池田SGI会長指導選集 「幸福と平和を創る智慧」 第1部 第3章 3-1〜3-11

 第3章 生命変革の実践

 この章を読むに当たって

 日蓮大聖人の仏法における生命変革の原理を明かした前章に続いて、この章では、生命変革の最も基本的な実践となる勤行について示していきます。
 勤行では、御本尊を信じて南無妙法蓮華経の題目を唱える唱題と共に、法華経の方便品第2と如来寿量品第16の読誦を行います。
 法華経は、仏教の智慧と慈悲の精華というべき最高の経典です。日蓮大聖人は、この法華経の文底にこめられた肝要の法を南無妙法蓮華経として示し、御本尊という信心・修行の対象として顕されました。
 池田SGI(創価学会インタナショナル)会長は、大聖人の説かれた「事の一念三千」の法理に基づき、南無妙法蓮華経とは、生命と宇宙を貫く根本法であり、勤行とは、わが生命と宇宙が御本尊を介して交流しゆく儀式であると述べています。私たちが、御本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱題するとき、わが生命が大宇宙の妙法のリズムに合致し、限りない智慧と慈悲と勇気を発揮していけるのです。
 日蓮大聖人が諸御抄で示されている通り、この勤行には、あらゆる仏道修行の意義が含まれています。たとえ法門を深く理解できなくても、特別な人にしかできないような修行をしなくても、勤行の実践を根本とした生き方を通して自身の境涯を限りなく向上させていくことができます。大聖人の仏法は、民衆に聞かれた、民衆のための仏法なのです。
 さらに、現実の人生を変革するためには、勤行に励むだけでなく、勇気をもって行動することが不可欠であると強調しています。

 3-1 勤行は大宇宙と交流する儀式
 
 この節では、「此の身の中に具《つぶ》さに天地に倣《なら》うことを知る」(御書567㌻)など、わが生命と宇宙の相関《そうかん》を説いた仏典の記述を踏まえ、生命と宇宙を貫く根本法が南無妙法蓮華経であることを示します。そのうえで、南無妙法蓮華経と唱える実践によって、わが生命に限りない妙法の力が現れてくると教えています。

【池田SGI会長の指針】
◎『青春対話』から 
                   (1999年3月刊)

 勤行・唱題は、自分自身と大宇宙とが交流しゆく儀式です。御本尊を根本として、自分という「小宇宙」の中に「大宇宙」の生命力を、生き生きとくみ上げる作業が勤行です。
 自分は生きている。生命がある。それと同じく大宇宙も一個の巨大な生命である。生命即宇宙であり、宇宙即生命である。私たち人間も、大宇宙と同じく一個の生命であり、「小さな宇宙」なのです。
 ある学者は「人間の体は、星と同じものでできている」と言い、人間を「星の子」と呼びました。「小宇宙」です。物質だけでなく、宇宙の「創造と破壊の作用」「生と死のリズム」も、わが身を貫いている。また重力の法則、エネルギー保存の法則、その他、ありとあらゆる法則も、一個の小宇宙にかかわっている。
 地球が太陽の周りを365日と5時間48分で1周する。厳然たる秩序がある。人体の細胞も60兆と言われるが、それらが毎日、整然と、秩序正しく運行しているのが、健康な生命の状態です。不思議であり、絶妙な働きです。地球が太陽の周りを回る。ちょっとでも軌道がずれたら大変です。いな、地軸が少し傾いただけで、すべての生物は絶滅の危機を迎えるでしょう。それほど微妙であり、しかも厳然として、大宇宙即生命の「法則」がある。小宇宙も同じです。
 こういう「目には見えないが実在する法」を探究したのが科学であり、その成果を応用してつくったのが、さまざまな機械です。たとえば、船は、見えない「浮力」の法則を応用してつくったものであり、飛行機なら「揚力」の法則です。ラジオ・テレビは「電波」という法則などでしょう。それらは宇宙の部分的な法則です。
 それに対し、仏法は、物心のあらゆる法の根本にある「生命の大法」を探究し、発見したのです。それが「妙法」です。妙法は、目には見えない。しかし厳然と実在する。この妙法の力を引き出せるよう、日蓮大聖人が御本尊を御図顕してくださったのです。だから戸田先生は「もったいないことであるが、御本尊は幸福製造機にたとえられる」と、わかりやすく教えてくださった。
 御本尊に勤行・唱題することによって、小宇宙のわが身が、見事に大宇宙と調和していくのです。崇高な儀式です。自分自身の中にある「宝の蔵」を開き切っていく作業です。わが生命の大地に、生命力のわき出ずる泉を掘っているのです。こんこんと、くめども尽きぬ智慧と慈悲と勇気の源流を掘っているのです。
 「宇宙」も、その本体は南無妙法蓮華経です。「わが生命」も南無妙法蓮華経の顕れです。そして「御本尊」も南無妙法蓮華経の御当体です。三者とも南無妙法蓮華経であり、本来、一体なのです。ゆえに南無妙法蓮華経と唱えゆく時、御本尊を中心にして、わが生命と宇宙が、きちっとギアをかみ合わせ、幸福の方向へ、幸福の方向へと回転を始めるのです。春夏秋冬、365日、大宇宙のリズムに合致して、どんな悩みも乗り越えられる「生命力」と「智慧」と「福運」を発揮していける。「仏界」という生命力のエンジンを爆発させながら、行き詰まりを打開し、前へ前へ、希望の方向へ、正義の方向へと、勇んで走っていけるのです。

