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池田名誉会長の人物紀行 第10回

池田名誉会長の人物紀行 「歴史の巨人」と語る
             (2009.10.30付 聖教新聞)

第10回 世界的な科学者・平和運動家 湯川秀樹・スミ夫妻

人間性の拡大こそ焦点!

 列島に大光が差し込んだ。戦後長らく、日本を覆っていた曇天が吹き飛んだ。それは、関西からであった。
 関西で学び育った理論物理学者・湯川秀樹博士の偉業は、敗戦に沈む国民を、どれほど勇気づけてくれたか。
 博士は、原子核の構造に迫る画期的な「中間子理論」を打ち立てられた。日本人初のノーベル賞が発表されたのは1949年(昭和24年)の11月3日。60年前の秋である。
 湯川博士は、その翌年、青春の思い出深き大阪市の、中之島の中央公会堂で講演を行った。自らの研究を支えてくれた関西の天地への感謝を語られつつ、「科学の研究に国境はない。いずこの国の人であれ、真理を発見する可能性を持つ」と、ふるさとの青年たちを力強く励まされたのだ。
        ◇
 師・戸田城聖先生のもと、21歳の私は、少年雑誌の編集長として、すでに世界を舞台に活躍されていた湯川博士を紹介する企画を温めていた。
 『少年日本』と改題した第1号である1949年の10月号では、大科学者アインシュタイン博士を取り上げた。いよいよ湯川博士の業績を通し、少年少女に夢を贈ろう!
 そう胸を膨らませていた10月、経営不振により、雑誌は休刊を余儀なくされた。
 その時、果たせなかった、湯川博士の宣揚を、60年の歳月を経て実現できる喜びに、私の筆は弾んでいる。

努力は必ず勝つ
 博士は、不屈の青春を生き抜いた。その胸奥には、熱い負けじ魂が燃えていた。
 「中間子理論」を最初にまとめ上げた27歳の年、元旦の日記には、記されている。
 「失敗《しま》つたと思つた時に気をとり直すか否かゞ勝敗の分れ目である」(『湯川秀樹日記』朝日選書)
 天才に見える博士も順風満帆な時ばかりではなかったのであろう。
 大事なのは、へこたれないことだ。負けて意気消沈してしまったら、それが本当の負けである。「負けるが勝ち」とは、「次がある」ということである。「次は必ず勝つ」と勇気を奮い起こすことだ。
 なぜ博士は、偉大な業績を成し遂げられたのか。
 そこには「天才は限られてゐる、努力には限りがない」という奮闘があった(前掲書)。「熱情ある所、障碍《しょうがい》なし」という烈々たる気迫があった(同)
        ◇
 博士の愛称は「質問魔」。誰にでも気さくに語りかけ、どんなことでも質問した。
 よく「聞く」ことは、よく「学ぶ」ことである。
 経済雑誌からインタビューを受けた時のこと。訪れた若い記者に、博士の方《ほう》から、親しみやすい関西弁で尋ねた。
 「日本の未来と原子力の研究」についての質問だった。
 「どうやろう?」──生涯、青年の心で探究を続けた博士は、青年だからこそ言える率直な意見を聞きたかったのであろう。
 新進記者の一言一言にうん、うんと頷かれ、それに触発を得たかのように、突然、寄稿を口述されたという(『湯川秀樹著作集5』月報、岩波書店)

