5・3記念代表者会議

5・3記念代表者会議 ①
         (2009.5.3 東京牧口記念会館)

千万の 同志と共に 万歳を 五月三日の 広布を祝いて

生き生きと!万物が躍動する5月
青年の心で前へ前へ!
世界が讃嘆! 我らは平和 文化 教育に貢献


 一、大波に揺れるごとく、若葉、青葉に包まれた“牧口山”を見つめながら、晴れの5月3日の記念の会議、本当におめでとう!(大拍手)
 一千万の同志の幸福を願い、祈りつつ、さまざまな議論を交わしていきたいと思う。
 代表の方々ご苦労さま!
 はじめに、3首の和歌を記念に贈りたい。

 勝ちにけり
  広布の法戦
    晴ればれと
  一千万の
   同志《とも》を見つめて

 苦楽をも
  生死も共に
    決意せる
  世界で指揮 執る
   皆に幸福《さち》あれ

 千万の
  同志と共に
   万歳を
  五月三日の
   広布を祝いて

嵐に立ち向かえ
童話王の信念
苦難は私たちの船を進める風


正義を叫べ 真実を語れ
御聖訓
「声仏事を為す」「いよいよ声を上げて」
アンデルセン
鍛えた言葉は炎の剣となる


 一、本年3月、私は皆様方を代表して、北欧の名門デンマーク・南大学から「名誉博士号」を拝受した。
 〈世界の大学・学術機関から250番目となる名誉学術称号の栄誉。現在、池田名誉会長は、「254」の名誉学術称号を受章している〉
 そのメダルには、デンマークの誇る3偉人である、大教育者グルントヴィ、哲学者キルケゴール、そして童話王アンデルセンの肖像が刻まれていた。
 ここで、アンデルセンの箴言を、いくつかご紹介したい。
 「人生という学校は人を向上させるところ以外のなにものでもありえない」(鈴木徹郎訳『アンデルセン小説・紀行文学全集9』東京書籍)
 人間として向上しゆくために信心がある。
 そして、一生成仏という究極の向上の道こそが、学会活動である。仏道修行である。
 また、アンデルセンは「苦難は私たちの船を進める風」との諺を胸に刻んでいた(鈴木徹郎訳『アンデルセン小説・紀行文学全集4』東京書籍)
 仏法の「煩悩即菩提・生死即涅槃」の法理とも響き合う。
 御書に「難が来《く》ることをもって、安楽であると心得るべきである」(750㌻、通解)と仰せのように、広宣流布も、人生も、難と戦うからこそ、偉大な前進があるのだ。
 アンデルセンは確信していた。
 「ことばは鍛えぬかれて、風を切る矢ともなれば炎の剣にもなる」(鈴木徹郎訳『アンデルセン小説・紀行文学全集6』東京書籍)
 「声仏事を為す」(御書708㌻)である。
 ともあれ、しゃべることだ。語ることだ。叫びきることだ。
 その言論の力が、邪悪を破り、正義を宣揚する宝剣となる。
 そして、アンデルセンは綴った。
 「青春の心は未来そのものである」(鈴木徹郎訳『アンデルセン小説・紀行文学全集8』東京書籍)
 わが青年部よ、創価の未来を君たちが切り開いていくのだ!
 一、英国の桂冠詩人テニスンは晴れやかに謳った。
 「吹奏せよ、太陽は五月に強くなるから。
 吹奏せよ、太陽は日ごとに力を増大するから」(清水阿や訳『全訳 王の牧歌12巻』ドルフィンプレス)
 本当に、その通りである。「5月の太陽」は、一日また一日、光を増していく。勢いに満ち満ちている。

