随筆 人間世紀の光 No.211
随筆 人間世紀の光 No.211 (2009.11.14付 聖教新聞)
師弟こそ「創価の魂」
創立日 万歳叫ばむ 師弟かな
一日一日 我らは新たな出発だ!
一切は弟子の誓願と戦いで決まる
さあ80周年! 勝利の山へ晴れ晴れと
創立日
万歳 叫ばむ
師弟かな
「一日一日、進歩する人が青年である」
これは初代会長・牧口常三郎先生の信念であった。
わが創価学会は、昭和5年(1930年)の11月18日──牧口先生の教育思想を集大成した『創価教育学体系』第1巻の発刊日をもって創立とする。
民衆のため、青年のため人間教育の希望の光を贈る──この新しき言論戦が学会の出発点であったことを、我ら末弟は忘れまい。
一日一日、新たな出発だ。
一日一日、新たな前進だ。
一日一日、新たな言論戦を起こすのだ。
一日一日、新たな出会いを結び、人を育てるのだ。
一日一日が、新たな学会の創立なのだ。
これが、「月月・日日につよ(強)り給へ」(御書1190㌻)との御金言のままに、勇猛精進する創価の師弟の息吹である。
◇
偉大なる
師匠に仕えて
悔いもなく
創価の城をば
厳と築けり
法華経は「師弟不二」の経典である。師匠と巡り合えたことで、わが尊極の仏の生命に目覚めた弟子が、大歓喜に踊躍する。そして深き報恩の心で、いかなる強敵《ごうてき》も打ち倒して、一閻浮提に広宣流布しゆくことを断固として誓願するのだ。
「在在諸仏土常与師倶生」──至るところの諸仏の国土に常に師とともに生まれ、妙法を弘通する、とは化城喩品の一節である。
創価学会の誕生の根源も深遠なる師弟にあった。
不二の呼吸で誕生
牧口先生は、32歳の若さにして、大著『人生地理学』を発刊した大学者であられた。それは中国からの留学生たちも即座に翻訳に取り組む名著であった。
だが、大正5年(1916年)に『地理教授の方法及内容の研究』を出された後は、牧口先生が十余年にわたって研究書を出版されたことはなかった。
東盛、大正、西町、三笠、そして白金──と各小学校の校長を歴任され、教育現場の最前線での激務が、本を執筆する時間を奪っていたのであろう。
しかし、寸暇を惜しんで先生が書きためた、珠玉の思索のメモは、優に数巻の教育書を成す、膨大な量となっていたのである。
ある寒い冬の晩であった。師・牧口先生は愛弟子・戸田先生の家で、火鉢を囲んで語り合われていた。
教育の混迷を憂う師は、「現場の小学校長として、自らの教育学を世に問いたい」と願望を口にされた。けれども、資金の当てはなかった。躊躇する師に、若き弟子は声を強めた。
「先生、やりましょう。お金のことは、私が全部、投げ出しますから、やりましょう!」
師匠の願いを実現するためなら、何も惜しくない。いかなる労も厭わない。
弟子は真剣だった。
「牧口先生の教育学は、何が目的ですか」
「それは、価値を創造することだ」
「では先生、創価教育、と決めましょう」
「創価」とは、この師弟の不二の呼吸から、燦然と誕生したのである。
このお話を、戸田先生は幾たびとなく、私に聞かせてくださった。
「俺とおまえも同じだな」との笑顔であった。
弟子の自発能動で
師弟不二
ありて歴史は
輝けり
『創価教育学体系』の出版に向け、牧口先生は原稿の整理・編集を、当初、戸田先生ではなく、別の一人の弟子に頼まれた。事業で多忙を極める戸田先生を案じられたゆえである。
ところが、数カ月もかけながら、その弟子の編集には思想的な統一性も体系もない。まるで教育漫談で、とても偉大な師匠の思想を伝えるものではなかった。
「これでは駄目だ……」
困り果てた師匠を見かね、戸田先生は勇み立って「全部、自分がやります。やらせてください!」と申し出たのである。
若き戸田先生は反古紙や広告の裏に書かれた草稿を一枚一枚、部屋に並べ、重複を除きながら、体系的に整理された。この原稿を、牧口先生が徹底的に推敲していかれたのである。
出版資金は戸田先生のべストセラー『推理式指導算術』等の収益をあて、本の編集作業も戸田先生が支えられたのだ。完成した『創価教育学体系』の表紙の題字と著者の牧口先生のお名前は、金文字で飾られた。
牧口先生は「緒言」で、戸田先生に最大の感謝を捧げられた。
「戸田城外君は、多年の親交から、最も早い(創価教育学説の)理解者の一人として、その自由な立場で経営する時習学館で実験して小成功を収め、その価値を認め、確信を得た。
