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随筆 我らの勝利の大道 No.105/6 創価の花のスクラム

随筆 我らの勝利の大道 No.105/6   
              (2013.6.5/7付)

創価の花のスクラム

朗らかに進め 使命の青春

「心の財」輝く 負けない人生を!
広布に生き抜く母娘に幸あれ


 ♪ああ わが使命
     果たさなん
  集いて来たれ
      生々《しょうじょう》の
  永遠《とわ》の都に
      爛漫と 爛漫と
  薫れ生命《いのち》の 青春桜

 昭和53年(1978年)の3月16日──。
 大東京の第二の本陣・立川文化会館で、女子部歌「青春桜」が発表された。
 それは、広宣流布という何よりも崇高な使命に生き抜く乙女たちの晴れやかな生命の讃歌である。
 当時は、悪逆な坊主や背信者らが暗躍していた。しかし、わが“創価山”に集いたる女子部の友の心は、一点の曇りもなかった。
 私は、その心に応えて、歌詞にもメロディーにも、何度も手を入れた。
 完成した「青春桜」は、何ものにも壊されない師弟の絆の調べとなった。
 私は確信していた。
 ──この清く朗らかな歌声が続く限り、我らの前進は不滅だ、と。
 発表から35年が経った今、この時の乙女たちは、変わらざる誓いのまま、地域と社会の最前線で福智輝く女性リーダーとなって指揮を執っている。
 自らの「生命の青春桜」を若々しく咲き薫らせながら、後に続く女子部を、妹の如く、娘の如く、慈しみ、励ましてくれていることは、何とも嬉しい限りだ。
 新宿区信濃町の創価女子会館には、この「青春桜」の歌碑が設置されている。
 広布の誓いに舞いゆく心は、世界の華陽の乙女に脈々と流れ通っているのだ。

華陽姉妹の誓い
 6月4日は、「世界池田華陽会の日」──。
 4年前(2009年)のこの日、私は妻と共に創価女子会館に伺い、女子部・婦人部の代表の友と記念協議会を行った。
 「朗らかな幸福の太陽たれ」をはじめ、女子部の永遠の五指針も発表された。
 人生は戦いである。
 それは、突き詰めれば、自分自身との戦いであるといってよい。
 自分に勝つか負けるか。それによって、幸・不幸は決まってしまう。ゆえに、どんなに厳しい試練や宿命が襲いかかってきても、決して負けてはいけない。
 「何があっても負けない」という、断固たる自分自身を創り上げるために、正しき生命哲学がある。
 常に勝って「これ以上の幸せはない」という人生を飾っていくために、青春時代の信心修行があるのだ。
 わが女子部の友が、一人ももれなく、最も明るく、最も清らかな、妙法蓮華の当体として、自分らしく伸びやかに幸福勝利の劇を綴っていただきたい──。
 このことを家族のように語り合う日となった。
 あの美事なる「華陽の誓い」の大合唱も、私の生命から離れることはない。
 一年一年、華陽姉妹の「幸福の太陽」の連帯は光を増し、今年も世界中から明るく賑やかな記念の集いの報告が届いている。
 日蓮大聖人は、「女人の御身として法華経の御命をつがせ給うは釈迦・多宝・十方の諸仏の御父母の御命をつがせ給うなり此の功徳をもてる人・一閻浮提に有るべしや」(御書1250㌻)と仰せになられた。
 妙法を信受した女性は、あらゆる仏を生み出しゆく最極の大生命を受け継いでいるとの御断言である。
 泥沼のような現実社会の真っ只中で、わが女子部は若き華陽の生命を光らせ、希望と勇気を放ってくれている。人の何倍も忙しく、苦労も多いに違いない。
 けれども、だからこそ、一日一日、無量の「心の財」が積まれ、「一閻浮提第一」の大功徳に包まれていくのだ。
        ◇
 “歴史的改革の時機にこそ、女性の権利の尊重と、社会への参加が実現されるべきである”とは、女性教育の先駆者・津田梅子の信念であった。
 生命を育み、一家を守り、社会を支え、世界を照らす──。この女性の声を尊重し、女性の智慧を生かしていく所は、永遠に勝ち栄える。

