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未来の翼 No.10〜14

第14回 イタリアの「花の都(フィレンツェ)」 (2015.5.1付 未来ジャーナル)

「負けじ魂」光る 努力の天才たれ!
君の 貴女の胸中には無限の可能性がある。信じ抜く勇気を持て!


 「人類の宝」と光る皆さんと、今回は、地球に輝く文化の「花の都」へ、心の旅に出掛けよう!
 その街は、時の流れに色あせることがありません。いな、時とともに、いよいよ光彩を増していくように思えます。
 それは、イタリアのフィレンツェです。アルノ川のほとり、小高い丘にあるミケランジェロ広場に立つと、「屋根のない博物館」と呼ばれる世界遺産の街並みが一望できます。
 私は、ここからの眺めが大好きです。3回(1981年、92年、94年)のフィレンツェ訪問の折、行事の合間を縫って、青年たちと幾度となく立ち寄りました。この地で活躍した、きら星の如きルネサンス人と対話する思いで、カメラにも収めてきました。
 フィレンツェは、14世紀から16世紀にかけて、イタリアに始まり、ヨーロッパに広まった文化運動「ルネサンス」の電源地です。「ルネサンス」とは、フランス語の「再生」「復興」という意味で、文芸の復興、人間の復興が叫ばれました。
 ルネサンスでは、中世までの「教会中心」の社会、「聖職者中心」の身分制度が、経済力をつけて自立した市民たちによって、変革されていきます。
 市民が模範としたのが、古代ギリシャ・ローマの「人間性の春」でした。人々は呼び掛けました。「古代へ帰れ! 人間に帰れ!」──と。
 そうした人々を象徴する姿が、ルネサンス美術の巨匠ミケランジェロによって作られた、堂々たる「ダビデ像」です。ミケランジェロ広場には、そのレプリカ(複製)が立っています。
 ダビデは、古代イスラエルで宿敵の巨人を倒し、祖国を救った「無名の青年」です。それまでの美術作品では、もっぱら “勝利したダビデの姿” が描かれてきましたが、ミケランジェロは “これから戦いに挑む姿” として表現しました。ダビデ像には「よし、戦おう!」「断じて負けない!」という気迫と活力がみなぎっています。
 ルネサンスとは、人間性を抑圧する邪悪な力に対する「精神の戦い」です。その生き生きとした戦いの中で、人々は自分たちの生命の尊さに目覚めていったといってもよいでしょう。
 「我に無限の可能性あり!」
 「人間はかくも偉大なり!」と。

 この5月末に、イタリア共和国と文化交流協定を結ぶ東京富士美術館(八王子市)では、ルネサンスの偉大な魂を学ぶ「レオナルド・ダ・ヴィンチと 『アンギアーリの戦い』 展」が始まります。そこでは、二人の天才、レオナルド・ダ・ヴィンチと、ミケランジェロに光が当てられます。
 実は、私もお招きをいただいたフィレンツェ市庁舎・ヴェッキオ宮殿には、かつて、この二人がそれぞれにフィレンツェの戦いの歴史を描いた壁画で、大広間を飾るという構想がありました。当時は完結しなかった “夢の競演” が、今回、500年の歳月を超えて、美術展として結実するのです。
 ダ・ヴィンチは、生涯で1万ページともいわれるノートを書き残し、「モナ・リザ」で知られる絵画や彫刻、さらに建築、数学、生物学、物理学など、万般にわたって貢献しました。
 わが創価大学の本部棟には、この “創造的人間” のブロンズ像が、厳然とそびえ立っています。
 ダ・ヴィンチは言います。
 「障害が私を屈服させることはない。あらゆる障害も奮励努力によって打破される」
 万能の天才も、“負けじ魂” で必死に努力を貫いていたのです。
 “負けじ魂” 光る、真のルネサンス人たる未来部の皆さんから、「21世紀のレオナルド・ダ・ヴィンチ」「21世紀のミケランジェロ」が陸続と登場することを、私は楽しみにしています。

 81年に「花の都」を訪れた時、私は尊敬する友人との再会を果たしました。イタリア出身のアウレリオ・ペッチェイ博士です。
 博士は、地球環境の汚染に、いち早く警鐘を鳴らした「ローマクラブ」の創設者です。
 20世紀最大の歴史家であるトインビー博士が、「ぜひともお会いするように」と、私に推薦してくださったお一人でした。
 初めての出会いは、75年のフランス・パリ。人類の未来をめぐって、真剣に語り合いました。
 81年は3度目の語らいでした。72歳のご高齢にもかかわらず、博士は自ら車を運転し、ローマから4時間もかけて来てくださったのです。しかも博士は前日、ロンドンからローマの自宅に戻られたばかりでした。
 人類のために東奔西走される “戦う知性” を、私は仰ぎ見る思いで迎えました。
 会談は2時間余に及びました。
 博士は、私との対談集 『21世紀への警鐘』 の中で、人間に内在する「未開発で未使用の能力という、莫大な富」に注目され、それを開発する「人間革命」の重要性について語られました。
 「現代という苦難の時代におけるこの人間精神のルネサンスこそ、私が 『人間革命』と呼んでいるものなのです」
 「われわれは人間革命を推進すべく、力の及ぶ限りあらゆる手を尽くさなければなりません──手遅れにならないうちに」
 博士の不屈の人生を貫くもの。それは「人間の内なる無限の力」への信頼でした。
 「人間革命」とは、わが生命の力を信じ抜く勇気なのです。
 君の胸中には、広大なる天空の如き、未知の可能性がある。
 貴女《あなた》の胸中には、美しい花の都の如き、清らかな生命がある。
 目には見えないかもしれない。それでも君の可能性を信じ抜くことだ。貴女自身を信じ切ることだ。自分の努力を疑わないことだ。
 その「信じる」行為の究極が、信仰です。祈りです。
 博士は、私との対談集が発刊された84年に逝去されました。亡くなる12時間前まで、病床で口述され、貴重な未来への警句を残し続けておられたのです。
 私は、博士のご子息とも友誼の交流を続けました。ご子息が教えてくださった博士の晩年の魂の叫びが、私の胸から離れません。
 「世界を変革できるのは、青年だよ。青年の人間革命によって、世界が変わるんだよ」
 この人間革命の大道を、世界に広め、継承していく正統の中の正統の後継者は、まちがいなく、未来部の皆さんです。