トインビー博士からの「招待状」
 一、思えば、20世紀最高峰の歴史学者であるトインビー博士と、ロンドンのご自宅で対話を開始したのも、5月であった。
 〈1972年5月と翌73年の5月に行われた語らいは、対談集『21世紀への対話』に結実した〉
 トインビー博士から40年前にいただいた招聘のお手紙には、「こちらでは麗らかな春を迎える5月が、お越しいただくには最もよい時期かと思っています」と記されていた。
 わが創価の師弟の太陽も、「5月3日」の朝が巡り来るたびに、元初の生命の旭光を放ちながら、いや増して強く明るく勝ち昇りゆくのだ。
 一、なお、懐かしきイギリスの「タプロー・コート総合文化センターでは、先日(4月29日)、伝統の地域友好の集いが盛大に行われた。
 タプロー・コートには、1897年にタイ王国のチュラロンコン大王が長期滞在されている。大王は、私が幾度も語らいを重ねたプーミポン国王の祖父君であられる。
 そのご縁から、友好の集いには、タイ王国のワシノン駐英大使ご夫妻も出席してくださった。
 さらに、近隣のスラウ市のザラット市長などの要人、そして近しい市民の方々も、多数、お見えになられたとうかがった。まさに千客万来である。
 学会の会館は、わが地域に、信頼と希望の光を広げている。
 ここ東京牧口記念会館のある第2総東京でも、昨年4月に堂々たる東村山文化会館、本年3月には素晴らしき三鷹平和会館が誕生した。そして、世界の模範である特区・町田にも、今秋、待望の町田平和会館がオープンする予定だ。
 地元の同志からの歓喜の報告も、すべてうかがっている。私は、学会員の皆様が喜び、満足していただけるように、いつも陰ながら手を打ってきた。
 わが誉れの広布の宝城から、友情を大拡大していただきたい。
 第2総東京の皆さん、頼むよ!(大拍手)
 一、創価の「平和」と「文化」と「教育」の前進を、全世界の友が祝賀してくださるなか、「5月3日」を飾ることができた。うれしい限りだ。
 全国の多くの尊き同志が、学会本部にもお越しくださっている。

 晴れ晴れと
  広宣流布の
   本陣は
  今日も賑やか
   英雄 来たりて

 同志の皆様方に題目を送りながら、深き感謝と敬意を込めて和歌を捧げたい(大拍手)。

今、躍り出る時!
 一、日本の暦で、童謡でも歌われ親しまれてきた「八十八夜」とは、立春から数えて88日目。毎年、5月の2日ごろに当たる。
 このころには、霜もなくなり、気候も安定し、茶摘みや田植えを始める節目とされる。
 わが農漁村部の友も、忙しさが増しゆく時期だ。ご健康、ご活躍を、そして豊作、大漁であられることを、私と妻は真剣に祈っている。
 ともあれ、5月の3日は、天然のリズムの上からも、生きとし生けるものが、いよいよ躍動していく不思議な時といってよい。
 躍動といえば、御聖訓には、「上行菩薩が大地から出現された時には、踊って出現されたのである」(御書1300㌻、通解)と仰せである。
 地涌の陣列の先頭に立つ大指導者の上行菩薩は、大地から喜び勇んで、躍り出たと説かれているのである。
 一、私は、わが永遠の師匠・戸田城聖先生が第2代会長として勇躍の指揮を執り始める時として、この5月3日こそがふさわしいと定めていた。
 それは、時代の不況の波浪を受けて、戸田先生の事業が暗礁に乗り上げた試練の渦中での誓願であった。
 先生が経営を担っておられた事業が、業務停止となった。債権者の浴びせる怒号と罵声が、事務所に響く日が続いた。
 先生は、この業務停止にともない、さらに厳しい責任を問われかねない状況にあった。
 あの豪毅な先生が、樵悴し切って、死さえ覚悟されていたのである。
 同志の心も、揺れに揺れていた。
 大恩ある先生を蔑み、悪口する者もいだ。窮地から逃げ去る、浅ましき恩知らずの姿もあった。
 スペインの作家ティルソ・デ・モリーナが、「卑怯者は臆病なればこそ卑怯者と知れ」と喝破した通りの人間模様であった(岩根圀和訳「セビーリャの色事師と石の招客」、『スペイン中世・黄金世紀文学選集7 バロック演劇名作集』所収、国書刊行会)
 先生は、事業の失敗の影響が学会に及ぶことを憂慮し、理事長も辞任された。いな、辞任させられた。
 先生の辞任を狙っていたかのように、自分が学会を牛耳り、わがものにしようとする野心家の蠢動が始まったのだ。
 四面に楚歌が響く中、私は、ただ一人、先生をお護りするため、師子奮迅の力で戦い抜いた。
 私は、心に誓っていた。
 「先生の負債は、私が働いて、すべて返してみせる。そして先生には、理事長に戻っていただくのでなく、空席になっていた会長に就任していただこう!
 初代会長であられた牧口先生の後を継いで、第2代の会長として、戸田先生に必ずや、広宣流布の指揮を晴れ晴れと執っていただくのだ」
 明日をも知れぬ、それはそれは、悪戦苦闘の連続であった。
 しかし、その厳寒の真冬のさなかにあって、私が一つの希望の目標として、祈りを定めていたのが、「5月の3日」であったのだ。

