池田SGI会長指導選集 「幸福と平和を創る智慧」 第1部 第5章 5-1〜5-8

 第5章 自他共に幸福に

 この章を読むに当たって

 「人のために火をともせば・我がまへあき《明》らかなる」(御書1598㌻)とは、日蓮大聖人の御聖訓の一節です。他者の幸福のために尽くしていくことが、自らの幸福をも輝かせていくことを示しています。
 本章は、この日蓮仏法の目的ともいうべき「自他共の幸福」を目指す生き方に光を当てます。
 仏法では、わが生命と自らが縁する全ての環境は、密接に関連していると見ます。
 池田SGI会長は常々、「他人の不幸の上に自分の幸福を築かない」「〝自分だけの幸福〟もなければ〝他人だけの不幸〟もない」と訴えています。他者を顧みず、自分だけの幸福を追求するエゴイズムでは、崩れざる真の幸福は得られません。とともに、他者の幸福のために自分を犠牲にする生き方も真の幸福とはいえないでしょう。
 それでは、真の「自他共の幸福」の道は、どこにあるのか。
 大聖人が重視したのが、法華経に説かれる「不軽菩薩《ふきょうぼさつ》」の振る舞いでした。不軽菩薩は「一切衆生に仏性あり」との信念で、いかなる迫害にも怯まず、万人尊敬の行動を貫き、自らの仏性を輝かせていきました。
 万人に具わる仏性を開く鍵は「南無妙法蓮華経」の信心であり、それを自他共に実践しゆくなかに、日蓮仏法の説く「自他共の幸福」は築かれていくのです。

 5-1 「喜とは自他共に喜ぶ事なり」

 ここでは、御義口伝を拝し、自分も他人も共に幸福になっていくのが真の「喜び」であることを確認します。 また、そのための智慧と慈悲が「信心」の二字に納まっていることを示すとともに、「個人の幸福」と「社会の繁栄」が一致する時代を創るのが仏法者の使命であると強調しています。

【池田SGI会長の指針】
◎『法華経の智慧』から
              (第5巻、1999年9月刊)

 日蓮大聖人はこう仰せだ。
 「喜とは自他共に喜ぶ事なり」(御書761㌻)
 「自他共に智慧と慈悲と有るを喜とは云うなり」(同㌻)
 自分も人も、です。「自分だけ」では利己主義です。「人だけ」というのは偽善でしょう。自分も人も、共に幸せになっていくのが本当の「喜び」です。
 戸田先生は「自分が幸福になるぐらいは、なんでもない。かんたんなことです。他人まで幸福にしていこうというのが信心の根底です」と言われた。
 その「幸せ」の内容が、この御聖訓に、きちっと示されている。
 「智慧」と「慈悲」です。仏界の生命です。智慧があっても無慈悲では、生命は閉ざされている。また、それでは、本当の智慧ではない。慈悲があっても、智慧がなく、愚かであれば、自分も人も救えない。救えないなら本当に慈悲があるとは言えない。
 その両方が、ただ「信心」の二字に納まっているのです。大聖人は「所詮今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る時必ず無作三身の仏に成るを喜とは云うなり」(同㌻)と明快です。これこそが「歓喜の中の大歓喜」(同788㌻)なのです。
 戸田先生は「個人の幸福と社会の繁栄が一致しなければいけない」と言われた。
 個人の幸福と言っても、利己主義の幸福ではない。「自他共に智慧と慈悲」をもっていくという真の「人間の確立」です。
 法華経こそが「個人の幸福」と「社会の繁栄」をともに実現していくカをもっているのです。

 5-2 利他と自利が共鳴する菩薩道

 人の「生きる力」を引き出した分だけ自分の「生きる力」も増し、人の生命を拡大した分だけ自分の生命も拡大する──この「利他(他人を利する)」と「自利(自分を利する)」が一致し共鳴する〝菩薩道の妙〟について語っています。

【池田SGI会長の指針】
◎『法華経の智慧』から 
           (第4巻、1998年1・2月刊)

