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新 あの日あの時 14 

新 あの日あの時 14     (2009.8.25付 聖教新聞)

池田先生と千葉県

広宣流布の「勝利の旭日」

成田から世界へ
 房総半島の沖で、機体が高度を下げている。
 ベルト着用のサインも出て、池田大作名誉会長は座席でシートベルトを締めた。
 北京から上海を経由した国際便が、着陸態勢に入ったのは、1978年(昭和53年)9月20日の夜9時ごろである。
 第4次訪中の帰途だった。
 成田の空に、名誉会長を乗せた飛行機が見えてきた。
 この年の5月に開港した成田国際空港を初めて利用したのは、この時たった。
 往路と復路が別々の場合もあるが、これまでに50回以上、成田空港を使用している。
 米国のハーバード大学にも成田から出発した。統一ドイツのヴァイツゼッカー大統領にも会いに行った。イギリスのメージャー首相のもとへも翼は風を切った。
 「大鵬の空をぞかける姿して」と恩師から贈られた歌のままに、東へ西へ。
 干葉は名誉会長にとって、世界へ離陸する地である。
        ◇
 SGI(創価学会インタナショナル)メンバーや名誉会長の賓客も、成田から日本への第一歩を印す。
 佐倉総県と池田総県の婦人部を中心とする「凱旋グループ」。空港を擁する地の代表が、真っ先に海外の友を出迎えてきた。
 初めての日本に戸惑う来客も、歓迎の笑顔にふれた瞬間、ホッと胸をなで下ろす。学会に対する認識も一変する。
 池田名誉会長夫妻も折々に讃え、感謝している。
 ──常に凱旋グループが、最高の真心の笑顔で海外のお客様を歓迎してくれる。その時点で、創価の外交戦は勝っている。
 香峯子夫人もまた、どこにあっても、相手が誰であろうと、常に微笑みを絶やさない。そんな姿を、戸田城聖第2代会長は“送迎部長”と呼んで、嬉しそうに讃えた。
 凱旋グループに加わったことで語学力を磨き、身だしなみを整えるようになった人も多い。世界が身近になった。
 皆の心は常に、名誉会長夫妻と共にある。

ハスの花が咲くまで
 「千葉《ちば》」の名前は「千葉《せんよう》の蓮華」に由来するという説がある。
 古来、蓮華の花が多かった土地だが、ハスの花は泥の中から出て、美しく咲く。
 干葉の発展の陰にも、目に見えない泥の中に、黙々と種を植えた人がいる。
        ◇
 53年(昭和28年)ごろ、男子第1部隊の折伏戦は、とどまることのない勢いを見せていた。
 東京の下町が主戦場だが、池田部隊長を先頭に東京湾岸にも旋風を巻き起こした。
 江戸川の橋を渡って、市川市、習志野市、千葉市へと転戦していく。
 「外に打って出よう。これは出稽古だ」
 池田部隊長が立案した作戦だった。青年は小さくまとまってはいけない。大きく動くことだ。
 バス部隊。自転車隊。徒歩部隊。いくつものチームに分かれ、干葉県内を開拓していった。
 ある男子部員は、角のタバコ屋で買い物しながら尋ねた。「このへんに、何かを信仰している強信者はいませんか」。敵は強い方がいい。
 「強敵を伏して始て力士をしる」。佐渡御書の精神が池田部隊長から、たたき込まれていた。この第1部隊の精神を受け継いだ干葉が、こんどは東京、神奈川、関西へと打って出るようになる。
 激戦地ならどこでも駆けつける。強敵であるほど「燃える心」で勝ちまくる。誉れ高き千葉青年部の魂である。
        ◇
 51年(昭和26年)、香峯子夫人は女子部の班長だった。
 蒲田支部の矢口地区に所属していた船橋の班へ幾度も通った。
 総武線の下総中山駅で京成線に乗り換え、葛飾駅(現・京成西船駅)で下車。西船橋の拠点まで徒歩で向かう。矢口渡の自宅から1時間半はかかったろうか。
 まだ区画整備もままならず、野良犬が暗い夜道をウロウロしていたような時代である。
 だが座談会では、疲れた色など微塵も見せない。朗らかに女子部の活動の様子を語った。
 2008年12月、船橋池田講堂がオープンした時、立派な会館に集う同志の晴れ姿の写真に、誰よりも喜んだのが香峯子夫人だった。
 青年時代、船橋に通いながら、神奈川の鶴見・川崎にも足を運んだ。
 千葉と神奈川。まさに「南関東」こそ、香峯子夫人の青春の舞台だった。
        ◇
 まだ学会の会館も整っていない時代に、名誉会長が拠点にしたのが、市原市にある相川仁保《ひとやす》の家だった。
 この相川宅には、かつてはハスの池があった。
 のちに埋め立てられたが、美しいハスの花が咲いていたという。
 69年(昭和44年)1月15日に、名誉会長が相川宅へ。ハスの池があった場所に立ち「よく草が刈ってあるね」「ここに、広布の城を築いていこう」と語った。
 相川は開業医だった。折伏に来る人も、最初は裸足同然で、泥んこの足をしていた。
 それが回数を重ねるうちに、玄関に並ぶ履物が、下駄になり、靴になり、上質な革靴になる。
 「うーん、これはすごい」
 泥の中に何か光るものを感じて入会したのである。
 この地域には、今、市原文化会館が堂々と立っている。