 人類の新たなルネサンスを託すのは青年しかいない──私はこの思いで、イタリアの若き友とも出会いを重ね、語り合ってきました。
 92年にフィレンツェのイタリア文化会館で開かれた芸術音楽祭の時、本館前で未来部のメンバーと記念撮影会を行いました。
 94年の訪問でも芸術フェスティバルが開催され、演目の合間に未来部の友と交流のひとときを持ちました。お菓子をプレゼントし、帽子をかぶせて差し上げた時の、光の王子、王女たちの笑顔は忘れられません。
 うれしいことに、こうした出会いを結んだ友が今、広布のリーダーとして立ち上がっています。
 ある時、日差しの強いミケランジェロ広場で、私が麦わら帽子を贈って励ました青年は、その後、アメリカの名門大学での研究職を勝ち取ったと伺っています。
 もともと勉強が苦手で、5年制の高校を7年がかりで卒業した彼でしたが、執念の祈りと努力で、見事、夢を叶えたのです。
 イタリアの友に贈った長編詩に、私は万感を込めて綴りました。

 「ああ 若き 若き翼よ
 君たちの
 その双肩に
 不滅の未来が実在する
 故に その胸中に使命がある
 尊き地涌の君たちこそ
 翔べよ また翔びゆけよ
 栄光燦たる
 無窮の天座の彼方へ」

             (「新たなるルネサンスの鐘」)

 私のフィレンツェ初訪問から現在まで、イタリアSGI(創価学会インタナショナル)は、若き友が躍進の中心となり、平和の連帯を大きく広げてきました。
 創価の師弟に生きる青年には、自身の無限の可能性を開き、無窮の大空へと飛翔する「未来の翼」があります。一人の青年が立ち上がれば、世界は変わるのです。

 日蓮大聖人は、「天晴れぬれば地明《あきら》かなり法華を識《し》る者は世法を得可《うべ》きか」(御書254㌻、「観心本尊抄」)と仰せになられました。
 天空に太陽がひとたび昇れば、大地も明るく照らされます。
 若くして太陽の仏法を持《たも》った皆さんは、勉学であれ、生活であれ、友情であれ、すべてにおいて、希望の光、勇気の光、勝利の光を放っていくことができます。
 さあ、さわかやに晴れわたる、5月が到来しました。
 5月3日は、恩師・戸田城聖先生が第2代会長に、そして不二の弟子である32歳の青年の私が一人立ち上がり、第3代の会長に就任した「創価学会の日」です。
 そして、学会にとって最も大事なこの日を、後年、私は、「創価学会母の日」にと提案しました。
 さらに、5月5日の「創価学会後継者の日」は、私の直弟子である未来部に一切を託す日です。
 私にとって5月は、戸田先生への報恩の誓いを新たにする時であり、未来に続く君たちの未知を開くために、「やらんかな!」と再び立ち上がる月です。
 どこまでも私と一緒に、清新な決意で進もう!
 五月晴れの青空のように!
 無限大の可能性を秘めた君たち、貴女たちの躍動を、全世界が待っているのだから。


ダ・ヴィンチの言葉は 『レオナルド・ダ・ヴィンチ 天才の素描と手稿』 H・アンナ・スー編・森田義之監訳・小林もり子訳(西村書店刊)。

第13回 中国・桂林の山河     (2015.4.1付 未来ジャーナル)

古い友人を大切に 新しい友をつくろう
平和の地球は友情から! 自ら声をかけよう。自ら善き友になろう


 新入生の皆さん、入学おめでとう! 進級した皆さんも、「いよいよ」の心で新出発だね!
 皆さんは、一年ごとに、友情のスクラムを快活に聡明に広げゆく青春であり、人生であってください。その一つの秘訣があります。
 それは、「古い友人を大切に、新しい友人をつくる」ことです。この世で最も尊く、最も美しいものは友情です。友情こそ人生の勝利と栄光の縮図でありましょう。
 友情を大切にする人こそ、真の世界市民です。平和の創造者なのです。
 一口に友情といっても、国と国の友情もある。政治や経済の次元での交流もある。それはそれで大事だが、それだけでは弱い。時に、力や利害が幅をきかせて、ぶつかってしまうことがあるからです。
 だから、人と人を結ぶことです。文化や教育の交流で、人間と人間、民衆と民衆、青年と青年が友情で結ばれていれば、平和は揺るがない。私が、お隣の国・中国との友好を訴え、10回にわたり訪問してきたのも、この信念からです。

 35年前の1980年の4月、私はお招きを受けて、5度目の訪中の旅に出ました。
 連日、諸行事や会見が続く中、中国側のご配慮で景勝の地「桂林」を案内していただきました。
 「桂林の山水は天下に甲《かん》たり」──その山水は天下第一なりと、讃えられた桂林です。地面から突き出たように天に伸びる山々が、漓江《りこう》の静かな流れを帯のようにまとっていました。
 川下りの船着き場に下りていくと、岸辺で子どもたちが遊んでいました。一緒に記念のカメラに納まり、「一生懸命に勉強して、立派な人になってくださいね」と、一人一人に声を掛け、ささやかな日本のおみやげを渡しました。
 船を待っていると、今度は、2人のかわいらしい薬売りの乙女に出会いました。
 利発な彼女たちが、「薬は何でもそろっています。お好きなものをどうぞ」と言うので、私は自分の頭を指さしながら、ユーモアを込めて、「それでは、頭の良くなる薬はありませんか」と尋ねました。すると、にっこり笑って、こう言うではありませんか。
 「その薬なら、たった今、売り切れてしまいました!」と。
 明るい笑顔が広がりました。
 あたりは春の雨で、煙っています。案内してくださった方が、「煙雨《えんう》の桂林が、一番、美しいのです」と教えてくれました。
 船に乗ると、中国の山水画そのものの世界が広がっていました。いつしか雨は上がり、霞がかった奇峰《きほう》の数々が水面《みなも》に影を落としていました。両岸には人々の生き生きとした生活がありました。
 終点の陽朔《ようさく》に着くころには、時折、陽も差してきました。漓江の川面が青磁色に光り始めました。晴れてもまた美しい桂林でした。
 船着き場を下りて、名残を惜しんで漓江を振り返ると、戻る船が一艘、進んで行きます。
 ──旅人を楽しませる知恵、温かくもてなす心に満ちた中国の人と大地に感謝しつつ、私はシャッターを切りました。