“白ゆり”の大行進
 創価教育の師父・牧口常三郎先生も、女性の力に希望を見出されていた。
 だからこそ、若き日に“女性のための通信教育機関”も創立された。
 その先師の生誕の日──6月6日を「部の日」とする関東婦人部の皆様は、「最強の平和のスクラム」も固く、元気いっぱいだ。
 さらに6月10日は、昭和26年(1951年)、恩師・戸田城聖先生と、香りも高き“白ゆり”の大行進を開始した、輝かしき「婦人部の日」である。
 あの日、先生は言われた。
 「妙法受持の女性は、最も尊貴な女性であることを自覚してもらいたい。妙法の実践の証明が、未来にどう開花していくか、今後、私と共に、どこまでも戦ってもらいたいのです」と。
 当時は、悲惨な朝鮮戦争(韓国戦争)の渦中であった。婦人部結成の席上、釜山出身の尊き母は、愛する祖国の平和と同胞の幸福を祈り、広宣流布に生き抜く決意を切々と訴えられた。
 以来、62星霜──。韓国にあって、婦人部・女子部の皆様方の模範的な社会貢献が、友情と信頼の花を爛漫と咲かせておられることは、聖教新聞でも報道されている通りだ。

首都圏を結ぶ往来
 仲良く麗しい団結が光る神奈川と埼玉の婦人部の友から、喜びの声を伺った。
 それは、今春から、横浜の元町・中華街と、埼玉方面を結ぶ直通列車の運行が始まり、一段と交流が伸展することへの期待であった。
 両県は、私にとっても、鶴見や川越をはじめ、青春時代から広布拡大へ駆けた宿縁深き天地である。いつもいつも、大東京を支え、苦楽を共に前進勝利の歴史を刻んでくれている。
 この東京・東海道・関東、さらに信越も一体となった、いわば“大首都圏”は、日蓮大聖人の御在世から、人間の活発な往来で結ばれてきた地域である。
 大聖人が立正安国の大闘争を展開された鎌倉からは、「鎌倉街道」と通称される道が伸びていた。
 街道は、間道も含め、大きく「上《かみ》ノ道」「中《なか》ノ道」「下《しも》ノ道」と呼ばれる。
 「上ノ道」は、今の東京・町田市、多摩方面を経て、埼玉、群馬へと、関東西部を北に進む。
 この道は、大聖人も往復され、流罪の地・佐渡への途次には、久米川(現・東村山市内)で一泊されたと御書に記されている。
 「下ノ道」は、大田区、墨田区などから、千葉方面へ向かう道である。
 「中ノ道」は、世田谷区、目黒区、そして中野区、新宿区、豊島区方面へと通じる。やがて、北区、足立区などを流れる荒川を渡り、埼玉へと北上する道だ。
 鎌倉街道は、大聖人が大難を忍ばれ歩まれた道である。門下も互いに行き来し、連携を取り合った道だ。
 その道を、今、大首都圏そして日本全国の同志が、異体同心の団結で奔走してくれている。
 御本仏の御照覧も、三世十方の仏菩薩の賞讃も絶対なりと確信してやまない。
        ◇
 思えば、御書に登場する乙御前の母も、この鎌倉街道を歩んで、佐渡の大聖人のもとへ向かった。夫と離別し、一人で愛娘を育て抜いた女性である。
 大聖人は、この健気な女性門下に、私たちが心肝に染める御聖訓を贈られた。
 「軍《いくさ》には大将軍を魂とす大将軍をく(臆)しぬれば歩兵《つわもの》臆病なり」(御書1219㌻)、「人の心かたければ神のまほり必ずつよし」(同1220㌻)と。
 男性門下への御文と思っていた人もいるかもしれない。まことに雄渾にして力強い御金言である。
 日蓮大聖人は、女性の偉大な力こそを、最大に尊重されていたのだ。
 御本仏は、勇敢な乙御前の母に、「日妙聖人」との尊称も贈られている。
 そして、広布の戦《いくさ》の“大将軍”として、絶大な信頼を寄せられたのである。
 勇気に燃える誉れのわが女性門下を見よ!
 諸天よ、広布に生き抜く母娘を讃え護れ!
 大聖人の烈々たる師子吼は、学会の婦人部・女子部を厳然と包容され、守護くださる仏意であり仏勅であると、私は拝する。

