乱れた。体力も消耗し、衰弱のなかで、死への恐怖もわいてきたのであろう。また、あの激しい苦行からも、何も得られなかっただけに、今の努力も、結局は無駄ではないかという思いも、頭をもたげてきたであろう。
 ともあれ、欲望への執着が、飢えが、眠気《ねむけ》が、恐怖が、疑惑が、彼を襲った。
 魔とは、正覚への求道の心を悩乱させようとする煩悩の働きである。それは、世俗的な欲望への執着となって生じることもあれば、肉体的な飢えや眠気となって現れることもある。あるいは、不安や恐怖、疑惑となって、心をさいなむこともある。
 そして、人間はその魔に惑わされる時には、必ず自己の挫折を、なんらかのかたちで正当化しているものである。しかも、それこそが、理に適ったことのように思えてしまう。
 たとえば、釈尊の〝こんなことをしても、悟りなど得られないのではないか〟という考えは、それまで大悟を得た人などいないだけに、一面、妥当なことのように思えよう。
 魔は「親の想《おもい》を生《な》す」(御書917㌻)といわれるが、往々にして魔は、自分の弱さや感情を肯定する常識論に、すがる気持ちを起こさせるものだ。
 だが、釈尊は、それが魔であることを見破り、生命力を奮い起こし、雑念を払うと、高らかに叫んだ。
 「悪魔よ、怯者《きょうしゃ》はお前に敗れるかもしれぬが、勇者は勝つ。私は戦う。もし敗れて生きるより、戦って死ぬほうがよい!」
 すると、彼の心は、再び平静を取り戻した。
 辺りは、夜の静寂に包まれ、満天の星が、澄んだ光を地上に投げかけていた。
 魔を克服した釈尊の心はすがすがしかった。精神は澄み渡り、晴れた空のように一点の曇りもなかった。
 彼は三世にわたる生命の永遠を覚知したのである。
 その時、生まれて以来、心の底深く澱《おり》のように沈んでいた、あらゆる不安や迷いが消え去っていた。自己という存在の、微動だにしない深い根にたどりついたのだ。
 彼は、無明の闇が滅して、智慧の光明がわが生命を照らし出すのを感じていた。そして山頂から四方を見渡すかのように、彼の境地は開かれていった。
        ◇
 法楽を味わった釈尊は、しばらくすると、深い悩みに沈んだ。それは新しい苦悩であった。彼は木陰に座り、何日も考えていた。
 〝この法を説くべきか、説かざるべきか……〟
 彼の悟った法は、いまだかつて、誰も聞いたこともなければ、説かれたこともない無上の大法である。光輝満つ彼の生命の世界と、現実の世界とは、あまりにもかけ離れていた。
 人びとは病を恐れ、老いを恐れ、死を恐れ、欲望に身を焼き、互いに争い合い、苦悩している。それは「生命の法」を知らぬがゆえである。しかし、衆生のために法を説いたとしても、誰一人として、理解できないかもしれない。
 釈尊は孤独を感じた。それは未聞の法を得た者のみが知る、「覚者の孤独」であった。
 ある仏伝によれば、この時も悪魔が現れ、釈尊を苦しめたとされる。それは、法を説くことを思いとどまらせようとする、己心の魔との戦いと解《かい》せよう。
 釈尊は布教に突き進むことに、なぜか、逡巡と戸惑いが込み上げてきてならなかった。
 彼は悩み、迷った。魔は、仏陀となった釈尊に対しても、心の間隙を突くようにして競い起こり、さいなみ続けたのである。
 「仏」だからといって、決して、特別な存在になるわけではない。悩みもあれば、苦しみもある。病にもかかる。そして、魔の誘惑もあるのだ。ゆえに、この魔と間断なく戦い、行動し続ける勇者が「仏」である。反対に、いかなる境涯になっても、精進を忘れれば、一瞬にして信仰は破られてしまうことを知らねばならない。
 仏伝では、逡巡する釈尊の前に、梵天が現れ、あまねく人びとに法を説くように懇請したとある。それは、自己の使命を自覚し、遂行しようとする釈尊の、不退の意志の力を意味しているといえよう。
 彼は、遂に決断する。
 〝私は行こう! 教えを求める者は聞くだろう。汚れ少なき者は、理解するだろう。迷える衆生のなかへ、行こう!〟
 釈尊は、そう決めると、新しき生命の力が込み上げてくるのを感じた。一人の偉大な獅子が、人類のために立ち上がった瞬間であった。

