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11・18「創価学会創立記念日」祝賀 世界広布新時代第8回本部幹部会へのメッセージ

11・18「創価学会創立記念日」祝賀 世界広布新時代第8回本部幹部会へのメッセージ
       (2014.11.8 東京戸田記念講堂)

 栄光の11・18「創価学会創立記念日」を祝賀する「世界広布新時代第8回本部幹部会」が8日午後、「SGI(創価学会インタナショナル)総会」の意義を込め、巣鴨の東京戸田記念講堂で晴れやかに開催された。これには、原田会長、正木理事長、杉本婦人部長をはじめ各部の代表が、55カ国・地域250人の友と出席。池田大作名誉会長はメッセージを贈り、創価の師弟の正義の魂を胸に、歓喜と凱歌の大行進をと呼び掛けた。さらに、小説『新・人間革命』の連載を再開。第28巻第1章を「広宣譜」の章として、本紙11月18日付からスタートすることが発表された。
 さあ、世界広布新時代の「開幕」から「躍進」へ!
 創価の友が新たな船出を開始する本部幹部会では、音楽隊・鼓笛隊の代表が“日本一”の報告と決意を携え、壇上に登場した。
 大勝利の創立記念日と“文化の旗手”たちの凱旋という二重の喜びに沸く参加者。万雷の拍手で互いの健闘をたたえ合う。
 席上、関西吹奏楽団の吉村陽一楽団長と、創価グランエスペランサの信平里香団長があいさつ。本年7月に開館した音楽隊・鼓笛隊の練習拠点「創価青年音楽センター」(東京・東大和市)の施設が映像で紹介された。
 次に、創価グロリア吹奏楽団が「祝典序曲『1812年』」(チャイコフスキー作曲)を披露。皆で心一つに「11・18」を祝福した。
 今や広宣流布は世界同時進行! あの国でも、この国でも創価の同志が活躍する。


メッセージ

世界の創価家族と共に躍進!
師子奮迅の大生命力を燃やせ

栄光の『月桂冠』を君に

御聖訓 「悪は多けれども一善に勝つことなし」 
平和と勝利の道を走り抜け


一、先日、私は、牧口常三郎先生が9年間、校長を務められた、東京・港区の白金小学校の前を通り、不滅の人間教育の足跡を偲びました。
 牧口先生は在職されていた当時、直径2メートルもある大きな地球儀を特別に作り、地理の授業で使われていたといいます。
 運動会の時に、この地球儀が桜の木につるされて、児童たちを見守っている写真も残っています。
 牧口先生は、小さな島国根性など見下ろされて、地球を包みゆく大きな心で、未来の世界市民を育てようとされていました。それは、地球民族主義を掲げられた戸田城聖先生の心でもあります。
 きょうは、世界55カ国・地域から「創立の月」を祝賀して集われた平和の指導者の皆さん方を、両先生の肖像もひときわ晴れ晴れと迎えておられます。
 海外の皆さん、ようこそ、お越しくださいました。本当にご苦労さまです!(大拍手)

自他共の幸福を
 一、日蓮大聖人は、厳然と仰せになられました。
「仏法と申すは勝負をさきとすべし」(御書1165㌻)。
 また曰《いわ》く「仏法と申すは道理なり道理と申すは主に勝つ物なり」(同1169㌻)。
さらに「悪は多けれども一善に勝つ事なし」(同1463㌻)と断言されております。
まさに大聖人は、人類に「絶対勝利の信心」を教え残してくださいました。
すなわち、いかなる宿命にも負けない。
 いかなる権力の魔性にも屈しない。
 いかなる災難の試練にも怯まない。
そして、一人一人が人間革命をして、自他共に幸福を勝ち取りながら、世界の民衆が連帯して、「生命の尊厳」を、「正義の凱歌」を、「平和の大歓喜」を謳い上げていく法理を明かしてくださったのであります。
 この日蓮仏法の真髄の道を、創立以来84年、わが創価学会は走り抜いてきました。
 ここ東京戸田記念講堂が立つ巣鴨は、牧口先生と戸田先生が、軍国主義と対峙して、獄中闘争を貫かれ、魂魄を留められた天地であります。
この地で獄死された牧口先生は、ご家族への最後のお手紙で、他の学者たちが成し得なかった「創価(価値創造)」の哲学を打ち立て、法華経の信仰によって数千人に実証を示せたことを、「自分ながら驚いている」と記されております。
命に及ぶ大難にありながらも、牧口先生の胸奥には、何ものにも侵されない金剛不壊の生命の勝ち鬨が轟きわたっていたのであります。それは、崇高なるご生涯の「所願満足」の大勝利の宣言でありました。
 とともに、牧口先生は、正しいからこそ「三障四魔が紛起するのは当然で、経文通りです」とも綴られております。
 人間を不幸にし、民衆を虐げ、世界を分断する魔性とは、どこまでも戦い抜く、未来永遠にわたる大闘争宣言を、私たち弟子に託してくださったといってよいでありましょう。
 牧口先生の殉教より70年――。
 先生を呼び出された「地涌の菩薩」の陣列である我らは、この創価の正義と勝利の誇り高き魂の襷を、永久に受け継いでいくことを、ここに固く誓い合おうではありませんか!(大拍手)。

