あの日あの時 Ⅳ-8

あの日あの時 Ⅳ-8     (2009.5.22付 聖教新聞)

池田先生と東京・足立区

勝利を決する大東京の勇者

飾らない強さ
 「足立、よくやったね」
 「はい!」
 池田大作名誉会長が、広布の前進めざましい地域の名を挙げると、足立区の4人の男子部員が、勢いよく立ち上がった。
 2001年(平成13年)12月13日、本部幹部会(東京牧口記念会館)の席上である。
 「みんな、お仕事は?」
 名誉会長が前方の4人に声をかけると、次々と元気な声が返ってきた。
 「サラリーマンです!」
 「ラーメン屋です!」
 「建設会社です!」
 「ゴミ屋です!」
 産業廃棄物を処理する菊池浩幸が、ひときわ大きな声を張り上げた。
 すかさず名誉会長が「足立の人は飾らないね。かっこよく『高級中華料理店です』とか、言えばいいのに」とユーモアで包みかえしていく。
 その中の一人、舎人にあるラーメン屋「きらく」の2代目、中村洋一も頭をかいた。
 見栄も気取りもない。「率直だね。だから足立は強い!」と名誉会長は語る。
 足立への信頼は青年時代から抜群である。

師弟を貫け
 都心から走ってきた車が、荒川にかかる西新井橋をわたった。土手を回りこんだ車から戸田城聖第2代会長が降り立つ。
 道は、ぬかるんでいた。戸田会長は革靴が汚れるのも構わず、早足に歩き出した。
 1955年(昭和30年)の春4月である。
 河原の芦を刈った空き地で、野外集会が始まった。
 300人ほどを前に、戸田会長が用意された台にあがった。背後では千住火力発電所の通称「お化け煙突」が煙をモクモクと吐きだしている。
 戸田会長の、ややかん高い声が川風に乗って、聴衆の耳に届いた。
 シンプルな集会だが、よく準備がされていた。これには理由がある。
 戸田会長を足立に迎える先発隊として、青年部の池田室長が、1カ月前から奔走してきたのである。
        ◇
 ひと月前の3月1日のことだった。
 池田室長を王子駅から乗せたバスが、化学工場の脇を抜けていく。
 江北橋に出ると、視界がぱっと開けた。一面の田んぼに、小屋がぽつん、ぽつんと建っている。
 まだ、バス通りに荷車を引いた牛が、のっそり歩いている時代だった。
 足立の第1・第2ブロックを担当することになった池田室長が、高野町(現・江北4丁目)のバス停で降りた。
 溶接業「藤田工業所」の看板を見上げ、足立の支部長、藤田建吉の家に入った。
 足立区に住む会員が初めて集まった連合座談会だった。
 藤田の家は建て増しを繰り返した古い一軒家で、やけに柱が多かった。その陰で、身を隠すようにしている会員もいる。
 会場に、池田室長のからっとした声が響いた。「支部長の坊主頭は、ジャガイモ頭と呼ばれているそうですね」。笑い声があがった。参加者は、ぐいぐい室長の話に引き込まれていく。
 途中から質問会に変わった。場内の青年が「どう祈れば、功徳が出ますか」と手をあげた。
 室長は深くうなずきながら「皆さんのちっぽけな願いぐらい、今すぐにもかなう。その秘訣は……」と青年を力強く見つめた。
 柱の陰からも、別の青年が我がことのように身を乗り出している。
 室長は「それは、師弟を貫くことです!」と信心の奥底を分かりやすく語った。
 こうして戸田会長を迎える下地を、人知れず、つくっていったのである。

