池田SGI会長指導選集 「幸福と平和を創る智慧」 第1部 第2章 2-1〜2-6

第2章 生命変革の原理

この章を読むに当たって
           
 私たちが目指すべき「絶対的幸福」は、どうすれば実現できるのでしょう? それは、外から与えてもらうものではありません。自身の内なる「生命」の変革によってこそ実現できると、池田SGI(創価学会インタナショナル)会長は、仏法の法理に即して教えています。
 私たちの生命は、善の方向にも悪の方向にも、また幸福にも不幸にも向かう、さまざまな可能性を持っています。苦悩の底に沈むこともあれば、欲望や本能に駆り立てられることもあります。人間らしく穏やかでいることもあれば、苦しんでいる他者を慈しんで手を差し伸べることもあります。
 仏法は、さまざまな生命の可能性を探究し、そこに十界という十種の境涯が存在することを明らかにしました。この十界のうちで尊極の可能性を開いた最高の境涯を仏界といいます。
 日蓮大聖人は、生命と宇宙を貫く大法を「南無妙法蓮華経」の御本尊として顕し、あらゆる人々が事実として仏界を開いていく方途を確立しました。
 この章では、生命変革の原理である十界論の基本と御本尊の意義について紹介します。
 御本尊を信じ、題目を唱える実践によって、生命の根底が仏界となり、人生で出合うあらゆる苦悩を自身の境涯を開く糧と転じていける、さらに自分自身にとどまらず、他者の生命の変革を促し、社会の向上と繁栄を築いていけるという大聖人仏法の核心の法理について、池田会長は語っています。

 2-1 心は「地獄」をも「天国」に変える

 自分自身を取り巻く環境がどのように見えるのか。それを決めるのは、その人自身の生命の境涯です。この節では、日蓮大聖人の仏法が、自身の生命の境涯を高め、自身を取り巻く環境を変え、事実の上で、確かなる人生の幸福と社会の繁栄を築き、国土の転換をも可能にする大法であることを示します。

【池田SGI会長の指針】
◎和歌山県記念総会でのスピーチから
        (1988年3月24日、和歌山)

 心というものは、それ自身一つの独自の世界なのだ、──地獄を天国に変え、天国を地獄に変えうるものなのだ」(『失楽園』平井正穂訳、岩波文庫)とは、ジョン・ミルトン(1608年―74年)の言葉である。ミルトンはシェークスピアと並び称される、17世紀イギリスの大詩人であった。
 みずからの心が、「地獄」を「天国」に、また「天国」を「地獄」に変えることができる──このミルトンの言葉は、仏法の一念三千論にも一分《いちぶん》通じる、彼の深い思索の一つの到達といってよい。
 世界がどう見えるか。また人生がどのように感じられるか。それは、ひとえに一人一人の境界世界によって決まる。
 御書には、「餓鬼は恒河《ごうが》を火と見る人は水と見る天人は甘露と見る水は一なれども果報に随って別別なり」(1025㌻)と仰せである。
 同じ恒河(ガンジス川)の水でも、餓鬼道の者には火と見え、人間には水、そして天人には甘露と見える。見る者の果報によって、まったく見え方がちがうのである。
 果報とは、過去の業因によってもたらされた、現在の生命境涯である。
その生命のあり方そのものが、外界の世界の見え方、感じ方を決めていく。
 同じ境遇でも、幸福を満喫する人がいる。また耐えがたい不幸を感じる人もいる。同じ国土にいても、すばらしき天地としてわが地域をこよなく愛する人もいれば、現在の住処を嫌い、他土《たど》ばかりに目を向ける人もいる。
 仏法は、その自身の境界世界を高めながら、確かなる幸福と社会の繁栄を築いていくための〝法〟である。さらに国土自体をも、「常寂光土」へと転換していける「事の一念三千」の″大法〟なのである。
 しかも、常住の大法にのっとった福徳、喜びは、決して一時的なものではない。樹木が年々、着実に年輪を増していくように、その福運は生命に蓄積され、三世に薫りを放っていく。反対に、世間的な富や名声、また快楽というものは、一時的にはいかに華々しくとも、はかない刹那のものである。