負けじ魂を胸に
 一、この1年、後継の男女青年部も、見事な人材の拡大と育成を成し遂げ、頼もしく大成長してくれました。皆、よくやった! ありがとう!
  一緒に祈り、語り、学び、真心こめて激励し、応援してくださっている太陽の婦人部の皆さん、黄金柱の壮年部の皆さんに、心から御礼申し上げます。
 創価同窓の友の目覚ましい活躍も、うれしい限りです。
 思えば、創価大学の草創期、グラウンドで必死にスポーツの練習をしている学生たちを励ましたことがあります。
 「君たちは、伝統もない、誰の応援もない中で、泥だらけになって、走り、鍛えている。いつの時代も、新しい道を開くことは死闘だ。しかし汗にまみれ、泥にまみれながら挑戦し、開拓していくところに真実の栄光があるんだよ」と。
 この創価の負けじ魂は、今も熱く脈々と流れ通っています。
 悲願であった、創価大学陸上部の箱根駅伝への初出場、本当におめでとう!(大拍手)
 執念の努力、そして究極の友情と団結の勝利を、私たちは最大に讃え、健闘を祈りましょう。

メロスのごとく
 一、私も力の限り、走り戦います。
 小説『新・人間革命の』執筆も、第28巻に入り、今月の18日、創立記念日から連載を再開いたします(大拍手)。
 第1章のタイトルは「広宣譜」。
 昭和53年(1978年)の6月、「広布に走れ」の発表から始まります。嵐に立ち向かい、新たな学会歌の歌声を響かせて、我と我が友で刻んだ広宣流布の「共戦譜」を描いていきます。
 21世紀を託す未来部に「正義の走者」の歌を作ったのも、この年の7月です。
 その2番には。こう綴りました。

「君も負けるな
 いつの日か
 共々誓いし
 この道を
 嵐も吹雪も
 いざや征け
 これぞメロスの
 誉れなり……」と。

 絶対に同志を裏切らない。
 断じて誓いを手放さない。
 我らは、創価の誉れのメロスとして、友のため、法のため、地域のため、社会のため、世界の平和のために、最後の最後まで、断固として走り抜き、走り切っていこうではありませんか!
 私は、けなげな全同志の頭《こうべ》に、1人また1人、勝利と栄光の月桂冠をかぶせて差し上げたいという思いで、題目を送り続けてまいります。
 一、明年の1月には、SGIの発足より40周年を迎えます。
さあ、きょう、ここから、世界の創価家族と共に、皆で、明るく仲良く賑やかに、広布と人生の躍進のスタートを切ろうではありませんか。
 皆、風邪など、ひかれませんように!
 師子奮迅の大生命力で勝ち進もう!(大拍手)
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2014-11-10 : スピーチ・メッセージ等 :
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池田SGI会長指導選集 「幸福と平和を創る智慧」 第1部 第6章 6-1〜6-6

 第6章 生死《しょうじ》と向き合う

 この章を読むに当たって

 人は何のために生きるのか。真に価値ある生とは何か。そして、人は死んだらどうなるのか。死とは何か──。
 日蓮大聖人は「先《まず》臨終の事を習《なら》うて後に他事《たじ》を習うべし」(御書1404㌻)と仰せです。誰人《たれびと》も避けられない死の問題と真正面から向き合ってこそ、真に幸福な人生を確立することができると訴えています。
 仏教の精髄である法華経では、生命は、今世限りのものではなく、永遠に続いていくと説いています。大聖人は、この法華経の生命観を踏まえ、妙法と一体となった生命は、あらゆる生死《しょうじ》の苦しみを超えて、永遠に仏界の大道を進んでいくことができると教えました。
 池田SGI会長は、この日蓮仏法の哲理を、「生も歓喜」「死も歓喜」という壮大な生死観として現代に展開しています。そして、一生成仏という、今世の生を最も価値的に生き抜いていく道を、明快に示してきました。
 「死を排除するのではなく、死を凝視し、正しく位置づけていく生命観、生死観、文化観の確立こそ、21世紀の最大の課題となってくる」(ハーバード大学記念講演「21世紀文明と大乗仏教」、抜粋を付録に掲載)とのSGI会長の洞察は、いよいよ大きな光を放っています。

