新 あの日あの時 10
新 あの日あの時 10 (2009.8.18付 聖教新聞)
池田先生と東京の北区
北の砦から勝利の烽火を!
王子に響いた婦人訓
東京・北区の王子駅前に立つ「王子百貨店」のホールに、戸田城聖第2代会長の声が響きわたった。
「本日、ここで『婦人訓』を発表したい!」
1953年(昭和28年)5月17日。戸田会長から婦人部の新しい指針が発表されたのである。
なぜ、この日、婦人訓が発表されたのか。
婦人部が結成されたのは、51年(昭和26年)6月だが、いまだ本格的な指標が定まっていない。戸田会長には、それがずっと気がかりだった。
ところが前日の5月16日、文京支部の会合に出席したときである。文京の井上シマ子が発表した「婦人の確信」に、大いに感ずるところがあった。
師弟の道に生きる。戦うための実践の教学。怨嫉をしない。壮年部と団結する──婦人部に必要な指針が、すべて含まれていた。
懐刀である池田大作支部長代理を文京に送り込んで、わずか1カ月あまり。
さすが大作だ。もう婦人部を立ち上がらせたか!。
即座に戸田会長は、井上の原稿に前文を書き加え、王子の地で発表したのである。
「創価学会会長に就任以来、婦人の活動に期待するところ、重かつ大なり!」
創価学会婦人部の本格的な前進は、北区から始まったのである。
江北から言論戦
「王子なら、お願いしましょう!」
戸田会長は、心から安心した口調で決断した。
55年(昭和30年)、聖教新聞の印刷業者に、王子の紙を調達できる企業を選んだ。
王子は、日本における洋紙発祥の地。新聞業界で「王子」といえば上質な紙の代名詞だった。
戦前、戦後と出版業をいとなみ、用紙の手配に苦労してきた戸田会長である。これで一流の品質が確保できると安堵した。
それから半世紀。聖教新聞は「王子の紙」に支えられてきた。
◇
王子駅からバスに乗った青年部の池田室長が、江北橋を渡って、藤田建吉の家を訪れたのは、55年(昭和30年)である。
足立区への初訪問だった。
その4年後、藤田の会社は学会関連書籍を全国に発送する仕事を担った。
ある秋口の午後、従業員井谷水彦《いたにみずひこ》が一服していると作業場に人の気配がした。
「あっ、池田先生!」
真剣な眼ざして語った。
「発送の仕事は、広宣流布の血管の役目だよ」
王子の紙」と「江北の血管」。
北区と足立区は隣接する「兄弟区」。
ともに広宣流布の言論戦の屋台骨となっだ。
赤羽台が結ぶ縁
芸術部の山本リンダが、大きな目を一段と丸くした。
「えっ、この部屋にトインビー博士が来たの!」
2008年秋、赤羽台団地の20号棟3階の一室で、懇談会が開かれていた。
約20年前から、この部屋に住む稲垣泰子。
団地内の知人から聞いた話を披露した。
──トインビー博士は、赤絨毯を敷いた部屋に靴のまま上がってね。かがむように背中を丸めて、ふすまをくぐったのよ。部屋の外で報道陣が待っていたんですって。
67年(昭和42年)11月。佐藤栄作首相と会見したトインビー博士は、同行者に、日本の庶民の暮らしぶりが見たいと打ち明けた。
白羽の矢が立つたのが赤羽台団地である。
北区は鉄道網が発達し、都営桐ケ丘団地や豊島5丁目団地などマンモス団地が広かっている。
トインビーには、持論があった。
「時代を動かすのは、新聞の見出しの好個の材料となる事柄よりも、水底のゆるやかな動きである」
この年は、公明党の衆議院進出に日本中が驚いた年でもあった。
帰国すると、池田会長の著作を丹念に調べた。
「あなたの思想や著作に強い関心を持つようになりました」
やがて一通のエアメールを送った。
愛くるしいリンダ・スマイルが去った数週間後、学会副理事長の池田博正が同じ部屋を訪れた。
「庶民のありのままの姿を見せた赤羽台が、父とトインビー博士の縁《えにし》を結んだんですね」
獅子は一人立つ
北区は、池田名誉会長と縁が深い。
67年(昭和42年)10月25日。西が丘の旧赤羽会館。勤行を終えた名誉会長が振り返った。