皆が幸福責任者!
 先日、妻が一通の便りを聞かせてくれた。
 昭和54年(1979年)の5月27日、妻が婦人部総会にお邪魔した、横浜市神奈川区の宝友からのお手紙である。
 私の会長辞任の直後、地域の総会の中心者として、深い深い真心で妻を迎えてくださった大ブロック担当員(現在の地区婦人部長)である。
 この時、妻と皆で語り合った、「何があっても創価学会から離れなければ、必ず幸せになります」との一言を抱きしめ、30余年、走り抜いてこられた。
 そこに集われた方々からは、退転する人は誰一人として出ていない。皆、功徳を受け、活躍されている。
 会合でカメラマンを務めてくださった、この方のご主人をはじめ、亡くなられた方々もおられる。しかし、ご家族が立派に後継の道を歩まれている。
 それぞれに、地域で誠実に友好を結びながら、学会と共に生き抜く幸《さち》の実証を示してこられた。そして、このご婦人が先頭に立って、創価家族が胸を張る完勝へ、いやまして広布開拓の対話を広げてくださっているとの報告であった。
 愛する郷土を喜びの花咲く楽土に!──わが学会には、何と偉大な「地域の幸福責任者」の歴史が、あの地にもこの地にも、光っていることか。
 「青き事は藍より出でたれども・かさ(重)ぬれば藍よりも色まさる」(同1221㌻)とは、乙御前の母への仰せである。
 創価の母たちのために!
 婦人部・女子部の、麗しき“創価の花のスクラム”と共に!
 我らは、「従藍而青」のいよいよの信心で立正安国の勝利の旗を、断固と打ち立てていくのだ。

 幾歳《いくとせ》も
  苦難に挑み
   花園と
  変えゆく母の
   無敵の祈りよ


 津田梅子の引用は大庭みな子著『津田梅子』(朝日新聞社)。

勝つと決めれば力は出る

祈り 語り 動いて築け 常勝の城
時代を変える女性の慈愛と勇気


 負けるなと
  今朝《けさ》も祈らむ
   友の幸

 豊島区巣鴨の東京戸田記念講堂に来館された方々が、平成2年(1990年)の新築以来、この4月で1千万人を超えた。
 牧口先生、戸田先生の法難の地に立つ師弟の殿堂は、今や全国、全世界の同志が集い、出発しゆく広布の勝利の電源地となった。
 “戸田講”の最初のオープンは昭和54年(1979年)6月──あの障魔の嵐に挑み戦った時代から、私も、新装の前後を合わせて60回を超える訪回を重ね、全学会の指揮を執らせていただいた。
 いつも、皆を温かく迎えてくれる、地元の豊島家族の真心も感謝に堪えない。
 晴れの1千万人目の来館者となったのは、埼玉から勇み集った、清々しい女子部の友であった。
 思えば、過日の聖教新聞では、埼玉の行田市で生き生きと活躍する同志の姿も紹介されていた(5月16日付「地域紀行」)。
 行田には、難攻不落と呼ばれ、勇気あふれる女性の歴史が伝えられる「忍城《おしじょう》」の史跡がある。

