御書と師弟 動執生疑

池田名誉会長講義 御書と師弟 
              (2009.8.20付 聖教新聞)

第24回 動執生疑《どうしゅうしょうぎ》

“限界の壁”を痛快に破れ
師弟の勝利の舞を!

創価の大興隆に社会が驚嘆
梵天・帝釈が守りに護る


御聖訓
 「上行菩薩の
 大地よりいで給いしには
 をどり《踊》てこそ い《出》で給いしか
         (大悪大善御書、御書1300㌻)

 人間の生命には、大海原よりも深く、天空よりも広大な「仏の力」が秘められている。
 日蓮仏法は、師と共に、一人一人の弟子が偉大な仏の力を引き出していく大哲理です。
 人生や社会に対して、「仕方がない」と諦める心。「こんなものだろう」という惰性の心。その“心の壁”を破り、元初の太陽の如き仏の大生命で、躍動の人生を生き抜き、そして勝ってきたのが、わが創価の師弟であります。
 幾百千万の「人間革命」の実証に、社会も世界も驚嘆している。使命深く尊き学会員の生き方が人々の心を動かし、確かな信頼を勝ち広げてきました。

踊り出た菩薩たち
 今回は、有名な「大悪大善御書」の御聖訓を拝します。
 「上行菩薩の大地よりいで給いしには・をど(踊)りてこそい(出)で給いしか」(御書1300㌻)──上行菩薩が大地から涌出された時には、踊り出られたのである──。
 法華経の涌出品第15では、師・釈尊の呼びかけに応じて、無量千万億の地涌の菩薩が出現する。この時、上首(最高リーダー)である上行菩薩は喜び勇んで登場したと仰せなのです。
 この地涌の出現に驚いたのは、会座《えざ》にいた弟子たちです。
 それに先立ち、師・釈尊は、三類の強敵の出来《しゅったい》など、悪世に妙法を弘めることが、いかに困難かを繰り返し説かれていた。
 ところが、そうした大闘争を喜び求めて、尊貴な仏の生命の光明を放つ菩薩たちが勇んで踊り出たのです。その一人一人には、師匠である釈尊と共に戦い抜く誇りが漲り溢れていた。
 会座の人々の疑問を代表し、弥勒菩薩が釈尊に質問します。
 「これほどの無量の菩薩は、今まで見たことがありません。どこから来たのでしょうか?」
 釈尊は語りました。
 「私は、久遠よりこのかた、これらの大菩薩を教化してきたのである」──。
 釈尊が今世で仏に成られたとばかり思っていた人々は驚愕し、さらに疑問が深まります。
 「わずか四十年余りの間に、釈尊はどうやって無数の菩薩を薫陶されたのでしょうか?」
 この質問に答える形で、釈尊は、如来寿量品第16に入って、久遠の過去に成道していたという永遠の大生命(久遠実成)を説き明かしていくのです。
 いわば、地涌の弟子たちの光り輝く姿によって、想像を絶する偉大なる師匠の大境涯が示されていくわけです。
 このように、それまでの小さな法に執着した心を揺さぶり、より大きな価値観へ目を開かせる説法を「動執生疑」 (執を動じ、疑を生ず)と言います。
 末法の日本において、この「動執生疑」を起こしゆかれた方が、日蓮大聖人であられます。民衆を苦悩に陥れる邪義を糾す「立正安国」の師子吼が、傲り高ぶった権力の魔性を震撼させたのです。
 狂暴な弾圧は、既成勢力の動揺の表れにほかなりません。
 しかし大聖人は、身命に及ぶ迫害をも「日蓮悦んで云く本より存知の旨なり」(御書910㌻)と悠然と見下ろされ、戦い抜かれた。
 「日蓮は流罪を二度までも蒙り、すでに頸の座にもすえられたけれども、少しも恐れなかったので、今では日本国の人々の中にも『日蓮の言うことが道理かもしれない』という人もあるであろう」(同1138㌻、趣意)と仰せの通りです。
 この大聖人に直結する創価学会も、日本と世界に「動執生疑」を呼び起こしてきました。
 源流期の国家諫暁の殉難。
 草創期の民衆救済の折伏。
 躍進期の地域友好の拡大。
 そして今、仏法を根幹とした人類貢献の平和・文化・教育の大潮流を広げています。
 創価の理念も運動も人材も、旧来の精神土壌では考えられない前代未聞の壮挙である。
 真剣な皆様方の対話と行動は、日々、地域・社会に「動執生疑」の波を起こしています。
 法のため、人のため、社会のため、いかなる労苦も惜しまぬ皆様方の勇気と智慧と雄弁は、神々しいまでに、地涌の菩薩の大力用を放っているのです。
 本抄には「大悪をこれば大善きたる、すでに大謗法・国にあり大正法必ずひろまるべし、各各なにをかなげかせ給うべき」(同1300㌻)ともあります。
 どんな大悪があろうと、何も嘆くことはない。深い闇も大善の旭日が昇りゆく大瑞相なのだ。これが仏法の大確信です。
 時代は乱れに乱れている。不確かな風に不安を抱きながら、流されゆく人生があまりにも多い。誰もが、心の中では正しい哲学の指標を求め始めている。
 だからこそ、確固たる信念を勇敢に誠実に語り抜く皆様方の声は、仏の声の響きとなって、人々の心を揺り動かさずにはおかないのであります。
 たとえ相手が反発しているように見えても、根底では必ず仏性が薫発されているのです。
 以前、「先駆」の九州の一人の婦人から、入会の決意を伺ったことがあります。
 「皆さんの大情熱に『動執生疑』を起こされ、ついに私も『蘭室の友』となれました!」
 すでに入会前から、紹介者の方と教学を学んでいたのです。
 深き哲学を持つ人生は強い。
 米国アイダホ大学のガイヤ博士も語ってくださった。
 「創価学会の方々は、自らの強い信念に生きておられる。
 強い信条、信念のもとに、人々に目的観を示し、導いていくところにこそ、宗教本来の使命はあります」と。
 世界の知性が讃嘆してくださっているように、わが創価の友の行くところ、向かうところ、必ず正義の波動が広がります。
 今回の御文の直前には、「迦葉尊者にあらずとも・まいをも・まいぬべし、舎利弗にあらねども・立ってをどりぬべし」(同㌻)と仰せです。
 師匠は不惜身命で大難と戦い抜き、そして勝ち抜かれた。ゆえに、その師匠に続く弟子も苦難に立ち向かうのは当然だ。
 崇高な使命の闘争に、楽な戦いなどない。試練と戦うからこそ、仏の力が出せる。苦難に打ち勝つからこそ、師と共に仏になれる。これが法華経を貫く師弟の勝利の舞なのであります。
 あの大阪の戦いも、皆が地涌の舞を舞いながら「まさか」を実現した。常勝関西には師弟の真髄がある。ゆえに負けない。
 ともあれ、大変であるほど、師弟不二の信心の力で、仏の智慧を出して、我らは戦い進む。
 その姿を、心ある人々は真摯に見つめています。必ず仏縁が結ばれ、味方は広がります。