「今日は座談会形式で話し合おう」。小さな座卓を囲むと、口々に生活の苦しさを訴えてくる。
悩みがあるから不幸。環境が厳しいから敗北。そんな惰弱な心を、名誉会長は断ち切った。
「私にだって、悩みは100も200もあるよ。だが煩悩即菩提だ。悩みがあること自体が幸せなんだ」
目の前のソーダ水の泡を、じっと見つめる少女がいた。
「飲むかい?」。コクリとうなずいた。後に喜多戸田区の婦人部長になる大梶陽子である。幼い脳裏に、たった一つだけ、名誉会長の言葉が焼きついている。
「一人の人が大切だ!」
羊千匹より獅子一匹の精神を打ち込んだ。
◇
霜降橋から北区の滝野川方面に、一台の車が向かっていた。88年(昭和63年)11月15日の午後3時半である。
車は本郷通りを進み、西ケ原の「旧古河《ふるかわ》庭園」へ。
茶色の洋館が夕日に照り映えている。明治の元勲・陸奥宗光《むつむねみつ》の旧別邸には、バラが咲き薫っていた。
香峯子夫人が嬉しそうに見わたす。
「こんなに美しい庭園があるなんて素晴らしいですね」
一目散に砂利を踏み散らして、名誉会長に駆け寄る壮年がいた。第3代会長辞任以
来、招待の手紙を書き続けてきた福田理一《りいち》だった。
北区の日本一の庭を見てもらいたい。会長を辞任されようとも、私たちの師匠は池田先生!
北区の皆の思いだった。
その真心に、名誉会長夫妻は真心で応えた。
◇
手紙の内容に、婦人部の中根えみ子は跳びあがった。
「この資料は厳密な内容分析の上、詳細な目録カード作製の上、絶対基本文献として大切に永久保存いたします」
一里塚交差点に近い「東京ゲーテ記念館」。ゲーテの世界的研究拠点である。
2003年3月、名誉会長の連載「人間ゲーテを語る」が載ると、中根は真っ先に聖教新聞を届けた。
ほどなく東京ゲーテ記念館から丁重な返事が送られてきた。一人の婦人の果敢な行動が実を結んだ。
設立者の粉川忠《こなかわただし》は、世界中の新聞や本にゲーテの文字を見つけ、収集していた。なかでも池田名誉会長がゲーテを語り、書き綴ってきた事実に驚いた。日本きっての規模である。そもそも名誉会長の膨大な著作。世界との対話。まさにゲーテだ!
「聖教新聞は日本一、ゲーテが載っている。その源は名誉会長の詩心です」
北区婦人部の日
「太田道灌を知っているかい?」
84年(昭和59年)8月18日。信濃町で北区の代表と懇談した折である。
太田道灌。
室町時代に江戸城を築いた名将だった。
「彼が全関東の要衝としてクサビを打ち込んだのは、北区だった」
東京の北の玄関口・赤羽駅。その南西の丘陵に、太田道灌が築城したという稲付城
の跡がある。
太田のもとへ、太田とともに──。
いったん急あらは四方八方から関東武士が集結し、敵との決戦に討って出た。
「北区は、日本の急所だ。北の砦から、勝利の蜂火をあげるんだ」
この日が「北区婦人部の日」の淵源となる。
きょう、25周年を迎えた。
十条銀座から立て!
十条銀座は「北区の台所」として知られている。
名誉会長が十条銀座を訪れたのは、79年(昭和54年)7月12日だった。学会員が営む飲食店で、東京婦人部や北区の代表と懇談した。
7月12日は、特別な日である。57年(昭和32年)のこの日、蔵前国技館で「東京大会」があった。
池田室長の身柄は、あの「大阪事件」の不当逮捕により、大阪の拘置所内にあった。戸田会長の怒声がとどろく。
大作を出せ! 直ちに出せ!
録音係だった北区・豊島の末広良安《すえひろよしやす》。放送室で、スピー力ーを突き破ってくる叫びに全身が震えた。
この日は、香峯子夫人の入信記念日でもある。
◇
十条銀座の店には、電車が通るたびに、かすかな地響きが伝わってくる。
名誉会長は婦人部にうながした。「さあ、東京の歌を歌おう」
♪おお東天に 祈りあり……
山本伸一作詞の「ああ感激の同志あり」である。
名誉会長も立ち上がった。拳を握り、唱和する。ひとり、また一人と口ずさみ始める。北区の橋元和子も必死に声をあわせた。
♪いざや戦士に 栄あれ
汝の勝利は 確かなり
東京よ、雄々しく立て!