メモ  一念三千

 インドに現れた釈尊の仏法の精髄は、一切衆生の成仏の法理を説いた「法華経」に結実しています。
 中国の天台大師(6世紀)は、この「法華経」をもとに、生命の全体像を「一念三千」の法門として体系化しました。「一念」とは、瞬間瞬間の生命、「三千」とは、十界・十界互具、十如是、三世間という、生命を異なった観点から捉えた法理を総合したものです(十界 ×十界 ×十如是 ×三世間 = 三千)。
 十界とは、地獄界・餓鬼界・畜生界・修羅界・人界・天界・声聞界・縁覚界・菩薩界・仏界という十種の生命の境涯です。十界それぞれが十界を具えていることを十界互具といいます。十如是とは、相・性・体・力・作・因・縁・果・報・本末究境等《ほんまつくきょうとう》という十界の生命に共通する十種の側面です。三世間とは、五陰世間《ごおんせけん》・衆生世間《しゅじょうせけん》・国土世間のことで、十界の生命の具体的な存在や活動する環境世界を明かしたものです。
 「一念三千」の法門によって、「一念」すなわち瞬間瞬間の生命に、「三千」すなわち全宇宙のあらゆる現象・働きが具《そな》わるという、生命と宇宙の全体像が示されました。
 日蓮大聖人は、釈尊の「法華経」、天台大師の「一念三千」の法門を踏まえ、自らが覚《さと》った生命と宇宙の究極の大法を「南無妙法蓮華経」の御本尊として顕し、万人に生命変革を可能にする実践的な仏法を確立しました。
 大聖人の仏法の実践は、自分一人の生命の変革だけでなく、周囲の人々や環境、さらには、全人類の変革をも可能にするものです。単なる理論にとどまるのではなく、徹底して現実の生命と世界の変革を志向するゆえに、大聖人の仏法を、特に「事の一念三千」といいます。


 2-2 「仏界」とは苦悩の現実を照てらす太陽

 この節では、十界、十界互具という仏法の生命論の基本を簡潔に説明するとともに、万人が仏界という尊極の生命を顕す現実的な方途を、御本尊に対する信心修行として確立したのが、日蓮大聖人の仏法であることを示します。

【池田SGI会長の指針】
◎『生命と仏法を語る』から
                (1986年11月刊)

 瞬間、瞬間に流れゆく生命には、大きくみると十種の範疇がある。これを仏法は「十界」ととらえた。具体的に言えば、われわれの生命は「六道」、つまり「地獄界」「餓鬼界」「畜生界」「修羅界」「人界」という境界がある。そして、「四聖《ししょう》」「声聞《しょうもん》」「縁覚《えんがく》」「菩薩」「仏《ぶつ》」という、より高次元の境界がある。この範噂を、厳としてもっているのが生命の実相である。
 瞬間にあらわれる十界のいずれかの生命は、固定されるものではない。次の瞬間にはまた、十界のいずれかを顕現しゆく。この生命のダイナミズムを、仏法の直観智が見事にとらえた法理が「十界互具」である。
 「観心本尊抄《かんじんのほんぞんしょう》」には、人界所具《にんかいしょぐ》の九界の姿について、まことに簡潔、明瞭に述べられている。
