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池田SGI会長指導選集 「幸福と平和を創る智慧」 第1部 第2章 2-1〜2-6

第2章 生命変革の原理

この章を読むに当たって
           
 私たちが目指すべき「絶対的幸福」は、どうすれば実現できるのでしょう? それは、外から与えてもらうものではありません。自身の内なる「生命」の変革によってこそ実現できると、池田SGI(創価学会インタナショナル)会長は、仏法の法理に即して教えています。
 私たちの生命は、善の方向にも悪の方向にも、また幸福にも不幸にも向かう、さまざまな可能性を持っています。苦悩の底に沈むこともあれば、欲望や本能に駆り立てられることもあります。人間らしく穏やかでいることもあれば、苦しんでいる他者を慈しんで手を差し伸べることもあります。
 仏法は、さまざまな生命の可能性を探究し、そこに十界という十種の境涯が存在することを明らかにしました。この十界のうちで尊極の可能性を開いた最高の境涯を仏界といいます。
 日蓮大聖人は、生命と宇宙を貫く大法を「南無妙法蓮華経」の御本尊として顕し、あらゆる人々が事実として仏界を開いていく方途を確立しました。
 この章では、生命変革の原理である十界論の基本と御本尊の意義について紹介します。
 御本尊を信じ、題目を唱える実践によって、生命の根底が仏界となり、人生で出合うあらゆる苦悩を自身の境涯を開く糧と転じていける、さらに自分自身にとどまらず、他者の生命の変革を促し、社会の向上と繁栄を築いていけるという大聖人仏法の核心の法理について、池田会長は語っています。

 2-1 心は「地獄」をも「天国」に変える

 自分自身を取り巻く環境がどのように見えるのか。それを決めるのは、その人自身の生命の境涯です。この節では、日蓮大聖人の仏法が、自身の生命の境涯を高め、自身を取り巻く環境を変え、事実の上で、確かなる人生の幸福と社会の繁栄を築き、国土の転換をも可能にする大法であることを示します。

【池田SGI会長の指針】
◎和歌山県記念総会でのスピーチから
        (1988年3月24日、和歌山)

 心というものは、それ自身一つの独自の世界なのだ、──地獄を天国に変え、天国を地獄に変えうるものなのだ」(『失楽園』平井正穂訳、岩波文庫)とは、ジョン・ミルトン(1608年―74年)の言葉である。ミルトンはシェークスピアと並び称される、17世紀イギリスの大詩人であった。
 みずからの心が、「地獄」を「天国」に、また「天国」を「地獄」に変えることができる──このミルトンの言葉は、仏法の一念三千論にも一分《いちぶん》通じる、彼の深い思索の一つの到達といってよい。
 世界がどう見えるか。また人生がどのように感じられるか。それは、ひとえに一人一人の境界世界によって決まる。
 御書には、「餓鬼は恒河《ごうが》を火と見る人は水と見る天人は甘露と見る水は一なれども果報に随って別別なり」(1025㌻)と仰せである。
 同じ恒河(ガンジス川)の水でも、餓鬼道の者には火と見え、人間には水、そして天人には甘露と見える。見る者の果報によって、まったく見え方がちがうのである。
 果報とは、過去の業因によってもたらされた、現在の生命境涯である。
その生命のあり方そのものが、外界の世界の見え方、感じ方を決めていく。
 同じ境遇でも、幸福を満喫する人がいる。また耐えがたい不幸を感じる人もいる。同じ国土にいても、すばらしき天地としてわが地域をこよなく愛する人もいれば、現在の住処を嫌い、他土《たど》ばかりに目を向ける人もいる。
 仏法は、その自身の境界世界を高めながら、確かなる幸福と社会の繁栄を築いていくための〝法〟である。さらに国土自体をも、「常寂光土」へと転換していける「事の一念三千」の″大法〟なのである。
 しかも、常住の大法にのっとった福徳、喜びは、決して一時的なものではない。樹木が年々、着実に年輪を増していくように、その福運は生命に蓄積され、三世に薫りを放っていく。反対に、世間的な富や名声、また快楽というものは、一時的にはいかに華々しくとも、はかない刹那のものである。

メモ  一念三千

 インドに現れた釈尊の仏法の精髄は、一切衆生の成仏の法理を説いた「法華経」に結実しています。
 中国の天台大師(6世紀)は、この「法華経」をもとに、生命の全体像を「一念三千」の法門として体系化しました。「一念」とは、瞬間瞬間の生命、「三千」とは、十界・十界互具、十如是、三世間という、生命を異なった観点から捉えた法理を総合したものです(十界 ×十界 ×十如是 ×三世間 = 三千)。
 十界とは、地獄界・餓鬼界・畜生界・修羅界・人界・天界・声聞界・縁覚界・菩薩界・仏界という十種の生命の境涯です。十界それぞれが十界を具えていることを十界互具といいます。十如是とは、相・性・体・力・作・因・縁・果・報・本末究境等《ほんまつくきょうとう》という十界の生命に共通する十種の側面です。三世間とは、五陰世間《ごおんせけん》・衆生世間《しゅじょうせけん》・国土世間のことで、十界の生命の具体的な存在や活動する環境世界を明かしたものです。
 「一念三千」の法門によって、「一念」すなわち瞬間瞬間の生命に、「三千」すなわち全宇宙のあらゆる現象・働きが具《そな》わるという、生命と宇宙の全体像が示されました。
 日蓮大聖人は、釈尊の「法華経」、天台大師の「一念三千」の法門を踏まえ、自らが覚《さと》った生命と宇宙の究極の大法を「南無妙法蓮華経」の御本尊として顕し、万人に生命変革を可能にする実践的な仏法を確立しました。
 大聖人の仏法の実践は、自分一人の生命の変革だけでなく、周囲の人々や環境、さらには、全人類の変革をも可能にするものです。単なる理論にとどまるのではなく、徹底して現実の生命と世界の変革を志向するゆえに、大聖人の仏法を、特に「事の一念三千」といいます。


 2-2 「仏界」とは苦悩の現実を照てらす太陽

 この節では、十界、十界互具という仏法の生命論の基本を簡潔に説明するとともに、万人が仏界という尊極の生命を顕す現実的な方途を、御本尊に対する信心修行として確立したのが、日蓮大聖人の仏法であることを示します。

【池田SGI会長の指針】
◎『生命と仏法を語る』から
                (1986年11月刊)

 瞬間、瞬間に流れゆく生命には、大きくみると十種の範疇がある。これを仏法は「十界」ととらえた。具体的に言えば、われわれの生命は「六道」、つまり「地獄界」「餓鬼界」「畜生界」「修羅界」「人界」という境界がある。そして、「四聖《ししょう》」「声聞《しょうもん》」「縁覚《えんがく》」「菩薩」「仏《ぶつ》」という、より高次元の境界がある。この範噂を、厳としてもっているのが生命の実相である。
 瞬間にあらわれる十界のいずれかの生命は、固定されるものではない。次の瞬間にはまた、十界のいずれかを顕現しゆく。この生命のダイナミズムを、仏法の直観智が見事にとらえた法理が「十界互具」である。
 「観心本尊抄《かんじんのほんぞんしょう》」には、人界所具《にんかいしょぐ》の九界の姿について、まことに簡潔、明瞭に述べられている。
 「数《しばし》ば他面を見るに或時は喜び或時は瞋《いか》り或時は平《たいらか》に或時は貪《むさぼ》り現《げん》じ或時は癡《おろか》現じ或時は詭曲《てんごく》なり、瞋《いか》るは地獄・貪《むさぼ》るは餓鬼《がき》・癖《おろか》は畜生《ちくしょう》・詭曲《てんごく》なるは修羅《しゆら》・喜ぶは天《てん》・平《たいら》かなるは人なり」(御書241㌻)と。
 これらが、それぞれ顕現したり、冥伏《みょうぶく》したりする。これは私どもの日常生活でよくみる、またよく感じ、納得できる。
 ここで重要なことは、仏法の探究の眼《まなこ》は、尊厳にして無限の力をもつ「仏界」という生命を、いかにして顕現しゆくか、というところにあった。本来仏道修行と、いうものは、この「仏界」を涌現するためになくてはならない。日蓮大聖人の大仏法は、この一点に凝結され、正しき「本尊」をうちたて、その現実的方途を提示している。ゆえに、万人が正しき信心修行をなしうるものなのである。
 これまでの人類の歴史の結果は、まだまだ六道輪廻の流転を乗り越えていないといえる。「地獄」の「地」とは、最低のものに縛られるという意味である。いかなる時代になろうと、この「縛《ばく》」を切り、人間自身が上昇していくことを最も基本に考えねば、人間と社会の抜本的蘇生への道はない。仏法は、この泥沼のごとき社会にあって、なおかつ「仏界」という人間生命の最極《さいごく》なる「尊厳性」の可能性を見いだしている。
 六道に翻弄されている私どもの一念が、正しき本尊に南無し、境智冥合しゆくことにより、「仏界」という無限の生命力を発動する。
 言葉で表現するのはむずかしい。「仏界」というのは、他の九界のような具体的なものではない。九界を無限の価値の方向へと動かしゆく本源的な生命の働きである。
 曇天の日がつづいても、雨の日でも、ジェット機が高度1万メートルに達すれば、煌々と太陽が輝き、安定した飛行ができる。と同じく、現実の生活が、いかに苦衷にあっても、苦難の連続であっても、この胸中の太陽を満々と輝かせていけば、悠々と乗り越えていける。この太陽を、たとえて言うならば、「仏界」といえるかもしれない。
 ひとつの次元から、「御義口伝」には、「菩薩とは仏果を得《う》る下地なり」(御書738㌻)とおっしゃっておられる。法のため、人のため、社会のために行動することが菩薩である。その菩薩という行動の土台なくしては仏果は得られない。観念では仏果は得られない。万巻《まんがん》の仏教の書を読んでも得ることはできない。
 仏果を得たといっても、なんら姿が変わるものでもない。
 六道九界の現実社会のなかで、そのままの姿で生きぬいていくのである。神秘的な悟りとか仏というものは、真の仏法ではまったくない。
 人間として大事なことは、低き境涯から、より高き境涯へ……。さらに、狭小な境涯から、無限の広がりの境涯へと進み、広がりゆくことである。その最極の一点の境涯が、「仏界」となるわけである。

 2-3 生命の基底部を「仏界」に

 この節では、十界互具の法理を踏まえ、生命の基底部という考え方を示します。生命にはそれぞれ過去の営みの積み重ねによってつくられた基底部となる境涯があります。「成仏」とは、この基底部を仏界にすることです。基底部を仏界にできても、現実の九界の苦悩がなくなるわけではありません。ただ、どんな苦悩があろうと、生命の根底から仏界の慈悲と希望と歓喜があふれてくるのです。日蓮大聖人が、観心本尊抄で、法華経の「我本菩薩の道を行じて成《じょう》ぜし所の寿命今猶未《いまなおいま》だ尽きず」等の文を引いて「仏界所具の九界なり」(御書240㌻)と述べられたことの実践的な姿は、仏界を基底部にした生き方にあると言えましょう。

【池田SGI会長の指針】
◎『法華経の智慧』から
                   (1998年12月刊)

 一個の人間が十界互具の当体であるという一つのとらえ方として、生命の「基底部」を考えたらどうだろう。「基底部」というのは、同じ人間でも、地獄界を基調に生きている人もいれば、菩薩界を基調に生きている人もいる。いわば、生命の「くせ」です。これまでの業因《ごういん》によってつくりあげてきた、その人なりの「くせ」がある。
 バネが、伸ばした後もまた戻るように、自分の基底部に戻っていく。地獄界が基底部といっても、四六時中、地獄界のわけではない。人界になったり、修羅界になったりもする。修羅界の「勝他《しょうた》の念」を基底部にする人でも、人界や天界を出すこともあるでしょう。しかし、修羅界を基底部にする人は、一時的に菩薩界を現出しても、また、すぐに修羅界に戻ってしまう。この基底部を変えるのが人間革命であり、境涯革命です。
 その人の「奥底の一念」を変えると言ってもよい。生命の基底部がどこにあるかで、人生は決まってしまう。譬えて言えば、餓鬼界が基底部の人は、餓鬼界という船に乗っているようなものだ。餓鬼の軌道を進みながら、その船の上で、あるときは笑い、あるときは苦しむ。さまざまな変化はあるが、船は厳然と餓鬼界の軌道を進んでいる。ゆえに、見える風景も餓鬼界の色に染まっているし、死後も、宇宙の餓鬼界の方向に合致していってしまうでしょう。
 この基底部を仏界にしていくのが成仏ということです。もちろん基底部が仏界になったからといっても、九界があるのだから、悩みや苦しみがなくなるわけではない。しかし人生の根底が「希望」になっていく。「安心」と「歓喜」のリズムになっていくのです。
 戸田先生は言われた。
 「たとえ病気になっても『なにだいじょうぶだ。御本尊様を拝めばなおるのだ』と、それでいいのです。そして、安心しきって生きていける境界を仏界というのではないのか。それでいて、仏界に九界があるのだから、ときに怒ったり困ったりもする、安心しきってるのだから怒るのはやめたとか、なんとかというのではなくて、やっぱり、心配なことは心配する。しかし、根底が安心しきっている、それが仏なのです」
 「生きてること自体が、絶対に楽しいということが仏ではないだろうか。これが、大聖人様のご境界を得られることではないだろうか。
 首斬られるといったって平気だし。ぼくらなんかだったら、あわてる、それは。あんな佐渡へ流されて、弟子にいろいろ教えていらっしやるし、開目抄や観心本尊抄をおしたためになったりしておられるのだから。あんな大論文は安心してなければ書けません」
 勤行・唱題は、仏の生命と一体になる荘厳な儀式です。この勤行・唱題という仏界涌現の作業を繰り返し繰り返し、たゆみなく続けていくことによって、我が生命の仏界は、揺るぎなき大地のように、踏み固められていく。その大地の上に、瞬間瞬間、九界のドラマを自在に演じきっていくのです。また社会の基底を仏界に変えていくのが広宣流布の戦いです。その根本は「同志を増やす」ことだ。
 ともあれ、この信心を根底にすれば、何ひとつ無駄にならない。
 仏界が基底の人生は、過去・現在の九界の生活を全部、生かしながら、希望の未来へと進める。否、むしろ九界の苦労こそが、仏界を強めるエネルギーになっていく。
 煩悩即菩提で、悩み(煩悩=九界)が全部、幸福(菩提=仏界)の薪となる。身体が食物を摂って消化吸収し、エネルギーに変えるようなものです。
 九界の現実の苦悩と無関係な仏など、真の仏ではない。十界互具の仏ではないのです。それが法華経の寿量品の心です。
 ある意味で、仏界とは「あえて地獄の苦しみを引き受けていく」生命と言ってもよい。仏界所具の地獄界。それは、同苦であり、あえて引き受けた苦悩であり、責任感と慈悲の発露です。弘教のため、同志のために、あえて悩んでいく──その悩みが仏界を強めるのです。

2-4 「十界」の生命が認《したた》められた御本尊
       
 日蓮大聖人が顕された御本尊には、宇宙と生命の究極の法である南無妙法蓮華経を中心にして十界の生命の代表が認められています。この節では、御本尊に向かって、私たちが勤行・唱題する時、内なる十界の生命が、御本尊に示されている通り、妙法を根本にして、善の方向へ、幸福の方向へ、成仏の方向へ働いていくことを示します。

【池田SGI会長の指針】
◎アメリカSGI青年研修会でのスピーチから
   (1990年2月20日、アメリカ)

 「本尊」には「根本尊敬《こんぽんそんぎょう》」の意義がある。人生、生命の根本として尊敬《そんけい》し、帰依していく対象が本尊である。ゆえに、何を本尊とするかで、人生が根底的に決定されることは当然である。      
 従来の仏教の本尊は、ほとんどが仏像である。また仏画の場合もある。初期の仏教には仏像はなかったが、後世、西方のギリシャ文化の影響のもと、西北インド(ガンダーラ地方)で仏像が誕生した。いわばシルクロード交流の一産物である。こうした仏像・仏画をとおして、「仏」のイメージを民衆は受け取り、渇仰と信仰の心を起こしてきたわけである。
 しかし日蓮大聖人の仏法の「本尊」は、文字《もんじ》の御本尊であられる。その意味では、イメージ・映像の結晶というよりも、あえていえば、英知の世界、御本仏の偉大なる智慧の、最高にして尊極の表現と拝される。
 この点からも、大聖人の仏法の「本尊」は、従来の仏法の本尊と根本的に異なる。
 「文字」は不思議である。文字の力は偉大である。たとえば、人の名前がある。サインをする。その文字には、一応、その人の人格、立場、力、心身、歴史、因果、そうしたすべてが含まれている。
 それと同様に、南無妙法蓮華経の題目には、宇宙の森羅万象がすべて含まれている。「起は是れ法性の起・滅は是れ法性の滅」(天台大師『摩訶止観』、御書1337㌻)といわれるように、一切の現象は妙法の表れである。
 御本尊には、変転する大宇宙(諸法)の実相、ありのままの姿が完壁に示されている。この宇宙の実相とは、私ども小宇宙の場合もまったく同じである。これらは御書に仰せのとおりである。また御本尊は「人法一箇」であられ、御本仏の御境涯を示されたものであることは言うまでもない。
 この意味で、大聖人の御本尊こそ、文字どおり、全人類が「尊敬」すべき宇宙の「根本」であり、真実の「本尊」であられる。
 宇宙には、善の力も悪の作用もある。
 御本尊には、仏界の代表である釈迦如来、多宝如来から、地獄界の代表である提婆達多まで、十界の代表がすべてお認《したた》めである。
 そして、こうした宇宙の「善」の力・作用の代表も、「悪」の力・作用の代表も、少しももれなく南無妙法蓮華経の光明に照らされて、「本有《ほんぬ》の尊形《そんぎょう》」すなわち、本来ありのままの尊い姿となって働くと説かれている。「本有の尊形」となるゆえに「本尊」というのである。(御書2143㌻)
 すなわち、御本尊に勤行・唱題する時、私どもの生命の善悪の力も、すべて「本有の尊形」としての働きを始める。
 「地獄界」の苦しみの生命も、「餓鬼界」のつねにハングリーで悩んでいる生命も、「修羅界」のゆがんだ怒りの生命も、すべて自分自身の幸福と価値を創る方向に働いていく。不幸へと引きずる生命が、妙法を根本にすると、反対の善の方向へ力を向けていくのである。それは苦しみという薪を燃料として、歓喜と知恵と慈悲の炎が燃え上がっていくようなものである。その火をつけるのが妙法であり、信心である。
 まして仏界・菩薩界・梵天・帝釈等の「善」の生命は、唱題によってその輝きを増し、どんどん威光勢力を広げていく。
 わが小宇宙の中の大日天も大月天も、燦然と大光を放って、生命の闇を晴らす。
 善も悪も、十界三千のすべての働きが、一体となってフル回転し、「幸福」へ、「常楽我浄」の人生へと、私どもの生命を運んでいくのである。
 人生、当然、病気になる場合もある。しかし、その病気は、妙法の法理によって「本有の病」と見つめられるようになる。すなわち病気に左右されて、人生を苦しみ懊悩していくようなことは決してない。三世永遠の生命から見たならば、根本的に、絶対的幸福という〝大我〟は、厳然と確立されていくのである。
 そして人生・生活のうえの行きづまりも、必ず打開し、次のより広々とした境涯への飛躍台となる。「生」も楽しい。また「死」も安らかで、次の楽しき「生」への荘厳な旅立ちとなっていく。
 冬になれば、樹木が花も葉も落とした姿に、いったんはなる。しかし春とともに若葉を芽ぐみ、伸ばす生命力をもっている。そうした様子にも似て、またそれ以上に、苦痛もなく、すぐに始まる次の使命の人生への〝生命の勢い〟をもっての死である。

 2-5 胸中の御本尊を開く


 私たちは御本尊を自分自身を超えた存在と考えがちですが、この節では、「胸中の御本尊」という御本尊の深義《じんぎ》を示します。無量の生命力も無限の知恵も、自身の内にそなわっており、信心によって、それを自在に涌現させていくことができるのです。

【池田SGI会長の指針】
◎「4・2」記念各部代表懇談会でのスピーチから
   (1993年4月3日、東京)

 どんな宗教も「本尊」がいちばん大切である。それでは、日蓮大聖人の仏法における「本尊」の本義はどこにあるのか。大聖人御自身が、こう仰せである。
 「此の御本尊全く余所《よそ》に求る事なかれ・只我れ等衆生の法華経を持《たも》ちて南無妙法蓮華経と唱うる胸中の肉団におはしますなり」(御書1244㌻)──この御本尊は、まったく、よそに求めてはならない。ただ、われわれ衆生が、法華経を持《たも》って南無妙法蓮華経と唱える胸中の肉団にいらっしやるのである──。
 この御文を拝して、戸田先生は、このように講義された。(昭和31年3月6日、「日女御前御返事」講義。『戸田城聖全集』第6巻)
 「大御本尊様は向こうにあると思って拝んでおりますが、じつはあの三大秘法の御本尊様を、即南無妙法蓮華経と唱え、信じたてまつるところのわれらの命のなかにお住みになっていらっしやるのです。これはありがたい仰せです。
 この信心をしない者は、仏性がかすかにあるようにみえてひとつも働かない、理即の凡夫です。われわれは御本尊を拝んだのですから、名字即の位です。名字即の位になりますと、もうこのなかに赫々として御本尊様が光っているのです。
 ただし光り方は信心の厚薄による。電球と同じです。大きい電球は光るし、小さい電球はうすい。さらにこの電球の例でいえば、信心しない者は電球が線につながっていないようなもので、われわれは信心したから大御本尊という電灯がついている。ですから、われわれの命はこうこうと輝いている」
 信心が強いかどうかである。信心が強ければ、自分自身が功徳聚(功徳の集まり)となっていく。大聖人は御本尊のことを「功徳聚」と仰せである。そして「此の御本尊も只信心の二字にをさまれり」(御書1244㌻)──この御本尊も、ただ信心の二字に収まっているのである──と。
 ゆえに信心強き人は、絶対に行きづまらない。何が起ころうと、すべてを功徳に変えていける。幸福に変えていける。
 もちろん長い人生には、さまざまなことがある。悩み、苦しみがある。しかし、それらを全部、自分自身の境涯を開く糧とできる。その意味で、信仰者にとって、根底は、一切が功徳であり、幸福なのである。信心強き人に、「不幸」の二字はない。
 日寛上人(1665年―1726年)は「観心本尊抄文段」の末尾に、こう述べられている。
 「我等この本尊を信受し、南無妙法蓮華経と唱え奉れば、我が身即ち一念三千の本尊、蓮祖聖人なり。『幼稚の頸に懸けさしめ』の意、正しく此に在り。故に唯《ただ》仏力・法力を仰ぎ、応《まさ》に信力・行力を励むべし。一生空しく過して万劫悔ゆることなかれ」(文段集548㌻)──われらがこの本尊を信受して、南無妙法蓮華経と唱えていくならば、わが身が、そのまま一念三千の本尊であり、蓮祖聖人(日蓮大聖人)なのである。「(仏法に無知な末法の)幼稚の頸に懸けさしめ」との(観心本尊抄の)御文の元意は、まさにここにある。ゆえに、ただ仏力・法力を仰いで、信力・行力を励むべきである。一生を空しく過ごして、永遠の悔いを残してはならない──。
 御本尊への「信心」によって、わが身が即「本尊」と顕れ、「蓮祖聖人」と顕れると明言しておられる。そうなれるために、大聖人は御本尊を顕してくださったのである。ここに、大聖人の仏法の極理がある。
 信心によって、わが胸中の御本尊を開くのである。ダイヤモンドのごとき仏の生命を開き、輝かせるのである。
 本来、無量の生命力は、自身の内部にある。無限の知恵の泉は、わが胸中にある。それを、自在に涌現できるのが「信心」である。
 戸田先生は、よく言われていた。「自分の中にあるものが出てくるのだよ。無いものは出てこないぞ」と。
 強く清浄な仏の境界も、弱く醜い地獄・餓鬼・畜生等の生命も、全部、わが生命にある。縁に触れて現れてくる。また、生命は三世にわたるゆえに、過去の宿業が、大きな悩みとして現れ出てくる場合もある。しかし、「苦悩」の因が「自分の中に」あるのと同じく、それをそのまま「幸福」へと転換しゆく力も「自分の中に」ある。これが仏界の力である。
 結局、人間とは、どこまでいっても、戸田先生が言われたように、「自分の中にあるものが出てきた」ものである。それ以上でも、以下でもない。
 だからこそ、わが生命の大地を耕し、深く豊かに幸福の根を張らねばならない。「胸中の御本尊」を開き、何ものにも揺るがぬ大樹の自分をつくらねばならない。
 それが、境涯のうえでは優れた人間性や立派な振る舞いとなって表れ、生活のうえでは功徳・福運となって現れるのである。
 ゆえに大切なことは、「信心」があるか、ないかである。大聖人の「ただ心こそ大切なれ」(御書1192㌻)との仰せを、絶対におろそかにしてはならない。
 形式ではない。地位でも財産でもない。「信心」ある人こそが、真の「幸福」の人である。

