池田SGI会長指導選集 「幸福と平和を創る智慧」 第1部 第4章 4-1〜4-10

 第4章 「苦悩を突き抜け歓喜へ」

 この章を読むに当たって

 信仰とは、限りない希望の異名です。
 もとより何の苦難や苦悩のない人生などありません。では、打ち寄せる波のように襲い来る苦難や苦悩に、どのように向き合えばいいのでしょうか。
 目を背けて逃げるのか。すべてを諦めて受け入れるのか。それとも希望を捨てずに、真正面から向き合って挑戦していくのか。人生の幸不幸は、その姿勢によって決まります。
 日蓮大聖人は、困難を避けるのではなく、むしろ〝成仏という偉大な境涯を開くチャンス〟と捉え、勇気をもって立ち向かっていくよう、さまざまな法理を通して教えています。
 例えば、「煩悩即菩提」という法理では、「煩悩」を断じるのではなく、そのまま「菩提」へと開いていけると説きます。また「変毒為薬(毒を変じて薬と為す)」という法理では、苦悩(毒)を転じて、その身のままで成仏という人生究極の幸福を勝ち取っていける(薬)と説きます。さらに「転重軽受(重きを転じて軽く受く)」という法理では、過去世・現世・来世という三世の生命を踏まえ、過去世の重罪を転じて、現世で軽くその報いを受けるのだから、現世で宿命転換に挑んでいくよう教えています。
 本章では、こうした法理に基づきながら、苦しみや悩みが大きければ大きいほど、強き信仰の力によって、大きな幸福、大きな歓喜に転換していくことができると強調しています。

 4-1 人生の勝利劇の主人公は自分自身

 困難を乗り越えて、人生の勝利をつかみ取るには、どうすればいいのでしょうか。この節では、人生の勝利劇の脚本《シナリオ》を書き、演ずるのは、ほかの誰でもなく自分自身であるという、仏法の「一念三千」の法理に基づく積極的な人生哲学について論じます。

【池田SGI会長の指針】
◎アメリカ代表者会議でのスピーチから 
        (1993年3月9日、アメリカ)

 自分が「勝利劇」の「脚本家」である。そして「主人公」である。
 シェークスピアは、大劇作家らしく、何度も、次の意味のことを書いている。
 「この世界はすべてこれ一つの舞台、人間は男女を問わずすべてこれ役者にすぎぬ」(『お気に召すまま』小田島雄志訳、『シェイクスピア全集』Ⅳ所収、白水社)──。
 仏法が教えるのは、人生劇の「脚本《シナリオ》」を書くのも、「演じる」のも、自分自身だということである。
 他の何ものかが、脚本《シナリオ》を書くのではない。自分が書いて、自分が名優として演ずる。これが「一念三千」の法理にこめられた、きわめて積極的な人生哲学である。
 自分が作家で、自分が主人公である。大切なことは、すばらしい劇《ドラマ》を演じるためには、まざまざと鮮やかに目に浮かぶまで、〝脚本〟を頭にたたきこまねばならないということである。心の中でリハーサル(練習)も必要かもしれない。「勝利劇」の目標(受験や、会社の成績など)を、紙に書いて、何度も何度も心にしみつくまで繰り返すことが効果的な場合もあろう。
 ある男の子は、小さいころの事故で片足が短くなった。しかし両親は、どんなことでも、「お前にはできない」とか「お前には無理だ」とか、絶対に言わなかった。何でも他の子どもと同じようにさせ、スポーツもさせた。「できると思えば必ずできる」「『できない』としたら、お前が、やる前に『できない』と思ったからだ」──と。
 それは精神主義や観念論ではなく、人間の潜在能力(眠っている力)への確信であった。その子は、学校時代はフットボールの名選手となり、社会でも成功した。
 ロシアの作家ゴーリキーが「才能とは、自分を信じることだ、自分の力を信ずることだ」(『どん底』野崎詔夫訳、『世界文学全集』44所収、筑摩書房)と言ったとおりになった。
 イギリスの大小説家ウォルター・スコット(1771年──1832年)は言っている。
 「臆病な人間にとっては一切は不可能である。なぜなら、彼には一切が不可能に見えるからだ」
 「不可能だ」「ダメだ」という一念が、本当に何もかもを「不可能」にするのである。親から、いつも「ダメな子だ」と言われていると、自分もそう思い込んでしまい、本当に「ダメな子」になってしまうかもしれない。
 御書には、華厳経(大乗仏教の経典)を引いて仰せである。
 「心は工《たくみ》なる画師《えし》の種種の五陰《ごおん》を造るが如く一切世間の中に法として造らざること無し」(564㌻)──「心」は、すぐれた画家が自在に種々の姿を描くように、世の中のあらゆる現象を造りだしていく──。
 「心の外《ほか》に別の法無し」(同㌻)──心の外《ほか》に別の法はない(すべての現象は心の産物である)──。
 大聖人の御手紙を拝するとき、つねに相手に応じた〝たとえ〟を引かれ、〝文証〟を引かれて、何とか「心」を変えよう、「一念」を強めよう、「確信」と「自信」をあたえようとされている。
 つねに「希望」と「励まし」を太陽のように送っておられる。「心」が変われば「一切」が変わることを熟知されていたからであろう。
 「うまく勝利した人は、条件がよかったのだ」と考える人は多い。こういう人は、たいてい「もしも、自分にあれがあったならば」「もしも、自分がこんな問題をかかえていなかったならば」と考えている。
 しかし、それは結局、グチである。困難をかかえていない人はいないのである。
 ある実業家が友人に言った。「君は、いつも『問題が多くて』と嘆いているが、じつは、私の知っている場所で『一万人もいるのに、だれひとり問題をかかえてもいないし、悩んでもいない』という場所がある。紹介しようか?」
 友人が「ぜひ頼む」と答えると、連れていかれたところは──墓園であった。
 人間は、生きているかぎり、必ず「悩み」があり、「課題」がある、と教えたのである。その「課題」を〝どうやって〟克服するか。その挑戦によって、より豊かな人生となる。
 仏法では「煩悩即菩提」と説く。「悩み」が大きいほど、唱題の力によって、より大きな「幸福」に変えていけるのである。
 釈尊の時代、ある女性が、かわいい子どもを病気で亡くした。悲しみのあまり、正気を失い、死んだ子どもを抱いたまま町をうろついていた。会う人ごとに、「この子に薬をください」と言った。
 ある人が、哀れんで彼女を釈尊のもとに連れてきた。釈尊は言った。
 「よしよし、良い薬をあげよう。町へ行って、白いケシをもらってきなさい。ただし、『死人を出したことのない家』の白ケシでなければいけないよ」
 彼女は、町じゅうを一軒一軒、歩いて探した。けれども「死人を出したことのない家」は一軒もなかった。ついに、彼女は自然に理解した。「人間は必ず死ぬ」のだ、と。自分の悲しみだけが特別なのではない──。そして「永遠の生命」を悟るために、釈尊の門下となり、聖者と仰がれるまでになった。
 釈尊は、自分だけの悲しみにとらわれていた彼女の心を、こういう方便を使って、ほぐし、解放し、三世の生命観に立った、より大いなる知恵に目覚めさせたのである。
 ともあれ〝境涯を開く〟ことである。人間、いつも自分のことだけを考えていると、しだいに「小さな心」「小さな自我」に固まってしまう。
 法のため、人のため、社会のためという、開かれた大きな目的に向かって働けば、「一心《いっしん》の妙用《みょうゆう》」によって、「大きな心」「大きな自我」が築かれていく。「大きな心」は即「大きな幸福」を味わえる心である。
 「小さな心」には重圧であった悩みも、軽く感じ、悠々と見おろしていけるようにもなる。皆さまは、この「一心の妙用」を見事に、晴れやかに証明する人生であっていただきたい。

