FC2ブログ

新 あの日あの時 17

新 あの日あの時 17     (2009.9.26付 聖教新聞)

池田先生とサンパウロ


青年を伸ばす「太陽の都」

市長は見た
 オレンジ色の屋根が続くリベルダージ(東洋人街)を、1台の車が風を巻くように走り抜けていく。
 2008年(平成20年)6月20日。
 ブラジルのサンパウロ市。
 南半球は秋から冬へと移る時期である。午後7時も過ぎれば、秋風が頬に心地よい。
 ポインセチアの赤い花が、ひときわ鮮やかに咲く年、サンパウロの冬は冷え込むという。さて今年は……。
 市長のジウベルト・カサビは、車を降り、長身をぐんと伸はした。
 眼前にブラジルSGI(創価学会インタナショナル)の平和講堂がそびえている。
 まもなく講堂を会場として、市の慶祝議会が行われる。カサビは市を代表して、池田大作SGI会長に「銀のプレート」を献呈する。
        ◇
 サンパウロは、幾度となくSGIを顕彰してきた。
 初代会長の名を冠した市立「牧口先生公衆衛生技術学校」。第二代会長の平和闘争を讃える「戸田城聖公園」は市民の憩いの広場だ。
 この日、カサビは名代の池田博正副理事長に、銀のプレートと「市の鍵」の授与決定通知書を贈った。
 「市の鍵」はサンパウロの最高栄誉。どうしても池田会長に直接、手渡したい。
 翌年、自ら訪日団を組んだ。09年5月。サンパウロ郊外のグアルーリョス国際空港を飛びたった。
 見送りの人波から、友人の声が聞こえた。SGIの壮年部メンバーであるカルロスが、陽気な声でエールを送ってくれた。
 「市長! 私の師匠のスケールに驚かないでくださいね!」
        ◇
 「ようこそ! 市長!」
 カサビが乗ったエレベーターの扉が開く。池田会長が両腕を広げて立っていた。
 5月13日、聖教新聞社(東京・信濃町)で「市の鍵」の授与式が挙行された。
 こぼれるような笑顔を浮かべ、カサビが右手を差し出す。
 「市長は美男子ですね!」
 カサビの精悍な顔立ちが、ほころんだ。
 ウィットにあふれる言葉に、同行の市議から甲高い声が上がる。思いがけない提案があった。
 「市長、ぜひご両親の桜を、創価大学に植樹させていただこうと思います」
 ありかたい。厚情に言葉を失う。
 ブラジル人は家族のきずなを大切にする。つい先年、母を亡くしたばかりだった。そのうえ医学者の父の健康まで気遣ってくれるとは……。
 日本まで来てよかった。東洋の宗教指導者は、世俗から遠く離れた人ではなく、人間の心のひだまで敏感に感じ取る人たった。
        ◇
 翌日。宿舎でカサビは国際通話の受話器を取った。
 電話の相手は、空港で見送ったカルロスである。
 カサビは声を張り上げた。
 「アミーゴ! 君の言った通りだ。途方もなく大きいスケールだったよ!」

日本人移住100年祭
 サンパウロ州の人口は約4500万人。そのうち日系市民は約100万人。ブラジル全日系人の7割にあたる。
 カズアキ・シンジョウも、その一人。沖縄から移民船に揺られ、一家でサンパウロに辿り着いたのは1959年(昭和34年)。
 待っていたのは土ぼこりが舞う荒野だった。
 慣れないバナナ栽培。肌が焦げるような太陽の下で鍬をふるう。出てくるのは石ころばかりである。
 ひと旗揚げたい。腕まくりで乗り込んだ父は、たちまち鍬より酒のコップを手にするようになった。
 喘息にあえぐ母と姉。薬がない。医者に診せる金もない。ほどなくバナナ園を手放し、都市部へ移った。
 露天商やクリーニング店を細々と営み、何とか糊口をしのいできた。
 そんなシンジョウー家が移民仲間に折伏されたのは69年である。
 まず健康を取り戻した。仕事も軌道に乗った。うつむいていた家族が太陽を見あげて笑うようになった。あまりの短時日の変化に驚いた親戚が、次々と入会した。
        ◇
 池田会長が初めてブラジルを訪れたのは60年10月。海外初の支部をサンパウロで結成した。
 だが4年後に軍事政権が生まれると辛酸の時代がはじまる。座談会場のそばに、目つきの鋭い政治警察の監視が立ち続けた。
 その渦中の66年ごは2度目のブラジル訪問を果たす。
 朝の来ない夜はない。会長の確信は微動だにしない。帰国の折、居合わせた女性たちに語った。
 「時代を変える本当の原動力は、女性の祈りと、生活に根ざした活動だ。女性の力は大地の力である。大地が動けば、すべては変わる」
        ◇
 日本人の移住開始から100周年となる2008年。サンパウロで慶祝記念式典が開催された。
 式典委員会からSGIに、出演者と役員の応援を依頼された。
 サンパウロ都市圏出身の役員を率いるのは婦人部のリーダーだった。
 あのシンジョウの妻シルビアである。
 子どもや甥、姪たちも、それぞれ創価班、牙城会、青年部の合唱団、女子部ダンスグループの一員として式典を支えた。
 シンジョウの家が、うらやましい──。
 友人たちが驚いている。これほど青年をしっかり育てられるシステムが開かれているとは!
 「鼓笛隊に入りたい」「息子を立派に育ててほしい」
 青年が伸びゆくブラジルSGIに、入会を希望する人は多い。