 2-6 御本尊は生命の真実を映す鏡

 この節では鏡の譬えを通して、御本尊が、生命の本来の姿を映し出す鏡であることを教えています。御本尊こそ、すべての人が自身の生命の実相を見つめて成仏できるようにした仏の智慧の結実なのです。

【池田SGI会長の指針】
◎アメリカSGI婦人部研修会でのスピーチから
  (1990年2月27日、アメリカ)

 本日は、〝鏡〟をとおして、「信心」の重要なあり方を語っておきたい。「鏡」には、仏法上、じつに多くの意義があり、多くの譬えにも使われている。ここでは、とくに私どもの信心に約して、簡潔にふれておきたい。
 御書には、こう記されている。
 「銅鏡等は人の形をばう《浮》かぶれども・いまだ心をばうかベず、法華経は人の形を浮ぶるのみならず・心をも浮べ給へり、心を浮ぶるのみならず・先業をも未来をも鑒《かんが》み給う事くも《曇》りなし」(1521㌻)
 ──銅鏡等は人の形を映しても、心は映さない。法華経は人の姿(色法)のみならず、心(心法)も映しだす。心のみではない。過去の業因をも未来をも、くもりなく映しだす──。
 鏡は、目に見える顔や姿を映す。仏法の鏡は、見えない生命をも映しだす。
 鏡は、反射の法則など光の法則を応用して、姿が映るように工夫した、人間の知恵の成果である。
 御本尊は「宇宙」と「生命」の法則に基づいて、〝汝自身〟の実相を見つめ、成仏できるようにした、仏の「智慧」の究極であられる。
 顔かたちを整えるには、鏡が不可欠なように、自分を見つめ、人生を見つめて、より美しく、より幸福な生活としていくには、〝生命を映す鏡〟が必要になってくる。
 ところで、先の御文で「銅鏡」とあったように、昔の鏡は銅、青銅、鉄など、金属を磨いたものであった。錫などをまぜて作ったようである。こうした鏡は、現在のガラス製の鏡と違って、おぼろげにしか映らない。映らなかったばかりではない。すぐに曇った。そこで、しばしば磨かねば使えなくなった。鏡の研磨には専門技術がいる。それが〝鏡磨《かがみとぎ》〟の職人である。日蓮大聖人御在世の鎌倉時代も、こうした金属の鏡の時代である。
 「一生成仏抄」には「闇鏡《あんきょう》も磨きぬれば玉と見ゆるが如し、只今も一念無明の迷心は磨かざる鏡なり是を磨かば必ず法性真如の明鏡《みょうきょう》と成るべし」(御書384㌻)と。
 ──ぼんやりと曇った鏡も、磨けば玉のように輝くようなもので、迷いの生命も磨かない鏡であり、これを磨けば、必ず妙法の光をたたえた明鏡となる──
 あまりにも有名な一節であるが、この御文も、こうした鏡磨《かがみとぎ》の伝統を背景にしている。
 ともあれ、いかなる人の生命も、本来は、光り輝く明鏡なのである。
 違いは、その明鏡を磨いているかどうかである。磨けば仏、曇れば迷いの凡夫である。妙法を唱えることが、生命を磨くことであり、私どもはみずからもこれを実践している。のみならず、他の人にも妙法を教えて、その「生命の鏡」を輝かすよう努力している。その意味では、私どもは生命の鏡磨《かがみとぎ》師の立場ともいえよう。
 しかし人間は、顔を磨いても、生命はなかなか磨かない。顔のシミは気にしても、魂のシミは気にしないものである(笑い)。
 イギリスの作家、オスカー・ワイルド(1854年―1900年)の作品に、小説『ドリアン・グレイの画像』(西村孝次訳、岩波文庫)がある。
 読んでいない人のために(笑い)、小説のストーリーを簡単に紹介すると──美貌の青年ドリアン・グレイは、その美しさから「輝ける青春」とあだ名されている。
 ある画家がその美を永遠に残そうと、彼の肖像画を描いた。見事な出来栄えで、絵のほうも、すばらしい若さと美しさだった。ところが、不思議なことが起こった。
 ドリアンは、ある友人の影響で、しだいに快楽と悪行の道に分け入る。背徳の生活。しかし彼の美しさは変わらない。輝くばかりに晴れやかである。何年たっても若さも衰えない。
 一方、肖像画のほうが、彼のすさんだ生活そのままに、少しずつ醜く変わっていった。
 とうとうドリアンは、ある乙女をもてあそび、ついに自殺に追い込んでしまった。この時、肖像画の顔は、見るもおぞましいほど、邪悪な、残忍な表情を浮かべていた。
 その後も、彼の悪行が増すにつれ、肖像もいまわしく変わっていった。
 ドリアンは恐ろしくなった。この〝魂の顔〟は、醜いまま、永遠に残るのである。ドリアンが死んだとしても、その真実を雄弁に語り続ける。たとえ善人になろうとしても意味がない。
 ドリアンは決意した。この肖像を抹殺しよう! この絵さえなくなれば、過去と決別できる。自分は自由になれるのだ。彼は絵をナイフで突き刺した。
 悲鳴を聞き、駆けつけた人々が見たのは、若く美しいドリアンの肖像と、その前に倒れた、老いた、いやらしい容貌の男(ドリアン)であった。男の胸にはナイフが刺さっていた。
 ──つまり、肖像は、彼の〝生命の顔〟であり、〝魂の顔〟であった。彼の行動の因果を、あますところなくきざみこんでいたのである。
 顔は化粧できても、魂の顔はごまかせない。まして因果の理法は厳然としている。
 仏法では「陰徳陽報」(見えない善行が、見える幸福の報いとなって表れる)と説く。仏法の世界には、まったくムダがないし、裏表があったり、表面を飾っても何の意味もない。
 善悪の因果をきざんだ〝魂の顔〟は、ある程度、表面に「相」として表れる。イギリスには「顔は魂の鏡」という言葉もある。
 〝魂の顔〟を美しく磨く──そのためには、顔を鏡に映してととのえるように、生命を映す明鏡を持たねばならない。それが「観心」の「御本尊」である。
「観心本尊抄」には、「観心」について、「明鏡に向うの時始《はじ》めて自具《じぐ》の六根を見る」(御書240㌻)──明鏡に向かう時、初めて自分の眼《げん》・耳《に》・鼻《び》・舌《ぜつ》・身《しん》、意(心)を見ることができる──と仰せである。
 それと同じく「観心」とは、自分の「心」(生命)に「十界」を、なかんずく「仏界」を観ていくことである。そのために、大聖人が人類に与えられたのが「観心」の「御本尊」である。
 日寛上人は「正《まさ》しく本尊を以て明鏡に譬うるなり」(「観心本尊抄文段」文段集472㌻)──この御文はまさに、御本尊を明鏡にたとえていると──述べられている。
 「御義口伝」には「妙法蓮華経の五字は万像《まんぞう》を浮べて一法も残る物之無し」(御書724㌻)──妙法蓮華経の五字、すなわち御本尊は、宇宙の一切の現象を映しだし、欠けるものがない──と。
 御本尊こそ、宇宙全体をありのままに映しだす明鏡中の明鏡であられる。この御本尊を拝する時、わが生命の本来の姿(実相)を観《み》、仏界を涌現できる。
 私どもの信心の一念は、そのまま御本尊に映り、大宇宙に反映される。これが一念三千の法理である。
 佐渡の門下、阿仏房に対して、大聖人は「多宝如来の宝塔を供養し給うかとおもへば・さにては候はず我が身を供養したま給う」(御書1304㌻)と。
 ──あなたが、多宝如来の宝塔、すなわち御本尊を供養されているのかと思えば、そうではない。かえってわが身(阿仏房ご自身)を供養されているのである──。
 御本尊を拝し、荘厳する信心は、そのまま自分という〝宝塔〟を飾り、荘厳していく。御本尊を拝せば、ただちに、宇宙の一切の仏菩薩が、私どもを守る。謗ずれば、その反対である。
 ゆえに、ともかく「心」が大事である。信心の一念は微妙である。
 たとえば、勤行や広布の活動で、時には「ああ、いやだな」と思うかもしれない。その心は、そのまま鏡のように大宇宙に映しだされる。いってみれば、諸天のほうでも「ああ、いやだな」と思う(笑い)。これでは諸天善神の本当の力は出ない。
 反対に、何事も、「また福運を積んでいこう」と喜んで行えば、諸天も歓喜し、勇んで動きだす。どうせ行動するなら、そのほうが得である。
 また「時間のムダではないか」と思う一念で仏道修行すれば、その不信や愚痴の心が功徳を消してしまう。その結果、当然、功徳が自覚できず、「やっぱりムダなんだ」と、変な〝確信〟を深めたりする(笑い)。悪循環である。
 「本当だろうか」と疑いながら信仰しても、その弱い一念が宇宙の鏡に映って、あいまいな結果になる。強い確信に立てば、福徳は無限大である。
 ともあれ、こうした微妙にして厳然たる信心の「心」を、自分でコントロールしつつ、すがすがしく開いていくことである。そうすれば、わが人生も、境涯も広々と開ける。一切が功徳に満ちた生活になることは間違いない。
 この〝一念の微妙さ〟を会得できるかどうかが、信心の要諦であり、そこに一生成仏のカギがあるともいえる。
 ロシアのことわざに、「自分の顔が曲がっているのに、鏡を責めて何になろう」とある(笑い)。
 映った姿は自分のものである。それなのに鏡が悪いと怒る人がいる(笑い)。それと同じく、人生の幸・不幸はすべて、自身の生命の因果の姿が反映した結果である。だれのせいでもない。信心の世界においては、なおさらである。
 ──昔、ある田舎に鏡のない村があった。鏡が貴重品だったころの話である。
 都から帰った夫が、土産に鏡を妻に渡した。すると、初めて鏡を見た妻は、映った女の姿に、「これはだれじゃ。さては都の女を連れて帰ったか」(笑い)と大げんかになった。
 これは日本の有名な「狂言」の一つである。
 笑い話ではあるが、現実に多くの人々は、自分の生命(一念、因果)が映った影にほかならない人生のさまざまな現象を見て、怒ったり、嘆いたりしている。「これはだれだろう。私は知らない!」と。
 仏法という「生命の鏡」を知らないゆえに、自分をありのままに見つめることができないのである。自分の姿を知らなければ、当然、他の人の人生を正しく導くこともできない。社会現象の本質を見ぬくこともできない。
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2014-04-28 : 池田SGI会長指導選集 :
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フィリピン国立イサベラ大学 「名誉人文学博士号」授与式への謝辞

フィリピン国立イサベラ大学 「名誉人文学博士号」授与式への謝辞
         (2014.4.24 創価大学本部棟)

 フィリピン共和国の国立イサベラ大学から創価大学創立者の池田大作SGI(創価学会インタナショナル)会長に、「名誉人文学博士号」が贈られた。これは、哲学者、教育者、詩人としての傑出した平和・文化への貢献を讃えたもの。授与式は24日、東京・八王子市の創価大学本部棟で行われ、イサベラ大学のアレス・M・ママワグ学長、ウィリアム・C・メドラノ副学長、エドムンド・C・グンパル副学長が列席し、厳粛に行われた。

ママワグ学長のあいさつ

「教育こそ人間を自由にする」
池田博士の哲学はわが大学の指標と一致


 技術が進歩し、多様な文化が交わり合っている現代にあって、国立イサベラ大学は、国際的に競争力のある卒業生の輩出だけを目的にしているわけではありません。
 私どもは健全な倫理観を持つ人間、池田博士の言葉を借りるならば「人間と自然の『かけがえのなさ』を、頭で、心で、肌で、全身でつかんでいる人間」(池田大作著『君が世界を変えていく』朝日出版社)の薫陶、育成に信念をもって取り組んでおります。
 今、数々の紛争、対立が局所的にも世界的にも起きています。各国政府は、増大する腐敗、貧困、戦争と必死に格闘しております。その全てにおいて、克服の鍵を握るのは教育です。
 池田博士は教育を、「平和と社会変革の基盤」と位置付けておられます。
 イサベラ大学もまた一貫して、教育を知識それ自体だけでなく、平和、文化推進のための強力な手段へと変革し、倫理的価値観を備えた機関や個人と国際的な関係を築き、広げてまいりました。
 池田博士の思想・哲学、またその事績は、人類の進歩のために不可欠な要素であるだけでなく、人間性を育てるために欠かすことができないものです。
 このような理由から、イサベラ大学は、卓越した学究的平和建設者であられる池田博士に、本学が贈る最高の賞讃と栄誉となる称号を授与させていただく運びとなりました。
 「平和・文化・教育」は、まさに今、私たちが苦心するこの世界を形作るのに、不可欠な要素です。
 池田博士のご行動は、一人一人の内発的な力の開花と、人間同士の連帯の構築に特色が表れています。そして、そのご行動はこれら三つの重要な要素の推進を促すものです。
 学術界に身を置く私どもは、池田博士の次のような主張を心に刻んでおります。
 「教育こそが人間を自由にするのであります。知性こそが、人類がそこで語り合える普遍的舞台であります。教育は人を偏見から解放します。暴力的熱狂から心を解放させます」(『池田大作全集』第101巻所収)
 これは、学生たちを何よりも、平和を訴える人間へと育て上げるわが大学の指標と一致しています。
 また、池田博士はこのようにもおっしゃっています。
 「真の勇気と信念をもった『一人』が立ち上がれば、必ず社会を変え、国を変え、世界に変革の波を起こすことができる」(J・K・ガルブレイス、池田大作著『人間主義の大世紀を』潮出版社)
 そして私たちも同じ信念で卒業生を輩出してきました。
 私たちは、池田博士がこれまでに世界中の学術機関から300を超える名誉学位を受章しておられることを、よく存じ上げております。しかし、それでもなお、世界に変革をもたらす博士のご貢献を讃えたいのです(大拍手)。
 博士の模範的な人生とご功績を考える時、イサベラ大学は、個人を讃えるために贈る栄誉として、本学最高の賞である「名誉人文学博士号」を授与できますとを、誇りに思います。
 このたびの授与の実現にご尽力いただいた全ての方々に心から感謝申し上げ、ごあいさつとさせていただきます(大拍手)。

グンパル副学長の授章の辞

60年にわたり人間主義で平和建設を導いた

 フィリピン共和国の国立イサベラ大学は、池田博士が世界に多大な変化を及ぼしたご功績を、ここに顕彰いたします。
 数々の賞を受けられた平和の提唱者、多くの著作を持つ作家、哲学者、学術機関の創立者、利他主義の模範である池田博士は、間違いなく、世界からの賞讃に値する人物です。
 池田博士は、哲学者として非暴力へと向かう世界の潮流を固く信じ、約60年もの間、人間主義による平和社会の建設を導いてこられました。
 池田博士は、一人一人の人間が持つ独創的かつ創造的な可能性を育み、平和と社会貢献への意識と、クローバルな視野を養うという理念に基づいた創価教育機関の創立者であります。
 池田博士は、対話は平和の礎であるとの揺るぎない信念から、1970年代より、世界の政治、文化、教育、学術など多岐にわたる分野の要人と対話を結んでおられます。
 健筆家であられる博士はこれまでに、仏法哲学から随筆、詩歌、童話、写真集に至るまで、多数の著作を出版しておられます。
 その模範的な人生とご貢献を讃え、フィリピン共和国の国立イサベラ大学は、誇りを持って池田大作博士に、「名誉人文学博士号」を授与いたします(大拍手)。

SGI会長の謝辞(代読)

世界へ新たな創造の活力を 希望の英知の結集をさらに

培った力は民衆のために
社会貢献こそ知性の府の使命
知勇兼備の真の世界市民たれ


 一、今、私の心には、麗しきカガヤンの天地に輝く貴イサベラ大学に勇んで入学した新入生のように、貴校の行進曲が新鮮に轟きわたっております。
 「いざ行進せん 我らの朗らかな歌を歌い
 おお 共に来たれ イサベラ大学の友よ」
 「共々に叫び この素晴らしき探求を謳わん
 地平まぶしく 我らの旗高し」と。
 何と力強い向学と連帯の讃歌でありましょうか。
 「卓越性と献身の文化」を誇る伝統を心に深く刻みつつ、本日、私は謹んで、名誉ある貴大学のスクラムに連ならせていただきます(大拍手)。
 尊き「名誉人文学博士号」の栄誉を、新入生を迎え、みずみずしい息吹で前進しゆく創価大学・創価女子短期大学の友と一緒に拝受できますことは、何ものにも代え難い喜びであります。誠に誠にありがとうございます(大拍手)。

大樹を育む聖業
 一、貴イサベラ大学の淵源は、1918年、エチャゲの地に開学した農学校にあります。
 4部屋の建物に、10人の教師で、100人の学生を迎え入れ、その尊き歩みを開始されたのです。以来、1世紀、フィリピン共和国をリードし、アジアの学術界を牽引する知性の府として大発展を遂げられました。
 教育の種は、時とともに、鮮やかな花を咲かせ、豊かな実りをもたらしながら、仰ぎみる大樹へと林立していくものであります。
 これほどロマンあふれる聖業があるでしょうか。
 1918年といえば、私の人生の師匠である、戸田城聖先生が、故郷の北海道で、青年教育者として第一歩を踏み出した年でもあります。
 国家主義の教育ではなくして、あくまでも「子どもの幸福」を願い、一人一人の尊厳なる生命の可能性を最大に薫発していった恩師の挑戦は、今、創価の学舎《まなびや》から巣立った幾千の教育者たちに受け継がれております。
 この恩師が敬愛してやまなかったアジアの大指導者の一人が、貴国フィリピンのマグサイサイ大統領でありました。
 恩師から託されて、創価の平和と文化と教育の機関紙・聖教新聞を、インドのネルー首相、中国の周恩来総理らと共に、マグサイサイ大統領へお送りしたことも、忘れ得ぬ思い出です。
 この偉大なる“民衆の大統領”は、語られております。
 「公務において私が求めた唯一の報酬は、民衆の信頼を得ることである」と。
 そして大統領は、「皆が共に」進むことが、堅固な社会を建設すると、一貫して訴えられたのであります。
 「皆が共に」──これは、貴イサベラ大学と、わが創価大学が深く共有する原点であります。

大学教育の原点
 一、本日は、この原点を、より具体的に敷衍しつつ、あらためて再確認しておきたいのであります。
 それは第1に、大学は「民衆と共に」ということであります。
 貴大学では、「教育が行き届かない全ての人に開放し、サービスを提供する」との哲学のもと、教職員が人々の中に分け入って、さまざまな教育活動、奉仕活動を展開されております。私は心からの共鳴を禁じ得ません。
 大学に学ぶ機会を得た青年たちは、そこで培った英知と力を、大学で学べなかった人々のために還元し、共々に幸福と平和の価値を創造していく──これは、大学の第一の使命であるといっても過言ではないでしょう。

地域に根ざして
 一、第2のポイントは、大学は「地域と共に」ということです。貴大学は、地域に根ざした教育活動を、一方通行で終わらせるのではなく、市民の積極的参加を促し、共に地域の発展に参画してこられました。まさに、民衆のエンパワーメント(能力開花)と、持続可能な開発のための大学としてのビジョンを実現する模範の取り組みであります。
 さらにまた、森林の植樹や農業の技術支援などを通して、自然環境の保全や、地域の産業の振興にも、多大な貢献を果たされております。
 ママワグ学長が、卒業する学生たちに贈られている励ましの言葉が、私の胸に迫ってまいります。
 「さあ、あなたの人生、あなたの地域社会、そして、あなたの国を築いていきなさい。自らが社会の“問題”ではなく、“解決策”となっていくのです」と。
 真の世界市民とは、グローバルな視野に立ちながら、自らの地域の課題に挑戦し打開しゆく、知勇兼備の行動の人であることを強く銘記したいのであります。

青年よダイヤモンドの如く輝け
栄光開く鍛えの道を


共々に学び成長
 一、第3は、大学は「学生が教職員と共に」ということです。
 先日、発刊された、アメリカの著名な教育哲学者であるヒックマン博士、ガリソン博士と私との鼎談集(『人間教育への新しき潮流──デューイと創価教育』第三文明社)でも、このテーマが話題となりました。
 すなわち、理想の大学教育のためには、学生と教員と職員とが一体となって、一人の人間として、共に学び合い、共に成長しゆく環境こそが、極めて重要だという点であります。
 「健全な倫理観を持つ、有能な人材の育成」を、その使命に掲げられる貴大学には、まさにそうした優れた気風が漲っております。
 ママワグ学長は、気高き人生の師から、人々の生命に“ダイヤモンドの原石”を見いだして、磨き上げていく信念を受け継がれております。
 ダイヤモンドはダイヤモンドでしか磨けません。大学とは、学生も教員も職員も、互いに求道の同志として、ダイヤモンドの如く、真摯に誠実に、錬磨し合い、尊厳なる生命を最高最大に発光させゆく場とはいえないでしょうか。

