あの日あの時 Ⅳ-12 

あの日あの時 Ⅳ-12     (2009.6.19付 聖教新聞)

池田先生と東京・板橋区

全東京を勝利に導く「錦州城」

幸せにする責任
 文京支部の池田大作支部長代理は、焦げ茶色の門をくぐり、カラカラと引き戸を滑らせた。
 座談会が開かれている。20人ほどの顔が一斉に、こちらを向いた。
 「ご主人、突然ですが、お邪魔いたします」。家の主《あるじ》で日銀マンの長野徳一に、丁寧にあいさつした。同支部の板橋班で班長をしている。
 1953年(昭和28年)6月11日、木曜日。まだ板橋区板橋町のあたりは、バラック小屋が目立つ。長野宅が、ひときわ立派に見える。
 支部長代理を迎えた座談会は活気に満ち、3人が入会を希望した。
 続いて信仰生活の心構えを説いた。「信心したからといっても、人生に悩みが無くなるわけではありません」
 すると横から小声でつつく人がいる。「せっかく入信したのに、変なこと言わないでください」
 長野の妻、きよゑである。まだ信心の日は浅い。班長の夫に対しても少々、不満があった。
 支部長代理は向き直り、正面から、彼女を見すえた。
 「あなたは病弱と聞いています。ご主人は、あなたの身体を心配して真剣に祈っている。もし、その心が分からないとすれば、あなたは決して良い奥さんとは言えませんよ」
 彼女は、はっと胸を突かれた。
 「私は皆さんの同志です。あなたを幸せにしなければならない責任がある。だから、きちんと言わせていただきました」
        ◇
 長野徳一が、日本銀行を定年退職した。
 1957年(昭和32年)1月7日、支部長代理が、ねぎらいに訪れた。
 長野宅の仏壇には、控えめな果物が供えられていた。
 「長野さん、御本尊には、もうちょつと立派な品をお供えしましょう。結局、食べるのは自分たちです。それだけ大きな境涯になれますよ」
 日銀マンに「心の財」を積む生き方を教えた。
 手作りの人材育成である。
 第3代会長が躍り出た60年(昭和35年)5月、長野夫妻は地区部長、地区担当員になっていた。
 板橋から折伏の旋風を巻き起こし、その名を全国に轟かせた。

ブンと飛ぶぞ!
 「おめでとうございます。お祝いに、一曲!」
 仏壇の横に立った青年部の池田室長が、ぱっと扇子を開いた。
 57年(昭和32年)2月8日。板橋区志村清水町にある清水嘉吉宅では、入仏式が行われていた。和室は青年たちで埋まっている。
 手拍子が鳴る。戦時中に歌われた「荒鷲の歌」の歌詞を少し変え、彼らは室長の指揮に声を合わせた。

♪正義の学会 知ったかと
 今宵また飛ぶ 荒鷲よ
 ………… …………
 ブンブン荒鷲ブンと飛ぶぞ

 家の主の清水も、共に歌った。戦争が終わって12年。軍人だった清水は、久方ぶりに全身の血が荒ぶった。
 若鷲が翼を広げるようなスケールの大きい指揮だった。
 「まちがいない。学会を背負って立つ人だ」。清水は「ど」がつくほど真面目で、頭の固いタイプだった。
 「俺はこれでいく!」。一度、決めたら、テコでも動かない。「ブンブン荒鷲だ。池田室長の指揮で、板橋はブンと飛ぶぞ!」
        ◇
 清水の妻・良子にとっても忘れがたい一日となった。
 これまでも青年部を我が子のように可愛がってきた。新潟の出身なのでコメには困らない。炊きたてを、たらふく食べさせた日もあった。
 そんな彼らが仏間を埋め尽くし、室長を先頭に総立ちしている。
 “とうとう、この日が来たんだ”
 良子は、戸田会長の指導を思い返した。清水夫妻は、子宝に恵まれなかった。神奈川県で偶然、戸田会長に指導を受ける機会があり、その悩みを打ち明けた。
 「そうか。だけど、自分の腹を痛めた子どもだけが、子どもではないぞ。いつか、これが我が子と思える子に恵まれる。そういう境涯になれる日が、きっと来る」
 夫妻にとって、希望の言葉となった。
 今、眼前にある光景こそ、まさに、それだ。
 私には、こんなにたくさんの子どもがいるじゃないか!
 池田室長と共に進む青年たち。この青年たちを育てよう。青年を大事にしよう。
 これが板橋の伝統精神になった。

