新 あの日あの時 6

新 あの日あの時 6     (2009.7.31付 聖教新聞)

池田先生と尼崎総県

尼崎は「日本の柱」「広布の柱」

法廷闘争のスタート
 ぎゅうぎゅう詰めの人込みの中で、尼崎の寺井好子は、爪先立って背を伸はした。
 大阪拘置所の門が見える。
 1957年(昭和32年)7月17日。青年部の池田大作室長が逮捕されてから、すでに2週間が経っていた。
 「いよいよ池田先生が出てこられるんや……」
 きのうも来た。おとといも来た。高い塀を、にらみつけた。朝から夕方まで拘置所をぐるぐる回った。
 「きょう現場検証で、あそこに行かれるらしい」と聞けば、地区のみんなと自転車で走った。
 正午すぎ。鉄の門が開く。
 門をかこむ人々の肩越し。白い扇子を右手に室長が現れた。後ろには、小さな風呂敷を抱えた香峯子夫人がいる。
 寺井は跳び上がって、手を振った。
 しかし、まだ戦いは始まったばかりであることを知るよしもない。
        ◇
 大阪事件の前まで、池田室長は尼崎の地に足を運んでいない。
 ところが──「最近、先生は、よう尼崎へ行ってはる。大阪で会合をやって、尼崎から皆を呼べばええのになあ」
 公判が始まると、大阪の幹部は一様に首をかしげた。
 4年半に及んだ裁判。この期間に池田室長は集中的に8度も足跡を残している。
 法廷で勝つか負けるか。その熾烈な戦いの渦中で、なぜ尼崎を育てたのか。どんな意図があったのか。

一兵卒で戦う
 大阪事件の当時、尼崎は組織的に、まだ半人前のあつかいだった。
 兵庫県にありながら、大阪・梅田支部の傘下に置かれていた。
 世間の認識も似たようなものである。尼崎といえば、梅田の向こうにある工場街。阪神工業地帯を下支えする労働者の町である。
 池田室長の視点は違った。
 ──尼崎の名の由来は、一説によれば、漁民の「海人《あま》」と、海に突き出た場所を指す「崎」。思えば日蓮大聖人は御自身を「海人《あま》が子なり」と仰せになり、いばり腐った権力者でもなければ、見栄っ張りな貴族でもなく、庶民の子であることを誇り高く宣言されている。
 この「庶民の共和国」を大阪と神戸の間で埋没させてはいけない。尼崎は尼崎だ。独り立ちさせなければならない。ひそかにタイミングを計っていた。
 そんな折に、梅田支部の幹部会が尼崎市文化会館で開かれることになった。
 57年(昭和32年)12月2日。大阪・堺の会合を終えた室長は、すかさず現地へ向かった。
 これが尼崎への初訪問となった。
 ただの幹部会ではない。結成したばかりの尼崎総ブロックの大会の意義もとどめた。
 まだタテ線意識が強く、ブロックという概念は乏しい。ただ尼崎が自立する第一歩にしたかった。
 訴えたのは「尼崎は尼崎らしく」。そして「仲良く進むこと」である。
 登壇した室長は、壇上にずらっと並んでいる幹部を見回した。
 「いいかい。これは昔の話だからね。
 これから尋ねることに、正直に手をあげるんだよ」
 いたずらっぽく笑みを浮かべた。
 「これまで、酒好きだった人。博打好きだった人。夫婦げんかで周りに迷惑をかけたことがある人。さあ、手をあげて」
 それまで胸を張っていた幹部が気まずそうに首をすくめた。おそるおそる、小さく手をあげる。
 場内は爆笑の渦である。
 「今でこそ信心で立派な幹部になっていますが、かつては皆さんと同じ悩みをもっていたんだよ」
 しきりに参加者がうなずいている。幹部といっても自分だちと同じや。みんな先生の前では一兵卒や。

大物が出る
 ブロック組織の次は、会館に手を打った。
 尼崎市内を走る阪神電車に「大物《だいもつ》」という駅がある。この駅近くに、兵庫で初めての地方会館が誕生した。
 梅田支部会館。池田総務が名前を変えた。
 「尼崎会館にしよう」
 59年(昭和34年)9月5日の落成式にも駆けつけた。
 「ここは大物《だいもつ》にある会館です。その地名のように将来、ここから必ず大物《おおもの》が出ます。大人材が出ます。それを確信していただきたい!」
 尼崎は感激した。ここから大物が出ると宣言した人がいただろうか。大阪からも神戸からも「アマ」と呼ばれ、どこか軽く見られてきた。
 「いいですか、尼崎がしっかりすれば、学会は何かあっても大丈夫です!」
 会場の一隅に、入会を渋っていた重松勇がいた。
 小学校を出て炭坑で働いたが、長続きしない。長崎から大阪の造船所に渡り歩いてきた風来坊。
 同じ年格好やのに、何て立派な人か。この信心をしたら、ああいう人になれるんか。
 自分から進んで願い出た。
 「やらせてもらいます」
 後に重松は100世帯を超える弘教。地区部長、支部長として尼崎の柱になった。