 「数《しばし》ば他面を見るに或時は喜び或時は瞋《いか》り或時は平《たいらか》に或時は貪《むさぼ》り現《げん》じ或時は癡《おろか》現じ或時は詭曲《てんごく》なり、瞋《いか》るは地獄・貪《むさぼ》るは餓鬼《がき》・癖《おろか》は畜生《ちくしょう》・詭曲《てんごく》なるは修羅《しゆら》・喜ぶは天《てん》・平《たいら》かなるは人なり」(御書241㌻)と。
 これらが、それぞれ顕現したり、冥伏《みょうぶく》したりする。これは私どもの日常生活でよくみる、またよく感じ、納得できる。
 ここで重要なことは、仏法の探究の眼《まなこ》は、尊厳にして無限の力をもつ「仏界」という生命を、いかにして顕現しゆくか、というところにあった。本来仏道修行と、いうものは、この「仏界」を涌現するためになくてはならない。日蓮大聖人の大仏法は、この一点に凝結され、正しき「本尊」をうちたて、その現実的方途を提示している。ゆえに、万人が正しき信心修行をなしうるものなのである。
 これまでの人類の歴史の結果は、まだまだ六道輪廻の流転を乗り越えていないといえる。「地獄」の「地」とは、最低のものに縛られるという意味である。いかなる時代になろうと、この「縛《ばく》」を切り、人間自身が上昇していくことを最も基本に考えねば、人間と社会の抜本的蘇生への道はない。仏法は、この泥沼のごとき社会にあって、なおかつ「仏界」という人間生命の最極《さいごく》なる「尊厳性」の可能性を見いだしている。
 六道に翻弄されている私どもの一念が、正しき本尊に南無し、境智冥合しゆくことにより、「仏界」という無限の生命力を発動する。
 言葉で表現するのはむずかしい。「仏界」というのは、他の九界のような具体的なものではない。九界を無限の価値の方向へと動かしゆく本源的な生命の働きである。
 曇天の日がつづいても、雨の日でも、ジェット機が高度1万メートルに達すれば、煌々と太陽が輝き、安定した飛行ができる。と同じく、現実の生活が、いかに苦衷にあっても、苦難の連続であっても、この胸中の太陽を満々と輝かせていけば、悠々と乗り越えていける。この太陽を、たとえて言うならば、「仏界」といえるかもしれない。
 ひとつの次元から、「御義口伝」には、「菩薩とは仏果を得《う》る下地なり」(御書738㌻)とおっしゃっておられる。法のため、人のため、社会のために行動することが菩薩である。その菩薩という行動の土台なくしては仏果は得られない。観念では仏果は得られない。万巻《まんがん》の仏教の書を読んでも得ることはできない。
 仏果を得たといっても、なんら姿が変わるものでもない。
 六道九界の現実社会のなかで、そのままの姿で生きぬいていくのである。神秘的な悟りとか仏というものは、真の仏法ではまったくない。
 人間として大事なことは、低き境涯から、より高き境涯へ……。さらに、狭小な境涯から、無限の広がりの境涯へと進み、広がりゆくことである。その最極の一点の境涯が、「仏界」となるわけである。