強気でいけ!
 プロ野球の投手だった白本義一郎が、チームメートを学会本部に連れてきた。バッテリーを組むキャッチャーの上林《かんばやし》繁次郎《しげじろう》である。千葉の船橋に住んでいた。
 「紹介したい男がいるから」。戸田会長は一人の青年を呼んだ。
 「池田です。よろしくおねがいします」
 51年(昭和26年)7月13日。白木に折伏された翌日であった。
        ◇
 56年(昭和31年)、青年部の池田室長は上林を「大阪の戦い」の戦列に加えた。折伏戦の渦中、マスコミに中傷され、弱気な姿を見せる。
 ある日、関西本部の一室で厳しい目で見据えた。
 「この戦い、あなたは、絶対に勝てると思っていますか!」
 「はい、そのつもりで戦っています」──室長より一回りも年上だが、背筋をピンと張り、顔を強ばらせた。
 しかし室長は納得しない。“そのつもり”などで勝てる道理がない。
 「本当ですか!」
 「はい……」
 こうした、やりとりが8回も繰り返された。ついに、ほろっと本音をもらした。
 「いや、その、本当は自信がありません……」
 室長の檄が飛んだ。
 「その弱気が一凶なんです!」
 強気でいけば勝てる。切り開いていける。何ごとかを成し遂げられる。弱気になり、受け身になったら負ける。敗北の根本だ。
 「人生は強気でいけ」──その鉄則を打ち込んだのである。

太陽の仏法が昇る
 浦安市の東京ディズニーランド。ここを運営するオリエンタルランドを設立した江戸英雄(三井不動産相談役)は、池田名誉会長と親しく対談を重ねてきた。
 「池田先生、ぜひディズニーランドにお越しください」。ようやく実現したのは、87年(昭和62年)11月10日だった。
 多忙なため短時間しか割けなかったが、次のように記帳している。
 「全世界の 少年少女の夢とロマンとの 『平和』の金の城の 永遠の栄光を祈りつつ 大作 香峯子」
 後日、名誉会長から御礼の手紙が社長に届く。
 「多くの若い職員の方々が礼儀正しく溌剌と働いておられる姿、また謙虚な中にも自らの仕事に誇りと責任を持っておられる姿に、たいへんさわやかな印象を強く受けました」
 社内報「LINE《ライン》」の新年号に、全文が掲載された。
        ◇
 嵐の79年(昭和54年)。名誉会長は、千葉文化会館で陣頭指揮を執った。
 本部幹部会(2月23日)。市原地域本部の勤行会、青年部との記念撮影(2月24日)。東京支部長会(3月4日)。
 「人間、誰にも負けないものがあればいい。私は権力も財力も何もない。たった一つ、戸田先生を思う気持ちがあるだけである」
 師弟の真髄を言い残した。
 82年(昭和57年)6月9日、松戸会館(現・松戸平和会館)で松戸・市川・柏圏の勤行会が開かれた。
 名誉会長は「この三つの圏は千葉の心臓部に! 日本の心臓部に!」と呼びかけた。
 本年3月には心臓部にふさわしく、松戸池田講堂が完成した。喜びの波動は大東京へ広がった。
 91年(平成3年)11月8日。宗門が学会本部に“解散勧告書”なる文書を突きつけてきた。
 その8日後、千葉ポートアリーナでの文化友好祭。名誉会長の悠然たる振る舞い、青年たちの圧巻の演技に、来賓もマスコミも驚嘆した。
 「宗門に叩かれても、学会は微動だにしていない。さすがだ!」
 あの「創価ルネサンス」の開幕の烽火も、千葉から上がったのである。
        ◇
 名誉会長の本家は、「千葉庄《ちばのしょう》池田郷《いけだのごう》」、現在の千葉城(千葉市中央区)の周辺にルーツがあったとされる。
 「干葉には深い縁《えにし》を感じる。故郷のような愛着がある」(名誉会長)
 千葉の蓮華──千葉は、日蓮大聖人が誕生なされた地である。約21年間も在住された。神奈川の鎌倉で12年、山梨の身延で8年、指揮を執られた。どこよりも長く干葉や南関東の周辺に、仏縁を残された。
 大聖人は“釈尊はインド、天台は中国、伝教は日本”と三師を挙げられた上で、御自身を、生まれ故郷の「安州《あんしゅう》(安房の国)の日蓮」と名乗られた。千葉の名を誇りも高く掲げられ、末法広布の道を開かれたのである。
 太陽の仏法は、創価学会によって今、世界を照らす。
 新しき広宣流布の「勝利の旭日」は、干葉から昇る!
2009-09-03 : 新 あの日あの時 :
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