 世の中には、無数の「心が傷ついた人」がいる。そういう人たちに癒しの手を差し伸べなければならない。そうすることによって、じつは自分自身が癒されていくのです。
 人は何かあると、「自分ほど不幸な人間はいない」と思いがちだ。自分を憐れみ、自分のこと以外、何も考えられなくなってしまう。自分の苦しみにとらわれ、不平と失望のなかで、生命力を衰えさせてしまう。
 その時、人に「生きる力」を与えるのは何か。それは、自分以外のだれかのために生きようという「人間の絆」ではないだろうか。エゴイズムに閉じこもっていては幸福はない。打って出て、「人のため」に行動する時、その時に、自分自身の生命の泉も蘇生していくのです。
 人の面倒をみた分だけ──つまり、人の「生きる力」を引き出した分だけ、自分の「生きる力」も増していく。人の生命を拡大してあげた分だけ、自分の生命も拡大する。これが菩薩道の妙です。「利他」と「自利」の一致です。
 利他だけを言うと、傲慢になる。人を救ってあげているという偽善になる。自分のためにもなっていることを自覚して初めて、「修行させてもらっている」という謙虚さが出る。自他不二です。ゆえに菩薩道しかないのです。

 5-3 互いに尊敬し、共に向上の道を

 仏法の目的は〝幸福の追求〟であり、同じ幸福の追求者として互いに尊敬し尊重しあいながら、謙虚に弛みなく幸福を目指していく〝自他共の向上〟の生き方が大切であると語っています。

【池田SGI会長の指針】
◎ヨーロッパ代表者会議でのスピーチから 
    (1992年6月11日、ドイツ)

 仏法は「幸福」の追求である。信心は「幸福」になるためにある。仏道修行も、自分自身の「幸福」のためである。
 釈尊の十大弟子の一人に「天眼第一」といわれた阿那律《あなりつ》がいる。彼は釈尊の説法中、居眠りをしたことを猛省し、以来、眠りを断って修行したあまり、失明してしまった。そのかわりに〝心眼〟を開いたとされる。(以下、「増一阿含経」31、『大正新脩大蔵経』第2巻所収、増谷文雄『仏教古詩』ちくま文庫を参照)
 ある時のこと、阿那律は、衣のほころびを縫おうとしていた。しかし、目が見えないため、針の穴に糸を通すことができない。困った彼はつぶやいた。
 「だれか、わがために、この針に糸を通し、(仏法者を助けるという)福運を積む者はいないであろうか」
 そのとき、だれかが近づいてきて言った。
 「私が、福運を積ませてもらおう」
 阿部律は驚いた。まぎれもなく、釈尊の声だったからである。
 「とんでもありません。世尊は、すでに、何の功徳を積む必要もない方であるはずです」
 「いな、阿那律よ、世に私以上に幸福を求める者はないであろう」
 納得できないでいる阿那律に、釈尊は、永遠に追求すべきものがあることを教えた。
 真理の追究も、「もう、これでよい」という終わりはない。
人々を救う実践にも、「もう、これでよい」という限度はない。自分を完成させる修行も、「もう、これでよい」ということがない。
 幸福の追求もまた、限界はない。「この世のさまざまな力のうち、最も勝れているのは、幸いの力である。これにまさるものは、天界にも人界にもない。仏道も、この幸いの力によって、なる」と──。
 釈尊の「私ほど、幸福を求めてきた者はいない」という言葉には、重大な意味がある。
 仏法は決して、人生に背を向けたり、現実から逃避したり、悟りすまして幸、不幸を超越したような格好をするものではない。いわんや、自分だけは特別といった錯覚は、仏法とは無縁の人間のものである。どこまでも謙虚な「幸福の追求者」として、万人と同じように、民衆とともに、真剣に仏道修行していく。だれよりも、「福運を積む」機会を逃さず、勇み、喜んで行動していく。
 「もう、これでいい」などと傲らず、「さあ、また福徳を開こう。永遠の幸福の境涯をつくろう」と戦っていく。その永遠の向上、永遠の闘争の決心に、仏法の精神が脈動している。
 「私が、あなたの針に糸を通そう」──釈尊の短い一言には、汲めども尽きぬ深い心がこめられている。その振る舞いには、共に道を修める同志としての人間平等の哲学が、自然のうちに表れている。
 日蓮大聖人は「御義口伝」で、「鏡に向って礼拝を成す時浮かべる影又我を礼拝するなり」(御書769㌻)──鏡に向かって礼拝する時、鏡に映った姿もまた自分を礼拝するのである──と仰せである。
 相手の生命の「仏性」を信じて、心から尊敬し、大切にしていく。そのときに、相手の仏性も、根底的には、こちらを礼拝し返している。広げていえば、自分が誠実そのものの心で人に接していくとき、多くの場合、相手もまた、こちらの人格を尊重するようになっていく。祈りが根本にあれば、なおのことである。
 反対に、人を軽《かろ》んじれば、最終的には、自分も軽《かろ》んじられ、人への憎悪に染まった生命は、自分もまた憎まれる存在となろう。こうした人類の宿命的な悪循環にとどめをさし、人間の「相互尊敬」と「共生」への道を開いていきたい。

 5-4 今を大切に! 目の前の人を大切に!