 2-3 生命の基底部を「仏界」に

 この節では、十界互具の法理を踏まえ、生命の基底部という考え方を示します。生命にはそれぞれ過去の営みの積み重ねによってつくられた基底部となる境涯があります。「成仏」とは、この基底部を仏界にすることです。基底部を仏界にできても、現実の九界の苦悩がなくなるわけではありません。ただ、どんな苦悩があろうと、生命の根底から仏界の慈悲と希望と歓喜があふれてくるのです。日蓮大聖人が、観心本尊抄で、法華経の「我本菩薩の道を行じて成《じょう》ぜし所の寿命今猶未《いまなおいま》だ尽きず」等の文を引いて「仏界所具の九界なり」(御書240㌻)と述べられたことの実践的な姿は、仏界を基底部にした生き方にあると言えましょう。

【池田SGI会長の指針】
◎『法華経の智慧』から
                   (1998年12月刊)

 一個の人間が十界互具の当体であるという一つのとらえ方として、生命の「基底部」を考えたらどうだろう。「基底部」というのは、同じ人間でも、地獄界を基調に生きている人もいれば、菩薩界を基調に生きている人もいる。いわば、生命の「くせ」です。これまでの業因《ごういん》によってつくりあげてきた、その人なりの「くせ」がある。
 バネが、伸ばした後もまた戻るように、自分の基底部に戻っていく。地獄界が基底部といっても、四六時中、地獄界のわけではない。人界になったり、修羅界になったりもする。修羅界の「勝他《しょうた》の念」を基底部にする人でも、人界や天界を出すこともあるでしょう。しかし、修羅界を基底部にする人は、一時的に菩薩界を現出しても、また、すぐに修羅界に戻ってしまう。この基底部を変えるのが人間革命であり、境涯革命です。
 その人の「奥底の一念」を変えると言ってもよい。生命の基底部がどこにあるかで、人生は決まってしまう。譬えて言えば、餓鬼界が基底部の人は、餓鬼界という船に乗っているようなものだ。餓鬼の軌道を進みながら、その船の上で、あるときは笑い、あるときは苦しむ。さまざまな変化はあるが、船は厳然と餓鬼界の軌道を進んでいる。ゆえに、見える風景も餓鬼界の色に染まっているし、死後も、宇宙の餓鬼界の方向に合致していってしまうでしょう。
 この基底部を仏界にしていくのが成仏ということです。もちろん基底部が仏界になったからといっても、九界があるのだから、悩みや苦しみがなくなるわけではない。しかし人生の根底が「希望」になっていく。「安心」と「歓喜」のリズムになっていくのです。
 戸田先生は言われた。
 「たとえ病気になっても『なにだいじょうぶだ。御本尊様を拝めばなおるのだ』と、それでいいのです。そして、安心しきって生きていける境界を仏界というのではないのか。それでいて、仏界に九界があるのだから、ときに怒ったり困ったりもする、安心しきってるのだから怒るのはやめたとか、なんとかというのではなくて、やっぱり、心配なことは心配する。しかし、根底が安心しきっている、それが仏なのです」
 「生きてること自体が、絶対に楽しいということが仏ではないだろうか。これが、大聖人様のご境界を得られることではないだろうか。
 首斬られるといったって平気だし。ぼくらなんかだったら、あわてる、それは。あんな佐渡へ流されて、弟子にいろいろ教えていらっしやるし、開目抄や観心本尊抄をおしたためになったりしておられるのだから。あんな大論文は安心してなければ書けません」
 勤行・唱題は、仏の生命と一体になる荘厳な儀式です。この勤行・唱題という仏界涌現の作業を繰り返し繰り返し、たゆみなく続けていくことによって、我が生命の仏界は、揺るぎなき大地のように、踏み固められていく。その大地の上に、瞬間瞬間、九界のドラマを自在に演じきっていくのです。また社会の基底を仏界に変えていくのが広宣流布の戦いです。その根本は「同志を増やす」ことだ。
 ともあれ、この信心を根底にすれば、何ひとつ無駄にならない。
 仏界が基底の人生は、過去・現在の九界の生活を全部、生かしながら、希望の未来へと進める。否、むしろ九界の苦労こそが、仏界を強めるエネルギーになっていく。
 煩悩即菩提で、悩み(煩悩=九界)が全部、幸福(菩提=仏界)の薪となる。身体が食物を摂って消化吸収し、エネルギーに変えるようなものです。
 九界の現実の苦悩と無関係な仏など、真の仏ではない。十界互具の仏ではないのです。それが法華経の寿量品の心です。
 ある意味で、仏界とは「あえて地獄の苦しみを引き受けていく」生命と言ってもよい。仏界所具の地獄界。それは、同苦であり、あえて引き受けた苦悩であり、責任感と慈悲の発露です。弘教のため、同志のために、あえて悩んでいく──その悩みが仏界を強めるのです。