新たな師子吼を
 一、なぜ、5月の3日なのか。
 戦時中、創価教育学会としての最後の総会が行われたのが、昭和18年の5月の2日であった。〈東京・神田の教育会館に700人が集った〉
 この日この時、初代の牧口先生は、「宗教の研究法」と題した講演で、国家諌暁の精神を訴えていかれた。
 ほとんどの会合が特高刑事の監視下で行われ、国家権力の弾圧が激しくなっていた時期である。
 そのような嵐の中で、牧口先生は、わが学会は発迹顕本せねばならぬと烈々と叫ばれた。
 牧口先生と戸田先生が不当に捕らわれ、投獄されたのは、その2カ月後のことである。
 殉教のわが先師の正義の師子吼が刻まれた、最後の創価の総会の日が、5月2日であった。
 ならば、その次の日に当たる「5月3日」を、新生・創価学会の「発迹顕本」の出発とするのだ──。
 私は、戸田先生と同じ巌窟王の心で、誓い定めていたのだ。
 一、昭和26年の5月3日、晴れの第2代会長の就任式が一切、終了したあと、戸田先生は私に、そっと言われた。
 「すべて、おまえのおかげだよ。ありがとう!」
 先生の目には光るものがあった。
 そして先生は、その翌年の昭和27年、会長就任1周年に当たる記念の5月3日を、あえて、愛弟子の結婚の日に選んでくださったのである。
 この5月の3日には、三代の師弟の「報恩」、そして「後継」の深き意義が、幾重にも込められている。

「75万世帯の大願を必ず成就してみせる」
わが心は師と共に
師弟不二こそ絶対勝利の力


5・3の大宣言
 一、第2代会長の就任式で、戸田先生は大宣言なされた。
 「75万世帯の折伏は私の手でいたします」
 「もし、私のこの願いが、生きている間に達成できなかったならば、私の葬式は出してくださるな」
 しかし、当時の弟子たちは、師匠が人生の大願を語られた、この重大発表を夢物語として聞き流した。
 これは、当時の聖教新聞にも、掲載されなかった。
 小才子の傲慢な幹部が、できもしない目標を後世に残せないと記事にさえしなかったのである。
 戸田先生が会長に就任された5月、A級支部でさえ、一カ月の折伏目標は、50世帯であった。
 しかし、何があろうとも、師の構想を実現するのが、弟子の道ではないか。
 戸田先生の願業は、そのまま弟子たる私の誓願となった。断じて成し遂げねばならぬ、わが使命となった。
 だが学会の弘教は、まったく進まなかった。いな、心の中では皆が諦めていた。
 古参の幹部は、低迷の分厚い壁を前に嘆息するばかりであった。
 しかし、その中にあって、私は満を持して、蒲田支部幹事として、広宣流布の主戦場に躍り出た。
 それは、昭和27年(1952年)の厳寒の2月、戸田先生が52歳となられるお誕生の月であった。

東京が大行進!
 一、御聖訓には、「師弟相違せば なに事も成《なす》べからず」(御書900㌻)と仰せであられる。
 私は、先生の心を叫び抜いた。師弟の道を訴え続けた。
 広宣流布の師匠の魂に心が融合する時、地涌の菩薩の智慧と勇気の生命が、わが胸中にも、わき起こるからだ。
 先生にお応えせんと、わが同志は私と共に、心を入れ替え、勇み走ってくれた。
 そこには、歓喜があった。希望があった。
 ロマンがあった。勢いがあった。
 誰もが、じっとしてなどいられなかった。
 そして、わが蒲田支部は一挙に「201世帯」という未聞の拡大を成し遂げた。
 「やれば、できる」──75万世帯への誓願実現の突破口は、ここに決然と開かれたのだ。
 蒲田は勝った!
 ふるさと東京の勝利の大行進が始まったのである。
 一、法華経には、仏の力用として、「知道」「開道」「説道」と記されている。妙法を持った我らは、「道を知り」「道を開き」「道を説く」力を発揮していけるのだ。
 戸田先生の直弟子として、私は、城東へ、文京へ、札幌へ、大阪へ、関西へ、山口へ、中国へ、荒川へ、葛飾へと走りに走った。
 行くところ、向かうところ、新たな光り輝く広宣流布の大道を開拓し、常に断固として師弟勝利の旗を打ち立てていった。
 すべてが、困難このうえない戦いの日々であった。容易な戦いなど一つもなかった。
 不可能を可能としゆく、「まさかが実現」の戦いであった。