 実は、桂林の一帯は、3億年前は海底だったそうです。やがて石灰岩の巨大な大地が地殻変動で隆起し、水の浸食によって長い時間をかけて、不思議な形の山々が生み出されたといいます。
 長遠な大自然の営みによってつくられた偉観を眺めつつ語り合った中国の友人が、お国の故事成句を教えてくれました。
 「兼聴則明、偏聴則暗(あわせ聴けばすなわち明るく、偏《かたよ》り聴けばすなわち暗し)」──多くの人と出会い、広い心で意見を聞けば理解が深まる。一方の話だけ聞いているだけでは、物事は明らかにならない、という意味です。
 悠久の中国の歴史が育んだ「平和の知恵」が光っていました。
 思えば、1974年の5月から6月にかけて、私が初めて中国を訪れた時、首都・北京で私は一人の少女に、こう尋ねられました。
 「おじさんは、中国に何をしに来たのですか?」
 私は即座に答えました。
 「あなたに会いに来たのです」
 私の偽らざる真情でした。その通りに私は、中国の首脳や各界の指導者とお会いする一方、庶民の方々とも、青年や児童たちとも可能な限り語り合いました。
 ある時は、大学で学ぶ学生たちと、またある時は、工場で汗をにじませて働く労働者とも。
 全長約430キロの大河・漓江は、遠くから眺めると、流れているのかどうかわからないほどです。しかし、確かな大きな力で、岩を削り、大地を潤し、絶えず上流から下流へと進んでいます。
 私が対談した大歴史家のトインビー博士は、真に歴史を創るものは、目立たない「水底《みなそこ》のゆるやかな動き」であると言われていました。世間をにぎわすニュースや出来事は、むしろ流れの表面にすぎないと達観されていたのです。
 そして博士から私は、たとえ地味であっても、心と心を深く結びゆく対話と友情を、さらに世界へ広げることを託されました。
 日蓮大聖人は、「他人であっても心から語り合えば、かけがえのない命にも替わりうるのである」(御書1132㌻、通解)と仰せです。一対一の友情と信頼が集まれば、友好の大河となります。そこに、押しとどめようのない平和の流れが生まれます。新たな友情が、新たな歴史を創るのです。

 中国の「人民の父」周恩来総理、「人民の母」鄧穎超先生ご夫妻と私は、黄金の友情を築くことができました。
 中国は、日本と2000年以上のお付き合いがあり、漢字や仏教など、私たちがさまざまなことを学んできた「文化大恩の国」であり、「兄の国」です。
 その国を第2次世界大戦で、日本の軍部政府は蹂躙しました。戦火は美しき桂林にも及び、5回の渡海の失敗を乗り越えて日本に仏教を伝えた鑑真ゆかりの寺も、大半を消失しました。この残酷な歴史を、私たちは決して忘れてはいけません。
 1968年9月8日。私は信頼する後継の青年たちの前で、「日中国交正常化提言」を発表しました。当時の日本政府は中国を敵視しており、私は、世間から嵐のような非難中傷を受けました。
 そんな中、私の提言に注目し、高く評価してくださった方が、周総理でした。後にそれが、両国の国交正常化(72年9月)のきっかけの一つとなりました。
 総理は、中国とアジア、ひいては世界の行方を決定づけた「20世紀の諸葛孔明(『三国志』の名宰相)」ともいうべき方でした。
 新中国が誕生した49年に、総理兼外務大臣に就任されました。「生命不息 戦闘不止(命ある限り、戦いを止めず)」との信念のまま、民衆に尽くし抜き、76年1月に逝去されるまで総理を務められたのです。

 74年12月、周総理と私は、「一期一会」の出会いを果たしました。その時、総理は重い病で入院中でした。それでも私との会見を望んでくださったのです。医師からも “命の保証ができません” と忠告されました。私も総理のお体が心配で、いったんは会見を辞退しました。しかし、総理は、「どんなことがあっても会わねばならない」と言われ、私に直接、両国友好の後事を託してくださったのです。
 その席上、総理は日本に留学された時のことを、懐かしそうに振り返られました。私は「桜の咲くころに、ぜひ、もう一度、日本に来てください」と申し上げました。総理は「願望はあります。が、実現は無理でしょう」と答えられました。
 桂林を訪れた5回目の訪中の際、北京のご自宅を訪問し、鄧穎超先生と、亡き周総理の思い出を語り合いました。その日に行われた歓迎の集いで、鄧先生は総理との大切な思い出を教えてくださいました。「若き日、恩来同志と二人で約束したことがあります。それは、人民のために奉仕するということです。死んでもこのことは同じです」と。
 総理との約束の通り生き抜かれた鄧先生もまた、民衆奉仕の信念の方でした。何度も出会いを重ね、私たちを家族のように大切にしてくださいました。
 最後にお会いしたのは90年5月のこと。会見が終わり、ご自宅を後にしようとした時でした。立つことも歩くことも困難だった鄧先生が、両脇を支えられて玄関の外まで出てこられたのです。一度乗った車を降りて、再び、ご挨拶しましたが、それこそ私たちが見えなくなるまで、じっと見送ってくださったのです。そのお姿は、今も瞼に焼き付いて離れません。
 わが創価大学には、周総理との永遠の友情を誓い、中国からの留学生と共に植樹した「周桜」があります。また、鄧穎超先生の来日を記念した「周夫婦《めおと》桜」も植えられています。「周桜」「周夫婦桜」のもとには、ご夫妻を偲んで多くの人が訪れます。
 私は、尊敬してやまない鄧先生に、詩「縁《えにし》の桜」を捧げました。

 時は去り時は巡り
 現《うつ》し世に移ろいあれど
 縁の桜は輝き増して
 友好の万代なるを語り継げり
 ……

 うれしいことに、詩をもとにして「桜花縁《おうかのえにし》」という曲が生まれました。中国大使館の関係者にもご参加いただく創大の観桜《かんおう》会で披露されるなど、日中両国の青年に歌い継がれています。
 国交正常化後、新中国から初の正式な留学生を受け入れたのは、創価大学です。その創大から中国への留学生は、1000人を超えています。創大生が日中友好の先頭に立っていることほど、創立者としての喜びはありません。
 中国は、老朋友《ラオポンヨウ》(古い友人)を大切にします。長く友情を育んでいくことを重んずる「友誼の国」「信義の国」です。
 いやまして両国の間に永遠に万朶と友好の花が咲き続けることを、私は願ってやみません。未来部の皆さんが、私が築いた日中友好の「金の橋」を渡り、平和と友情の道をさらに大きく開いてくれることを楽しみにしています。