 この節では、ロシアの文豪トルストイの物語を通して、大切なのは〝今、この瞬間〟であり、〝今、自分がかかわっている人〟であると述べ、縁する人を大切にする生き方に、信頼が寄せられることを強調しています。

【池田SGI会長の指針】
◎SGIアジア記念総会でのスピーチから
      (1993年5月16日、香港)

 トルストイは、わかりやすい民話や物語をたくさん残している。大地とともに生きる民衆のためであり、未来を託す少年・少女のためである。
 そのなかに「三つの疑問」という物語がある。(中村白葉訳、『トルストイ全集』13所収、河出書房新社)
 ある時、皇帝が仕事をしていくうえで、三つの疑問にぶつかった。
 それは第1に、仕事にとりかかるにあたって、いちばん適切な「時」とはいつか、という疑問である。どういう「時」をはずさなければ、悔いを残さないですむのか──。
 第2に、自分にとってどういう人が、いちばん必要な人物なのか、どういう人を大切にしていけばよいのか、という疑間である。
 そして第3に、すべての事業のなかで、どういう仕事が、いちばん大切なのか、という疑問である。皇帝は、この三点を知りたいと強く願った。これがわかれば、成功の人生を歩めると、考えたからである。
 皇帝は、正しい答えを教えてくれた人には莫大なほうびを与えようと国中に知らせた。多くの学者が集まってきて、さまざまな答えを出した。しかし、皇帝はそのどれにも納得できなかった。
 「学者」が即「賢者」とはかぎらない。物語のくわしい内容は略させていただくが、皇帝は、庶民と共に生きる一人の賢者との出会いのなかで、真実の解答を見いだしていく。
 その賢者は示した。
 いちばん大切な時とはいつか。
 それは「今、この瞬間である」と。
 また、いちばん重要な人とは、だれか。
 それは「今、現在、自分がかかわっているその人である」と。
 そして、いちばん大切な仕事とは何か。
 それは「人に善をなすこと。人のために尽くすことである」と。
 大切なのは、いつかではない。今、この瞬間である。きょう、この一日である。今、この時に全魂をかたむけていく。その「今」に勝利の未来が含まれている。
 また、どこか遠くに特別な人がいるのではない。権威の人、知識の人、有名の人、富の人が大切なのではない。自分が、今、縁している人、その人を大切にしていく。そばにいる、あの人、この人を、その人の特質を考えながら、全部、生かしきっていく。それが賢人である。そこに万人の信頼を勝ち取る道もある。
 私が海外を訪問する場合も、飛行機を降りて、まず最初に会う人、その人に最大の真心で接していく。そこから、私の友好は始まる。
 無名であってもよい。平凡であってもよい。〝自分のためではなく、人のため、友のために、民衆のために、私は私らしく行動の歴史を残した〟。そう言いきれる人こそが、人間としての皇帝であり、人生の皇帝である。

 5-5 利他の行動が自らを豊かにする

 仏法は「自他共に幸福になる」「皆が勝者になる」道であり、その目的に向かって人のために尽くしていくことが、自分自身を豊かにし、かけがえのない自分の財産になると呼び掛けています。

【池田SGI会長の指針】
◎『青春対話2』から
                   (2000年9月刊)
 現実の一人一人の生命に「幸福の種」を植えていくこと──それが遠回りのように見えて、地球全体を変えていく根本的な労作業なのです。
 遠回りのように見えても、植えた種が育って「大樹」になれば、いっぺんに花も咲くし、実もなっていく。木陰で皆が憩うこともできる。そういう「大樹」に、自分自身がなることです。
 仏法は「自他共に幸福になっていく」道です。他人を犠牲にするのでもない。自分を犠牲にするのでもない。自分を犠牲にするのは崇高だが、万人にそれを要求することはできない。要求すれば、おかしなことになってしまう。
 「自他共に幸福になっていく」のが本当です。「皆が勝者となっていく」道が必要なのです。ゆえに、相手に尽くすといっても、「相手に感謝しながら」なのです。「あの人のために、こんなに悩んだおかげで、自分が大きくなった。ありがたい」「あの人のために、これだけ動いたから、自分は強くなった。感謝します」と。
 また、実際、広宣流布のために行動した分、福徳と智慧も広がっていく。「利他」と「自利」の二つが備わっているのが、学会活動なのです。
 一人の人と会う。だれかのために祈る。手紙を書く。たとえ約束を破られても、何度も足を運ぶ。それは、ささいなことのように思える。時には、「こんなことをしてもムダではないか」と思うことがあるかもしれない。しかし、あとから振り返れば、何ひとつムダではなかったと必ず、わかる。
 友のために足を運んで、どれだけ自分が強く、大きくなったか。友を思って題目を唱えて、どれだけ自分が豊かになったか。10年、20年と、年月がたてばたつほど、全部、かけがえのない自分の財産になっていることがわかるでしょう。
 また、相手の人も、あなたに感謝してくれるときが来る。「あの人がいたから、自分は立ち上がれた」「あの先輩のおかげで、今の自分がある」。そう笑顔で言ってくれる日がくるにちがいない。
 一生のうちに、そういう人が何人できるかです。人間にとって、それ以上の宝はない。