最大の勝因は
 一、その最大の勝因は、いったい何であったか?
 それは、ひと言で言うならば、いついかなる時も、わが心が師と共にあったことだ。
 私は、一切を先生に報告し、指導を仰いだ。最寄りの目黒の駅で降りて、駆け足で先生のご自宅に向かったことも数知れない。
 また“先生ならば、どうされるか”を常に考えた。
 先生が今、私を見たら、何と言われるか?
 胸を張って、ご覧いただける自分であるかどうか。
 私はいつも、そう己に問うてきた。
 渾身の力で戦い抜く、わが心には、「よくやった!」と笑みを浮かべて頷いてくださる先生の顔が光っていた。
 とともに、「まだまだだ!」と厳しく叱咤される師の雷鳴が、いつも轟いていた。

祈りと行動こそ
 一、私は、来る日も来る日も、自分自身に強く言い聞かせていたのである。
 「仏法は勝負である。ゆえに、敗北は罪である。負ければ、先生の広宣流布の構想を頓挫させることになる。断じて負けてはならない。絶対に勝利の報告をするのだ」
 その一心不乱の「祈り」が、力となり、智慧となった。
 その勇猛精進の「行動」が、活路を開き、諸天善神を動かした。
 ただただ、先生に喜んでいただきたい!。
 その誓いの一念だけで、来る年も来る年も走りに走った。
 前進!
 前進!
 前進!
 勝利!
 勝利!
 勝利!
 永劫に悔いなさ弟子の赤誠を、私は貫き通した。
 師弟の共戦は、あらゆる試練を乗り越え、勝ち越えて、昭和32年の12月、遂に学会は、75万世帯を達成した。
 先生の大願は完璧に成就されたのである。
 師匠の挑戦は、弟子の挑戦である。
 弟子の勝利は、師匠の勝利である。
 そして「師弟」の栄光は、「永遠」の栄光である。
 病の床で、先生は、わが手を握り締めて言われた。
 「良き弟子を持って、わが人生は所願満足だ。牧口先生のもとへ、胸を張って還れるよ。ありがとう!
 大作、私の分まで生き抜いてくれ! そして、世界の広宣流布を頼む」
 そこには、熱い涙があった。

衝撃の言葉
 一、先ほども申し上げたが、戦時中、戸田先生は、師・牧口先生に獄中までも、お供された。
 当時の状況を考えれば、師匠のために命を捨てたも同然の行為であったといっていい。
 さらに出獄後、戸田先生は、獄死された牧口先生を偲ばれ、「あなたの慈悲の広大無辺は、私を牢獄まで連れていってくださいました」と感謝を述べられたのである。
 ”仏法の師弟とは、これほどまでに厳粛なのか”──若き私には衝撃であった。
 そしてまた、私も真実の弟子になろうと決めて、戸田先生にお仕えしていった。
 それはそれは、壮絶な訓練であった。
 叱られてばかりであったが、偉大な師匠から厳しく訓練していただいたことは、今、振り返ると、最高の思い出となっている。私は本当に幸せであった。
 一、仏法の根幹は、「師弟」である。
 なかんずく、「師弟不二の祈り」である。
 大聖人は仰せだ。
 「弟子と師匠が心を同じくしない祈りは、水の上で火を焚くようなものであり、叶うわけがない」(御書1151㌻、通解)と。
 いくら祈っても、師弟が心を合わせていかなければ、祈りは叶わないとの御断言である。
 反対に、師弟の祈りが不二であれば、断じて祈りは叶う。絶対に不可能をも可能にしていくことができる。
 これが仏法の方程式である。

命を燃やせ!
 一、ともあれ、天台大師の「法華玄義」には、「法華折伏・破権門理」──法華の折伏は、権門の理を破す──と明言されている。
 大聖人も「日蓮は折伏を本とし」(御書867㌻)と断言なされている。
 この仰せの通りに、創価の師弟は「折伏精神」を燃え上がらせて、ありとあらゆる中傷批判の悪と戦い抜いてきたから、勝ったのである。
 広宣流布のいかなる戦いも、その勝利の要諦は「折伏精神」という決意が燃えているか、どうかだ。
 社会的な立場や学歴では人間は決まらない。“折伏の一兵卒”が偉大なのだ。
 真剣に学会活動に励む人こそが、三世に輝く生命の王者なのである。
 「これから後《のち》も、どのようなことがあっても、少しも信心が弛んではならない。いよい声を張り上げて責めていきなさい」(同1090㌻、通解)
 この大聖人の厳命のままに、正義の攻撃精神を燃えたぎらせていく限り、学会は負けない。永遠に負けない。
2009-05-06 : スピーチ・メッセージ等 :
Pagetop
« next  ホーム  prev »

プロフィール

fmiokun

Author:fmiokun
FC2ブログへようこそ!

最近のトラックバック

月別アーカイブ

カテゴリー

メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

ブログ内検索