 4-2 煩悩の「薪」で幸福の「炎」を

 「幸福」というのは「悩み」のない状態であると、往々にして人は考えがちです。この節では、「煩悩の薪を焼いて菩提の慧火《えか》現前するなり」(御義口伝、御書710㌻)という「煩悩即菩提」の法理を示した御聖訓を踏まえ、妙法を信ずる一念を強くして題目を唱え抜いていけば、どんな「悩み」も「幸福」へのエネルギーに転じていけると述べています。

【池田SGI会長の指針】
◎『青春対話』から 
             (1999年3月刊)

 仏法では「煩悩即菩提」と説く。わかりやすく言うと、煩悩とは「悩み」であり、悩みを起こさせる欲望です。菩提とは「幸福」であり境涯が開けることです。
 ふつうは、煩悩と菩提はバラバラです。悩みと幸福は正反対です。しかし日蓮大人の仏法では、そうではない。
 悩みという「薪」を燃やして、初めて幸福の「炎」が得られると説く。幸福の光とエネルギーが得られるのです。題目によって「薪」を燃やすのです。
 題目をあげれば、悩みが全部、幸福へのエネルギーに変わる。前進への燃料に変わる。
 いちばん苦しんだ人が、いちばん幸福になる。いちばん悩みをもった人が、いちばん偉大な人生となっていく。これが仏法です。だからすばらしいのです。
 悩みといっても、いろいろある。自分のこともあれば、お父さん、お母さんに、長生きしてもらいたい──これも悩みです。友だちが元気になってほしい──これも悩みです。
 さらには、もっと大きく、世界の平和をどうするか、新世紀をどういう方向にもっていくか──これは偉大な悩みです。どんな悩みも全部、題目によって、自分のガソリンに変わる。生命力に変わる。人間性に変わる。福運に変わるのです。だから、大いに悩み、大いに題目をあげきって、成長していけばよいのです。
 信仰とは、目標という悩みの「山」をつくり、「山」をめざし、「山」を登りながら、山を登りきるたびに大きな自分になっていく軌道なのです。

 4-3 どんな苦悩も変毒為薬できる

 仏法には、「変毒為薬」(毒を変じて薬と為す)という法理があります。この節では、悩みや苦しみという「毒」を、信心によって「薬」としながら、人生の「最後の勝利」を飾っていくよう教えています。

