新 あの日あの時 18

新 あの日あの時 18     (2009.10.9付 聖教新聞)

池田先生とフィリピン

「美しき宝の心」の国

マニラ湾の夕日
 ヤシの木が茂るマニラのホテルの入り口。
 「ようこそ! フィリピンヘ」
 玄関前で日本人客を迎えたジョイ・アルベスは、流ちょうな日本語で頭を下げた。
 従業員の彼女は、名古屋大学に留学した経験が買われている。
 しかし、高級車から出てくる日本人は、たいていアルベスには目もくれず、さっさとロビーヘと向かってしまう。
 「これだから、日本人は……」。最後の言葉は、ぐっと飲み込んだ。
 ホテルは空港から15分。客室から有名な「マニラ湾の夕日」が一望できる。
 どうやら近々、日本の宗教団体のトップが来るらしい。アルベスは「また失望させられるのか」と思ったが、迎える側の地元メンバーの熱意に打たれ、ともに準備に奔走してきた。
 1991年(平成3年)4月19日の午後11時過ぎ。
 池田大作SGI(創価学会インタナショナル)会長を乗せた車がホテルの入り口に止まった。
 車から降りた会長は、アルベスに折り目を正し、深々とおじぎした。
 「うちの人が無理難題を言って、困らせたでしょ。本当に、ありがとうございます」
 アルベスの小さな手を両手で握りしめた。隣に立っていたホテルのマネジャーに語りかける。
 「彼女は本当に陰で良くやってくれたと伺っています。日本から贈り物を持って来たので、渡してもいいですか」
 マネジャーは驚いた様子を見せた後で、にっこりと微笑んだ。
 その深夜。アルベスはSGIメンバーと遅い夕食を共にした。
 「実は私、今まで、日本人は傲慢な人ばかりだと思っていました」
 SGI会長から贈られた写真集に視線を落とすと、大粒の涙をためた。
 「でも、池田会長にお会いして、日本人が好きになりました」

一人立てばいい!
 コバルトブルーの海に浮かぶ7000余の島々からなるフィリピン。
 派手な塗装をしたジプニー(乗合自動車)が、大音量の音楽をかけながら疾走する。日曜の朝には、町中の人が石造りの教会に足を運ぶカトリック社会だ。
 1964年(昭和39年)5月12日。火曜日の夜たった。
 男子部の柴田昌男が、マニラ支部の伊藤四郎(支部長)の家に立ち寄った。伊藤と妻・富貴子が、よそ行きの服装をしていた。
 何かあるな……。柴田は直感した。
 じつは数日前、伊藤宅に電報が届いていた。オーストラリアに向かう途中、SGI会長がマニラ国際空港を経由するという。深夜の到着なので、夫妻だけで来るように、とも書かれていた。
 伊藤は悩んだが、柴田にウソがつけなかった。一緒に空港へ向かう。
 午後10時過ぎ。待合室のドアが開いた。
 「夜も遅いのに、わざわざありがとう!」
 SGI会長に声をかけられ、3人はソファに腰を下ろした。
 当時はまだ、日本軍の残した爪痕が人々の記憶に生々しい。反日感情は強い。
 「ハポン(日本人)が来た!」
 日本人メンバーは、町に出て、小石や木の枝を投げつけられることもあった。しかも仏教徒である。カトリックが全人口の8割以上を占める国では異端視された。
 そんな地で信仰に励んできた。SGI会長は温かい口調で語りかけた。
 「大丈夫だ。地涌の菩薩が出現しない国は、絶対にない!」
 その場で、柴田を部隊長に任命した。しかし現地に男子部は、ほとんどいない。柴田の戸惑いを断ち切るように言った。
 「君が一人立てばいいんだ。来年の5月3日、日本に来なさい」
 翌65年の5月3日。柴田は東京の日大講堂で、SGI会長から部隊旗を授与された。