それで私の苦悶の境遇に同情し、自らの資財をなげうって本学説の完成と普及に全力を捧げようと決心してくれたばかりか、今や、主客転倒、かえって私が彼に引きずられる有り様となったのである」(現代文に改めた)
師匠が「主客転倒」とまで言ってくださる。その一言の背後に、どれほど弟子の粉骨砕身の激闘があったことか。どれほど師は安心されていたことか。
師から命じられて動いたのではない。師の悲願の実現を誓った弟子が、進んで戦いを起こしたのである。
自発能動である。「弟子の道」は、弟子自身が断固として決定していくのだ。
私自身、戸田先生の事業が破綻し、忘恩の弟子たちが裏切り去っていく中で、ただ一人「われ戸田先生の弟子なり」と声を上げた。
戸田先生こそ、この濁悪の世において、人類救済の広宣流布を遂行する、現代における「法華経の行者」であり、世界第一の師匠である。私は、弟子として、勇んで、その聖業を実現させていただくのだ、と。
「最も正しい軌道」
ブラジルの大天文学者モウラン博士は、私との対談の中で、弟子の道の意義に注目されながら、「人間が生まれもつ能力は、師弟の関係において、最も強く、崩れない花を咲かせます。師弟こそ、人間の最も正しい軌道であると思います」と語ってくださった。
“私には師匠がある”と一生涯、胸を張って、堂々と言い切れる自分自身であることが、自分を無限に成長させるのだ。
ともあれ、師弟不二とは、弟子の側の決意、誓願によって決まる。
創価学会は、師が創って弟子が続いたのではない。その最初から、師弟不二の尊き結晶なのである。
この師弟の道に徹する生命には、誉れ高き大勝利者の力が湧き起こってくる。最高に愉快な充実の青春、そして最大に満足の人生を送っていけるのだ。
◇
三類の
嵐に勝ちゆく
師弟山
牢獄で殉教される2年前(昭和17年)の11月、牧口先生は、創価教育学会の総会で師子吼なされた。
「自分ばかり御利益を得て、他人に施さぬような個人主義の仏はないはずである。菩薩行をせねば仏にはなられぬのである」
「自分の一個のために信仰している小善生活の人には決して魔は起らない。之に反して菩薩行という大善生活をやれば必ず魔が起る。起ることを以って行者と知るべきである」
仏法は、永遠に「仏」と「魔」との大闘争である。釈尊、そして日蓮大聖人の広宣流布の大願を、末法濁悪の世に実現するために、創立の父は決然と立ち上がられた。
経文通り、御書の通りに三障四魔、三類の強敵を呼び起こされた牧口先生は、何ものも恐れることなく、「師子王の心」で戦い抜くことを示してくださった。
そして昭和19年(1944年)の11月18日、奇しくも創立の記念のその日に、巣鴨の東京拘置所で荘厳な殉教を遂げられた。
創価のすべての門弟が、広宣流布への「不惜身命」「死身弘法」の魂を、わが生命に厳粛に燃え上がらせゆく原点の日──それが、11月18日である。
偉大なる
君も私も
巌窟王
牧口先生が、過酷極まる獄中からご家族に送られた書簡には、「何の煩悶もない」「何の不安もない」、また“何の不足もない”等々、書き記されている。
いずれの書簡からも、牧口先生の澄み切った安心立命のご境涯が拝される。
それは、法華経と御聖訓を身で読み切られた大確信とともに、法難の獄中まで共に戦う不二の弟子・戸田先生がいたからである。
牧口先生は、たとえ獄に倒れようとも、遺志を継ぐ戸田先生が必ず広宣流布を断行してくれることを、固く信じておられたのだ。
その師の心を、戸田先生は知悉されていた。
戸田先生の御書
弾圧の際、当局に押収された戸田先生の御書に、厳然と朱線が引かれた一節がある。それは、大聖人が流罪の渦中に認められた「四恩抄」の仰せである。
「法華経の故にかかる身となりて候へば行住坐臥に法華経を読み行ずるにてこそ候へ、人間に生を受けて是れ程の悦びは何事か候べき」(御書937㌻)
戸田先生は、牢獄にまで連れてきてくださった師に命の底から感謝し、報恩を誓われていた。
獄中にあって、戸田先生が一心不乱に祈り抜かれたことは、難が自分の一身にのみ集まり、高齢の牧口先生は一日も早く釈放されることであった。
だがしかし、昭和20年の1月8日、戸田先生は、牧口先生の獄死を告げられた。戸田先生は憤怒に慟哭しながら誓われた。
「日本は、この正義の大偉人を殺したのだ! 私は必ず仇を討つ!」
──それ以後、戸田先生が獄中から家族や知人に送られた書簡からは、事業の再建への細かい指示などが増えてくる。