報恩こそ偉業の力
 誰からも学ぼうとした博士は、「出会いこそ人生の宝」と達観されていた。
 研究者にとって「若い時の人間関係が重要」とは、博士の持論である。
 特に湯川青年には、仁科芳雄博士という良き師に巡り会えたことが決定的であった。
 仁科博士は、湯川青年から研究の構想を聞くと、「そいつは面白そうじゃありませんか」と、いつも嬉しそうに励ましてくれた。湯川博士が海外での会議に招待された時も、愛弟子のために旅費の工面などに尽力されたのも、この師である。湯川博士が中間子の存在を予測したことには、いち早く賛同し、中間子の質量を最初に測定された(『湯川秀樹著作集7』)
 弟子にとって、師匠の存在ほどありかたいものはない。
 湯川博士は、自分の今日あるは「先生の賜物」と、終生、感謝を捧げられた。
 師恩に応えゆかんとする心こそ、大偉業の力なのだ。
        ◇
 博士は「核兵器の廃絶」を訴え抜いた信念の闘士でもあった。
 人間の生活を便利にするはずの科学の粋が、大量殺戮の兵器を生み出した。科学者として、どうして知らん顔ができようか。
 科学が「万人のための力となり、さらに、力であるよりも前に、万人を幸福にする知恵の一環となるように努力することを、われわれは断念してはならない」と、湯川博士は叫ばれている(『湯川秀樹著作集5』)
 科学は人間の幸福のために!──仏法で説く菩薩に通ずる境地に、博士は行き着いておられたといってよい。
 博士の平和闘争の大いなる原点は、アインシュタイン博士との語らいであった。
 1948年、湯川博士は米国プリンストン高等研究所の客員教授として招聘され、アインシュタイン博士と同僚になった。
 アインシュタイン博士は、湯川夫妻と会うなり、涙をぽろぽろ流しながら語られた。
 「罪もない日本人を原爆で苦しめてしまい申し訳ない」
 以来、二人はどうすれば世界平和が実現できるか、昼夜、語り合うようになった。
 その結論が、世界が一つになって核兵器の廃絶、人類の平和を目指す「世界連邦」という運動の構想であった。

核兵器は人類の敵
 ひとたび決めたら、湯川博士は厳として行動を貫いた。
 1955年、東西の対立が緊迫するなか、「ラッセル・アインシュタイン宣言」が発表された。アインシュタイン博士をはじめ、11人の20世紀を代表する科学者と哲学者が、全面的な核兵器の廃絶を訴えた歴史的宣言である。
 署名者の中には、湯川博士の名も光っていた。私が深い友情を結び、対談集を発刊した、ポーリング博士やロートブラット博士もおられた。
 1975年の8月には、「パグウォッシュ・シンポジウム」が関西で開催された。がんで闘病されていた湯川博士の出席をメンバーが切望し、開催地を京都に決定したのだ。博士は、同志の真心に応えて、車いすで出席し、開会の講演を行われた。
 「核兵器はわれわれ共通の敵であり、すべての核兵器を地球から完全になくすことがわれわれの目標である」(前掲書)。病後ゆえ声は低く、静かな語り口だった。しかし全生命の叫びは、皆の心を打った。
 続いて登壇されたロートブラット博士は感動を語った。
 「病気をおしてこの式に臨んでくださった湯川博士の不屈の勇気を尊敬します。あなたの精神を必ずこの会に生かします」(湯川スミ著『苦楽の園』講談社)
 それは、わが師の「原水爆禁止宣言」の姿とも重なる。
 恩師も自らの病魔と戦いつつ、人類の生存の権利を脅かす核兵器の魔性に挑まれた。
 世界の宝・湯川博士が逝去されたのは、1981年であった。その命日9月8日は、奇しくも戸田先生の「原水爆禁止宣言」の日と重なっており、私と妻は毎年、懇《ねんごろ》ろに追善をさせていただいている。
        ◇
 湯川博士は、平和の松明をスミ夫人に託された。
 「僕は研究があって力を注ぐことはできない。世界の半分は女性なのだから、世界連邦の運動はあなたが頑張ってほしい」──この心を受けて、スミ夫人は、世界連邦運動名誉会長、世界連邦全国婦人協議会会長等の要職を歴任し、核兵器廃絶や世界の連帯を訴え抜いてこられた。
 そのスミ夫人が、御子息で近世演劇研究家として活躍される春洋《はるみ》氏と共に、八王子の東京牧口記念会館を訪問してくださったのは、2004年の5月のことであった。
 私は学会本部での会議のため、直接、御挨拶できなかったが、牧口先生の殿堂にお迎えでき、感無量であった。
 牧口先生の大著『人生地理学』には、湯川博士の父君で、著名な地理学者の小川琢治《たくじ》先生が書評を寄せてくださった縁《えにし》もあるからである。
 “この一千ページもの本を完成せる著者の真摯と勤勉とに驚嘆せずにはいられない”
 若き牧口先生の「研究の幅広さ」「着想の斬新さ」「適切な論旨」を、博士の父君は高く評価されたのである。