 9-4 まず今日、自分に勝つこと

 ここでは、トインビー博士がSGI会長との対談で強調していた「自己超克」の話を通して、〝一人一人が自分に勝つ〟ことが、社会を変え、人類の歴史を動かしていくという、人間革命の根本を語っています。

【池田SGI会長の指針】
◎香港・マカオ最高協議会でのスピーチからから
        (2000年12月4日、香港)

 この対談で(「二十一世紀への対話」)でトインビー博士が強調されていたことは何か。
 その一つは「自己超克」ということであった。わかりやすく言えば、「自分に勝つ」ということである。利己主義に支配された小さな自分を乗り越え、人々の幸福のために尽くしゆく、大いなる自分を開くことである。
 人類の危機を転換していくためにも、この「自己超克」が不可欠であるというのが、二十世紀最大の歴史家であるトインビー博士の洞察であった。それは、まさに「人間革命」を意味しているといってよい。
 博士は、「この自己を超克する戦いは、 一人一人の人間の行動のなかにあるのです」と言われていた。それぞれが「自分に勝つ」ことが、結局、大きな社会の発展につながり、やがて、人類の歴史をも動かしていく。
 二十一世紀の新しい舞台で、勝ちぬいていくために、何が大事か。その勝負も、まずきょう、自分に勝つこと。きょう、自分を革命していくことから始まると銘記したい。
 信仰は、無限の力の源泉である。宗教は「文化の大地」である。「生きる力」「成長する力」「勝利する力」「宿命を打開する力」がわいてくる。「幸福になる源泉」が妙法なのである。
 人間を手段にするのでなく、人間が雄々しく立ち上がり、自身に勝利し、皆と喜びを分かちあっていくのが仏法なのである。
 その正道を歩んでいるのは創価学会しかない。科学の発展も大事である。経済も、政治も、教育も当然、大事である。しかし、もっとも大事な根本は何か。
 それは生命である。生命の変革こそが一切の土台となる。それを教えたのが釈尊であり、日蓮大聖人であられる。
 大聖人は、宇宙と生命を貫く法則を解き明かし、皆が幸福に、平和に、慈愛に満ちて生きていける道を残してくださった。
 尊極の大法が妙法であり、それを持つ皆さまは「世界の宝」の人である。
 仏法の因果は厳しい。ゆえに、妙法に生きぬく人は、生々世々、健康で、美しく、裕福で、立派なリーダーとして、社会に貢献し、人々に賛嘆されながら、大満足の人生を楽しんでいけることを、どうか確信していただきたい。

 9-5 「挑戦」と「応戦」

 ここでは、トインビー博士の「挑戦」と「応戦」の歴史観に触れながら、社会も個人も、あらゆる苦難と戦い続けていく生命力が勝利の道を開くと語っています。

【池田SGI会長の指針】
◎山梨婦人部幹部会でのスピーチから
        (1997年9月30日)

 私の青春時代からのモットーは、「波浪は障害にあうごとに、その頑固の度を増す(いよいよ強くなる)」であります。
 じつは、これは、トインビー博士の歴史理念とも根本的に通じております。
 つまり、「挑戦」と「応戦」であります。何らかの課題や障害がある。その挑戦を受け止めて、自分がもっと強くなる(応戦する)――その生命力があるかぎり、その文明は発展するというのであります。
 戦う生命力がなくなった文明は衰亡していきます。これを博士は、ゲーテの『ファスト』を引いて、説明しております。(「文明の発生」、下島連・山口光朔他訳『歴史の研究』2所収、『歴史の研究』刊行会)
 悪魔に対して、すなわち戦うべき障害に対して、ファウストは言います。
 「もしおれが、これでいいという気になって安楽椅子に寝そべったら、おれは即座にほろびるがいい」(『ファウスト 悲劇第一部』手塚富雄訳、中公文庫)
 もう戦わなくていいんだ。もうゆっくりしていいんだ。もう拡大しなくても、成長しなくてもいいんだ。そう思うようになったら、とたんに滅びていく。要約すれば、これが歴史の鉄則だと、トインビー博士は論じているのであります。
 人生も同じであります。団体も同じであります。何かあればあるほど、それらと戦い、それらを取り込んで、もっと強くなることができます。もっと大きくなることができます。
 大聖人は仰せであります。
 「火に薪を加えれば、火はますます燃えさかるではないか。多くの河の流れが入らなければ大海もないのである」(御書1448㌻、趣意)と。
 法華経の行者は、火のごとく、大海のごとく、難のたびに強く、大きくなるのであります。
 そういう生命力で前進したところが、歴史の勝利者となる。人生の勝利者となる。要は、自分が強くなることです。学会を強くすることです。
 御書に「心の固きに仮りて神の守り則ち強し」(御書1220㌻ほか)――信心の心の固さによって、諸天善神の守りも強くなる―― と。
 一次元から言えば、これは「人だのみをするな」ということであります。
 だれかが守ってくれるとか、だれかが味方してくれるとか、そういう甘い考えは捨てなさい。全部、自分が強くなるしかない。自分が強くなってこそ、諸天善神も守るのだ、勝っていけるのだ――という文証であります。