牧口先生の分身として、断固として生き抜く決意を固められ、獄中にあって、広宣流布のための新たな戦いを、人知れず開始されていたのである。
「いかなる困難に際しても勇者は勇気を失わず」
『巌窟王』の作者デュマの本に記された言葉だ。
師の思想を世界に
師を護り
嵐も怒濤も
恐れずに
今日も広布の
英雄 君たれ
昭和28年(1953年)の11月17日、戸田先生は、先師・牧口常三郎先生の10回忌法要で、こう烈々と宣言された。
「私は弟子として、この先生の残された大哲学を、世界に認めさせる!」
これこそ、学会本部が東京・西神田から信濃町に移転した直後、最初の公式行事で、戸田先生が放たれた師子吼であった。
戸田先生は、牧口先生の『創価教育学体系』第2巻に収められた『価値論』を校訂増補し、装いも新たに発刊されたのである。
一つ、また一つと、戸田先生は、師の宣揚を具体的に積み重ねていかれた。
観念論でも、口先だけの大言壮語でもない。現実に何をしたか。広宣流布をどれだけ進めたかだ。
「一歩も退かず、大折伏をして、牧口先生の仇を討っていくのである」とは、青年に語られた戸田先生のご指導である。
『価値論』の再版を果たした戸田先生は、世界への宣揚を私たちに託された。
「もしも私の代にできなければ、君らがやっていただきたい。頼みます!」
“三代”の勝利こそ
この一生
尊き勝利の
歴史たれ
師弟は不二との
人生 飾れや
第2代の悲願を、第3代の私は実現してきた。
第3代が勝ってこそ、初代・2代を正しく宣揚できるからだ。
「先人のあとを嗣ぐ者には、先人の敷いた道を正しく承けつぎ、それを大きく発展させて、立派な業績として成しとげることが、なによりも求められるのです」
恩師が好きであられた『三国志』の名言である。
初代会長・牧口先生、第2代・戸田先生のお名前とともに、創価の教育思想、平和思想を、私は世界に広め抜いてきた。
日本中、世界中から賞讃される「人間教育」の道を開き、「創価教育」の城を堂々と建設した。
そして、全世界192力国・地域にまで、妙法の大音声を響かせ、平和と人道の連帯を築き上げた。
ブラジル・サンパウロ州のジャボチカバウ市の議会では、こう忘れ得ぬ宣言をしてくださった。
「牧口会長は平和の信念を貫き獄死しました。続く戸田会長、そして池田会長は『仏法を基調とした教育・文化運動こそ世界に平和を実現する』との信念で行動されています。
三人の行動は、『人間には、使命のため、理想のために戦う勇気がある』ことを教えてくれました」
弟子として、ありがたい限りだ。私の心を心として、地域に、社会に貢献を積み重ね、信頼を勝ち広げてくださる同志のおかげと、感謝に堪えない。
現在、民音主催で、中国国家京劇院の新作「水滸伝」が全国公演中である。
恩師のもとでも学んだ、その『水滸伝』の一節には、「御大恩《ごだいおん》のかたじけなさ、それを思えば命も惜しからず」とある。命を賭して、師恩に報じてきた私には、一点の悔いもない。
“大楠公”の歌声
君たちの
子孫末代
長者たれ
大楠公の
誓い嬉しく
「皆で歌を歌おう!」
先月の本部幹部会で、私の提案に勢いよく応えて、立ち上がってくれたのは、仏教発祥の天地インドの青年リーダーであった。
12年前、私がインドを訪問した時に、陰の運営役員として迎えてくれた青年である。見事に成長し、今、世界的な企業で立派に活躍しながら、インド男子部長として指揮を執っている。
そして、必死に覚えた“大楠公”の歌を、日本語で凛々しく披露してくれたのである。
♪此 正行は年こそは
未だ若けれ諸共に
御供仕えん死出の旅
私は心で泣いた。青年時代、私もこの“大楠公”を戸田先生の前で、何度お聞かせしたことであろうか。
その命の響きを、世界の青年リーダーが、そのままに受け継いでくれている。牧口先生、戸田先生も、どれほど、お喜びくださっていることか。
この11月も、世界60カ国・地域からSGIの指導者が来日し、尊き研修会を行っている。
「終《つい》には一閻浮提に広宣流布せん事一定なるべし」(御書816㌻)
この御聖訓を、創価の我らは晴れ晴れと遂行したのである。
◇
創立の
この日を祝さむ
千万の
苦楽を刻みし
尊き 同志と
「創立」の闘魂が脈打つ今月、歓喜と決意と和楽の「大座談会運動」が、全国津々浦々で、朗らかに、生き生きと行われている。
この創価の平和と人道の大連帯を見よ!