 3-2 民衆に開かれた修行

 一般的に仏教は、実践が困難な様々な修行法を説いています。これに対し、日蓮大聖人は、すべての修行の意義が唱題に集約されていると仰せです。この節では、大聖人の御聖訓をもとに、形式にとらわれた修行ではなく、信心根本の唱題こそ成仏の直進であると強調しています。

【池田SGI会長の指針】
◎イタリア代表者会議でのスピーチから
     (1992年7月2日、イタリア)

 日蓮大聖人の門下に、富木常忍という信徒がいた。大聖人が彼に送られた書の中に、末法の正しい修行を述べられた「四信五品抄」がある。その中で、大聖人は、末法の修行は、「信の一字を詮と為す」(御書339㌻)──信の一字を究極とする── と教えられている。
 大聖人の仏法の肝要は、形式ではない。「心」である。「信心」が根本である。そして御本尊を信じて、「唱題」する修行に、すべての修行が含まれていると、大聖人は仰せである。
 そのたとえとして、わかりやすく次のように述べられている。
 「日本の二字に六十六国の人畜財《にんちくざい》を摂尽《しょうじん》して一《ひとつ》も残さず」(御書341㌻)──日本という二文字に、日本66カ国の人、動物、財宝のすべてを収めつくしており、一つも残すものがない──と。
 同様に、「南無妙法蓮華経」という題目に、法華経の一切が含まれているから、唱題行が、そのまま成仏の直道となる。それ以外の、形式にとらわれた修行は、枝葉《えだは》の修行であり、かえって信心を邪魔するものになってしまう。
 さらに、この題目の深い意義がわからなくても、題目の功徳を、そのまま身に顕していくことができる、と教えてくださっている。それは、あたかも「小児乳を含むに其の味を知らざれども自然《じねん》に身を益《やく》す」(同㌻)── 子どもが母のお乳をすうのに、その味(中身)を知らなくても、自然に、その身に利益《りやく》を得る(成長していく)── のと同じである、と。
 生まれたばかりの赤ちゃんのように、法門を理解していなくても、題目を疑わずに唱えていけば、自然と、題目の偉大な力を身につけていくことができる。大聖人の仏法は、〝民衆〟に開かれた〝民衆のための仏法〟なのである。
 また「妙法蓮華経の五字は経文に非ず其の義に非ず唯一部の意《こころ》なるのみ」(御書342㌻)──妙法蓮華経の五字は、たんなる経文ではない。その意義でもない。ただ法華経全体の心である──ともおっしゃっているのである。
 私たちの唱える題目は、法華経の心であり、根本的には大聖人の魂そのものなのである。
 したがって、その意味がわからなくても、御本尊を信じて題目を唱えるとき、大聖人の魂にふれていくことができる。わが身に、南無妙法蓮華経の大聖人の生命を涌現させていくことができる。なんとありがたいことか。

 3-3 唱題は人生に勝利する力

 どのような心構えで唱題に取り組めばいいのか。この節は、小説『新・人間革命』で、主人公の山本伸一が、信心して間もないペルーの同志に語った言葉です。「断じて勝つと心を定めて、獅子の吼えるがごとく……」など具体的にアドバイスをしています。

【池田SGI会長の指針】
◎小説『新・人間革命』11巻「開墾」から 
        (2002年10月刊)

