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生命の光 母の歌 第7章 三世に輝く幸福境涯を開け

第7章 三世に輝く幸福境涯を開け (2014.4.1/2/4付 聖教新聞)

サイフェルト博士
「死」は断絶ではありません。死の意味を問うのも「今世」をよりよく生きるためです
池田SGI会長
「生死即涅槃」です。わが身そのままで「生老病死」の苦を「常楽我浄」に転じるのです

サイフェルト 私は、最愛の人を亡くした悲しみをまだ完全に乗り越えてはいません。
 なぜ、そのようなことが起こらなくてはいけなかったのか、今もなお、その答えが見つかっていないのです。
 おそらくきっと、私がさらに成長するために、最も重要なことの一つだったのでしょう。仏教でいわれるところの、「執着を無くすこと」「いかなるものにも執着を持たない」ということを学ぶためなのかもしれませんね。たとえどんなに愛した人であっでも、その人を所有しなければならないと思ったり、所有したいと願ったりしないということを──。
 ひょっとしたら、主人にとっては、今生で学んだことを、今度は他の側からそれを高めていくための“定め”だったのかとも思います。
 人間は、「愛」と「所有」をはき違えてはならないと思います。私自身、主人の死を通して、そのことを学べたのかもしれません。
 しかし、それはあたかも粗い岩を根気よく磨いていくように、険しい道のりでもあったのです。

池田 今の博士の活躍を、ご主人もきっとほほ笑み、うなずかれているに違いありません。現実は、さまざまな苦悩の連続です。特に自身の大病や老い、あるいは愛する人との死別など、生老病死をめぐる苦悩や痛みは、地位や財産や名誉も一切関係ない。
 それを、いかに克服していくか。
 私はいつも、次の仏典の言葉を思い起こします。
 それは、法華経薬王品にある「一切の苦・一切の病痛を離れ、能く一切の生死の縛を解かしめたまう」(妙法蓮華経開結597㌻)という一節です。日蓮大聖人は、この「離《はなれ》の字をば明《あきらか》とよむなり」(御書773㌻)と読み替えられました。
 明らかに見る──つまり、生死といっても、宇宙そのものの変化相であり、仏の命の表れであると見るのです。
 一切の生の苦しみも、病や老いの苦しみも、そして死の苦しみも、偉大な生命を開く力にしていける。
 悠然と見下ろすような境涯を開いていける。
 それが「煩悩即菩提」そして「生死即涅槃」という、真実の人生に目覚めた生き方です。そのための信仰です。
 わが身そのままで、「生老病死」の苦を、「常楽我浄」という四徳に転じていく。
 すなわち、常に楽しく、自分自身を最高に輝かせて、この上なく清らかな生命を発揮して生きていくと言えばよいでしょうか。
        ♪
サイフェルト 感銘深いお話です。
 ここは特に強調したいところですが、私は、主人は“死んだのではない”“生きている”という実感を持っています。
 私たちは、橋を渡り、この生へたどり着きました。そして、また橋を渡って、彼は向こう側に到着したのです。
 私自身、身の上に何か起きても、お葬式は出してもらわないことにしています。その代わり、私の全ての友人に手紙を用意してあるのです。
 そこに“友人たちと一緒に過ごせた人生の時間に対して感謝の念を抱いている”こと、そして“私は死んで別の世界へ行った”となどを書き綴ってあるのです。
 死という断絶があるのではなく、新しい入り口への境目がある。そのことをまず学ぶべきなのですが、教えてもらえないのが常なのです。
 ただ学会の皆さまは、子どものころから、そうした考え方で教育を受けるチャンスに恵まれております。ヨーロッパ人としては、典型的とは言えないかもしれませんが、私にとっては当たり前のことなのです。
 私は超越的な考え方を持っていて、天からの助け、人間は何かに導かれるということを信じている人間です。
 人が人生で遭遇することは、全て、その体験をすることで成長、成熟するためのものであると確信しているのです。まだ人類が知らないこと、人智を超えることは、たくさんあると思います。