この尊き民衆の真実と正義の声を聞け!
創立80周年の壮大なる勝利と栄光の尾根は、今、堂々たる姿を現してきた。
それは、「師弟」の勝利の山であり、「人間」の勝利の山である。
大聖人も敬愛されていた中国の大詩人・白楽天は詠み歌った。
「千里は足下より始まり、
高山《こうざん》は微塵より起こる。
吾が道も亦た此くの如く、
之を行いて 日々に
新たならんことを貴《たっと》ぶ」
新たな一歩を踏み出さなければ、決して目的地は近づいてこない。
さあ、明日を見つめて、意気高く出発だ。青年を先頭に、民衆の勝鬨が轟く、輝く創価の新時代へ!
共々に
常勝の馬
跨りて
勝利の道を
断固 開かむ
デュマの言葉は『ダルタニャン物語4 謎の修道僧』鈴木力衛訳(ブッキング)。また、『完訳 水滸伝2』吉川幸次郎・清水茂訳(岩波書店)、陳寿著『正史 三国志6』小南一郎訳(筑摩書房)から引用。白楽天は岡村繁著『新釈漢文大系101 白氏文集5』(明治書院)。“大楠公” (青葉茂れる桜井の)の歌は落合直文作詞。
師弟こそ「創価の魂」
創立日 万歳叫ばむ 師弟かな
一日一日 我らは新たな出発だ!
一切は弟子の誓願と戦いで決まる
さあ80周年! 勝利の山へ晴れ晴れと
創立日
万歳 叫ばむ
師弟かな
「一日一日、進歩する人が青年である」
これは初代会長・牧口常三郎先生の信念であった。
わが創価学会は、昭和5年(1930年)の11月18日──牧口先生の教育思想を集大成した『創価教育学体系』第1巻の発刊日をもって創立とする。
民衆のため、青年のため人間教育の希望の光を贈る──この新しき言論戦が学会の出発点であったことを、我ら末弟は忘れまい。
一日一日、新たな出発だ。
一日一日、新たな前進だ。
一日一日、新たな言論戦を起こすのだ。
一日一日、新たな出会いを結び、人を育てるのだ。
一日一日が、新たな学会の創立なのだ。
これが、「月月・日日につよ(強)り給へ」(御書1190㌻)との御金言のままに、勇猛精進する創価の師弟の息吹である。
◇
偉大なる
師匠に仕えて
悔いもなく
創価の城をば
厳と築けり
法華経は「師弟不二」の経典である。師匠と巡り合えたことで、わが尊極の仏の生命に目覚めた弟子が、大歓喜に踊躍する。そして深き報恩の心で、いかなる強敵《ごうてき》も打ち倒して、一閻浮提に広宣流布しゆくことを断固として誓願するのだ。
「在在諸仏土常与師倶生」──至るところの諸仏の国土に常に師とともに生まれ、妙法を弘通する、とは化城喩品の一節である。
創価学会の誕生の根源も深遠なる師弟にあった。
不二の呼吸で誕生
牧口先生は、32歳の若さにして、大著『人生地理学』を発刊した大学者であられた。それは中国からの留学生たちも即座に翻訳に取り組む名著であった。
だが、大正5年(1916年)に『地理教授の方法及内容の研究』を出された後は、牧口先生が十余年にわたって研究書を出版されたことはなかった。
東盛、大正、西町、三笠、そして白金──と各小学校の校長を歴任され、教育現場の最前線での激務が、本を執筆する時間を奪っていたのであろう。
しかし、寸暇を惜しんで先生が書きためた、珠玉の思索のメモは、優に数巻の教育書を成す、膨大な量となっていたのである。
ある寒い冬の晩であった。師・牧口先生は愛弟子・戸田先生の家で、火鉢を囲んで語り合われていた。
教育の混迷を憂う師は、「現場の小学校長として、自らの教育学を世に問いたい」と願望を口にされた。けれども、資金の当てはなかった。躊躇する師に、若き弟子は声を強めた。
「先生、やりましょう。お金のことは、私が全部、投げ出しますから、やりましょう!」
師匠の願いを実現するためなら、何も惜しくない。いかなる労も厭わない。
弟子は真剣だった。
「牧口先生の教育学は、何が目的ですか」
「それは、価値を創造することだ」