 5-6 万人を敬う菩薩道の実践

 この節では、「慈悲」の精神を根本に、万人に内在する仏性を徹して敬い、その普遍的な尊厳性を自他共に発揮していく「菩薩道」の実践こそが、「自他共の幸福」の大道であることを示します。

【池田SGI会長の指針】
◎『21世紀の人権を語る』から 
              (1995年2月刊)

 人々の幸せを離れて、自身の幸せはありません。仏法者の行動の基盤は、慈悲の精神です。「慈」とは「抜苦」、「悲」とは「与楽」であり、「慈悲」とは人々の不安や恐怖を除き(抜苦)、喜びと安心と希望を与えること(与楽)です。
 人々の幸福のために戦うのは、仏法者として、否、人間として当然のことでしょう。だが、簡明なことほどむずかしい。仏の教えの真髄は簡明です。〝一人の人間を大切に〟です。仏とは、〝一人〟の幸福のために、間断なく精進する者、勤め励む者なのです。
 仏法では、利他の精神から行動していく人を、菩薩と呼びます。仏典には、文殊菩薩、普賢菩薩、弥勒菩薩、観世音菩薩、薬王菩薩など、さまざまな菩薩が登場します。
 これらの菩薩は、その特性を生かして、衆生のために献身し、苦悩・災難から救う働きをします。たとえば、文殊は智慧、普賢は学理、弥勒は慈悲心、観世音は世音《せおん》(世の中の状況)を観じる力をもって、衆生の苦を救います。薬王は名のとおり、医薬を用いて病気を治します。
 日蓮大聖人は、多くの菩薩のなかでも、実践の模範として、法華経に登場する不軽菩薩に注目します。「不軽(軽んぜず)」という名にも示されているように、どのような人も軽んずることなく、最高の敬意を示しました。
 法華経には、彼が次のように語って人々を敬ったと説かれています。
 「私は深くあなたがたを敬います。決して軽んじたり、思い上がったりしません。それはなぜなのか。皆さんは、菩薩の道《みち》を修行して、やがて成仏することができるからなのです」と。ここに、法華経の人間尊厳の精神が凝縮しています。不軽菩薩は、このように、すべての人に合掌礼拝したのです。
 日蓮大聖人は不軽菩薩の行動を「一代の肝心は法華経・法華経の修行の肝心は不軽品にて候なり」(御書1174㌻)と、仏法の実践の要諦として位置づけています。
 不軽菩薩の振る舞いは、〝一切衆生には仏性があるゆえに尊厳である〟という信念にもとづいています。いかなる人間であっても、内在する「仏性」──普遍的な尊厳性を発揮していけば、最極の人生道を開くことができる。その道を自他共に進むのが、菩薩道の実践です。

 5-7 自他共に「心の財《たから》」を積みゆく人生を

 この節では、他人に尽くしゆく菩薩の行動が自身を荘厳する永遠の歴史となることを強調し、自他共に「心の財」を積みゆく人生をと語っています。

【池田SGI会長の指針】
◎『法華経の智慧』から 
             (第5巻、1999年9月刊)