池田 おっしゃる通り、SGIのメンバーは仏法の法理を通して、永遠の生命観、生死観を学び、深め、信仰を貫いてきました。
 仏法が教えているのは、生老病死の厳粛な実相の上から、具体的にどう生きていくべきか。自他共に真に価値ある人生を生きていくにはどうしたらよいか──という点に集約されていくわけです。
 悔恨に満ちた苦渋の人生であるのか。それとも悔いなく今世の使命を果たしていく自身であるのか。
 生命の実相だけは、誰人もごまかせません。
 今の博士のお話を伺いながら、恩師の戸田城聖先生が、仏法の深遠な生命観を語られながら、一言、「死後の生命を見る機械が発明されたらおもしろいだろうな」と言われていたことを思い出していました。
 「大宇宙に溶け込んだ生命を見ることができれば、じつに悲鳴をあげているものもあれば、歓喜に満ちているものもいる。形もなければ、色もなければ、生命自身がもつ苦しさ楽しさのために耐えるのが、死後の生命なので、その空観というものがわからなければ、生命論の本質はわからない」と。
 ゆえに、今世で人間革命に励み、自分自身の幸福の軌道を確立することが大切です。
 その上で、私たちが唱える題目は、大宇宙に溶け込んだ生命にも届くのです。
 戸田先生は仏法の哲理を、人々に本当に分かりやすく語ってくださる方でした。
 同じことも恩師が話すと、皆の心にすっと入り、深い納得と確信、勇気を与えられたのです。
 あす2日は戸田先生の祥月命日です。恩師に導かれ、叱咤激励されて、恩師と共に戦い抜いてきました。私は、今も、戸田先生と共に生きています。心の中で、毎日、恩師と対話しています。それが、私の人生です。

サイフェルト これは私にとって一番印象深いところなのですが、オーストリアの劇作家ホフマンスタールの韻文劇『痴人と死』では、主人公の前にバイオリンの弾き手としての「死」が現れ、「わしは恐いものではない」「霊の偉大なる神がいまお前のまえに立っているのだ」(富士川英郎訳『フーゴー・フォン・ホーフマンスタール選集1』所収、河出書房新社)と語ります。お前の手を取り、他の世界へ連れていくのだ、と。この箇所が、死についての著述で一番素晴らしいものと思います。
 私自身は、目が見えない両親のもとで育ってきたことから、子どものころから自分の「過去世」というものを意識していて、罰を与えられて生まれてきているような感覚がありました。もちろん、両親を愛してはいましたが、同時に「助けて!」と心の中で叫んでいる自分がいました。
 その後、近年になってですが、自身の過去世の意味を深く捉え直す中で、今世をもっとよく生きるためであったと気づきました。

池田 博士は学生時代に哲学者としての道を進まれ、生死の探究を一貫して深めてこられましたね。
 少々、難しい論議になりますが、生命というものを深く考えるならば、仏法で説く、自身が過去世に積んできた「業」という問題に突き当たらざるを得ない。
 結論から言えば、真実の仏法は、万人がその「業苦」を抜本的に解決していける道を提示しているのです。

サイフェルト 人生の実像──それは現在、自分自身が生きている人生だけではなく、私の人間的成長の軌跡として、真珠の数珠のような、幾百の人生が連綿と連なっていく、本当にそのように感じています。
 カルマ(業)とは単なる言葉ではなく、生命の深い実感だと感じています。

池田 今、サイフェルト博士も仏法の「業」について触れられましたが、真実の仏法はあきらめや感傷の決定論や運命論ではありません。それを毅然と転換していく、必ず転換していける、希望の光源なのです。
 業に関連して、仏法の「九識論」という法理を簡略に紹介させていただきます。
 まず「九識」の中の「五識」ですが、眼・耳・鼻・舌・皮膚という五つの感覚器官で得られる感覚です。
 また、それらの感覚を統合し、認識したり、観念的な思考や夢などを司る心の働きを第六識(意識)とします。心に浮かぶものごとに対する認識です。
 仏法では、これら六識の底流に「末那識・阿頼耶識・阿摩羅識」という三つの心の働きを明かしております。
 第七の末那識の「末那」とは、「思い量る」という意味のサンスクリット語の音《おん》を写したものです。自身を守り維持する働きで、自我への執着を生み出します。
 第八の阿頼耶識は、「蔵識《ぞうしき》」と呼ばれ、ここに過去からの「業」すなわち善悪の全ての行いの影響が蓄積されているとされます。いわば「善の業のエネルギー」と「悪の業のエネルギー」が合わせて収まっているのです。
 仏教には「空観」という考え方があります。死んでも、生命は「空」の状態として厳然と続いていく。そのことを戸田先生は“宇宙に溶け込んでいる”と表現されました。
 そして、それぞれの境遇にふさわしい縁に巡りあって、個々の生命として、次の生を開始し、それぞれの過去の行いに応じて、苦しさ・楽しさを味わっていく。業のエネルギーが果報として現れ、現実の自身と環境をつくります。
 阿頼耶識に蓄積された業のエネルギーは、「暴流《ぼる》(暴れ川)」とも呼ばれます。
 日蓮仏法では、この阿頼耶識の悪の業の影響を受けない清らかで力強い働きを生命の中に見ます。これが第九の「阿摩羅識」です。生命の根本であり、清浄無垢《しょうじょうむく》であるので「根本清浄識」とも「九識心王真如」とも呼ばれます。
 阿摩羅とは「汚《けが》れがない」という意味です。金剛不壊の仏の生命です。
 真実の仏法の真実たるゆえんは、この「極善」ともいうべき第九識を涌現させ、輝かせていく方途を示して、業のエネルギーを全て価値創造の方向へ向かわせていけることを明かしている点にあります。