 周総理も、鄧先生も、「友情の偉人」でした。名もなき民衆を、わが家族のように大切にし、たった一度の出会いですら忘れない、慈悲と真心の英雄でした。
 「自分と縁《えん》あるものを、一つ一つ大切にし、決して断絶してはならない」――これは、周総理の若き日の決意です。
 大変な時に、友情の真価がわかります。皆さんも、友人と意見がぶつかったり、ちょっとしたことで誤解してしまったりすることもあるでしょう。しかし、そうしたことを乗り越えるたびに、友情は鍛えられるのです。本物の友情は築けるのです。
 ゆえに、焦らずに新たな出会いを重ね、自ら声をかけて友情を結び、育んでいってください。
 自らが「善き友」になっていけば、「善き友」の連帯は、さらに広がります。そのなかで、自分では気がつかない自分の善い点も発見できます。友情こそ、人生を力強く生きる勇気の源泉なのです。
 ゆえに、私は申し上げたいのです。君よ、貴女《あなた》よ、平和な地球を築きゆく「友情博士」たれ! と。

参考文献は、アーノルド・J・トインビー著 『試練に立つ文明』 深瀬基寛訳(社会思想社刊)、陳舜臣著 『九点煙記―中国史十八景―』 (毎日新聞社刊)。

第12回 デンバーの湖     (2015.3.1付 未来ジャーナル)

青春詩人よ、詩心で希望の明日を開け


 この春、卒業を迎える皆さん!
 晴れの門出、誠におめでとう!
 皆、本当によく頑張りました。
 私は、一人一人の健闘を讃えて、皆さんのご家族や、未来部の担当者の方々と一緒に、大拍手を送り、祝福の万歳を叫んでおります。
 卒業は、ここまで自分を育んでくれた方々に感謝を表し、その恩返しに、より立派に成長していくことを誓う出発でもあります。
 わが卒業生が、一人ももれなく、偉大な勝利の青春を飾りゆかれることを、私は祈ります。

 私がお招きいただいた、世界の大学の卒業式も、それぞれに清々《すがすが》しい決意が漲っていました。
 特に、野外で行われたアメリカの名門デンバー大学の卒業式は、実に晴れ晴れとした、伸びやかな式典でした。
 コロラド州の州都デンバーは、全長4500キロに及ぶロッキー山脈の大自然に抱《いだ》かれています。
 「平原の女王都市」とも呼ばれ、1年のうち約300日が晴天という気候です。交通の要衝として栄え、全米最大規模の空港もあります。多様性あふれる国際都市であり、教育都市でもある。“アメリカ人が移り住みたい街” の第1位に選ばれたことがあります。
 この憧れの地に立つのが、1864年創立のデンバー大学です。
 卒業式は、抜けるような青空の下、卒業生とそのご家族、さらに留学生とも麗しい交流を重ねてきた市民の方々など、5千人が列席して行われました。1996年の6月のことです。
 この席上、私は光栄にも「名誉教育学博士号」をお受けしました。壇上で紹介され、リッチー総長から名誉学位記を授与していただき、握手を交わしました。すると、そのあと、突然、卒業生に祝辞をと、求められました。事前にお話はなかったので、原稿などは、もちろん準備していませんでした。
 さあ、どうするか……。マイクの前に立った私は、とっさに、心強い味方を見つけたのです。
 それは、天空の太陽でした。また、彼方にそびえるロッキー山脈でした。そして、その上に浮かぶ月でした。この三つの “わが友” を指しながら、私は若き英才たちに語りかけました。
 「太陽は燦々と輝いています。月もまた、皆さま方に輝いています。太陽は情熱。月は知性です。ロッキー山脈は厳然たる信念の姿で皆さま方を見守っています」と。
 そして簡潔に、感謝とお祝いを述べて、「皆さま方の前途に、栄光あれ! 勝利あれ! そして皆さま方が全世界に羽ばたいていかれることを念願して、私のあいさつを終わります。サンキュー!」と結びました。
 皆、明るい拍手と歓声で応えてくれました。
 いつ、どんな時にも、空を見上げ、世界を見渡せば、そこには、共に生きる仲間がいます。
 人間だけではありません。太陽も、月も、星々も、山も、川も、海も、木々も、花々も、鳥も、魚も、虫も……。その仲間たちと楽しく朗らかに、生きる喜びをうたいあげていく──それが「詩心」といってもよいでしょう。

 ああ、美しきかな、
 ひろびろとした空、
 琥珀《こはく》色に波打つ穀物の穂、
 実り豊かな平原にそびえる
 厳《おごそ》かな紫の山々……

 これは、アメリカの第2の国歌といわれる「アメリカ・ザ・ビューティフル(美しきアメリカ)」の一節です。作詞者のキャサリン・リー・ベイツという女性は、ロッキー山脈の山の頂から望むコロラド州の絶景に胸をふるわせ、この詞を生み出したといいます。
 豊かな大自然に恵まれたコロラド、そしてデンバーの天地は、多くの詩人から愛されてきました。
 私が若き日から愛読してきた民衆詩人のホイットマンも、デンバーにほれ込んでいた一人です。
 デンバーの名所であるフェリル湖は、「コロラドの桂冠詩人」と呼ばれたトマス・フェリルの名を冠した湖です。
 諸行事の合間に、デンバーの友人が案内してくれました。
 創価学会の初代会長である牧口常三郎先生は、大著『人生地理学』で、“山と結合して絶景を表し、人の心を感動させるのが、湖の最も顕著な特徴” と論じられました。
 雪を冠したロッキー山脈の雄姿と、天の鏡のようなフェリル湖――私は眼前に広がる絵巻に胸を高鳴らせ、カメラを向けました。
 写真もまた、「目で詠む生命の詩」です。

 この96年に、デンバーでうれしい再会を果たした友人がいます。
 デンバー大学の副学長で、世界的な国際法学者のベッド・ナンダ博士です。博士とは、94年に創価大学でお会いして以来、交流を重ね、対談集も発刊しました。
 デンバーのご自宅にもお招きいただき、キャサリーン夫人、愛娘アンジェリーさんと、真心あふれる歓迎をしてくださいました。
 ナンダ博士は、1934年、インド北西部のグジランワラ(現在はパキスタン領)に住むヒンズー教徒の家庭に生まれました。
 しかし、12歳の時、インドとパキスタンが別々の国として独立した直後に、 “宗教の違い” によって迫害を受け、故郷を捨ててインドへ移住しなければならなくなりました。
 それでも、ナンダ青年は、負けじ魂を燃え上がらせ、決然と勉学に励みました。インドを代表するデリー大学やアメリカ屈指の名門エール大学で学び、やがて、国際法の大家となり、世界法律家協会の会長を務められました。
 博士が語ってくださった幼き日のエピソードがあります。
 「あの人は悪い人だ」と誰かがいうと、お母さんから、「いいえ、その人にも必ずよいところがあるはずです。私たちに今、それが見えないだけですよ」と、さとされたというのです。
 人間への信頼と目覚めを促されたお母さんの教えを胸に、博士は「自分と異なるものを尊敬する」生き方を貫いてこられたのです。
 その「開かれた共生の哲学」を、ナンダ博士は、東西の創価学園でも、また、アメリカ創価大学でも、詩心豊かに示してくださいました。

さあ、今日も名詩のような一日を勤行から出発!