トップは板橋
 1971年(昭和46年)夏、池田名誉会長は、ある決断を下した。
 前年には言論問題が起きた。今、再び、本陣を強くしなければならない。
 東京の各区で記念撮影会を開き、首都をくまなく回ることにした。
 どこからスタートするか。最初が肝心だ。全東京に上げ潮が満ちるかどうか、ここで決まる。
 熟慮のすえ、名誉会長は、トップバッターに板橋を指名した。
 タテ線時代の板橋は、文京・杉並・足立支部の会員が混在していた。そのためか、いま一歩“個性”が、はっきりしない。
 「これからは、今まで知ることのできなかったところへ行かなくちゃいけないな」。名誉会長は、ことあるごとに語っていた。
 撮影会は10月に決まった。区の中心者である中村俊雄、秋山栄子は頭を抱えた。
 懸案は山積みである。参加者の人選、設営、参加対象外の会員への配慮、テーマの設定、催し物……。
 記念撮影会は、板橋にとっての試金石だった。
        ◇
 10月17日、撮影会当日。
 東武東上線の上板橋、ときわ台で降りた人が、川越街道の方へ列をなしていく。
 東新町《とうしんちょう》の私立城北高校が会場だった。
 車で会場に到着した名誉会長は、まず校庭に向かった。
 屋台が並ぶ。鉄板では焼きソバ。串に刺した鶏肉……。
 名誉会長は、香ばしい煙に包まれながら、すべての出店を回った。誰もが元気一杯だった。
 体育館へ。テーマの垂れ幕は「板橋は仲良く地域社会を開発してまいります」。6年前、板橋会館の入仏式で名誉会長が語った指導である。
 場内の設営には、造花があしらわれている。参加できなかったメンバーが、唱題の数に応じて、花をこしらえたという。
 17グループに分かれての撮影もスムーズだった。アトラクションの演技も、源義経をモチーフに、感動的だった。マイクを手に名誉会長が立ち上がった。
 「全東京の模範となる記念撮影だった。ありがとう!」
 帰りの車の中で、流れる住宅地を目にしながら、つぶやいた。
 「板橋は力がある」

人材輝く「金の橋」
 オープンしたばかりの板橋文化会館。香峯子夫人が、婦人部の声に耳をかたむけながら、サラサラとメモを取っている。
 1977年(昭和52年)11月10日、ヤング・ミセスの「体験談大会」が開催された日である。
 高島平団地の石井益子。団地で活動する現状を、つぶさに語った。
 間取りは1DKか2DKがほとんど。子どもが2人になれば手狭になり、引っ越していく。せっかく地区幹部クラスに育てても、人材が外へ出てしまう。
 まだ留守番できる年でもなく、会合には、赤ん坊、幼児があふれる。
 拠点にできる広さもない。家具の少ない老夫婦のお宅を借りたり、立つたまま会合をしたり──。
 一つ一つの話に頷きながら、メモを走らせる夫人。
 「そうですか。大変ですね。ありがとうございます。必ず本部に戻って伝えます」
 その晩、名誉会長から一枚の色紙が届いた。石井は、その文字を見て、はっとした。
 「霊山は 今ここなりと 君立ちて 高島平の 人々つつみぬ」
 団地が霊山──。考えてもみなかったことである。
 霊山とは、釈尊が法華経を説法したとされる地で「仏の国土」という意味もある。
 仏国土は、どこか遠くにあるのではない。高島平を霊山と決めることだと気がついた。そう考えれば「人材がいなくなる」のではない。高島平から東京中、日本中へ「人材を送り出している」ことになる。
 かつて中山道の最初の宿場だった板橋は、いわば旅人の通過点にすぎなかった。
 池田名誉会長夫妻の視点は違った。
 板橋は「金の橋」である。この橋を渡る人、この橋に縁した人は、一人残らず人材である。全学会を勝利に導く使命がある。そう捉えていた。
 77年(昭和52年)10月15日、名誉会長は板橋の青年に訴えている。
 関西には、広宣流布の錦州城の誇りがある。板橋にも同じ自覚を与えた。
 「板橋こそ、関東、そして東京における難攻不落の錦州城たれ!」
2009-06-19 : あの日あの時 :
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