婦人部への期待
 東京牧口記念会館には、スミ夫人が贈ってくださった貴重な写真が展示されていた。
 湯川博士がアインシュタイン博士らと散策する情景を収めた写真で、自宅の応接間に飾られていた宝である。
 御夫妻は、人生の試練も、毅然と勝ち越えてこられた。
 アメリカから帰国後、御次男を突然の病で亡くされた。
 「泣くに泣けない哀しさでしたね。秀樹さんの研究の邪魔にならないように死に物狂いで育てた子ですから」
 だが夫人は悲しみを胸に秘めて、前へ前へ進まれた。
 創価の女性運動にも多大な期待を寄せてくださっていた。京都国際文化会館でも、講演会を行ってくださった。
 「私は、学会の婦人部が平和のことを願う気持ちが、本当によくわかります。共に世界平和を願うものとして、とても心強い存在です」
 「『世界平和』といっても、遠く海外だけの話ではありません。隣にいる相手と仲良くする気持ちが、世界の平和へとつながっていくのです」
 スミ夫人は、96歳で天寿を全うされるまで、「一日も早く世界平和を実現したい」と語り続けておられた。
 その荘厳な御生涯は「女性の世紀」の鑑として永遠に仰がれ慕われゆくことだろう。
 「はばたきの
   ひろがりて千代に
        平和なれ」
 5月3日を祝賀してスミ夫人が自ら認め、私と妻に贈ってくださった、湯川博士の忘れ得ぬ句である。
        ◇
 湯川博士の探究は、あとに続く青年のためでもあった。自身が優れた学者になり、日本の国際的な地位を高めて、若い世代が大いなる希望を持って勉強できる道を開いておきたいと願っておられた(『湯川秀樹著作集7』)
 あの大阪・中之島の中央公会堂での講演でも、多くの大研究が20代、30代の新進の頭脳によって提唱され、進展されたことを力説された。博士の視点は、常に未来を託す青年に置かれていたのである。
 45年前、私は、英知の学生に語ったことがある。
 「願わくは、正しき哲学をもって、人類に貢献でき得る大科学者、すなわち『湯川博士』が出てもらいたい」
 嬉しいことに、今、学園・創大出身者をはじめ、世界的な研究を進める創価の科学者も陸続と育っている。
 湯川博士は言われた。
 「自らの努力によって人間性自身を開拓し拡大してゆく可能性をもっているのが人間であります」(『湯川秀樹自選集第1巻』朝日新聞社)
 そして博士は、科学ばかりでなく、芸術や宗教も、「人間の大きな可能性のあらわれ」と意義づけておられた。
 焦点は「人間性」の開拓であり、拡大である。
 博士は明快に語られた。
 「最後には、正しい者には正しい者にふさわしい恩賞を与えられる」
 真理の探究と平和の創造に戦い抜いてこられた博士の大確信であるにちがいない。
 博士の講演から7年後、私は同じ中之島の中央公会堂で、関西の友と師子吼した。
 「正義は最後に必ず勝つ」
 今ふたたび、中之島の中央公会堂で、愛する関西の青年たちと、平和と正義の勝鬨を挙げゆく日を、私は心待ちにしている。
2009-10-30 : 人物紀行「歴史の巨人」と語る :
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