随筆 人間世紀の光 No.198/9

随筆 人間世紀の光 No.198/9  (2009.8.15/16付 聖教新聞)

永遠の同志・大関西㊤㊦

仏法は勝負! 決戦場に勇み立て
黄金の「今 この時」を 君よ悔いなく


 関西と
  いえば常勝
    晴ればれと

 希望の未来へ、溌剌と若木が伸びる夏。嬉しいニュースが飛び込んできた。
 関西創価高校のダンス部が日本一の「文部科学大臣賞」に輝いた。さらに箏曲部も「文化庁長官賞」を受賞したのである。
 2カ月前、私は、この学園生たちと会った。6月18日、関西創価高校2年生が創価大学で研修していると聞き、駆けつけたのだ。
 学園生たちは、はち切れんばかりの勢いで「外国語を習得します」「世界一の教育者になります」等と決意を語ってくれた。ダンス部や箏曲部など、各クラブのメンバーたちも、勝利への抱負を聞かせてくれた。
 誓いを立て、汗を流して努力し、持てる力を出し切る。そして勝つ。これほど痛快なことはない。
 わが学園生は、この「負けじ魂」を父母の後ろ姿から、学びとっているのだ。
 私は「頑張れ!」とエールを送りつつ、「お父さん、お母さんを大切に!」と、声を大に呼びかけた。
 後継の友の成長こそ、関西そして全国の父母の喜びである。私の誇りである。
 人生の土台となる青春期は、懸命に戦った全員が勝利者だ。私は、いつも皆の前進を祈り、待っている。
        ◇
 栄光の
  帝王 われと
   指揮高く
  逆巻く海をば
    無敵の舵とれ

 関西創価学園が立つ交野は、“万葉”の詩情を今に伝える天地だ。
 5世紀ごろから8世紀半ばの歌を収めた『万葉集』。その中に現れる地名の一つに、「住吉《すみのえ》」(後に「すみよし」)がある。これは、現在の大阪市住吉区、住之江区の付近を指す。往時は「白砂青松《はくしゃせいしょう》」の美しき海岸が広がっていた。「すみのえ」の音には「清江」とも当てられる。
 ここには「住吉津《すみのえつ》」と呼ばれる港があった。古代中国への使節は、ここから出発していったという説もある。世界と日本を結ぶ、国際港の「先駆」であった。
 私も訪れ、その歴史薫る風情に感じ入った一人だ。
 今や「世界の大関西」と謳われゆく、わが友の大行進を、先人たちも誇らしく見つめているに違いない。
 奇しくも、この西大阪の地域は、わが関西創価学会の発祥の大地でもある。
 大阪の初代支部長・白木義一郎さんの折伏の第1号は、西成区で決まった。
 さらに、戸田先生と私が師弟して臨んだ最初の関西の座談会は、昭和27年の8月16日、大正区で行われたのである。
 先生は厳と語られた。
 「私が関西に来たのは、貧乏人と病人をなくすためです!」
 師の構想を実現するのが弟子だ。ゆえに私は、この師の誓願をわが誓願とし、関西を走り抜いてきた。
 この西大阪は、大楠公・楠木正成《まさしげ》が痛快な勝利の足跡を残した地でもある。
 「合戦の勝負、必ずしも大勢《おおぜい》・小勢《こぜい》に依らず。ただ士卒の志を一つにするとせざるとなり」と正成が語ったのも、この折であった。
 勝負を決するのは、人数の多い少ないではなく、心を一つにする団結であるというのである。
 さらに正成の遺子・楠木正行《まさつら》が「早く生い立て」との厳父の祈りに応えて、宿敵を打ち破ったのも、この地の合戦であった。
 昭和60年の1月25日、私は西大阪文化会館(現・住之江文化会館)を訪問した。「大阪事件」の無罪判決から23年の日である。この日は「関西婦人部の日」となった。
 私は、瞬時にして心が通い合う同志に訴えた。
 「仏法は勝負!」
 広宣流布のためには、戦わなければならない。
 臆病に退いてしまえば、魔軍が増長するだけだ。
 戦うなら勝つしかない。
 正行の如く、後継の証明は勝利のみである。
 英国の作家シェークスピアの劇中の人物は誓う。
 「どんな恐ろしい困難とでも私は闘います。いや、必ず克ってみせます」
 大事なのは、この断固たる気概である。
        ◇
 慶応義塾大学の創立者である福沢諭吉先生も、現在の大阪市福島区の生まれだ。青春の薫陶を、大阪の適塾で、師匠・緒方洪庵から受けた。
 福沢先生は、その師匠への感謝を生涯、堅持した。晩年、自らの全集の冒頭に綴った言葉が、清々しい。
 「今日に至る迄 無窮の師恩を拝する者なり」
 ──今日に至るまで、無限の師匠の恩を慎んで受け、深く尊ぶものであると。
 人間は、師恩に応えゆかんとする時、最も尊貴にして、最も強靭なる生命の光を発するのだ。
 我らの大関西の強さも、ここにある。
      ◇
 大兵庫
  広布の白馬に
    君乗りて
 勝ち抜け 勝ち抜け
    勝ちまくれ