忍城の女性の物語
 この「忍城《おしじょう》」でのエピソードをもとにした短編小説が、山本周五郎氏の「筓堀《こうがいぼり》」である。
 今月は、山梨県出身の氏の生誕110周年。そして、氏は、わが神奈川文化会館が立つ横浜市の中区に居を構えておられた。
 氏が綴った物語には、人生を勝ち開く幾つもの示唆が込められている。
 ──忍城の攻略に押し寄せたのは石田三成が率いる大軍3万。しかも、その時、忍城の城主は精兵500余騎を従え小田原城へ向かっており、不在であった。
 城内に残されたのは、老兵や実戦経験の少ない将兵たち300人。圧倒的な劣勢にもかかわらず、忍城は微動だにしなかった──。
 なぜ、守り抜けたのか。
 そこには、城主の妻である真名女《まなじょ》の卓越したりリーダーシップがあった。

「強き一念」で前へ
 真名女は、何よりもまず、必ず勝つと「強き一念」を定めたのである。
 戦《いくさ》も知らない平凡な女性である。奇策も妙策もなかった。不利な状況を挙げれば、きりがない。しかし、彼女は心に誓った。
 「千のもので百のたたかいをするちからは自分にはない」「けれども十のものを十だけにたたかいざることはできそうだ」
 自分に「十の力《ちから》」があるならば、それを出し切ろうというのである。
 背伸びをする必要はない。地道に忍耐強く、前へ進むことだ。一歩でもいい。ありのままの自分で、今やれることを着実にやり切ることだ。
 まず腹を決める。その強き一念が、自分の持てる力を十全に発揮させるのだ。
 いわんや、我らには「祈りとして叶わざるなし」の御本尊がある。何ものにも勝る「法華経の兵法」という信心がある。

真剣と確信の声
 次に、勇気を広げる「確信の声」である。
 旗頭たちには“大軍相手に勝てるわけがない”との否定的な意見も多かった。
 しかし、真名女は呼びかける。
 「余るほどの武器、精鋭すぐった大軍をもっても、負けいくさになるためしは数々ある」
 「一騎当千と申す言葉がある、これはその人の強さではなく、たたかう心のあらわれを申すものだと思う、その心のあらわれが、軍《いくさ》の運をきめるのではないか」
 真剣な女性の訴えは、どれほど多くの人びとに光を与えるものか。女性の情熱の叫びに勝るものはない。
 一人の女性の確信の声が、歴史を変えるのだ。

率先垂範の行動
 そして、自ら動く「リーダー率先」である。
 城の防備を固めるため、真名女は身を忍ばせ、家臣の妻たちと一緒に、土まみれになって壕《ほり》を掘った。
 皆と労苦を共にする彼女の奮闘は、城内に限らず、領内に住む人びとにも波動していった。
 口だけではない。自らが進んで動き、汗を流す。その率先垂範の姿に、人びとも心から続くのだ。
 鉄壁な団結も、そこから生まれる。
 今、歴史の舞台となった埼玉の地をはじめ、日本、いな、世界には、“妙法の真名女”ともいうべき、一人立つ創価の女性が無数に戦ってくれている。
 この偉大なる婦人部と女子部の「祈り」と「対話」と「行動」こそが、広宣の大城を、ありとあらゆる三障四魔から、断固として勝ち護ってくれているのだ。
 わが女子部・婦人部は強い。絶対に負けない。賢く逞しく朗らかに生き抜く。一日また一日、一歩また一歩と、粘り強く広布の旅路を進んでくれている。
 この誓いがある限りこの前進がある限り、創価学会は万代に盤石であると、私は心の底から叫びたい。
        ◇
 家庭にあっても、地域にあっても、母から娘へ、学会精神という究極の負けじ魂が継承されている。