 「あらゆる知性の宝石を、あらゆる感情の花を民衆の手にあたえることが、詩人たるもののすばらしいつとめ」とは、アメリカの思想家で詩人のエマソンの言葉です。
 私は常々、「指導者は詩を学べ」「詩心を持て」と語ってきました。
 詩心のない人、詩心のない指導者は “機械” のようになってしまうからです。詩こそ、人間性の証しといえるからです。
 実は、未来部の皆さんは毎日、気付かないうちに、詩を読んでいるのです。
 皆さんは朝晩の勤行で、「爾時世尊……」から始まる方便品に続いて、「自我得仏来……」から始まる寿量品の自我偈を読誦していますね。
 自我偈の「偈」とは、「詩」のことです。釈尊の一番大切な教えが、詩として、リズミカルに心に響くように伝えられているのです。
 日蓮大聖人は、この自我偈を、法華経二十八品の「魂」であると仰せです(御書1049㌻)。
 それほど、すばらしい最上の生命の讃歌をうたいあげる儀式が、毎日の勤行なのです。
 私の恩師・戸田城聖先生は、自我偈を「仏自身の経文であり、われわれ自身の経文なのです」ともいわれていました。
 「仏」とは遠い存在ではない。自分自身が永遠の「仏」の生命なのだ──これが自我偈の心です。
 勤行を通して、私たちは、最も強く、正しく、深く、何ものにも負けない、自らの大いなる生命に目覚めていくことができるのです。

 私と妻が友情を重ねてきた、アメリカ・エマソン協会の元会長であるワイダー博士は「詩人は、真実を叫ぶ存在です。詩人は、社会に正義がもたらされるよう声を上げるのです」と述べておられます。
 私は思います。自身の使命に目覚め、何ものも恐れずに真実を叫び、正義の行動と友情の対話を社会に広げゆく創価の友こそ、真の「詩人」にほかならない、と。
 「詩人は自然とおなじように、いつだって陽気でほがらかである」──アメリカの思想家ソローの箴言です。
 私はこの言葉に触れるたび、皆さんのお父さん、お母さん、そして世界で活躍する仲良き創価家族の姿を思い浮かべます。
 若くして妙法を持《たも》った皆さんもまた、朗らかな詩人です。
 「学び」に目覚め、民衆のために学びぬく人は「勉学詩人」です。
 「平和の尊さ」に目覚め、連帯を広げゆく人は「友情詩人」です。
 「父母の愛情」に目覚め、成長する人は「親孝行詩人」です。
 そして「自身の内にある無限の可能性」に目覚め、挑戦の日々を送りゆく人は「青春詩人」です。
 毎朝、最高の生命の詩を読んで出発し、一編の詩のような充実した一日を舞う。毎夜、再び最高の生命の詩を読んで、明日への成長を誓う。
 皆、自分だけの、自分にしかできない詩を綴る偉大な詩人です。偉大な指導者になる人なのです。
 その君に、貴女《あなた》に、絶望や諦めはありません。あるのは希望! 希望あるのみです。

 デンバーの広宣流布の出発は、わずか数人でした。しかし、それから30年。私が訪れた96年には、数千の地涌の連帯に広がっていました。
 「開拓の心」に燃える英雄たちに、私は呼び掛けました。
 「ロッキー・マウンテンの無限の天空が、皆さまの無限の希望を象徴しています」
 「希望をもち、希望を、ひとつひとつ実現しながら、毎日を『忍耐』と『勇気』で生き抜いていただきたい」と。
 皆さんの目の前にもまた、「未来」という果てなき大空が広がっています。
 大山脈の如き信念に生きる君と私には、貴女と私には、その天空を自由に駆け巡る「勇気の翼」がある。そして「師弟の翼」がある。
 新たな旅立ちの日を迎える、愛する皆さんに、私が22歳の時に詠んだ詩「若人」の一節を贈ります。

 若人よ
 今日の戦いに 勇敢であれ
 明日の理想を 祝福せよ
 過去の夢を 忘れ去れ
 未来の夢に 起《た》ち上がれ

 若人よ
 進め 進め
 永遠に 前へ──

 「アメリカ・ザ・ビューティフル」の歌詞はハロラン芙美子著『アメリカ精神の源』(中央公論社刊)から。エマソンの言葉は『エマソン選集6 代表的人間像』 酒本雅之訳(日本教文社刊)。ソローは『市民の反抗』飯田実訳(岩波書店)。

第11回 ドミニカの庭園      (2015.2.1付 未来ジャーナル)

一番苦しんだ人が一番幸福に

 はじめに、自由自在に地球を一周する思いで、思い浮かぶ国の名前をあげてみよう。みんな、幾つくらいあげられるかな。
 実に、たくさんの国があるね。
 私が世界への旅を開始して、今年で55周年。今、私たちSGI(創価学会インタナショナル)の平和と文化と教育の連帯は、192カ国・地域にまで広がりました。
 いずこにも、大変なところ、目立たないところで、民衆のため、社会のために奮闘している友がいます。そうした “真の英雄” に、一人でも多くお会いし、労苦をねぎらいたい、讃えたい。そして、一緒に未来への平和と繁栄の道を開いていきたい。この思いで、私は世界中を走ってきました。
 その一つが、「カリブの宝石」と呼ばれる中米のドミニカ共和国です。尊き友の心がダイヤモンドの如く光る国です。28年前の1987年2月に訪問しました。