不屈の翼で飛翔
 一、そして、最後に申し上げたいのは、大学は常に「希望と共に」という点であります。
 自然災害の多い島に生まれ育ったママワグ学長は、幼くしてお母様を亡くされるなど、試練の青春を送られました。
 しかし、「学びの力」によって、その逆境を乗り越え、使命と栄光の人生を切り開いてこられました。
 学長は、いかなる環境にあろうとも、「教育という翼によって、人々は羽ばたき、新しい世界を見ることができるのです」と語られております。
 世界の前途に多くの難問が立ちはだかる今、大学はいやまして“希望の英知”を結集し、人類へ新たな創造の活力を贈っていかねばなりません。
 貴イサベラ大学の行進曲は、私たちに勇気ある飛翔を呼びかけております。
 「来たれ! そして戦わん!
 勝利に向かい前進せん! 声高らかに!」と。
 貴大学と創価大学が共々に、21世紀の天空高く、不屈の翼を広げて、この地球上に永遠のパガサ(希望)を創り広げてゆくことを、ここに決意し合って、私の御礼とさせていただきます。
 誉れの母校たる貴大学の無窮の大発展と、わが心にいつも光り輝くフィリピン共和国のいよいよのご繁栄を、心からお祈り申し上げます。
 マラミン・サラマッポ!(フィリピン語で「誠にありがとうございました」)(大拍手)
2014-04-27 : スピーチ・メッセージ等 :
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池田SGI会長指導選集 「幸福と平和を創る智慧」 第1部 第1章 1-1〜1-5

池田SGI会長指導選集 「幸福と平和を創る智慧」

はじめに

 池田大作SGI(創価学会インタナショナル)会長が、創価学会第3代会長に就任し、恩師・戸田城聖第2代会長の「地球上から悲惨の二字をなくしたい」との悲願を胸に世界に仏法を流布する旅を開始してから、本年で54年。民衆の幸福と世界の平和を実現するために走り続けてきた半世紀を超える激闘と、それに呼応して立ち上がった創価の同志の奮闘によって、SGIという人間共和の連帯は、192カ国・地域にまで広がりました。
 苦悩に沈む人々に勇気を与え、悲嘆に暮れる人々に希望を送るため、池田会長は、間断なく励まし、語らい、文章を綴り続けてきました。その言々句々には、行動する哲人の熱と力がみなぎり、人々の魂を奮い立たせずにはおきません。膨大な著述活動の一つの結実である『池田大作全集』(聖教新聞社刊)は、今や150巻になろうとしています。
 世界広布新時代開幕の時に当たり、同全集を中心に珠玉の言葉を抜粋し、「池田SGI会長指導選集『幸福と平和を創る智慧』」を編纂しました。世界各国で陸続と誕生している新たなメンバーが、池田会長の思想と哲学を学んでいけるよう、諸言語に翻訳して発信していきます。
 指導選集は、第1部「幸福への指針」、第2部「人間革命の実践」、第3部「広宣流布と世界平和」という三つの柱で構成されています。
 第1部「幸福への指針」では、相対的幸福・絶対的幸福という二つの幸福観、生命変革の原理としての十界論、生命変革の実践としての勤行・唱題の意味、「生も歓喜、死も歓喜」という仏法の生死観を示していきます。
 続く第2部「人間革命の実践」は、最も人間らしく勇気と智慧と慈悲を輝かせていく仏法者の生き方が中心となります。さらに第3部「広宣流布と世界平和」は、世界広布の理念と運動、人間主義の組織の在り方、牧口初代会長・戸田第2代会長・池田第3代会長という創価の三代に貫かれた師弟不二の精神、そして世界平和と生命尊厳の思想へとテーマが展開していきます。
 各章・各抜粋の冒頭には、重要なポイントが明瞭に伝わるよう、説明文を付しました。また、各抜粋には、例えばスピーチの場合は催しの名称・日時・場所を明記するなど、原文を辿れるようにしました。
 特にスピーチは、その時、その国で人々が現実に直面している個別の課題に真正面から応えようとしたものであり、あらかじめ体系を意図したものではありません。しかし、そこには時代・社会を超えた普遍的な精神性が脈打っています。そうした普遍的なメッセージが、世界各国の読者にわかりやすく、また誤りなく伝わるよう、著者である池田会長の了承を得て、部分的に省略するなど必要最小限の編集作業を施してあります。また、対談の場合は、読みやすさを考慮し、対談相手の箇所を略して池田会長の一連の文章としてまとめてあります。
 この指導選集を通して読者の皆様が広大な池田SGI会長の智慧を学び、民衆の幸福と世界の平和を目指す人間革命運動を進めゆく一助になれば、これに勝る喜びありません。

                  2014年4月 池田SGI会長指導選集編集委員会


第1部 幸福への指針

第1章 真の幸福とは?

この章を読むに当たって

 人は誰しも「幸福」を追い求めて生きています。しかし、「幸福」といっても、その内実は人ごとに千差万別です。様々な「幸福」の中で、誰もが心から満足できる「真実の幸福」は存在するのでしょうか?
 この章では、「相対的幸福」と「絶対的幸福」という2つの幸福観を示します。
 「財産がほしい」「名声がほしい」「地位がほしい」といった願いが叶うのは、「相対的幸福」です。こうした願いは際限がないものですし、たとえ叶ったとしても、時がたてばむなしく消え去ってしまいます。また、他の人と比べればたちまち色褪せもします。思い描いていたような満足感が得られず、後悔することもあるでしょう。「相対的幸福」のみを追求していても、真実の幸福の人生は築けません。
 これに対し、どのような苦悩や逆境に見舞われようとも、それを力強い生命力と豊かな知恵で乗り越え、「生きていること自体が楽しい」という境涯を、現実の人生において築いていくことが「絶対的幸福」です。万人が目指すべき人生の根本的な目的も、何より「絶対的幸福」の実現にこそあります。
 13世紀の日本に誕生した日蓮大聖人は、万人が自身の内なる仏界の生命を開くことによって「絶対的幸福」を実現する方途を確立しました。この大聖人の仏法を現代にあって地球規模で生き生きと展開しているのが、SGI(創価学会インタナショナル)です。
 次章以降では、本章で示された幸福観を踏まえ、生命変革の原理とその実現の方途を具体的に示していきます。

1-1 「絶対的幸福」のための信心

 どうすれば、いちばんいい人生が生きられるか──万人の根本問題に明快に答えたのが仏法です。日蓮大聖人は、自らが覚った妙法を全世界の民衆の幸福のために御本尊として顕しました。この節では、万人が求めるべき幸福とは、時とともに消え去るような「相対的幸福」ではなく、最高の歓喜と智慧と慈悲に満たされた、揺るぎない「絶対的幸福」であることを示します。さらに、仏法の三世の生命観を踏まえ、御本尊を信じ祈りぬいて、限りない生命力を湧き上がらせていけば、過去世からの宿命を現世で転換し、現世から来世へ「絶対的幸福」を開いていけると強調します。

【池田SGI会長の指針】

◎タイ総会でのスピーチから
                            (1994年2月6日、タイ)

 「人生、いかに生きていくか」「どうすれば、いちばんいい人生が生きられるか」──これこそ、万人にとっての根本問題である。生まれてきた以上、この課題を避けられない。
 これを追究したのが多くの哲学であり、思想であり、宗教である。また、政治や経済、科学なども、根底は、この課題と切り離せない。全部、人間がいちばん幸福に生きるための手段のはずである。しかし、これらのすべてが、「何が最高の人生か」に答えられない。明確な結論がない。誰人も納得できる道理のうえでの答えがない。
 これに、明快に答えたのが仏教である。釈尊であり、天台大師であり、日蓮大聖人であられる。釈尊の結論と、大聖人の結論は、まったく同じなのである。そのうえで、日蓮大聖人は、その結論に基づいて、万人が幸福になるための具体的な“機械”を残してくださった。戸田先生が「幸福製造機」とたとえられた御本尊を、全世界の民衆に与えてくださったのである。
 人間、何が幸せか。
 タイのことわざに、こうある。
 「偽物の幸福は人を図に乗らせ、醜く高慢にしてしまう。真実の幸福は人を歓喜させ、知恵と慈悲で満たしていく」
お金があるから幸福といえるか──。お金のために人生を狂わしていく人もあまりに多い。
 戸田先生は、「相対的幸福」に対して、「絶対的幸福」を説かれた。
 人と比較してどうとか、また時とともに消え去るような、はかない幻の幸福ではない。どんな時でも、「生きていること自体が楽しい」という境涯を開いていく──そのために信心するのだと教えられたのである。
 そうなれば、「真実の幸福は人を歓喜させ、知恵と慈悲で満たしていく」とあるように、最高の歓喜と知恵と慈悲がわいてくる。
 御書には「自他共に智慧と慈悲と有るを喜とは云うなり」(761㌻)──自他ともに「智慧」と「慈悲」があるのを「喜」(喜び)というのである──と仰せである。
 自分も人も「絶対的幸福」をつかんでいくための信心であり、広布の組織なのである。
 人生、いろいろなことがある。悲しみがあり、苦しみがある。毎日、いやなこともある。夫婦げんかもあれば、離婚して不幸になる場合もある。仲が良くても、子どもが病気になることもある。自分が病むこともある。ありとあらゆる悩みがある。生きていくことが、どれほどたいへんなことか──。
 その人生を「生きて生きぬく」ためのエンジンが信仰である。ロケットのように、悩みの雲を突きぬけて、ぐんぐん上昇していく。生き生きと、限りなく向上していく。幸福の大空を遊戯《ゆうげ》していく。そのための噴射力が信心である。
 南無妙法蓮華経と唱えれば、「生きぬく力」がわいてくる。「希望」がわいてくる。煩悩即菩提で、悩みを喜びに、苦しみを楽しみに、不安を希望に、心配を安心に、マイナスをプラスに、すべて変えながら生きぬいていける。絶対に行き詰まりがない。
 大聖人は「妙とは蘇生の義なり蘇生と申すはよみがへる義なり」(御書947㌻)──妙とは蘇生の義である。蘇生とは蘇るということである──と仰せである。
 個人も、団体も、社会・国家も、すべてに「生きゆく活力」を与え、みずみずしく蘇生させていく。それが妙法の偉大なる力である。
 人間には、宿命もある。
 「自分は、もっとお金持ちの家に生まれたかった」──しかし生まれてこなかった。
 「自分は、もっと美人に生まれてきたかった」──しかし……もちろん、タイの人は皆、美しい。これは、よその国の話である(笑い)。
 その他、宿命的な、いろいろな課題がある。これは根本的には、三世という生命観から見なければ、わからない。厳然と前世があり、因果がある。
 前世に、地球にいたとはかぎらない。天文学でも今や、莫大な数の星がある宇宙には、人間のような知的生物がいると考えられている。
 そして今、私どもは、ここに、現実に生まれてきた。これは厳粛な事実である。この自分自身をどうするか。どう宿命を転換し、すばらしき最高の人生を創っていくか。
 結論していえば、信心こそが、すべての宿命を転換できる。自分のいる、その場を、そのまま幸福の寂光土にしていける。
 そして「現当二世」と教えられているように、つねに、今から未来へ、今から未来へと、どんどん人生を開いていける。来世も、また次の来世も、無限に開ききっていける。無量の「宝」をわが身に開き、わが身に満たして輝いていける。これが私どもの「信心」である。

1-2 「相対的幸福」と「絶対的幸福」

 創価学会の牧口常三郎初代会長は「最高の価値を創造して最大の幸福を獲得する、それが人生の目的である」と述べ、戸田城聖第二代会長は「絶対的幸福」というのは、生きてそこにいる、それ自体がしわせなのです」と語っています。この節では、こうした洞察をもとに、創価学会が人々の「最大の幸福」「絶対的幸福」を目指す団体であることを示します。

【池田SGI会長の指針】

◎リオデジャネイロ総会でのスピーチから   (1993年2月13日、ブラジル)

 人生の目的は何か。幸福である。仏法の目的も、信心の目的も、幸福になることである。
 大聖人は、「一切衆生・南無妙法蓮華経と唱うるより外《ほか》の遊楽なきなり経に云く『衆生所遊楽』云云」(御書1143㌻)──一切の衆生にとって、南無妙法蓮華経と唱えるより外に、遊楽はないのである。経(法華経の寿量品)には「衆生の遊楽する所」(創価学会版法華経491㌻)──と仰せである。
 あえて分ければ、「遊」とは、人生を自在に生きていくこと、「楽」とは、人生を心から楽しむこと、といえるかもしれない。
 強い生命力と、豊かな知恵があれば、ちょうど、波があるから“波乗り”が楽しめるように、険しい山があるから“山登り”が楽しめるように、あらゆる人生の苦難も、楽しみながら乗り越えていける。
 その生命力と知恵の源泉が妙法であるがゆえに、「南無妙法蓮華経と唱えるより外《ほか》に、遊楽はない」と仰せなのである。
 現実は厳しい。その厳しさに堂々と挑戦し、生活のうえでも、職場、学校のうえでも、家庭においても、堂々とすべてを勝っていく。さらに勝っていく。その「無限の向上」の原動力が仏法であり、信心である。
 信心の「知恵」と「生命力」あるところ、すべてを、いよいよ明るい方向へ、いよいよ力強い方向へと向けていける。
 観念ではなく現実に勝利また勝利できる、そういうリズムに入っていけるのが、賢明な真の信仰者である。
 戸田先生は、幸福について、こう指導されている。(昭和30年1月23日、西日本3支部連合総会。『戸田城聖全集』第4巻。以下同じ)
 「幸福というものについて、一言教えておきましょう。それは、幸福には、絶対的幸福と相対的幸福という二つのものがある。絶対的幸福を成仏というのであります」
 「相対的幸福というのは、私は100万円の金がほしい、わしはああいうきれいな奥さんをもらいたい、わしはりっぱな子供をもちたい、ああいう家を建てたい、こういう着物を買いたい、その願いが、一つ一つかなっていくのを相対的幸福というのです」
 「そういうような幸福は、あんまりたいしたものではない。しかし、それを幸福なものだとみな思い込んでいる。
 しからば、絶対的幸福というのは、なにものぞや。絶対的幸福というのは、生きてそこにいる、それ自体がしあわせなのです」
 「絶対的幸福というのは、金にも困らず、健康もじゅうぶんである。一家のなかも平和で、商売もうまくいって、心豊かに、もう見るもの聞くものが、ああ、楽しいな、こう思う世界が起こってくれば、この世は、この娑婆世界が浄土であって、それを成仏というのです」
 「それは、なにものによって得られるか。相対的幸福感から、絶対的幸福感へといかなければならん。これは、この信心以外には、ほかの信心では絶対できないことです。
 それを教えるのに、私は大わらわになっているのだから、疑わずに信じて、そうして、そういう生活になってもらいたいと思う」──と。
 牧口先生は、「『金をためたい、金ができた。家がほしい、家ができた。そこで酒を飲む、ぜいたくをする。もうその先はわからない』。このような種類の人は、人生の目的を知らない人である」とよく話されていた。そして、人生の目的について、「最高の価値を創造して最大の幸福を獲得する、それが人生の目的である」と明確に示されている。
 「創価学会」という名称は、最高の価値を創造し、最大の幸福を実現する団体、という意味なのである。
 人生の目的は、最大の幸福、すなわち絶対的幸福を実現することである。
 絶対的幸福とは、時間がたっても変わることなく、永遠に続くもので、外の条件に影響されることがなく、生命の内からこみあげてくる幸福感といってよい。
 世間的な地位や財産、満足等の一時的なものではない。「法」にのっとって生き、「法」のうえでいかなる位を得ていくか。その「生命の位」は、法とともに永遠である。私どもは永遠の「生命の王者」として生きられるのである。「病気や貧乏でも、幸せだと思えば幸せだ」という考え方もあるが、生命の奥底からの実感であればともかく、観念でそう言ってもしかたがない。
 「心の財」は「身の財」「蔵の財」となって現れてくる。
 私は日々、皆さまの「裕福」「健康」「長寿」を、一生懸命、祈っている。これからも一生涯、祈りに祈っていく。皆さまが、「私の人生は幸福だった」「悔いがなかった」「充実していた」と「所願満足」の一生を送られることが、私の心からの願いである。

1-3 「今生きている場所」で幸福に

 「別の地域に行けば、もっと幸せになれるかもしれない」等々、人は往々にして、幸福を観念の彼方に描きがちです。しかし、本当の幸福は、今生きている場所で現実と格闘しながら希望の歩みを運ぶなかにこそあります。この節では、日蓮大聖人の御聖訓をもとに、今生きている所それ自体を、勝利と幸福の国土にしていく信心の姿勢を示します。


【池田SGI会長の指針】

◎大学会、豊島区合同研修会でのスピーチから   (1986年12月7日、東京)

 日蓮大聖人は、「御義口伝」で「此人《しにん》とは法華経の行者なり、法華経を持ち奉る処を当詣道場と云うなり此《ここ》を去って彼《かしこ》に行くには非ざるなり、道場とは十界の衆生の住処を云うなり、今《いま》日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者の住処は山谷曠野皆寂光土なり此れを道場と云うなり」(御書781㌻)と仰せである。
 これは、「法華経普賢品第28」の、末法に法華経を受持し、信行に励む人について「此の人は久しからずして、当《まさ》に道場に詣《いた》りて」(創価学会版法華経676㌻)と説かれた文についての御義口伝である。
 「此の人」とは、法華経の行者であり、別しては日蓮大聖人である。総じては三大秘法の南無妙法蓮華経を受持し、実践する人である。そして、この三大秘法の仏法を受持し修行しているその場所こそ、一生成仏にいたる「当詣道場」なのである。
 この娑婆世界を去って、極楽浄土等の他土へ行くのではない。道場とは十界の衆生の住処をいうのである。いま、日蓮大聖人およびその門下として南無妙法蓮華経と唱える者の住処は、それが山谷曠野いずこにあっても、すべて「寂光土」すなわち「仏国土」なのである。これを道場といったのである、との仰せである。その人がいる、その場所が「寂光土」になっていく。その「一念」の深さを示唆された御文である。
 人は往々にして、幸福を観念の彼方に描きがちである。たとえば、別の地域に行けば、もっと幸せになれるかもしれない。他の会社に移れば、より豊かな楽しい生活があるかもしれない等々、つねに他に夢を抱き、期待を寄せようとする。若い方々は、なおさらであろう。
 しかし、人それぞれに使命も、生きるべき場所も異なる。
 自分はここで、この世界に深く根を取ろうと決め、現実と格闘しつつ、日々忍耐強く希望の歩みを運んでいった人が勝利者なのである。心定まらず、浮草のようなさすらいの人生であっては断じてならない。
 ゆえに私は、“足下を掘れ そこに泉あり”“自己自身に生きよ”と申し上げておきたい。
 要するに、幸福という実感も、人生の深き満足感も、自分自身の生命の中にある。その根本的“法”が妙法であり、それを自身の大原動力としていけるのが信心である。ゆえに今、信心修行している所が「寂光土」であり、社会が即「寂光土」となる。また今生きている所それ自体を、勝利と幸福の国土としていけるのである。

1-4 「幸福の宮殿」は自分自身の生命に

 世間には、財産や名声や地位など、人それぞれの「宮殿」があるものです。この節では、あらゆる人の生命の中に、仏界という永遠不滅の幸福の「宮殿」があることを明かします。そして、信心によって自身の生命の「宮殿」を開いていけば、現実の人生においても物心ともの幸福を築いていけることを示します。

【池田SGI会長の指針】

◎長野県総会でのスピーチから   (1990年8月12日、長野)

 多くの人々が求めてやまない「幸福の宮殿」、永遠不滅の「幸福城」は、どこにあるのか。どうすれば自分のものとすることができるのか──。
 日蓮大聖人は「御義口伝」で次のように仰せである。
 「南無妙法蓮華経と唱え奉るは自身の宮殿に入るなり」(御書787㌻)──南無妙法蓮華経と唱えることは、自分自身の生命の宮殿に入ることである──と。
 どのような人の生命にも、仏界という金剛不壊の生命の境界《きょうがい》がある。それは、いわば、まばゆいばかりの無量の“財宝”で飾られた、永遠不滅の幸福の「宮殿」である。信心をし、題目を唱えることによって、その生命の宮殿に入っていくことができる。つまり、自分自身の生命の宮殿を、燦然と輝かせていくことができると教えられているのである。
 世間には、人それぞれの「宮殿」がある。財産や社会的地位を求める人もいる。また、名声や人気や流行などに憧れることもある。しかし、それらは、確固不動の大山のように永遠性のあるものではない。移ろいゆく人生のなかで、ホタル火のごとく、美しく点滅しては、いつしか消え去ってしまうものである。
 はかなく消えゆく世間の栄えを求める人生も、またむなしい。いつかは無常に帰す虚像の幸福に、あれこれと心を動かすことも、またわびしい。
 大聖人の仰せのごとく、自身の生命の最高の境涯──それこそが、永遠にして不滅の「宮殿」であり、「幸福城」なのである。
 どんなに立派な家に住み、多くの富に恵まれていても、心が卑しく、境涯が低ければ、決して幸福とはいえない。それでは、「不幸城」に住む人となってしまう。
 たとえ今は、どのような環境にあっても、心美しく豊かで、境涯の高い人は、必ず物心ともの幸福を開き、築いていくことができる。
 これは、依正不二の原理として説かれているとおりである。依正不二とは簡潔にいえば、依報である環境と正報である主体、自分自身とが一体不二の関係性にあることである。
 また、自分自身の生命の宮殿を開いていくことが、やがて他の人々の幸福の宮殿、社会の繁栄の宮殿を開いていくのである。自身の生命の宮殿を開きながら、それが他の人の生命の宮殿を開いていくという連動性──ここに、仏法のすばらしき方程式がある。
 現代のように複雑で、ともすれば悪の蠢動に巻き込まれがちな社会では、人生を聡明に生きていく知性が大事である。一方、信心は幸福への境涯を開くものである。この信心と知性の両者を磨き深めた人こそ“人間王者”の姿であり、人生の王道を歩みゆく生命の勝利者なのである。
 ともあれ、信心によって、自分自身の生命の宮殿を三世永遠に輝かせていく。その人こそ最高の幸福者である。
 皆さま方は、広布の活動によって、日々、みずからの生命の中に幸福の「宮殿」を築き、開いておられる。ゆえに、一生成仏は間違いないし、必ずや宇宙大の生命の宮殿に住む“幸福の王者”となっていけるにちがいない。どうか、その強い確信と誇りをもって、明るく、堂々と信心の大道を進んでいただきたい。

1-5 幸福を開く六つのカギ

 「相対的幸福」と「絶対的幸福」という幸福観を踏まえ、この節では、幸福を聞く力ギとなる具体的な六つのボイントを示します。第1に「充実」、第2に「深き哲学をもつ」こと、第3に「信念をもつ」こと、第4に「朗らか」に生き生きと生きること、第5に「勇気」、第6に「包容力」です。これらすべても、結局は「信心」の二字に収まり、信心に生きぬく人生こそが「最高に幸福な人生」であると強調します。

【池田SGI会長の指針】

◎SGI総会でのスピーチから   (1966年6月23日、アメリカ)