【池田SGI会長の指針】
◎創立六十周年開幕記念支部長会でのスピーチから

                       (1989年7月27日、東京)

 人生には当然、勝ち負けがある。ときには悲しみ、苦し人む場合もあるかもしれない。
 しかし、仏法は「煩悩即菩提」「生死即涅槃」である。悩みや苦しみが大きければ大きいほど、信心によって、大きな喜び、幸福へと転じていくことができる。
 そして、信心は、だれのためのものでもない。すべて自分自身に生ききっていくための信仰であり、行動である。自身の福徳を増し、幸福の道を開いていくための信心なのである。ゆえに、少々のことで一喜一憂したり、心を動かされるのでは信仰者とはいえない。
 ともあれ妙法の世界では、何があったとしても、必ず時とともに「変毒為薬」していけるのである。
 「薬」と「毒」の関係をいえば、じつは両者の間には、ある意味で、明確な境界線はない。その配合や、服用する人の生命力との関係で、「毒」として働く場合もあれば、「薬」として働く場合もある。この事実を一言で「薬とは生命を救う毒」と表現した学者もいる。
 人生の勝敗においても、また同じである。最後に勝てば、一切が「薬」になったことになる。逆に、最後に負ければ、それまでいかに「薬」として働いていたものでも、結局は一切が「毒」となってしまったということができよう。
 では、最後の勝利とは何か。それは「信心の勝利」である。これこそ「人間としての勝利」であり、「三世永遠の勝利」につながる。

 4-4 未来を開く「本因妙」の仏法

 仏教では一般に、過去における自身の行いが「因(原因)」となって、現在の幸・不幸という「果(結果)」がもたらされるという「生命の因果」を説いています。ただ、こうした捉え方は、人間を必要以上に過去に縛り付け、生きる姿勢を後ろ向きにしてしまう傾向があります。この節では、日蓮大聖人の仏法が、人間を過去に縛るのではなく、つねに現在を出発点として未来に向けて前進させていく「本因妙」の大法であることを示します。

【池田SGI会長の指針】
◎全国青年部幹部会でのスピーチから
        (1988年4月29日、東京)

 「生命の因果」「人生の幸、不幸」──これらについて人が真剣に考え始めるのは、多くの場合、自身が切実な不幸にあったときではないだろうか。
 何事もない安穏なときには、なかなか人生の重大事には思いいたらない。その意味でも、苦難こそ、より深き人生への大切なステップなのである。また、そうしていかなければならない。
 もとより、何ら苦難もなき人生など、ありえない。幸福そうに見える生活も、裏返せば、それが不幸を感じる因となる場合が、人生にはあまりにも多い。そのことは、経験を積み、年輪を重ねるほど、ありありと見えてくる。
 たとえば、祝福されてて結婚しても、子どもが病気で生まれてくる。経済が行き詰まる。火事や事故、離婚や一家の不和、人間関係のもつれなどで、生涯苦しむ場合もあるかもしれない。まさに凡夫には〝一寸先は闇〟である。不幸など自分には関係ないことだなどと断言できる人はいないであろう。
 平穏無事なら無事で、年齢とともに、むなしさがつのってくる。忙しそうに充実して動いているようであっても、自分を見つめることができず、さびしさ、わびしさから逃げ続けているにすぎない人もいる。
 笑顔の底に悲しみがある。楽しさの後を空虚さが追う。苦しみ、悩み──それが避けられない人生の現実である。
 しかし、それでも人間は生き続けていかなければならない。では、どう生きるのか。どう苦しみを真実の歓喜へと変えていかれるのか……。この万人にとって最大にして根本の課題を解決したのが、日蓮大聖人の仏法なのである。
 大聖人の仏法は「本因妙」の仏法である。すなわち仏となる根本の〝因〟を妙法蓮華経と明かされ、ただ御本尊の受持のみによって、仏の「因行」も「果徳」もすべて今世で得ていかれると教えられた、画期的な大法である。
 どこまでも未来を志向し、未来を煌々と照らして進みゆく。ここに「現当二世」の大聖人の仏法の真髄がある。
 信心していたとしても、決して悩みが消えてなくなるわけではない。十界互具が生命の実相であり、仏界にも苦悩の九界が具わる。また九界の現実に即してしか、仏界の顕現もない。
 大切なことは、苦難あるときに、絶対にひるまぬことである。仏の慈悲と確信して、いよいよの強盛な信心で進むことである。
 「信仰しているのに、なぜ……」などと弱々しく疑ったとしたら、その弱き一念が、一念三千の法理にのっとり、三千次元に回転して、ますます苦しみの境涯をつくっていく。これでは、強信とはいえない。
 その時点で、凡夫にはわからなくても、長い目で見るとき、必ずや、その意義がわかってくる。また「変毒為薬」していける。これは私の40年間の体験のうえからも絶対にまちがいない。5年でわからなければ、10年でわかる場合もある。10年で自覚できなければ一生のうちに、わかってくる場合もある。また三世という永遠の観点から見れば、すべてが御仏智なのである。

