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あの日あの時 Ⅳ-11

あの日あの時 Ⅳ-11     (2009.6.14付 聖教新聞)

池田先生と東京の北多摩

「一番、強くなったところに行こう」

団地広布の模範

 ♪勝利の旗に 金の城
  誉れに生きる 我が友は
  いつも心に 先生を
  いつも心に 先生を……

 衛星中継の大画面から、新しい団地部の歌が、村山緑が丘会館(旧・村山会館)の広間に流れる。
 そのとたん、会場を埋めつくした武蔵村山団地のメンバーが、どよめいた。
 2008年9月に、本部幹部会の席上で、新団地部歌「輝け『幸福の城』」が発表され、全国に中継された。
 「いつも心に先生を」。これこそ村山総区の精神そのものだからである。
        ◇
 “団地会館”の愛称で親しまれる同会館。ここまで、池田大作名誉会長が足を延ばしたのは、1969年(昭和44年)の7月6日(日曜日)である。
 午前中に学会本部で勤行会があり、村山の海藤チヨが思わず「先生、村山に来てください!」と叫んだ。
 ──今や4000世帯の公営団地が、当時の北多摩郡村山町に完成したのは66年(昭和41年)の春だった。
 森と畑しかなかった地に、新住民が一挙に入居してきた。学会も、23ブロック、2総ブロック(現在は支部)が組織された。
 団地の会員たちは、寂しさがぬぐえなかった。北多摩は、東京の北西の外れ。そのうえ武蔵村山には、鉄路もなく、バス便しかない。
 こんな片田舎では、ずっと池田先生は来てくださらないのでは……。
 皆のやむにやまれぬ思いが、名誉会長への願いの背景にあった。
      ◇
 その7月6日の午後、松尾愛子は、団地の部屋を飛び出した。車で学会本部を出発した名誉会長が、団地近くの村山会館に到着したという。
 舗装されていない砂利道を松尾は長靴で急いだ。雨が降ったわけでもないのに、その日も足元がぬかるんでいた。そんな悪路を越えて、名誉会長が来てくれたのである。
 松尾たちが会館に近づいた時、一台の車とすれ違った。
 池田先生、先生だ!
 やがて伝言が届く。
 「村山は必ず素晴らしい地域に変わるよ」
 だから、この日から、美しい人間関係の団地にしようと皆で誓った。団地の自治や防犯、高齢化が進むと、お年寄りへの声掛けなどにも率先して動いた。
 2004年1月18日。
 「一番、強くなったところに行こう」
 名誉会長は武蔵村山文化会館へ出発した。

外交戦の舞台
 北多摩は、創価学園に近い。名誉会長は創立者として、学園訪問の前後などに幾度も立ち寄っている。
 1979年(昭和54年)10月31日には、東大和市内でソ連の高官と会談した。
 相手は、この日、東京創価小学校を視察したソ連高等・中等専門教育省次官のソフィンスキーである。
 次官を乗せた黒塗りのセダンが学園を出発し、西武拝島線の高架下を抜け、富士見通りの商店街に入っていく。小原正保が営む「満月」で食事をしながらの懇談になった。
 おもねるような外交辞令など一つもない。名誉会長は、ずばりと本質を突いた。
 「日本人は正直なところ、ソ連は怖い国だと感じています。このままでは、嫌われたままです。反省すべきではないでしょうか」
 同様の直言は、モスクワでソ連の首脳や、対日外交政策の指揮をとるコワレンコ(共産党中央委員会の国際部副部長)たちにも試みてきた。
 クレムリン宮殿であろうと、東大和の商店街であろうと、その姿勢は微塵も変わらない。
 名誉会長は同行した幹部に語っている。
 「言うべきことは、はっきりと言わねばならない。日本のためにも。社会のためにも。外交戦とは、こうやってやるんだ」
 この富士見通りの商店街では、翌80年(昭和55年)3月6日にも、歩いて町内を回っている。
 青果店「八百富士」の主人は名誉会長の姿に魅了された。「今日のレタスは美味しそうですね!」と品定めした。イモを焼く壷の前では、戦時中に焼きイモを頬ばった思い出を振り返った。
 隣の肉屋「越木屋」では青年部員たちへの差し入れのため、焼き鳥を買い求めた。
 名誉会長の気さくな人柄に、学会を見る商店街の目は大きく変わった。

