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新 あの日あの時 12

新 あの日あの時 12     (2009.8.21付 聖教新聞)

池田先生と神戸市

「最後まで走り抜いた者が」勝つ

神戸を初訪問
 海岸線と平行して、屏風のように連なる六甲山系。
 青年部の池田大作室長が、その頂上近くから、じっと眼下を見つめていたのは、1957年(昭和32年)の3月16日だった。
 海と山の間に、帯のような市街地が伸びていた。阪急、国鉄(現JR)、阪神の鉄路が動脈のように具合、港に船影が動いている。
 三宮を中心に、建物が密集しはじめていた。
 東には、尼崎の工業地帯もあれば、西宮や芦屋の住宅地もある。
 西に目を転じれば、長田《ながた》区のような下町があり、海寄りから六甲の北にまで広がる兵庫区(その北部は現在の北区)のように、豊かな未来性を感じさせる土地がある。
 「うん、いいところだ」
 海あり、山あり、街あり。ここに暮らす人が団結すれは、限りない力が出る。
 必ず伸びていく。初めて訪れた神戸で確信した。
        ◇
 ──つい先日も名誉会長は語っている。
 「兵庫は『兵の庫』と書くのだから、すごいところだ」
 7世紀、大輪田泊《おおわだのとまり》(現在の神戸港の一部)に置かれた「兵器庫《へいきぐら》」が県名の由来といわれる。
 ここには「精兵」が打ち集っている。戦いが伯仲すればするほど闘志が燃える! 力が湧く!

湊川の決戦や!
 62年(昭和37年)9月、灘区の神戸会館。
 湊川支部(当時)の浦嶋秀雄が、池田会長の前で居すまいを正した。
 「この生命の燃え尽きるまで、広布の旗を離しません!」
 会長が深くうなずいた。
 前月、神戸支部から分割して誕生した湊川支部。浦嶋は初代の支部長に任命された。
 かつて浦嶋は大手商社の海外駐在員だった。戦後、財閥解体の憂き目にあう。人生を模索する中で仏法を知った。
 すでに62歳。だが「実際の年齢から30歳を差し引いて」戦うと決めれば、たちまち32歳の青年である。勇んで前線に躍り出た。
 「ここ一番の戦いや! 全国一になって、日本中をアッと言わせるんや!」
 「湊川の決戦」が火ぶたを切った。
        ◇
 60年代、新開地は、映画館や演芸場が軒を連ねる大繁華街だった。
 湊川支部も、芝居小屋を借り切って結成式を開いた。庶民による、痛快な活劇の幕が切って落とされたのである。
 兵庫区の古沢昭一は男子部の中心者。父親の借金を背負い、高麗人参や製菓原料などを卸す問屋に勤めていた。自身と一家の宿命転換をかけて奔走した。
 湊川の流れは、北区に源流がある。兵庫区の洗心橋付近で西に流れを変え、長田区を抜けて大阪湾に注ぎ出る。
 小さな工場や商店が多い長田区。
 六つの鉄道が乗り入れる兵庫区。
 緑豊かな北六甲にある住宅街の北区。
 3区の頭文字を取ってNHK──日本社会の縮図のような地域である。
 折伏戦の合間に湊川公園の銅像を見あげると、甲冑をまとった騎馬の楠木正成が虚空をにらんでいる。
 息子の正行を残し、わずか700騎で足利尊氏方の敵陣に切り込んだ武将である。
 正成は敗れたが、俺たちは違う。
 勝つ。必ず勝つ。勝って先生のもとに集うんや!

連合艦隊、団結せり
 北区の高橋敏子は、湊川支部の地区担当員(当時)だった。強烈な原点がある。
 56年(昭和31年)の「大阪の戦い」の時、結核の身をおして関西本部に通い、スケジュール作成など、書記係で動き回った。
 時折、胸をえぐるような咳に襲われる。池田室長の御書講義が救いだった。「如説修行抄」「当体義抄」「撰時抄」。病んだ胸の実にビシビシと響いた。
 57年7月、関西本部で行われた教学試験の口頭試問。面接官は室長だった。範囲は「撰時抄」である。
 意外な質問が飛んできた。
 「仕事をしているの?」
 「結核で働けなくて……」
 まじまじと顔を見つめた。
 「いや、あなたの病気は治っているよ。仕事を探しなさい」
 病気を理由に、内へ内へとこもる弱気な心を打ち破ってくれた。
 仏法は「時」である。環境が厳しい時こそ、勇んで打って出よ!。
        ◇
 長田区の遠藤保夫。神戸の製鋼会社で高炉建設に携わっていた。
 共産党の活動に励んだが、カンパの金で呑んだくれる幹部に幻滅。「何か平等や!」。62年1月、入会した。
 その直後に参加した尼崎の関西男子部幹部会。熱気の向こうに池田会長がいた。
 「人のために戦う者を苦しめる。そんな権力とは、断固として戦う!」
 「大阪事件」の判決前夜だった。遠藤は身ぶるいした。
 これこそ、ほんまの革命家や!
 複数のタテ線組織で構成された湊川支部は、一枚岩になれない皮肉を込めて「連合艦隊」と揶揄された。
 一人一人の力量は折紙つきである。あとは一糸乱れぬ「団結」である。池田会長が、神戸に幾度も打ち込んだ一点だった。
 戦いが行き詰まると、皆で口癖のように励まし合った。
 「戦いなんや。途中で弱音を吐いたらアカン。最後まで走り抜く。それが戦いや!」
 「兵庫創価学会の興廃は、この一戦にあり」──ついに63年(昭和38年)10月、湊川支部は念願の全国第1位に輝いた。