サイフェルト
 私は仏教の専門家ではありませんが、中には人生に否定的な立場を取り、人生の喜びを排除しようとするような立場に立っている宗派も多くあります。
 私が池田会長とその哲学から特に感銘を受ける点は、ポジティブなところです。
 「何もかも嫌で投げ出したい」「どこかへ身を隠し、まるで廃人のように波風の立だない生活を送りたい」
 そんなのが人生の目的であるはずがありません。
 人生の使命や他者への愛情をおろそかにしていいのでしょうか? 「人生は生きる価値のあるものである」と教えることこそが、他の人にポジティブな生き方を示すことではないでしょうか。
 そうです。人生は生きる価値があるのです!
        ♪
広布の人生こそ真の追善供養

池田 全く同感です。「生きること、それ自体」が人生の最大の目的です。そして「生きること、それ自体が楽しい」と言える境涯を築くことが、私たちの信仰の目的といぇるのです。
 また人生には、老衰や病気、あるいは事故や自殺など、さまざまな愛する人との死別の悲しみがあります。
 仏法では「追善回向」という法理を説いております。
 これは、亡くなった方に祈りを捧げるとともに、私たち自身の生き方を強く深く高めていくことです。
 真の回向は、「自身仏にならずしては父母をだにもすく(救)いがた(難)し」(御書1429㌻)とあるように、後に残った人々自身が、故人の遺志を受け継ぎ、わが胸中の仏の生命を輝かせて、生き抜いていく。前を見つめて、それぞれの立場で人々のため、社会のために貢献していく──その誓いと行動によって、自身の功徳善根を回向し、亡くなった方の生命がさらに妙法に照らされ、輝き、力を増していくのです。
 「功徳」は「聖霊《しょうりょう》の御身《おんみ》にあつまるべし」(同329㌻)との法理に則っています。
 ゆえに、残された方々の生き方こそが重要なのです。
 生ある限り、生きて生きて生き抜いていくことです。
 そのことが、亡くなられた方にとっても最高の喜びでありましょう。
 ここまで、ご主人の闘病の日々や、博士ご自身の貴重な体験の数々を語っていただく中で、ヨーロッパ科学芸術アカデミーのフェリックス・ウンガー博士との語らいを思い起こしました。
 世界的心臓外科医である博士は、手術中に意識を失った患者が、何日も昏睡状態を続けた後、意識回復は不可能だろうといわれながら、生還した例を何度も見てこられました。
 患者たちの中には、“肉体から離脱して輝く光に出あった”などの臨死体験を語っていた人もいたそうです。
 「死」そのものではありませんが、このように死を免れた人の体験は数多くあり、その事実そのものを否定することはできません。
 大切なことは、その体験が、その人の人生にどのような創造的な影響をもたらすかということでしょう。
 ウンガー博士は、「こうした臨死体験は、われわれが存在することの意味を指し示しているように思われます。つまり、私たちの存在の意味は、この光に包まれることであり、だれもが意識の深層でそれを求め、近づこうとしているのかもしれません」と語っておられました。