 カリブ海で2番目に大きな島・イスパニョーラ島の3分の2を占めるドミニカ共和国は、九州と高知県を合わせたほどの広さで、約1000万の人々が暮らします。
 晴れ渡る青空、太陽に輝く白い砂浜、澄みきった大海原、人情豊かで陽気な人々──。まるで、おとぎの国のような天地です。世界王者となった、野球の強豪国でもあります。
 1492年、新大陸に到達したクリストファー・コロンブス(クリストバル・コロン)がヨーロッパ人として初めて、この島に上陸しました。翌年、移住者たちによって建設された最初の町が、今日の首都サントドミンゴでした。
 スペインの植民地として栄えたサントドミンゴには、今でもいたるところに、中世からの街並みが残っています。新大陸で最初の病院や大学も、ここで誕生しました。旧市街は、ユネスコの世界遺産に登録されています。
 大変、日本に親しみを持つ国です。それは、日本から移住した方々が、汗と涙と努力によって信頼を勝ち広げてきたからです。
 第2次世界大戦後、荒廃した日本では、国の政策として中南米への移住が奨励され、ドミニカ共和国にも大勢の日本人が渡っていきました。
 しかし、豊かな耕地と聞かされていた土地は、石だらけで灌漑の設備もなく、実際には耕作は不可能でした。ジャングルに分け入り、バナナやオレンジで空腹をしのがねばならない人もいるほどでした。移民ではなく「棄民《きみん》(国から棄てられた人々)」といわれ、最終的には8割以上の方々が、この国を去らねばならなかったのです。

 ドミニカの広宣流布は、移住の苦労を重ね、踏みとどまった草創の数少ない同志から始まりました。1966年に支部を結成し、来年で広布50周年の佳節を迎えます。
 日本から送られてくる聖教新聞や大白蓮華を、皆でボロボロになるまで回し読みして、この地に生きる使命を何度も確認し合いました。そして、「良き市民」として、誠実に粘り強く信頼の根を張り、社会に尽くしていったのです。
 支部ができた翌年、桜の咲くころに、日本に一時帰国した友と、懇談する機会がありました。日焼けした頬を涙でぬらしながら、苦労を語ってくれました。
 私は、心で涙しながら、この尊き開拓の丈夫《ますらお》に語りました。
 「ドミニカの大地に信心の根っこを張り、あなたが大樹として育ってください」
 「今は苦しいかもしれないが、必ずいっぺんに花咲く時が来ます。仲良く、団結して、包容力をもって進んでください」
 この友は、ドミニカSGIの中心者となり、良き同志と力を合わせて、社会で実証を示していきます。やがて日系人協会の会長も務めるようになりました。
 87年2月、夜のサントドミンゴ近郊の空港で、出迎えてくれた彼の肩を抱き、私は「もう大丈夫だよ。長い間、本当によくがんばったね」とねぎらいました。多くの友が、小旗を振って歓迎してくださいました。鼓笛隊が歓迎の演奏をしてくれ、未来部員も目を輝かせていました。
 異体同心の団結で、人材と幸福の花を爛漫と咲き薫らせていたのです。雨が上がった空には、ふくよかな月と、またたく星座が見守ってくれていました。
 「冬は必ず春となる」(御書1253㌻)です。信心を貫いた人が、最後には必ず勝ちます。
 4日間の滞在中、行事の合間のひととき、宿舎の窓から外に目を向けると、彼方に、陽光に照らされた海がエメラルド色に輝いていました。眼下には、美しく整備された緑の庭園が広がっていました。そして、そこには黙々と庭の整備を続ける方がいました。
 自分がなすべきことに、黙々と取り組む陰の人がいて、皆の心が輝く。その人こそ “真の英雄” だ──ドミニカの同志の姿と重ね合わせ、私は合掌する思いで、静かにシャッターを押しました。

 この訪問で、私はバラゲール大統領とお会いしました。
 質素で「預金口座をもたない大統領」としても有名です。週末にはヘリコプターで何百キロも移動し、地方の村を訪ね、人々の要望に真剣に耳を傾けてきた奉仕のリーダーです。だから、全土の地名が、すべて頭に入っていました。
 大統領は少年時代から、天才詩人として名を馳せました。貪るように本を読み、詩の才能を培い、胸中に人間愛を育みました。
 14歳で詩集を発表し、17歳で文学賞を受賞。大学に進学しましたが、ほとんど独学でした。遠距離通学と仕事のため、大学に通うことすら難しかったからです。それでも、時間をこじあけて、猛勉強。優秀な成績を収め、フランスへの留学も勝ち取りました。やがて、弁護士、ジャーナリスト、政治家として大活躍していきます。
 内戦後の混乱から安定へ、大統領として、「奇蹟」と呼ばれる繁栄へ導きました。私がお会いしたのは、ひとたび政権から離れた後、86年の選挙で、もう一度、大統領に選ばれた半年後のことでした。
 バラゲール大統領は環境保護にも力を入れ、国土には今、豊かな森と農地が広がり、その先見は世界の指導者が称賛しています。
 私は大統領との会見の席上、大統領が青春時代につくった詩「自立」を朗読しました。
 「僕はいつも毅然さと誇りを保ち続けてきた。それを失うようなことを微塵も考えたことはない。
 僕は決して自分に鎖をはめることを望まなかった」
 「それはただ、自立、自由意志を求めつつ完璧な自分自身を宿した人間になりたいからだ」
 自分は自分らしく、自分自身に生き切る。ありのままで誇り高く進むのだ!──青春の魂の叫びが響いてきます。
 大統領は、長年の激務と白内障で、両目の視力を失っておられました。私が日本語で詩を朗読し、通訳がスペイン語で読み上げている時、大統領が穏やかな表情で、うれしそうに聞いてくださった光景は、今も忘れられません。目には、光るものがあったようにも見えました。
 大統領は謳っています。
 「何ものもわが旗を切り裂くことはできない 柏の木は折り曲げられても 決して軋《きし》まず その枝にとまった鳥の囀《さえず》りに耳を傾ける」
 青春の誓いに生き抜く──その信念の旗を高く掲げ続ける人は、どんな苦難も嘆かない。いかなる逆境にあってさえも、自分を頼りにする者を抱擁し、断じて見捨てることはない、と。
 青春の信念の道を、一生涯、一歩また一歩と歩み抜いた人こそが栄光をつかむことができます。
 労苦を教師に! 努力を友に!
 苦しみの中でも、生命の讃歌を朗らかに謳い上げながら!