 永遠の幸福を築くのは誰か。人生の勝利を収めるのは誰なのか──それは、生涯を、妙法とともに、広布とともに、学会とともに生き、真剣勝負で戦い抜いた人です。皆さんには、全員、人生の大勝利者になっていただきたい。では、そのための要諦は何かについて、今日は少しお話ししたいと思います。
 それは、第1に、お題目です。
 健康ということも、勇気も、智慧も、歓喜も、向上心も、あるいは、自分を律するということも、生命力のいかんで決まってしまうといえる。その生命力を無限に涌現しゆく源泉こそが唱題なんです。ゆえに、唱題根本の人には行き詰まりがない。
 ともかく、日々、何があっても、題目を唱え抜いていくことです。題目は宇宙の根本の力です。朝な夕な、白馬が天空を駆け巡るように、軽快に、すがすがしい、唱題の声を響かせていくんです。
 仏と相対するわけですから、厳粛な気持ちを忘れてはいけませんが、素直な心で御本尊にぶつかっていけばいいんです。御本尊は、大慈悲の仏様です。自分自身が願っていること、悩んでいること、希望することを、ありのまま祈っていくことです。
 苦しい時、悲しい時、辛い時には、子どもが母の腕《かいな》に身を投げ出し、すがりつくように、「御本尊様!」と言って、無心にぶつかっていけばいいんです。御本尊は、なんでも聞いてくださる。思いのたけを打ち明けるように、対話するように、唱題を重ねていくんです。やがて、地獄の苦しみであっても、嘘のように、露のごとく消え去ります。
 もし、自らの過ちに気づいたならば、心からお詫びし、あらためることです。二度と過ちは繰り返さぬ決意をし、新しい出発をするんです。
 また、勝負の時には、断じて勝つと心を定めて、獅子の吼えるがごとく、阿修羅の猛るがごとく、大宇宙を揺り動かさんばかりに祈り抜くんです。
 そして、喜びの夕べには「本当にありがとうございました!」と、深い感謝の題目を捧げることです。
 御書には、「朝朝《ちょうちょう》・仏と共に起き 夕夕《せきせき》仏と共に臥《ふ》し……」(737㌻)と仰せですが、題目を唱え抜いている人は、常に御本仏と一緒です。それも今世だけでなく、死後も、御本仏が、諸天・諸仏が守ってくださる。
 だから、生命の底から安堵できるし、何も恐れる必要がない。悠々と、人生を楽しみながら、生き抜いていけばいいんです。
 題目は、苦悩を歓喜に変えます。さらに、歓喜を大歓喜に変えます。ゆえに、嬉しい時も、悲しい時も、善きにつけ、悪しきにつけ、何があっても、ただひたすら、題目を唱え抜いていくことです。これが幸福の直道です。

 3-4 法華経の要《かなめ》は方便品・寿量品に

 勤行の際には、法華経の方便品・寿量品を読誦します。この節では、一切衆生が皆、仏であるという法理を明かす方便品と、永遠の生命の哲理を説く寿量品の意義について述べます。

【池田SGI会長の指針】
◎世界平和祈念勤行会でのスピーチから
      (2002年9月8日、東京)

 朝夕に
  方便品と
    寿量品
  宇宙の曲に
    合わせ楽しめ

 かつて私は、こう詠んだことがある。
 仏法の最高峰である法華経、その真髄である方便品と寿量品を読誦し、仏法の究極の大法、宇宙の根本の法則である南無妙法蓮華経を朗々と唱えゆくことが、いかにすばらしい幸福と平和の創造であるか。
 法華経は、「一切衆生の成仏」のために説かれた経典である。文底から拝すれば、法華経は、「末法万年尽未来際」にわたって、一閻浮提(=全世界)」の一切衆生の成仏を開く根源の一法である南無妙法蓮華経の御本尊の、いわば〝説明書〟としての深遠な意義がある。
 その要諦を納めているのが、諸法実相が説かれた「方便品」であり、久遠実成が説かれた「寿量品」である。
 「方便品」では、南無妙法蓮華経の智慧が甚深無量であることが讃嘆され、「一切衆生が皆、仏である」という法理が明らかにされている。
 とくに、「諸法実相・十如是」の部分は、千変万化するすべての生命(諸法)が、ことごとく南無妙法蓮華経の姿(実相)であることが示されている。日蓮大聖人は、「十界の依正の当体・悉く一法ものこさず妙法蓮華経のすがたなり」(御書1358㌻)と仰せである。本来、いかなる衆生も妙法の当体なのである。すなわち、題目を唱え、広宣流布へ行動していく人は、ありのままの姿で、必ず、仏の生命となっていくのである。
 どこか、遠いところに行くのではない。何か、特別の自分になるのでもない。今いる、その場で、そのままの姿で、大宇宙とわが生命をダイナミックに交流させながら、自分自身の本来の「実相」、すなわち南無妙法蓮華経の当体としての姿を輝かせきっていく。それが、勤行である。信心の世界である。
 そこには、妙法の智慧と勇気と慈悲が、限りなく涌現してくる。ゆえに、何ものをも絶対に恐れることはない。
 寿量品の「寿量」とは、仏の寿命・功徳を詮量するという意義である。文底から拝するならば、「南無妙法蓮華経如来」の久遠、永遠の寿命と功徳を、つまびらかに量り、明らかにすることである。
 ここでは、「永遠の生命」が明かされ、それが一切衆生の生命の真実の姿でもあることが説かれている。そして、この大法を弘めて、一切衆生を救っていくのが「地涌の菩薩」の使命であると示されていくのである。
 なかんずく寿量品の「自我偈」は、「自身」の尊極にして永遠の大生命力を謳いあげた、壮大な「詩」である。
 日蓮大聖人は、自我偈の最初の「自我得仏来」(創価学会版法華経489㌻)の「自」と、終わりの「速成就仏身」(同493㌻)の「身」を合わせて、「始終自身なり」(御書759㌻)と御指南されている。自我偈とは、終始一貫して、仏の「自身」、仏の「生命」を讃嘆したものであり、それはそのまま、われわれ自身の三世永遠にわたる自在の境涯を謳いあげた詩といってよい。
 「この人生を生きる意味とは何か」「わが生命の本来の姿とは何か」「われわれは、いずこより来りて、いずこへ行くのか」「生死とは何か」という、一切の思想・哲学・宗教の根底をなす、生命の究極の命題にまっこうからこたえたのが、自我偈である。
 ここに、全人類、全生命を永劫に照らしゆく希望と歓喜の法理がある。
 自我偈には、「我此土安穏 天人常充満 (我が此の土《ど》は安穏にして 天人は常に充満せり)」(創価学会版法華経491㌻)とある。
 この現実の社会には、大火に焼かれるような苦しみが、いまだに絶えることがない。その中にあって、永遠の生命の哲理を掲げて、人類が永遠に理想として願望してきた、安穏にして平和の幸福世界を断固としてつくり上げていこうというのが、広宣流布の大運動である。
 ここに、多くの哲学者、宗教者、平和学者等が願望してきた、全人類が幸福に生きる権利を21世紀に打ち立てゆく道がある。

