希望の虹 第11回 南アフリカ マンデラ元大統領

第11回 南アフリカ マンデラ元大統領  (2015.2.1付 少年少女きぼう新聞)

苦難は希望に変えられる!

 新しい一年が始まって1カ月。
 みんな、元気かな?
 はりきって目標を立てたけど、「三日ぼうず」でとぎれてしまったという人もいるかもしれない。
 でも、たとえ三日でも、がんばったことは、それだけ前進できたということです。だから、また、きょうから、挑戦すればいいんだ。
 あきらめないチャレンジのくりかえしのなかで、強くなるんです。
 本当に強い人というのは、たおれない人ではありません。何度、たおれても、また立ち上がって、前へ進んでいく人です。
 その人間の「真の強さ」を示し切ってこられた偉人が、私も尊敬する、南アフリカ共和国のネルソン・マンデラ元大統領です。
   *   *   *
 マンデラさんの国・南アフリカは、長い間、まちがった法律で「白人が上」「黒人が下」と決められていました。その国を、だれもが同じ人間として平等に大切にされ、だれもが夢や目標をもって生きられる「虹の国」に変えることを目指して、立ち上がったリーダーが、マンデラ青年です。
 そのために、いじめられ続け、自由をうばわれました。それでも、断じて負けませんでした。そして、自由を勝ち取り、黒人初の大統領となって、夢を実現したのです。
 多くの人は、何十年も続いてきた差別をなくすのは「むりだ」「むずかしい」と思っていました。しかし、マンデラさんは、「必ずできる!」と心に決めていました。
 あきらめない人には、希望がある。希望があるから、がんばれる。その人が、まわりに希望を広げるのです。
 私は2度、お会いし、平和のために語り合いました。おととし、95歳で亡くなられましたが、マンデラさんの笑顔は、今も私たちの心にかがやきわたっています。
   *   *   *
 1918年の7月18日、マンデラ少年は、南アフリカの小さな村で生まれました。外で友だちと遊ぶのが大好きな、元気な男の子でした。
 9歳のころ、お父さんが病気で亡くなったため、父親の友人のところへあずけられました。お母さんや妹たちと、はなれて暮らし、さびしい思いもしましたが、新しい家族や友だちと仲良くなり、すくすくと成長していきました。
 しかし、そのころの南アフリカには、肌の色のちがいによる差別がありました。それは、マンデラさんの青年時代に「アパルトヘイト」という、もっときびしい「国のきまり」になってしまいます。
 白人と黒人は、同じ所に住めない。結婚できない。黒人は教育も満足に受けられず、政治にも参加できませんでした。レストランや乗り物やトイレも別々。「黒人と犬は立ち入り禁止」という、ひどい、ひょうしきが立っている場所もありました。
 マンデラ青年は、こうした差別を目の当たりにし、多くの正義の友と語り合いながら、平等を勝ち取るために、力をつけていきます。
 学びに学んで弁護士となり、苦しんでいる人によりそいながら、行動を開始しました。そして “すべての南アフリカ国民の権利を守ろう” と人々に呼びかけ、連帯を広げていったのです。
 しかし──白人の政府は、人々が団結するのをおそれました。抗議をするために集まった、武器を持たない人々に向かって、警官が銃をうち、死人やけが人が出るような、悲しい事件も起こりました。
 世の中がくるっている時は、正義の人がいじめられます。
 太平洋戦争中、民衆の幸福を訴えた創価学会の初代会長・牧口常三郎先生、第2代会長の戸田城聖先生も、正しいゆえに、ろうごくに入れられました。それでも、お二人は信念をつらぬき通して、牧口先生は、ろうごくで亡くなられたのです。
 1962年、マンデラさんたちもまた、国家にさからった罪でたいほされ、裁判にかけられました。
 マンデラさんは、そこで堂々と主張しました。
 ──南アフリカは、そこに住むすべての人々のためのものであり、この理想のために私は生きぬく。理想を実現するためなら、私は死ぬこともおそれない、と。
 判決は、刑務所から一生、出られないという「終身刑」。マンデラさんが46歳の時のことでした。
 刑務所の生活は、ひどいものでした。体の大きさに合わない服に、そまつな食事。ひとりぼっちにさせられ、お母さんが亡くなっても、息子を事故で亡くしても、お葬式にいけませんでした。
 それでもマンデラさんは、屈しませんでした。大変になればなるほど、ほがらかでした。
 なぜなら、「苦難は希望に変えられる」と信じていたからです。
 マンデラさんは、ろうごくでも「通信教育」で、大学の勉強をしていきました。たくさんの本も読み続けました。人間は、どんな環境でも学ぶことができるのです。その姿は、困難ななかで学ぶ人々にとって、大きなはげましとなっています。
 そうしたマンデラさんの生き方に、見はり役の看守たちでさえ、味方に変わっていきました。
 入獄して16年後、マンデラさんは、ようやく娘のゼニさんと面会できました。彼女は産んだばかりの赤ちゃん、つまり、マンデラさんの孫を連れてきて、名前をつけてほしいと頼みました。
 彼がつけた名前は「ザジウェ」。「希望」という意味でした。この子が大きくなるころには、差別が昔話になり、みんなが仲良く暮らす「虹の国」になっているという希望を、その名にたくしたのです。
   *   *   *
 断じて正義の戦いをやめないマンデラさんをはじめ、南アフリカの民衆の戦いは世界の人々の知るところとなり、政府へ、ひなんの声が続々とあがりました。その声におされて、政府はついに、マンデラさんをかいほうすることにしました。
 じつに27年半、1万日におよぶろうごくでの戦いを勝ち越え、1990年2月11日に、マンデラさんは新たな一歩をふみ出しました。
 私もひときわうれしく、そのニュースに大拍手を送りました。その日は、生きておられれば、私の師匠である戸田先生の “90歳” のお誕生日だったからです。(今年は生誕115年)。
 マンデラさんは、その後、応援してくれた方々への感謝を伝えるために、世界を回りました。
 私が初めてお会いしたのは、この年の10月。ろうごくで読んだ雑誌の中に私の言葉が紹介されていて、マンデラさんは私をごぞんじだったのです。
 私は、多くの青年たちと熱烈に歓迎しました。72歳のマンデラさんは「英知の思想は不滅です」と出会いを喜ばれ、私たちは固い友情を結びました。
   *   *   *
 生きているかぎり、希望はあります。希望がなくなる時は、自分で自分のことを「もうダメだ」とあきらめた時だけです。
 苦しみだって、成長するためのバネになる。もしも、希望がなければ、自分で希望をつくろう! 見つけよう!
 マンデラさんは叫びました。
 「人生最大の栄光は一度も転ばないことではなく、転ぶたびに立ち上がることにある」と。
 ししの子のみなさんが一人ももれなく、希望あふれる人生を歩みゆくことを私は信じています。
 日蓮大聖人は、「冬は必ず春となる」(御書1253㌻)とはげまされています。
 君よ、あなたよ、平和な未来の春を呼ぶ、希望の太陽たれ!
2015-02-04 : 希望の虹 :
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