世界に目を開け
 組織。会館。人材。次のポイントは青年である。
 このころからオール関西の会合も尼崎で開かれるようになった。
 59年(昭和34年)9月20日、関西男子部幹部会が行われ、池田総務が出席した。
 どこが全関西の急所なのか。砦なのか。大将自らが陣を移すことで、それを明らかにした。開催地・尼崎の士気も高まる。
 この日、眼鏡をかけ、汚れた作業服を着た青年が真摯に質問した。
 「今、安保闘争が社会の関心を集めています。学会は、どういう立場でしょうか」
 安保と聞いて、会場で顔を見合わせる者もいた──何やそれ。そんなんでメシ食えへんで。
 そんな空気を察した総務。
 「青年は、社会に眼を向けなくてはならない。大事なことだ」
 「でも、もっと大きな問題がある。広宣流布こそが最高の哲学だ。最高の平和運動であり、社会建設となるのです」
 総務は続ける。
 フルシチョフとアイゼンハワー。二人とも貧乏な家庭に育った。かれらが今、世界を握っている」
 米ソの首脳の名前が飛び出した。
 「若いときに苦労した人が、本当に偉くなる。名誉、財産、家柄などではない。私たちは信心という最高の信念をもっている。みんなは全世界のために、貢献をしてください。いいかい」
 「おおーっ」。雄叫びが起こる。
 尼崎から世界を動かせ!
 気宇壮大なロマンを広げる訴えだった。
 尼崎で鍛え上げられた人材は多い。ここで多感な時代を送った総関西長の西口良三。
 「よく、言うんです。一番、底辺にいるから『底力』が出る。地べたから、はいつくばってきた人間が一番、強い。それを先生が教えてくださった」

判決の前夜
 最後の仕上げは、人権闘争である。
 時は、62年(昭和37年)。冬の1月24日。
 ついに、あの大阪事件に判決が下る前夜だった。
 場所は、尼崎市立体育館。関西の男子部幹部会に1万2千人の精鋭が集った。
 これまで大阪事件について、池田会長が公的に会員の前で話すことは稀たった。
 この日は違った。
 「初めて裁判のことについて、私は口をきる。関西の男子部の諸君に申し上げます」
 場内に緊張が走る。
 「どうしても正義の人がいじめられる」
 その根底に嫉妬があるこを明らかにした。
 「不法な逮捕であることは、どこから見ても明瞭です」
 まじめな人々のために、まじめに尽くす学会員をいじめる勢力とは、一生涯、戦い続ける。烈々と宣言した。
        ◇
 幹部会が終わった。何人かの関西幹部がやってきた。彼らは、どれだけ会長が深い覚悟で尼崎入りしたか知らなかった。
 「先生、申し訳ありまん。我々は何にも知りませんでした」「必ず青年部が仇を討ちます」
 それに対し、にこにこと聞き返す。
 「じゃあ、みんな何をするつもりかな?」
 「それは権力を……」
 言葉に詰まった彼らに、諄々とと諭した。
 「仇討ちとは、やみくもに相手を憎んだり、傷つけたりすることじゃない」
 静かに続けた。
 「広宣流布に勝利すること。正義の陣列を拡大すること。一人でも多くの味方をつくること。そして、敵をアッと言わせることだ」
 翌25日。大阪地方裁判所。判決は無罪。
 この祈り続けてきた日は「関西婦人部の日」となった。
        ◇
 判決後、静かに尼崎を訪れている。阪神電車の高架下に近い、小さな飲食店である。裸電球かぶら下がり、駅のベンチのような長いすが並ぶ。
 尼崎の草創のメンバーを招いて、ささやかに懇談した。
 「ここは“尼が先”というけれど、本当に女性が強い。婦人部が、しっかりしている」
 判決前日の関西男子部幹部会に話が及んだ。
 「盛大だった。尼崎は強くなった。関西を陰で支えてきた功績は絶対に忘れません」
 正義を満天下に証明した法廷闘争。その戦いの真っただなかで「日本の柱」「広布の柱」は築かれた。名誉会長が全身全霊を込めた常勝の城──その名を尼崎という。
2009-07-31 : 新 あの日あの時 :
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