「では先生、創価教育、と決めましょう」
「創価」とは、この師弟の不二の呼吸から、燦然と誕生したのである。
このお話を、戸田先生は幾たびとなく、私に聞かせてくださった。
「俺とおまえも同じだな」との笑顔であった。
弟子の自発能動で
師弟不二
ありて歴史は
輝けり
『創価教育学体系』の出版に向け、牧口先生は原稿の整理・編集を、当初、戸田先生ではなく、別の一人の弟子に頼まれた。事業で多忙を極める戸田先生を案じられたゆえである。
ところが、数カ月もかけながら、その弟子の編集には思想的な統一性も体系もない。まるで教育漫談で、とても偉大な師匠の思想を伝えるものではなかった。
「これでは駄目だ……」
困り果てた師匠を見かね、戸田先生は勇み立って「全部、自分がやります。やらせてください!」と申し出たのである。
若き戸田先生は反古紙や広告の裏に書かれた草稿を一枚一枚、部屋に並べ、重複を除きながら、体系的に整理された。この原稿を、牧口先生が徹底的に推敲していかれたのである。
出版資金は戸田先生のべストセラー『推理式指導算術』等の収益をあて、本の編集作業も戸田先生が支えられたのだ。完成した『創価教育学体系』の表紙の題字と著者の牧口先生のお名前は、金文字で飾られた。
牧口先生は「緒言」で、戸田先生に最大の感謝を捧げられた。
「戸田城外君は、多年の親交から、最も早い(創価教育学説の)理解者の一人として、その自由な立場で経営する時習学館で実験して小成功を収め、その価値を認め、確信を得た。
それで私の苦悶の境遇に同情し、自らの資財をなげうって本学説の完成と普及に全力を捧げようと決心してくれたばかりか、今や、主客転倒、かえって私が彼に引きずられる有り様となったのである」(現代文に改めた)
師匠が「主客転倒」とまで言ってくださる。その一言の背後に、どれほど弟子の粉骨砕身の激闘があったことか。どれほど師は安心されていたことか。
師から命じられて動いたのではない。師の悲願の実現を誓った弟子が、進んで戦いを起こしたのである。
自発能動である。「弟子の道」は、弟子自身が断固として決定していくのだ。
私自身、戸田先生の事業が破綻し、忘恩の弟子たちが裏切り去っていく中で、ただ一人「われ戸田先生の弟子なり」と声を上げた。
戸田先生こそ、この濁悪の世において、人類救済の広宣流布を遂行する、現代における「法華経の行者」であり、世界第一の師匠である。私は、弟子として、勇んで、その聖業を実現させていただくのだ、と。
「最も正しい軌道」
ブラジルの大天文学者モウラン博士は、私との対談の中で、弟子の道の意義に注目されながら、「人間が生まれもつ能力は、師弟の関係において、最も強く、崩れない花を咲かせます。師弟こそ、人間の最も正しい軌道であると思います」と語ってくださった。
“私には師匠がある”と一生涯、胸を張って、堂々と言い切れる自分自身であることが、自分を無限に成長させるのだ。
ともあれ、師弟不二とは、弟子の側の決意、誓願によって決まる。
創価学会は、師が創って弟子が続いたのではない。その最初から、師弟不二の尊き結晶なのである。
この師弟の道に徹する生命には、誉れ高き大勝利者の力が湧き起こってくる。最高に愉快な充実の青春、そして最大に満足の人生を送っていけるのだ。
◇
三類の
嵐に勝ちゆく
師弟山
牢獄で殉教される2年前(昭和17年)の11月、牧口先生は、創価教育学会の総会で師子吼なされた。
「自分ばかり御利益を得て、他人に施さぬような個人主義の仏はないはずである。菩薩行をせねば仏にはなられぬのである」
「自分の一個のために信仰している小善生活の人には決して魔は起らない。之に反して菩薩行という大善生活をやれば必ず魔が起る。起ることを以って行者と知るべきである」