 4-5 何があっても喜んでいける人生

 すべてを「喜び」に変えていける人、その人こそ「人生の達人」です。この節では、苦難があればあるほど、いよいよ喜び勇んで進んでいく、人生の究極の生き方を教えています。

【池田SGI会長の指針】
◎各部代表幹部会でのスピーチから
         (1993年6月28日、東京)

 「喜べ! 喜べ! 人生の事業、人生の使命は喜びだ。空にに向って、太陽に向かって、星に向かって、草に向かって、樹本に向かって、動物に向かって、人間に向かって喜ぶがよい」(「日記」、『トルストイの言葉』小沼文彦訳編、彌生書房)
 「喜べ!」──これがトルストイの一つの結論であった。何があっても喜んでいける人生。そこには人間としての大境涯があり、強さがあり、幸福がある。
 反対に、何があっても、文句ばかり、批判ばかりの人生。それでは、たとえ外見は立派そうに見えても不幸である。
 トルストイは、1901年、教会から破門された。72歳という晩年のことである。海外からも尊敬を受けている偉人を、こうすれば困るだろうと「破門」──。
 しかし、その権威の画策を、彼は、歯牙にもかけない。悠然と見おろしていた。
 「喜べ! 喜べ!」。その信条は変わらなかった。彼には、燃え上がる〝闘争の一念〟があった。
 トルストイの生涯は、創作の苦しみ、家庭生活の不幸、自分の体の不調など、すべてが順風というわけではなかった。しかし文豪の魂は、どこにあっても、いかなるときでも「喜び」を求めた。「喜び」をつくりだしていった。
 仏法に通ずる生き方といえる。皆さまも、そうした人生であっていただきたい。
 日蓮大聖人は、「南無妙法蓮華経は歓喜の中の大歓喜なり」(御書788㌻)と仰せである。
 広布の人生は、「大歓喜」の人生である。
 さらに、「流人なれども喜悦はかりなし」(同1360㌻)──流罪の身ではあるが、喜悦は計り知れない──。
 「御勘気をかほ《蒙》れば・いよいよ悦びをますべし」(同203㌻)──権力による処罰を受けたので、いよいよ喜びを増すのである──。
 「大難来りなば強盛の信心弥弥悦びをなすべし」(同1448㌻)──大難が来れば強盛の信心(の人)は、いよいよ喜んでいくべきである──と。
 また、竜の口の法難のさいにも、門下の四条金吾に「これほどの悦びをば・わらへかし」(同914㌻)──これほど喜ばしいことではないか。笑いなさい──と仰せになっている。
 苦難があれば「賢者はよろこび愚者は退く」(同1091㌻)──これが大聖人の教えである。
 挑戦すべきことがあればあるほど、いよいよ喜び勇んで進んでいく。さっそうと戦っていく。これが仏法の真髄である。人生の究極の生き方である。
 〝喜べない人生〟は不幸である。「またか」「たいへんだな」(笑い)などと、いつも下を向き、苦しい顔をして、文句や批判ばかり。これでは御書に反してしまう。
 すべてに「喜び」を見いだしていける人。すべてを「喜び」に変えていける人。その人こそ「人生の達人」である。
 「佐渡御書」には、「賢聖《けんしょう》は罵詈して試みるなるべし」(同958㌻)──賢人、聖人は罵って、本物かどうか試みるものである──と仰せである。どんな批判をも耐えぬき、それでも悠々と喜びの人生を送っていけるかどうか──そこに本当に偉大な人かどうかの分かれ目がある。
 すべてに喜びを見いだしていく──自分が喜べば、周囲もさわやかになる。笑顔が広がる。価値が生まれる。リーダーは、何より皆が「喜んで」前進できるように、心を砕くことである。

 4-6 苦も楽も共にあるのが人生の実相

 人生には、順風の時もあれば、逆風の時もあります。この節では、苦難に直面していた弟子の四条金吾に対する日蓮大聖人の励ましを通し、目先の出来事に一喜一憂することなく、すべてを悠然と乗り越えゆく偉大な境涯を築いていくよう望んでいます。

【池田SGI会長の指針】
◎本部幹部会、九州総会でのスピーチから
     (2005年4月21日、東京)