 3-5 勤行が生命を清浄に

 この節では、勤行が生命錬磨の根本法であることを示します。勤行の実践によって、知覚・感覚の機能である六根(眼《げん》・耳《に》・鼻《び》・舌《ぜ つ》・身《しん》・意《い》)が浄化され、生命を清浄に転換していけるのです。


【池田SGI会長の指針】
◎芸術部総会でのスピーチから
         (1987年5月10日、東京)

 妙法こそ生命を磨きゆく根本である。「一生成仏抄」には次のように仰せである。
 「譬えば闇鏡《あんきょう》も磨きぬれば玉と見ゆるが如し、只今も一念無明の迷心は磨かざる鏡なり是を磨かば必ず法性真如の明鏡と成るべし 、深く信心を発《おこ》して日夜朝暮に又懈《おこたら》らず磨くべし何様《いかよう》にしてか磨くべき只南無妙法蓮華経と唱へたてまつるを是をみがくとは云うなり」(御書384㌻)
 ──たとえば、曇った鏡も磨きあげれば、玉のように輝いていく。迷い悩む生命は、磨かない鏡のようなものである。これを磨くならば、必ず、真実の悟りの智慧の明鏡となる。深く信心を奮い起こして、朝も夕もつねに怠ることなく生命を磨かねばならない。どのように磨けばよいか。(御本尊に)南無妙法蓮華経と(自行化他にわたる)題目を唱えていくことが、生命を磨いていくことになる──と。
 現代は悪縁の絶えない社会である。清浄な生命も、すぐに曇り、汚れてしまう。ゆえに、この生命錬磨の根本法が絶対に必要となる。
  磨きぬかれた生命には智慧が輝く。その智慧は〝人生の勝利〟を導く光となる。法華経の法師功徳品第19には、妙法を受持した人の智慧を「又《ま》た浄明なる鏡に 悉《ことごと》く諸《もろもろ》の色像を見るが如く」(創価学会版法華経547㌻)と説く。清浄にして明るい鏡が、あらゆる物の像をはっきりと映し出すように、磨きぬかれた生命は、世の中のあらゆる現象を明瞭に見ぬくことができるのである。
 この経文について、日蓮大聖人は「御義口伝」に次のように仰せである。
 「六根清浄の人は瑠璃明鏡の如く三千世界を見ると云う経文なり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者は明鏡に万像を浮ぶるが如く知見するなり」(御書763㌻)と。
  瑠璃とは七宝の一つ。六根清浄とは、この法師功徳品に説かれた、正法の実践者の功徳である。すなわち眼《げん》・耳《に》・鼻《び》・舌《ぜつ》・身《しん》・意《い》の六根という知覚・感覚の機能、つまりは生命の全体が清浄に輝いてくる。
 鍛えられ、磨かれたこの生命の「明鏡」は、宇宙と社会と人間の全体を、あますところなく映しだす。「明鏡」とは根本的には、御本尊のことであられる。すなわち日蓮大聖人の御生命である。総じて、御本尊を信ずる大聖人門下の「一心の明鏡」である。
  信心の重大な意義がここにある。強盛なる信心によって生命の色心が、もっとも清浄に、もっとも力強く、向上し変革されていくのである。大切なことは、信心 による生命の浄化は、〝人間としての勝利〟の原動力となることである。ゆえに信心を最後の最後まで貫き通さねばならない。

 3-6 変革は祈りから始まる

 法華経の行者の祈りは、必ず叶うことを断言された日蓮大聖人の御聖訓(祈禱抄)の講義です。大聖人の仏法の祈りは、正しい実践を促す原動力であると訴えるとともに、単に祈るだけでなく、実践を伴ってこそ現実の人生の変革が可能になると教えています。

【池田SGI会長の指針】
◎「『祈禱抄』講義」から 
       (1977年10月22日「聖教新聞」掲載)