偉大な関西の母
 昭和31年(1956年)の5月。関西の天地に、1万1111世帯の弘教という常勝不滅の金字塔が打ち立てられた。
 その時の一人に、大阪の鶴見区の母がおられた。夫に先立たれ、4歳と2歳のお子さんを抱えていた。
 昼は男性に混じって工事現場で汗を流し、夕方からは、うどん屋で毎日懸命に働いた。
 それでも生活は苦しい。自分の着物を質屋に入れ、子どもの服まで質入れせねばならなかった時は、涙が止まらなかったそうだ。
 翌32年(1957年)7月──中之島の中央公会堂で行われた大阪大会にも、駆けつけてくれた。
 土砂降りの中、幼子の1人を背負い、1人と手をつなぎながら、場外のスピーカーからの声にじっと耳を傾けておられたのだ。
 冤罪による投獄から出獄した私は、厳然と宣言した。
 「最後は、信心しきったものが必ず勝つ──」
 彼女は、この一言を命に刻みつけ、広布の闘争に走り続けてこられた。
 昭和40年(1965年)10月。布施市内(現・東大阪市)での記念撮影に伺った折、私は、この母と握手をして励ました。
 その後も、働いて働いて、働き抜いて、2人のお子さんを夜間の大学まで通わせておられる。
 「法華経を信ずる人は冬のごとし冬は必ず春となる」(御書1253㌻)との御金言のまま、学会活動に徹する中で、一切を宿命転換してこられた。
 悲哀の雲を一掃するように、決然と信心に励まれた創価の母。誰に褒められなくとも、何の名声もなくとも、ただ一筋に広宣流布のため、庶民の幸福と正義の常勝のために。
 この余りにも尊き母は、昨年、所願満足の姿で霊山に旅立たれた。私も妻と懇ろに追善の題目を送らせていただいた。
 現在、女子部のリーダーと育ったお孫さんたちが、世代をつなぎながら、常勝関西のロマンを立派に受け継がれている。
 「御義口伝」には「忍辱は寂光土なり此の忍辱の心を釈迦牟尼仏と云えり」(同771㌻)と仰せである。
 妙法を唱える我らの生命には、打ち続く困難も不撓不屈で耐え抜く「忍辱の心」が湧き起こる。
 母の祈りは無敵だ。
 母の慈愛は海より深い。
 母の笑顔は、いかなる闇も照らし晴らす太陽だ。
 偉大な母の心に包まれ、広布の大空へ羽ばたく大切な娘たちよ! 華陽の乙女たちよ! 婦人部と女子部の固き絆は、創価の最高の誉れである。

楽しく勝利の曲を
 私が共に対談集を発刊した、アメリカの女性未来学者であるヘンダーソン博士は、語っておられた。
 「今、世界の女性たちは『愛情』と『勇気』を、家庭や周囲の人間関係、さらには企業の経営や政治の場に注ぎ込んでいます。
 この女性のもつ力が、21世紀にとってどれほど重要なものであるか、計り知れません」と。
 博士が期待し、信頼してやまないのも、生命尊厳の大哲学を探究し、体現する創価の女性たちである。
 この尽きることのない慈愛と智慧と勇気の力を満々と漲らせて、平和と共生の社会を建設していくことこそ、我らの「立正安国」の展開なのだ。
        ◇
 「青年の月」7月へ、はつらつと出発した、東京戸田記念講堂での先月の本部幹部会──の席上、生命の弾む行進曲が轟いた。
 “平和の天使”である、わが鼓笛隊の皆さんが奏でてくれた「威風堂々」の響きである。
 イギリスの作曲家エルガーの名曲をもとにした美事な演奏と、その妙音に合わせた生命の歓喜の舞の締めくくりには、色鮮やかなポンポンで、”Vサイン”を描き出してくれた。
 そうだ! 我らの行進には、永遠に「師弟勝利の門」を開きゆく乙女たちが無限に続いてくれている。
 これはどの希望はない。
 どんなに苦しい試練が立ちはだかろうとも、共々に広布と人生のVサインを、高々と掲げゆくのだ。
 さあ、足取りも軽く、明るく、仲良く、威風堂々と、勝ち進んでいこうではないか!

 誓願の
  花のスクラム
   晴れ姿
  楽しく悔いなく
     勝利の曲を


 山本周五郎の「笄堀」は『昭和文学全集18』(小学館)所収の『小説日本婦道記』から。
2013-06-07 : 随筆 我らの勝利の大道 :
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