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新 あの日あの時 7

新 あの日あの時 7     (2009.8.4付 聖教新聞)

池田先生と横浜市

世界一の「勝利の港」に

開港150年
 神奈川県の横浜は本年6月2日、150周年の開港記念日を迎えた。
 わずか100軒ほどの半農半漁の村が、大きく世界に開かれたのは、1859年(安政6年)だった。
 江戸幕府がイギリスと修好通商条約を交わした時、英国側の特命全権大使は、第8代エルギン卿だった。
 そのエルギン卿の直系の子孫が、チャールズ・ブルースである。
 ブルースは、グラスゴー大学名誉教授のマンローと交友がある。同大学は1994年(平成6年)6月、池田大作名誉会長に名誉博士号を贈った英国の名門である。
 ブルース自身、SGI(創価学会インタナショナル)に友人がいる。その一人から、学会の神奈川文化会館のゆかりを聞いて驚いた。
 正面にある赤レンガの洋館(戸田平和記念館)。
 一帯では、関東大震災で残った唯一の英国商館(1922年建造)だった。
 世界の港を結んだ英国の魂は、創価学会の中で生きていたのか!

恩師のために
 名誉会長と横浜。その絆は60年にわたる。
 ──連合国軍総司令部(GHQ)のジープが土ぼこりをあげて、鶴見市場の駅前を走り抜けていく。
 小さな家が並んでいた一角に、飯島キヨの家があった。ほそぼそと鶏卵を商っていたが、車が通るたびに屋内で鶏の羽根が激しく舞い上がる。
 夫は脊椎カリエス(結核菌が病巣を作る病)を患い、寝込んだまま。学会の幹部がやってきても、鶏の糞で臭う室内に上がりたがらない。
 1951年(昭和26年)の寒い日。一人の青年が訪ねてきた。使い古したカバンを手に、長靴を履いている。
 「お母さん、お題目をあげましょう」。礼儀正しく長靴をぬぐと、仏間で一緒に題目をあげてくれた。
 病床の夫の枕元に座り、固く手を握る。「お父さん。まじめに信心をやり抜けば、必ず春が来ます」
 池田と名乗るその青年は、毎月のように通ってきて、御書の一節を引いてくれた。
 偶然、京浜急行線の踏切で出会うこともあった。
 「女性が持つのは大変ですから」。魚のアラでいっぱいのバケツを、家まで運んでくれた。
 少しでも栄養になればと思い、キヨが選りすぐりの生卵を割り、醤油をたらして差し出した。池田青年は、実に美味しそうに飲み干す。
 「戸田先生は、お体の調子がすぐれないんです。この新鮮な卵を、ぜひ毎月、購入させてもらえませんか」
 恩師のため、古新聞にくるんで、大切に持ち帰った。     
        ◇
 横浜の下町、南区吉野町。
 入り口に「日本橋」と書かれた小さな商店街のアーチが掛かっている。
 その下に学会員の営む下駄屋があった。
 この界隈に数世帯しか学会員はいないが、池田青年は、こまめに通ってくれた。
 ある時は、やかんや鍋を持っている。理由を聞くと、恩師の事業を支えるため、金物まで売り歩いているという。
 ひと仕事を終えるとアーチ近くの銭湯「大和湯」で汗を流した。食事は近くのうどん屋で、手早くすませているようだ。
 下駄屋の主人は感心した。
 ここまで身を粉にして師匠に尽くすのか!
 この青年なら信頼できる。
 思い切って商売の悩みも相談した。いかに下駄の売り上げを安定させるか。できれば芸者衆など大口の顧客をつかみたい。
 「ちがう、ちがう。同じ花街の人でも、下働きの人に買ってもらうんです。口から口へ評判が広がるじゃないですか。一番安い下駄を買いに来るお客さんを大事にすることですよ」
 目の前がパッと開ける思いだった。

日本一になれ!
 第3代会長を辞任後に回数を重ねた功労者宅の訪問。
 1979年(昭和54年)6月22日には、横浜の上郎《こうろう》悦子の家で当時の心情を明かしている。
 「立場がどうあれ、学会の師弟の絆は永遠に変わらない。どんことがあっても、私が会員を守る。今度は世界が舞台なんだ」
 上郎の目頭が熱くなった。先生は、あの時と微塵も変わらない。
 ──53年(昭和28年)春、文京支部の田中正一宅。池田支部長代理が上郎夫婦を面接してくれた。
 「広宣流布のためなら、何でもやる。そう決めることが大事だ。
 私も戸田先生のもとで、何でもやらせていただいた。だから今があるんです」
 師弟に徹すれば、無限の力が出る。
 「僕は、日本一の力をつける。あなた方は、神奈川一になりなさい」
 神奈川で一番! 夫と顔を見合わせると、一段と力強い声が響いた。
 「いや、僕は、世界一になる。あなた方は、日本一になりなさい!」
 ちっぽけな悩みで汲々としていた心の壁が、一気に吹き飛んだ。

