忘れ得ぬあの瞬間 第6回

忘れ得ぬあの瞬間
名誉会長と共に80周年を勝利
 (2009.7.27付 聖教新聞)

第6回 世界広布の第一歩

目の前の「一人」に勇気の炎を

 うねるような轟音を響かせて、日本航空の大型ジェット機が、羽田空港から大空へと舞い上がった。
 1960年(昭和35年)10月2日、午前10時40分。
 大気を切り裂いて上昇を続ける機中には、世界広布への第一歩を踏み出した池田名誉会長の姿が。背広の内ポケットには恩師・戸田第2代会長の写真が収められていた。
 「大作、君は世界に征くんだ!」──師の遺命を胸に、初の海外訪問へ。目的地はアメリカだった。
        ◇
 なぜアメリカだったのか。
 「東洋広布」 「仏法西還」との言葉から、「まずアジアヘ」と考えた人もいた。
 しかし、名誉会長は違っていた。アメリカは、世界をリードする超大国であり、西側諸国の盟主。政治、経済、文化など、あらゆる面で“国際社会の中心地”たった。
 戦後は日本との結びつきが強く、信教の自由も保障されている。何より、日本から多くの学会員がアメリカに渡っており、直接の指導が切望されていた。
 まずは「急所」を押さえる。「要所」から戦いを始める。アメリカを中心に世界広布を展開するのだ──名誉会長には明確な構想があった。
 事実、これまでの米国訪問は27回に及ぶ。他の国々と比べ、群を抜く多さである。
        ◇
 10月2日、最初の訪問地・ハワイで、海外初の「地区」を結成。サンフランシスコ、シアトルなどを訪れ、カナダのトロントを経て、13日に二ユーヨークに入った。
 14日、国連本部を訪問。ちょうど第15回国運総会が開催されており、傍聴した。
 時は東西冷戦の真っただ中。総会でソ連のフルシチョフ首相は、激しい西側批判を展開。総会は荒れに荒れた。
 「今はフルシチョフが来ているから、このニューヨークだけは原爆を落とされないだろう」──そんなジョークが市民の間で交わされていた。
 名誉会長が国連を訪れたのは、フルシチョフ首相がソ連に帰国した翌日だった。
 「原水爆禁止宣言」、そして「地球民族主義」という恩師の理念。それを、どう世界に宣揚し、展開していくか。
 東西両陣営の首脳と胸襟を開いて語り合う「対話」。
 「人類の議会」を尊重し、もり立てていく「国連支援」。
 若き名誉会長の胸には、平和への潮流を巻き起こすための青写真が、生き生きと描かれていた。
        ◇
 この日の夜には、ニューヨークにほど近い、ニュージャージー州内の座談会へ。米国軍人と結婚してアメリカヘ渡った“戦争花嫁”を中心に、十数人が集まった。
 しかし、内容は「座談会」というには、ほど遠い。
 家庭不和。経済的困窮。異国での寂しさ。入会歴も浅い人が多かった。「とにかくつらい。もう日本に帰りたいんです」と涙を流す婦人たち。
 「皆さんの旅行カバンに私を入れて、連れて帰って」と懇願する人までいた。
 名誉会長は言った。
  「皆さんのご苦労は、痛いほどわかります。しかし皆さんは、偉大な使命があって、このアメリカに来たのです。
 仏法の眼から見るならば、どんなクイーン(女王)よりも、尊貴な存在なのです。絶対に幸せになれます!」
 「今に、日本とアメリカを飛行機で自由に行き来できるような境涯になります。アメリカと日本は、互いに庭先みたいになりますよ」
 友の心に、断じて「勇気」と「希望」の炎を灯すのだ。目の前の「一人」を立ち上がらせるのだ。渾身の激励は、2時間にわたって続いた。
        ◇
 第1回の海外指導は困難の連続だった。現地との連絡の行き違い。強行軍。体調の悪化。無理といえば、すべてが無理であった。
 「不可能」を「可能」にしてみせる。名誉会長は飛行機の中でも、車の中でも、小声で題目を唱え続けた。
 「アメリカの大地から、地涌の同志よ、湧き出でよ! 何としても、世界広布への道を切り開くのだ!」──と。
 それから半世紀。今、地涌の陣列の大河は192力国・地域を潤すに至った。
 「20年、50年たってみれば、きょうの日は偉大な記念日になるだろう」
 アメリカ大陸への第一歩を印した、サンフランシスコでの名誉会長の宣言である。
2009-07-28 : 忘れ得ぬあの瞬間 :
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