北区から、師弟一体の「東京の戦い」が始まった。
池田先生と東京の北区
北の砦から勝利の烽火を!
王子に響いた婦人訓
東京・北区の王子駅前に立つ「王子百貨店」のホールに、戸田城聖第2代会長の声が響きわたった。
「本日、ここで『婦人訓』を発表したい!」
1953年(昭和28年)5月17日。戸田会長から婦人部の新しい指針が発表されたのである。
なぜ、この日、婦人訓が発表されたのか。
婦人部が結成されたのは、51年(昭和26年)6月だが、いまだ本格的な指標が定まっていない。戸田会長には、それがずっと気がかりだった。
ところが前日の5月16日、文京支部の会合に出席したときである。文京の井上シマ子が発表した「婦人の確信」に、大いに感ずるところがあった。
師弟の道に生きる。戦うための実践の教学。怨嫉をしない。壮年部と団結する──婦人部に必要な指針が、すべて含まれていた。
懐刀である池田大作支部長代理を文京に送り込んで、わずか1カ月あまり。
さすが大作だ。もう婦人部を立ち上がらせたか!。
即座に戸田会長は、井上の原稿に前文を書き加え、王子の地で発表したのである。
「創価学会会長に就任以来、婦人の活動に期待するところ、重かつ大なり!」
創価学会婦人部の本格的な前進は、北区から始まったのである。
江北から言論戦
「王子なら、お願いしましょう!」
戸田会長は、心から安心した口調で決断した。
55年(昭和30年)、聖教新聞の印刷業者に、王子の紙を調達できる企業を選んだ。
王子は、日本における洋紙発祥の地。新聞業界で「王子」といえば上質な紙の代名詞だった。
戦前、戦後と出版業をいとなみ、用紙の手配に苦労してきた戸田会長である。これで一流の品質が確保できると安堵した。
それから半世紀。聖教新聞は「王子の紙」に支えられてきた。
◇
王子駅からバスに乗った青年部の池田室長が、江北橋を渡って、藤田建吉の家を訪れたのは、55年(昭和30年)である。
足立区への初訪問だった。
その4年後、藤田の会社は学会関連書籍を全国に発送する仕事を担った。
ある秋口の午後、従業員井谷水彦《いたにみずひこ》が一服していると作業場に人の気配がした。
「あっ、池田先生!」
真剣な眼ざして語った。
「発送の仕事は、広宣流布の血管の役目だよ」
王子の紙」と「江北の血管」。
北区と足立区は隣接する「兄弟区」。
ともに広宣流布の言論戦の屋台骨となっだ。
赤羽台が結ぶ縁
芸術部の山本リンダが、大きな目を一段と丸くした。
「えっ、この部屋にトインビー博士が来たの!」
2008年秋、赤羽台団地の20号棟3階の一室で、懇談会が開かれていた。
約20年前から、この部屋に住む稲垣泰子。
団地内の知人から聞いた話を披露した。
──トインビー博士は、赤絨毯を敷いた部屋に靴のまま上がってね。かがむように背中を丸めて、ふすまをくぐったのよ。部屋の外で報道陣が待っていたんですって。
67年(昭和42年)11月。佐藤栄作首相と会見したトインビー博士は、同行者に、日本の庶民の暮らしぶりが見たいと打ち明けた。
白羽の矢が立つたのが赤羽台団地である。
北区は鉄道網が発達し、都営桐ケ丘団地や豊島5丁目団地などマンモス団地が広かっている。
トインビーには、持論があった。
「時代を動かすのは、新聞の見出しの好個の材料となる事柄よりも、水底のゆるやかな動きである」
この年は、公明党の衆議院進出に日本中が驚いた年でもあった。
帰国すると、池田会長の著作を丹念に調べた。
「あなたの思想や著作に強い関心を持つようになりました」
やがて一通のエアメールを送った。
愛くるしいリンダ・スマイルが去った数週間後、学会副理事長の池田博正が同じ部屋を訪れた。
「庶民のありのままの姿を見せた赤羽台が、父とトインビー博士の縁《えにし》を結んだんですね」
獅子は一人立つ
北区は、池田名誉会長と縁が深い。
67年(昭和42年)10月25日。西が丘の旧赤羽会館。勤行を終えた名誉会長が振り返った。
「今日は座談会形式で話し合おう」。小さな座卓を囲むと、口々に生活の苦しさを訴えてくる。
悩みがあるから不幸。環境が厳しいから敗北。そんな惰弱な心を、名誉会長は断ち切った。
「私にだって、悩みは100も200もあるよ。だが煩悩即菩提だ。悩みがあること自体が幸せなんだ」
目の前のソーダ水の泡を、じっと見つめる少女がいた。
「飲むかい?」。コクリとうなずいた。後に喜多戸田区の婦人部長になる大梶陽子である。幼い脳裏に、たった一つだけ、名誉会長の言葉が焼きついている。
「一人の人が大切だ!」
羊千匹より獅子一匹の精神を打ち込んだ。
◇
霜降橋から北区の滝野川方面に、一台の車が向かっていた。88年(昭和63年)11月15日の午後3時半である。
車は本郷通りを進み、西ケ原の「旧古河《ふるかわ》庭園」へ。
茶色の洋館が夕日に照り映えている。明治の元勲・陸奥宗光《むつむねみつ》の旧別邸には、バラが咲き薫っていた。
香峯子夫人が嬉しそうに見わたす。
「こんなに美しい庭園があるなんて素晴らしいですね」
一目散に砂利を踏み散らして、名誉会長に駆け寄る壮年がいた。第3代会長辞任以
来、招待の手紙を書き続けてきた福田理一《りいち》だった。
北区の日本一の庭を見てもらいたい。会長を辞任されようとも、私たちの師匠は池田先生!
