あの日あの時 Ⅳ-9

あの日あの時 Ⅳ-9     (2009.5.30付 聖教新聞)

池田先生と東京・練馬区

「名馬、千里を行く」ごとく

江古田のB長会
 戸田城聖第2代会長が逝去した1958年(昭和33年)。青年部の池田大作室長は、悲しみにくれる会員を全魂で奮い立たせていった。
 練馬にも向かった。
 西武池袋線の江古田駅に近い拠点を訪ねたのは、その年の夏である。駅前の商店街を抜けた先にある熱田宅でブロック長会があった。
 夕立で濡れた道を走ってきた林清は、最前列に陣取っていた。会場に現れた開襟シャツの精悍な青年を見て、声を上げそうになった。
 あの時、戸田先生の陰で寄り添っていた方ではないか!
 ──その3年前の秋に行われた城東支部(当時)総会。
 池田室長は恩師の脇に影のようにひかえ、万一、何かあれば、瞬時に飛び出す構えを崩さなかった……
 熱田宅で質問会が始まった。誰もが戸田会長亡き後の学会に、少なからぬ不安を抱いていた。
 その心の弱さを、池田室長の確信みなぎる言葉が吹き飛ばした。
 生涯、学会とともに!
 恩師との誓いを裏切るな! 
 会長を失ったばかりの学会である。世間の目も厳しい。室長は諄々と語りかけた。
 「近隣の人は、私たち学会員の行動を見ています。信仰を持《も》ったものとして、まず立派な社会人にならなければなりません」
 人としての振る舞いを一貫して説いた。

北町広布の歌
 座談会の会場から、歌声が聞こえてくる。

 ♪あの家も この家も
  星に囲まれ 歌声が
  お伽の都と 讃えてる
  共に築かん 北町広布

 本年2月の「青年・勝利座談会」。
 練馬区北町の支部では、青年部の指揮で伝統の「北町広布」の歌を大合唱した。
 副本部長の古屋巌も、ともに口ずさんだ。若い力の台頭に、感慨は尽きない。
        ◇
 78年(昭和53年)7月8日。北町の支部の代表が、都内で名誉会長から食事に招待された。支部長だった古屋は緊張で料理がのどを通らない。名誉会長は温かく声をかけてくれた。
 「一番苦労した人を、一番励ましてあげる人になろう」
 さらに意表を突く発表があった。
 「歌をつくったよ。信心している人も、してない人も、関係なく歌えるように考えた。この北町が栄えるような歌だよ」
 学会の各部に、次々と愛唱歌が生まれていた時期である。しかし名誉会長が自ら手がけた「支部の歌」は「北町広布」の歌だけだった。
 東京の外れにある、こんな小さな支部にまで……。古屋は、この1年間の日々を深く思い返した。
 ──支部に衝撃が走ったのは、77年(昭和52年)の夏のことだった。
 中心者たった夫婦が退転。後に学会を反逆する幹部と関係があった。完全に師弟の正道を見失っていた。
 そんな恩知らずどもに、この北町を壊されてたまるか!
 古屋は支部内を一軒また一軒と回った。平静を装っていても、内心は揺れている会員もいた。そんな時、名誉会長から揮毫が届く。
  「北一」。墨痕あざやかな二文字である。
 北町が一番戦い、一番強くなることを誓った。
 その後、二度にわたる宗門事件が起きた。北町は微動だにしなかった。