青春は強気でいけ! 真の勝利者とは最後まであきらめない人
 大統領とお会いした後、私は最高位勲章「クリストバル・コロン大十字勲章」を拝受しました。授章式を終えた後、宿舎に戻った私は、待っていたドミニカの友に、直ちにメダルをお見せしました。この栄誉は、ただただドミニカの同志たちの功労への勲章である。ゆえに、一人一人の胸につけて差し上げたいとの思いからでした。
 一番苦しんだ人が、一番幸福になる権利があります。
 一番苦労した人が、一番の栄光と勝利の人です。
 一番努力した人が、一番大きな花を咲かせていけるのです。
 これが妙法の世界です。宇宙と生命と人生を貫く、厳粛なる因果の理法です。
 苦労した人は、友の痛みに誰よりも同苦できます。
 ドミニカの同志は、2010年に起こった隣国のハイチ大地震の際にも、いち早く救援に当たってくれました。
 さらに、同じカリブ海に浮かぶ、キューバの同志とも励まし合いながら、平和のスクラムを仲良く広げてくれています。
 「陰徳あれば陽報あり」(御書1178㌻)とは、日蓮大聖人の仰せです。人知れぬ労苦は、必ず大きな果報となって現れます。
 花は、咲く時期も、咲き方も、それぞれ異なる。人間もそうです。努力は、いつか必ず花を咲かせます。だから、決してあせることはありません。
 栄光と勝利と幸福の花を!
 自分にしかない使命の花を!
 その花がまた、周囲に笑顔を広げていく。社会に、世界に、春を告げる大輪となるのです。
 2月は、「立春」を迎えます。まだまだ厳しい寒さのなか、 “勝利の春” を目指し、勉強やクラブ活動に懸命に励む皆さんの雄姿が浮かんできます。特に、奮闘する受験生の健康と栄光を、私は祈らずにはいられません。
 ドミニカの思想家ペドロ・エンリケス・ウレニャは、「行動をしないよりは、未熟であっても試みることが大切である」と、挑戦の大切さを教えています。
 誰が見ていようがいまいが、地道に積み重ねた努力は、間違いなく自身の力となります。
 労苦こそ、青春の “根っこ” です。ほかの人には分からなくても、少しずつ、しかし着実に、心身を育む養分を蓄え、人格をつくっているのです。
 最後まであきらめない人が、真の勝利者です。最後まで努力し抜いた人が、偉大な幸福博士です。
 今月11日は、戸田城聖先生が誕生して満115年の佳節です。先生は、私たち青年に、「人生は強気でいけ!」と励まされました。
 私も、皆さんに、「一度しかない青春を強気でいけ!」「『絶対に勝つ』と決めて頑張り抜こう!」との言葉を贈りたい。
 私がこれまで世界で訪問できたのは、54カ国・地域です。訪れたい国は、まだまだたくさんあります。でも、行けなかった国々とも、後継の皆さん方が、私に代わって友情を深め、平和の連帯を強めてくれると確信しています。
 だから、私は幸福です。

第10回 ネパールの頂      (2015.1.1付 未来ジャーナル)

君よ、粘り強く最高峰の青春を

 新しい一年の始まりに当たり、皆さんに、一つ質問をします。
 「王」という文字は、「三」という字を書いて、「一」の字を縦に書き表すね。これは何を意味していると思いますか?
 日蓮大聖人の御書には、「三」は天と地と人を表し、それを貫いて少しも動かない存在を「王」というと説かれています
 そして、その王の象徴こそ、世界一の大山脈・ヒマラヤなのです。

 王者の山・ヒマラヤは──
 何ものにも揺るがない父の如く、堂々とそびえています。
 全てを優しく包み込む母の如く、人々を見守っています。
 肩を組んで試練に挑む皆さんの如く、天空を目指しています。
 20年前の1995年11月。私は、美しき精神の大国・ネパールを訪れました。
 名門・国立トリブバン大学での式典などを終えた後、首都カトマンズから車で1時間ほど走り、郊外へ向かいました。“ヒマラヤを仰げる丘へ”と、地元の方々が真心こめて案内してくれたのです。
 ただ、天候によって、必ずしも見られるとは限りません。この曰の夕刻も、到着するまでは、あいにく雲が出ていました。
 カメラを手に少し歩くと、それまで頂をおおっていた雲が、カーテンのようにサッと開《あ》きました。そして白雪を身にまとった王者の峰が、夕日の“スポットライト”に浮かび上がったのです。
 チャンスは一瞬でした。
 シャッターを切ることびできた、ほんの数秒間だけです。あたりは天の照明をゆっくりと落とすように、夕闇に包まれていきました。夕ごはんのしたくをする煙も上がっています。
 一瞬の出あい。しかし、天を衝くヒマラヤは、無言にして無限の励ましを贈つてくれました。

 「世界広布新時代 躍進の年」、私は皆さんに呼びかけたいことがあります。
 それは、この一年、自分自身の最高峰を目指そうということです。
 私の恩師・戸田城聖先生は、「青年は、望みが大きすぎるくらいで、ちょうどよいのだ」とよく、言われました。
 大きな希望を抱いて最高峰に挑むことは、青年の特権です。そこに青春の「躍進」が生まれます。
 「躍進」の「躍」には、「足」があります。また右側の「翟《てき》」は、鳥が羽ばたいて飛び立とうとする姿に由来するといいます。
 大地にどっしりと足をつけ、他人と比べて焦るのではなく、自分らしく粘り強く努力を重ねていく。そして、希望の大空を見つめ、無限の可能性の翼を広げて、飛翔していくのです。
 常に、高みへ向かって、少しずつでも前進していく人が、青春の勝利者です。
 ネパールにも、そうした皆さんの仲間が、いっぱい光っています。