 皆さんも、よく知っている御書の一節を拝したい。主君を折伏したがゆえに、冷遇され、同僚からも憎まれ、苦境にあった四条金吾を励まされた御手紙である。
 「苦を苦と悟り、楽を楽と開き、苦楽共に思い合わせて南無妙法蓮華経と唱えきっていきなさい。これこそ、自受法楽(仏の悟りを自ら楽しみとして受けること)ではないですか。ますます強盛な信心をしていきなさい」(御書1143㌻、通解)
 今は苦しみの連続かもしれない。しかし、永遠に続く楽しみなどないように、永遠に続く苦しみもない。人生には、楽もあれば、苦もある。勝つこともあれば、負けることもある。
 苦も楽も共にあるのが人生の実相である。だからこそ、苦しくとも、また楽しくとも、ありのままの姿で、南無妙法蓮華経と唱えきっていきなさいと、大聖人は教えておられるのである。
 その人は、妙法の智慧と力によって、最高の幸福境涯となっていく。何ものにも負けない人生を生きることができるのである。
 「自受法楽」の「自受」とは、「自ら受ける」ということである。人ではない。自分自身で決まる。人に何かをしてもらったり、他から与えられるものではない。自分が自分で幸福をつくり、自分で幸福を味わっていく。どんな苦楽の道も、悠然と楽しんでいける強く大きな自分になっていく。それが「自受法楽」である。また、必ずそうなっていくのが、南無妙法蓮華経の力なのである。
 ゆえに私たちは、人と比べる必要などない。御本尊への信仰を根本に、自分らしくいけばいいのである。そして、健康で、目標を持って、周りの人と仲良く、調和をとりながら進んでいくことだ。その振る舞いのなかに、「あの人はいいな」「すばらしい人格だな」「話をしてみたいな」と慕われるような魅力がおのずと輝いていく。自分自身を最高に発揮できるのが妙法なのである。
 そうなっていけば、もうどこへ行っても、何があっても心配ない。目先のことに一喜一憂することなく、自分のやるべきことをやりきって、「私はこれで満足だ!」と言いきれる、悔いのない人生を生きぬいていける。その人こそ勝利者なのである。

 4-7 苦難を安楽に転ずる一念の力

 この節では、迫害また迫害、難また難の連続を厳然と勝ち越えていかれた日蓮大聖大の大境涯を通し、どんな苦難をも安楽へと転じゆく「一念」の力について語ります。

【池田SGI会長の指針】
◎長野県総会でのスピーチから
         (1991年8月4日、長野)

 日蓮大聖人の御一生は、二度に及ぶ流罪をはじめ、迫害また迫害、難また難の連続であられた。いったい、どこに安楽があるのか──多くの門下のなかには不信を起こす者もいた。
 しかし、大聖人は難こそ安楽であると述べられ、さらに、繰り返し繰り返し、「幸なるかな」(御書509㌻)、「悦ばしいかな」(同㌻)、「大に悦ばし」(御書237㌻)、「あらうれしや・あらうれしや」(御書505㌻)等と仰せになっておられる。また「幸なるかな楽しいかな」(御書975㌻)との大境涯であられた。
 難が起きることは、経文に照らして必然である。大切なのは、それをどう「変毒為薬」し、新たな前進への力としていくかである。
 嵐が吹きすさぶたびに動揺したり、ただ嘆いているばかりでは意味がない。何が起ころうとも、一切を〝追い風〟にしてみせるとの強靭な「一念」さえあれば、必ず道は開けていく。
 「現在」からつねに「未来」を志向し、ただ前へ、そして前へと進みゆく──この「現当二世」の信心で、今日までの学会の大発展の歴史は築かれてきたのである。
 「難」がなければ、真の「仏道修行」ではない。「戦い」がなければ、真の「幸福」もない。それでは、本当の人生とはいえない。成仏もない。こう定めた信心に行き詰まりはない。
 「境涯」の力は不思議である。「一念」の力は無限である。同じ環境、同じ状況にあっても、わが「境涯」と「一念」しだいで、百八十度、違う結果となり、人生となろう。
 「広布前進」への一念強き人は、風が雲をみるみるうちに追い払うように、わが福運の青空を晴れやかに、急速に、大きく広げていくことができる。

 4-8 困難を通じて生命を磨け

 幸福のために信心したのに、どうして難を越えなければならないのか。この節では、ダイヤモンドの結晶が極度の高温高圧の中でできあがるように、厳しい苦難を乗り越えてこそ、金剛不壊の〝生命の王者〟と輝くことができると語っています。

【池田SGI会長の指針】
◎船橋幹部大会でのスピーチから
         (1987年7月13日、千葉)