 6-1 絶対的幸福への軌道

 生老病死の苦悩を乗り越え、永遠の幸福境涯を築くためには、今世で一生成仏を実現することが大事であり、そのためにも、成仏への「軌道」を離れず、忍耐強く進むことが重要であると訴えています。

【池田SGI会長の指針】
◎ニューヨーク文化会館の集いでのスピーチから
 (1996年6月15日、アメリカ)

 信仰は何のためにするのか。それは、「だれよりもすばらしい人生」を生きるためである。だれも避けられない「生老病死」の苦悩を、悠々と乗り越えるためである。
 「生」──人生、生きねばならない。何があろうと、生きぬかなければならない。あらゆる悩みを乗り越え、あらゆる苦難を乗り越え、どのように力強く、毎日毎日を生きていくか。そのための偉大なる生命力をあたえてくれるのが妙法の信仰である。
 何のために生まれたのか。それがわからない無価値な人生ではつまらない。目的観もなく、ただ「何となく」生き、食べ、むなしく死んでいくのでは、次元の低い動物的人生ではないだろうか。
 そうではなく、人のため、社会のため、自分のために、何かを為す。何かを創る。何か貢献する。そのために、生ある限り、一生涯、挑戦しぬいていく。それでこそ「充実の人生」である。「価値の人生」である。人間らしい「高次元の生き方」である。そして、妙法の信仰は、そのなかでも最高の価値を、人のため、自分のために創造できる原動力なのである。
 「老」──人生、あっという間に過ぎてしまう。またたく間に、老人となり、体力も衰える。あちこち故障も出てくる。
 そのときに、わびしく、寂しい老人になるのではなく、秋の黄金《おうごん》の実りのような豊かな自分自身となるための信仰である。大いなる夕日は、天地を荘厳に染めて輝きわたる。その”輝きの光景”のような老年を、後悔なく、にっこりと迎えるための信仰なのである。
 「病」──生身《なまみ》の体である。だれしも、何らかの病気の苦しみがある。
 その病苦を、たくましく克服する力をわき出す妙法である。
 日蓮大聖人は「南無妙法蓮華経は師子吼の如し・いかなる病さはり《障》をなすべきや」(御書1124㌻)──南無妙法蓮華経は獅子が吼えるようなものである。いかなる病気が障害になろうか(否、どんな病気にも負けず、乗り越えることができる)──と仰せである。
 また、病気になろうと、どんな境遇になろうとも、広宣流布に生きる人を必ず御本仏は守ってくださる。諸仏・諸菩薩・諸天がこぞって、その人を守る。
 大聖人は、こう約束してくださっている。
 「此の良薬を持《たも》たん女人《にょにん》等をば此の四人の大菩薩・前後左右に立《たち》そひて・此の女人たたせ給へば此の大菩薩も立たせ給ふ乃至此の女人・道を行く時は此の菩薩も道を行き給ふ、譬へば・かげと身と水と魚と声とひびきと月と光との如し」(御書1306㌻)
 ──この良薬(御本尊)を信受する女性等を、この四人の大菩薩(地涌の菩薩のリーダーである上行《じょうぎょう》・無辺行《むへんぎょう》・浄行《じょうぎょう》・安立行菩薩《あんりゅうぎょうぼさつ》が、前と後ろ、右と左に立ち添って、この女性が立たれたならば、この四大菩薩もお立ちになる。そのようにして、この女性が道を行くときには、この菩薩も道を行きます。たとえば「影と身」「水と魚」「声と響き」「月と光」とのように、決して離れないのです──。
 このように、必ず守ってくださる。しかも、それが生死を超えて永遠に続くのである。
 「死」──これは厳しい。だれ人も、いつかは死に直面する。
 そのときに、妙法の軌道を行く人は、法華経(譬喩品)に説かれる「大白牛車《だいびゃくごしゃ》」という車に乗って、悠々と霊山に向かっていける。大宇宙の仏界と融合するのである。
 大白牛車は、長さも幅も高さも壮大な大きさであり、しかも、すべて金銀をはじめとする無数の宝石で飾られている。
 今世で一生成仏すれば、その「仏」の境涯は永遠に続く。
 「生死」「生死」と、生々世々、生まれるたびに、健康で、裕福で、頭もよく、最高の環境に恵まれ、福運に満ちみちた人生となる。また、自分でなければならない使命をもち、使命にふさわしい姿で生まれてくる。それが永遠に続く。もう二度と壊れない。
 この「永遠の幸福」のために、今世で仏界を固めなさい、仏道修行に励みなさい、というのである。私が勝手に言うのではない。大聖人が、そう言っておられるのである。
 ゆえに、ともかく成仏への「軌道」を離れないことである。
 広宣流布、仏道修行の「軌道」を忍耐強く、前へ前へと進むことである。
 時にはいやになったり、休みたいこともある。私どもは凡夫であるゆえに、それも当然であろう。
 大事なことは、ともかく「軌道」を離れないことである。忍耐強く、励ましあいながら、「仏の道」を歩み続けることである。
 「軌道」を外れたら、車でも、飛行機でも事故を起こす。
目的地にも着けない。人生は、不幸へと墜落していってしまう。目には見えないが、「生命の軌道」がある。「絶対的幸福への軌道」は厳然と存在する。それが妙法の軌道である。
 退転することなく、この道を歩み通せば、必ず最後には、物心ともに「所願満足」の人生となっていく。