2-4 「十界」の生命が認《したた》められた御本尊
       
 日蓮大聖人が顕された御本尊には、宇宙と生命の究極の法である南無妙法蓮華経を中心にして十界の生命の代表が認められています。この節では、御本尊に向かって、私たちが勤行・唱題する時、内なる十界の生命が、御本尊に示されている通り、妙法を根本にして、善の方向へ、幸福の方向へ、成仏の方向へ働いていくことを示します。

【池田SGI会長の指針】
◎アメリカSGI青年研修会でのスピーチから
   (1990年2月20日、アメリカ)

 「本尊」には「根本尊敬《こんぽんそんぎょう》」の意義がある。人生、生命の根本として尊敬《そんけい》し、帰依していく対象が本尊である。ゆえに、何を本尊とするかで、人生が根底的に決定されることは当然である。      
 従来の仏教の本尊は、ほとんどが仏像である。また仏画の場合もある。初期の仏教には仏像はなかったが、後世、西方のギリシャ文化の影響のもと、西北インド(ガンダーラ地方)で仏像が誕生した。いわばシルクロード交流の一産物である。こうした仏像・仏画をとおして、「仏」のイメージを民衆は受け取り、渇仰と信仰の心を起こしてきたわけである。
 しかし日蓮大聖人の仏法の「本尊」は、文字《もんじ》の御本尊であられる。その意味では、イメージ・映像の結晶というよりも、あえていえば、英知の世界、御本仏の偉大なる智慧の、最高にして尊極の表現と拝される。
 この点からも、大聖人の仏法の「本尊」は、従来の仏法の本尊と根本的に異なる。
 「文字」は不思議である。文字の力は偉大である。たとえば、人の名前がある。サインをする。その文字には、一応、その人の人格、立場、力、心身、歴史、因果、そうしたすべてが含まれている。
 それと同様に、南無妙法蓮華経の題目には、宇宙の森羅万象がすべて含まれている。「起は是れ法性の起・滅は是れ法性の滅」(天台大師『摩訶止観』、御書1337㌻)といわれるように、一切の現象は妙法の表れである。
 御本尊には、変転する大宇宙(諸法)の実相、ありのままの姿が完壁に示されている。この宇宙の実相とは、私ども小宇宙の場合もまったく同じである。これらは御書に仰せのとおりである。また御本尊は「人法一箇」であられ、御本仏の御境涯を示されたものであることは言うまでもない。
 この意味で、大聖人の御本尊こそ、文字どおり、全人類が「尊敬」すべき宇宙の「根本」であり、真実の「本尊」であられる。
 宇宙には、善の力も悪の作用もある。
 御本尊には、仏界の代表である釈迦如来、多宝如来から、地獄界の代表である提婆達多まで、十界の代表がすべてお認《したた》めである。
 そして、こうした宇宙の「善」の力・作用の代表も、「悪」の力・作用の代表も、少しももれなく南無妙法蓮華経の光明に照らされて、「本有《ほんぬ》の尊形《そんぎょう》」すなわち、本来ありのままの尊い姿となって働くと説かれている。「本有の尊形」となるゆえに「本尊」というのである。(御書2143㌻)
 すなわち、御本尊に勤行・唱題する時、私どもの生命の善悪の力も、すべて「本有の尊形」としての働きを始める。
 「地獄界」の苦しみの生命も、「餓鬼界」のつねにハングリーで悩んでいる生命も、「修羅界」のゆがんだ怒りの生命も、すべて自分自身の幸福と価値を創る方向に働いていく。不幸へと引きずる生命が、妙法を根本にすると、反対の善の方向へ力を向けていくのである。それは苦しみという薪を燃料として、歓喜と知恵と慈悲の炎が燃え上がっていくようなものである。その火をつけるのが妙法であり、信心である。
 まして仏界・菩薩界・梵天・帝釈等の「善」の生命は、唱題によってその輝きを増し、どんどん威光勢力を広げていく。
 わが小宇宙の中の大日天も大月天も、燦然と大光を放って、生命の闇を晴らす。
 善も悪も、十界三千のすべての働きが、一体となってフル回転し、「幸福」へ、「常楽我浄」の人生へと、私どもの生命を運んでいくのである。
 人生、当然、病気になる場合もある。しかし、その病気は、妙法の法理によって「本有の病」と見つめられるようになる。すなわち病気に左右されて、人生を苦しみ懊悩していくようなことは決してない。三世永遠の生命から見たならば、根本的に、絶対的幸福という〝大我〟は、厳然と確立されていくのである。
 そして人生・生活のうえの行きづまりも、必ず打開し、次のより広々とした境涯への飛躍台となる。「生」も楽しい。また「死」も安らかで、次の楽しき「生」への荘厳な旅立ちとなっていく。
 冬になれば、樹木が花も葉も落とした姿に、いったんはなる。しかし春とともに若葉を芽ぐみ、伸ばす生命力をもっている。そうした様子にも似て、またそれ以上に、苦痛もなく、すぐに始まる次の使命の人生への〝生命の勢い〟をもっての死である。