 なぜ私どもが「難」を忍ばねばならないか。いうまでもなく、信心の目的は成仏である。成仏とは絶対的幸福である。幸福のために信心したのに、どうして難を越えなければならないのか。それは、わが胸中に仏界という金剛不壊の生命の「我」を打ち固めるためには、難という試練が必要だからである。
 たとえばダイヤモンドという宝石の王者がある。鉱物のなかで最高の硬度と光沢をもつ。清浄無垢を象徴し、その名も、「征服されないもの」「無敵のもの」という意味のギリシャ語に由来する。
 このダイヤモンド、すなわち金剛石は、どのようにしてできあがるか。私は科学者ではないが、常識的観点からいえば、もともとダイヤの化学組成は炭素で、黒鉛と同じである。それが地下の深所で、何らかの触媒によって極度の高温高圧のもとにダイヤの結晶へと構造を変化させる、と考えられている。
 私どもの生命も同じである。「難」という凝縮した圧力と厳しい苦難の熱に鍛えられてこそ、ダイヤモンドのごとき金剛不壊の仏界の生命へと、わが「一念」、「我」が結晶していくと私はみたい。
 すなわち難があってこそ、わが色心も仏身という「金剛身」を得、金剛石のごとく堅固で、いかなる苦悩や迷いにも壊されない、絶対の光り輝く幸福境涯となる。何の苦難もない平穏無事のみの修行では、生命を真実に磨ききることはできない。最大の難を乗り越え、最高の熱と圧力を乗りきってこそ、最高のダイヤのごとき〝生命の王者〟と輝くことができる。
 その生命は、純粋無垢にして、美しき不滅の光を放っている。いかなる社会の荒波にも、邪悪な障害にも厳然として不動であり壊れない。南無妙法蓮華経に徹し、広宣流布に徹した生命である。三世にわたって、永遠に妙法と一体であり、自在に広布に活躍していける。そして御本尊を正しく受持しきっていくことによって、生々世々、仏界というこの最高の生命の自身となっていける。
 皆さま方は〝金剛不壊の人生〟と輝いていただきたい。ダイヤモンドのごとき、心美しく輝く〝幸福〟の結晶の自身となっていただきたい。そのためには難を恐れてはならない。悪口等に負けてはならない。むしろ、それらはすべて、わが生命を磨いてくれるありがたい存在であるからだ。
 難があればあるほど、信心の大確信を強盛に発揮して、喜々として仏道修行していく人の人生こそ、金剛石のごとき王者の人生である。
 この大切な一生を、〝美しい信心〟と〝美しい同志愛〟で立派に飾っていただきたい。そして金剛の〝美しき生命〟の光を幾重にも広げ、正法正義を証明しきって、生涯を全うしていただきたい。

 4-9 冬は必ず春となる

 日蓮大聖人は、門下の妙一尼に対して「冬は必ず春となる」と励まされています。この節では、人生の〝冬〟は、すばらしい〝春〟に至るための鍛えの時であり、正しき法にのっとった人生は、自身の生命が宇宙の根源のリズムに合致していき、三世に輝く勝利の〝春〟を必ず迎えていけると語っています。

【池田SGI会長の指針】             
◎本部幹部会、東京記念総会でのスピーチから 
  (1990年4月29日、東京)