 6-2 死が人生の意味を高める

 「死」をどう見つめるか。ここでは、死から目をそらすのではなく、生死という根本の一大事を正しく見据え、死の重みを意識していくことが、人生を高める契機になると訴えています。

【池田SGI会長の指針】
◎『法華経の智慧』から
              (第4巻、1998年12月刊)

 人間はだれしも、「いつかは」自分は死ぬと知っている。しかし、あくまで「いつかは」であって、まだまだ先のことだと思っている。青年はもちろん、年をとっても、否、年をとればとるほど、「死」から目をそらす場合がある。
 しかし、人生の実相はどうか。じつは人間、次の瞬間には死んでいるかもしれない。
 地震、事故、急病その他、死の可能性は「いつでも」あるのです。それを忘れているだけです。
 「死は自分の前にあるのではない。死は背中から自分に近づいてくる」と言った人がいる。
 「いつか頑張ろう」「これが終わったら頑張ろう」と思っているうちに、あっという間に年月は過ぎ去ってしまう。気がついてみると、何ひとつ、生命の財宝を積まないで、死に臨まなければならなくなっている。それが多くの人の人生でしょう。その時に後悔しても遅いということです。
 よく考えてみれば、死が3日後であっても、3年後であっても、30年後であっても、本質は同じなのです。ゆえに、いつ死んでもいいように、「今」を生きるしかない。
 また永遠から見れば、100年も一瞬です。文字通り、「臨終只今にあり」なのです。戸田先生も「本当は、死ぬときのために信心するんだ」とおっしやっていた。
 何が確実といって、「死」ほど確実なものはない。だから、今、ただちに、三世永遠にわたる「心の財《たから》」を積むことです。その一番大事なことを「あと回し」にし、「先送り」して生きている人が人類の大半なのです。
 生死一大事というが、生死ほどの「一大事」は人生にない。この一番の大事に比べれば、あとはすべて小さなことです。そのことは「臨終」のときに実感するにちがいない。
 多くの人の死をみとってきた、ある人が言っていた。
 「人生の最期に、パーッと、パノラマのように自分の人生が思い出されるようです。その中身は、自分が社長になったとか、商売がうまくいったとかではなくて、自分がどんなふうに生きてきたか、だれをどんなふうに愛したか、優しくしたか、どんなふうに冷たくしたか。自分の信念を貫いた満足感とか、裏切った傷とか、そういう『人間として』の部分が、ぐわぁーっと追ってくる。それが『死』です」と。
 「死」を意識することが、人生を高めることになる。「死」を自覚することによって、「永遠なるもの」を求め始めるからです。そして、この一瞬一瞬を大切に使おうと決意できる。
 もし「死」がなかったら、どうなるか。さぞかし人生は間のびして、退屈なのではないだろうか。
 「死」があるからこそ、「今」を大切に生きようとするのです。現代文明は「死を忘れた文明」と言われる。それが同時に「欲望を野放しにした文明」となったことは偶然ではない。一個人と同じく、社会も文明も、「生死」という根本の大事を避けていては、その日暮らしの堕落におちいってしまう。

 6-3 死苦を乗り越える仏法の生命観

 釈尊は、人間の根源的な苦しみである「死苦」と徹して 向き合うなかで、永遠の生命観に達しました。その釈尊の悟りに迫りながら、生死を見据えた仏教の本質を語っています。

【池田SGI会長の指針】
◎『生命を語る』から
               (第3巻、1974年3月刊)