サイフェルト ウンガー博士はよく存じ上げています。
 アカデミーの本部があるザルツブルクで意義深い宗教開対話に取り組まれていますね。こうした専門家間の交流は、ぜひ推進してほしいと思います。お互いが本当に理解し合い、分かり合うためには、直接会い、それを継続していく必要があるからです。
 臨死体験の研究は、精神科医のキューブラー・ロス博士や、内科医のレイモンド・ムーディ氏らの業績が注目され、反響を呼びましたね。臨死から生還した患者が、医師が検死しているところを上から見下ろしていた、などという話があります。
 例えば学会でも、いろいろな方に、どんな経験や体験があったかを聞いていただくと、この分野の大きな手掛かりになるかもしれませんね。

サイフェルト博士
この一生をどう過ごし、何を行ってきたかを吟味する──死は「卒業試験」といえます
池田SGI会長
「死」の問題を解決するために宗教はある。永遠の生命を説いた仏法こそ希望の光明

サイフェルト 生死のテーマを考える時、池田会長のご意見をお伺いしたいことがあります。
 それは「尊厳死」にまつわることです。
 国家によっては、尊厳死がまるでサッカーのレッドカードのように、非常に危険で間違ったイメージとして植え付けられている場合があるように見受けられます。しかし、尊厳死は、生と密接に関連しており、「尊厳ある生」と同様に尊重されるべきものではないでしょうか。
 というのも、それによって、人々を死の不安から救うことができると思うからなのです。尊厳ある生と死の可能性としてお聞きしたいと思います。

池田 これも、多くの現代人が直面してきた難問題ですね。
 現実にはさまざまなケースがあり、画一的に論ずるのは難しい面もありますが、仏法では「積極的安楽死」には否定的な考え方をとります。人為的な死ではなく、自然死を待つという立場です。
 なぜなら、全ての人に仏性が内在しており、その顕現の可能性があります。その可能性を故意に断つことには、否定的にならざるを得ないからです。また積極的安楽死を認めてしまうことは、やがて、「生命軽視」の風潮へとつながりかねない面もあります。
 その上で、私も、「生も尊厳」「死も尊厳」というサイフェルト博士の言葉に、心から賛同します。
 「尊厳ある死」とは何か。それは、人間として、生きて生き抜いてきた人生の結果としての死を意味するのだと考えます。
 たとえ、死のきっかけが、突然の事故や不慮の災害だったとしても、どのような病気だったとしても、また仮に生きた歳月が短いようにみえても、それぞれの使命に生き抜いた尊い人生が迎える死には、無上の尊厳があると私は考えます。
 仏法においては、「悪象等は唯能く身を壊りて心を破ること能わず(不慮の事故や災難などによって命を落としても、信心で築いた生命の絶対的な幸福の軌道は破られない)」(御書7㌻)という生命観が説かれています。
 だからこそ、生ある間の生き方が問われるのだともいえます。それは、生前の名声や財産などとは別問題です。人それぞれに悔いのない、最高に価値ある人生を歩んだことこそが、その人の死を荘厳なものにすると思います。
        ♪
サイフェルト その点は同感できます。
 現在、痛みを和らげる緩和ケアやペインクリニックが急速に発展しています。今後も改良されていくでしょう。
 しかし、考えてもみてください。脳死の患者や、お気の毒な方々を。主人のラルフが闘病していた時も本当に苦しんでいて、“早く自分を解放してほしい”と叫んでいるようでした。
 ヨーロッパには積極的な慈悲殺(積極的安楽死)を奨励する機関が存在し、非常に慎重な取り組み方が望まれます。もちろん、介護はとてもお金のかかることですし、患者の意識の有無にもよるでしょう。
 私は基本的に、どのような状況であったとしても“自殺行為”には反対です。
 ただ自身の生命の処し方を決める決定権は、あくまでも本人の手に委ねられるべきだと思います。
 私個人の見解ですが、「リビングウィル(生前の遺書)」を各人が作っておくことをお勧めいたします。
 私も作成しましたが、たとえば私が脳出血に見舞われ。人工的にしか生命機能の維持ができなくなった場合、それに基づいて医療処置の方針を決めていただくものです。私もいつも携帯しておりますし、手術の前には医師から提出を要求されます。万が一に備えてというものです。
 長寿社会の実現により、一連の問題が生じてきています。ほんの少し前までは、60歳や70歳で直面していた問題を先延ばしにしているだけに過ぎないのでは、とも思います。そこには、本当に生きる価値がある人生とは、どのような人生なのかという疑問が常につきまといます。

