新 あの日あの時 11 

新 あの日あの時 11     (2009.8.19付 聖教新聞)

池田先生と常勝大阪総県

天下無敵の勝利の大剣

旭区と香峯子夫人
 「えらいこっちや、はよ旭会館に集まって!」
 大阪市旭区の婦人部の間で、緊急の知らせが飛びかったのは、1983年(昭和58年)3月12日の午後2時40分過ぎだった。
 この日の午後から同区の上原宅で懇談していた池田香峯子夫人が、大阪旭会館に向かったのである。
 ほんの10分足らずで、主要なメンバーに連絡が流れた。
 「ほんまかいな!」。サンダル履きで文化住宅を飛び出し、大阪旭会館へ集まった。
 2階建ての木造家屋を改修した会館である。老朽化していたが、ささやかな庭には植え込みもあり、昧のある建物だった。
 何よりも床の間には、旭区の宝物がある。「大阪の戦い」で青年部の池田大作室長がしたためた「大勝」の揮毫が掲げられていた。
 午後3時。上原宅から香峯子夫人が到着するころには、100人ほどが畳の上を埋めていた。
 「それでは、お題目を一緒にあげましょう」
 香峯子夫人を中心に朗々と唱題が始まった。
 ともに唱和しながら、上原慶子、令子の姉妹は胸にこみ上げるものがあった。美容院を経営する上原姉妹は、来店してくれた香峯子夫人に、旭区の前進ぶりを折にふれて報告してきた。
 特に「大勝」の揮毫は、旭区の旗印であることを熱く語った。
 200遍の唱題が終わると夫人は、くるりと体の向きを変えた。
 「戸田先生が関西から貧乏人と病人をなくしたいと言われていたことを思い出しながら唱題しました」
 そして「楽しく戦ってください」「必ず大勝利しましょう」と微笑んだ。

鶴見区と3・16
 81年(昭和56年)3月17日の夜である。
 午後7時前、鶴見区の「板原会館」に集まってきた女子部員たちが、ただならぬ気配に立ちすくんだ。
 鶴見本部の女子部で3・16記念の会合を開く予定だったが、個人会館に隣接する駐輪場にまで人があふれていた。会場に入ると、区幹部が勢ぞろいで、かしこまっている。
 「どうぞ女子部の方は前に来てください」
 幹部に促され、女子部員たちが前方へ進む。
 「実は、今、池田先生が向かいの板原宅におられます」
 もしかしたら……。
 期待が高まるが、その後の説明に、ますます戸惑った。
 「こちらに来られるかも知れませんし、来られないかも知れません。会合はそのままやってください」
 そんな……。いったい、どっちなんやろ。
 しばらくして、右手の入り口が勢いよく開いた。
 「こんばんは。ごめんやす!」
 大阪弁のアクセントをきかせ、名誉会長が姿を現した。
 近くにいた女子部員がサッと花束を差し出した。
 実は女子部の本部長が結婚するので、そのために用意したものだった。
 春らしい色の花々から、いい匂いが漂う。期せずして最高の形で贈ることができた。
 合掌するように手を合わせ、名誉会長は小ぶりな花束を受け取った。
 「じゃあ、今から一緒に祈ろう」「何でもいいんだよ」。仏壇の前へ進んだ。
 「今、皆さんが一番願っていることを祈りましょう」
 女子部にとって最高の3・16になった。名誉会長を中心に唱和する声が響いた。
        ◇
 鶴見の地名の由来は、日本書紀に出てくる「草薙の剣《つるぎ》」の「ツルギ」が、なまったという説がある。これを裏づけるかのように、区内には通称「剣《つるぎ》街道」が走る。
 名誉会長は鶴見区で、香峯子夫人は旭区で、地元のメンバーと題目を唱えた。
 天下無敵の「勝利の大剣」を抜きはなった。