保土ケ谷の一家
 横浜中華街の朝陽門《ちょうようもん》をくぐった先にある喫茶店「ミカド」。
 池田名誉会長が保土ケ谷区の大川剛行《たけゆき》一家を招いたのは、80年5月18日の午前10時半である。
 名誉会長のテーブルに、次男の輝男《てるお》(5歳)が、ちょこちょこ寄ってきた。「先生、お口を見せて!」
 名誉会長が、にこにこしながら、大きく口を開く。輝男の顔が、ほころんだ。彼には知的障害があった。
 長男で言語障害のある周一(6歳)は、店内のインベーダーゲームに熱中している。
 まだ乳児だった長女を抱き、母の茂子は、兄弟の様子をパラパラと見つめるしかなかった。
 池田名誉会長の口調は温かかった。
 「お母さん。子どもは誰でもみな福子なんだよ。たとえ、どんなことがあっでも、どんと構えるんだよ」
 障害のある二人の子育ては、並大抵ではない。世間の目。学校でのいじめ。突然、次男がてんかんで倒れ、救急車で運ばれたこともある。
 “どんと構えろ”。何度も自分の胸に言い聞かせ、歯を食いしばった。
        ◇
 あれから30年目。
 長男の周一は、学校を出て焼き鳥店で修行した。
 焼き場で腕を磨きながら、牙城会員として横浜池田講堂に着任する。
 保土ケ谷養護学校を卒業した次男の輝男は、大手食品メーカーに就職。
 今では、創価班員として学会本部の担当につくまでになった。
 母の腕に小さく抱かれていた長女の江里子は、保土ケ谷を朗らかに走る区女子部長(星川太陽区)である。

旭区と「共戦」
 2009年4月14日の火曜日。名誉会長は、79年5月3日に神奈川文化会館でしためた「共戦」の大書を初めて公にした。
 力感のある太い墨痕が目に飛びこんくる。
 その場にいたSGI理事長の大場好孝の脳裏に、一つの出来事がよみがえった。
        ◇
 先生が神奈川文化に! 旭区の土屋トメ子は思わず立ち上がった。
 79年5月。それまで名誉会長の動向は、誰に聞いても分からなかった。
 ひと目でいい。晴天の早朝、近隣の婦人部二人とバスに飛び乗った。
 満員の車内でもみくちゃになりながら到着したのは午前10時前。会館前の大きな樹木の陰に陣取った。
 「先生にお会いできるまで帰らないからね」。3人でうなずき、じっと正面玄関を見つめた。
 1時間、2時間。初夏の大陽が、ぐんぐんと中天に昇る。レンガ色のタイルに照り返す光が眩しい。
 3時間が経過した。土屋が汗ばんだ額に手を当て、何気なく見上げた。
 あっ、7階の窓! 名誉会長が、こっちに向かって右手を振っている。左手にカメラを持っていた。
 先生、先生!
 身をよじるようにして手を振り返した。
 元気だ、お元気なんだ!
 その3カ月後、土屋は思いがけず神奈川文化会館に招かれた。
 会館の事務局長だった大場好孝が足早に近づいてくる。茶封筒から3人分の写真を差しだした。
 「先生から『この方々を探して、差し上げてください』とありました」
 六つ切りサイズの写真には、大樹の陰で、深い決意をみなぎらせた土屋たち3人が、それぞれ写っていた。
 3枚とも、撮影した角度が違う。
 名誉会長は、一人一人をレンズ越しに見つめ、一番いい瞬間に、シャッターを切ったのである。
        ◇
 池田名誉会長の「共戦」の大書。
 その脇書には「真実の同志あるを 信じつつ 合掌」と、したためられていた。
 大場は深く息をのんだ。
 この30年間、師は、誰と共に戦ってきたのか──。
 わずかばかりの社会的地位、財産を鼻にかけて「いざ鎌倉」の土壇場で逃げ去っていった者も多く見た。
 小揺るぎもしなかったのは、庶民である。
 あの日、神奈川文化会館の前で立ちつくしていた名もない人々ではないか。
 「神奈川は、一番大事なところだ。私が会長を辞めて、真っ先に来たんだから」
 開港150年の港に、いま、共戦の旗は天高く翻る。
2009-08-04 : 新 あの日あの時 :
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