 されば法華経の行者の祈《いの》る祈《いのり》は響《ひびき》の音に応ずるがごとし・影の体にそ《添》えるがごとし、す《澄》める水に月のうつるがごとし・方諸《ほうしょ》の水をまねくがごとし・磁石の鉄をす《吸》うがごとし・琥珀の塵をとるがごとし、あき《明》らかなる鏡の物の色をうかぶるがごとし」(御書1347㌻)
 ──したがって、法華経の行者が祈る祈りは、響きが音に応ずるように、影が身体に添うように、澄んだ水に月が映るように、方諸(鏡の一種)が水を招くように、磁石が鉄を吸うように、琥珀が塵を取るように、明らかな鏡が物の色を浮かべるように必ず叶うのである──
 法華経の行者の祈りは、必ず叶うことを断言された御文です。引かれた譬えが、いずれも自然の道理、事実の姿であることに、日蓮大聖人の強い御確信をみる思いがします。
 音には響きが応ずるように、体に影が従うように、法華経の行者の祈りのあるところ、そこに結果が出ないわけはない。祈りに応じて、自己の生命の色心にわたる回転が起こり、また依報(=自身の生命を取り巻く環境世界)もそれに呼応して動くとの仰せであります。
 祈りとは、決して観念ではない。現代人の目からすれば、目に見えない生命の世界は観念の産物にすぎないと考えるかもしれません。しかし、もし物質的な観点だけで物事をとらえていったならば、人と人との関係、人と物との関係の大部分は、偶然の混沌の中に埋没してしまうでしょう。
 仏法の透徹した英知は、その混沌の奥に生命の法を見いだし、事象を内より支え、動かしていく力をとらえているのであります。
 「命已《すで》に一念にすぎざれば仏は一念随喜の功徳と説き給へり」(御書466㌻)と仰せのように、瞬間瞬間に如々として来って内より自身を支え、本源的な方向性を与えていくものこそが、最も問題とされなければならないわけであります。祈りとは、この本源的な世界における、生命の迷いとの唯一の対決の在り方といってよいでありましょう。
 したがって、祈りとは、正しい実践、粘り強い行動を貫くための源泉であります。祈りのない行動ほどもろいものはない。それは、ある時は順調で、意気盛んにみえるかもしれません。しかし、ひとたび逆境に直面するや、枯れ木のように、もろくも挫折してしまうでありましょう。なぜなら、そこには、我が胸中を制覇するという一点が欠けているがゆえに、現実社会の浮き沈みの中で、木の葉のように翻弄されてしまうからであります。
 人生の坂は、一直線に向上の道をたどるようなものでは、決してありません。成功もあれば失敗もある。勝つときもあれば負けるときもあります。そうした、様々な曲線を描きつつ、一歩一歩、成長の足跡を刻んでいくものであります。その過程にあって、勝って傲らず、負けてなお挫けぬ、強靭な発条《ばね》として働くのが、祈りなのであります。
 ゆえに祈りのある人ほど強いものはない。我が強盛なる祈りに込めた一念が、信力、行力となってあらわれ、それと相呼応して仏力、法力が作動するのであります。主体はあくまで人間であります。
 祈りとは、人間の心に変化をもたらすものであります。目に見えないが深いその一人の心の変化は、決して一人にとどまるものではありません。また一つの地域の変革は、決してその地域のみにとどまってはいない。一波が万波を呼ぶように、必ず他の地域に変革の波動を及ぼしていくのであります。
 そうした展転《てんでん》の原点となる最初の一撃は、一人の人間の心の中における変革であると、私は申し上げたいのであります。
 仏法は道理である、と言われることの深意もここにあるといってよいでしょう。譬えの中の「音」「体」「すめる水」等は祈りの姿であり、「響」「影」「水にうつる月」等は、祈りの叶っていく自然な様相をあらわしていると拝することもできます。それらの譬えが自然の理法であるように、法華経の行者の祈りは、生命の世界の必然の法として、道理として、必ず叶っていくのであります。
 こうした祈りは、傲慢や慢心とは、およそ縁遠いものでありましょう。端座唱題の凜然たる姿には、浅薄な自己の智慧、わずかな経験への執着を乗り越えて、仏の智慧によって見いだされた生命の法、自然、宇宙の根源のリズムに冥合しようとの、謙虚な姿勢が脈打っているものであります。卑屈にもならず、一切の活動を一念へと凝縮し、生命の充電を受けつ、無限の飛躍を期している。それは人間生命の、最も健康にして充溢した姿なのであります。
 ともかくも、私どもは、生活の、人生のすべての問題を御本尊に祈りきって、取り組んでいこうではありませんか。
 祈ることが大事であり、そこから一切が出発することを忘れてはならないと申し上げたい。事のうえにおいて、祈りを失って、我が生命を回転させなければ、どのようなうまい話をし、高尚な理論を展開しても、それはすべて理であり、夢であり、幻となってしまう。信心といい、学会精神といい、すべて現実を、強く、深く祈ることから始まるといってよいのであります。
 仏法の祈りは、単に祈っていればいいというものではない。
 満々たる生命力をはらんだ矢が射られていくごとく、行動、実践をはらんでいるのであります。したがって、行動なき祈りは観念であり、祈りなき行動は空転なのであります。
 ゆえに、偉大なる祈りは、偉大なる責任感から起こると申し上げたい。仕事に対し、生活に対し、人生に対して無責任な姿勢、どうでもいいという姿勢からは、決して祈りは起こってきません。自己のかかわる一切に責任を持ち、真剣に取り組んでいる人こそ祈りを持つものであります。
 世の中が厳しいだけに、生活の一つ一つに強い祈りを持って取り組んでいただきたいことを重ねて申し上げ、私の講義とさせていただきます。