 2-5 胸中の御本尊を開く


 私たちは御本尊を自分自身を超えた存在と考えがちですが、この節では、「胸中の御本尊」という御本尊の深義《じんぎ》を示します。無量の生命力も無限の知恵も、自身の内にそなわっており、信心によって、それを自在に涌現させていくことができるのです。

【池田SGI会長の指針】
◎「4・2」記念各部代表懇談会でのスピーチから
   (1993年4月3日、東京)

 どんな宗教も「本尊」がいちばん大切である。それでは、日蓮大聖人の仏法における「本尊」の本義はどこにあるのか。大聖人御自身が、こう仰せである。
 「此の御本尊全く余所《よそ》に求る事なかれ・只我れ等衆生の法華経を持《たも》ちて南無妙法蓮華経と唱うる胸中の肉団におはしますなり」(御書1244㌻)──この御本尊は、まったく、よそに求めてはならない。ただ、われわれ衆生が、法華経を持《たも》って南無妙法蓮華経と唱える胸中の肉団にいらっしやるのである──。
 この御文を拝して、戸田先生は、このように講義された。(昭和31年3月6日、「日女御前御返事」講義。『戸田城聖全集』第6巻)
 「大御本尊様は向こうにあると思って拝んでおりますが、じつはあの三大秘法の御本尊様を、即南無妙法蓮華経と唱え、信じたてまつるところのわれらの命のなかにお住みになっていらっしやるのです。これはありがたい仰せです。
 この信心をしない者は、仏性がかすかにあるようにみえてひとつも働かない、理即の凡夫です。われわれは御本尊を拝んだのですから、名字即の位です。名字即の位になりますと、もうこのなかに赫々として御本尊様が光っているのです。
 ただし光り方は信心の厚薄による。電球と同じです。大きい電球は光るし、小さい電球はうすい。さらにこの電球の例でいえば、信心しない者は電球が線につながっていないようなもので、われわれは信心したから大御本尊という電灯がついている。ですから、われわれの命はこうこうと輝いている」
 信心が強いかどうかである。信心が強ければ、自分自身が功徳聚(功徳の集まり)となっていく。大聖人は御本尊のことを「功徳聚」と仰せである。そして「此の御本尊も只信心の二字にをさまれり」(御書1244㌻)──この御本尊も、ただ信心の二字に収まっているのである──と。
 ゆえに信心強き人は、絶対に行きづまらない。何が起ころうと、すべてを功徳に変えていける。幸福に変えていける。
 もちろん長い人生には、さまざまなことがある。悩み、苦しみがある。しかし、それらを全部、自分自身の境涯を開く糧とできる。その意味で、信仰者にとって、根底は、一切が功徳であり、幸福なのである。信心強き人に、「不幸」の二字はない。
 日寛上人(1665年―1726年)は「観心本尊抄文段」の末尾に、こう述べられている。
 「我等この本尊を信受し、南無妙法蓮華経と唱え奉れば、我が身即ち一念三千の本尊、蓮祖聖人なり。『幼稚の頸に懸けさしめ』の意、正しく此に在り。故に唯《ただ》仏力・法力を仰ぎ、応《まさ》に信力・行力を励むべし。一生空しく過して万劫悔ゆることなかれ」(文段集548㌻)──われらがこの本尊を信受して、南無妙法蓮華経と唱えていくならば、わが身が、そのまま一念三千の本尊であり、蓮祖聖人(日蓮大聖人)なのである。「(仏法に無知な末法の)幼稚の頸に懸けさしめ」との(観心本尊抄の)御文の元意は、まさにここにある。ゆえに、ただ仏力・法力を仰いで、信力・行力を励むべきである。一生を空しく過ごして、永遠の悔いを残してはならない──。
 御本尊への「信心」によって、わが身が即「本尊」と顕れ、「蓮祖聖人」と顕れると明言しておられる。そうなれるために、大聖人は御本尊を顕してくださったのである。ここに、大聖人の仏法の極理がある。
 信心によって、わが胸中の御本尊を開くのである。ダイヤモンドのごとき仏の生命を開き、輝かせるのである。
 本来、無量の生命力は、自身の内部にある。無限の知恵の泉は、わが胸中にある。それを、自在に涌現できるのが「信心」である。
 戸田先生は、よく言われていた。「自分の中にあるものが出てくるのだよ。無いものは出てこないぞ」と。
 強く清浄な仏の境界も、弱く醜い地獄・餓鬼・畜生等の生命も、全部、わが生命にある。縁に触れて現れてくる。また、生命は三世にわたるゆえに、過去の宿業が、大きな悩みとして現れ出てくる場合もある。しかし、「苦悩」の因が「自分の中に」あるのと同じく、それをそのまま「幸福」へと転換しゆく力も「自分の中に」ある。これが仏界の力である。
 結局、人間とは、どこまでいっても、戸田先生が言われたように、「自分の中にあるものが出てきた」ものである。それ以上でも、以下でもない。
 だからこそ、わが生命の大地を耕し、深く豊かに幸福の根を張らねばならない。「胸中の御本尊」を開き、何ものにも揺るがぬ大樹の自分をつくらねばならない。
 それが、境涯のうえでは優れた人間性や立派な振る舞いとなって表れ、生活のうえでは功徳・福運となって現れるのである。
 ゆえに大切なことは、「信心」があるか、ないかである。大聖人の「ただ心こそ大切なれ」(御書1192㌻)との仰せを、絶対におろそかにしてはならない。
 形式ではない。地位でも財産でもない。「信心」ある人こそが、真の「幸福」の人である。

 2-6 御本尊は生命の真実を映す鏡

 この節では鏡の譬えを通して、御本尊が、生命の本来の姿を映し出す鏡であることを教えています。御本尊こそ、すべての人が自身の生命の実相を見つめて成仏できるようにした仏の智慧の結実なのです。

【池田SGI会長の指針】
◎アメリカSGI婦人部研修会でのスピーチから
  (1990年2月27日、アメリカ)