平和と健康の町に
 緑豊かな地である。
 映画『となりのトトロ』の舞台として知られる森も広がっている。
 文学作品のモチーフにもなった。
 堀辰雄の『風立ちぬ』。
 福永武彦の『草の花』。
 それには理由があった。当時は「死病」と言われた肺病の昭和の文人たちが、この地で静養していたからである。
 療養に向いている環境だったため、昭和初期から戦後にかけ、重い病に苦しむ人の病院や治療所が多かった。
 そうした地域柄、どうしても「死」や「孤独」の陰がつきまとう。そんな空気にも学会員は負けなかった。
 昭和40年代初頭。
 国立療養所東京病院(当時)では、こんな合言葉が飛びかっていた。
 「池田先生も結核を克服されました。私たちも健康になりましょう」
 通称「清瀬の療養所」。集会室で地域の学会員が患者たちを励ましながら、共に“座談会”を開いていた。
 名誉会長も病院が多い北多摩を折々に気にかけてきた。
 学会員が入院すると聞けば、お見舞いのメッセージを届ける。「お世話になります」と伝言を託した。
 1978年(昭和53年)5月、立川文化会館でも、名誉会長が心配して声をかけた。
 「病院にいる人たちは、どうしているかな……」
 相手は中村京子。北多摩女子部のリーダーのころから、病院での激励に尽力してきた。今もベッドの上で、苦しむ人がいる。題目を必死にあげて治療している人がいる。
 「先生、必ず平和と健康の町にします!」
 中村は、清瀬で戦う皆の決意を代弁した。
 「そうだ! その心意気だ。必ず変毒為薬できる」

立川文化会館で
 78年6月30日の昼下がり、立川文化会館の駐車場にはゴザが敷かれ、名誉会長を囲んで車座ができていた。
 東久留米で拡大の結果を出し、その喜びを報告に来た渡辺光子らが、思いがけず名誉会長に歓待されたのである。
 ラジオカセットレコーダーが用意してあった。
 「これから荒川へ会合に行くんだ。この歌を今晩、発表するよ」
 役員が再生ボタンを押すと、スピーカーから力強い曲が流れてきた。学生部歌「広布に走れ」である。前夜に完成したばかりだった。
 ゴザの上で、名誉会長は歌詞に込めた思いを語った。
 3番の「この船たしか」という箇所を強調した。
 「『この船』とは、創価学会のことだ。何があってもついていきなさい。絶対に幸せになれる」
        ◇
 村山圏の創価班は、しばしば名誉会長が滞在する立川文化会館に着任した。
 78年8月21日。残暑が厳しい夜たった。
 山田三利は、裏門で任務に着いていた。
 大きな会合の予定はない。それでも名誉会長の近くで会館を守ることができる。誇らしかったし、嬉しかった。
 夜の8時半を回ったころである。
 山田のもとに会館職員が駆け寄ってきた。
 手渡された色紙を見て、驚いた。
 「夜の門 君が守りて 幸の城」
 名誉会長の鮮やかな文字。奥書きには「八時二十六分」とあった。
 執務のなか、私たちにまで気を配っていただき申し訳ない……。
 色紙を抱きしめ、山田は深々と頭を下げた。

蘭春の東村山
 桜の美しい地である。
 2007年4月、多摩湖畔の水道道路に沿って、桜の木々が枝いっぱいに薄紅色の花をつけていた。
 桜をめでる人波の中に、かつての東村山市長・熊木令次がいた。
 何度も立ち止まって、桜のアーチを見上げる。
 “池田先生から頂戴した桜の苗木が、見事な大樹に育ったなあ……”
 31年前の76年(昭和51年)、熊木は、名誉会長から桜の苗木を贈呈したいという提案を受けた。
 東村山を大事にしてくれる心が嬉しかった。それが今や、春になると数千人もの人出で賑わう桜の名所である。
        ◇
 なぜ苗木を贈ったのか。
 池田総務が戸田城聖第2代会長の遺族を多摩湖畔に案内したのは、60年(昭和35年)4月10日である。
 その日の日記。
 「蘭春──風塵──東村山まで往く。桜あり、しばし心麗《うらら》か」
 この4日後、池田総務は学会本部で第3代会長就任の3度目の要請を受け、ついに受諾する──。
 恩師逝いて2年。第3代として立ち上がる日を前に、東村山は一服の桜花の清涼を与えてくれたのである。
 名誉会長は忘れていなかった。だからこそ苗木を寄贈したのである。
 広宣流布の大将軍として、すべての攻撃の矢面に立つ。その覚悟は、いかばかりだったか。
 81年(昭和56年)10月26日、名誉会長は東村山文化会館(現・東村山平和会館)で力強く呼びかけた。
 「私の心境は戦闘艦と同じです。どんな矢でも鉄砲でも受けていく。信心だけは強く、強く! そして、とにかく学会を強くしていこう!」
2009-06-14 : あの日あの時 :
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