北区の皆の思いだった。
その真心に、名誉会長夫妻は真心で応えた。
◇
手紙の内容に、婦人部の中根えみ子は跳びあがった。
「この資料は厳密な内容分析の上、詳細な目録カード作製の上、絶対基本文献として大切に永久保存いたします」
一里塚交差点に近い「東京ゲーテ記念館」。ゲーテの世界的研究拠点である。
2003年3月、名誉会長の連載「人間ゲーテを語る」が載ると、中根は真っ先に聖教新聞を届けた。
ほどなく東京ゲーテ記念館から丁重な返事が送られてきた。一人の婦人の果敢な行動が実を結んだ。
設立者の粉川忠《こなかわただし》は、世界中の新聞や本にゲーテの文字を見つけ、収集していた。なかでも池田名誉会長がゲーテを語り、書き綴ってきた事実に驚いた。日本きっての規模である。そもそも名誉会長の膨大な著作。世界との対話。まさにゲーテだ!
「聖教新聞は日本一、ゲーテが載っている。その源は名誉会長の詩心です」
北区婦人部の日
「太田道灌を知っているかい?」
84年(昭和59年)8月18日。信濃町で北区の代表と懇談した折である。
太田道灌。
室町時代に江戸城を築いた名将だった。
「彼が全関東の要衝としてクサビを打ち込んだのは、北区だった」
東京の北の玄関口・赤羽駅。その南西の丘陵に、太田道灌が築城したという稲付城
の跡がある。
太田のもとへ、太田とともに──。
いったん急あらは四方八方から関東武士が集結し、敵との決戦に討って出た。
「北区は、日本の急所だ。北の砦から、勝利の蜂火をあげるんだ」
この日が「北区婦人部の日」の淵源となる。
きょう、25周年を迎えた。
十条銀座から立て!
十条銀座は「北区の台所」として知られている。
名誉会長が十条銀座を訪れたのは、79年(昭和54年)7月12日だった。学会員が営む飲食店で、東京婦人部や北区の代表と懇談した。
7月12日は、特別な日である。57年(昭和32年)のこの日、蔵前国技館で「東京大会」があった。
池田室長の身柄は、あの「大阪事件」の不当逮捕により、大阪の拘置所内にあった。戸田会長の怒声がとどろく。
大作を出せ! 直ちに出せ!
録音係だった北区・豊島の末広良安《すえひろよしやす》。放送室で、スピー力ーを突き破ってくる叫びに全身が震えた。
この日は、香峯子夫人の入信記念日でもある。
◇
十条銀座の店には、電車が通るたびに、かすかな地響きが伝わってくる。
名誉会長は婦人部にうながした。「さあ、東京の歌を歌おう」
♪おお東天に 祈りあり……
山本伸一作詞の「ああ感激の同志あり」である。
名誉会長も立ち上がった。拳を握り、唱和する。ひとり、また一人と口ずさみ始める。北区の橋元和子も必死に声をあわせた。
♪いざや戦士に 栄あれ
汝の勝利は 確かなり
東京よ、雄々しく立て!
北区から、師弟一体の「東京の戦い」が始まった。
2009-08-20 :
新 あの日あの時 :