 9-6 誓願の信心に立て

 1960年10月、池田SGI会長はブラジルを初訪問しました。小説『新・人間革命』では、現地で開かれた座談会で、山本伸一がメンバー一人一人を抱きかかえるように励ます場面が綴られています。そのなかで、農業移住者として奮闘する壮年に、誓願の信心が勝利の実証をもたらすことを語っています。

【池田SGI会長の指針】
◎小説『新・人間革命』第1巻「開拓者」から
        (1998年1月刊)

 四十過ぎの一人の壮年が、兵士のような口調で、緊張して語り始めた。
 「自分の仕事は農業であります!」
 「どうぞ気楽に。ここは、軍隊ではありませんから。みんな同志であり、家族なんですから、自宅でくつろいでいるような気持ちでいいんです」
 笑いが弾けた。日焼けした壮年の顔にも、屈託のない笑みが浮かんだ。
 この壮年の質問は、新たに始めた野菜づくりに失敗し、借金が膨らんでしまったが、どうすれば打開できるかというものだった。
 伸一は聞いた。
 「不作になってしまった原因はなんですか」
 「気候のせいであったように思いますが……」
 「同じ野菜を栽培して、成功した方はいますか」
 「ええ、います。でも、たいていの人が不作です」
 「肥料に問題はありませんか」
 「……詳しくはわかりません」
 「手入れの仕方には、問題はありませんか」
 「……」
 「土壌と品種との関係はどうですか」
 「さあ……」
 壮年は、伸一の問いに、ほとんど満足に答えることができなかった。
 〝この人は自分なりに、一生懸命に働いてきたにちがいない。しかし、誰もが一生懸命なのだ。それだけで良しとしているところに、「甘さ」があることに気づいていない〟
 伸一は、力強く語り始めた。
 「まず、同じ失敗を繰り返さないためには、なぜ、不作に終わってしまったのか、原因を徹底して究明していくことです。成功した人の話を聞き、参考にするのもよいでしょう。そして、失敗しないための十分な対策を立てることです。真剣勝負の人には、常に研究と工夫がある。それを怠れば成功はない。信心をしていれば、自分の畑だけが、自然に豊作になるなどと思ったら大間違いです。仏法というのは、最高の道理なんです。ゆえに、信心の強盛さは、人一倍、研究し、工夫し、努力する姿となって表れなければなりません。そして、その挑戦のエネルギーを湧き出させる源泉が真剣な唱題です。それも″誓願〟の唱題でなければならない」
 「セイガンですか……」
 壮年が尋ねた。皆、初めて耳にする言葉であった。
 伸一が答えた。
 「〝誓願〟というのは、自ら誓いを立てて、願っていくことです。祈りといっても、自らの努力を怠り、ただ、棚からボタモチが落ちてくることを願うような祈りもあります。それで良しとする宗教なら、人間をだめにしてしまう宗教です。日蓮仏法の祈りは、本来、〝誓願〟の唱題なんです。その〝誓願〟の根本は、広宣流布です。
 つまり、〝私は、このブラジルの広宣流布をしてまいります。そのために、仕事でも必ず見事な実証を示してまいります。どうか、最大の力を発揮できるようにしてください〟という決意の唱題です。これが私たちの本来の祈りです。
 そのうえで、日々、自分のなすべき具体的な目標を明確に定めて、一つ一つの成就を祈り、挑戦していくことです。その真剣な一念から、知恵がわき、創意工夫が生まれ、そこに成功があるんです。つまり、『決意』と『祈り』、そして『努力』と『工夫』が揃ってこそ、人生の勝利があります。一攫千金を夢見て、一山当てようとしたり、うまい儲け話を期待するのは間違いです。それは、信心ではありません。それでは観念です。
 仕事は生活を支える基盤です。その仕事で勝利の実証を示さなければ、信心即生活の原理を立証することはできない。
 どうか、安易な姿勢はいっさい排して、もう一度、新しい決意で、全魂を傾けて仕事に取り組んでください」
 「はい。頑張ります」
 壮年の目には、決意がみなぎっていた。
 伸一は、農業移住者の置かれた厳しい立場をよく知っていた。そのなかで成功を収めるためには、何よりも自己の安易さと戦わなくてはならない。敵はわが内にある。逆境であればあるほど、人生の勝負の時と決めて、挑戦し抜いていくことである。そこに御本尊の功力が現れるのだ。ゆえに逆境はまた、仏法の力の証明のチャンスといえる。

