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新 あの日あの時 2

新 あの日あの時 2     (2009.7.12付 聖教新聞)

池田先生とイタリアのフィレンツェ

永遠の「勝利の都」を勝ち築け

黒革のサイン帳
 夜の帳がイタリアの古都を包み、フィレンツェのレストラン「ブーカ・ラーピ」の窓にも、赤みがかった明かりが灯った。
 1880年に創業された店。この日は、1981年5月31日で、新しい百年の節目を迎えていた。
 テーブルの間を回っていたウエーターの目が、ある席に吸い寄せられた。そこでは、東洋の紳士を中心に歓談していた。テーブルマナー、ゲストヘの気配り、人の話を聞く態度。どれも一流である。
 “ただ者ではない”。フロアの情報は逐一、スタッフに届けられる。キッチンで、名物のリゾットを調理していたシェフの顔も引き締まった。
 「シニョーレ(お客さま)」
 プレスのきいたスーツを着た支配人が近づいてきた。
 「よろしければ、ぜひお名前を」。手ざわりの良い、黒革の芳名録を開く。
 詩人、音楽家、画家……。名だたる著名人のサインが記されていた。
 あるページには一種、異様な筆跡。狂気の独裁で知られたドイツの政治家である。
 東洋の紳士は、眉をひそめた。民衆の側に立つ人であることがうかがえた。
 支配人が新しいページを開いてテーブルの上へ。
 さっとペンを走らせた。
 「山本伸一」

青年の都たれ!
 この時、池田大作SGI会長はフィレンツェを初訪問。ペンネームでサインし、「芸術の都」に敬意を表した。
 当時、イタリアSGIの勢力は約300人。8割が青年である。
 ミケランジェロ広場に行った日は、日差しが強かった。わざわざ露天で麦わら帽子を買い求め「ありがとう。かぶりなさい」。汗にまみれた役員の青年に手渡した。
        ◇
 アルノ川沿いのカッシーネ公園。
 すたすたと足を進める。速い。若者たちは付いていくので精いっぱいである。SGI会長が振り返った。
 「悪いね。私は何でも速いんだよ」
 陽気で、マイペースなイタリア人気質の青年たちは、こんなスピードで世界を駆け抜けてきたことに、少なからぬ衝撃をおぼえた。
        ◇
 郊外にある丘の街フィエーゾレ。フィレンツェ大学の学生と石畳の坂を歩き、カフェでエスプレッソを傾けた。
 「ダンテが『神曲』を書いたのは、このフィレンツェを追放される前だったか、後だったか」
 学生たちは顔を見合わせ、首を振る。過去に埋もれていたルネサンスの詩人の魂を、若い胸中によみがえらせた。
        ◇
 フィレンツェの会員宅。イタリアに、マリファナやコカインが広がっていることが話題になった。深刻な社会問題だったが、それを食い止める哲学がなかった。
 SGI会長は、強く言い切った。「麻薬に頼ってはいけない。仏法に現実逃避はない。正面を向くのが仏法だ」
        ◇
 イタリアの会員数は、92年に1万5千人、2000年に3万人になった。81年を起点にすれば、実に20年で100倍の拡大である。
 フィレンツェの青年が起爆力になった。

バチカンの枢機卿
 イタリアのバチカン市国は、広さ約0・44平方㌔。東京ディズニーランドより小さい。世界最小の主権国家だが、世界に10億人の信者をもつカトリックの総本山である。
 枢機卿セルジョ・ピニェードリは、バチカンの宗教間外交を一手に担っていた。非キリスト教信徒事務局のトップである。
 72年10月に、静岡で初めてSGI会長に会って以来、強烈な印象が消えない。
 バチカン駐日大使ブルーノ・ヴュステンベルク(大司教)からも、詳細なリポートが届いている。同大使とSGI会長は、計6度の会談を重ねてきた。
 文化や教育レベルの事業に高い意識がある。異なる文明の間を対話で結ぼうとしている。社会運動家としてみても精力的である。
  “信頼できる。教皇は池田会長と会うべきだ……”
 第262代ローマ教皇パウ口6世との会見が決まった。
        ◇
 75年5月、SGIの代表がバチカンを訪れた。国際センター事務総長の原田稔、欧州議長のエイイチ・ヤマザキ、イタリアSGIのミツヒロ・カネダの三人である。
 “何かあったな……”
 ピニェードリは直感した。
 サン・ピエトロ大聖堂に近いローマ教皇庁舎の一室。
 枢機卿の証しである緋色の法衣に身を包んで、ピニェードリは現れた。
 「池田会長は、お会いできなくなりました」
 原田稔の声が大理石の床に響く。
 枢機卿の濃い茶色の目が、じっと見つめてくる。
 「そうですか。残念です」
 出会いが実現すれば、平和という宗教の根本使命を、分かち合うことができたに違いない。
        ◇
 SGIの一行が再びバチカンを訪れたのは翌月である。
 「教皇との会見をキャンセルしたのは、池田会長が初めてです」
 枢機卿ピニェードリが微笑んだ。
 ただ、なぜキャンセルせねばならなかったのか。真意が知りたい。
 「理由は何ですか?」
 ピニェードリの目が真っぐに見つめている。
 「……宗門です」
 枢機卿が大きくうなずいた。「やはり。思った通りです」
 世界宗教へ飛躍しゆく学会と閉鎖的な宗門。
 その構図をバチカンは見抜いていた。