守口地区への手紙
 「大阪の戦い」で守口地区は、青年部の池田室長のもと快進撃した。
 しかし、地区担当員だった山本悦子は、決して丈夫な体ではない。心配をかけないよう繕ってみせていたが、池田室長は見逃さなかった。
 56年(昭和31年)春、東京にいた室長から、山本の家に手紙が舞い込んだ。
 4月11日の消印である。
 「身体の具合ハ如何。仏法ハ勝負であり、吾が身の鬼神、第六天の魔を打破れる信心に、起たねバならぬでありましょう」
 広布のため、学会のため、全地区員と前進ができるように念願した後、端的に指針が示されていた。
 ①夜は規則正しく休み、くれぐれも身体を大事に。
 ②水のごとく清く、つつがない信心を。
 ③地区部長と力を合わせていきなさい。
 ④次のリーダーを立派に育成せよ。
 ⑤家庭も絶対に、おろそかにしないように。
 守口の同志に贈られた5指針である。
 やはり「大阪の戦い」の渦中だった。
 旭区内の拠点で、守口地区の稲岡正己が友人を折伏していたが、決まらない。
 “あかん、誰か助けてくれんやろか”。まだ入会して1年もたっていなかった。
 その時、玄関から「毎日ご苦労さまです」。池田室長の声だった。守口市内の座談会から、関西本部に戻る途中、立ち寄ってくれた。百万の味方を得た思いである。
 「日蓮大聖人の哲学とカントの哲学では、こんなにも違うのですよ」。室長は大きく両手を広げた。
 “うヘー、カントってなんやろ”。稲岡は、度肝を抜かれた。
 「私と友達になりましょう。どうか幸せになってください」
 その友人は即座に入会を希望した。
        ◇
 守口市に住む一婦人部員には忘れられない信心の原点がある。
 57年(昭和32年)に高校を卒業し、1カ月間だけ関西本部で働いたことがある。
 辞めた後、当時の自宅で開かれた会合に池田室長が出席した。
 顔を見た室長は「あなたのお宅だったんですね」。
 直接、話をする機会もなかったはずなのに、覚えていてくれた。
 居合わせた会員たちのために、色紙や扇に文字を書き、地区ごとに大きな揮毫をしたためた。
 婦人の地区には「断」の一文字が贈られた。
 決断。英断。勇断。さらには一刀両断。間断なき戦い。油断大敵──。
 たった一文字だが、幾重にも深い意味をはらんでいる。
 戦いは決断や!
 敵は一刀両断や!

門真の松下工場
 73年(昭和48年)4月11日の夜であった。
 門真市にある松下電器産業株式会社(現・パナソニック㈱)のラジオ工場では、就業時間も過ぎ、あたりに人気も少なくなってきた。
 遠くで京阪・門真駅(当時)に発着する電車の音が聞こえる。
 たまたま居残って雑巾だけをしていた従業員が、目を疑った。
 「あっ! 掃除してはる」
 腰を落として、床に落ちていたチリを拾っている人がいる。誰かと思えば、会長の松下幸之助ではないか。
 “松下病院で療養されていると聞いていたのに……”
 松下のラジオ工場は、来客を迎えたときの見学コースだった。
 しかも会長の松下が、自ら腕時計を見ながら、どれだけ移動に時間がかかるのかを計っている。
 付き添っていた社員が、松下の指示で、ベルトコンベヤーの下にもぐり、はんだ付けのカスをドライバーの先で削り取っていた。
 見たことがない光景だった。いったい誰が見学に来るのだろう?
        ◇
 翌12日の木曜日。
 午後1時すぎから、松下本社で松下が立っていた。雨つぶの落ちてくる空を見上げてから、小一時間ほど経つ。
 予定の午後2時前、国道1号線から人ってきた車が、正面玄関に停まる。松下がパッと頭を下げた。
 「ようこそ、いらっしゃいました」
 降車してすぐに腰を折ったのは、池田名誉会長である。
 前日に第1回入学式が行われたばかりの創価女子学園(現・関西創価学園)から、到着した。
 見学コースは、門真のラジオ工場と音響研究所だった。松下が名誉会長にピタリと寄り添っていた。
 名誉会長は、工場で働く人に丁寧に会釈していった。ベルトコンベヤーの音の中で、従業員が顔を見合わせる。
 「こんな人、初めてやな」
 廊下にいた一人の女性清掃員に目をとめた。作業服の胸元に、学会のバッジが光っている。
 「婦人部ですね。頑張ってください!」
 松下は、社員が声をかけられる光景を誇らしげに見守っていた。
 見学後、赤じゅうたんが敷かれた貴賓室へ。
 名誉会長の訪問は5時間を超えたが、そばを離れなかった。国家元首クラスでも、ここまではしない。
 「先生は日本に無くてはならぬ大指導者です」
 「世界平和と繁栄を築いていく人は、池田先生の外にありません」
 後日、松下から届いた礼状である。
2009-08-20 : 新 あの日あの時 :
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