大統領に会わせたい
 「こんなにお若い方だったのか!」
 ブラジル大統領府の文官長ジョアン・アブレウは、SGIの担当者から手渡された一冊の写真集を開き、驚いた。
 1984年(昭和59年)。首都のブラジリアにある大統領府。
 大統領には各界から来客が引きもきらない。会うに、ふさわしい人物か。最終的な人物の見たてがアブレウの重要な職務だ。
 膨大な報告書類や資料に、入念なチェックを入れる。
 写真集を手に取ったのも、そのためだった。池田会長と各国の指導者の交流の様子が収められている。
 憲法学者のアブレウは最高裁判所で判事を務めた経験を持つ。
 前年の83年、海外の都市を訪れた際、歴史学者アーノルド・トインビーと池田会長との対談集を買い求めた。
 あまりにも高度で広範にわたる内容なので、てっきり池田会長も高齢の方だと思いこんでいた。
 興奮の面持ちで写真集を閉じたアブレウが、会見へのゴーサインを、政府関係者に告げる。
 こうして数年間にわたって準備されてきた大統領ジョアン・フィゲイレドと池田会長の会見が、ついに現実のものとなった。
        ◇
 84年2月21日午後5時25分。フィゲイレドは、池田会長と香峯子夫人を大統領執務室で迎えた。
 文官長のアブレウも会談の機会を得た。ようやく書物の中でしか知らなかった人物と会える──。
 といっても、会見のスケジユールを調整する立場である。40分間、池田会長を独り占めすることで、大いに満足した。

一歩も引くな
 「先生! どうか、どうかブラジルに来てください!」
 日系2世のジュリオ・コウサカが身を乗り出して訴えたのは、1983年(昭和58年)7月である。
 鹿児島県の霧島で行われた研修会。ブラジル男子部の中心者として参加した。
 「必ず行くよ。広宣流布は私の生涯の使命だ」
 翌84年2月、会長は18年ぶりにブラジルを訪問。だが、出迎えのメンバーにコウサカの姿はなかった。
 ブラジルSGIの機関誌の内容に、軍事政権から横槍が入った。編集担当のコウサカは責任を問われ、組織役職と併せて解任されていた。
 サンパウロ市内で行われた勤行会。会場の隅にコウサカがいた。唯一出席が許された行事だった。
 会長は言いきった。
 「20年、頑張れ。真の信用を勝ち取るには、最低20年が必要だ」
 85年4月、コウサカは再び訪日した。時差の抜けない体で飛行機を乗り継ぎ、会長のいる四国へ飛んだ。
 徳島、愛媛、奈良、和歌山……各県で創立55周年を祝賀する青年平和文化祭が開かれていた。
 四国3県、関西4府県を18日間で訪問する強行軍。コウサカは会長に同行した。
 行く先々で青年の圧倒的な演技を目の当たりにする。すごい。さすが日本だ!
 だが会長の視点は違った。
 「あの方は今も元気かな?」
 「あの功労者は、どうしてる?」
 青年の檜舞台を切り開いた功労者、陰の人に光を当てていた。真の将軍学とは何か。身をもって教えた。
        ◇
 2008年9月。コウサカはブラジルSGIの理事長に就任する。軍事政権の横暴に拳を震わせた日から、25年が経っていた。
 会長は短い伝言を託した。
 「リーダーは一歩も引いてはいけない。力強くいきなさい。何事も引いたら負けだ。本当の勝負は『これから』だよ」
 南米最大の都市・サンパウロ。「太陽の都」の前進はブラジルのみならず、世界を照らしゆく。
2009-09-26 : 新 あの日あの時 :
Pagetop
« next  ホーム  prev »

プロフィール

fmiokun

Author:fmiokun
FC2ブログへようこそ!

最近のトラックバック

月別アーカイブ

カテゴリー

メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

ブログ内検索