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新 あの日あの時 5 

新 あの日あの時 5     (2009.7.28付 聖教新聞)

池田先生と新大阪総県

今再びの「勝利のVサイン」を

西淀川に会館を
 大阪市北区の中之島は、堂島川と土佐堀川にはさまれた中州である。
 中之島の中央公会堂から出て、堂島川にかかる橋を渡ると、大阪地方裁判所がそびえ立つ。
 今では橋の上を高速道路が走っているが、1962年(昭和37年)1月24日には、まだ視界をはばむものはない。大阪地裁も合同庁舎ビルに建て替えられる前だった。重厚な赤レンガ造りで、中央に丸屋根の塔がある裁判所がよく見えた。
 この日、中央公会堂では関西女子部幹部会が開かれた。場内の空気が、ぴんと張りつめている。
 4年半にわたって審理されてきた「大阪事件」。その判決公判が明日の1月25日、対岸にある大阪地裁で開かれる。しかも法廷で、その判決を受ける池田大作会長を迎えての幹部会である。
 ボルテージは高まる一方だった。登壇者は権力への憤りを口にする。
 いよいよ会長がマイクの前に立った。「最初に申し上げたいことは……」。5500人の瞳が集中する。
 「台風で大きな被害をうけた西淀川方面の会館を、土地が買えましたので、すぐに建設します」
 第2室戸台風が襲来したのは、前年の9月だった。水が引いたばかりの西淀川で学会員を励まし、必ずここに会館を建設することを約束した。
 自身の判決公判の前夜であろうと、会長の心は被災した会員に注がれていた。
 公会堂を出た会長の車は、国道2号線に入った。長い淀川大橋を渡ると、そこは西淀川区である。

東淀川から突撃
 天下の台所・大阪。
 古くから経済の中心地として栄えてきたが、その要は、水運の大動脈・淀川である。
 学会の組織も「淀川」を軸に見ると、その発展するプロセスがよく分かる。
 52年(昭和27年)に発足した大阪支部の中軸は3地区だった。
 阿倍野地区(大阪市南部)。堺地区(大和川以南)。そして大阪市の淀川流域から北へ広がる「淀川地区」である。
 淀川地区は、特に女性陣が元気だった。班長4人のうち3人が婦人である。縁故で折伏する他地区と異なり、地域に密着していた。
 54年(昭和29年)9月、池田室長が大阪の教学担当として通い始めると勢いは増す。淀川地区と、そこから誕生した梅田、九条の計3地区が、11月の折伏で全国の上位3位までを占める。
 そして、56年(昭和31年)4月、淀川地区は日本一になった。翌月の大阪支部の折伏1万1111世帯を牽引したのである。
        ◇
 東淀川区の阪急千里線・下新庄駅。北千里行きホームの端に立つと「吉田米穀店」の看板が見える。
 池田室長が訪れたのは56年6月ごろ。「大阪の戦い」の佳境である。
 店には茶色の米袋が胸の高さまで積まれていた。くすんだ銀色の精米機が、震えながらザーッと白米を吐き出していた。
 廊下をはさんだ二間続きの薄暗い和室に、約70人。むしむしと汗ばむ日たった。開襟シャツの室長も、じっとりと汗が噴き出ている。
 ハラハラと見ていた奥野敏子。店の夫人・吉田福栄《ふくえ》に声を掛けた。
 「水だして」「うち、ガラスのコップあれへん。湯飲みしかないねん」「ほんならコップを隣から借りてきてや」
 そんな、ひそひそ話も聞き逃さない室長。
 「大阪は『水の都』と言うけど、コップはないんだね」
 どっと笑いが弾けた。
 「私の家内は、小さな子の手を引きながら、学校の同級生の家をコツコツ回り、友だちと仲良く話しているよ」
 香峯子夫人を具体例に紹介した。難しい指導はいらない。毛筆をとり、模造紙に大書した。
 「突撃」
 せや、折伏精神や! 東淀川は全軍が「大阪の戦い」に突撃した。