 大阪の住吉津から湾を隔てた兵庫には「大輪田泊《おおわだのとまり》」ができた。それが、憧れの神戸市兵庫区の港である。
 12世紀、平清盛がこの港を大修築した。鎌倉時代には、宋との貿易で大いに栄えている。
 兵庫区や長田《ながた》区、北区の地域は、古来、幾多の武将が駆け抜けてきた。三区が連接する付近には“鵯越《ひよどりごえ》”(兵庫区)、“ひよどり”(北区)、“源平” (長田区)等を冠した地名がある。
 花の若武者・源義経が台頭した「一ノ谷の戦い」。そこで見せた奇襲「鵯越の逆落とし」に縁があるとされる名勝負の舞台だ。
 義経は岩がむき出しの絶壁を前に案内者へ尋ねた。
 「ここから平家の城郭一ノ谷《いちのたに》へ馬でかけ下《お》りようと思うがどうか」
 「人の通れる所ではありません。まして御馬《おうま》などは思いもよりません」と言下に否定される。
 だが、「鹿は通るか」と聞くと、「鹿は通ります」との答えが返ってきた。
 義経は決断した。
 「義経を手本にせよ!」
 自ら先頭で、断崖へ飛び込む。決死の奇襲戦が、迎え撃つ平氏を敗走させた。
 率先垂範の果断と勇気、勝機を逃さず壁を破る突破力、そして逡巡せぬ魂が、逆境をはね返すのだ。
 御聖訓には、広宣流布の攻防戦に際して、「今まで生きて有りつるは此の事にあはん為なりけり」(御書1451㌻)と仰せである。そして「名を揚るか名をくだすかなり」(同㌻)と強調なされている。
 「今この時」に、死力を尽くして悔いなく戦い切ることだ。その名が、後世に「広宣流布の闘士の鑑」として輝いていくのである。
 大聖人は「皆 我が一念に納めたる功徳善根なりと信心を取るべきなり」(同383㌻)と教えてくださった。
 信心の上で苦労したことは全部、大福運に変わる。
 関西で命を賭して戦い切った私が、その証明だ。
 私と一緒に戦い抜いてくれた、関西の父母の大福の実証を見給え!
 「ひとつ勇気を出されたがよい、後世の人も褒めてくれるよう」とは、ホメロスの大叙事詩『オデュッセイアー』に記された一節だ。
 昭和39年の9月13日、神戸市長田区の育英高校で、今も歴史に光る兵庫総合本部の結成大会が行われた。
 私は、昭和31年の「大阪の戦い」を振り返り、真情を語った。
 「祈りとして叶わざるなしである。私は長として、御本尊に願い切っていこう、働き切っていこう、会員のために勝ち切っていこう、この決心だった」
 いかなる戦いも「長の一念」で決まる。リーダーは、同志を勝たせゆく重大な責務を担っているのだ。
 今、大関西の勇将たちが、なかでも壮年部の盟友たちが、私と同じ決意で、同志のため、地域のため、社会のために、粉骨砕身、戦ってくれている。
 ともあれ、関西の永遠の同志が健在ならば、断固と勝っていける。これが創価の勝ち戦のリズムだ。


 「住吉津」の話は大阪府史編集専門委員会編『大阪府史2』(大阪府)、楠木正成は佐藤和彦編『楠木正成のすべて』(新人物往来社)、源義経は杉本圭三郎訳注『平家物語9』(講談社)などを参照。シェークスピアの言葉は『ジュリアス・シーザ』中野好夫訳(岩波書店)。福沢諭吉は『福澤諭吉全集1』(岩波書店)。ホメロスは『オデュツセイアー』呉茂一訳(岩波書店)。


永遠の同志・大関西

世界に轟け! 正義の師子吼
わが民衆の大行進を 諸天が守らむ


「常勝」は師弟不二の宝冠なり
「勇気」の将軍学で「死闘」を競り勝て!