 本日は、〝鏡〟をとおして、「信心」の重要なあり方を語っておきたい。「鏡」には、仏法上、じつに多くの意義があり、多くの譬えにも使われている。ここでは、とくに私どもの信心に約して、簡潔にふれておきたい。
 御書には、こう記されている。
 「銅鏡等は人の形をばう《浮》かぶれども・いまだ心をばうかベず、法華経は人の形を浮ぶるのみならず・心をも浮べ給へり、心を浮ぶるのみならず・先業をも未来をも鑒《かんが》み給う事くも《曇》りなし」(1521㌻)
 ──銅鏡等は人の形を映しても、心は映さない。法華経は人の姿(色法)のみならず、心(心法)も映しだす。心のみではない。過去の業因をも未来をも、くもりなく映しだす──。
 鏡は、目に見える顔や姿を映す。仏法の鏡は、見えない生命をも映しだす。
 鏡は、反射の法則など光の法則を応用して、姿が映るように工夫した、人間の知恵の成果である。
 御本尊は「宇宙」と「生命」の法則に基づいて、〝汝自身〟の実相を見つめ、成仏できるようにした、仏の「智慧」の究極であられる。
 顔かたちを整えるには、鏡が不可欠なように、自分を見つめ、人生を見つめて、より美しく、より幸福な生活としていくには、〝生命を映す鏡〟が必要になってくる。
 ところで、先の御文で「銅鏡」とあったように、昔の鏡は銅、青銅、鉄など、金属を磨いたものであった。錫などをまぜて作ったようである。こうした鏡は、現在のガラス製の鏡と違って、おぼろげにしか映らない。映らなかったばかりではない。すぐに曇った。そこで、しばしば磨かねば使えなくなった。鏡の研磨には専門技術がいる。それが〝鏡磨《かがみとぎ》〟の職人である。日蓮大聖人御在世の鎌倉時代も、こうした金属の鏡の時代である。
 「一生成仏抄」には「闇鏡《あんきょう》も磨きぬれば玉と見ゆるが如し、只今も一念無明の迷心は磨かざる鏡なり是を磨かば必ず法性真如の明鏡《みょうきょう》と成るべし」(御書384㌻)と。
 ──ぼんやりと曇った鏡も、磨けば玉のように輝くようなもので、迷いの生命も磨かない鏡であり、これを磨けば、必ず妙法の光をたたえた明鏡となる──
 あまりにも有名な一節であるが、この御文も、こうした鏡磨《かがみとぎ》の伝統を背景にしている。
 ともあれ、いかなる人の生命も、本来は、光り輝く明鏡なのである。
 違いは、その明鏡を磨いているかどうかである。磨けば仏、曇れば迷いの凡夫である。妙法を唱えることが、生命を磨くことであり、私どもはみずからもこれを実践している。のみならず、他の人にも妙法を教えて、その「生命の鏡」を輝かすよう努力している。その意味では、私どもは生命の鏡磨《かがみとぎ》師の立場ともいえよう。
 しかし人間は、顔を磨いても、生命はなかなか磨かない。顔のシミは気にしても、魂のシミは気にしないものである(笑い)。
 イギリスの作家、オスカー・ワイルド(1854年―1900年)の作品に、小説『ドリアン・グレイの画像』(西村孝次訳、岩波文庫)がある。
 読んでいない人のために(笑い)、小説のストーリーを簡単に紹介すると──美貌の青年ドリアン・グレイは、その美しさから「輝ける青春」とあだ名されている。
 ある画家がその美を永遠に残そうと、彼の肖像画を描いた。見事な出来栄えで、絵のほうも、すばらしい若さと美しさだった。ところが、不思議なことが起こった。
 ドリアンは、ある友人の影響で、しだいに快楽と悪行の道に分け入る。背徳の生活。しかし彼の美しさは変わらない。輝くばかりに晴れやかである。何年たっても若さも衰えない。
 一方、肖像画のほうが、彼のすさんだ生活そのままに、少しずつ醜く変わっていった。
 とうとうドリアンは、ある乙女をもてあそび、ついに自殺に追い込んでしまった。この時、肖像画の顔は、見るもおぞましいほど、邪悪な、残忍な表情を浮かべていた。
 その後も、彼の悪行が増すにつれ、肖像もいまわしく変わっていった。
 ドリアンは恐ろしくなった。この〝魂の顔〟は、醜いまま、永遠に残るのである。ドリアンが死んだとしても、その真実を雄弁に語り続ける。たとえ善人になろうとしても意味がない。
 ドリアンは決意した。この肖像を抹殺しよう! この絵さえなくなれば、過去と決別できる。自分は自由になれるのだ。彼は絵をナイフで突き刺した。
 悲鳴を聞き、駆けつけた人々が見たのは、若く美しいドリアンの肖像と、その前に倒れた、老いた、いやらしい容貌の男(ドリアン)であった。男の胸にはナイフが刺さっていた。
 ──つまり、肖像は、彼の〝生命の顔〟であり、〝魂の顔〟であった。彼の行動の因果を、あますところなくきざみこんでいたのである。
 顔は化粧できても、魂の顔はごまかせない。まして因果の理法は厳然としている。