淀川と7月17日
 淀川区の福田武子は長屋の住人だった。体を横にして、やっとすれ違える細い道が、迷路のように入り組んでいる。「あそこは、いっぺん入ったら出られへん。『地獄谷』や」と面白がられた。
 58年(昭和33年)4月に入会。翌日、ボロボロの座談会提灯を吊すと長屋は大騒ぎになった。無我夢中の対話が実り、折伏が決まると“見てみい! 地獄谷にも地涌の菩薩がおるんや”と叫びたいような気持ちだった。
 後年。大勢の人とともに、池田名誉会長と出会う機会があった。
 「1月2日が誕生日の人は?」と聞かれ、福田はさっと手を挙げた。
 「私と同じだね。どこから来たの?」
 「淀川です」
 「淀川か。あそこは昔、ずっと蓮池だったんだよな」
 名誉会長は懐かしそうな目になった。52年(昭和27年)の大阪初指導以来、淀川を見続けてきた。
 福田に即興で句を贈る。
 蓮池や
  泥より出でたる
      功徳かな
 ぬかるんだ路地裏を折伏に走ってきた福田は、すべての苦労が報われた気持ちがした。
        ◇
 79年(昭和54年)7月15日。豊中市の関西戸田記念講堂で合唱祭が開かれた。
 池田名誉会長の名代で香峯子夫人が出席し、歌声に拍手を送った。
 翌日、納涼の夕べがあったが、香峯子夫人は「明日の17日、どこか家庭訪問させていただけない
でしょうか」。7月17日は「大阪大会」が開かれた出獄の日である。
 淀川区の奥谷チエ宅が選ばれた。大阪事件で室長に何度も差し入れを届け、一度も欠かさず公判を傍聴してきた功労者である。
 奥谷宅に近くの婦人部員も集まってきた。香峯子夫人を囲んで、15人ほどが車座になった。
 夫の母を介護している婦人がいた。香峯子夫人は「大変ですね」とねぎらう。「でも、ご主人のお母様ですから、大切にすることは、尊い使命ですね」。婦人はハッとした表情になった。グチをこぼせば母がかわいそうだ、と気がついた。
 奥谷も、子どもが難聴である悩みを語った。
 「一家和楽の信心をできること自体が、すごいことなんです」と励まされた。
 大阪大会で池田室長が「信心しきっだ者が、最後は勝つ!」と言い切った日。淀川の婦人を前にして、香峯子夫人も同じ確信だった。

此花に“幸せの花”
 65年(昭和40年)6月1日、淀川区の新大阪駅(当時・東淀川区)に、新幹線が入線してきた。
 初代の「ひかり」号は、最近の長い流線形と違い、先頭部分は、丸みを帯びた「団子鼻」である。ワンピースにエプロンの二俣《ふたまた》政子が、ホームから乗りこんだ。
 二俣は、東海道新幹線の車内販売員。「ひかり」が新大阪を出ると、商品を詰め込んだ重いワゴンを中央の車両から後方へ押し始めた。
 京都駅を過ぎたあたりで、ある車両に入った。自動扉が開いて、あっと声を上げそうになった。
 池田名誉会長が乗車しているではないか。控えめに「わたし女子部です」。
 「そうですか」と笑顔が返ってくる。「このサンドイッチとお菓子、あとジュースも……」
 アルコール以外、京都土産の八橋まで全商品を注文してくれた。緊張して、なかなか計算できない。
 「損しちやダメだよ。しっかり計算してね」
 すっと楽になった。
 「こんなにたくさん買っていただいて、どうされるんですか」
 「心配しなくていいよ。これから名古屋に行くから、頑張ってる皆にあげるんだ」
 どこにあっても、脳裏には会員の幸福しかない。
 「幸せになるんだよ。人生に立派な花をいっぱい咲かせなさい!」
 会長の座席から離れると、ワゴンがすっかり軽くなっていた。
 2年後に二俣は結婚して、大阪市の此花区へ移る。
 淀川の河口にあり、阪神工業地帯の中心だが、公害で大気や水が汚された。やがて高度経済成長が終わると、工場の移転・閉鎖が続いた。
 それでも座談会は明るかった。油じみた作業着の労働者や、九州・四国からの単身者も多かったが、二俣は「人生に花を咲かせなさい」という指導を思い起こし、励まし合った。
 どこか、ほかに花が咲いているのではない。「此花」に咲かせるのだ! 町内会の婦人部長にもなった。
 2001年(平成13年)春、二俣の支部内の工場跡地に「ユニバーサル・スタジオ・ジャパン」がオープンした。

福島の三色旗
 1990年(平成2年)6月5日。帰京する名誉会長を乗せた車が、新大阪駅に向かっていた。
 阪神高速を下り、逆方向の福島区に入る。「聖天通《しょおてんどおり》」と書かれた商店街のアーチ。そこに大きな横断幕が張られていた。
 「祝 大阪平和講堂落成」
 学会の新会館の完成を祝う幕に、名誉会長はカメラを向けた。
 そのまま車は、大通りを北に折れ、大阪平和講堂の前を徐行する。門の前にいた会員に三色の旗を振った。
 「お元気で!」
 外まで駆けつけてきた婦人がいた。名誉会長は、窓から腕を出し、高々とVサインを示した。
 新大阪は常に勝利のVサインとともにある。
2009-07-28 : 新 あの日あの時 :
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