 日蓮大聖人は仰せである。
 「一生空しく過して万歳悔ゆること勿れ」(御書970㌻)──一生をむなしく過ごして、万年の間、悔いてはならない──と。
 人生いかに生きるべきか。どう生きることが、いちばん価値があるのか。
 日本の著名な作家の言葉に「花のいのちは みじかくて 苦しきことのみ 多かりき」(林芙美子)とあった。花は、ぱっと咲いて、ぱっと散る。長く残るのは苦しきことのみである──と。人生も事実、そのとおりかもしれない。
 ある哲学者は、一生の終わりに計算してみて、楽しいことのほうが多かったか、それとも苦しみのほうが多かったか、その結果によって幸・不幸を決めるしかないかもしれない、と語っている。
 どんなに地位があり、財産があっても、幸福をつかめない人は多い。どんなにすばらしい結婚をしても、いつかは愛する人と別れなければならない。愛別離苦は避けられない。
 どんなに有名人になっても、病気で苦しみきって死んでいく人は、たくさんいる。美しく生まれたために、かえって、人生を不幸にする人も少なくない。
 いったい、幸福は、どこにあるのか。どうすれば幸福になれるのか。これが人生の根本問題であり、永遠に追求すべき課題である。これを解決したのが仏法であり、信心なのである。
 結論的にいえば、「幸福は自分自身をどう確立するか」という問題である。立派な邸宅とか、名声といった外面的な幸せは「相対的幸福」である。揺るぎない「絶対的幸福」ではない。
 どんなに幸福そうな環境にあっても、自分自身がむなしさを感じ、苦しみを感じていれば、不幸である。
 最高に立派な家の中で、けんかばかりしている人もいる。
皆がうらやむ有名な会社に勤めていても、いつも上司から叱られ、仕事に疲れ、味けない思いをかみしめている人もいる。
 幸福は“見かけ”のなかにはない。“見栄”のなかにはない。自分自身が実際に何を感じているか、その生命の実感の問題である。
 それを前提に申し上げれば、幸福の第1条件は、「充実」であろう。
 「本当に張りがある」「やりがいがある」「充実がある」──毎日が、そのように感じられる人は、幸福である。多忙であっても充実感がある人のほうが、暇でむなしさを感じている人より、幸福である。
 私どもの場合、朝起きて勤行をする。いやいやの人もいるだろうが(笑い)、勤行をすること自体が偉大である。勤行は、いわば大宇宙を見わたし、見おろしていく荘厳な儀式である。宇宙との対話である。
 御本尊に向かって勤行・唱題することは、わが生命の夜明けであり、太陽が昇ることであり、このうえない生命の充実である。この一点だけでも、私どもは幸福である。
 幸せそうに見えても、朝から憂うつな気分で1日をスタートする人もいる。朝、奥さんに叱られ(笑い)、「何で、こんな結婚をしちゃったんだろう」と(笑い)、ふさぎこんで1日を出発する──これでは不幸である。充実はない。
 朝だけをとっても、私どもは最高に充実した、価値ある人生となっている。
 そのうえ、だれよりも立派に仕事し、生活を勝利しきって、あまった時間を「法のため」「広宣流布のため」「人のため」「社会のため」に使っている。
 “根性曲がり”の人間が多い末法にあって(笑い)、苦労しながら、ただ相手の幸福のために、祈り、足を運び、語り、心をくだき、面倒をみておられる。
 まさに菩薩であり、これほど偉大な「哲学ある人生」はない。最高の哲学を実践し、弘めておられるのが皆さまである。
 それだけの価値ある哲学をもったということ──それ自体が幸福である。幸福の第2の条件は、「深き哲学をもつ」ことである。
 第3に、「信念をもつ」ことである。何が悪か、何が善か、わからない時代になってきた。
 これは世界的傾向である。このままでは、人類は混乱と退廃に向かう以外にない。そのなかにあって、皆さまは「最高善」の仏法を奉じ、その教えを実践しぬいておられる。
 日蓮大聖人の仰せに「詮ずるところは天もすて給え諸難にもあえ身命《しんみょう》を期《ご》とせん」(御書232㌻)──結局のところは、諸天もわれを捨てたまえ。諸難にもあえ。身命をなげうとう──と。
 “日本国の支配者の地位をゆずろう”というような誘惑、“父母の頸をはねるぞ”というような脅迫にも紛動されてはならない、と。
 何があろうと、大聖人の言われるままに、厳然と「信念」を貫くことである。そういう「信念」のある人が、必ず幸福になる。それが皆さまである。
 第4に、「朗らか」に、生き生きと生きることである。
 「いつも文句」「いつもグチ」──それでは自分も周囲も不幸である。いつも前向きに、はつらつと生きている。
 人にも「あの人と会うと元気が出る」「気持ちが明るくなる」と言われる朗らかさがある。その人は幸福である。皆にも希望をあたえる。
 いつ会っても、つまらなそうな顔をして(笑い)、喜びも感激もない。それでは、人生は暗い。
 反対に、奥さんに叱られても、「何か浪花節が聞こえるな」(笑い)。子どもの成績が悪くても「将来、だんだんよくなる前兆だ」(笑い)。たとえば、そういうふうに、全部、よい方向に、よい方向に、とらえていく。その強さ、賢さ、明るさが幸福を生む。
 すべてを善意で受けとめるといっても、愚かな、お人よしになるという意味ではない。現実をしっかり見つめつつ、よい方向に受けとめることによって、実際にその方向にもっていくという「賢明さ」のことである。そういう「人格」をつくるのが、信仰であり、仏法である。そういう人格を築き上げれば、いかなる財産よりもすばらしい人生の宝である。
 第5の条件は、「勇気」である。勇気のある人は、何でも乗りきっていける。勇気のない臆病な人は、人生を楽しめない。それでは不幸である。
 第6の条件は、「包容力」である。包容力のある人は、皆に安心感をあたえる。
 小さなことで人を責めたり、いちいち騒ぎ立てたり、そういう心の狭い人は、皆を疲れさせるし、怖がらせる。
 リーダーは、怖がらせてはいけない。疲れさせてはならない。あたたかく、皆が安心して親しめる包容力がなければならない。大海のごとく広々とした心をもつ人は、自分も幸福である。周囲も幸福である。
 これらのすべての条件も、結局は「信心」の二字に収まっている。信心に生きぬく人生こそが「最高に幸福な人生」なのである。
 御聖訓に「南無妙法蓮華経は歓喜の中の大歓喜なり」(御書788㌻)と。
 このお言葉を、しみじみと実感し、晴れやかに証明する皆さまであっていただきたい。
2014-04-23 : 池田SGI会長指導選集 :
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「世界広布新時代第5回本部幹部会」「聖教新聞創刊記念配達員大会」「SGI春季研修会」へのメッセージ 

「創価学会の日」「創価学会母の日」祝賀「世界広布新時代第5回本部幹部会」「聖教新聞創刊記念配達員大会」「SGI(創価学会インタナショナル)春季研修会」へのメッセージ                     (2014.4.19 東京戸田記念講堂)

 5月3日「創価学会の日」「創価学会母の日」を祝賀する「世界広布新時代第5回本部幹部会」が19日午後、「聖教新聞創刊記念配達員大会」「SGI(創価学会インタナショナル)春季研修会」の意義を込め、巣鴨の東京戸田記念講堂で晴れやかに開催された。これには、原田会長、正木理事長、杉本婦人部長をはじめ各部の代表が、海外60カ国・地域から来日したSGIの友と出席した。池田名誉会長はメッセージを贈り、地域に社会に「生命の喜びの凱歌」を高らかに響かせようと強調。「輝き光る5月3日の創価家族、万歳!」と呼び掛けた。席上、山本伸一作詞・音楽隊有志作曲の新学会歌「誓いの青年よ」が発表された。
 その瞬間、会場から驚きと喜びの大歓声がわき起こった。
 世界広布新時代の5月3日、そして各地で開催される「創価青年大会」を祝して、池田名誉会長の手による新学会歌が劇的に紹介されたのである。
 タイトルは「誓いの青年よ」。
 ♪誓いの青年よ 出発は今 広布の大願いざや果たさん……
 「本日(19日)の本部幹部会で発表を!」との名誉会長の提案を受け、音楽隊・創価グロリア吹奏楽団の演奏、しなの合唱団の歌声で初披露されると、場内はスタンディングオベーション(総立ちの拍手)に包まれた。


信ずる後継よ 不二の生命よ 平和の地球を 世界の友と!

自他共に大歓喜の人生を
「5・3」の恩師の叫び
「妙法を受持させて 皆を幸福に」
日本一の音楽隊・鼓笛隊ありがとう!


 一、日本全国、そして、全世界の創価家族と共に、勝利、勝利、大勝利の「5月3日」を迎えることができ、これほど嬉しいことはありません。
 牧口先生も、戸田先生も、広宣流布に走りゆく全同志の奮闘を、どれほど喜んでくださっていることか。
 世界広布の新時代を牽引されゆく、宿縁深き五大州、60カ国・地域のSGI(創価学会インタナショナル)のリーダーの皆さん方、本当にようこそお越しくださいました。全員の尊い署名簿も、御宝前にお供えして、題目を唱えました。
 皆で、あらためて、熱烈に歓迎申し上げようではありませんか!(大拍手)

配達員の友の大功労に喝采
 一、また、人間主義の機関紙・聖教新聞を、雨の日も風の日も、配達してくださっている、陰の大功労者であられる「無冠の友」の皆さん!
 いつもいつも、ありがとうございます。ここで重ねて、大拍手をお送りしたいのであります(大拍手)。
 一、きょうは、簡潔に一点、「創価の世界市民よ、生命の喜びの凱歌を高らかに!」と申し上げたい。
 人間の真実の喜び、人生の究極の喜びとは、何か?
 「御義口伝」には、明快に示されております。
 すなわち──
 「自他共に智慧と慈悲があることを、『喜び』というのである。
 所詮、今、末法において、日蓮大聖人とその門下が、南無妙法蓮華経と唱え奉る時、必ず無作三身の仏(本来ありのままの仏)の生命を開き、現していけることを、『喜び』というのである」 (御書761㌻、通解)と記されております。
 仏法の広大無辺の境涯から見れば、自分だけの名聞名利の喜びなど、ちっぽけな、はかない幻に過ぎません。
 どんなに苦しい試練であれ、どんなに厳しい宿命であれ、妙法を唱えて、断じて負けない。断じて屈しない。悲しみも嘆きも、勝ち越えて、苦悩の友を励まし包みながら、智慧と慈悲の世界を創り、広げていく。
 ここに、我らの尽きることのない喜びの連帯があります。
 この「歓喜の中の大歓喜」の生命を、元初の太陽の如く、いやまして自他共に光り輝かせていく出発の日が、5月の3日なのであります。

創価青年大会を楽しみに見守る
 一、60年前の5月3日、戸田先生は両国の旧・国技館で行われた総会の席上、師子吼されました。
 ──「学会精神」とは何か? 「日蓮大聖人の時代に還ること」である。そして、それは、大聖人の御心を心として、妙法を一人一人に受持させ、断固と
して皆を幸福にしていくことである──と叫ばれたのです。
 この御本仏に直結する「5月3日」の学会精神の誓いを、私たちは、未来永遠に流れ通わせてまいりたい。
 これから全国各地で行われる「創価青年大会」も、私は最大の楽しみとして見守っております。
 思えば、この60年前の5月に、私の手作りで誕生したのが、広布の楽雄・音楽隊です。発足時は16人。それが今や、日本一の楽団に大発展を遂げました。平和の天使・鼓笛隊と共々に、世界中ヘスクラムを広げ、希望と勇気の妙音を奏でてくれています。本当に、ありがとう!(大拍手)
 一、人生は、どこまでいっても、行き詰まりとの戦いです。
 大聖人は、「大難来りなば強盛の信心弥弥悦びをなすべし」(同1448㌻)と仰せになられました。
 難が競い起こったならば、いよいよ強盛の信心を奮い起こして、挑み立つ。そして、一つ一つ行き詰まりを、喜び勇んで打開しながら、一歩また一歩と、粘り強く仏の境涯を開いていく。
 これが、私たちの「発迹顕本」です。
 ともあれ、これからも、我らの世界広布の前進は、決して止まらない。
 なぜか?──それは、幸福を求め、平和を願う友が待っているからです。仏法の生命尊厳の哲理を、世界の民衆が渇仰してやまないからです。
 さあ、誇りも高き創価の世界市民は、一人一人を誠実に励ましながら、わが地域に、わが社会に、我らの地球に、「生命の喜びの凱歌」を勇気凜々と響かせていこうではありませんか!

創価の母に心から感謝
 一、終わりに、5月3日「創価学会母の日」に寄せて、日本と世界の偉大な婦人部の方々へ、心からの感謝を捧げたい。
 そして、人類の太陽である創価の母たちが、ますます健康で、ご長寿で、常楽我浄の生命の旅であられることを、心よりお祈り申し上げ、私のメッセージといたします。
 皆、お体を大切に!
 輝き光る5月3日の創価家族、万歳!(大拍手)
2014-04-20 : スピーチ・メッセージ等 :
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随筆 民衆凱歌の大行進 No.4 正義の言論魂

随筆 民衆凱歌の大行進 No.4 (2014.4.19付)

正義の言論魂

創刊63周年 今日も「聖教新聞」と前進!
希望の「声」を社会に 友の心に!


 百花繚乱の春。生き生きと伸びゆく若葉も、まばゆい輝きを放っている。
 長く厳しい冬を勝ち越えた北国の友からも、嬉しい花便りをいただく。
 4月から5月へ、心躍り生命の弾む季節である。
 「エラン・ビタール」(生命の飛躍)──これは私が青春時代に愛読した、フランスの哲学者ベルクソンの有名な言葉である。
 私が戸田城聖先生に初めてお会いした座談会に誘われた時、「生命哲学」の話があると聞いて、ベルクソンの哲学を学ぶ集いかと思ったことも、懐かしい。
 清新なる息吹で前へ! 「生命の飛躍」を体現したような躍動は、就職や進学など、新たな出発を切ったフレッシュな友の姿そのものでもあるだろう。
 新しき希望の門は、常に我らの前に開かれている。
 わが創価の青年は、若々しい活力を発揮して、自分らしく新たな価値の創造に挑んでいただきたい。
 とりわけ挨拶が大事だ。明るい、ハキハキとした挨拶の声が響くだけで、新鮮な薫風が広がる。張りのある声一つで、空気がパッと変わる。私も、新入社員の頃から、元気な挨拶を心掛けたものである。
 嬉しいことに、総本部をはじめ各地の会館を訪問された内外の方々から、創価班や牙城会、白蓮グループなどの友の清々しい挨拶と誠実な振る舞いへの感謝も、多数寄せられている。

一日の出発の挨拶
 御聖訓に「梵音声と申すは仏の第一の相なり」(御書1122㌻)と仰せである。
 衆生を救いゆくために仏が具える特性の第一は、「声」なのだ。それは何か特別な声ではない。相手を思いやる深く強い慈愛の声といえまいか。その真剣にして確信あふれる響きが、人びとを励まし、救う力を持つのである。
 「声仏事を為す」(同708㌻)である。広宣流布のため、我らは、今日も堂々と、正義を師子吼する!
 この「声の力」を文字・活字に込めて、一人また一人と、日本全国そして全世界の幾百千万の友の心に伝え続けているのが、わが聖教新聞といってよい。
 尊き尊き「無冠の友」が配達してくださる聖教を手に取れば、希望あふれる見出しや笑顔光る写真が目に飛び込んでくる。同志の多彩な活躍や不屈の体験の記事がある。そこから「さあ、一日の出発だ!」とスイッチが入るという人も、多くおられるであろう。
 「精神を覚醒させることは、ただ生きた言葉だけがなしうることである」
 これは、牧口常三郎先生も敬愛されていた、デンマークの大教育者クリステン・コルの言葉である。
 毎朝、友の心に「希望の挨拶」を!
 日々、読者のもとへ「勇気の旭日」を!
 そして、すべての人に「幸福・勝利の智慧」「平和への英知」の花束を!
 4月20日は、創価の言論城たる聖教新聞の創刊63周年の記念日である。
 聖教新聞を常に支えてくださっている新聞長をはじめ全国の同志の皆様、そして愛読者の皆様方に、心から感謝を申し上げたい。

友情結ぶ心の広場

 晴ればれと
  無冠の友の
     幸の舞

 聖教新聞の重要な柱は、信仰体験である。今や各国SGI(創価学会インタナショナル)の機関紙誌に載った世界の友の体験が、どんどん聖教本紙にも翻訳紹介される時代になった。
 いずこにいても、わが同志は感動と誓いを共有し、人間主義の言論のスクラムで結ばれているのだ。
 先日、聖教の「声」の欄に掲載された、秋田の婦人からの投稿に、妻が感銘していた。
 今年で入会50年。ご一家の誇りは「皆が聖教新聞の配達員を経験していること」。亡くなられた母上に始まり、ご本人と、姉、弟、さらに息子さんたちも配達に携わってこられた。家族が集まれば、「聖教を一人でも多くの人に読んでもらいたいね」と、夢を語り合っておられるそうだ。
 この婦人は先月の「新生・東北総会」を荘厳しようと、年頭から聖教の拡大に先駆。近隣を回り、対話を重ねられた。初めて聖教を購読された友も多かった。聖教を通して学会理解を深め、自ら進んで入会された壮年もいたという。
 その秋田の婦人のもとに、聖教の販売店を通じて、同じ東北・福島の婦人から便りが届いた。
 掲載された「声」の欄の記事を見て、「実は、私も今年で入会50周年。『無冠の友』として聖教を配達しています」との心からの共鳴を伝えるものであった。
 聖教を心の広場として、なんと麗しい信頼と連帯が織り成されていることか。
 今回、共に新たな鼎談集を発刊した、米国のデューイ協会元会長のガリソン博士は語ってくださった。
 「センセーショナルな報道や暗いニュースが多い世の中にあって、聖教新聞は、人と人とを結びつけ、そして人々の善性を引き出しておられる。素晴らしいことです」
 世界の知性と手を携え、善と希望のネットワークを広げゆく聖教の使命は、いやまして大きい。

ジャスティース‼
 九州・宮崎の出身で、戦前、創価教育学会の顧問を務め、外交官また言論のリーダーとして活躍された秋月左都夫氏の逸話がある。
 秋月氏が新聞記者を志す青年に質問をした。
 「記者として一番大切なことは何か?」
 青年が即答できずにいると、秋月氏は拳で机を叩いて一言、「ジャスティース(正義)‼」と叫ばれたというのである。
 わが聖教新聞は、生命尊厳の哲理を高らかに掲げた、誇り高き正義の言論城である。その正義は、そのまま民衆の幸福と世界の平和に直結している。
 “広布の使命完遂のために聖教新聞は働くのだ”と、戸田先生は、訴えておられた。そして勇んで執筆に臨まれる雄姿は、私のまぶたに焼き付いて離れない。
 弟子の私もまた、恩師の「聖教魂」を受け継いだ。
 今年は、私が1964年(昭和39年)の12月2日、沖縄の地で小説『人間革命』の執筆を開始して50年となる。聖教連載は『新・人間革命』と合わせて、6800回を超えた。
 私が古稀を迎えた1998年(平成10年) 1月、当初「随筆 新・人間革命」と題して始めた、この随筆の執筆も17年目に入り、先月11日付の掲載で通算700回を数えた。
 執筆は戦いだ。聖教の誇りである、全国の通信員の方々も、私と共に真剣勝負の心で、広宣流布の言論戦を担ってくださっている。
 1980年(昭和55年)の4月、私は、中国の作家・巴金先生を、未来部の友と一緒に静岡研修道場にお迎えした。文化大革命の迫害を耐え抜き、勝ち越えられたペンの闘士である。以来、何度もお会いし、文学観、人生観等を縦横に語り合ったものだ。
 巴金先生がペンを握り、文字を綴る時、信念とされていたのは「心を読者に献げること」であった。
 わが言論は、読者の期待に合致しているだろうか。社会の進歩に対して貢献しているだろうか──と。
 そして「人はすべて絶えず前進するものであり、人類社会はすべて不断に発展するものである」と、巴金先生は訴えておられた。

常に挑戦の新風を
 聖教もまた、常に前進、前進である。自ら前進するから、人びとに前進の力を送ることができるのだ。
 わが聖教よ! 常に新しく! 常に挑戦の心で! 常に勇気凜々と!
 広宣流布の大舞台で新風を巻き起こせ!
 私もいやまして「正義の言論魂」を燃やし抜いていく決意である。
 ギリシャの哲人ソクラテスは問いかけている。
 「自分も前より良い人間となり、友達をもますます善い人間にしてつきあえるという考えより、なお楽しいことが、またとあり得ると君は思うか」と。
 その通りだ! 聖教と共に、我らは今日も、この「人間革命」の対話の正道を、そして「立正安国」の言論の大道を爽快に切り開いていこうではないか!

 天空に
  虹を架けゆく
      今日の筆

 コルの言葉は『コルの「子どもの学校論」』清水満訳・解説(新評論)。秋月左都夫の逸話は『志賀直哉全集7』(岩波書店)から。巴金の最初の言葉は『随想録』(筑摩書房)、二つ目は『無題集』(同)から、いずれも石上韶訳。ソクラテスはクセノフォーン著『ソークラテースの思い出』佐々木理訳(岩波書店)。
2014-04-19 : 随筆 民衆凱歌の大行進 :
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勝利の人間学 31〜50

池田名誉会長が贈る 勝利の人間学

第31回 創価の全権大使たれ     (2013.6.5付 創価新報)

勇気こそ青年の特権
 青年の魂は勇気である。鋭敏さも、大胆さも、快活さも、すべて青春の特権だ。
 戸田先生は、26歳の青年の私を、学会の初代の渉外部長に任命された。重要な人物との交渉も「大作、行ってこい」と託された。
 私は、恩師の名代として、多くの人と会い、信頼を広げた。
 先生や学会を誹謗・中傷する者に対しては、徹して言論で戦った。そして、堂々と、先生の正義、学会の真実を満天下に示しきった。
 これが、私の誇り高き歴史である。
 動いた分だけ、語った分だけ、全部、自分の力となる。福運となって、わが身を飾る。
 今、私が一切を託すのも、青年部である。「私が創価学会だ」との気概で歴史を創り、広布のフロンティアを開拓してもらいたい。

出会いは仏縁の拡大
 日蓮大聖人は「あなたの国の広宣流布は、あなたにお任せする」(御書1467㌻、通解)と仰せである。その地、その場所に根ざした人が、仏縁を結び、幸福の種を蒔くのである。
 仏の使いである私たちの声が、仏の仕事をするのだ。「立正安国」も対話が肝心である。
 さまざまな人間群の中に飛び込んで対話し、打ち合うからこそ、自分の小さな境涯からも脱皮していける。
 うまく話せないことがあっても、クヨクヨせず、朗らかに挑戦を重ねていけばよい。
 人と語ることが、人間革命の直道である。

第32回 青年の熱と力が時代を開く   (2013.6.19付 創価新報)

青年こそ変革の原動力
 いつの時代をみても、常に青年の熱と力とが、時代を動かし、新しい歴史を創ってきた。
 戸田先生は、戦後の荒廃の中、平和社会の建設を決意され、共に戦い、先駆を切ってくれる「旗持つ若人」を呼び出された。
 広宣流布は、地涌の青年が続々と躍り出て、成し遂げていくのだ。これほど価値ある青春の晴れ舞台はない。わが使命の天地で、「自分の時代にここまでやった」という後世に輝く歴史を、悔いなく楽しく残してもらいたい。
 不思議にも、全世界で、誓願の青年が立ち上がる時代が来た。わが青年部の出番だ!