 9-7 負けないことが勝つこと

 「負けないことが勝利。諦めないことが勝利。屈しないことが勝利」――これがSGI会長の仏法勝負の哲学です。ここでは、後継の女子部の友に向けて、〝負けないことが勝つこと〟という「負けじ魂」の生き方を呼び掛けています。

【池田SGI会長の指針】
◎「随筆 人間世紀の光」〈「女性の世紀」の若き旭日〉から
        (2004年11月13日「聖教新聞」掲載)

 信心は、即生活である。仏法は、即社会である。ゆえに、生活に勝ち、社会に勝ち、自分自身が幸福にならない信心や仏法は、あり得ないのだ。
 皆、悩みがある。悲しみがある。苦しみがある。しかし、「煩悩」は即「菩提」である。大きく悩んだ分だけ、大きく境涯が広がる。これが、妙法の原理だ。たとえ地獄の業火のような逆境に立たされたとしても、そこを必ず幸福の寂光土へと転換できるのだ。
 苦悩が何もないことが幸せなのではない。負けないこと、耐えられることが、幸せである。重圧を受け「あの人は大変だ」と周りから言われても、平然と、また悠然と、使命のわが道を歩み抜くことだ。そこにこそ「能忍」(能く忍ぶ)という、強い強い仏の生命の力がわいてくるのだ。一番、苦労した人が、最後は一番、幸福を勝ち取れる。幸福は、忍耐という大地に咲く花であることを忘れまい。
 女子部一期生である私の妻のモットーの一つは――
 「今日も負けるな
 今日も勇みて
 誓いの道を
 勝利の道を」であった。
 何があっても、負けない。その人は勝っているのだ。なかんずく、自らが青春時代に誓い定めた信念のために負けない一生を貫き通す人は、最も強く偉大である。
 人を幸福にできる人こそが、真実の幸福者である。
 自分自身が、皆を照らす太陽となっていくところに、本当の勝利があり、独立自尊の幸福の旗が翻るのだ。
 行動のない人生に、勝利の旗はない。行動のない信心に、幸福の旗はないのだ。この尊い意義深き青春を、そして人生を、負けずに、すべての苦難を乗り越えながら、旭日輝く勝利の栄光を胸に、わが道を歩みきっていくことだ。
 これが、本当の人間としての歩み方なのである。これが、仏法である。これが、信心である。「難来《きた》るを以て安楽」(御書750㌻)との、大聖人の重みのある一言を、決して忘れてはならない。

 9-8 人間として最も尊貴な人生とは

 仏法における勝利とは、名声や栄誉を得ることではなく、人間としてどのような価値を残し、どれだけの人に尽くしたかであると語っています。

【池田SGI会長の指針】
◎本部幹部会・東京総会でのスピーチから
         (1993年3月24日、東京)