 3-7「大切なのは、あげる姿勢? それとも、あげる数?」


 イタリアのメンバーの「題目は、〝あげる姿勢〟と。〝あげる数〟と、どちらが大切でしょうか」との質問に対し、信心とは、「こうしなければならない」という形式ではなく、自分が満足し、充実し、価値的に行勤していくことが大事であるとアドバイスしています。

【池田SGI会長の指針】
◎「7・3」記念北イタリア代表幹部会でのスピーチから
(1992年7月3日、イタリア)

 10万リラ(イタリアの通貨)のお札は、1万リラのお札よりも、質が高い。10万リラ札のほうが良いのは当然です。真剣な、確信ある唱題が大事です。そのうえで、10万リラ札を、数多く持っていれば、いちばんいいわけです(笑い)。質も、量も、両方、大事なのです。
 また、仏法では感応が大切です。たとえば電話は感度が良ければ、小さな声で「もしもし……」と、ささやいても通じる。叫ぶような声で「もしもし! もしもし!」とやっても通じない場合もある。祈りが通じるには、ありのままの自分で、ぶつかっていくことです。
 御書には「夫信心と申すは別にはこれなく候」(1255㌻)──そもそも信心というのは、特別なものではない──と仰せです。ありのままの自分でよいのです。
 大聖人は続けて「妻のをとこをおしむが如くをとこの妻に命をすつるが如く、親の子をすてざるが如く・子の母にはなれざるが如くに、法華経釈迦多宝・十方の諸仏菩薩・諸天善神等に信を入れ奉りて南無妙法蓮華経と唱へたてまつるを信心とは申し候なり」(御書1255㌻)
 ──妻が夫を大切にするように、夫が妻のために命を捨てるように、親が子を捨てないように、子どもが母から離れないように、法華経と釈迦仏、多宝如来、十方の諸仏菩薩、諸天善神等を信じ奉りて、南無妙法蓮華経と唱え奉るのを、信心というのである──と仰せです。
 無作というか、苦しければ苦しいままに、悲しければ悲しいままに、思ったとおりに祈っていくことです。
 大聖人の願いは私どもの幸福なのだから、その大聖人の御生命にふれ、つながっていって、幸福になれないはずがない。
 大聖人のお使いとして広宣流布のために働いた人を、大聖人が守ってくださらないはずがありません。
 どこまでも自分のための信心です。唱題も「自分が満足する」ということが大切です。 決して、何遍やらなければいけないとか、形式ではない。目標を立てることは意味があるが、疲れているときとか、眠いときとか、心もうつろに、惰性で口を動かしているだけ? それならば、早く休んで、はつらつとした心身で行うほうが、価値的な場合がある。
 自分が、ああ、すっきりしたと満足することが、いちばんです。その毎日毎日の積み重ねが、自然のうちに、「所願満足」の人生を開いていくのです。

 3-8「どうすれば、いつも意欲的に祈れるか?」

 イタリアのメンバーの「SGI会長と共に唱題していると、自分の夢を実現させようという意欲と勇気がこんこんとわき上がってきました。どうしたら、いつでも、このような気持ちで唱題し、勇気をもって生きていけるでしょうか。との質問に答え、信心を持続していけば、必ず最高に価値ある人生の道を歩んでいけると教えています。


【池田SGI会長の指針】
◎「7・3」記念北イタリア代表幹部会でのスピーチから
(1992年7月3日、イタリア)

 たとえ一遍の題目でも、全宇宙に通じます。いわんや「心」「一念」をこめた題目は、一切を揺り動かしていく。一般的にも、同じ「愛しています」という言葉でも、心がこもっているか、目先だけかでは、全然ちがう(笑い)。
 ともあれ、「わが身が妙法の当体なのだ」と深く深く確信した題目、「私は、仏の使いとして、妙法を弘めるために生きるのだ」と一念を定めた題目が、御本尊に響かないはずはない。宇宙に届かないはずはない。必ず自在の境涯になっていく。
 もちろん、何事においても、初めから、〝達人〟にはなれません。さまざまな障壁を乗り越え、また乗り越え、進み続けてこそ、〝達人〟のごとき境涯が開いていく。
 信心も同じです。自分に負けて、決意がうすれていく場合もある。思いどおりにいかず、あせる場合もある。けれども、ともかく唱題し続けていく。願いが叶おうが、すぐには叶うまいが、疑うことなく、題目を唱えぬいていく。
 そうやって信心を持続した人は、最後には必ず、自分自身にとって、〝これがいちばん良かったのだ〟という、価値ある「最高の道」「最高の峰」に到達できる。すべてが喜びであり、使命であると言いきれる、「所願満足の人生」を築くことができる。それが妙法であり、信仰の力です。
 御本尊は、なぜ大切なのか──。それは、御本尊への「信」によって、私どもの胸中の本尊、仏界を開けるからです。
 この「御本尊」は、自身の「信心」のなかにこそある、と大聖人は仰せです。
 妙法の当体である自分自身、人間自身が大事なのです。その胸中の妙法を顕すためにこそ、御本尊が、こよなく大切なのです。

