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新 あの日あの時 3

新 あの日あの時 3     (2009.7.18付 聖教新聞)

池田先生と沖縄

ここから勝利の虹を架けよう

小説『人間革命』
 沖縄本島の南部。
 巨大なツメで、深くえぐられたような道を池田大作名誉会長が踏みしめる。太平洋戦争で米軍に破壊された痕跡である。
 密生した木々の暗がりにガマ(自然洞窟)が、ぽっかり口を開けている。沖縄戦では、大小のガマで島民が強制されて、集団で死を選んだ。
 1960年(昭和35年)7月。初めて沖縄を訪れた名誉会長は、糸満《いとまん》市内に点在する戦跡や摩文仁《まぶに》の丘を丹念に回った。
 ひめゆり部隊に動員された女子生徒たちを慰霊する「ひめゆりの塔」。
 沖縄県師範学校の男子生徒たちが亡くなった地にある「健児之塔」。
 それぞれの塔の前で真剣に題目を唱え、犠牲者の冥福を祈った。
 南部戦跡には、まだ鎮魂の公園や記念館も整っていない。那覇へ戻る道も、岩がむき出しで、ごつこつしている。あまりの揺れに車が横に倒れかかった。
 那覇市内の宿舎。部屋には小さな虫が出て、風呂場にはネズミが走っていた。ある朝、入室した青年が驚く。
 白アリが行列をつくっている。「知っているよ」。池田名誉会長は悠然と新聞を読んでいた。
        ◇
 64年(昭和39年)に来島した際、名誉会長は小説『人間革命』を書き始めた。しかし、あえて沖縄での執筆開始を公言しなかった。
 第1巻の「はじめに」を記した折、欄外に「昭和三十九年十二月二日より書き始む」と、したためたのみである。
 その原稿用紙は後に人の目に触れるが、特に意識する者はいなかった。
 73年(昭和48年)6月。沖縄の三盛洲洋《みつもりくにひろ》が初めて、その日付に強く反応した。聖教新聞に何気なく出ていた記事がきっかけだった。
 12月2日といえば、あの日じゃないか──。
 「やあ、沖縄の学生部、元気にやっているな!」
 忘れもしない。沖縄本部で行われていた学生部員会に名誉会長が来てくれた日だ。
 「やがて沖縄から世界の指導者が出る。10年間、私についてきなさい」と励ましてくれた。
 学会本部に問い合わせると、名誉会長の伝言が返ってきた。
 「そのとおりだ。よく見つけた。『人間革命』は沖縄で書き始めた。誰が最初に気づくか。それを私は待っていた」

安同情されるな
 72年(昭和47年)1月30日。コザ市(現・沖縄市)で記念撮影会があった。
 会場はコザ市の諸見会館たった。
 空軍基地や弾薬庫も近くにあり、約1年前には「コザ騒動」が起きている。米兵の横暴に住民が怒り、米兵の車などが焼かれた。
 不穏な空気は消えない。名誉会長のコザ行きを危ぶむ声もあった。
 しかし「私は、人心が揺れているところに真っ先に行く」と決断した。
 高校生の久場紀子《くばのりこ》。母親は台湾からの引き揚げ者で、米軍の那覇エアベースのタイピスト。沖縄社会になじめない。父は失業している。
 名誉会長は、未来部に対しても厳しかった。
 「福運をつけなさい。誰かに頼ってはいけない。自分で幸せをつかむ。それが信心だ」
 久場は2年後に沖縄本部で再会。
 「安同情されるような生き方をしてはいけない!」
 何かに依存するのではなく、どこまでも強く、強く生きることを教えた。

門中制度の壁
 沖縄には独特の「門中制度」がある。父系の血縁団体で、一族の結束は固い。家長の意向には、きわめて重みがある。
 稲嶺有晃《いなみねゆうこう》が創価高校の1期生として入学すると、父・一郎の逆鱗にふれた。
 「ヤマト神の学校に行くのか!」
 父は「琉球石油(現・りゅうせき)」の創業者。後に参議院議員を3期つとめ、沖縄開発政務次官にも就いた。稲嶺が創価高校に進んでからは、二度と会ってくれない。門中から放り出されたも同然である。
 上京した稲嶺は成績もふるわず、すっかり自信をなくす。沖縄の島言葉には、独特のアクセントがある。東京で話しても、相手に意志が伝わらない。いつしか無口になってしまった。
 68年(昭和43年)9月に行われた創価学園のグラウンド開き。稲嶺は学園を訪れた創立者に呼ばれた。
 「沖縄の大統領になりなさい」
 何ごともトップになれ、という激励だった。
 翌年。寮生・下宿生の懇談会があった。
 創立者と、一人一人が握手する。
 稲嶺の番になった。
 「握手の力が弱い。男なら、もっとしっかり握るんだ」
 稲嶺は創価大学に進み、卒業後は沖縄県庁に就職した。
 寝食を忘れ、職場でめざましい実績を積んだ。その働きぶりが父や兄の耳に届く。
 89年、琉球石油社長だった兄から、うちに来ないかと誘われる。
 ついに一族から認められるまでになった。
 だが、門中制度のしきたりのなかで、学会員として生き抜いていけるだろうか。そんな不安がよぎり、創立者に手紙を書いた。
 即座に伝言が届く。
 信心の眼で見れば、小さな違いしかないことを指摘したうえで「とにかく沖縄に尽くしていきなさい。実証を示しきっていきなさい」と背中を押された。
 現在、稲嶺は「りゅうせきエネプロ」の社長。県内有数のプロパンガス事業会社を率いている。