勝利を刻む広間
 「この広間に、フィレンツェの勝利の歴史を描いて欲しい──」
 宮廷画家のヴァザーリに、フィレンツェを治めるコジモ1世が命じたのは、16世紀なかばだった。今の市庁舎(ヴェッキオ宮殿)の広間を飾る壮大な絵画である。
 すでに、ダーヴィンチとミケランジェロの両巨匠が筆を競ったが、それぞれ未完成に終わっていた。
 しかし、周辺の勢力との戦いに勝利し、フィレンツェを芸術都市に整備したコジモ1世は、あきらめない。
 フィレンツェは勝った。この歴史を描かせ、永遠に宣言したかった。
 命じられたヴァザーリは市庁舎の「五百人広間」にフレスコ画を描く。題材はピサ、シエナにおける攻防戦。
 敵陣に攻め込む兵士。勇敢に指揮を執る馬上の将軍の姿がある。まさに「軍には大将軍を魂とす」である。隆盛を決定づけた「勝利」の合戦だった。
        ◇
 この「五百人広間」に池田SGI会長が足を運んだのは、92年6月30日の夕刻である。
 まもなく「フィオリーノ金貨」授与式典が隣の市長室で始まる。市長ジョルジュ・モラリスが待っているはずだ。
 左右の壁から、今にも騎馬と兵士が押しよせてきそうなヴァザーリの絵画が、SGI会長を見つめている。
 この日、フィレンツェのモラリス市長は語っている。
 「他の宗教を信じる人であれ、無宗教であれ、SGI会長の精神に必ずや共鳴すると確信します」
 宗門の黒い妬みで、ローマ教皇との会見が中止になったこともあったが、ルネサンスの都は、SGI会長を勝利の人として迎え入れた。
 2007年には「五百人広間」でSGI会長に「平和の印章」が贈られている。

今日は再び来ない
 天井にカンツォーネが響く。背筋をぴんと伸ばした老紳士が、ステージに拍手を送っている。
 1992年6月28日、フィレンツェのSGIイタリア文化会館で芸術音楽祭が行われていた。
 紳士の名はリベロ・マッツア。元内閣官房長官である。第2次大戦中、ナチスの魔手から幾多のユダヤ人を救う。フィレンツェの破壊を食い止めた英雄である。
 SGIに強く惹かれていた。麻薬におぼれていた青年を次々に更生させているという。陽気な祭典にも感嘆したが、SGI会長のスピーチにも唸った。
 「悪と戦わない人は正義ではない」「生きている限り、私は戦う。行動を続ける」
 マッツアの心と強く共鳴した。これまで命を狙われること34回。政界を退いてからも、マフィアと麻薬の撲滅のため戦ってきた。
 しかも、イタリア文化会館はメディチ家ゆかりの建物。国の重要文化財である。
 SGI会長は、文化を護る人でもある。
        ◇
 イタリア政府が、国家的な顕彰のためにき出した。
 今こそ我らは「平和の同盟」を結ぶべきではないのか。池田会長のような世界市民を模範として!
 2006年1月30日。
 東京のイタリア大使公邸で、SGI会長に「功労勲章グランデ・ウッフィチャーレ章」が贈られた。
 公邸の中庭に、大きな池をたたえた日本庭園が広がっている。
 その空の向こうには、目黒駅を使って幾度も足を運んだ戸田城聖第2代会長の自宅があった。
 若き日から、フィレンツェの詩人ダンテをめぐり、戸田会長と語り合ってきた。
 「今日という日は再び来ないのだ」
 『神曲』の一節を引くと、恩師は「大作、その通りだな」と微笑んだ。
2009-07-13 : 新 あの日あの時 :
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