 生あるものはすべて、本能的に死を恐れる。とくに人間は、自分が生という状態をやめるとき、そのかなたにいったいどんな世界があるのかと考えることに、いいようのない恐怖を感じる。
 釈尊は、死にたくない、死を受けいれたくない、死を見つめたくないという、人間本来の本能のようなものを乗り越えて、偉大なる勇気をもって、人生の苦の相、真実相を受けいれた。そしてそのうえで、生と死の本質に対し、思索に思索を重ねたのだろう。
 仏法は永遠の生命を説くけれども、それは決して、安易に民衆の不死への願望を受けいれた理論ではない。諸行無常《しょぎょうむじょう》や、苦集滅道《くじゅうめつどう》(仏教が説く苦の原因と解決の法理)という教えは、人間が避けたがる人生の苦の相を、そのまま如実にさらけたして見せているのだと思う。空想的仮説で真実を糊塗するのではなく、冷徹な眼《まなこ》で真実を凝視した。生あるものはかならず死ぬ。この大前提をそのまま認めた。
 なぜ死ぬのか。死と生とはまったくかけ離れた存在なのか。それとも密接な関係にあるのか。生命はどのような流れがあるのか。勇気と忍耐と冷静さをもって、釈尊はみずからの生命に光をあて、その真実相を悟ろうとした。そうして得た悟りが、永遠の生命だったのです。
 生と死を、人間生命は本然のうちにもっている。生と死を交互に繰り返しながら、人間生命は雄大なうねりをもって永遠に流れている──このことを、みずからの生命の奔流のなかに釈尊はみた。
 それはもはや、生に執着するがゆえに打ち立てられた霊魂不滅のごとき思想ではなく、厳然たる、一個の生命をつらぬく因果の法則を見きわめたうえでの永遠の生命観である。
 この永遠の生命観に立って、死というものを意義づけるならば、死はむしろ生のためのものであるということになる。あたかも、眠りが次の目覚めのための休息であるようなものです。死は生のための方便である。生をより輝かせるためのものであり、生こそ生命の活動の本態《ほんたい》である。生と死とは相対立したものではなく、死はむしろ、生のためのものとして位置づけられる。これが法華経に説かれる「方便現涅槃」(釈尊の仏の生命は永遠であり、衆生に仏を求める心を起こさせるために、方便として涅槃を現じた)ということになるでしょう。
 仏教の本質は、いたずらな悲観主義、厭世観でもなければ、根拠のない楽天主義でもない。人生の苦を直視し、そこから逃避するのでなく、むしろ徹底的に取り組んだ末に到達した、生の歓喜の思想だといってもよい。苦しみから逃避して、真実の喜びはない。人が目をそむけ、逃避しようとしている苦しみを如実に知見し、それに勇敢に挑戦し乗り越えてこそ初めて、金剛不壊の、つきることなき歓喜が込み上げてくるのです。

 6-4 生と死は不ニである

 仏教は生死《しょうじ》をどう捉えるのか。法華経の哲理をもとに、「生」として顕在化し、「死」として潜在化しながら生死を無限に持続していくという「永遠の生命観」を示します。

【池田SGI会長の指針】
◎「『生死一大事血脈抄』講義」から
     (1977年4月「聖教新聞」掲載)

 生と死は、生命の変化の姿であり、逆に言えば、生と死にしか生命はあらわれないのであります。
 凡夫の眼《まなこ》には、生命は生で始まり、死で終わるとしか映らない。しかし、仏法の視点は、この限界を打ち破って、生とあらわれ、死として持続している全体を貫く「生命」そのものをとらえたのであります。
 この観点から、仏法では、生命の変化相としての生と死を、どうとらえているのでしょうか。
 法華経寿量品に「若退若出《にゃくたいにゃくしゅつ》」と説かれております。この「退《しりぞ》く」というのが「死」にあたり、「出《い》づる」というのが「生」にあたります。
 また寿量品では、永遠の生命観から、生命は、退いたり、生じたり、生まれたり、死んだりするものではない、という説き方をしておりますが、日蓮大聖人の「御義口伝」では、更に深く本有《ほんぬ》の生死、つまり本来もともとの生死であり、(本来もともとの)退出であるととらえるのが、本当の正しい生命観であると説き明かしております。
 ゆえに、生命が顕在化した状態を「生」とし、潜在化した状態を「死」ととらえ、しかも、その生死を無限に持続しているのが、生命そのものなのであります。
 生を顕在化、死を潜在化ととらえる仏法の究極の哲理は、何と、悠久、偉大な生命をみてとっていることでしょうか。
 しかも、その生と死は不二であると説いているのです。生を働かしているものは潜在化した妙《たえ》なる力であり、また、潜在化した生命は、やがて縁に触れて顕在化し、ダイナミックな生を営み、色彩豊かに個性を発揮していきます。やがて、その生は静かに退き、死へとおもむく。しかし、その潜在化は新しいエネルギーを蓄えつつ、新しい次の生を待つのであります。
 言わば、生は、それまで休息し、蓄えた生命の力の爆発であり、燃焼であり、やがてその生涯の一巻の書を綴り終えて、死におもむく。その、宇宙それ自体に冥伏し、潜在化した生命は、宇宙生命の力をそこに充電させながら、生への飛翔を待つのであります。
 これが、本来の生死であり、この宇宙本然のリズムの根源が、南無妙法蓮華経であります。