創立者の外交
 名護市の松田晴江は創価大学の3期生。兄から「ここはいい。一流の教員がいる。必ず大発展する」とすすめられ、合格した。
 少女時代は教会で聖書に親しんだこともある。大学に電話して、宗教を強制されないか確かめ、上京した。
 誰もが創立者を「先生」と呼び、尊敬していることに戸惑った。恩師と教え子の間柄とも違う。不思議に思えてならなかった。
 入学から3カ月後。73年(昭和48年)7月12日に創立者を豊田寮に迎えた。松田が沖縄出身と知った創立者が「前にいらっしゃい」。小さな座机をはさんで、ジュースやスイカをすすめてくれた。
 秋には英語の授業を見学に来てくれた。松田のすぐ隣に座る。板書された学生の英文を見ながら「すごいね。優秀だな」。
 宗教の枠など超えた、人間と人間の信頼がある。
 「先生」と敬愛される理由が、よく分かった。
 沖縄県出身なので、やはり戦争と平和の問題には関心がある。
 在学中、創立者はキッシンジャー米国務長官、ソ連のコスイギン首相、中国の周恩来総理と相次ぎ会見する。
 74年(昭和49年)11月、モスクワ大学のホフロフ総長をキャンパスに迎え、松田はギターで歓迎演奏した。
 一学生でありながら、平和外交の一翼を担う──こんな大学、ほかにあるだろうか。

南大東島の医師
 うるま市の祝嶺千明《しゅくみねちあき》は、かつて沖縄の離島・南大東島の診療医たった。急患は自衛隊機で那覇まで搬送するしかない環境だった。
 91年(平成3年)2月、沖縄研修道場に名誉会長を迎え、諸行事が行われたとき、運営役員の医療スタッフに祝嶺が加わった。
 チャンスがあれば、ぜひ南大東島のことを知ってほしい。報告のタイミングがないかと思っていると、ある朝、道場内の談話室に招かれた。
 「先生、私の島は……」
 切りだそうとすると、逆に質問された。
 交通、食糧、産業、天候、通信、医療・出産の体制、保安、島の同志の活躍ぶり……。祝嶺が報告しようと準備していた以上の内容だった。
 沖縄の離島を心から愛してくれていた。

雨上がりの虹
 南城市の新垣《しんがき》博(創大2期)。
 創価大学に在学中の72年(昭和47年)暮れ、同級生たち数人と創立者から食事に招待された。住みこみで新聞配達していた新垣は、創立者の心配りに恐縮した。
 「私も新聞少年だったから、苦労はよく分かる。東京の朝は寒いだろう……」。
 食事が終わりかけたころ、創立者から提案があった。
 「私が皆さんの故郷に行く機会があったら、そこでまた会おうじゃないか」
 74年2月9日、新垣は沖縄で創立者と再会した。名護市内の会場で待っていると、両手を広げて歩みよってくる。
 「さあ、車でまわろう」
 創立者のすぐ右隣の席に座らせてもらった。本部半島を周回する国道へと走りだす。
 「戸田先生は浜辺で育ったから、海が本当にお好きだった」
 左手には、コバルトブルーの海が広がっている。
 道中、突然のスコールが襲ったが黒雲《こくうん》の下を抜けると、ぱっと晴れ間が広まった。
 沖縄は、雨も降り始めるとすさまじいが、いったん晴れれば日差しも強烈だ。そんな南国の気候を肌で感じながら、創立者は語った。
 「沖縄は、戦争の道を行くのか、平和の道を行くのか、どちらかだ。中途半端はない。そう決めて進むことだ」
 雨上がりの空には七色のアーチ。沖縄から“勝利の虹”は架かった。
        ◇
 「もう二度と、沖縄に戦争はない。できない!」
 桜花に包まれた沖縄平和墓園で、創立者が力強く宣言したのは、それから25年後の99年2月である。
 正義の拡大こそ平和の大道を開く。
2009-07-19 : 新 あの日あの時 :
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