諸天を動かす強情な信心
 信心とは、幸福へのエンジンである。
 強盛な信心があれば、生命力を強くし、何があっても崩れない幸福をつかめる。断固として人生の勝利を開くことができる。子々孫々、皆を幸福に導いていける。
 「湿れる木より火を出《いだ》し乾ける土より水を儲けんが如く強盛に」(御書1132㌻)、祈り抜くのだ。
 「釈迦・多宝・十方の仏・来集して我が身に入《い》りかはり我を助け給へ」(同1451㌻)と祈り切っていくのである。
 わが生命に、仏菩薩も、梵天・帝釈も「入其身(其の身に入《い》る)」させ、仏の力、仏の智慧を発揮していく。これが信心の極意だ。

弟子の戦いで“時”を創れ
 芸術でも、学問でも、師弟は弟子の自覚で決まる。いずこにあろうと、弟子の自覚をもって、師匠の心をわが心として立ち上がる。そこに師弟不二の勇気が湧き起こってくる。
 全ては弟子で決まる。新たな広宣流布の拡大の“時”を創るのは、弟子の戦いである。
 今こそ、自らの最極の大使命を自覚し、若き正義の陣列を誇り高く広げてくれ給え!
 永遠に勝ち栄えゆく、常勝不敗の創価の大城を、君たち、貴女《あなた》たちの熱と力で築きゆくのだ。

第33回 師子王のごとく! 大鷲のごとく!    (2013.7.3付 創価新報)

青年の魂を打つ言論戦を
 「哲学なき時代」である。「信念なき世相」である。人生いかに生きるべきか、社会はどうあるべきか、真に正しい思想とは何か──確信をもって語れる人は、どこにいるのか。
 日蓮大聖人は、「此の経文(法華経)は一切経に勝れたり地走る者の王たり師子王のごとし・空飛ぶ者の王たり鷲のごとし」(御書1310㌻)と仰せである。
 この「思想界の王者」の誇りをもって、創価学会は生命尊厳の哲理の光を送ってきた。
 広宣流布は言論戦だ。わが青年部は、いかなる虚偽にも邪義にも、屈してはならない。平和と正義と幸福の対話を展開し、一人一人の青年の魂を打ち、呼び覚ましていくのだ。

信心は最極《さいごく》の勇気
 我らは「勇気」また「勇気」で進もう!
 御書には、「師子王の如くなる心をもてる者必ず仏になるべし」(957㌻)とある。
 「師子王の心」とは、何ものも恐れない最極の勇気である。
 人生は戦いだ。だからこそ、決然と題目を唱え、「自分はこうする」と断固たる勇気の一歩を踏み出すのだ。「師子王の心」が苦悩に負けるはずがない。必ず乗り越えられる。乗り越えるたびに、大きな自分になれる。
 戦いを避ければ、自分が小さくなってしまう。青年は大胆に快活に、苦しみをも楽しみに、困難をも成長の糧に転じていくのだ。

わが信念を正々堂々と語れ
 わが信念を、臆さず勇敢に叫べ! 正々堂々と語る青年の姿ほど清々しいものはない。粗削りでもいいではないか。真実は強いのだ。
 御義口伝には「師とは師匠授《さず》くる所の妙法 子とは弟子受くる所の妙法・吼とは師弟共に唱うる所の音声なり」(御書748㌻)と説かれる。
 師と弟子が、共に心を合わせ、広宣流布の拡大へ、正義の声を上げていく──これが「師子吼」の真髄である。「師子吼」なればこそ、創価三代の師弟は全てに勝ってきた。
 さあ、青年の晴れ舞台だ。勇気凜々と叫び、勝利と栄光の旗を打ち立ててくれ給え!

第34回 走り抜け! 師子奮迅の青春を
   (2013.7.17付 創価新報)

題目に勝る力なし
 仏意仏勅の我ら学会には、無敵の「信心の宝剣」がある。いかなる戦いも、一切の勝利は、強き誓願の題目から開かれる。御本尊に祈るほどに勇気が湧き、元気になる。
 その満々たる生命力で、随縁真如の智慧を縦横無尽に発揮し、具体的な行動に打って出るのだ。
 日蓮大聖人は「よき師」と「よき弟子」と「よき法」の三つが合致すれば、必ず祈りを成就し、立正安国を実現できると仰せである。師弟不二、異体同心の祈りに勝るものはない。
 絶対に何ものにも負けない大勝利の人生を、一緒に生き抜いていこうではないか!

今日も一歩前へ 挑戦を!
 大事は小事の積み重ねである。
 一日一日、目の前の課題に真剣勝負で挑み、一つ一つ、断固として勝っていくことだ。
 それが「師子奮迅」の勢いである。
 御書には「水のごとくと申すは・いっも・たい(退)せず信ずるなり」(1544㌻)と仰せである。
 たゆまぬ努力と持続こそ、力だ。「二の手」「三の手」を打ち続けていくことである。
 苦しい時も、我らには共戦の同志がいる。険しい坂道であればあるほど、“もうひと踏ん張り”と声を掛けあっていくのだ。皆で励ましあい、決勝点へ走り切っていこう!

労苦の中で自身をつくれ
 わが師・戸田城聖先生は、確信を込めて教えてくださった。
 「広宣流布のための苦労は、必ず生きてくる。何ひとつ、塵も残さず、無駄はない」と。
 思うようにいかないからこそ、偉大な自分自身を建設できる。無量の福徳と輝いていく。生命を貫く「因果の理法」は間違いない。
 真心こめて対話をしても、相手が反発する場合もあろう。しかし、それもまた深い仏縁となって、いつか花開く時がくる。
 ゆえに、何があっても勇敢に誠実に、また明るく朗らかに信念を語りゆくことである。あとになれば、深い強い信頼が結ばれるのだ。

第35回 “未来の宝”と成長を    (2013.8.7付 創価新報)

「一人」を徹して大切にする
 みんなで、わが未来部を大きく育てよう!
 恩師も「子どもは未来の宝だ。未来からの使者として大事にしなさい」と言われた。
 学会の将来も、世界の広宣流布も、すべて未来部に託す以外にない。どれほど、偉大な宿縁と使命を持つ方々であるか。ゆえに、徹して一人一人に光を当てていくのだ。
 どう励まし、伸ばしていくか。まず祈り、子どもたちの笑顔を思い浮かべて題目を送っていくことから、すべては始まる。
 大きな温かな心で、未来部の友を弟や妹のように、かわいがっていくことだ。
 “あの子を、この子を守っていこう!”
 “悔いのない青春を共に前進しよう!”
 その一念は、若き生命に必ず通ずる。

「偉大な指導者を育てる」気概で
 私は「本物の人間をつくりたい」「正義の師子を鍛えたい」「偉大な指導者を育てたい」と祈り、未来部を育んできた。みんなと交わした約束は、一つ一つ果たしてきた。
 本気で人を育てようと思えば、悩みも多い。
 しかし、悩むからこそ、自身も成長できる。
 「ここまでしてくれるのか」と言われるくらい心を砕く」──その真心に応えて、人は育つ。学会精神は受け継がれる。
 ともあれ、人材育成は、真剣勝負である。魂を注いで、「法華経の命を継ぐ人」(御書169㌻)を育てていこうではないか!

親孝行の心を伝えよう
 自分を生み育んでくれた親の労苦を知り、心から感謝できる人が偉い人である。
 「親孝行しよう」という心があるかぎり、いかなる苦難にも負けない。まっすぐに生きることができる。未来を担う子どもたちの心に、この親孝行の心を示していくことだ。
 青年部の皆さんは、まず自分から親孝行に挑戦していただきたい。自分白身が立派に成長して、親を安心させ、喜んでもらう──その体験を未来部のみんなに伝えてほしい。
 創価学会は、親孝行をする団体である。

第36回 「世界平和」貢献の人材たれ    (2013.8.21付 創価新報)

「生命尊厳」を時代精神に
 日蓮大聖人は、「一日の命は三千界の財《たから》にもすぎて候なり」(御書986㌻)と仰せである。
 全宇宙で生命より尊い宝はない。ゆえに、いかなる理由があろうと、他人の命も、自分の命も、断じて傷つけてはならない。最大に尊重していかねばならない──仏法の説く「生命尊厳の哲学」を、万人が共有する時代精神として、我らは打ち立てていくのだ。
 人類は、戦争と暴力の流転に、どれほど苦しんできたことか。この宿命の大転換に挑戦していくのが、現代における「立正安国」の対話であり、創価の平和運動である。
 世界の識者の期待も、いよいよ大きい。今こそ、わが青年部が誇り高く躍り出る時だ。

地球規模で考え、地域で行動する
 どんな高邁な観念論よりも、具体的な実践が大事である。
 平和は、どこか遠くにあるのではない。身近な地域に根差して、「一人」の人を大切に励ましていくことから始まる。今いる場所で、心を開いて、仲良く賢く、人間と人間の心の絆を結ぶことが、確実な平和の創造となる。
 現代は、地球一体化の時代である。青年のスクラムで、わが地域に「人間共和」の希望のモデルを創り上げれば、そこから世界へ、千波万波を起こしていくこともできるのだ。

「人間革命」の大連帯を
 戦争が、いかに残酷に青年を犠牲にし、青春を蹂躙するか。この悲劇だけは、絶対に次の世代に味わわせてはならないと決めて、私は戸田先生の弟子として戦ってきた。
 戦争の魔性を打ち破るためには、一人一人が「人間革命」をして、心に揺るぎない“平和の砦”を築く以外にない。そして、青年の熱と力を結集して、平和と文化と教育の大連帯を広げていくことだ。
 人間の生命には、核兵器にも屈しない、偉大な正義の力が秘められている。若き生命を自他共に輝かせ合い、足元から友情と信頼のネットワークを拡大してもらいたい。

第37回 世界一の生命哲学で幸福と勝利の人生を    (2013.9.4付 創価新報)

勝つために学び抜け
 日蓮大聖人は、「行学たへなば仏法はあるべからず」(御書1361㌻)と仰せである。
 「行動」と「教学」なくして、仏法はない。なかんずく青年時代に、あらゆる工夫をして「行学の二道」に励むことが、学会の伝統だ。
 御書を学べば、無量の智慧が湧き、不屈の勇気が漲る。生命の活力が満々と蘇る。
 大聖人の教学は、自分に勝ち、宿命に勝ち、人生に勝ち、社会で勝つための力である。
 日々、一節でも、一文でもいい。御書を心肝に染め、実践していくことだ。

教学の明鏡を磨こう
 戸田先生から「よく拝しておきなさい」と言われた「種種御振舞御書」には、竜の口の法難に際して、大聖人が放たれた烈々たる師子吼が認められている。
 「なんと面白いことか、平左衛門尉がものに狂った姿を見よ。おのおのがた、ただ今、日本国の柱を倒すのであるぞ」(同912㌻、通解)
 何ものにも負けない、この「師子王の心」を生命に燃え立たせて、広宣流布に戦い進んでいくのが、創価の師弟の教学である。
 真実の教学を身につければ、いざという時に紛動されない。競い起こる障魔も、仏法の明鏡に照らして、全て明快に見破っていける。教学で生涯不退転の骨格をつくるのだ。

学会こそ世界の希望
 人間の本当の偉さは、どこにあるのか。
 それは、地位でも名声でもない。いかなる思想・哲学を持ち、実践しているかどうかだ。
 御聖訓には、「持たるる法だに第一ならば持つ人随って第一なるべし」(同465㌻)とある。
 万人の生命の尊厳を明かし、人類の永遠の幸福と平和の道を示した仏法こそ、最高峰の思想であり、「第一の哲学」である。そして、それを学び広めゆく青年こそ、最高峰の宝冠を頭上にいただく「第一の人」である。
 時代は哲学を求めている。創価の君たちが、偉大な幸福と勝利の賢者となって、友の心に希望の哲理の光を赫々と送ってくれ給え!

第38回 大法弘通こそ永遠の学会魂    (2013.9.18付 創価新報)

「地涌の使命」の自覚
 御聖訓には「かかる者の弟子檀那とならん人人は宿縁ふかしと思うて日蓮と同じく法華経を弘むべきなり」(御書903㌻)と仰せである。
 我らは、共に広宣流布に戦うことを願って、今この時に生まれてきた地涌の菩薩である。この使命と宿縁を自覚して題目を唱えれば、わが生命から無限の力と智慧が湧いてくる。
 折伏は、最高の仏の行動である。
 ゆえに、明るく楽しく挑戦していくことだ。

下種に無量無辺の生命の宝が
 折伏とは、どこまでも一人を大切にし、誠実に励ましを送る尊極の振る舞いである。
 相手を思って一生懸命に話しても、通じない時もある。悔しい思いをすることもある。しかし、その苦労は全部、生命の宝に変わる。
 日蓮仏法は下種仏法である。
 一言でも語れば、その人の生命の大地に、仏の種が植えられる。種を植えれば、必ず、いつか芽が出て、花が咲き、実る時が来る。
 創価の友が、あの地この地で、何回も何回も、たゆまず種を植え続けてきたからこそ、広宣流布の大森林が世界に広がったのだ。
 今、社会は深く仏法を求めている。青年の信念の対話を、勇気凜々と進めてもらいたい。

宿命転換の劇を綴ろう
 信心は「生きる力」「幸福の源泉」である。自行化他の実践である学会活動に励む人は、生き生きとしている。不幸になるわけがない。
 折伏は大変だけれども、これ以上の成長の因はない。煩悩即菩提である。悩んで挑戦した分だけ、幸福になる。そもそも、折伏で悩むこと、それ自体が仏の悩みである。折伏する人は、すでに仏の境涯の人なのである。
 戸田先生の小説『人間革命』は、法難の獄中での「この尊い法華経を流布して、生涯を終わるのだ!」という断固たる決意で結ばれていた。これが、学会精神の真髄である。
 後継の君たちよ、「わが生命が仏なり」「わが生命が妙法の当体なり」との大確信をもって、声も惜しまず、大仏法を語りゆけ!

第39回 「変毒為薬」の信心    (2013.10.2付 創価新報)

試練を境涯開く好機《チャンス》に
 人生の道は平坦ではない。深い悲しみの日もある。大きな苦しみの時もある。いわんや偉大な使命に挑む青年に、難は必然である。
 しかし、悲しみが深ければ深いほど、苦しみが大きければ大きいほど、それを勝ち越えた時の喜びは、何ものにも勝る。
 私たちには、「変毒為薬(毒を変じて薬と為す)」の信心があるではないか。
 日蓮大聖人は、「わざはひ(禍)も転じて幸《さいわい》となるべし」(御書1124㌻)と仰せである。
 悩んだこと、苦労したことも、全部、いい方向へ転じることができる。必ず必ず幸福の方向へ、人間革命の方向へ、成仏の方向へと、もっていけるのだ。あとになれば、分かる。
 仏法には、何一つ無駄はない。試練の時こそ、境涯を開き、功徳を積むチャンスなのだ。

困難な時こそ題目第一で
 困難な時こそ、強き楽観主義で進むのだ。嘆いていても何も変わらない。後ろを振り返っても何も進まない。まず題目だ。題目の中に一切が含まれている。
 人生は、どこまでいっても戦いである。
 ゆえに「絶対に勝つ」と決めて祈るのだ。
 信心は限りない希望であり、自信である。たとえ地獄のような苦悩の渦中にあっても、寂光土へ変えていけるのが題目の力である。何があっても信心で立ち上がっていくのだ。

総本部と共に人材の城を
 今の苦闘は、君たち自身の生命を、金剛不壊の城と鍛え上げる盤石な土台となる。
 策や要領ではなく、すべてを御本尊に任せ、勇敢に粘り強く戦い抜いていただきたい。
 世界の同志が待ちに待っていた総本部が、今秋、威風堂々と完成する。
 一閻浮提広宣流布の未来のために、わが青年部に贈りゆく宝城である。世界の青年学会の新時代が、いよいよ始まった。
 わが学会は、永遠に人材を育て、人材で勝ち、人材で平和と幸福の道を開くのだ。
 君たちが一切の主役である。それぞれの誓願の天地に、堂々たる「人材の城」を築いてくれ給え!

第40回 かつてない 新しい道を開け     (2013.10.16付 創価新報)

信心光るリーダーたれ
 広宣流布のために戦っている人が、一番偉い人である。役職の上下ではない。一番大変な中で、一番苦労して、頑張っている人が、一番尊い人であることを忘れまい。
 御書にも、法華経にも、その人への讃嘆が満ち溢れているではないか。リーダーは、戦う人を大事にし、最敬礼していくのだ。その誠実な振る舞いに、信心は光る。
 学歴でもなければ、肩書でもない。リーダーに信心があれば、広宣流布の組織は必ず栄えさせていける。自らが懸命に戦う姿を見て、皆がついてくる。

自らの成長が前進の力
 リーダーの成長こそが組織の前進となる。
 ゆえにリーダーは、どこまでもがも率先垂範の行動の人であっていただきたい。
 行動の中に、喜びがある。
 戦いの中に、人間革命がある。
 勇んで勤行・唱題に励み、一つ一つ課題に挑んで、一歩一歩、自身を革命していくのだ。
 「月月・日日につよ(強)り給ヘ」(御書1190㌻)との御聖訓を拝し、かつてない新しい道を、張り切って、切り開いてもらいたい。

わが地域から新時代を
 わが地域の広宣流布をどうするか、どう発展させるか──これ以上に尊い悩みはない。そこを離れては、空論である。観念である。
 結論から言えば、祈って工夫することだ。自分が責任をもち、皆と力を合わせながら、執念をもって戦い続けることだ。
 「自分の戦場で勝ってみせる」と決めて、題目を唱え、悩み、苦しみながらも、わが地域の広宣流布を前進させていく──その人が英雄である。その人を諸天は厳然と守る。
 全世界で青年が生き生きと前進している。すごい時代が来た。青年部は、皆、明るく朗らかに、地域を、社会を照らしていくのだ。
 栄光の創立記念日、そして「世界広布新時代 開幕の年」へ、わが地域から「希望の旭日」を、勝ち昇らせよ!

第41回 会合は信心錬磨の集い   (2013.11.6付 創価新報)

参加者の喜びが勝利
 学会の会合は、法華経の会座に等しい集いである。広宣流布を遂行しゆく、最も尊貴な異体同心の世界である。
 私たちが朝晩、読誦している方便品には「言辞《ごんじ》は柔軟《にゅうなん》にして、衆《しゅ》の心を悦可《えっか》せしめ(言葉柔らかに人々の心を喜ばせる)」とある。
 リーダーは、会合に参加される方々を最大の誠実で迎え、皆を真心の言葉で労い、疲れを癒やし、安心と喜びを贈りゆくことである。共々に、勇気と希望を湧き立たせていくのだ。
 それには題目である。事前に題目を唱え、満々たる生命力で臨んでいく。生まれ変わったような命で、元気いっぱい友を迎えるのだ。

新しい息吹を送ろう
 会合は、新鮮さがポイントだ。集った人に、新しい前進の息吹を広げていくのである。
 令法久住のために、後輩を育てよう!
 広宣流布のために、波動を起こそう!
 こう一念を定めて、祈り、打ち合わせをし、創意工夫をしていくことだ。学会精神をたぎらせながら、楽しく、賢く、良識豊かに、皆が勝利する方向にもっていくことだ。
 皆が「今日は来てよかった!」と清々しく決意できる会合を開けば、その分、広宣流布の威光勢力は倍増する。
 ゆえに、終了時間は厳守し、絶対無事故の運営をお願いしたい。一回一回の会合から、新たな成長と団結の行進を開始しよう!

御書根本に励ましを
 日蓮大聖人は、「此文を心ざしあらん人人は寄合て御覧じ料簡候て心なぐさませ給へ」(御書961㌻)と仰せになられた。この仰せ通り、御書を根本に、学び合い、励まし合う切磋琢磨の集まりは、わが学会の会合にしかない。
 私も若き日より、折々の会合や一対一の対話の場で、常に御書を拝し、語り合ってきた。同世代の友と、世界第一の生命哲理を探究し、実践することは、青春の無上の喜びである。
 共に御書を開き、共に御書の中から、不撓不屈の勝利の進路を見出していくのだ。

第42回 わが青春の新たな船出を  (2013.11.20付 創価新報)

大聖人直結の自覚で
 日蓮大聖人に直結して、広宣流布の誓願に生き抜く仏意仏勅の団体が、創価学会である。
 「自行化他」の題目を唱えゆく私たちには、大聖人の御生命が脈々と湧現してくる。
 日寛上人が、「我等、妙法の力用に依って即蓮祖大聖人と顕るるなり」(当体義抄文段)と断言なされている通りだ。
 すなわち、皆が大聖人の直弟子なのである。自他共に幸福になるための究極の法を持っている。一人ももれなく尊貴な使命がある。
 ゆえに、我らこそ、全人類の最高峰の青年なりと、胸を張ってもらいたい。

日々向上! 日々前進!
 妙法とは、「蘇生」つまり生命を蘇らせていく本源の力である。
 したがって、妙法とともに生きる私たちは、毎日が久遠元初である。毎日が「いよいよ、これから」なのだ。日々向上、日々前進、日々価値創造の青春を生き切っていくのだ。
 わが師・戸田城聖先生は語られた。
 「行き詰まりを感じたならば、大信力を奮い起こして、自分の弱い心に挑み、それを乗り越え、境涯を開いていくことだ。それが我々の月々日々の『発迹顕本』である」と。
 たとえ、すぐに結果が出なくとも、思うようにいかないことが続いても、くじけてはいけない。我慢強く、朗らかに今日も船出するのだ。そこに真の希望がある。充実がある。

弟子よ立て、力をつけよ
 私は、戸田先生から、すべてを教わった。
 恩師が言われたことを全部、実現しよう!
 師匠からお預かりした大切な大切な組織を厳然と守り抜き、断固と発展させてみせる!
 これが、私の青年時代であった。
 若き君たちよ、断じて偉くなれ! 久遠の誓いの同志と、明るく励まし合って進め! そして黄金の新時代を開いてくれ給え!

第43回 善縁の拡大が新時代を開く  (2013.12.4付 創価新報)

新しい友情を広げよう
 正しい人生を歩むためには、「善き友」の存在が何より大切である。「善き友」と一緒に進むところに成長も充実もあるからだ。
 それには、まず自分が相手にとって「善き友」になることである。
 誠実第一に、一人の友を大切に、そして、二人、三人、十人と、新しい友情を楽しく築いていただきたい。
 わが恩師は言われた。
 「青年が青年を呼ぶのだ。そうすれば広宣流布はできる!」と。
 心を大きく開いて、人間の中へ飛び込み、未来を照らす青年の連帯を創っていこう!