 6-5 生も歓喜、死も歓喜

 池田SGI会長は、1991年と93年の2度にわたってハーバード大学で講演をしています。この節では、93年の講演(「21世紀文明と大乗仏教」)の際に論じた仏法の生死観について触れ、広宣流布に生き抜き、絶対の幸福境涯を築いた人は、「生も歓喜、死も歓喜」という生命の軌道を進んでいけることを強調しています。

【池田SGI会長の指針】
◎各部合同研修会でのスピーチから
         (2005年8月19日、長野)

 私は、全米最高峰の学府であるハーバード大学からお招きを受け、2回、講演している。このうち、2回目の講演で論じたのが、「生も歓喜、死も歓喜」という仏法の生死観であった。
 ハービー・コックス学部長(当時)は「死に対する、今までとはまったく異なった観点を紹介してくれた」と評価してくださった。
 「死」はすべての終わりではない。「生」も、「死」も、永遠の生命の一側面である。妙法に根ざした生と死は、永遠常住の大生命を舞台としたドラマなのである。広布に戦いぬけば、必ず一生のうちに、絶対の幸福境涯を築き、固めていける。その人は、永遠に「生も歓喜」「死も歓喜」という生命の軌道を進んでいくことができる。
 生まれてくる場所も、地球だとは限らない。この広い宇宙には、生命が存在する惑星が数多くある──そう予測する研究者は少なくない。法華経には壮大な宇宙観が展開され、衆生の住する国土が、数限りなく存在することが説かれているが、それは最先端の天文学の知見とも一致するのである。善人ばかりの星もあれば、地球のように、ずるい人間がたくさんいる星もあるかもしれない。
 朝から晩まで、すばらしい音楽を聴きながら、健康で、長生きして、ありとあらゆる喜びを感じながら暮らしていける星もあるかもしれない。わが心の作用と、大宇宙の作用とが合致して、自分の望むとおりの姿で、自分の望むとおりの場所に生まれてこられる(法華経に「生ぜんと欲する所に自在」〈創価学会版法華経360㌻〉とある)。これが、仏法の真髄なのである。
 戸田先生は、よく死を睡眠に譬えられていた。ぐっすり眠って、翌朝、元気になって、はつらつと目覚めるように、妙法を唱えぬいて亡くなった方は、死という休息をとって、すぐに生まれて、広宣流布の陣列に戻ってくる──と。
 大聖人は、御書の中で、臨終について、繰り返し教えてくださっている。
 「(妙法を唱える人の臨終は)何と喜ばしいことであろうか。一仏・二仏ではなく、また百仏・二百仏でなく、千仏までも来迎《らいごう》し、手を取ってくださるとは、歓喜の涙をおさえがたい」(1337㌻、通解)
 「あなたの御臨終のさい、生死の中間《ちゅうげん》(生から死へ移る間)には、日蓮が必ず迎えにまいるであろう」(1558㌻、通解)
 「生きておられた時は生の仏、今は死の仏、生死ともに仏です。即身成仏という大事な法門は、これなのです」(1504㌻、通解)
 世界の大文豪や、大思想家の多くは、生命の永遠性を感じていた。仏法の生命観を志向していたともいえよう。ロシアの文豪トルストイも、そうであった。
 トルストイは晩年(1907年、79歳の年)、ある書簡に、こうつづっている。
 「生きることが喜ばしく、死ぬことも喜ばしいのです」(『トルストイ全集』21所収、除村吉太郎訳、岩波書店)
 大文豪が、波瀾万丈の生涯を戦いぬいて、たどり着いた、不動の境地の一端をしのばせる文章である。
 思えば、トインビー博士も、仏法の生命観に深く共感されていた。
 私たちは、人類最高峰の知性が求めた、最高峰の仏法を信じ、行じ、教え、実践している。これ以上の人生はない。