 おお 堺!
  会えば瞳が
   輝きて
  明るい久遠の
    楽しき同志と

 「永遠に栄えゆく堺たれ」──聖教新聞一面に、八段の大見出しが躍った。
 昭和43年の10月4日、私は、大阪府堺市の金岡《かなおか》体育館での堺本部幹部会に出席した。その時の躍動を報じた記事である。
 堺の名は、摂津、河内、和泉の三国の「境」に由来するという。まさに、活発な往来の要衝であった。
 昭和31年の「大阪の戦い」でも、華々しい結果を示したのが、大和川以南の地域──堺支部たった。
 堺の大発展を念願しつつ、私は「栄える」堺にと申し上げたのである。
 私が初めて大阪の土を踏んで、最初に参加した会合も、堺の座談会だった(昭和27年8月14日)。
 それぞれの経済苦や病苦を、いかに打開するかを、真剣に語るとともに、私は世界広布のロマンを展望した。それは世界に開かれた堺の栄光の歴史を踏まえてのことであった。
 かつて堺は「東洋のべ二ス」と呼ばれるほど、世界に名を馳せ、高度な自治で町人文化が花咲いた。
 その一つが、千利休が大成させた茶道である。
 千利休は、19歳の頃、武野紹鴎《たけのじょうおう》に師事し、師弟の精神を貫き通した。
 私も、19歳で出会った師匠の心に応えて戦った。
 その最高の証こそ、庶民の錦州城・大関西である。
 利休の晩年、側にいた弟子の山上宗二《やまのうえそうじ》が、茶の「名人」の条件の一つとして、三箇条をあげている。
 それは「胸の覚悟」「作分《さくぶん》」「手柄」である。
 「胸の覚悟」とは、心の持ち方、心掛けである。「一期一会」の精神も、その一つだ。すなわち一回一回の出会いが一生に一度限りであると、心を定めることだ。
 「作分」とは創意工夫。「手柄」とは実績である。
 これは、創価の対話の達人たちにも通じよう。
 まず、誓願、決意という学会精神である。
 次に、創造的な息吹で、智慧を湧かし、自ら戦いを起こすことだ。
 そして、勝利の実証を厳然と残しゆくことである。
        ◇
 大関西
   連戦常勝
    祈るらむ
  師弟の魂
   いやまし燃やして

 昭和32年7月。「大阪事件」で私が入獄した月、戸田先生は言われた。
 「関西は、大作と一体不二だ。大作と一緒に、大難に立ち向かい、戦い抜いてきた。だから強いぞ」
 「関西には爆発するような勢いが渦巻いている。関西さえ盤石ならば、学会は巌窟王の如く、50年先、100年先も勝ちまくれる」
 先生は、私と関西の結合に、広布の命脈を託された。その上で迎えたのが大阪事件の裁判闘争だった。
 弁護士でさえ「有罪を覚悟」と言った。確かに刑事事件の有罪率は99㌫を超える。
 しかし私は、日蓮門下として、「世間の失一分もなし」(御書958㌻)との決定《けつじょう》した闘魂に燃えていた。
 法華経に説かれる僣聖増上慢が出来し、学会に恐れをなした権力の魔性が牙を剥いてきたのだ。
 戸田先生の直弟子として、断じて負けるわけにはいかない。

師匠の仇討ちを!