神戸が見た名誉会長
 諏訪山の麓に立つ「神戸中華同文学校」。
 名誉会長と縁《えにし》の深い黄世明《こうせいめい》(中日友好協会元副会長)や、林麗韞《りんれいうん》(周恩来総理の通訳)など逸材を輩出してきた華僑学校である。
 校長の愛新翼《あいしんよく》は、いまも忘れられない。
 創立100周年の99年(平成11年)、学会から1000冊の図書を寄贈された。震災のため神戸の教育機関が本に困っていないだろうか。名誉会長の配慮で実現した事業だった。神戸中華同文学校の蔵書も多くが傷んでいた。
 誠意に打たれた。
 「わが校から創価学園に進学した卒業生は、中日友好に尽力する名誉会長の役に立ちたいと言っていました。
 わが校の建学の理念を見事に体現してくれています」
        ◇
 2000年(平成12年)にオープンした関西国際文化センター。「大三国志展」 「第九の怒濤展」など展示会やフォーラムに200万人を超える人が訪れた。
 何かイベントがあるたびに、最寄りの三宮の駅の利用者が増える。周辺の百貨店やショッピングモールも一段と賑わう。
 関西の財界人も脱帽する。
 「学会の国際文化センターが、神戸の経済を大きく底上げしてきた。学会が発展すれば、神戸も関西も発展する」
 神戸、関西の経済界で活躍する慶応義塾大学の出身者は多い。
 その一人、「ウエシマコーヒーフーズ」の会長の上島康男も、同センターで名誉会長の写真展を鑑賞した。
 一度きりのシャッターチャンスで、ここまで事象の本質を凝縮できるものなのか!
 写真が各国で絶讃されている事実も知る。長年、彼は珈琲貿易で海外と渡りあってきた。世界で認められてこそ本物という自負がある。
 「大震災で傷ついた神戸が、どれだけ文化の力で元気をもらったか、計り知れません」
 誰よりも神戸を愛する男の実感だった。
 「いま、大勢の人々が、あの震災を乗り越えた偉大な神戸の歴史を讃嘆している。『こうべ』(頭)を垂れている。不思議な国土世間だ」(池田名誉会長)

勝利の方程式
 あの「大阪の戦い」で、戸田会長は候補の白木義一郎に厳命した。
 「まず白木一家が真剣に祈り、支持者に礼を踏んで、真剣に戦うんだぞ。でなければ、みなが、かわいそうだ」
 白木は深く頭を垂れた。
 「何でもいたします!」
 公示日の朝。池田室長は、白木の家族全員を関西本部に呼び、ともに出発の勤行を行った。
 「いよいよ今日は公示です。ご主人だけの出陣と思ってはいけません。
 あなたがた一家の本当の出陣となるのです」
 一家の表情が引き締まる。
 「今日の出陣は、今後の白木一家の、すべてを決定する出陣である。忘れないでください」
 この日のことを、娘の山下以知子(関西婦人部長)は深く心に刻む。
 「まだ幼かったのですが、両親が幾度も幾度も語っていました。
 戸田先生、池田先生の指導通り、父も母も真剣になって戦いました。その姿を見て、皆さんも喜んでくださった。やりがいをもって支援してくださったのです」
 最後の正念場で白木家は立ち上がった。大阪中を猛然と走り、叫びぬいた。彼らの死にものぐるいの姿に、支持者も打たれた。爆発的な支援の渦が巻き起こったのである。
 「まさかが実現」も「最後の詰め」で決まった。この勝利の方程式を誰よりも知るのが、全関西を阿修羅のごとく支えてきた大兵庫である。
        ◇
 「過去を振り返れば、みな勝ち戦。未来を見れば、無限の宝の中に入っていくような人生。これが、本当の幸福であり、成仏であり、仏の大境涯である。
 兵庫よ、立て!
 神戸よ、勝て!」
 本年7月17日の出獄記念日。名誉会長が神戸の友に贈った言葉である。
2009-08-23 : 新 あの日あの時 :
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