 人を救うことによって、自分も救われる。これは心理学のうえからも言われています。癒しがたい心の傷や苦しみを担って、「生きる力」をなくしてしまった人が、どうやって立ち直るか。
 いくら自分の苦しみを見つめても、ますます落ち込んでしまうケースが余りにも多い。それと反対に、同じような苦しみを昧わっている人のもとへ行き、その人を助けることによって、自分も「生きる力」を回復するというのです。
 他者への「思いやり」の行動が、自分を「癒す」のです。
 現代は、「人に尽くす」ことが、何か「損」のような風潮がある。
 「慈愛」などというと、冷笑されるような雰囲気もあるが、そういう傲慢が、どれほど社会を不幸にしているか、計り知れない。
 ガンジーに、ある時、アメリカ人宣教師が聞いたという。「あなたの宗教とは何ですか、インドの未来の宗教はどのような形をとるのでしょうか」
 宗教論議をもちかけられたガンジーは、何と答えたか。
 ちょうど、その部屋に2人の病人が休んでいた。
 ガンジーは2人を指さして、こう答えた。「奉仕すること、仕えることがわたしの宗教です。未来のことなど慮《おもんぱか》っていません」
 ガンジーにとって、政治もまた「奉仕」であり、タゴールの言うように「最も貧しい人」たちに仕えることだというのです。(森本達雄『ガンディーとタゴール』第三文明社。引用・参照)
 行動です。「菩薩行」にしか宗教はない。仏法はない。本来の政治も、教育もない。
 私たちの使命は大きい。
 「蔵の財よりも身の財すぐれたり身の財より心の財第一なり」(御書1173㌻)です。
 「蔵の財」──経済のことばかりいじくっても、経済そのものだって、良くはならない。かりに良くなっても、社会は幸福にならない。
 人間です。心です。心がすべてを動かす。
 福運と智慧にあふれた「心の財」があれば、そこから、本当に豊かな「身の財」「蔵の財」も備わってくるのです。
 人生、最後に何が残るのか。
 思い出です。生命に刻まれた思い出が残る。
 モスクワで会った作家のショーロホフ氏が、こんなことを言われていた。(ノーベル文学賞作家。代表作『静かなドン』『人間の運命』。SGI会長との対話は、1974年9月)
 「長い人生になるといちばん苦しかったことは、思い出しにくくなります。長くなると、いろんな出来事の色彩がうすくなり、いちばんうれしかったことも、いちばん悲しかったことも、一切合切、過ぎ去っていきます」
 そして一呼吸おいて、こう言って微笑まれた。「私の言うことが真実だということは、池田さんが70歳になった時にわかるでしょう」。味わい深い言葉です。(『忘れ得ぬ出会い』から。『池田大作全集』第21巻所収)
 一切は過ぎ去る。天にも昇らんほどの喜びも、死のうかと思うほどの苦しみも、過ぎてしまえば、夢のようなものです。
そのうえで、私は「生命を完全燃焼させた思い出は、永遠に消えない」と言っておきたい。なかんずく広宣流布に燃やしきった思い出は永遠です。
 この世に生まれて、いったい、何人の人を幸福にしたか。何人の人に「あなたのおかげで私は救われた」と言われる貢献ができたか。
 人生、最後に残るのは、最後の生命を飾るのは、それではないだろうか。
 「南無妙法蓮華経と我も唱へ他をも勧《すすめ》んのみこそ今生人界の思出《おもいで》なるべき」(御書467㌻)です。

 5-8 妙法を教えることが最高の利他の道

 南無妙法蓮華経こそ万人に具わる「仏性」を開く鍵であり、それを教え、共に実践しゆくところに、日蓮仏法の説く「自他共の幸福」の極意があることを示します。

【池田SGI会長の指針】
◎『青春対話2』から 
                  (2000年9月刊)

 人間、ふつうは、自分のことだって救えないものだ。家族だって、本当には幸せにするのはむずかしい──それが現実ではないだろうか。
 政治家も、有名人も、往々にして格好だけで、本当に人のためにわが身をなげうっている人は、いったい、どれだけいるか。
 草創の友は、皆、貧しかった。地位もない。学歴もない。しかし、心は気高かった。「あの人も、この人も、みんなを幸せに!」。人類の先覚者として、偉大なる使命感に燃えていた。
 人を救おう、幸せにしよう──こんな崇高な生き方はない。
 南米・ペルーの広布の大功労者の言葉が、忘れられない。「私を支えてきたのは、骨と血のほかは、ペルーの人々の幸せを願う気持ちだけであった」。これが、その方の「生涯最後の言葉」でした。
 戸田先生は語っておられた。
 「困っている人に、食べ物をあげるのもいい。お金を出すのもいい。しかし、困っている人全員に、平等にはあげられない。物には限りがある。また、相手は喜ぶが、〝何も努力しなくても、またもらえばいい〟となる。結局、最高の布施(何かをあげること)は、法を教えることだ。そうすれば、新しく強い生命力を得て、その人は自分の仕事に取り組み、自分で健康になっていける。その力は地面から水がわくように、絶えることがない」
 これこそ、最高の「利他」の道です。
2014-10-11 : 池田SGI会長指導選集 :
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