グラントハイツ
 光が丘駅前大通り。一人の婦人が車を降り、空を見上げた。ここがグラントハイツ?
 あの頃からは、見違えるような街並みになっている。
 アメリカ総合婦人部長のカズエ・エリオットだった。名誉会長が初めて北米大陸を訪問したとき、真っ先に出迎えた。アメリカ広布の草分けである。
 98年10月、東京での研修会終了後、エリオットは、かつて共に戦った練馬の同志と光が丘を訪れた。
 林立する団地、駅、ショッピングモール……。滑走路も鉄条網もなくなっている。
 この地で戦った当時の面影は丸でなかった。
 草創期、国際結婚したエリオットは、鶴見支部練馬班の班担たった。
  ここには、進駐軍の将校の宿舎であるグラントハイツがあり、周辺の田柄や旭町も折伏に歩いた。
 56年(昭和31年)だったか、静岡で戸田会長に質問したことがある。
 「私の主人はアメリカ人です。どうしたら折伏できるでしょうか」
 会長はメガネの奥からエリオットの目をジッと見据えて言った。
 「どこにいっても、どんな相手でも『南無妙法蓮華経』を広宣流布することに変わりはない」
 エリオットの迷いがパッと晴れた。
 彼女たちの苦労が実り、グラントハイツでも信心を始める人が増えた。その中から米国に戻るメンバーも現れ、今日のアメリカ広布の礎になっていく。
 グラントハイツは、仏法の輝きを世界に伝える“光の丘”になった。

光が丘文化会館
 2007年11月7日、光が丘ドームで「平和の文化と子ども展」が開幕した。
 練馬区元教育委員長の内山和子があいさつに立った。読売新聞の社長夫人である。
 「いつも、聖教新聞が一番早く届くんですよ」
 集金に来る配達員の人柄にも好感を抱いていた。大泉会館の近くに住み、会員の姿をつぶさに見てきた。
 「池田先生は、素晴らしい人たちを育てられているんですね」
        ◇
 練馬には、平和や文化の次元で、貢献してきたメンバーも多い。
 総区婦人部長の岩渕真理子は、音楽大学の出身。1976年(昭和51年)7月に、名誉会長から「母」の詩に曲をつけるよう頼まれた。
 岩渕は苦心して届けたが、ある楽節について名誉会長から指摘された。
 途中から転調して、自分では一番の聴かせどころと気に入っていた部分である。
 「これでは難しい。みんなが喜んで歌える曲にしてもらいたい」
 口ずさむと、たしかに歌いにくい。作曲に夢中で、実際に歌う会員のことを忘れていた。岩渕が作り直した歌を届けると、名誉会長は「いい曲になったね」と心から喜んでくれた。
        ◇
 中村玲子の夫・輝夫は、民主音楽協会の渉外担当だった。イスラム諸国と交流する道を開いてきた。
 中東圏で「お前は何をしに来たんだ」と銃口を向けられたこともある。
 中村が身を案じても、夫は「池田先生のお仕事のお手伝いだ。ありがたいことじゃないか」と。決して中東行きをやめない。92年の名誉会長の中東歴訪にも同行し、陰ながら大成功に尽力した。
 その後、夫は病に倒れ、帰らぬ人となった。
 中村玲子が、光が丘文化会館に招かれたのは、98年10月25日である。この日、名誉会長は同会館を訪問し、代表200人に、勇気の信心で進むことを訴えている。
 駆けつけた中村は声を振り絞って「先生!」と叫んだ。
 「中村の妻です。生前はお世話になり、本当にありがとうございました」
 名誉会長は、中村が子ども3人を抱え、一家を支えていることも知っていた。
 「人生は劇場だ。広布も社会も家庭も劇場です。勝つか負けるかだ。のびのびと人生を生きなさい!」
        ◇
 この日、光が丘文化会館に訪問したことで、名誉会長は練馬区内にある全ての会館に足を運んだことになった。三原台の練馬文化会館、向山の城西平和講堂、東大泉の大泉会館、上石神井の石神井会館、豊玉上の桜台会館。すみずみまで、名誉会長の足跡が刻まれている。
 練馬は馬を練り、名馬を育てた天地。ある時、練馬の使命を語っている。
 「どこか苦戦していると聞けば、すぐに駆けつける。それが学会精神だ」
 勝利の決定打を放つためなら、千里を行く。それが「練馬」だ!
2009-05-30 : あの日あの時 :
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