 大聖人
  褒めなむ 讃えむ
    尼崎
  広布の原点
    正義の集いよ

 大阪事件の審理は、4年半にわたった。その期間、私がよく通ったのが、兵庫の尼崎だったのである。
 兵庫は「兵《へい》の庫《くら》」だ。雄々しき戦士の宝庫だ。兵庫が勝てば、関西が勝つ。関西が勝てば、全国が完勝する。
 尼崎は、その関西の電源地であり、学会の心臓部であるからだ。
 歴史を振り返れば、徳川家康も幕府を開いた後、関西への布石として、いち早く尼崎に手を打った。尼崎こそ急所なりと、家康も知悉していたのである。
 私は関西の幹部会、御書講義のために、何度も足を運んだ。尼崎会館のオープンも祝福した。
 大阪事件の最終陳述の日を迎えた昭和36年の12月16日、私は、証言台から師子吼した。
 「私たちの行動は、憲法に保障された国民の権利である!」──検察側の偏見を真正面から突き、最後に師・戸田先生に思いを馳せ、話を結んだのである。
 大阪拘置所から出た時に、先生は私に言われた。
 「いいじゃないか、裁判があるではないか。裁判長はわかるはずだ。裁判長に真実がわかってもらえればいいではないか」
 この師弟の劇を、私は、自身の最終陳述で語ったのであった。
 私は会長となっていた。後を継いだ者として、戦時中、同じく無実で獄に囚われた牧口先生、戸田先生の無念を晴らすしかない。
 師匠の仇討ちのために何があっでも勝つのだ!
 我らは師子だ。師と弟子が一体不二で邪悪を破り、正義を轟かせるのだ!
 この一念深き「祈り」と「雄弁」と「行動」が、諸天善神を揺り動かした。
 翌年1月、尼崎で行った関西男子部幹部会の翌日。私は晴れて無罪判決を受けたのである。
 さらに1年後の昭和38年の2月、尼崎で関西初の婦人部幹部会が開催されると、私は心から祝福した。丑寅勤行まで重ねて、最も深く私の無罪を祈ってくださった母たちである。
 「いかなる状況になろうと、金剛不壊の自分自身を築こう!」と訴えた。
 母が不動の信念であれば一家は安泰である。学会の前進も揺るぎない。
 思えば、長編詩「母」を発表したのも、昭和46年の10月、東淀川で行われた関西婦人部幹部会であった。
 「闇を貫き、圧倒できるのは、太陽だけである」
 こう歌ったのは、南米アルゼンチンの民衆詩人ホセ・エルナンデスである。
 どんな深い闇も、底抜けに明るい笑顔で打ち破ってくれる関西の母たちこそ、世界第一の「常勝の太陽」なのである。
        ◇

 淀川に
  元初の姉妹の
   集いたる
  錦州城は
   無限に にぎやか

 関西を潤す母なる大河が淀川である。
 江戸期、この淀川流域には豊かな田んぼが広がっていたが、排水路の不備から大雨のたびに被害を受けていた。そこで立ち上がったのが、農民たちであった。
 苦境の打開へ、自ら排水路の開削に着手したのだ。彼らは、いかなる困難にも屈せず、決死の覚悟で開削工事を敢行し、最後は幕府の支援も勝ち取った。
 こうして、今の東淀川から淀川、西淀川を経て此花の地に至る一帯に築かれたのが、中島大水道である。ここには、人びとのために、命がけで政治を動かした庶民の歴史が輝いている。

現場へ最前線へ!
 昭和36年の9月、私は裁判の公判前の時間を縫って、第二室戸台風の被災地・西淀川へ駆けつけた。
 この2年前の10月にも、私は、伊勢湾台風で被災した愛知と三重へ急行した。一旦緩急あれば最前線へ飛び込むのが、リーダーだからである。
 ともあれ、「大悪をこ(起)れば大善きたる」(御書1300㌻)とは、日蓮仏法の不屈の大確信だ。
 昭和38年4月6日、私は西淀川会館(現・西淀川文化会館)の入仏式で語った。
 「関西の10年の戦いは、広宣流布のために、民衆救済に戦ってきた苦闘の歴史だった。誹謗・中傷もされた。しかし、今日の学会は、大きく民衆が認めるところとなったのです!」
 西淀川はじめ東淀川、淀川の友が場外にあふれた。せめてもと、2階からも激励させていただいた。
 大阪市内で、関西本部に次ぐ会館であった。
 此花や福島の友も、淀川を渡って通い、どれほど深い真心で会館を厳護してくださったことか。私も妻も、よく存じ上げている。
 昭和44年9月4日には、東淀川会館(当時)を訪問し、清掃に当たってくださっていた婦人と、懇談のひと時をもうけた。
 関西の玄関口・新大阪駅に近い新大阪文化会館には、5回の訪問を重ねた。移動の合間で、長い滞在はできなかったことも多い。
 だが、一分一秒でも一人を励ませる。歓喜が千波万波と広がる。ゆえに、今の一瞬に全力を注ぐのだ!
 私が一期一会で駆け抜けたのが新大阪地域である。この地の友に私は贈った。
 「戦う人は諸天の力が増す。勝ちゆく人は諸仏の満足がある」
        ◇
 いついつも
  師弟の関西
    勝ち飾る
  皆様方の
    勇気 嬉しや