 6-6 自分白身の成仏の境涯を固める

 この節では、妙法を根本とした生命は、崩れざる幸福境涯である「仏界の大地」を、生の時も、死の時も、歓喜に満ちて進んでいけることを述べ、だからこそ今世で仏界の境涯を固めよ、と呼び掛けています。

【池田SGI会長の指針】
◎全国代表者会議でのスピーチから
         (1996年3月29日、東京)

 仏法の出発は、「生」「老」「病」「死」の解決にあった。生と死は人生の根本問題である。しかし多くの人々は、ここから目をそらして生きている。
 御書には仰せである。
 「涅槃経には『人の命が、この世にとどまらないことは山の水の流れ去るよりも、すみやかである。今日《きょう》、生きているとしても、明日《あす》の命は保ちがたい』と説かれている。摩耶経《まやきょう》には『たとえば施陀羅《せんだら》が羊を追い立てて、(羊が)殺される場に行きつくように、人の命もまた、このように一歩一歩と死地に近づいているのである』と。
 法華経(譬喩品)には『人の住するこの三界は、安泰ではない。火につつまれた家のようである。もろもろの苦悩が充満して、はなはだ恐るべき世界である』等と説かれている。
 これらの経文は、われらの慈父である大覚世尊(釈尊)が末代の凡夫を諫められ、幼子(衆生)を目覚めさせようとされた経文である。
 しかしながら、少しも目覚める心がなく、道を求める心を一瞬も起こさない。死んで野辺に捨てられたならば一夜のうちに裸になってしまう身を飾るために、時間をかけて、美しい衣服を重ね着ようと励んでいる。命が終われば3日の内に水となって流れ、塵となって大地にまじり、煙となって天に昇り、あとかたもなく見えなくなってしまう身を養おうとして、多くの財産を蓄えている」(1388㌻、通解)
 今もまた、このとおりの姿であろう。ますます、ひどくなっているかもしれない。生死という根本問題を避けて、いかに繁栄したとしても、それは、根なし草であり、砂上の楼閣である。
 「無常の人生」──しかし、ただ無常を自覚しただけでは、しかたがない。世をはかなんでも価値はない。問題は、この「無常の人生」で、どう「永遠の価値」を創っていくかということである。それができるというのが法華経である。
 日蓮大聖人は、法華経を行ずる人間の生死を、簡潔に、こう教えられている。
 「自身法性《じしんほっしょう》の大地を生死生死《しょうじしょうじ》と転《め》ぐり行くなり」(御書724㌻)と。
 すなわち妙法を信仰した者は、法性の大地、仏界の大地の上を、「生」の時も、「死」の時も悠々と前進していく。大白牛車という壮麗な最高の車に乗って、自在に進むのである。
 「仏界の大地」とは、絶対に崩れない幸福境涯のことである。大地のごとく盤石に固めに固めた自分自身の成仏の境涯である。その境涯を固めたら、三世永遠に続く。だから「今世で頑張りなさい」というのである。
 自分自身が「法性の大地」の上を、「生も歓喜」「死も歓喜」と前進する。これが「生死生死と転ぐり行くなり」である。
 進むのは「自身の大地」の上である。「他人の大地」で進むわけにはいかない。幸福は絶対に、自分自身で築くものである。人からあたえられるものではない。人からあたえられたものは崩れてしまう。
 親に頼っても、いつか親はいなくなる。夫に頼っても、いつ夫が先立つかわからない。また時代の変化で、いつどうなるかわからない。50年前の戦争(第2次世界大戦)の前後にも無数の悲劇があった。
 本当の幸福は、自分自身の力、自分自身の知恵、自分自身の福運、これが根本である。それを固めるための信心であり、自分自身が強くなるための学会活動である。それが「自身法性の大地を」と説かれた意義である。
 「いかなる処にて遊びたはふるとも・つつが《恙》あるべからず遊行《ゆぎょう》して畏《おそ》れ無きこと師子王の如くなるべし」(御書1124㌻)──いかなるところで遊びたわむれても何の障害もないであろう。どこに遊びに行こうとも恐れがないことは、師子王のごとくなるであろう──。
 必ず、この御文のようになる。三世永遠になる。そのための信仰である。
 「自身の大地」を永遠に進むのである。死んで「天国」へ行くのでもなく「地の底」へ行くのでもない。同じ「大地」の上で、また「生死」「生死」と使命のドラマを演じる。三世の果てまで、「広宣流布」の黄金の大道を進むのである。
 「わが仏界の大地の上を、生も歓喜、死も歓喜と進め!」「その大地を固めよ!」──これが日蓮大聖人の仏法の深遠な生死観である。

付録
ハーバード大学記念講演「21世紀文明と大乗仏教」
から
                           (1993年9月24日)