 3-9「頑張っても悩みが解決できないが……」

 未来部員の「悩みを解決しようと、一生懸命に勤行をしているのですが、全然解決できません」という質問に対する答えです。「祈りとして叶わざるなし」の信心であると述べたうえで、御本尊の功徳には、すぐに現れる「顕益《けんやく》」と、次第に現れてくる「冥益《みょうやく》」があり、たとえ、すぐには結果が出なくても、粘り強く祈りと努力を重ねていけば、自分にとっていちばんいい方向に必ず進んでいけると強調しています。


【池田SGI会長の指針】
◎『青春対話』から
                    (1999年3月刊)

 「祈りとして叶わざるなし」の信心です。しかし、祈ってすぐに叶うのは、〝手品の信仰〟だ。「明日、宝くじに当たりたい」「明日のテストで100点を取りたい」と祈って、簡単にそうなるものではない。しかし、もっと深く、長い目で見た場合に、祈った分だけ、全部、幸福の方向に行っているのです。
 目先の願いが叶う場合もあれば、叶わない場合もある。しかし、あとから振り返ると、その結果が「いちばんよかった」という形になっているものです。
 仏法は道理であり、信心即生活です。信心即現実だ。現実のうえで、努力もしないで、安易に願いが叶うわけがない。
 さらに、宿業的なもの──『過去に根の深い原因がある苦悩を変えていくには、長い努力が必要になってくる。
 「切り傷が治る」のと「内臓疾患が治る」のとでは、治り方の時間も違ってくる。薬で治る病気もあれば、手術が必要な病気もある。それと同じです。また、信心の度合いも一人一人違いがあるし、もっている宿命も一人一人違う。
 しかし、祈っていくことによって、必ず「よい方向へ」「よい方向へ」と、本格的な希望が開けていくことは間違いないのです。
 何でも「すぐ」ということは、あり得ない。「すぐ」に叶ってしまえば、その人の堕落につながる。安易な人生になってしまう。ちょっと絵を描くのが好きな人が、バッバッと絵を描いて、すぐに展覧会ができて、絵が売れてしまうことなど、あり得ない。仕事をしないで遊び回り、そのせいで貧乏になっている人に、貧乏だからといって、たくさんお金をあげて、その人は幸福になるだろうか。
 建物でも、こちらをいじったり、あそこを直したり、目先の改築を何回も重ねるよりも、新築するほうが丈夫で立派なのができるし、強い。目先のことではなくて、生命が根底から変わるのが信心です。生命が芯から強くなっていくし、永遠に消えない福運が固まっていくのです。
 御本尊の功徳には「顕益」と「冥益」がある。「顕益」というのは、病気とか、人間関係とか、何か問題が起こった時に厳然と守られ、すみやかに解決できる利益です。
 「冥益」とは、木がゆっくりと育つように、また海の水が満ちていくように、次第に福運を積み、豊かな大境涯を築いていく。毎日、見ていても変わっていないようで、何年間か長い目で見た場合には、厳然と幸福になっている。成長している。それが「冥益」です。「顕」とは、はっきり目に見えるということ。「冥」とは、なかなか目には見えないことを意味する。
 題目を唱えていけば、「顕益」の場合もあれば、「冥益」の場合もあるが、結果として必ず、自分にとっていちばんいい方向になっていくのです。
 ともあれ、何があっても「祈り続ける」ことです。そうすれば、必ず幸福になる。その時は、自分が思っているような解決をしなくても、もっと深いところ、あとから考えると、「いちばんよかった」という方向になっていたことがわかるものです。これがすばらしい「冥益」です。
 たとえば、「きょう腹いっぱい食べて、一生、飢えて暮らす」よりも、「今すぐには腹いっぱい食べられなくても、一生涯、悠々と食べていける」人生のほうが、はるかによい。日蓮大聖人の仏法は、そのようなものです。

 3-10「勤行ができなかったが……」

 未来部員の「勤行ができなかった日は、〝罪悪感〟にさいなまれる」との悩みに答え、「仏法は人間を自由にするものであり、人間を縛るものではない」と強調し、少しずつで挑戦を続けていく心が尊いと語っています。

【池田SGI会長の指針】
◎『青春対話』から 
                   (1999年3月刊)