思い切り楽しく!
 大聖人は「元品の法性は梵天・帝釈等と顕われ」(御書997㌻)と仰せになられている。
 梵天・帝釈といっても、遠くにいるのではない。強盛な祈りで、わが法性(仏性)を発揮する時、その生命が梵天・帝釈として現れ、我らを厳然と守護することを忘れてはなりません。
 信心とは、究極の勇気です。その勇猛なる信心の一念で、衆生世間、国土世間をも大きく動かし、勝利していける。これが「一念三千」の極意です。
 私が戸田先生の弟子として、中国とロシアを初訪問してから今年で35年になります。
 当時は、反対や圧迫の声が渦巻いていた。しかし今や、両国をはじめ世界の五大州と結んできた平和・文化・教育の金の橋は、日本にとっても大事な命脈として感謝されている事実は、皆様方がご存じの通りです。
 法華経では、地涌の菩薩の出現によって本門が始まる。世界を舞台に、幾百万の地涌の青年が立ち上がった今、いよいよ創価の「本門の時代」の開幕です。
 戸田先生は叫ばれました。
 「前進前進、勝利勝利の創価学会であれ! そのためには、勇気と確信と真剣勝負の創価学会たれ! 断じて皆が勝つのだ。負けてはならない。これが広宣流布の方程式だ。これが自分自身の永遠の勝利の人生、すなわち仏になりゆくことだ」
 わが広布の英雄の皆様よ! 歓喜踊躍して舞う上行菩薩の生命力を漲らせて、生まれ変わったように生き生きと戦おう!
 そして思い切り楽しく声を出しながら、仏になりゆく勝利の万歳を叫び、勇敢に進もう!
2009-08-20 : 御書と師弟 :
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