池田 読者の中にも、サイフェルト博士と同じような考え方を持っている人も少なくないと思います。それほど、この問題は重い。
 私自身は、どんな状況でも、人間は最後の瞬間まで生き抜く姿勢を貫くべきではないかと考えます。そのように生きてこそ、「生まれてきて良かった」と心の底から思えるのではないでしょうか。
 ともあれ、死という問題に直面した時、当の本人とともに、その家族にとっても、人生の大きい試練となります。
 それを、どう乗り越えていくか──。
 アメリカの哲人エマソンは、妻や兄弟や息子を次々と亡くしました。その彼がこのように言っています。
 「(それらの死は)喪失以外の何ものでもないと思えても、いくらかあとになると、導き手、あるいは守り神の相貌を帯びてくる」「ふつうそれがわれわれの生き方に革命を起こし、(中略)品性の成長にとってもっと好都合な新しいものの形成を許すからだ」(酒本雅之訳『エマソン論文集(上)』岩波書店)と。
 最愛の人と死別する喪失の苦悩は否定しようがないものです。しかし同時に、大なり小なり、生死を超えた故人との一体感、また残された家族の悲しみの克服は、誰もが抱ける体験であり、実感ではないでしょうか。

サイフェルト 病気の主人と過ごした最後の数カ月を振り返ってみると、私たちがいかに精神的に深い日々を過ごしたことか。
 それは、まさにお互いが、一緒に同じ道を歩んだのだということがいえます。
 死は「卒業試験」だと思います。この一生で自分は本当に何を行ったのか、いかに人生を過ごしたのかを吟味する、ある意味、試験のようなものだと思います。
 もともと私は、いつもどちらかといえば、少し殻に籠っている人間でした。でも、自分自身が多少なりとも命の危険を伴うがんの手術を控えた時があり、病院の庭に降りてバラの花を眺めていた時、それは突如として以前とは全く違うものに見えたのです。
 こういう時、人は感謝し、より謙虚になり、人生のほんの小さなことにも喜びを見いだすようになるのですね。

池田 私の恩師・戸田先生がよく、「大病を患った人は深い人生の味をもっている」と言われていたことが思い起こされます。
 恩師自身、若き日に、大病で息女、夫人を相次いで亡くされ、ご自分も大病と闘われました。その悲しみ、苦しみを深き信念と慈愛に転じて、平和のため、苦しむ庶民のために、生涯、行動し抜かれたのです。
 今、東京では爛漫の桜の花が、柔らかな風に舞い、惜しまれながら散っていきます。しかし「去って去らず」です。桜花は、大地から得た命で咲き切り、その命を再び大地に返しているのです。大地はまた、新たな力を得て生命を育んでいくのです。
 「死は『卒業試験』」という比喩に照らすならば、確かな生命観・生死観を求めずに生きゆくことは、卒業後を考えずに学校生活を送るようなものといえるかもしれません。
 明治のキリスト者であった内村鑑三氏は語っています。
 「あの実に重要なる死の問題、──それはあらゆる問題中の問題である。死のあるところ、宗教はあらねばならぬ」(鈴木俊郎訳『代表的日本人』岩波書店、現代表記に改めた)と。
 私が19歳で恩師に出会い、信仰を始めるころに読んだ言葉です。
 真実の宗教は、医学や科学と相反しません。医学や科学の進歩と相侯って、ますます宗教の叡智は求められていくでしょう。知識や理性だけではどうすることもできない問題を解決するためにこそ、正しい宗教はあると、私は思ってきました。
 仏典には「百千万年の間、闇に閉ざされていた所でも、灯を入れれば明るくなる」(御書1403㌻、通解)とあります。
 いかなる人であれ、尊極の生命を秘めている。どんな状況であれ、その生命を輝かせていける法があります。
 その法とともに生き抜く人生は、生死の闇を照らし晴らしていけるのです。永遠の生命を明かした哲理にこそ、人々を確かな幸福の道へ導く希望の光明があるのではないでしょうか。
 その意味において、太陽が燦々と昇りゆくように、私たちが信仰している法華経の真髄たる妙法の大光が、世界中の人々に新しい幸福と勇気を送るのが、この21世紀であると、私は強く確信しております。
2014-04-05 : 生命の光 母の歌 :
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