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あの日あの時 Ⅳ-7

あの日あの時 Ⅳ-7     (2009.5.15付 聖教新聞)

池田先生と東京・世田谷区

最前線から波動を起こせ

金メダリスト
 世田谷区若林にある国士舘高校柔道部の卒業生・内柴正人と鈴木桂治が、創価大学に現れたのは、2005年(平成17年)10月29日である。
 二人とも、前年のアテネ五輪で表彰台の最も高いところに立った。
 一礼して道場に入り、周囲を見わたした。
 “おや? 神棚がない”
 剣道場と柔道場の壁には「色心」と「不二」の額が、それぞれ飾られている。力強い筆致だった。
 創大柔道部ヘッドコーチの石橋清二が部員を集め、内柴と鈴木を紹介した。
 世田谷は、日本の柔道界にとって“牙城”である。
 区内にある国士舘高校、世田谷学園の柔道部から、7人の五輪金メダリストが生まれた。町には道場も多く、つねに乱取りの音が聞こえる。
 石橋は二人にとって、国士舘の先輩だった。全国選手権で初制覇した時の主将である。稽古を見てほしいという先輩の頼みは断れない。
 石橋から「ちょっと、もんでやってくれ」と連絡を受け、軽い気持ちで創大柔道部員の襟をつかんだ。
 ところが二人は驚いた。何度、畳に打ち付けても、この柔道部員たちは立ち向かってくる。
 いい根性をしているな。いつしか内柴も鈴木も汗だくになり、肩で息をしていた。
 休憩時間になった。
 部員たちが屈託のない笑顔を浮かべ、口々に語る。
 「創立者である池田先生の恩に、勝ってお応えしたいんです!」
 道場に掲げられた額は、創立者のものだった。身体と心は一体不二であることを教える言葉だった。
 師弟。報恩。求道心。精神力──。
 柔道王国・世田谷の青畳の上でも、最近、薄らいでいる点だった。
 二人は心を打たれた。「素晴らしい。師弟の道がある。必ず強くなる」
 創大柔道部の女子チームが日本一になるのは、その3年後である。

牛田宅の部隊長会
 玉電(東急玉川線)の渋谷駅で切符を買って、青年部の池田大作室長は電車に乗りこんだ。
 チン、チン。車掌がひもを引き、発車オーライの合図を出す。路面電車が、ゆっくり動き出した。
 1954年(昭和29年)の夏である。当時の運賃は10円だった。電車は道玄坂から玉川通り(国道246号線)に入る。まだ頭上を覆う高速道路はない。道の幅も広々としていた。
 池田室長は三宿の停留所で下車した。
 太子堂の細い路地を抜け、10分ほどで病院裏にあるアパートに着いた。
 牛田寛の家である。ここで毎月、学会男子部の部隊長会が開かれていた。
 牛田は51年(昭和26年)に、学会の初代の男子部長になった。都立大学で量子力学を教える学究であった。
 入会は池田室長と同じころで、戸田門下の兄弟と言えるほど仲がよかった。
 牛田宅の部隊長会には、いつも室長は一番乗りだった。
 「お世話になります」と、家人にあいさつを済ませると、玄関前に立つ。仕事を終えて急ぎ足で駆けてくる一人一人に、ねぎらいの声を掛けていく。
 午後7時になった。
 4畳半の仏間には15人ほどが、ギュウギュウに詰めている。その中央に室長と牛田がいた。
 牛田は理論家である。成果の上がらない悩みに対し、理路整然と教える。「いいかい、わかったかい」と、さとすような口調が常たった。
 一方、室長は広布の情熱を打ち込んだ。
 「戸田先生は折伏の師匠です。戸田先生に呼吸を合わせれば、必ず達成できます!」
 世田谷のアパートの一室から、75万世帯達成へのエンジンが、大きくうなりを上げていった。
        ◇
 60年(昭和35年)5月3日、池田第三代会長が誕生する。300万世帯達成の目標が掲げられた。
 牛田は「新会長の一兵卒となって力の限り戦い抜きます」と誓う。
 池田会長は、会員数を掌握する統監部の部長に牛田を就けた。
 2年半後の62年(昭和37年)11月下旬の夜である。
 あの冷静沈着な牛田が、珍しく息を弾ませて聖教新聞社の一室に飛び込んできた。
 「池田先生、ついに達成しました。学会は300万世帯になりました!」
 打ち合わせ中の池田会長が顔を上げ、目を光らせた。
 「そうか!」
 戸田会長は75万世帯を達成した。
 池田会長は300万世帯を成し遂げた。
 創価の第二代、第三代会長の誓願達成に、世田谷の牛田は尽くしぬいた。