 ギリシャの哲人ヘラクレイトスは、「万物は流転する」(パンタ・レイ)との有名な言葉を残しました。
 確かに、人間界であれ自然界であれ、すべては変化、変化の連続であり、一刻も同じ状態にとどまっているものはない。どんなに堅牢そうな金石であっても、長いスパン(間隔)で見れば、歳月による摩滅作用を免れることはできません。まして、人間社会の瞠目すべき変容ぶりは、「戦争と革命の世紀」といわれる20世紀の末を生きる我々が、パノラマのように、等しく眼前にしているところであります。
 仏教の眼は、この変化の実相を〝「諸行(もろもろの現象)」は「無常(常に変化している)」である〟と捉えております。これを宇宙観からいえば「成住壊空」、つまり一つの世界が成立し、流 転し、崩壊し、そして次の成立に至ると説いています。
 苦、すなわち生まれ生きる苦しみ、老いる苦しみ、病む苦しみ、死ぬ苦しみという流転を、だれびとたりとも逃れることはできません。この四苦なかんずく生あるものは、必ず死ぬという生死、死 の問題こそ、古 来、あらゆる宗教や哲学が生まれる因となってきました。釈尊の出家の動機となったとされる〝四門出遊〟のエピソードや、哲 学を「死の学習」としたプラトンの言葉は、あまりにも有名でありますし、日蓮大聖人も、「先臨終の事を習うて後に他事を習うべし」「(妙法尼御前御返事」御書1404㌻)と言われております。
 私も、20年前、このテーマを中心に、不世出の歴史家トインビー博士と、何日にもわたり幅広く論じ合いました。なぜ、人間にとって死がかくも重い意味をもつかといえば、何よりも死によって、人間は己が有限性に気づかされるからであります。どんなに無限の「富」や「権力」を 手にした人間であっても、いつかは死ぬという定めからは、絶対に逃れることはできません。この有限性を自覚し、死 の恐怖や不安を克服するために、人間は何らかの永遠性に参画し、動物的本能の生き方を超えて、一個の人格となることができました。宗教が人類史とともに古いゆえんであります。
 ところが「死を忘れた文明」といわれる近代は、この生死という根本課題から目をそらし、死をもっぱら忌むべきものとして、日陰者の位置に追い込んでしまったのであります。近 代人にとって死とは、単なる生の欠如・空白状態にすぎず、生が善であるなら死は悪、生が有で死が無、生が条理で死が不条理、生が明で死が暗、等々と、ことごとに死はマイナス・イ メージを割り振られてきました。その結果、現代人は死の側から手痛いしっぺ返しを受けているようであります。今世紀が、ブ レジンスキー博士の言う「メガ・デス(大量死)の世紀」となったことは、皮肉にも「死を忘れた文明」の帰結であったとはいえないでしょうか。
 近年、脳死や尊厳死、ホスピス、葬儀の在り方、ま た、キューブラー・ロス女史による「臨死医学」の研究などの関心の高まりは、等しく死の意味の、のっぴきならない問い直しを迫っているように思えてなりません。やっと現代文明は、大きな思い違いに気づこうとしているようです。死は単なる生の欠如ではなく、生と並んで、一つの全体を構成する不可欠の要素なのであります。その全体とは「生命」であり、生き方としての「文化」で あります。ゆえに、死を排除するのではなく、死を凝視し、正しく位置づけていく生命観、生死観、文化観の確立こそ、21世紀の最大の課題となってくると私は思います。仏教では「法性の起滅」を 説きます。法性とは、現象の奥にある生命のありのままの姿をいいます。生死など一切の事象は、その法性が縁に触れて「 起」すなわち出現し、「滅」すなわち消滅しながら、流転を繰り返していくと説くのであります。
 従って死とは、人間が睡眠によって明日への活力を蓄えるように、次なる生への充電期間のようなものであって、決して忌むべきではなく、生と同じく恵みであり、嘉せらるべきことと説くのであります。
 ゆえに、大乗仏典の精髄である法華経では、生死の流転しゆく人生の目的を「衆生所遊楽」と し、信仰の透徹したところ、生も喜びであり、死も喜び、生も遊楽であり、死も遊楽であると説き明かしております。日蓮大聖人も「歓喜の中の大歓喜」「(御義口伝」御書788㌻)と断言しておられる。「戦争と革命の世紀」の悲劇は、人間の幸・不幸の決定的要因が外形のみの変革にはないという教訓を明確に残しました。次なる世紀にあっては、従ってこうした生死観、生命観の内なる変革こそ第一義となってくるであろうと私は確信しております。
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