信心のよき先輩は宝
 身近に一人でもよい、何でも語り合える善き友人、また何かあった時に相談できる善き先輩をつくっておくことだ。
 善き友人、善き先輩をもてば、必ず幸福の方向へ、平和の方向へと進んでいける。
 御聖訓には、「悪知識を捨てて善友に親近《しんごん》せよ」(御書1244㌻)と記されている。
 悪人に近づいてはならない。近づけてもいけない。悪い時代だから、悪知識に紛動されたり、利用されたりしてはならない。
 信頼し合える善友と共に、勝利また勝利の道を、真っ直ぐ朗らかに歩んでくれ給え!

古い友人を大切にしよう
 年末年始は、日頃、なかなか会えない古い友人と再会するチャンスである。年賀状でも心の交流ができる。
 「人間」が先である。人間として爽やかな好感を広げていくことだ。そこから、対話がはずみ、友情が生まれ、仏縁が結ばれる。
 御本尊に「皆と仲良くできる自分、信頼される自分に成長させてください」と祈るのだ。
 祈りを根本に、人間対人間の温かな交流を深め、味方を増やしていくのだ。
 広宣流布は善縁を拡大する戦いである。
 どこまでも賢く聡明に、また、どこまでも勇敢かつ大胆に、青年部は日本中、世界中で友情の劇を繰り広げていっていただきたい。

第44回 新時代の2月闘争へ 座談会から出発  (2014.1.4付 創価新報)

皆で前進、共に新たな時代を

 「世界広宣流布」の新時代が到来した。
 我らは、学会伝統の座談会から船出だ!
 1952年(昭和27年)、蒲田支部の2月闘争も、座談会で戦い、座談会で勝った。
 そして、その勝利の推進力は青年であった。
 座談会は「皆で!」 「共に!」という心が大事だ。この心が広がった分、勢いを増す。
 会合の成功を、一回一回、真剣に祈り、準備に当たろう。幹部率先で、どんどん会って参加を呼びかけるのだ。終了後も、来られた友をねぎらい讃え、見送っていくのだ。
 会場を提供してくださる御家族には、最大の礼儀と感謝を忘れまい。

会合は“一人”の成長のために

 誠実な振る舞いこそ、一切の勝利の源泉だ。
 ゆえに会合にあっても、どこまでも一人を大切にする心で、集ってくる友を迎えるのだ。たとえ、参加者が少なくとも、落胆する必要などない。むしろ、顔が見える少人数の会座で、一人一人と心を通わせ、じっくり語り合っていけばよいのだ。
 法華経には、たとえ一人のために一句を説くだけでも、その人は「如来(仏)の使」として仏の仕事をしているのだと記されている。
 一人を励まし、一人を立ち上がらせていく。
 この草創からの執念の学会精神を、今こそ後継の青年部が継承していってもらいたい。

自身の壁を破り最高峰へ
 日蓮大聖人は、命に及ぶ佐渡流罪の只中で、「大願を立てん」(御書232㌻)と厳然と仰せになられた。
 創価の青年ならば、大願を立てて「日本一、世界一の戦いを」と奮起することだ。
 心の壁を破るから成長がある。大変だから祈りが深まる。その勇気が友の生命に響かないはずがない。諸天が動かないわけがない。
 どうか、「今のわが戦いが世界の広宣流布を開いていくのだ」と確信してもらいたい。誇り高く一日一日を祈り、動き、勝つのだ。
 さあ、新時代の2月闘争へ、君の新たな歴史を創れ! 貴女の青春の光跡を残しゆけ!

第45回 さあ、新たな会合革命を
  (2014.2.5付 創価新報)

司会の「声」で決まる
 会合の雰囲気は、司会の「声」で決まる。
 はつらつとした声、すがすがしい声──その響きが参加者の心を打つ。会場の空気を明るく一変させられる。
 学会の会合は“法華経の会座”といえる。集われた方々が、生き生きと異体同心で勝ち戦に出発できるよう、祈りを込めて臨むのだ。
 “絶対に成功させてみせる!”との一念は、必ず通ずる。私も、小樽問答や「3・16」の式典など、勇んで司会を担い立ってきた。
 信念に生きる青年の「声」に勝る力はない。歓喜あふれる前進の息吹を起こそう!

納得が挑戦の活力に
 御書に、「信心の志のある人たちは一つの場所に集まって」(951㌻、通解)と仰せである。
 皆で集えば、元気になる。前進のエンジンが点火され、生命のリズムが躍動する。
 一方通行ではなく、聞きたいことや分からない点を、気軽に質問し、相談できる語らいを大切にしてもらいたい。
 戸田先生は、皆が聞きたいと思っている的確な質問や、深い法理を語る契機となる質問が出ると、「よく聞いてくれた。ありがとう!」と讃えられた。
 求道の座談は納得をもたらす。その納得が信仰の活力となり、新たな挑戦を生む。

会合の価値創造を!

 「創価」とは価値創造である。会合も価値的に開催していこう! 中心者が知恵を絞り、効果的に開き、皆が広布の拡大へ打って出ていけるようにするのだ。
 仕事の形態も多様化し、全員が一度に集うことも難しい時代である。無理をして集めて、疲れさせてはいけない。
 皆を守り、幸福に導くためのリーダーである。自らが、絶えず一人一人のもとへ足を運ぶことだ。家庭訪問、個人指導が根本である。そして率先して、仏法対話に走るのだ。
 さあ今日も、張り切って友のもとへ!

第46回 学びゆく人が勝ち抜く人  (2014.2.19付 創価新報)

学は人間完成の土台なり!
 人生は、学び続けた人が勝つ。「学ぼう」「知ろう」という心があれば、常に進歩できるからだ。その人間完成の土台を、青春時代に築いてもらいたい。
 恩師・戸田先生は、私に万般の学問を授けてくださりながら、ご自身も一緒に学んでおられた。「今度は、君が私に教えてくれ! 若い生命に、いろんなものを吸収しているのだから」ともおっしやられた。
 勉強は力、努力は力である。環境や立場がどうあれ、心一つで、今いる場所を“学びの場”にできる。御書の拝読や良書への挑戦など、自分で決めて探求を貫いていくことだ。

確たる人生航路の羅針盤を
 哲学は、人生航路の羅針盤である。私たちには、妙法という最高に正確な羅針盤がある。だから、いかなる嵐にも、信念と朗らかさを持って、勝利の針路を進んでいけるのだ。
 学会の機関紙誌には、珠玉の体験や希望の指針が詰まっている。毎日毎日、最新の幸福への海図を手にしているようなものである。地道に研鑽を重ねていけば、5年、10年と経った時に、必ず大境涯が開かれている。
 私も、皆と共に学び、青年に語り残していく思いで筆を執る日々である。世界の知性と友情を結び、対談も重ねている。師弟一体の「向学の道」「対話の道」が、ここにある。

青年は“学び即行動”が生命
 仏道修行の根本は、「行学の二道」──「学ぶこと」そして「行動すること」である。
 御書には「法華経の法門をきくにっけて・なをなを信心をはげ(励)むを・まこと(真)の道心者とは申すなり」(1505㌻)と仰せだ。
 学び深めた感動を胸に、率直に仏法を語り、大きく友情を広げ、友に励ましを送るのだ。
 実践の中で壁にぶつかり、悩み、苦しむ。そこでまた、不屈の求道心を燃え立たせる。
 学びながら行動し、行動しながら学ぶ──。「行学」の持続こそ、人生勝利の根幹である。

第47回 学会歌を高らかに  (2014.3.5付 創価新報)

朗らかに共戦の歌声を
 歌は希望である。歌を歌えば元気になる。勢いが出る。嬉しい時も、辛い時も、我らは学会歌を歌いながら進んでいくのだ。
 歌は力である。皆で歌えば心が一つになる。
 戸田城聖先生も、歌がお好きだった。私たちは、師の前で、師と共に、何度も歌を歌ってきた。そして歩調を合わせて、一切の戦いに勝ち、師弟の黄金の共戦譜を綴ってきた。
 この響き合う師弟の魂をもって、同志に励ましを贈りたいと、私も学会歌を作ってきた。
 青年部の皆さんが、あの地この地で、学会歌を歌い、創価の心を受け継いでくれている。力強い師子の歌声、清々《すがすが》しい華陽の歌声を、ますます朗らかに響かせていただきたい。

指揮で友に勇気を送れ
 御聖訓には「ま(舞)いをも・まいぬべし」「立ってをど(踊)りぬべし」(御書1300㌻)と仰せである。
 学会歌の指揮も、地涌の菩薩の歓喜の舞である。決意の舞である。団結の舞である。
 気取ることはない。自分らしく伸び伸びと皆を勇気づけられるように、元気に張り切って指揮を執ることだ。私も、少しでも友の励ましになればと、折々に学会歌の指揮を執ってきた。
 わが後継の君たちよ、躍動する若き生命で、青春の勝利の舞を、楽しく、はつらつと舞ってくれ給え!

新しい時代を歌と共に
 古今東西、民衆の興隆には必ず歌があった。
 あのアメリカ公民権運動も、「ウィ・シャル・オーバーカム(私たちは勝利する)」と若人が歌を歌って行進し、歴史を回転させた。
 青年の歌声は、悩みも悲哀も、吹き飛ばしながら、社会へ希望と活力を広げゆくのだ。
 学会歌を歌えば、新しい力が湧く。新しい息吹がみなぎる。新しい人材が立ち上がる。
 我ら青年学会は、学会歌を高らかに歌いながら、広宣流布へ大行進するのだ。
 世界広布新時代を、明るく、にぎやかに、喜びあふれる歌声で、勝ち開こう!

第48回 「一対一」が学会発展の生命線  (2014.3.19付 創価新報)

率先して訪問・激励へ
 対話は、生命と生命の触発である。
 こちらの生命が躍動すれば、相手の生命も躍動していく。対話に臨む、こちらの祈りと息吹で決まる。題目を朗々と唱え、弾む心で元気に飛び出すのだ。
 創価の父・牧口先生も、大きい会合で話すだけでは駄目だと教えられ、ただ一人の同志のためにも遠路をいとわず、足を運ばれた。
 戦時中、法難に遭われたのも、伊豆の下田で同志を激励し、折伏を進める只中であった。
 広宣流布のために、一軒一軒、歩き、会って語ることは何よりも尊い仏道修行である。
 一日に一人でも、一年では365人を励ませる。歩いた分だけ功徳は広がる。リーダーが率先して、目標を決めて挑むのだ。

新入会の友を大人材に
 今、全国各地で新入会の友が誕生している。
 一人ももれなく大人材に育つよう、「信心してよかった」「こんなに幸せになった」と言えるよう、皆で心を砕いていただきたい。
 それにはまず、共に語り、共に祈ることだ。そして、共に動き、共に戦っていくことだ。
 日蓮大聖人は、門下の悩みを「我身一身《わがみいっしん》」のこととされ、試練に打ち勝つ励ましを贈ってくださった。 “ここまでやってくださるのか” と、こまやかに具体的に手を打たれた。
 この仏法の真髄の人間主義を、そのまま受け継いでいるのが、創価の世界である。
 どうか先輩は、後輩が「よし、やろう!」と立ち上がるまで、面倒をみていただきたい。

歓喜が友の心を動かす
 信心の歓喜は、百万言の理論に勝る。
 大聖人は、「随喜する声を聞いて随喜し」(御書1199㌻)と仰せである。
 経文にも、法華経を聞いて歓喜した人が次々と語り伝えて、50番目に聞いて喜ぶ人の功徳でさえ、無量無辺と説かれる。妙法を「語る功徳」も「聞く功徳」も絶大である。
 歓喜の連鎖こそ、広宣流布の実像なのだ。
 さあ、後継の友よ、「3・16」から「4・2」「5・3」へ、創価の勝利のリズムで欣喜雀躍と、希望の連帯を拡大してくれ給え!

第49回 社会で聡明に輝く人たれ
  (2014.4.5付 創価新報)

元気に朝を勝ちゆこう
 戸田先生は、新社会人を励まされた。
 「青年は、朝寝坊では負ける。朝が勝負だ。朝の生き生きとした息吹のなかで、活力を沸き立たせていけ! そこに成長がある」と。
 私も、先生の会社に勤め始めて、毎朝、始業の30分前には出勤し、職場を掃除して、元気いっぱいの挨拶で先輩たちを迎えた。
 もちろん、仕事によって一律には言えない。ただ夜は工夫して、なるべく早く休み、朗々たる朝の勤行・唱題でスタートすることだ。
 朝に勝て! そして生命力を満々と漲らせ、職場で光り、周囲を明るく照らしていこう。

職場は人間修行の道場
 御聖訓には「御みやづかい(仕官)を法華経とをぼしめせ」(御書1295㌻)と仰せである。
 信仰は観念ではない。人間が生き生きと働き、生活を豊かにし、職場を発展させていく。その営みのすべてが、仏法である。
 「信心」は即「生活」であり、「仏法」は即「社会」なのである。
 「信心は一人前、仕事は三人前」-皆さんの先輩方は、この心意気で仕事に挑み、歯を食いしばって、職場で実証を示してきた。だからこそ、今日の創価学会がある。
 職場は、自分自身を磨き鍛える人間修行の道場なりと決め、「三倍の努力」を心がけていただきたい。

信用を築け、青年ならば
 青年が勝ち取るべき第一のものは、信用だ。
 青春時代は、未完成が当然である。見栄を張ったり、取り繕ったりする必要はない。
 自分らしく眼前の仕事に全力で取り組む。約束をしたことは誠実に守る。失敗しても、そこから学び、また挑戦する。地道であっても、忍耐強く創意工夫を重ねていくことだ。
 そうした姿に、信用は必ず築かれる。
 仏法は「人の振舞」である。明るい挨拶、清々しい礼儀、賢い体調管理など、基本が大事だ。聡明にチームワークを創り広げながら、「さすが」と言われる一流の次元へ、日々、若き黄金の生命を高めていってくれ給え!

第50回 報恩こそ勝利の源泉  (2014.4.16付 創価新報)

親孝行は人間性の真髄
 今の自分があるのは、誰のおかげか。その恩を知り、恩に報いようと生きることこそ、正しき生命の道である。勝利の人生の道だ。
 知恩・報恩の根本は、「親孝行」である。
 御聖訓には、「先づ此の父と母との恩を報ずべし」 (御書1527㌻)と仰せである。
 戸田先生は、青年に訴えられた。
 「衆生を愛さなくてはならぬ戦いである。しかるに、青年は、親をも愛さぬような者も多いのに、どうして他人を愛せようか。その無慈悲の自分を乗り越えて、仏の慈悲の境地を会得する、人間革命の戦いである」
 ゆえに、先生は親不孝を許されなかった。
 難しいことではない。笑顔を見せるだけでもいい。親を喜ばせ、安心させてあげるのだ。その優しく温かな心を、友に広げ、全人類へと広げていく──この「人間革命」の振る舞いから、世界広宣流布の新時代も、大きく清々しく開かれゆくことを銘記されたい。

恩を知れば無限の力が
 わが恩師・戸田先生は「不知恩になるな」と言われ、厳しく戒められた。忘恩の人間の末路は、どんなに正当化しようが哀れである。恩師は、愛する弟子を、だれ一人も不幸な敗北者にはしたくなかったからだ。
 戸田先生は、戦時中、師匠である牧口先生とご一緒に、正義なるがゆえに、軍部政府の弾圧を受け投獄された。そのことを振り返り“牧口先生の慈悲の広大無辺は、牢獄まで連れていってくださった”と感謝されている。
 この崇高なる創価の師弟の真髄に、私は感動し、あとに続いた。
 いかなる苦難にも負けず、勇敢に大法を弘通することこそ、師恩に報いる究極である。
 報恩の一念に徹する時、人間は最も尊く、最も強くなる。最も偉大な力を発揮できる。
 「報恩に生き抜く」という学会精神を、諸君も厳然と受け継いでいってもらいたい。
2014-04-15 : 勝利の人間学 :
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創価学園(東京校47期、関西校42期)入学式/創価小学校入学式へのメッセージ

創価学園(東京校47期、関西校42期)入学式/創価小学校入学式へのメッセージ
                       (2014.4.9 東西創価学園/小学校)



 価値創造の世界市民を育む創価学園の入学式が9日、東京・関西の両校で晴れやかに開催された。創立者の池田名誉会長は記念のメッセージを贈り、「心は大きく『平和の道』を開きゆけ」「一歩また一歩と『学びの道』を進め」「『青春勝利の道』を忍耐強く朗らかに」と強調。平和と正義の人材に成長をと念願するとともに、祝福の和歌を贈った。また同日、東西の創価小学校の入学式、札幌創価幼稚園の入園式が行われた。
            ◇
 希望に胸を弾ませて学園の門をくぐった東京校47期生、関西校42期生。その瞳には、新しき出発の決意と情熱があふれていた。
 晴れの門出を待ちわびるかのように、例年より長く咲き続けた桜がひらひらと舞い躍る東京キャンパス。青天から降り注ぐ陽光が新入生の笑顔を照らし、やわらかな春風が吹き抜ける関西キャンパス。創立者の池田名誉会長は、愛する学園生に思いをはせつつ、万感の伝言を寄せた。
 「素晴らしい天気でよかったね。入学式おめでとう!」
 2017年の創立50周年へ、生徒第一の教育環境が一段と充実する創価学園。このほど、関西創価高校が、文部科学省が推奨する「スーパーグローバルハイスクール(SGH)アソシエイト」に選ばれた。
 これは、国際的に活躍できるグローバル・リーダーの育成へ、教育の開発・実践に取り組む高校等が認定される。また東京校には、明年春に待望の新「栄光寮」が完成する予定となっている。同窓生の連帯も、今や東西で2万8000人を超える陣容となった。
 342人の博士号取得者をはじめ、弁護士、公認会計士、国際機関の職員、医師、企業家、教員など、全国・全世界を舞台に多彩な人材が躍動する。
 「私の生命より大切な学園生」──創立者の慈愛に包まれて、鳳雛たちの胸には、いつの時代も変わらぬ〝父子の絆〟が輝く。
 創立者と学園生の心と心が、強く深く結ばれた式典。東京の創価中学・高校(小平市)の入学式では、片桐中学校校長が「全ての勉学に全力で取り組み、悔いなき一日一日を送ろう」と開式の辞を。狩野高校校長が「地に足をつけて努力を重ね、可能性の翼を大きく広げよう」と呼び掛けた。城川東京学園長があいさつし、長谷川学園理事長が「思いやりの心を磨き、勇気を持って学び抜こう」と望んだ。最後に校歌「草木は萌ゆる」を歌い上げた。

 関西創価中学・高校(大阪・交野市)の入学式では、校歌「栄光の旗」を高らかに。杉本中学校校長が「学問第一で人格を錬磨する挑戦の日々に」と開式の辞を述べ、武田高校校長は「創立者の平和哲学を学び、民衆を守る世界市民に成長しよう」と訴えた。
 また、両校で学園愛唱歌「負けじ魂ここにあり」を大合唱した。
            ◇
 東京・関西の創価小学校の入学式には、創立者が記念のメッセージを贈った。

 東京創価小学校(小平市、国分寺市)の入学式では、谷口校長が「大きな夢を持ち、友だちと仲良く、黄金の思い出をつくろう」と呼び掛けた。
 関西創価小学校(大阪・枚方市)の入学式は、伊藤校長が「みんなで楽しく勉強し、多くの友情を育もう」と式辞を述べた。


創立者のメッセージ

学は栄光の源泉 無限の希望
一歩また一歩と最善を尽くせ


いざ進め!青春勝利の道を

東欧の芸術史家の指針
試練に対して忍耐強く生きよ

 一、凜々しき新入生の皆さん、希望あふれる入学式、本当におめでとうございます!
 今年も、天下の英才を、わが創価学園に迎えることができ、これほどうれしいことはありません。
 ご家族の皆さま方、大切な大切なお子さまを、この学園に送り出していただき、誠に誠にありがとうございます。教員の先生方、職員の方々、私たちの宝であり、人類の宝である学園生の健やかな成長のために、新年度も、全力の薫陶と励ましを、どうか、よろしくお願いいたします。
 一、私は、日本全国また世界の多くの道を歩いてきました。忘れ得ぬ道もたくさんあります。その中でも、いずこにもまして、いつも私の心に光り輝いている二つの道があります。それは、わが学園生が闘歩しゆく、“武蔵野の哲学者の道”と“交野の一本道”です。
 きょうは、この道を、新入生の皆さん方と肩を並べて、弾む心で語らい歩みゆくような思いで、3点にわたって、お祝いのメッセージを贈ります。

良き学友と切磋琢磨を

 一、第1に、「心は大きく『平和の道』を開きゆけ」と申し上げたい。
 今から100年前の1914年に、ヨーロッパで第1次世界大戦が始まりました。
 2度の世界大戦をはじめ、悲惨な戦争が続き、あまりにも多くの尊い生命が奪われ、民衆は苦しみ続けてきました。
 今年2014年から始まる新たな100年は、何としても「平和の100年」にしていきたいI-これが、私と世界の友人たちの一致した願いであり、決意です。
 この世界平和の悲願に挑みゆく、希望の人材を育む学舎《まなびや》こそ、わが創価学園です。
 先日、ノーベル平和賞受賞者で、中米コスタリカの大統領を務められたアリアス博士が、ご夫妻で学園を訪問されました。
 そして、学園生との出会いを「平和への使命感、そして負けじ魂にあふれた青年たちと、感動的な思い出を刻むことができました」と、それはそれは喜んでくださったのであります。
 学園は、いかなる暴力も否定し、いじめを絶対に許しません。きょうから、新入生の皆さんは、友情と平和の価値を創造する、この学園で、心を大きく広げ、世界を呼吸しながら、良き学友たちと仲良く朗らかに前進していってください。
 皆さんが、互いに切磋琢磨して「英知」と「人格」と「体力」を鍛えゆく一日また一日が、そのまま、人類が共に生きる「平和の100年」の新しき道につながります。その誇りに胸を張って、世界と自在に対話できる語学の力も、大いに磨いていっていただきたいのであります。

学ぶことは青年の特権
 一、そこで、第2に申し上げたいのは、「一歩また一歩と『学びの道』を進め」ということです。
 100年前の1914年、世界の激動の年に、今でいう中学校を卒業されたのが、私の師匠の戸田城聖先生でありました。最優秀の成績で、周りからも進
学を勧められましたが、家計を支えるために断念し、いったん働き始めなければなりませんでした。
 そんな困難の中にあっても、今の皆さんと同じ年代の戸田青年は、「一点の光明求めて、いざ進まん」と意気軒高でした。
 逆境の中で、時間をつくり出しては、猛然たる気迫で学んでいったのです。
 どんな時でも、どんな場所でも、心一つで勉強はできる。学ぶことは人間の権利であり、なかんずく青年の特権である。愚痴や文句を言う前に、学べ、学べ、学び抜け! これが、戸田先生の断固たる信念でした。
 私は、この戸田先生に10年間、徹底して訓練を受けました。
 どんなに忙しくても、真剣に勉強していなければ、また良書を読んでいなければ、先生の前には立てなかった。それくらい厳しい“戸田大学”の研鑽だったのです。
 学は栄光の源泉です。学は賢者の法則です。学は無限の希望です。学園は、本物の学びの伝統が結晶した知性の錬磨の場です。喜び勇んで思い切り学んでいただきたい。
 焦ることはありません。大事なのは、今、目の前にある課題にベストを尽くして、一点突破していくことです。「いざ進まん」と学ぶ情熱を燃え上がらせて、一歩また一歩と挑戦し抜いていくことです。そこから、希望の未来は大きく輝き広がるのです。