 「永遠の都」ローマで活躍した常勝の大英雄がジュリアス・シーザー(ユリウス・カエサル)である。
 シーザーは、歴史に燦たる名将であるゆえに、あらゆる戦いを悠々と勝ったように思われるかも知れない。だが、実像は決してそうではないのだ。
 勝つか負けるか、全くわからない、困難な戦いの連続だったのである。
 関西の戦いも、同じだ。
 「常勝」とは常に「死闘」に競り勝つことである。
 その大激戦を勝ち抜く原動力は、いったい何か。
 シーザーは、乱戦になればなるほど、「勇気」のいかんで勝負は決まると確信していた。
 たとえ、相手が「数」を頼みに襲いかかってこようとも、我々は自分たちの「勇気」に対して、自信と誇りをもって戦うのだ。そうすれば、禍を転じて福となすことができる!
 これが、シーザーの「将軍学」であった。
 関西も、ただただ師弟の「勇戦」によって、一切を勝ち越えてきたのだ。

受け身になるな!
 シーザーが、戦いに臨んで大切にした伝統がある。
 それは声を出すことだ。
 声を出すことによって、「敵を畏怖せしめると共に味方を奮いたたせる」。
 この声の力を、シーザーは武器としたのである。
 とともに彼は、「相手の優勢を恐れないこと、迅速に行動すること、これしかない」とも語る。「迅速」と「勢い」だ。
 紀元前48年の8月、シーザーは、ポンペイウスの軍勢との天下分け目の決戦に挑んだ。有名な「ファルサロスの戦い」である。
 ポンペイウス軍は、5万4000。これに対して、シーザーの軍勢は、2万3000。半分以下の劣勢であった。
 しかし、戦いには、シーザーが大勝利した。
 なぜか。その要因の一つは、シーザーの陣列は攻め抜いた。相手は、その攻撃を待ち受ける態勢をとったからである。彼は語った。
 「突撃した方の力がまさり、その方の力が、本来の力の二倍にも三倍にもなる」
 受け身にはなるな!
 勇猛なる心で攻め抜け!
 これは、人生の万般に通ずる勝利の鉄則である。
 さらに、シーザーが立ち向かったポンペイウス陣営は、人数は多かったが、重要な役割を担う騎兵は、身分が高く、見栄っ張りが多かったと指摘される。
 彼らは、貴公子気取りで、わが身と乗る馬を飾り立てて、壮絶な戦場を甘く見て臨んでいた。
 そして、戦いが始まると、我が身や顔を傷つけられることを恐れて、たちまち逃げ出したというのだ。
 いかなる戦いも、見栄や気取りなど、かなぐり捨てて、一心不乱に最後まで力を出し尽くした方が勝つ。
 これが、庶民の強さであり、関西の強さである。
 関西は、この人間の大英雄の底力で、これからも、断固として勝ち抜くのだ。
 そして民衆が胸を張り、平和と繁栄を謳歌していく「永遠常勝の都」を築き上げていくのだ。

「われは変らじ」

 常勝の
  その名も高き
   関西は
  世界一なる
    凱歌の城かな

 「もうひとつ〈創価学会〉をお作りになられる位の心意気で」──私が還暦を迎えた際、経営の神様・松下幸之助先生が寄せてくださった祝辞の一節である。
 松下先生とは深い交流を重ねた。昭和48年には、お招きを受けて大阪府門真市の松下電器産業(現・パナソニック)本社を見学させていただいた。
 昭和54年、私が第3代会長を辞任する前に会見した最後の日本人の識者も、松下先生であった。
 その直後の4月24日──私が辞任した日の夜のことである。
 守口門真文化会館(現・守口文化会館)で、緊迫した空気のなか、緊急大阪本部長会が開かれた。
 かつて師匠・戸田先生に、私が捧げた和歌──
 「古の
  奇しき縁に
    仕えしを
  人は変れど
   われは変らじ」
 関西の真情を、この一首に託し、西口良三君が読み上げた。そして皆が叫んだ。
 「関西の私たちは、永遠に師匠と共に戦い、共に勝つ!」
 この“守口の誓い”から、全創価の弟子の反転攻勢は始まったのだ。
 守口市、門真市、大阪市の旭区、鶴見区からなる常勝大阪総県との縁《えにし》は、この嵐のなかで、幾重にも深く結ばれていった。
 翌55年の早春の3月9日、「自分たちが先生のもとヘ!」と、学会本部に駆けつけてくれたのは、門真の友であった。急きょ会場入りした私は、共戦の息吹に心で涙しながら、ピアノの鍵盤を叩いた。
 この会合は聖教新聞でも報じられたが、私のことは一行も出ていない。
 だが、活字にならなくとも、師弟の生命には、金文字で永遠に刻まれている。
 実は、今でも報道されるのは、私の闘争の千分の一、万分の一といってよい。
 誰が見ていなくとも、恩師に誓った広宣流布の大道を切り開いてきた。これが、私の人生だ。
 ともあれ何があろうと、信念の道を堂々と歩み抜くのが、男の誉れである。
 アルゼンチンの民衆詩人エルナンデスは、「厳しい苦難のなかで、私は男になったのだ」とも歌い上げている。
 わが壮年部の友も、同じ心意気と信じてやまない。
 昭和56年3月には、鶴見区の個人会館にお邪魔し、居合わせた女子部の乙女たちと共に、地域の発展と幸福を深く祈念した。
 その2年後の3月には、妻が大阪旭会館で唱題させていただいてもいる。
 「法華経の行者の祈りのかな(叶)はぬ事はあるべからず」(御書1352㌻)と仰せの妙法である。
 一切の戦いは祈りから!
 これが勝利の要諦だ。
 あの、今再びの闘争より30年──。
 私は今、宿縁深き常勝大阪の同志たちに、「もう一つ、新しい常勝関西を築こうではないか!」と呼びかけたいのである。

