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新 あの日あの時 4

新 あの日あの時 4     (2009.7.24付 聖教新聞)

池田先生と西大阪総県

「常勝関西」発祥の地

白木の「2月闘争」
 1952年(昭和27年)。あの「2月闘争」の大旋風が画風・蒲田で巻き起こっていたころである。
 大阪市西成区。地下鉄「花園町駅」の薄暗い階段を、長身の男が、のっそり上がってきた。
 プロ野球選手の白木義一郎。地図を記したメモに目を落とす。練習の合間をぬってバラック街を折伏に歩く。
 2歳の娘・以知子や妻の文《ふみ》は、遠く東京に置いてきたままだ。
        ◇
 この年、東急フライヤーズから阪急ブレーブスヘ。在阪球団へのトレードを機に、蒲田支部の白木は「大阪支部長心得」になった。単身、落下傘で飛び降りるようなものである。さすがの剛球投手も心細い。
 「義っちゃん、これは御仏意《ごぶっち》だ。大阪を頼む。一緒に75万世帯をやろう!」
 どんと背中を押してくれたのは、蒲田の池田大作支部幹事だった。
 「大阪」だ。「関西」だ。ここを強くしなければ75万世帯は達成できない。その突破口を白木に託した。本気の一人をつくるしかない。
 1月末、東京から夜汽車で大阪へ発つときも、固い握手をかわして見送った。
 「2月闘争」への闘志が白木の胸に火を点した。
 やがて、それは大阪で赤々と燃え上がる。
        ◇
 「花園町駅」を出て、白木は目的の家へ大股で急いだ。紹介された山本福市は、妻が病弱で悩んでいた。仏法の功力を直球勝負で語った。
 「ほな、わたしら、やりますわ」
 52年2月17日。まず下町の西成で、関西の折伏第1号が実った。

西成の花園旅館
 55年(昭和30年)12月に関西本部が誕生するまでの間、しばしば本陣となった拠点があった。
 花園旅館。山本宅の目と鼻の先、西成を南北に走る南海電車の線路近くに立つ。電車の音が窓ガラスにピリピリと響く。木造の二階屋たった。
 宿の主が日蓮宗(身延派)の信者だった。戸田会長が声をかける。
 「ご主人、身延なんかやめなさい。この信心をすれば、いつの日か、必ず大きなビルが建ちます」
 あまりの確信に、そばで見ていた従業員が後で入会を申し出る。
 たちまち噂が広まった。
 「戸田先生が花園旅館にいてはるから、誰でも連れていきや!」
 生活苦、経済苦、病苦。それらが奔流となり、花園旅館の小さな一室に押し寄せた。
 不妊で悩む会員に真正面から言い切った。
 「子どもができなくて悩む親もいる。一方で、子どもを食い物にするような親もある。この信心をやりぬいて、宿命を転換するしかない!」
 青年部の池田室長への薫陶は厳しかった。
 ──ひとり室長が帰京する日。荷造りを終え、部屋へ挨拶に来たところ、いきなり会長が問いかけた。
 「大作」
 サッと居すまいを正す。
 「いま臨終になったら、従容としていられるか」
 「ハイ!」
 間髪を入れず、鋭い返事。大阪では常に「臨終只今」の精神だった。
        ◇
 ある日。戸田会長を囲んだ懇談の折である。
 「誰だ、そいつは!」
 激しい剣幕で一人を指さした。不審げに目をぎょろつかせている。他宗の信者が紛れ込んでいた。ひそかに様子を探りにきたものと見えた。
 「そこの拝み屋! ここは貴様のような者が来るところではない!」
 一喝されるや、脱兎のごとく逃げ出した。返す刀で居ならぶ幹部に檄が飛ぶ。
 「なぜ分からなかったのだ! 戦いの中でこそ、邪悪を見抜け!」
 花園旅館は、実戦の道場だった。