舞台は世界だ!
 一、そして第3に、「『青春勝利の道』を忍耐強く朗らかに」と申し上げたい。
 私は、ブルガリア科学アカデミーの会員で、東欧を代表する芸術史家のジュロヴァ博士と新たな対談を進めております。
 博士のご両親は、戦争中、平和と正義のために勇敢に戦い抜いた闘士でありました。その父君が愛娘である博士に、人生にとって大切なこととして打ち込まれたのは「試練に対して忍耐強く生きること」という指針です。
 試練なくして偉大になった人はおりません。皆さんも、試練に勇敢に立ち向かい、忍耐強く勝ち越えることこそ、青春の最大の誉れとしていただきたいのであります。
 一、今、日本有数のブルガリア語の名通訳として活躍する学園出身の女性がおります。この女性は、ジュロヴア博士が教授を務める名門ソフィア大学で、創価大学の第1号の交換留学生として学びに学んでいる最中、病気になり入院してしまいました。しかし、ジュロヴア博士に温かく応援していただきながら、この試練にも負けず、見事に哲学博士号を勝ち取ったのです。
 きょうは、それぞれに試練と戦いながら、後輩の道を開き、社会で貢献している卒業生の方々が、新入生の祝福に駆け付けてくれました。本当にありがとう!
 学園生には、ご家族や先生方、先華や友人など、たくさんの力強い味方が日本中、世界中にいます。私の心も、皆さんの歩む道にいっも一緒についております。
 さあ、これから共々に、負けじ魂のスクラムも固く、愉快に堂々と勝ち進もう!
 愛する皆さんの晴れの門出に──

 全世界
  舞台と学べや
   学園生
  努力の道を
   悔いなく楽しく

 と贈ります。
 3年後、皆さんが卒業する2017年は、わが創価学園の創立50周年です。
 その皆さんの晴れ姿を、私は何よりの楽しみとし、生きがいとしながら、毎日毎日、学園生の健康と成長と勝利を、祈りに祈り抜いてまいります。
 お父さんやお母さんに心配をかけない、明るく賢い親孝行の皆さんであってください。みんな、元気で!(大拍手)

創価小学校入学式への創立者のメッセージ

3つの約束
 ねばり強く負けない人に
 「ありがとう!」と言える人に
 よい本をたくさん読む人に

 新1年生のみなさん、桜の舞いゆく入学式おめでとうございます!
 私がつくった創価小学校に、よく来てくれました。本当にうれしい! ご家族のみなさまにも、心からお祝いを申し上げます。
 40年前、私は、童話『少年とさくら』の中で、“良い種は良い苗になる。良い苗はかならずりっぱな木になって、みごとな花をさかせる。人間もおなじである”と書きました。
 うれしいことに、創価小で学んだお兄さん、お姉さんたちは、みなそうなってくれています。
 今、一番みずみずしい良い苗であるみなさんも、かならず大樹となる人たちです。
 その願いをこめて、きょうはみなさんと3つの約束をしたいと思います。
 1つめは「ねばり強く負けない人に」ということです。
 桜は、寒い冬を耐えぬいて、春にきれいな花をいっぱい咲かせます。
 みなさんも、どんなにくるしいことや、つらいことがあっても、
 「ぜったいに負けないぞ!」とねばり強く努力をつづければ、かならず大きな夢をかなえていけるのです。
 2つめは「『ありがとう!』と言える人に」です。
 元気にあいさつのできる人はさわやかです。朝は「おはよう!」と明るくスタートをしましょう。
 そして、みなさんをおうえんしてくれる、お父さんやお母さん、また親切にしてくれた人たちには、「ありがとう!」「ありがとうございます!」ときちんとお礼が言える人になってください。
 そして3つめは「よい本をたくさん読む人に」です。
 創価小学校には、たくさん読書をして「心の栄養」をつける、良き伝統があります。
 本を読めば、タイムマシンにのったように、昔の偉人ともお話ができます。ロケットにのったように、宇宙をたんけんしたり、世界じゅうを旅をしたりできます。
 よい本は、みなさんの心の世界を、どこまでも広げ、ゆたかにしてくれるのです。
 さあ、きょうから。まちにまった学校生活のはじまりです。夜は早く寝て、通学もがんばってください。
 みなさんの6年間が、健康で、最高の宝の日々となるよう、私はいつも祈り、見守っています。
 わが創価小学校、万歳!
 わが命の新入生、万歳!
2014-04-10 : スピーチ・メッセージ等 :
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生命の光 母の歌 第7章 三世に輝く幸福境涯を開け

第7章 三世に輝く幸福境涯を開け (2014.4.1/2/4付 聖教新聞)

サイフェルト博士
「死」は断絶ではありません。死の意味を問うのも「今世」をよりよく生きるためです
池田SGI会長
「生死即涅槃」です。わが身そのままで「生老病死」の苦を「常楽我浄」に転じるのです

サイフェルト 私は、最愛の人を亡くした悲しみをまだ完全に乗り越えてはいません。
 なぜ、そのようなことが起こらなくてはいけなかったのか、今もなお、その答えが見つかっていないのです。
 おそらくきっと、私がさらに成長するために、最も重要なことの一つだったのでしょう。仏教でいわれるところの、「執着を無くすこと」「いかなるものにも執着を持たない」ということを学ぶためなのかもしれませんね。たとえどんなに愛した人であっでも、その人を所有しなければならないと思ったり、所有したいと願ったりしないということを──。
 ひょっとしたら、主人にとっては、今生で学んだことを、今度は他の側からそれを高めていくための“定め”だったのかとも思います。
 人間は、「愛」と「所有」をはき違えてはならないと思います。私自身、主人の死を通して、そのことを学べたのかもしれません。
 しかし、それはあたかも粗い岩を根気よく磨いていくように、険しい道のりでもあったのです。

池田 今の博士の活躍を、ご主人もきっとほほ笑み、うなずかれているに違いありません。現実は、さまざまな苦悩の連続です。特に自身の大病や老い、あるいは愛する人との死別など、生老病死をめぐる苦悩や痛みは、地位や財産や名誉も一切関係ない。
 それを、いかに克服していくか。
 私はいつも、次の仏典の言葉を思い起こします。
 それは、法華経薬王品にある「一切の苦・一切の病痛を離れ、能く一切の生死の縛を解かしめたまう」(妙法蓮華経開結597㌻)という一節です。日蓮大聖人は、この「離《はなれ》の字をば明《あきらか》とよむなり」(御書773㌻)と読み替えられました。
 明らかに見る──つまり、生死といっても、宇宙そのものの変化相であり、仏の命の表れであると見るのです。
 一切の生の苦しみも、病や老いの苦しみも、そして死の苦しみも、偉大な生命を開く力にしていける。
 悠然と見下ろすような境涯を開いていける。
 それが「煩悩即菩提」そして「生死即涅槃」という、真実の人生に目覚めた生き方です。そのための信仰です。
 わが身そのままで、「生老病死」の苦を、「常楽我浄」という四徳に転じていく。
 すなわち、常に楽しく、自分自身を最高に輝かせて、この上なく清らかな生命を発揮して生きていくと言えばよいでしょうか。
        ♪
サイフェルト 感銘深いお話です。
 ここは特に強調したいところですが、私は、主人は“死んだのではない”“生きている”という実感を持っています。
 私たちは、橋を渡り、この生へたどり着きました。そして、また橋を渡って、彼は向こう側に到着したのです。
 私自身、身の上に何か起きても、お葬式は出してもらわないことにしています。その代わり、私の全ての友人に手紙を用意してあるのです。
 そこに“友人たちと一緒に過ごせた人生の時間に対して感謝の念を抱いている”こと、そして“私は死んで別の世界へ行った”となどを書き綴ってあるのです。
 死という断絶があるのではなく、新しい入り口への境目がある。そのことをまず学ぶべきなのですが、教えてもらえないのが常なのです。
 ただ学会の皆さまは、子どものころから、そうした考え方で教育を受けるチャンスに恵まれております。ヨーロッパ人としては、典型的とは言えないかもしれませんが、私にとっては当たり前のことなのです。
 私は超越的な考え方を持っていて、天からの助け、人間は何かに導かれるということを信じている人間です。
 人が人生で遭遇することは、全て、その体験をすることで成長、成熟するためのものであると確信しているのです。まだ人類が知らないこと、人智を超えることは、たくさんあると思います。

池田 おっしゃる通り、SGIのメンバーは仏法の法理を通して、永遠の生命観、生死観を学び、深め、信仰を貫いてきました。
 仏法が教えているのは、生老病死の厳粛な実相の上から、具体的にどう生きていくべきか。自他共に真に価値ある人生を生きていくにはどうしたらよいか──という点に集約されていくわけです。
 悔恨に満ちた苦渋の人生であるのか。それとも悔いなく今世の使命を果たしていく自身であるのか。
 生命の実相だけは、誰人もごまかせません。
 今の博士のお話を伺いながら、恩師の戸田城聖先生が、仏法の深遠な生命観を語られながら、一言、「死後の生命を見る機械が発明されたらおもしろいだろうな」と言われていたことを思い出していました。
 「大宇宙に溶け込んだ生命を見ることができれば、じつに悲鳴をあげているものもあれば、歓喜に満ちているものもいる。形もなければ、色もなければ、生命自身がもつ苦しさ楽しさのために耐えるのが、死後の生命なので、その空観というものがわからなければ、生命論の本質はわからない」と。
 ゆえに、今世で人間革命に励み、自分自身の幸福の軌道を確立することが大切です。
 その上で、私たちが唱える題目は、大宇宙に溶け込んだ生命にも届くのです。
 戸田先生は仏法の哲理を、人々に本当に分かりやすく語ってくださる方でした。
 同じことも恩師が話すと、皆の心にすっと入り、深い納得と確信、勇気を与えられたのです。
 あす2日は戸田先生の祥月命日です。恩師に導かれ、叱咤激励されて、恩師と共に戦い抜いてきました。私は、今も、戸田先生と共に生きています。心の中で、毎日、恩師と対話しています。それが、私の人生です。

サイフェルト これは私にとって一番印象深いところなのですが、オーストリアの劇作家ホフマンスタールの韻文劇『痴人と死』では、主人公の前にバイオリンの弾き手としての「死」が現れ、「わしは恐いものではない」「霊の偉大なる神がいまお前のまえに立っているのだ」(富士川英郎訳『フーゴー・フォン・ホーフマンスタール選集1』所収、河出書房新社)と語ります。お前の手を取り、他の世界へ連れていくのだ、と。この箇所が、死についての著述で一番素晴らしいものと思います。
 私自身は、目が見えない両親のもとで育ってきたことから、子どものころから自分の「過去世」というものを意識していて、罰を与えられて生まれてきているような感覚がありました。もちろん、両親を愛してはいましたが、同時に「助けて!」と心の中で叫んでいる自分がいました。
 その後、近年になってですが、自身の過去世の意味を深く捉え直す中で、今世をもっとよく生きるためであったと気づきました。

池田 博士は学生時代に哲学者としての道を進まれ、生死の探究を一貫して深めてこられましたね。
 少々、難しい論議になりますが、生命というものを深く考えるならば、仏法で説く、自身が過去世に積んできた「業」という問題に突き当たらざるを得ない。
 結論から言えば、真実の仏法は、万人がその「業苦」を抜本的に解決していける道を提示しているのです。

サイフェルト 人生の実像──それは現在、自分自身が生きている人生だけではなく、私の人間的成長の軌跡として、真珠の数珠のような、幾百の人生が連綿と連なっていく、本当にそのように感じています。
 カルマ(業)とは単なる言葉ではなく、生命の深い実感だと感じています。

池田 今、サイフェルト博士も仏法の「業」について触れられましたが、真実の仏法はあきらめや感傷の決定論や運命論ではありません。それを毅然と転換していく、必ず転換していける、希望の光源なのです。
 業に関連して、仏法の「九識論」という法理を簡略に紹介させていただきます。
 まず「九識」の中の「五識」ですが、眼・耳・鼻・舌・皮膚という五つの感覚器官で得られる感覚です。
 また、それらの感覚を統合し、認識したり、観念的な思考や夢などを司る心の働きを第六識(意識)とします。心に浮かぶものごとに対する認識です。
 仏法では、これら六識の底流に「末那識・阿頼耶識・阿摩羅識」という三つの心の働きを明かしております。
 第七の末那識の「末那」とは、「思い量る」という意味のサンスクリット語の音《おん》を写したものです。自身を守り維持する働きで、自我への執着を生み出します。
 第八の阿頼耶識は、「蔵識《ぞうしき》」と呼ばれ、ここに過去からの「業」すなわち善悪の全ての行いの影響が蓄積されているとされます。いわば「善の業のエネルギー」と「悪の業のエネルギー」が合わせて収まっているのです。
 仏教には「空観」という考え方があります。死んでも、生命は「空」の状態として厳然と続いていく。そのことを戸田先生は“宇宙に溶け込んでいる”と表現されました。
 そして、それぞれの境遇にふさわしい縁に巡りあって、個々の生命として、次の生を開始し、それぞれの過去の行いに応じて、苦しさ・楽しさを味わっていく。業のエネルギーが果報として現れ、現実の自身と環境をつくります。
 阿頼耶識に蓄積された業のエネルギーは、「暴流《ぼる》(暴れ川)」とも呼ばれます。
 日蓮仏法では、この阿頼耶識の悪の業の影響を受けない清らかで力強い働きを生命の中に見ます。これが第九の「阿摩羅識」です。生命の根本であり、清浄無垢《しょうじょうむく》であるので「根本清浄識」とも「九識心王真如」とも呼ばれます。
 阿摩羅とは「汚《けが》れがない」という意味です。金剛不壊の仏の生命です。
 真実の仏法の真実たるゆえんは、この「極善」ともいうべき第九識を涌現させ、輝かせていく方途を示して、業のエネルギーを全て価値創造の方向へ向かわせていけることを明かしている点にあります。

サイフェルト
 私は仏教の専門家ではありませんが、中には人生に否定的な立場を取り、人生の喜びを排除しようとするような立場に立っている宗派も多くあります。
 私が池田会長とその哲学から特に感銘を受ける点は、ポジティブなところです。
 「何もかも嫌で投げ出したい」「どこかへ身を隠し、まるで廃人のように波風の立だない生活を送りたい」
 そんなのが人生の目的であるはずがありません。
 人生の使命や他者への愛情をおろそかにしていいのでしょうか? 「人生は生きる価値のあるものである」と教えることこそが、他の人にポジティブな生き方を示すことではないでしょうか。
 そうです。人生は生きる価値があるのです!
        ♪
広布の人生こそ真の追善供養

池田 全く同感です。「生きること、それ自体」が人生の最大の目的です。そして「生きること、それ自体が楽しい」と言える境涯を築くことが、私たちの信仰の目的といぇるのです。
 また人生には、老衰や病気、あるいは事故や自殺など、さまざまな愛する人との死別の悲しみがあります。
 仏法では「追善回向」という法理を説いております。
 これは、亡くなった方に祈りを捧げるとともに、私たち自身の生き方を強く深く高めていくことです。
 真の回向は、「自身仏にならずしては父母をだにもすく(救)いがた(難)し」(御書1429㌻)とあるように、後に残った人々自身が、故人の遺志を受け継ぎ、わが胸中の仏の生命を輝かせて、生き抜いていく。前を見つめて、それぞれの立場で人々のため、社会のために貢献していく──その誓いと行動によって、自身の功徳善根を回向し、亡くなった方の生命がさらに妙法に照らされ、輝き、力を増していくのです。
 「功徳」は「聖霊《しょうりょう》の御身《おんみ》にあつまるべし」(同329㌻)との法理に則っています。
 ゆえに、残された方々の生き方こそが重要なのです。
 生ある限り、生きて生きて生き抜いていくことです。
 そのことが、亡くなられた方にとっても最高の喜びでありましょう。
 ここまで、ご主人の闘病の日々や、博士ご自身の貴重な体験の数々を語っていただく中で、ヨーロッパ科学芸術アカデミーのフェリックス・ウンガー博士との語らいを思い起こしました。
 世界的心臓外科医である博士は、手術中に意識を失った患者が、何日も昏睡状態を続けた後、意識回復は不可能だろうといわれながら、生還した例を何度も見てこられました。
 患者たちの中には、“肉体から離脱して輝く光に出あった”などの臨死体験を語っていた人もいたそうです。
 「死」そのものではありませんが、このように死を免れた人の体験は数多くあり、その事実そのものを否定することはできません。
 大切なことは、その体験が、その人の人生にどのような創造的な影響をもたらすかということでしょう。
 ウンガー博士は、「こうした臨死体験は、われわれが存在することの意味を指し示しているように思われます。つまり、私たちの存在の意味は、この光に包まれることであり、だれもが意識の深層でそれを求め、近づこうとしているのかもしれません」と語っておられました。

サイフェルト ウンガー博士はよく存じ上げています。
 アカデミーの本部があるザルツブルクで意義深い宗教開対話に取り組まれていますね。こうした専門家間の交流は、ぜひ推進してほしいと思います。お互いが本当に理解し合い、分かり合うためには、直接会い、それを継続していく必要があるからです。
 臨死体験の研究は、精神科医のキューブラー・ロス博士や、内科医のレイモンド・ムーディ氏らの業績が注目され、反響を呼びましたね。臨死から生還した患者が、医師が検死しているところを上から見下ろしていた、などという話があります。
 例えば学会でも、いろいろな方に、どんな経験や体験があったかを聞いていただくと、この分野の大きな手掛かりになるかもしれませんね。

サイフェルト博士
この一生をどう過ごし、何を行ってきたかを吟味する──死は「卒業試験」といえます
池田SGI会長
「死」の問題を解決するために宗教はある。永遠の生命を説いた仏法こそ希望の光明

サイフェルト 生死のテーマを考える時、池田会長のご意見をお伺いしたいことがあります。
 それは「尊厳死」にまつわることです。
 国家によっては、尊厳死がまるでサッカーのレッドカードのように、非常に危険で間違ったイメージとして植え付けられている場合があるように見受けられます。しかし、尊厳死は、生と密接に関連しており、「尊厳ある生」と同様に尊重されるべきものではないでしょうか。
 というのも、それによって、人々を死の不安から救うことができると思うからなのです。尊厳ある生と死の可能性としてお聞きしたいと思います。

池田 これも、多くの現代人が直面してきた難問題ですね。
 現実にはさまざまなケースがあり、画一的に論ずるのは難しい面もありますが、仏法では「積極的安楽死」には否定的な考え方をとります。人為的な死ではなく、自然死を待つという立場です。
 なぜなら、全ての人に仏性が内在しており、その顕現の可能性があります。その可能性を故意に断つことには、否定的にならざるを得ないからです。また積極的安楽死を認めてしまうことは、やがて、「生命軽視」の風潮へとつながりかねない面もあります。
 その上で、私も、「生も尊厳」「死も尊厳」というサイフェルト博士の言葉に、心から賛同します。
 「尊厳ある死」とは何か。それは、人間として、生きて生き抜いてきた人生の結果としての死を意味するのだと考えます。
 たとえ、死のきっかけが、突然の事故や不慮の災害だったとしても、どのような病気だったとしても、また仮に生きた歳月が短いようにみえても、それぞれの使命に生き抜いた尊い人生が迎える死には、無上の尊厳があると私は考えます。
 仏法においては、「悪象等は唯能く身を壊りて心を破ること能わず(不慮の事故や災難などによって命を落としても、信心で築いた生命の絶対的な幸福の軌道は破られない)」(御書7㌻)という生命観が説かれています。
 だからこそ、生ある間の生き方が問われるのだともいえます。それは、生前の名声や財産などとは別問題です。人それぞれに悔いのない、最高に価値ある人生を歩んだことこそが、その人の死を荘厳なものにすると思います。
        ♪
サイフェルト その点は同感できます。
 現在、痛みを和らげる緩和ケアやペインクリニックが急速に発展しています。今後も改良されていくでしょう。
 しかし、考えてもみてください。脳死の患者や、お気の毒な方々を。主人のラルフが闘病していた時も本当に苦しんでいて、“早く自分を解放してほしい”と叫んでいるようでした。
 ヨーロッパには積極的な慈悲殺(積極的安楽死)を奨励する機関が存在し、非常に慎重な取り組み方が望まれます。もちろん、介護はとてもお金のかかることですし、患者の意識の有無にもよるでしょう。
 私は基本的に、どのような状況であったとしても“自殺行為”には反対です。
 ただ自身の生命の処し方を決める決定権は、あくまでも本人の手に委ねられるべきだと思います。
 私個人の見解ですが、「リビングウィル(生前の遺書)」を各人が作っておくことをお勧めいたします。
 私も作成しましたが、たとえば私が脳出血に見舞われ。人工的にしか生命機能の維持ができなくなった場合、それに基づいて医療処置の方針を決めていただくものです。私もいつも携帯しておりますし、手術の前には医師から提出を要求されます。万が一に備えてというものです。
 長寿社会の実現により、一連の問題が生じてきています。ほんの少し前までは、60歳や70歳で直面していた問題を先延ばしにしているだけに過ぎないのでは、とも思います。そこには、本当に生きる価値がある人生とは、どのような人生なのかという疑問が常につきまといます。

池田 読者の中にも、サイフェルト博士と同じような考え方を持っている人も少なくないと思います。それほど、この問題は重い。
 私自身は、どんな状況でも、人間は最後の瞬間まで生き抜く姿勢を貫くべきではないかと考えます。そのように生きてこそ、「生まれてきて良かった」と心の底から思えるのではないでしょうか。
 ともあれ、死という問題に直面した時、当の本人とともに、その家族にとっても、人生の大きい試練となります。
 それを、どう乗り越えていくか──。
 アメリカの哲人エマソンは、妻や兄弟や息子を次々と亡くしました。その彼がこのように言っています。
 「(それらの死は)喪失以外の何ものでもないと思えても、いくらかあとになると、導き手、あるいは守り神の相貌を帯びてくる」「ふつうそれがわれわれの生き方に革命を起こし、(中略)品性の成長にとってもっと好都合な新しいものの形成を許すからだ」(酒本雅之訳『エマソン論文集(上)』岩波書店)と。
 最愛の人と死別する喪失の苦悩は否定しようがないものです。しかし同時に、大なり小なり、生死を超えた故人との一体感、また残された家族の悲しみの克服は、誰もが抱ける体験であり、実感ではないでしょうか。