「誓願」に燃えて

 立ちにけり
  偉大な若き
    指導者は
  大関西を
    断固と舞台に

 「喜びあふれる若人よ来れ」と、イギリスの大詩人ブレイクは呼びかけた。
 私が恩師のもとで戦ったのは19歳から30歳。
 戸田先生の命で、難攻不落の錦州城を築くため、大阪へ、兵庫へ、京都、和歌山、奈良へと走り抜いた。先生が行けなかった滋賀と福井へも、先生の分身として、会長就任前に駆けた。
 大聖人は、「開目抄」において大宣言をなされた。
 「我 日本の柱とならむ我 日本の眼目とならむ我 日本の大船とならむ等とちかいし願やぶるべからず」(御書232㌻)
 開目抄の御執筆は、命にも及ぶ、佐渡流罪の大難の渦中であられた。
 過酷であればあるほど、勝利の誓願を断じて貫き通す。妥協なく徹し抜く。そして、美事なる勝利の実証を打ち立てる。
 ここに、大聖人が示し残してくださった、広宣流布の勝利の極意があるのだ。
 この通りに、戦いが厳しければ厳しいほど、師弟の勝利の誓願を赤々と燃え上がらせ、「“まさか”が実現」の勝利をもぎ取ってきた仏意仏勅の大城こそ、わが大関西なのである。
 関西は民衆の柱である。関西は師弟の眼目である。そして関西は、青年の大船である。
 おお、わが青春の大闘争の故郷であり、常勝の魂を吹き込んだ大関西!
 二府五県が鉄壁に団結した、師弟不二の大関西!
 思えば、不思議にも、この30年の間に生を受けた、奇しき縁の青年たちが、関西中を乱舞し、奔走してくれている。
 常勝・不敗の大関西に、いよいよ気鋭の新世代が躍り出たのだ!
 いかなる険難の峰も、痛快に乗り越えよ!
 どんなに逆巻く波浪も、断固として進み抜け!
 百戦錬磨の壮年部よ、今こそ、正念場を越えゆく模範を示してくれ給え
 朗らかに前進また前進の婦人部の皆様、「いよいよ」の本領発揮を!
 わが直系の男子部、女子部、学生部の青年たちよ、突破力が最大の武器だ!
 常勝の使命と責任を帯びた人関西よ、勝って、勝って、勝ちまくれ!
 「常勝」とは、師弟不二の宝冠なのである。

 偉人なる
  常勝の城
    厳然と
  そびゆる嬉しさ
     関西万歳


 山上宗二の話は桑田忠親著『千利休』(中央公論社)、中島大水道は川端直正編『東淀川区史』(東淀川区創設30周年記念事業委員会)などを参照。ホセ・エルナンデスの言葉は『マルティン・フィエロ』(サレジオ会)=スペイン語版。シーザーの言葉及び事績は『ガリア戦記』國原吉之助訳(講談社)、『内乱記』國原吉之助訳(同)、長谷川博隆著『カエサル』(同)。ブレイクは『ブレイク詩集』土居光知訳(平凡社)。
2009-08-15 : 随筆 人間世紀の光 :
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