 ネパールは、インドと中国の間に位置します。大きさは、北海道の2倍ほどです。
 世界最高峰のエべレスト(標高8848㍍)を頂点としたヒマラヤ山脈をはじめ、亜熱帯のジャングルなど、壮大な自然に抱かれた国土に、30以上もの民族が調和しながら暮らしています。
 仏教の創始者・釈尊が誕生したのも、ここネパールです。
 ネパールは、“微笑んでいる人たちの国”といわれます。また、多くの偉大な詩人を生んだ「詩心の大国」です。
 ネパールを代表する人道主義詩人サマは謳っています。
 「エべレストのごとく、常に毅然として揺るがず、心に真実と美と永遠を抱こう」と。
 ヒマラヤ山脈を撮影した日、私は、あの丘で、地元の村の子どもたちと忘れ得ぬ友情を結びました。20人ほどいたでしょうか、珍しそうに、異国から来た私たちを遠巻きに見ていました。
 私が「おいで、おいで」と招くと、ニコニコと人懐こく寄ってきてくれました。皆の澄んだ瞳が、宝石のようでした。あどけない笑顔は、蓮華の花のようでした。美しい心が、ひときわ輝いていました。
 私は、国の宝、世界の宝である“未来の使者”たちに、心を込めて語りかけました。
 「ここは仏陀(釈尊)が生まれた国です。仏陀は、偉大なヒマラヤを見て育ったんです。あの山々のような人間になろうと頑張ったのです。堂々とそびえる勝利の人へと自分をつくり上げたんです。みなさんも同じです。すごい所に住んでいるのです。必ず、偉い人になれるんです」
 皆、真剣な眼差しを向けてくれました。通訳の方を通しての語らいでした。それでも、心と心は通い合っていました。私には、それがはっきりと分かりました。
 私は、涼やかな目を見つめて言いました。
 「皆、勉強して、偉くなってください」
 最高峰の人格の人・釈尊の生まれた国の若人たちよ、徹して学び続ける求道の青春を! そして、最高峰の価値ある人生を! 私はそう願って、やみませんでした。
 皆、ニッコリと白い歯をこぼして応えてくれました。その場を去る時、一生懸命に手を振り、走って追いかけてまで、私たちの車を見送ってくれた姿が、命に焼きついて離れません。
 車中、私の胸には、2日前にお会いしたネパールのビレンドラ国王の言葉がよみがえっていました。国王は穏やかな笑みをたたえつつ、こう語られました。
 「教育がいかに大切か、私たちは知っています。教育は若き世代に対し、将来、彼らが直面するであろう困難と諸問題に打ち勝つ力を与えます」
 「学は光」です。私は子どもたちの未来に光あらんことを、心から祈らずにはいられませんでした。
 うれしいことに、私が出会った子どもたちは、立派に成長し、理学療法士や公務員、ドライバーなどとして、ネパールの天地で活躍していると聞いています。

 ネパールの大詩人デウコタは詠みました。
 「我々は、この世界を理解しなくてはならない。臆病であってはならない。世界を直視し、勇気を奮い起こすのだ。
 この世に生きている間に、大空へと翼を広げるのだ」
 この詩を私が一緒に味わった、かけがえのない友人が、ネパールのマテマ元駐日大使です。
 大使こ自身も、この詩の如く生き抜いてこられました。
 私が大使と初めてお会いしたのは94年。大使が、トリブバン大学の副総長を務めておられた時に、東京にお迎えしました。
 大使はネパールではなく、インドで生まれ育ちました。当時の独裁政権にご家族が立ち向かい、数十年にわたる亡命生活を余儀なくされていたからです。
 大使が若き日、最も影響を受けたたのは、「貧しい人々のために行動しなければ」と、勇敢に戦った、親せきのおじさんの存在でした。
 おじさんは、政府の要職に就いていました。しかし、そうした地位を投げ捨てて、民衆の真の幸福のために立ち上がったのです。独裁政権によって、おじさんは処刑されましたが、その不屈の精神は、大使の命に深く刻まれました。
 おじさんは常に自身を導く「人生の灯台」であると、大使は私にこう語つてくれました。
 大使は勉学に励んで、イギリスに留学し、やがてトリブバン大学の教壇に立つことになります。
 70年代、学生たちが民主化を求めて運動を開始した時、大使も共に断固と立ち上がりました。権力から圧迫を加えられ、辞職しても、負けじ魂を燃え上がらせ、一貫して民衆のために働きました。そして、明年、ネパールは民主化を果たすことができたのです。
 徹して学び、行動する「勇気」。これこそ、一流の人物に共通する、人生で最も大切な美徳です。
 2l世紀の世界は、紛争やテロ、貧困や人権、環境問題をはじめ、重大な課題が山積しています。若き皆さんの活躍を待ち望んでいる人々が、たくさんいます。
 私はこの「勇気」の二字を、人類の宝である、君たち、貴女《あなた》たちに贈りたい。そして、その勇気の翼、未来の翼で、世界を駆け巡ってもらいたいのです。

悩んだときこそ決意の題目! 一歩また一歩と挑め
 私はトリブバン大学で、「人間主義の最高峰を仰ぎて──現代に生きる釈尊」と題する講演を行いました。その中で、“ヒマラヤの如き悠然たる境涯を確立することが、世界平和の原点”ということを訴えました。
 心の大きな人は、他人に嫉妬しません。心の豊かな人は、つまらぬ縁に紛動されません。
 皆さんには、何があっても悠然と乗り越えていく自身を築き上げるための、信心があります。題目があります。
 日蓮大聖人は仰せです。
 「須弥山(世界の中心の最高峰の山)の始めは一つの塵である。一を重ねれば二となり、二を重ねれば三となり、このように十、百、千、万、億……となっても、その生みの母はただ『一』なのである」(御書1237㌻、趣意)
 今の一歩の努力、一人の友情、一つの親孝行が、ヒマラヤの如き自身を創ります。
 その活力は題目です。なかなか一歩を踏み出せないなと思う時でも、決意の題目を唱えて、一歩また一歩と挑んでいけば、必ず一日一日と持続していけるのです。

 ヒマラヤ山脈は現在もなお、1年間に数㌢ずつ高くなっているといいます。 人間も同じく、最高峰の人は、常に成長し続けます。
 戸田先生も、一生涯、勉強し続けた偉人でした。亡くなる直前まで、私に「今日は何の本を読んだか」と尋ねられ、「私は『十八史略』(中国の歴史の物語)を読んだよ」と言われながら、将軍学を教授してくだざいました。
 ネパール滞在中のある夜、妻が「あら! 流れ星!」と空を見上げました。
 私は感慨を込めて答えました。
 「戸田先生が喜んでくださっていつるね」と。
 いつでも、どこでも、私の胸には、悠然たるエべレストの如き、世界最高の師匠がいます。ゆえに、弟子である私も、永遠に挑戦をやめません。日々勉強であり、日々努力です。
 そして、私の心には、未来部という成長し続ける人材山脈がそびえ立っています。これほど心躍る絶景はありません。
 最高峰を仰いで人生を登はんする人に、停滞はありません。後退も、敗北も、絶対にありません。最後は必ず、勝利の眺望を楽しむことができる。
 ここに「師弟」の道があります。愛する君たちよ、世界の友とスクラムを組んで、いよいよ高く、いよいよ朗らかに、いよいよ堂々と、人間の王者へ、育ちゆけ!
 これが、私の祈りであり、願いなのです。

 冒頭の質問の出典は、御書1422㌻(内房女房御返事)から。「王」の字の成り立ちについては“点・地・人を統合する者”との考え方が、古くから東洋思想に見られる。
2015-05-23 : 未来の翼 世界が君を待っている :
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