仏法は、永遠に「仏」と「魔」との大闘争である。釈尊、そして日蓮大聖人の広宣流布の大願を、末法濁悪の世に実現するために、創立の父は決然と立ち上がられた。
経文通り、御書の通りに三障四魔、三類の強敵を呼び起こされた牧口先生は、何ものも恐れることなく、「師子王の心」で戦い抜くことを示してくださった。
そして昭和19年(1944年)の11月18日、奇しくも創立の記念のその日に、巣鴨の東京拘置所で荘厳な殉教を遂げられた。
創価のすべての門弟が、広宣流布への「不惜身命」「死身弘法」の魂を、わが生命に厳粛に燃え上がらせゆく原点の日──それが、11月18日である。
偉大なる
君も私も
巌窟王
牧口先生が、過酷極まる獄中からご家族に送られた書簡には、「何の煩悶もない」「何の不安もない」、また“何の不足もない”等々、書き記されている。
いずれの書簡からも、牧口先生の澄み切った安心立命のご境涯が拝される。
それは、法華経と御聖訓を身で読み切られた大確信とともに、法難の獄中まで共に戦う不二の弟子・戸田先生がいたからである。
牧口先生は、たとえ獄に倒れようとも、遺志を継ぐ戸田先生が必ず広宣流布を断行してくれることを、固く信じておられたのだ。
その師の心を、戸田先生は知悉されていた。
戸田先生の御書
弾圧の際、当局に押収された戸田先生の御書に、厳然と朱線が引かれた一節がある。それは、大聖人が流罪の渦中に認められた「四恩抄」の仰せである。
「法華経の故にかかる身となりて候へば行住坐臥に法華経を読み行ずるにてこそ候へ、人間に生を受けて是れ程の悦びは何事か候べき」(御書937㌻)
戸田先生は、牢獄にまで連れてきてくださった師に命の底から感謝し、報恩を誓われていた。
獄中にあって、戸田先生が一心不乱に祈り抜かれたことは、難が自分の一身にのみ集まり、高齢の牧口先生は一日も早く釈放されることであった。
だがしかし、昭和20年の1月8日、戸田先生は、牧口先生の獄死を告げられた。戸田先生は憤怒に慟哭しながら誓われた。
「日本は、この正義の大偉人を殺したのだ! 私は必ず仇を討つ!」
──それ以後、戸田先生が獄中から家族や知人に送られた書簡からは、事業の再建への細かい指示などが増えてくる。
牧口先生の分身として、断固として生き抜く決意を固められ、獄中にあって、広宣流布のための新たな戦いを、人知れず開始されていたのである。
「いかなる困難に際しても勇者は勇気を失わず」
『巌窟王』の作者デュマの本に記された言葉だ。
師の思想を世界に
師を護り
嵐も怒濤も
恐れずに
今日も広布の
英雄 君たれ
昭和28年(1953年)の11月17日、戸田先生は、先師・牧口常三郎先生の10回忌法要で、こう烈々と宣言された。
「私は弟子として、この先生の残された大哲学を、世界に認めさせる!」
これこそ、学会本部が東京・西神田から信濃町に移転した直後、最初の公式行事で、戸田先生が放たれた師子吼であった。
戸田先生は、牧口先生の『創価教育学体系』第2巻に収められた『価値論』を校訂増補し、装いも新たに発刊されたのである。
一つ、また一つと、戸田先生は、師の宣揚を具体的に積み重ねていかれた。
観念論でも、口先だけの大言壮語でもない。現実に何をしたか。広宣流布をどれだけ進めたかだ。
「一歩も退かず、大折伏をして、牧口先生の仇を討っていくのである」とは、青年に語られた戸田先生のご指導である。
『価値論』の再版を果たした戸田先生は、世界への宣揚を私たちに託された。
「もしも私の代にできなければ、君らがやっていただきたい。頼みます!」
“三代”の勝利こそ
この一生
尊き勝利の
歴史たれ
師弟は不二との
人生 飾れや
第2代の悲願を、第3代の私は実現してきた。
第3代が勝ってこそ、初代・2代を正しく宣揚できるからだ。
「先人のあとを嗣ぐ者には、先人の敷いた道を正しく承けつぎ、それを大きく発展させて、立派な業績として成しとげることが、なによりも求められるのです」