 「万有流転」――青春時代に心に刻んだギリシャの哲学者ヘラクレイトス(紀元前500年ごろ活躍)の言葉である。
 宇宙の万物、ありとあらゆるものは、例外なく、変化また変化の連続である。どんなに栄華を極めても、最後に奈落の底に落とされる人生模様も、あまりに多い。
 大聖人は、仰せである。
 「或時は人に生れて諸《もろもろ》の国王・大臣・公卿・殿上人等の身と成って是れ程のたのしみなしと思ひ少きを得て足りぬと思ひ悦びあへり、是を仏は夢の中のさか《栄》へ・まぼろしの・たのしみなり唯法華経を持《たも》ち奉り速に仏になるべしと説き給へり」(御書386㌻)――(われわれ衆生は)ある時は人に生まれて、諸々の国王や大臣、公卿・殿上人(貴族)など高位・高官の身となって、これほどの楽しみはほかにないと思い、少しばかりの果報を得て十分であると思い、喜び合っている。しかし仏は、これを、夢の中の繁栄であり、幻の楽しみである、ただ法華経をたもって、すみやかに仏になるべきである、と説かれたのである――と。
 権力者であろうが、大臣であろうが、議員や有名人であろうが、どんなに威張ってみても、仏法の眼《まなこ》から見れば「夢の中の栄え」「幻の楽しみ」にすぎない。
 はかない泡《あぶく》のような栄華を求める人生。また、それらをうらやんで、心を悩ます人生。短い一生を、そうした幻を追って過ごすのでは、あまりにもむなしい。
 それでは、人間として最も尊貴な人生とは、何か――。
 大聖人は、「仏」に成ることこそが、永遠の幸福であり、最高の人生と仰せである。「妙法の当体」たる自分自身を輝かせていく生活である。
 華やかではなくとも、まじめに信心に励んだ人、真剣に広宣流布に励んだ人、不滅の大法とともに生きぬいた人こそが、真の「勝利者」であり「勝利王」なのである。
 広宣流布は三世永遠の偉業である。「この道」に生きぬいた人こそ、三世永遠の楽しみを満喫していける――これが大聖人の御心である。その意味で、学会員こそ世界第一の「英雄」であり、人間の「王者」である、とあらためて断言しておきたい。
 これまでも、何度も拝してきた有名な御文であるが、大聖人はこう仰せである。
 「人身は受けがたし爪の上の土・人身は持《たも》ちがたし草の上の露、百二十まで持《も》ちて名を・くた《腐》して死せんよりは生きて一日なりとも名をあげん事こそ大切なれ」(御書1173㌻)――人間として生まれてくることはむずかしい。あたかも爪の上の土のように、わずかなことである。また、たとえ人間として生まれてきても、その身をたもつことはむずかしい。
 太陽が昇れば消えてしまう草の上の露のように、はかない。百二十歳まで長生きし、汚名を残して死ぬよりは、生きて一日でも名をあげる事こそが大切である――。
 長生きしたから、いい人生とはいえない。何を残したか、どんな価値を生んだか、どれだけの人を幸せにしたかである。
 その意味で、結論的にいえば、広宣流布に生きることが、即、最高の人生となる。広宣流布に生きぬくことは、そのまま、社会への最大の貢献になっている。自他ともに幸福になる。仏法は即社会、そして信心は即生活であり、一体である。
 ゆえに大聖人は、法華経のため、広宣流布のために働き、名を上げなさい、限りある一生に、自分はこれだけやりきったという悔いのない歴史をつくりなさい、残しなさい、と教えられているのである。
 同じ戦うならば、前向きにいかなければ、つまらない。みずから動いて、気持ちよく戦ってこそ喜びも湧く。勢いもつく。
 生き生きと挑戦することである。生き生きと進むところに、福運はついてくる。「仏法は勝負」「仏法は戦い」である。生き生きと戦う人が、最後には勝つ。「信心根本」「唱題根本」で生きぬく人が、必ず最後に勝つ。

 9-9 法華経に勝る兵法なし

 妙法に生きぬく人は、途中に何があろうと、最後は偉大な人間革命を成し遂げ、勝利の人生を飾ることができます。

【池田SGI会長の指針】
◎本部幹部会・全国青年部幹部会でのスピーチから
        (2005年9月14日、東京)

 日蓮大聖人の仏法の根本目的は、広宣流布の拡大である。御書に何度となく、「広宣流布」と記されているとおりである。ゆえに、どれだけ実質的に「広宣流布の大地」を広げることができたか。そこに本当の勝負があるのだ。私たちが目指すのは、どこまでも、仏法の人間主義と、生命尊厳の思想に基づいた「平和と幸福の社会」を築いていくことである。その点で、一歩でも二歩でも前進していれば、それでいいのである。
 もちろん、人生は戦いの連続であり、さまざまな次元で、「勝った」「負けた」はあるだろう。
 いくら強くても、無限に勝ち続けるわけにはいかない。それが〝勝負〟というものだ。恩師の戸田先生が遺言のごとく、詠んでくださった和歌がある。

  勝ち負けは
   人の生命《いのち》の
     常なれど
   最後の勝《かち》をば
     仏にぞ祈らむ

 長い人生である。その間には、自分の思ったようにいかないときもあるかもしれない。しかし、私たちは「法華経に勝る兵法なし」の妙法を持《たも》っている。途中の勝ち負けはどうであれ、最後は、法華経を持《たも》った人が、必ず勝つ。信心根本で生きぬいた人が、必ず勝つのである。それが仏法の大法則である。何の心配もいらない。
 勝っても、負けても、そこからまた「次に勝つ因」をつくっていけるかどうか。それが一番大事である。つねに「今」が出発なのである。わが同志と異体同心の団結を組んで、悠々と、朗らかに、「新たなる勝利」へ向かって進んでいく。そこに「本因妙」の仏法の実践がある。
2015-03-28 : 池田SGI会長指導選集 :
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