伝説のスピーチ
 国立フィリピン大学。
 フィリピンの最高学府で、日本で言えば東京大学にあたろうか。池田SGI会長に
「名誉法学博士号」を授与している。
 マニラ郊外のケソン市に、メーンキャンパスが広がる同大学。国花・サンパギータの白い花が咲き誇っていた。
 1991年(平成3年)4月21日、卒業式典の席上での授与式だった。
 壇上のSGI会長は、卒業生が前を通る度に、椅子から身を乗り出す。拍手を送り、呼びかける。
 「よくやった!」
 「勝ったね!」
 日本語を解さない学生にも、心は確実に伝わる。前を通り過ぎる時、うれしそうな笑みを浮かべる。
 ホセ・V・アブエバ総長も穏やかに見守った。
 学生の列は、途切れなく続いた。
 1時開が経過すると、随行メンバーは、だんだん不安な顔になった。
 常夏の島。気温は30度を超え、じっとしていても汗が噴き出る。会場にクーラーはない。扇風機だけである。
 それでも、スーツの上にガウンをまとったSGI会長が、身体全体で歓呼を送っている。
 この直前に経営学部で記念講演を行ったばかり。疲労はピークのはずだ。体調は大丈夫なのか。役員が香峯子夫人に尋ねた。「学生がかわいくて、しかたがないんですよ」。静かに微笑んだ。
 ようやくSGI会長の謝辞になった。用意した原稿を伏せ、話しはじめた。
 「マニラを訪れ、私は思いました。“世界一荘厳なる旭日”を仰ぎ、“世界べ尊厳なる夕日”を望む皆様の心もまた、“美しき宝の心”であると」
 拍手が一斉に沸き上がった。鳴りやまない。この日、一番の大歓声である。スタンディング・オベーションが起こった。
 2年後。アブエバは授与式を振り返り、誇らしく語った。
 「あの後、学生たちが『池田会長のスピーチ原稿をください。もう一度、心に刻んでおきたい』とやって来ましたよ。学生たちの伝説になっています」

イケダ・ホール
 授与式の3年前の1988年(昭和63年)。アブエバは国立フィリピン大学の総長になった。
 その時、一人の男を紹介された。大学職員や警備員にも「アキ」と呼ばれていた人物である。SGIの新津《にいつ》泰昭《やすあき》。10年以上も大学に渉外で通い詰めている。
 日本人か。アブエバの脳裏に、少年時代の苦い記憶がよみがえる。16歳の時、アブエバの両親は日本車に拷問されたあげく、虐殺されていた。
 しかし、新津から、学会の歴史を知り、顔つきが変わった。初代会長は、命を賭して軍部権力と戦い獄死。これが学会の平和の原点になっているという。
 90年4月。アブエバは日本でSGI会長に会った。
 「貴国に対し、日本の軍国主義は、あまりにも残酷な侵略をしました」
 フィリピンも創価学会も、軍部に蹂躙された。その学会が、こうして謝罪してくれている。
 この人は、本当に日本人か!。
 「戦争のリーダーは多くいたが、平和のリーダーは、わずかしかいない」。アブエバが強く要望して、93年5月11日、フィリピン大学に、その名を冠した「イケダ・ホール」が開設した。

振り返ったリサール
 SGI会長は、フィリピンを公式に3回、訪問している(91年4月、93年5月、98年2月)。
 アキノ大統領、ラモス大統領をはじめ、幅広い人物と会見し、日比友好の道を開いてきた。
 その一人が、リサール協会の会長だった口ヘリオ・M・キアンバオである。
 二人は、幾度もフィリピンの国民的英雄ホセ・リサールをめぐって語り合った。
 1896年12月30日、リサールは35歳の若さで非業の死を遂げる。
 処刑の直前。リサールは、ひざまずかなかった。目隠しも断った。銃弾を後ろから受けながら、振り返ろうとし、鋭い眼光を残したまま、仰向けで倒れた。
 その場面をめぐって、SGI会長は、キアンバオに質問した。
 「リサール博士は、なぜ、振り返ろうとされたのでしょうか」
 そこまで知っているのか。見識の深さに度肝を抜かれながら、キアンバオは答えた。
 「『私は正しい!』という、リサール博士の毅然たる意志だったと思います」
        ◇
 98年2月13日の午後8時半。テレビ局「ラジオ・フィリピン・ネットワーク」が特集番組を放映した。
 この4日前、SGI会長は「リサール国際平和賞」を受賞していた。その理由に迫った番組である。
 ラストシーン。リサールに続き、SGI会長の顔が映し出された。
 「リサール博士も、池田博士も、名もなき民衆の力と強さを信じる。そして、共に限りない人々に希望を贈り続けている」
 番組のタイトルは「旭日の騎士・池田大作氏の横顔」。
 民衆の苦悩の闇を破り、暁を呼ぶ旭日──タイトルそのものが、SGI会長への限りない讃辞を表していた。
2009-10-09 : 新 あの日あの時 :
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