 日蓮大聖人は仰せである。「冬は必ず春となる」(御書1253㌻)──法華経を信ずる人は冬のようであるが、冬は必ず春となるものである──と。
 このお言葉を支えに、どれほど多くの友が、蘇生の春、人生の春への道を歩んだことか。私どもにとって、永遠の指針である。また、これから幾億、幾十億の、真実の幸福を求める世界の民衆も、ここから限りない希望を得ていくにちがいない。その意味で、この御金言に込められた御本仏の大慈悲の一端を拝しておきたい。
 これは、未亡人であった門下の妙一尼への励ましのお言葉である。彼女の夫は、強き信仰の人であった。大聖人の竜の口の法難のあと、法華経信仰のために所領を没収されたようだ。正しいがゆえに迫害される。これが悪しき人間社会の法則である。いずれの時代、いずこの国でも、この実相は不変である。妙一尼の夫は、信念を貫いたまま、大聖人の佐渡御流罪中に亡くなった。あとに残ったのは、老いた妙一尼と子どもたち──。なかには病弱な子や女の子もいる。尼自身も丈夫なほうではなかった。
 大聖人は、そうした状況を、よくご存じであられた。「亡くなったご主人は、どんなにか、あなた方家族のことが心配であっただろう」と深く思いを寄せられている。そして「ご主人は、私(大聖人)のことも、さぞかし心配されていたことでしょう」と思いやっておられる。
 極寒に見舞われる佐渡、生きて帰れぬといわれる佐渡に、師匠は流されてしまった。その大難の最中に自分は死んでいく。まことに無念である。このような心でもあったろうか。
 大聖人は、苦難のなかに亡くなった勇敢な門下をしのばれて、こう述べられている。
 「此の御房はいかなる事もありて・いみじくならせ給うべしとおぼしつらんに、いうかいなく・なが《流》し失《うせ》しかばいかにや・いかにや法華経十羅刹はとこそ・をもはれけんに、いままでだにも・なが《存》らえ《生》給いたりしかば日蓮がゆりて候いし時いかに悦ばせ給はん」(御書1253㌻)
 ──ご主人は「法華経が広まるにつれてこの御房(大聖人)はいろいろとすばらしいことがあって、立派に敬われる立場になられるにちがいない」と期待されていたことでしょう。ところが、(大聖人は)はかなくも佐渡に流されてしまった。「これは、どうしたことか、いったい法華経や諸天善神である十羅刹女の守護は、どうしたのか」と思われたでしょう。せめて今まで生きておられたなら、日蓮が佐渡から赦免になった時、どれほど喜ばれたことでしょう──。
 他の御書からもうかがえるように、多くの門下は、大聖人が赫々たる栄誉の立場になられると期待していた面があったようだ。ところが実際には、難また難の連続である。日本中からの悪口と嘲笑、圧迫が息つぐひまもなく襲ってくる。自分も偉くなれると思った目算がはずれて、退転・反逆の徒となる者も現れる。彼らは権力者の手先となって、かつての師匠と同志をいじめるために暗躍する。
 そうしたなか、妙一尼の夫は最後まで信念に忠実であり、誠実であった。それだけに、どんなにか大聖人の凱旋のお姿を夢見ていたことであろう。また、裏切りの徒の卑しい心根を、どんなにか、悔しく思っていたことであろう。
 大聖人は、そうした門下の心を、すべてくみとっておられた。一切を知っておられた。そのうえで、いささかも悪と妥協することなく、あえて大難のなかへと進まれたのである。
 ゆえに、亡くなった妙一尼の夫が、大聖人の佐渡からの御帰還という、当時だれも思いもよらなかった事実を知ったなら、どんなに喜んだろうか、うれしかったろうか、と仰せなのである。苦労してついてきた門下に、御自身の勝利の姿を見せたい、だれよりも喜んでもらいたい──そうした大聖人のお心が強く伝わってくる。
 さらに大聖人は「かねてから言っていたとおり、蒙古襲来が現実となっている世相を見たら、(ご主人は『見よ、わが師匠の予言どおりではないか』と)どんなに喜ばれたであろう。(国を思えば、襲来は悲しむべきことだが)凡夫であるから」とも、尼に語られている。
 苦も楽も、すべて私たちは一体ですよ、との御本仏のお声が、彼女には聞こえるような思いがしたのではないだろうか。
 「冬は必ず春となる」とのお言葉には、要約すれば、こうした背景があった。
 ──ご主人は〝冬〟のうちに亡くなった。しかし〝春〟が来た。冬は必ず春となるのです。あなたも生きぬきなさい。信念を貫く人は必ず仏になります。幸福にならないはずがありません。ご主人も必ず、あなた方一家を見守っておられますよ、と。
 さらに大聖人は「いざとなったら、幼い子どもたちの世話も、私がいたしましょう」とまで、深き慈愛をそそがれている。この、限りなき優しさ、あたたかな人間性にこそ、大慈大悲の大聖人の仏法は脈動している。いわゆる権威のかけらすら見られない。すばらしいことである。
 このように、「必ず春となる」との御断言には、佐渡での絶望ともいうべき状況から〝勝利の春〟を迎えられた、大聖人御自身の御確信と実証が込められていると拝される。
 大難に次ぐ大難。もったいないことであるが、普通ならば、病に倒れるか、神経をむしばまれるか、殺されるか、自殺するか、仏の力なくしては、とうてい乗り越えられるものではない。
 しかし大聖人は、一切に勝たれた。生きて、生きぬかれた。全人類のため、三人秘法の大仏法を末法万年尽未来際(未来際を尽くす=未来永遠)に伝え、残していかれるために。この大慈大悲を、私どもは深く拝さねばならない。
 この〝冬から春〟への勝利を、門下よ、よく見ておきなさい、あとに続いて、あなたも生きぬきなさい、との大聖人のお心に、妙一尼はどれほど感動したことであろうか。
 もとより次元は異なるが、私どもも、長年ともに戦ってきた同志のためにも、自分自身が〝幸福の春〟を勝ち取らねばならない。後輩の人が、その姿を見て、ああよかった、信心を続けた人はあんなに立派になり、幸福になるのだと、喜んでいかれるだけの歴史を示してあげねばならない。
 私も、この十年でだれ人も想像しなかった〝勝利の春〟を勝ち取った。全部、広布のため、同志のためとの一念であった。
 ともあれ、苦労してきた友のためにも、先輩は、断じて勝利の姿を示していく責任がある。もちろん、勝利とは世間的な外見とか、表面的な名誉ではない。一人の人間として、信仰者として、わが人生の使命を晴ればれと、堂々と総仕上げしていった、その無冠にして偉大なる境涯の実像こそ、真実の勝利なのである。
 さて〝春〟には、いっせいに花が開く。しかしその前に、花たちはいったん、冬の寒さに十分さらされなくてはならない。──もし〝冬〟を知らないと、どうなるか。
 春に咲く植物は、秋になると〝休眠〟の準備に入る。春に向けてエネルギーを蓄え始めるのである。もしも冬の休眠の途中で気温が上がり、眠りからさめると、春の到来を待っていた芽が未熟のまま開き始める。そこにふたたび寒さがもどれば、芽は枯れてしまい、死となる。
 そうならないために、植物は十二分に〝冬〟を経験したあとでなければ、咲かないようにできている。これが、春の開花にそなえる、植物の〝知恵〟である。
 人生も仏道修行も、その原理は同じといってよい。〝冬〟は、すばらしい〝春〟のための充電と鍛えの時である。その時にこそ、永遠に崩れぬ「成仏」へのエネルギーは蓄えられ、宇宙大の広がりを秘めた生命活動の力が培われていく。
 しかも、そのエネルギーは、難にあえばあうほど大きさを増す。そして、正しき法にのっとった人〝冬〟のたいへんな時に、信心の向上のための世界から逃げたり、疑ったりして、十分に力と福運を蓄えておかなければ、すべてが中途半端となってしまう。ましてや「満足」の人生を、送ることはできない。
 〝冬〟の間にこそ、どう戦い、どれほど充実した時を過ごすか。必ず来る〝春〟を確信し、どう深く生きるかである。時いたれば、自然界には花咲く春が間違いなく訪れる。それが生命と宇宙のリズムである。しかし、現実の社会にあっては、〝冬〟のままで人生を終える人があまりに多い。そうならないために、〝春〟を呼ぶ宇宙のリズムに生命が合致しなければならない。そのための妙法の仏道修行なのである。
 その意味で、正しき信仰とは〝永遠の幸福の翼〟である。苦難を乗り越えるたびに福運を積み、境涯を高めていける。今世において一生成仏すれば、三世永遠に「所願満足」の生命の〝大空〟を悠々と羽ばたいていくことができる。これが仏法の法理であり、生命のリズムなのである。