私なら10倍になる
 せいろで蒸した餅米が、臼の中から白い湯気を上げている。杵をもった男が丁寧に練り、ころ合いを見て、つき始めた。
 81年(昭和56年)12月27日、赤堤にある世田谷文化会館で「餅つき大会」が始まった。昼過ぎ、名誉会長が車で会館に現れると、歓声が上がった。
 「一緒に、写真を撮りましょう」
 名誉会長は、できたての餅をほおばる一人一人に声を掛けては、カメラに納まっていく。撮影後、3階の一室へ入った。そこには世田谷区の幹部が並んでいた。
 成城の文化人宅、下高井戸の日大グラウンド、奥沢の座談会、桜丘の東京農業大学での記念撮影会、砧にある東宝撮影所……。
 名誉会長は世田谷の地をくまなく駆け、会員の人情や気質を知悉していた。
 「私が指揮を執れば、世田谷を10倍にできる」
 こんな指導を残した。
 「釣り鐘を揺り動かそうとするとき、どうすればいいか知っているかい」
 指一本で釣り鐘を動かした寓話を示した。
 「みんなは、釣り鐘の上の根本を力任せに押そうとしている。だから動かない。広がった下の部分をポンと突く。粘り強く押し続ければいい。それで波動は起きる」
 急所を突け──最前線の会員を力づければ、10倍の勢いが出る。そのことを教えたのである。
        ◇
 会館2階の大広間では、役員が餅つき大会の後片づけを始めていた。
 坂巻一徳は、脚立の上に乗って、高く張り出されていた横断幕の撤去にかかった。
 ガラガラガラ……。横断幕の下の扉が開いた。坂巻には顔が見えない。
 「危ないですよ」と呼びかけようとすると、響くような声が返ってきた。「ありがとう! おかげさまで、大成功だったよ」
 横断幕をくぐって、名誉会長が顔を出した。あまりの緊張に坂巻は脚立の上で固まっている。名誉会長は見上げながら言った。
 「陰徳あれば陽報ありだ。陰で戦う人を守ってあげられる人になりなさい」

「玉川」の揮毫
 「これから、池田先生がいらっしゃいますので」
 先発の役員が息を切らして等々力の玉川会館に駆け込んできた。82年(昭和57年)11月8日の午前11時である。
 玉川地域は、第1次宗門事件で苦しみ、悔しい思いをしてきた。
 会館を清掃する「守る会」委員長の船橋京子は、大あわてで出迎えの態勢を整えた。名誉会長は会館に入るなり、次々と激励の手を打っていく。そばの人に「硯と墨を」と伝えた。
 船橋は、いつ来館してもいいようにと用意されていた一式を抱え、急ぎ足で持っていった。
 名誉会長は腕まくりをし、サッと揮毫を認めた。
 「玉川桜」「玉川山」「玉川光」……。あっという間に、揮毫は30枚におよんだ。
 終了後、役員の一人が、名誉会長が書き終えた筆を持ち上げると、筆の胴体から毛の部分がポロッと落ちた。
 「こんなにも、強く書いてくださっていたんだ。命を削るとは、こういうことなんだ」
 玉川の攻勢が始まったのである。

富士を仰いで
 「こうした記念室も、すべて戸田先生がおっしゃった構想なんだ」
 名誉会長は、改装された世田谷文化会館の恩師記念室で、牧口会長、戸田会長の写真を見つめていた。第三代会長を辞任して間もない79年(昭和54年)10月17日のことである。
 名誉会長は静かに語った。
 「太陽も沈む時があるんだよ。皆、さびしいだろうな」
 「行き詰まったら、歴代の会長の精神を思い、戦っていくんだ」
 2階には、婦人部の「新世紀合唱団」がいた。
 「今日も元気で」のメロディーが流れている。「先生、先生」と声を上げ、師匠と苦楽を共にしていく、朗らかな前進の歌である。
 名誉会長は、じっと耳を澄ます。「一番、婦人部の心を感じる。いい曲だ」
        ◇
 同日、世田谷文化会館を出た名誉会長は、国道246号線沿いの喫茶店に向かった。
 駒沢の会員が経営する店である。地元メンバーが詰めかけていた。
 溝口佳子は名誉会長に、また会館に訪問してもらえるように、お願いした。
 名誉会長は、何か忘れていないかというような口調になった。
 「歌があるじゃないか」
 溝口は、はっとした。前年に世田谷の歌「地涌の旗」が生まれている。
 名誉会長は、きっぱりと言った。「世田谷は、あの歌を歌っていきなさい!」
 「地涌の旗」は、東京各区の愛唱歌のなかでも、名誉会長自身が作詞した数少ない歌である。

 ♪おお共に見よ
    あの富士を
  悠久厳たり わが心
  世田谷山も 厳たりき
  嵐に勝利の この我は

 世田谷は師とともに!
 いざ、勝利の峰へ!
2009-05-15 : あの日あの時 :
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