 御本尊を信じている限り「罰」なんか出ません。心配しなくてもいい。日蓮大聖人は「一遍の題目にも、限りない功徳がある」(御書940㌻など、趣意)と言われている。
 いわんや、真剣に勤行・唱題を続けたら、どれほどすばらしいか。全部、自分のためです。義務ではなく、自分の権利です。
 御本尊は決して、拝んでほしいなどと言われていない。こちらから、拝ませてくださいというのが信心です。やった分だけ、自分が得をする。お題目を何遍あげなければいけない、というようなことは大聖人は、おっしゃっていない。本人の自覚の問題です。信心は一生のことなのだから、神経質にとらわれてはいけない。
 ともかく窮屈に考える必要はない。仏法は人間を自由にするものであって、人間を縛るものではないのです。少しずつでも、毎日することが大事です。 毎日、ご飯を食べてエネルギーとなる。勉強も毎日、積み重ねることによって力となる。「毎日の生活が即人生」となる。だから「毎日の生活即向上」でなければならない。その推進力が勤行です。
 勤行という行に励むことは、毎日の「心のトレーニング」です。自分自身の生命を清浄にし、エンジンをかけ、軌道に乗せていくことです。心身ともに回転を促し、リズムを整えていくのです。
 「ともかく御本尊の前に」──その心が大事です。「少しでも、お題目を唱えていこう!」「毎日、御本尊に祈っていこう!」と挑戦を続ける心が尊いのです。

 3-11「経文や題目の意味がわからない……」

 アメリカのメンバーの「意味がわからない経文や題目を唱えて、どんな価値があるのか」という疑問に対し、たとえ意味は分からなくても、勤行・唱題は、御本尊に通じ一切の仏・菩薩に届く、いわば「仏・菩薩の世界の言語」であり、勤行・唱題によって大いなる幸福と充実と歓喜を実感することができると語っています。


【池田SGI会長の指針】
◎アメリカSGI青年研修会でのスピーチから
  (1990年2月20日、アメリカ)

 もちろん、経文や題目の意義がわかったほうがよいことは当然である。ただし、それは法への確信を強めるためである。わかっても実践しなければ何にもならないし、その深義のすべてを論理的に理解するというわけにはいかない。
 しかし、たとえば犬が鳴き、鳥がさえずる。犬には犬の、鳥には鳥の世界の声があり、言葉・信号がある。人間が間いてもまったくわからないが、犬同士、鳥同士には通じあっているにちがいない。また暗号や略語、外国語も他の人にはわからなくても、その世界の人には立派に通じる。夫婦の間なら「あれよ、あれ!」だけで通じる場合もある(笑い)。
 勤行・唱題の声は、たとえ人間に意味がわからなくとも、御本尊に通じ、三世十方の仏・菩薩の世界には、きちんと通じている。いわば仏・菩薩の世界の言語ともいえよう。
 ゆえに、御本尊への勤行・唱題の声は、一切の仏・菩薩・諸天善神のもとに届き、「善哉《よきかな》、善哉《よきかな》」「エクセラント(すばらしい)!」「ベリー・ナイス!」等と、喜び、たたえ、全宇宙が私どもを福光でつつむのである。
 大聖人は、勤行・唱題によって、私どもは毎日、いながらにして大宇宙を旅行するような大境涯を得るという意味のことを、教えてくださっている。
 たとえば「我等が弟子檀那とならん人は一歩を行かずして天竺の霊山を見・本有の寂光土へ昼夜に往復し給ふ事うれしとも申す計り無し」(御書1343㌻)と。
 ──大聖人の出家・在家の門下となる人は、一歩も動くことなく、法華経の会座がもたれたインドの霊鷲山に行き、宇宙にもともとある寂光土(仏の世界)へ、毎日、昼夜に往復されることは、うれしいとも何とも言いつくせない──
 御本尊を拝すれば、わが小宇宙の扉は、その場、その時に、大宇宙へと全開し、全宇宙を見おろすような悠々たる大幸福感を味わうことができる。大充実感と、大歓喜、一切を掌《たなごころ》に収めたような大確信を実感することができる。宇宙につつまれていた小宇宙が、宇宙をつつみかえしていく。
 また「南無妙法蓮華経の唱への母にあた《暖》ためられ・まいらせて(中略)実相真如の虚空にかけるべし」(御書1443㌻)と。
 ──南無妙法蓮華経と唱える声が無明の卵を温める母となって、やがて仏という鳥となり実相真如の虚空(仏界の大宇宙)へと必ず飛翔していく──
 さらに「我が身は藤のごとくなれども法華経の松にかかりて妙覚の山にものぼ《登》りなん、一乗の羽をたのみて寂光の空にもかけりぬべし」(御書1430㌻)と。
 ──あなたもわが身は藤のようであるが、御本尊という松にかかって、「妙覚の山」に登るであろう、一乗(妙法)の羽の力で「寂光(仏界)の空」にも翔けていくであろう ──
 最高峰の山頂に立てば、下界を晴ればれと見おろせるように、私どもは「最高の知恵」(妙覚)の山に登ることができると。
 また大宇宙に飛びゆくように、きらめく銀河、走る流星群、とりどりの美しき星々を眺めつつ、生命の無限の広がり、奥行きを刻々に味わい、かみしめて生きる常楽の境涯となる。
2014-05-27 : 池田SGI会長指導選集 :
Pagetop
« next  ホーム  prev »

プロフィール

fmiokun

Author:fmiokun
FC2ブログへようこそ!

最近のトラックバック

月別アーカイブ

カテゴリー

メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

ブログ内検索