恩師が好きであられた『三国志』の名言である。
初代会長・牧口先生、第2代・戸田先生のお名前とともに、創価の教育思想、平和思想を、私は世界に広め抜いてきた。
日本中、世界中から賞讃される「人間教育」の道を開き、「創価教育」の城を堂々と建設した。
そして、全世界192力国・地域にまで、妙法の大音声を響かせ、平和と人道の連帯を築き上げた。
ブラジル・サンパウロ州のジャボチカバウ市の議会では、こう忘れ得ぬ宣言をしてくださった。
「牧口会長は平和の信念を貫き獄死しました。続く戸田会長、そして池田会長は『仏法を基調とした教育・文化運動こそ世界に平和を実現する』との信念で行動されています。
三人の行動は、『人間には、使命のため、理想のために戦う勇気がある』ことを教えてくれました」
弟子として、ありがたい限りだ。私の心を心として、地域に、社会に貢献を積み重ね、信頼を勝ち広げてくださる同志のおかげと、感謝に堪えない。
現在、民音主催で、中国国家京劇院の新作「水滸伝」が全国公演中である。
恩師のもとでも学んだ、その『水滸伝』の一節には、「御大恩《ごだいおん》のかたじけなさ、それを思えば命も惜しからず」とある。命を賭して、師恩に報じてきた私には、一点の悔いもない。
“大楠公”の歌声
君たちの
子孫末代
長者たれ
大楠公の
誓い嬉しく
「皆で歌を歌おう!」
先月の本部幹部会で、私の提案に勢いよく応えて、立ち上がってくれたのは、仏教発祥の天地インドの青年リーダーであった。
12年前、私がインドを訪問した時に、陰の運営役員として迎えてくれた青年である。見事に成長し、今、世界的な企業で立派に活躍しながら、インド男子部長として指揮を執っている。
そして、必死に覚えた“大楠公”の歌を、日本語で凛々しく披露してくれたのである。
♪此 正行は年こそは
未だ若けれ諸共に
御供仕えん死出の旅
私は心で泣いた。青年時代、私もこの“大楠公”を戸田先生の前で、何度お聞かせしたことであろうか。
その命の響きを、世界の青年リーダーが、そのままに受け継いでくれている。牧口先生、戸田先生も、どれほど、お喜びくださっていることか。
この11月も、世界60カ国・地域からSGIの指導者が来日し、尊き研修会を行っている。
「終《つい》には一閻浮提に広宣流布せん事一定なるべし」(御書816㌻)
この御聖訓を、創価の我らは晴れ晴れと遂行したのである。
◇
創立の
この日を祝さむ
千万の
苦楽を刻みし
尊き 同志と
「創立」の闘魂が脈打つ今月、歓喜と決意と和楽の「大座談会運動」が、全国津々浦々で、朗らかに、生き生きと行われている。
この創価の平和と人道の大連帯を見よ!
この尊き民衆の真実と正義の声を聞け!
創立80周年の壮大なる勝利と栄光の尾根は、今、堂々たる姿を現してきた。
それは、「師弟」の勝利の山であり、「人間」の勝利の山である。
大聖人も敬愛されていた中国の大詩人・白楽天は詠み歌った。
「千里は足下より始まり、
高山《こうざん》は微塵より起こる。
吾が道も亦た此くの如く、
之を行いて 日々に
新たならんことを貴《たっと》ぶ」
新たな一歩を踏み出さなければ、決して目的地は近づいてこない。
さあ、明日を見つめて、意気高く出発だ。青年を先頭に、民衆の勝鬨が轟く、輝く創価の新時代へ!
共々に
常勝の馬
跨りて
勝利の道を
断固 開かむ
デュマの言葉は『ダルタニャン物語4 謎の修道僧』鈴木力衛訳(ブッキング)。また、『完訳 水滸伝2』吉川幸次郎・清水茂訳(岩波書店)、陳寿著『正史 三国志6』小南一郎訳(筑摩書房)から引用。白楽天は岡村繁著『新釈漢文大系101 白氏文集5』(明治書院)。“大楠公” (青葉茂れる桜井の)の歌は落合直文作詞。
2009-11-18 :
随筆 人間世紀の光 :