 仏法では「陰徳陽報」(見えない善行が、見える幸福の報いとなって表れる)と説く。仏法の世界には、まったくムダがないし、裏表があったり、表面を飾っても何の意味もない。
 善悪の因果をきざんだ〝魂の顔〟は、ある程度、表面に「相」として表れる。イギリスには「顔は魂の鏡」という言葉もある。
 〝魂の顔〟を美しく磨く──そのためには、顔を鏡に映してととのえるように、生命を映す明鏡を持たねばならない。それが「観心」の「御本尊」である。
「観心本尊抄」には、「観心」について、「明鏡に向うの時始《はじ》めて自具《じぐ》の六根を見る」(御書240㌻)──明鏡に向かう時、初めて自分の眼《げん》・耳《に》・鼻《び》・舌《ぜつ》・身《しん》、意(心)を見ることができる──と仰せである。
 それと同じく「観心」とは、自分の「心」(生命)に「十界」を、なかんずく「仏界」を観ていくことである。そのために、大聖人が人類に与えられたのが「観心」の「御本尊」である。
 日寛上人は「正《まさ》しく本尊を以て明鏡に譬うるなり」(「観心本尊抄文段」文段集472㌻)──この御文はまさに、御本尊を明鏡にたとえていると──述べられている。
 「御義口伝」には「妙法蓮華経の五字は万像《まんぞう》を浮べて一法も残る物之無し」(御書724㌻)──妙法蓮華経の五字、すなわち御本尊は、宇宙の一切の現象を映しだし、欠けるものがない──と。
 御本尊こそ、宇宙全体をありのままに映しだす明鏡中の明鏡であられる。この御本尊を拝する時、わが生命の本来の姿(実相)を観《み》、仏界を涌現できる。
 私どもの信心の一念は、そのまま御本尊に映り、大宇宙に反映される。これが一念三千の法理である。
 佐渡の門下、阿仏房に対して、大聖人は「多宝如来の宝塔を供養し給うかとおもへば・さにては候はず我が身を供養したま給う」(御書1304㌻)と。
 ──あなたが、多宝如来の宝塔、すなわち御本尊を供養されているのかと思えば、そうではない。かえってわが身(阿仏房ご自身)を供養されているのである──。
 御本尊を拝し、荘厳する信心は、そのまま自分という〝宝塔〟を飾り、荘厳していく。御本尊を拝せば、ただちに、宇宙の一切の仏菩薩が、私どもを守る。謗ずれば、その反対である。
 ゆえに、ともかく「心」が大事である。信心の一念は微妙である。
 たとえば、勤行や広布の活動で、時には「ああ、いやだな」と思うかもしれない。その心は、そのまま鏡のように大宇宙に映しだされる。いってみれば、諸天のほうでも「ああ、いやだな」と思う(笑い)。これでは諸天善神の本当の力は出ない。
 反対に、何事も、「また福運を積んでいこう」と喜んで行えば、諸天も歓喜し、勇んで動きだす。どうせ行動するなら、そのほうが得である。
 また「時間のムダではないか」と思う一念で仏道修行すれば、その不信や愚痴の心が功徳を消してしまう。その結果、当然、功徳が自覚できず、「やっぱりムダなんだ」と、変な〝確信〟を深めたりする(笑い)。悪循環である。
 「本当だろうか」と疑いながら信仰しても、その弱い一念が宇宙の鏡に映って、あいまいな結果になる。強い確信に立てば、福徳は無限大である。
 ともあれ、こうした微妙にして厳然たる信心の「心」を、自分でコントロールしつつ、すがすがしく開いていくことである。そうすれば、わが人生も、境涯も広々と開ける。一切が功徳に満ちた生活になることは間違いない。
 この〝一念の微妙さ〟を会得できるかどうかが、信心の要諦であり、そこに一生成仏のカギがあるともいえる。
 ロシアのことわざに、「自分の顔が曲がっているのに、鏡を責めて何になろう」とある(笑い)。
 映った姿は自分のものである。それなのに鏡が悪いと怒る人がいる(笑い)。それと同じく、人生の幸・不幸はすべて、自身の生命の因果の姿が反映した結果である。だれのせいでもない。信心の世界においては、なおさらである。
 ──昔、ある田舎に鏡のない村があった。鏡が貴重品だったころの話である。
 都から帰った夫が、土産に鏡を妻に渡した。すると、初めて鏡を見た妻は、映った女の姿に、「これはだれじゃ。さては都の女を連れて帰ったか」(笑い)と大げんかになった。
 これは日本の有名な「狂言」の一つである。
 笑い話ではあるが、現実に多くの人々は、自分の生命(一念、因果)が映った影にほかならない人生のさまざまな現象を見て、怒ったり、嘆いたりしている。「これはだれだろう。私は知らない!」と。
 仏法という「生命の鏡」を知らないゆえに、自分をありのままに見つめることができないのである。自分の姿を知らなければ、当然、他の人の人生を正しく導くこともできない。社会現象の本質を見ぬくこともできない。
2014-04-28 : 池田SGI会長指導選集 :
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