団地のビワの木

 第3代の会長を辞任してから、名誉会長は足立の地で語った。
 「大変に批判中傷をされてきましたけれど、本質は、庶民と仮面のエリートの戦いです。人類が千年、二千年と続けてきた戦いです」
 82年(昭和57年)12月、年の瀬の足立平和会館での指導だった。
 続けて、名誉会長は「足立は取りもなおさず、庶民の区です。学会は庶民です」と、明快に言いきった。
        ◇
 竹の塚の松本美津も、そうした庶民の一人である。
 夫は事業に失敗したあげくに死別した。その後、再婚したものの2間に6人暮らし。4人の子どもの病気や不登校、非行に悩んでいた。
 そんな松本に、思いがけない転機がやってきた。
 85年(昭和60年)6月21日。足立で名誉会長を迎えて懇談会があり、その役員になったのである。
 松本は会場の近くにある、竹の塚7丁目アパー卜の団地に暮らしていた。
 懇談会が終わると、出口に名誉会長が現れた。
 「ありがとう。陰で支えてくださった皆さんで分けてください」と、丸いオレンジ色の果実を配ってくれた。初夏に旬を迎え、甘くなるビワの実である。まだ手の温かさが残っていた。
 松本は、持ち帰ったビワを家族で6等分した。食べ終わると、その種を団地の庭に植えた。
 ビワと一緒に成長することを子どもたちと約束した。
 8年後──ビワが成木になった。白い花をつけ、まんまるの実が枝をしならせている。同じ団地の女性から、声をかけられた。
 「松本さん、ついに池田先生の木に花が咲いて、実がなりましたね」
 ビワに負けず、4人の子どもも立派に育った。
 竹の塚だけではない。綾瀬、宮城、江北などでも、同じように名誉会長の思いを大切にしている友がいる。あの日のビワの種から育ち、足立区内に、30本以上が成木となって根を張っている。
 本年1月11日、松本が投稿した一文が全国紙の朝刊に載った。
 「尊敬する人の言葉に『幸福は忍耐という大地に咲く花』とある。この言葉が大好きで、私は指針にしてきた」
 もう初夏である。
 今年も足立でビワの木が、丸い実をつけている。

一番先頭に立て
 名誉会長は、たとえ東京を離れた時でも、決して足立を忘れない。
 創立75周年の佳節へ学会が前進していた夏、名誉会長は長野県で最高幹部との協議を続けていた。協議会でのスピーチ、長編詩、随筆などの執筆を進めながら、さまざまな報告を受けていく。
 足立の地区婦人部長会の開催が報告された時だった。すぐさま「これは、誰が行っているんだい」と確認をとる。
 会場の足立文化講堂には、3人の婦人部幹部が入る予定になっていた。「そうか。たくさん幹部が行っているけれど、現場は『走っています!』という気持ちだよ」
 どれほど足立の現場の底力がたくましいか。名誉会長は、誰よりも知り、誰よりも信頼している。すでに足立の会合は始まっていたが、長野から伝言を託した。
 「今や、足立が東京の代表である」
 「一番先頭に立っていけ」
 「声は大事な武器だ。朗らかに撃っていくんだ」
 足立文化講堂につめかけた約1500人の婦人部員は、名誉会長の一言一言に、会場が揺れるほど沸きたった。

氷川の地で
 84年(昭和59年)の5月4日、奥多摩の氷川は厳しい冬を耐えた桜が満開だった。
 名誉会長が、2棟の研修道場の前で白い帽子を取り、深々とお辞儀した。
 足立区宮城の土田健一は、その姿が涙でかすんで、よく見えなかった。土田たちが中心になって、青年部の人材グループ「栄光会」が築きあげた研修施設だった。
        ◇
 ここは、30年前の54年(昭和29年)9月に、戸田会長が水滸会の野外研修を行った地である。
 名誉会長を迎え、後継の青年が集いたい。信仰を錬磨する施設も建てたい。それが、当時の青年部の願いだった。
 そうなれば、建設関係の仕事に従事する栄光会の出番である。もともと栄光会は、発足当時から、足立、大田、江戸川、荒川など下町の職人が主力だった。
 足立の土田も、二つ返事で現場に飛んできた。足立の志願者は、400人を超えた。
 しかし、奥多摩の自然は厳しい。
 台風や豪雨もある。氷点下10度を下回る日もあった。
 同じ足立の渡辺健司(舎人の塗装業)や木村弘美(皿沼の建築業)も、仕事を片づけ、東京の東から西へ車を走らせた。
        ◇
 道場内。木の香の芳しい栄光会館で、開館記念の勤行会が行われた。名誉会長が、恩師の思い出を語りはじめる。
 「戸田先生は、常に『一人立て』と教えられた。私も難あるごとに『そうだ、一人立てばいいのだ』と深く決意した。これが水滸会の精神だ」
 勤行会終了後、名誉会長が多摩川の河原へ続く162段の階段を下りた。
 「戸田先生を囲んだ時と同じだね」
 キャンプファイアが焚かれた。30年前と同じ、師を求める真っ赤な陣形がそこにあった。
 帰り際、名誉会長は、栄光会の奮闘に感謝して、足立の友に色紙を手渡した。
 「立」の一文字が、どっしりと躍っていた。
 「足立」は「足で立つ」と書く。
 名誉会長は、折々に語ってきた。
 「どこか一個所が勝てば、全部が勝ち続いていく要。それが足立だ」
 一人立つ足立。東京と全国をリードしゆく広布の勇者である。
2009-05-22 : あの日あの時 :
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