庶民の町・西大阪
 大阪湾へ流れる木津川を、市民の足の渡し船が、ゆったりと進む。
 湾の奥にある西成、大正、住吉、住之江。
 「常勝関西」の発祥の地・西大阪は“ド庶民の街”である。隅々まで池田室長の足跡が刻み込まれている。
        ◇
 住吉区の宮下伊平。戸田会長の気迫が今も忘れられない。
 「折伏は、この戸田がやる! ほかにやりたい人間は願ってついてこい。それでこそ戸田の弟子だ!」
 その会長に一番弟子がいると聞いた。さぞ強面の人やろう……。後に会合で室長と出会い、息を呑んだ。何とも爽やかな好青年ではないか。
 「私か舞を舞いましょう!」
 ♪生れ故郷を あとにして……
 大きく振りあげた腕《かいな》に、射貫くような眼《まなこ》。キリッと結んだ口元。ああ……。やっぱり戸田会長と同じや。同じド迫力や!。
        ◇
 西成区の西島夏子。57年(昭和32年)2月ごろ、会合の帰路、池田室長と一緒になった。「聞きたい事があったら、何でも遠慮せずに言ってごらん」
 「実は主人の仕事が忙しくて、地区幹事として活動できないことに悩んでいます」
 きっぱり言い切った。
 「信心は時間で決まるのではありません。心で決まるのです。
 たとえ30分でも、広宣流布のために真心を込めて戦うのです。あとは御本尊に、しっかり祈る事です。30分が3時間に値する戦いになります」
 ハッとした。誰よりも時間がないのは室長やった。
 笑顔で言われた。
 「必ず時間に困らない境涯になります。安心して活動に励まれるよう、ご主人に言ってあげてください。広宣流布のための願いは絶対、叶います」
        ◇
 住之江区の粉浜《こはま》(当時は住吉区)。古い軒が連なる住宅街に、ひときわ目立つ白壁があった。企業の重役の家だった。
 56年(昭和31年)5月の昼下がり。室長が上がり框をまたいだ。
 20人ほど集まり、会合が開かれていた。まだ会場には十分なスペースがあった。
 組長と組担に目を向けた。
 「どれくらい折伏をやるんだい」
 「地区一番になります」。思い切って背伸びした。
 室長が笑って、手を横に振った。
 「地区一や大阪一ではダメです。目指すのなら、日本一!」
 翌年、室長は再び同じ会場へ向かった。1年前と熱気がまるで違う。広い部屋の隅々まで、住之江や住吉などの会員でいっぱいだった。
 「この家も、だいぶ狭くなったねえ!」
 一人一人に視線を送りながら、新しい指針をピシリと打ち込んだ。
 「一に団結。二に団結」
 ひときわ語気を強めた。
 「三に、団結です!」
        ◇
 関西本部の勤行会に参加した大正区の前川ハル子。威勢よく立ち上がった。「大阪の戦い」の最終盤である。
 室長から声をかけられた。
 「あなたは自分が元気な間に、折伏を何世帯やるか。ここで私と約束しよう」
 あっ。計算している余裕などない。
 「に、200世帯やります!」
 にこりと相好を崩した。
 「20年、信心を真面目にやれば、世界にだって行ける。私も世界中へ行くからね」
 その約束を果たした前川。いま、90歳の卒寿を超え、室長が言ったとおりの境涯になった。

何でも一番になれ
 なんと気丈な方か。
 西成区の小林節子は身が引き締まる思いがした。
 73年(昭和48年)12月。中之島の公会堂での本部総会。
 小林は池田名誉会長の母堂・一さんと共に会場に着いた。半年前、東京の大田を訪れた際に交流を結んだ。
 総会は長時間に及んだ。端座したまま身じろぎ一つしない。じっと名誉会長の言葉に耳を傾けていた。
 「ぜひ西成にも、うかがわないと」
 来阪すると、小林の自宅や近くの聖教新聞の販売店までわざわざ足を運び、丁重に挨拶した。後々《のちのち》まで西大阪での思い出を振り返った。
 76年9月の逝去の際。名誉会長から小林のもとに揮毫が届いた。
 「母が 最も関西にお世話になり 最も関西の友が大好きであり 最も思い出をつくって下さったことを謝しつつ」
 母堂を偲び、西成文化会館の庭に「一桜《いちざくら》」の樹が植えられた。
 後に名誉会長は、母堂の名の由来にふれている。
 「母の両親が『一番幸福になるように。その子どもたちも何かで一番になり、社会に尽くせよ』という願いをこめて『一』と命名したんです」
 何でも一番!
 池田家の心は、最も縁《えにし》深い大阪の心意気でもある。
 2008年9月。
 本部幹部会で新リーダーが紹介された。関西婦人部長の山下以知子。
 白本義一郎が新天地の大阪へ来たとき、2歳だった娘である。西大阪の婦人部長を務めたこともある。
 スピーチの中で名誉会長が懐かしそうに声をかけた。
 「あの子が、こんなに立派になったんだもの。お父さん、お母さんも、きっと喜んでいるよ」
 壇上で名誉会長に誓った。
 「関西の同志とスクラムを組んで、必ず完勝します!」
 彼女の名前は以知子。
 母堂は一さん。
 「大阪の戦い」の金字塔は1万1111世帯。
 関西は、いつも一番で勝つ!
2009-07-24 : 新 あの日あの時 :
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