 4-10 仏法を実践する偉人な功徳

 日蓮大聖人は、人生の苦難の意味について様々な角度から門下に教え、励ましています。信仰ゆえに迫害を受けていた弟子の池上兄弟(宗仲《むねなか》、宗長《むねなが》)には、過去世・現世・来世という三世の生命観を踏まえ、過去の宿業によって未来に大苦《だいく》を受けるところを、仏法の実践の功徳によって現在において軽く受けるという「転重軽受」の法門を教えています。この節では、「転重軽受」の法門に基づき、苦難の時を大いなる飛躍の時と捉え、いよいよ強く、いよいよたくましく人生を開いていくよう訴えています。

【池田SGI会長の指針】
◎全国青年部幹部会でのスピーチから
      (1988年4月29日、東京)

 日蓮大聖人は、障魔との戦いの渦中にあった池上兄弟に対し、次のように激励されている。
 「今生《こんじょう》に正法を行ずる功徳・強盛なれば未来の大苦《だいく》をまね《招》ぎこし《越》て少苦に値うなり」(御書1083㌻)──今世において正法を行ずる功徳が強く盛んであるため、本来であれば地獄に堕ちるべき未来の大苦を、今世のうちに招きよこして、今こうして少苦にあうのである──と。
 正法護持の功徳、すなわち「護法の功徳力」によって、未来に大苦を受けるはずの重い宿業を転じ、現世に軽く受けていく。この「転重軽受」の法理を、よくよく確信しきっていかなければならない。また信心の深さに応じて、あるていど、そうした実相は感じとれるものである。
 たとえば、かりに事故にあっても、もっとひどい、他の多くの人をまきぞえにするような大事故を未然に、軽く受けたという場合もあるであろう。他にも同様のケースは数多くある。
 さらに、ここから、三世永遠の生命観に立った〝難の意義〟も明瞭になる。
 つまり、あえてさまざまな難に遭うことによって、重く暗き悪因悪果の生命の流転を、今世においてすべて転換し、晴れやかにしてすがすがしき仏界の大境涯へと、わが生命を壮大に開ききっていけるのである。
 この「転重軽受の法門」また「護法の功徳力」について、大聖人は佐渡流罪中の「開目抄」「佐渡御書」で、御自身の御姿に即されて仰せになっておられる。
 つまり、もったいなくも大聖人は、示同凡夫の御立場から、御自身が大難を受けておられる御姿をとおして、末法万年の門下のために、〝なぜ難に遭うのか〟を示してくださっている。そして〝難を乗り越える信心〟を教えてくださっている。この一点は、人生においても、広布においても、要となる御指南であると確信する。
 3年前(1985年)の秋、私は10日間、入院した。初めてのことである。しかし客観的には、いつ倒れても決して不思議ではなかった。入信以来、40年間、また戸田先生の遺志を継いで、30年近く、走りに走ってきたからだ。
 〝30までしか生きられない〟といわれた弱い体で、働きぬいてきた。走りに走ってきた。つねに嵐と戦ってきた──。
 入院の件はマスコミ等でも大きく報じられた。あらぬ憶測や、利害や思惑がらみの姑息な動きも数多くあった。しかし私は、それらのさざ波を達観していた。
 私は、この病は仏の大慈悲である、と深く実感していた。もう一度、一人立って、真の総仕上げを開始すべき〝時〟を教えてくださったと確信した。
 今こそ、本当のものを語っておこう。後世のためにも、本格的に、あらゆる角度からの指導を、教え、残しきっておこう。そして創価学会の真実を、その偉大なる意義と精神を伝えきっておかなければならない──と。
 それまで、学会も盤石にしたし、教えるべきことは教えたとも考えていた。しかし、この病気を契機として、私はこれまでの10倍、20倍の指導を残そう。10倍、20倍の仕事をしよう、と決意した。そして、今まで以上に、いやまして真剣に走り始めた。これからも走っていく。
 ともあれ、これから諸君の人生にあっても、大なり小なり、苦労と苦難は避けられない。しかし、すべては諸君を大樹へと育てゆく仏の慈悲と確信してもらいたい。
 そのことを確信し、堂々と一切を乗り越え、難あるごとに、いよいよ強く、いよいよたくましく、いよいよ朗らかに人生と広布を開いていく、〝信仰王者〟として生きぬいてもらいたい。
2014-08-25 : 池田SGI会長指導選集 :
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