サイフェルト 病気の主人と過ごした最後の数カ月を振り返ってみると、私たちがいかに精神的に深い日々を過ごしたことか。
 それは、まさにお互いが、一緒に同じ道を歩んだのだということがいえます。
 死は「卒業試験」だと思います。この一生で自分は本当に何を行ったのか、いかに人生を過ごしたのかを吟味する、ある意味、試験のようなものだと思います。
 もともと私は、いつもどちらかといえば、少し殻に籠っている人間でした。でも、自分自身が多少なりとも命の危険を伴うがんの手術を控えた時があり、病院の庭に降りてバラの花を眺めていた時、それは突如として以前とは全く違うものに見えたのです。
 こういう時、人は感謝し、より謙虚になり、人生のほんの小さなことにも喜びを見いだすようになるのですね。

池田 私の恩師・戸田先生がよく、「大病を患った人は深い人生の味をもっている」と言われていたことが思い起こされます。
 恩師自身、若き日に、大病で息女、夫人を相次いで亡くされ、ご自分も大病と闘われました。その悲しみ、苦しみを深き信念と慈愛に転じて、平和のため、苦しむ庶民のために、生涯、行動し抜かれたのです。
 今、東京では爛漫の桜の花が、柔らかな風に舞い、惜しまれながら散っていきます。しかし「去って去らず」です。桜花は、大地から得た命で咲き切り、その命を再び大地に返しているのです。大地はまた、新たな力を得て生命を育んでいくのです。
 「死は『卒業試験』」という比喩に照らすならば、確かな生命観・生死観を求めずに生きゆくことは、卒業後を考えずに学校生活を送るようなものといえるかもしれません。
 明治のキリスト者であった内村鑑三氏は語っています。
 「あの実に重要なる死の問題、──それはあらゆる問題中の問題である。死のあるところ、宗教はあらねばならぬ」(鈴木俊郎訳『代表的日本人』岩波書店、現代表記に改めた)と。
 私が19歳で恩師に出会い、信仰を始めるころに読んだ言葉です。
 真実の宗教は、医学や科学と相反しません。医学や科学の進歩と相侯って、ますます宗教の叡智は求められていくでしょう。知識や理性だけではどうすることもできない問題を解決するためにこそ、正しい宗教はあると、私は思ってきました。
 仏典には「百千万年の間、闇に閉ざされていた所でも、灯を入れれば明るくなる」(御書1403㌻、通解)とあります。
 いかなる人であれ、尊極の生命を秘めている。どんな状況であれ、その生命を輝かせていける法があります。
 その法とともに生き抜く人生は、生死の闇を照らし晴らしていけるのです。永遠の生命を明かした哲理にこそ、人々を確かな幸福の道へ導く希望の光明があるのではないでしょうか。
 その意味において、太陽が燦々と昇りゆくように、私たちが信仰している法華経の真髄たる妙法の大光が、世界中の人々に新しい幸福と勇気を送るのが、この21世紀であると、私は強く確信しております。
2014-04-05 : 生命の光 母の歌 :
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創価大学(第44回)女子短大(第30回)入学式へのメッセージ

創価大学(第44回)女子短大(第30回)入学式へのメッセージ
                          (2014.4.2 創価大学記念講堂)

 創価大学の第44回、創価女子短期大学の第30回入学式が2日、東京・八王子市の創大記念講堂で挙行された。創立者の池田名誉会長はメッセージを寄せ、一人一人が自分らしく「教養」「学識」「人格」「勝利」の花を咲かせ切り、黄金の歴史を創る一日一日にと念願。祝福の和歌を贈った。式典には、台湾の中国文化大学・池田大作研究センター一行が来賓として出席。同大学の林彩梅元学長が祝辞を述べた。
 春風薫る桜花爛漫のキャンパスに、若き学問の探究者たちが希望に燃えて集い来た。世界基準の人材の育成へ、新たな飛躍の時を迎えた創価大学。この日、待望の「国際教養学部」が、ついに始動したのである。
 「ウェルカム!(ようこそ!) ザ・ファースト・クラス!(1期生の皆さん!)」
 にぎわう中央教育棟(グローバルスクエア)のガイダンス会場。学生や教職員が、英語で自由に語り合っている。新入生の輪に分け入り、一人一人に熱心に声を掛けるマリア・グアハルド学部長。創大初となる外国人女性の学部長である。「私たち教職員は、皆さん一人一人を全力でサポートするためにいます。何でも聞いてください。一緒に、努力と充実の大学生活を送りましょう!」
 グアハルド学部長はメキシコ系の貧しい家庭に生まれた。全額奨学金でハーバード大学を卒業し、デンバー大学で臨床心理学の博士号を取得。コロラド州やデンバー市などで教育・研究・行政職を歴任してきた。アメリカ創価大学の理事でもある。創立者・池田名誉会長と幾度も出会いを重ね、目の前の一人を全身全霊で励ます姿に深い感銘を受けた。“偉大な教育者に!”と激励された思い出は、今も記憶に鮮やかだ。
 グアハルド学部長は感無量の面持ちで決意を述べた。「私の人生の全ての苦労は、きょう、ここから始まる新たな挑戦のためにあったのだと確信しています。わが学部の使命は、次代の世界的リーダーを輩出することです。創立者と共に、学生と共に、創大の新たな歴史を創ります!」
 同学部では、1年次後期から1年間、英語圏への留学が必修となる。帰国後は「歴史・文化」「政治・国際関係」「経済・経営」の3分野のクラスを英語で受講。国際性豊かな教授陣が駆使できる言語は12に及び、1クラス20人以下の少数精鋭の教育が行われる。
 1期生は84人。中には、韓国、オーストリア、アメリカ、シンガポール、ブラジル、フランスからの学生もいる。木村宏一さんは、東京・創価高校の出身。「国際社会をリードする学部の建設へ、1期生の誇りも高く、徹して学究の道を歩み抜きます。創立者の平和構想を受け継ぎ、実現できる“真の世界市民〟に成長していきたい」と力を込めた。
 オーストリアの出身で、創大の別科を卒業したグロリア・シュタイナーさん。「“世界を変える”“平和に貢献する”との創大の理想に大きな触発を受けています。必死に勉強し、人々の幸福に尽くす人材になって、使命の舞台に羽ばたきたい」と瞳を光らせた。
 百花繚乱の晴れやかな出発の日。創大生・短大生の門出を寿ぎ、海外からは創立者と深き友誼で結ばれた台湾の名門・中国文化大学の一行が来日した。入学式に先立つ懇談では、同大学の張鏡湖理事長が創立者に詠んだ漢詩が、林彩梅元学長から紹介された。林元学長は、漢詩に込められた意味について次のように語った。「池田会長の精神が体現された世界は、平和が実現し、人民が幸福となり、そして優秀な青年が目覚ましい成長を遂げるに違いない──。そのことを、この詩はたとえているのです」



中国文化大学 林彩梅元学長の祝辞


「知恵の教育」を重視する創大で平和共生の池田思想を学べ

 一、本日、入学の栄冠を勝ち取った新入生の皆さま、世界一の創価大学に入学できたことは、大変に幸せなことです。本当におめでとうございます(大拍手)。
 ちょうど20年前の1994年4月8日、私は中国文化大学の張鏡湖《ちょうきょうこ》理事長と共に、初めて創価大学を訪れました。また、その年の11月24日には、福岡で池田先生に初めてお会いすることができました。池田先生と張鏡湖理事長は、1時間半にわたり対話され、その内容は深く、大変に啓発を受けました。
 その後、光栄にも本学は創価大学との交流協定を締結することができたのです。
 ご存じの通り、池田先生は、世界的な教育者、哲学者、宗教家、芸術家であり、「桂冠詩人」の称号も授章されております。世界の平和と人類の幸福の実現に努力され、アジアの平和を推進してこられました。
 そして先生は、国連平和賞をはじめ、アルバート・アインシュタイン平和賞、タゴール平和賞等を受賞され、さらに世界の大学等から、347もの名誉学術称号が贈呈されております。
 中国文化大学としても、2003年3月24日、台湾の大学としては第1号となる名誉哲学博士号を贈呈させていただいております(大拍手)。
 また同年、「池田大作研究センターを設立し、これまで8回にわたり「池田大作平和思想研究国際フォーラム」を開催し池田思想を研究してまいりました。
 一、私は池田先生の思想を研究する中で、創価大学の崇高な理念を実感し、そこで学ぶ学生の皆さまに大きな期待を寄せております。
 創価大学で教育を受けることが、皆さま方の人生にとってどれほど価値があることか、何点か述べさせていただきます。
 第1に、創価大学の環境について。近代的で卓越した教育・研究設備が整い、キャンパスは春には美しい桜が爛漫と咲き香り、秋には見事な紅葉が彩ります。こうした環境が、学生たちの歴史、文化、芸術などの教養や、人間の幸福観、社会貢献の精神、さらには人の心と心をつなぐ人格を自然と育ててくれます。
 創価大学は近代的で美しく、詩の世界のような大学で、世界には他に類を見ない素晴らしい大学です。
 一、第2に、世界の多くの大学は「専門的な知識や技術の教育」に重きを置き、科学技術の能力を有する人材を育て、世界の経済発展に大きな貢献をしてまいりました。
 しかし、人類の幸福という観点では、多くの問題を抱えております。例えば、宗教、民族、文化の違いによる争い、リーマンショックに端を発した世界の経済的な大打撃、一部の営利主義と利己主義にむしばまれた企業による食の安全問題等、消費者の健康被害も後を絶ちません。
 池田先生は、そうした問題は、大学での「教養的な知恵の教育」が不足しているためであると主張されております。
 大学は「専門的な知識の教育」と「教養的な知恵の教育」を共に重視すべきであり、特に平和共生と人道主義の精神をもち、人々の幸せを最も重要課題と考える教育をする必要があります。
 創価大学は池田先生の教育理念に基づき、世界的にも高い評価を得ております。創価大学の先生方は学生たちに「専門的な知識の教育」だけでなく「教養的な知恵の教育」に努めております。
 卒業生は、すでに多くの企業で将来を担う人材に成長しております。彼らは、池田先生の平和共生と人道主義の精神をもって、消費者の幸福と会社の発展に努め、社会の繁栄と発展に大きな貢献をしております。
 一、第3に、池田先生は、50年以上にわたり、世界平和のために各国のリーダーと対話し、世界的に有名なイギリスの歴史学者トインビー博士をはじめとする識者と、60点を超える素晴らしい対談集を出版されております。さらに、小説『人間革命』『新・人間革命』なども執筆されております。これらは、世界的な名著であり、各国の学者たちも積極的に勉強しています。
 優秀な学生の皆さま、専門的な本を研究する以外に、池田先生のご著作を、毎月最低1冊以上読むことをお勧めします(大拍手)。
 それにより、皆さまに正確な自然観、人生観、価値観が備わり、人生の大きな知恵になることは間違いありせん。そして、人生の幸福と成功の源となり、必ず自分の幸せと他人の幸せ、社会の繁栄と世界の平和を実現する力になります。
 世界一の大学である母校、創価大学のますますのご発展、並びに日本のますますのご発展をお祈り申し上げます(大拍手)。

張鏡湖理事長から漢詩

 環池田園春滴翠
 大儒著作伝千古

〈大意〉
 池を取り囲む田園に春が翠《みどり》を滴らせるが如くに、大学者の著作は千古に伝えられていくでありましょう。

※創大創立者の名前が織り込まれている。

創立者のメッセージ

前進! 桜梅桃李の使命の道を 学問錬磨の青春を勝ち飾れ!

努力の根を深く張れ
張其昀博士
苦しい時こそ大事業の基礎が築かれる

 一、これほど爛漫の桜花に彩られ、これほど世界からの祝賀に包まれ、これほど未来へ決意あふれる入学式が、いずこにあるでしょうか。
 晴れの新入生の皆さん、誠におめでとう!
 「桜の城」と輝く、わが創価大学、わが創価女子短期大学に、ようこそ!(大拍手)
 29カ国・地域から、勇躍、集ってくれた尊き留学生の皆さんを、詩情豊かな日本の春の盛りに歓迎できたことも、嬉しい限りです。
 新たに開設された国際教養学部にも、誉れの俊英を迎えることができ、希望はいやまして大きく広がっています。新入生の皆さんを送り出してくださった、ご家族の方々に、心から御礼を申し上げます。
 本日は、創価大学の兄の大学である、台湾の中国文化大学より、私が敬愛してやまない林彩梅《りんさいばい》元学長ご一家、さらに諸先生方が祝福に駆けつけてくださいました。これほどの光栄はございません。私たちは今一度、万雷の大拍手でお迎えしようではありませんか!(大拍手)

向学の魂光らせ
 一、桜も満開の皆さんの門出に際し、私は3点のエールを贈ります。
 第1に、「たゆむ心なく学びの根を張れ」と申し上げたい。
 今や、わが創価のキャンパスには、若き創造的生命の探究に、最大に応えゆく勉学の環境が整いました。学園・創大1期生である馬場学長、田代理事長をはじめとする、教職員の方々も、私の心を心として、全力で皆さんの薫陶とサポートに当たってくれます。
 この春、私が新しい対談の連載を開始した、香港中文大学の元学長で、世界的な経済学者である劉遵義《りゅうじゅんぎ》博士も、発展を続ける創価大学に深い信頼を寄せてくださり、「良い学生は良い教師を引き付け、良い教師は良い学生を引き付けます。最高の教師と最高の学生を持つことは、お互いを高め合います」と力説されていました。
 どうか、新入生の皆さんは、この学舎で自信満々と向学の魂を光らせて、最高峰の学問錬磨の青春を飾っていってください。
 多感な学生時代には、さまざまな試練や葛藤もあるでしょう。しかし、いついかなる時も、「学ぶ」「学び続ける」「学び抜く」という執念だけは、断じて手放さないでいただきたい。
 一、中国文化大学の偉大な創立者であられる張其昀《ちょうきいん》博士は、こう励ましを贈っておられました。
 「決して落胆したり、失望したりする必要はない。最も苦しい時こそ、思考と修養を深め、新たな活力と新たな生命を獲得し、のちの大事業の基礎を築くことができる」と。
 私の恩師・戸田城聖先生も全く同じ教えでした。
 悩みながら、もがきながら、それでも断固と挑戦をやめない。たとえ失敗しても、へこたれずに努力したことが、全部、自分自身の揺るぎない根っことなる。その根が深ければ深いほど、時とともに大樹と育って、偉大な価値を、社会に世界に創造していくことができるのです。

恩に報いる人生
 一、第2に申し上げたいことは、「誇り高く勝利の花を咲かせよ」ということです。
 「桜梅桃李」という生命の法理があります。桜は桜、梅は梅、桃は桃、李《すもも》は李として、それぞれに美しき花を精一杯に咲かせていきます。それと同じように、一人一人が、最も尊厳な生命を自分らしく個性豊かに光り輝かせていくことを促しているのです。
 本日、皆さんを温かく見守ってくださっている林彩梅先生は、青春時代、桜咲く日本へ留学され、言葉の壁も超えて、徹底した研究を積み重ね、見事に商学の博士号を勝ち取られました。
 そして、ご自身が学問の師匠から受けた恩を忘れず、その報恩の心を込めて学生たちを慈しまれてきました。台湾初の女性の学長として、まさに「桜梅桃李」の多彩な人材の花園を築き上げてこられたのです。
 かつて私は、林彩梅先生に漢詩を捧げました。「品学兼備にして 異彩を放ちたる 霜をしのぎ 雪と闘う一枝《ひとえだ》の梅」──。
 すなわち、気品みなぎる人格と学問を共に備え、優れた光彩を放たれている。その高貴な生命は、すべての困難を乗り越え、勝ち越えて、風雪にも凜と咲き誇る、美しく香しき梅の如し、と。
 「恩に報いる人生ほど幸福な人生はありません」とは、林先生の気高き哲学です。
 新入生の皆さんも、一人一人が自分にしか咲かせられない生命の花を持っています。そのかけがえのない花を、思う存分に開花させていくために、皆さんは、今、ここに集い合ったのです。
 これから4年間、また2年間、苦労はむしろ誇りとして、良き学友と励まし合い、力をつけ、智慧を深め、真の「教養の花」「学識の花」「人格の花」「勝利の花」を咲かせ切ってください。そして父上、母上をはじめ、皆さんの成長を何よりの楽しみとしている方々に、毅然と、ご恩返しをしていただきたいのであります。
 きょうは、このことを、私は林彩梅先生とご一緒に皆さんにお願いします。

語学を磨き価値創造の世界市民に

人類の連帯結べ
 一、第3に、頼もしき創価の世界市民である皆さん方へ「朗らかに平和の種を広げゆけ」と託したい。
 40年前の4月、私はアメリカのカリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)からお招きをいただいて、講演を行い、21世紀を「生命の世紀」にと展望し、呼びかけました。
 ──人間は「才能ある畜生」であってはならない。未曽有の転換期に立つ青年が、若き建設者、開拓者たれ!
 知性的であるのみならず、精神的、さらに生命的にも、人間として偉大な跳躍を遂げようではないか! と。
 その人類の跳躍の連帯を開くために、私は、創価大学の創立者として、全世界と対話を続けてきました。UCLAを第1回として、世界の大学・学術機関での講演も、モスクワ大学、北京大学、フランス学士院、ハーバード大学など、32回を数えます。
 一、間もなく、アメリカの著名な教育哲学者であるヒックマン博士とガリソン博士と私の鼎談集『人間教育への新しき潮流──デューイと創価教育』が、日本とアメリカの双方で発刊されます。
 その中で、私たちは、20世紀の悲劇を絶対に繰り返さないために、世界の諸大学は、今こそ学生の国際交流を広範かつ持続的に断行すべきであると強く一致しました。
 両博士は、創価教育こそ、グローバル化の世紀に要請される「価値創造の教育」であると期待を寄せてくださり、「他の文化を学ぶこと」は即「平和の種を蒔くこと」であると強調されています。
 今、創価大学は、世界47カ国・地域148大学と学術交流を結び、わがキャンパスには45カ国・地域の留学生を迎えています。皆さんの在学中に、創大の国際交流は一段と拡充していくでしょう。
 どうか、世界の英才と朗らかに学び合い、新たな地球文明をリードしゆく、スケールの大きな創造的生命へと跳躍してください。
 できることならば、青年時代、語学を学べず悔しい思いをした私の分まで、皆さんは語学力を磨いて、創価の平和・文化・教育のスクラムを、さらに自在に広げていっていただきたいのであります。
 終わりに、きょうより、共々に黄金の歴史を創りゆく皆さんへ、

 わが命
  創大城に
   厳とあり
  君の未来の
   勝利を見つめて

 と贈り、私のお祝いのメッセージといたします。
 新入生、万歳! 留学生、万歳!
 皆、健康第一で、勇気と希望と充実の一日一日を、忍耐強く、勝ち進んでいってください。本当におめでとう!(大拍手)
2014-04-03 : スピーチ・メッセージ等 :
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未来の翼 世界が君を待っている 第1回 ロサンゼルスの道

未来の翼 世界が君を待っている

第1回 ロサンゼルスの道         (2014.4.1付 未来ジャーナル)

「まず、やってみよう」と挑戦する勇気の青春たれ
失敗を恐れるな!「いつか必ず」という不屈の意志を!


 それは、どこまでも続く、夢と希望の道です。
 はるか太平洋の彼方から、快活に押し寄せる白波。宇宙の果てまで突き抜けるような青空──。
 人々が憩うビーチも、緑と茶色の山々も、さっそうと駆け抜ける車の車体も、全てが明るく照り輝いています。
 この太陽の讃歌にあふれる道は、私がアメリカ西海岸のカリフォルニア州ロサンゼルスを訪れた際に、いつも通る道です。潮風を切って走る車の中で、私は思わずカメラのシャッターを押しました。
 私にとってアメリカは、恩師・戸田城聖先生に託された「夢」の第一歩をしるした国です(1960年10月)。以来、54カ国・地域を訪問し、友と語り、平和の種を蒔き続けてきました。
 恩師には、壮大で崇高な「夢」がありました。それは、「この世から『悲惨』の二字をなくす」という、「世界広宣流布」の夢です。
 いつの旅でも、どこの国を訪れても、私の胸には、恩師の言葉が響いていました。
 「大作、世界へ行くんだ。私に代わって!」
 私の世界への旅は、師の夢をかなえる「後継の旅」です。世界広布の夢を広げる「平和の旅」です。
 そして今、君と私の夢を開く「新たな師弟の旅」が始まります。
 さあ、一緒に旅に出よう! 心に大きな「未来の翼」を広げて!

 「夢を描くこと」そして「夢に挑戦すること」は、人間ならではの権利であり、なかんずく青年ならではの特権でしょう。
 ロサンゼルスは、人々が夢を追って集い来た自由の天地です。
 カリフォルニア州には、「ゴールデン・ステート(黄金の州)」という呼び名もあります。かつて、この地で金が採れたため、多くの人が一気に入植し、街を発展させていったからです。「カリフォルニアの過去がアメリカの未来だ」とも言われています。
 今も昔も、フロンティア・スピリット(開拓者精神)」にあふれる人たちが住む「夢の舞台」-世界都市・ロサンゼルスは、まさにその中心です。
 ロサンゼルスを、私はこれまで何度も訪れてきました。この地は私にとって「黄金の人材」が輝きわたる希望の都なのです。
 40年前の春、カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)で講演をした時のことを、私は懐かしく思い起こします。

 1974年の4月1日。時差のある日本では、戸田先生の祥月命日である4月2日のことでした。
 青春時代、私は、お仕えする戸田先生の事業を支えるため、大学に行くことを断念しました。しかし、先生は、「最優秀の教育を授けたい」と、最初は日曜日ごと、やがて平日の朝も使って、万般の学問の個人教授を続けてくださったのです。
 この「戸田大学」の卒業生の誇りも高く、師から教えていただいた生命尊厳の哲理を、若き知性に伝えたい──講演は、師匠の夢の実現であり、師匠を宣揚する言論の戦いでした。
 私は、仏法の生命観を通して、「21世紀を生命の世紀に」と提唱しました。
 進取の気性に富む英才たちは、私の講演を実に真剣に聴いてくれました。終了後には、多くの学生が壇上の私の前に駆け寄ってきました。
 仏法の人間主義の哲学を、世界の若き知性が求めている。この姿を戸田先生がご覧になったら、どれほど喜ばれるだろうか──私は、汗を拭うのも忘れ、一人また一人と固い握手を交わしました。
 この時を第1回として、恩師の心を携えながら、私が、海外の大学・学術機関から招へいを受けて行った講演は、32回を数えます。

 「人生というのは、夢を見るためにあるのよ。それをつかむ勇気と意志を持っているかどうかなのよ!」
 これは、私の忘れ得ぬ友人である、ロサンゼルスのトム・ブラッドレー市長のお母さんの言葉です。
 ブラッドレー市長も、私が講演したUCLAに学んだ一人です。全米屈指の大都市ロサンゼルスで、アフリカ系アメリカ人として初めて市長になった方です。
 最初の出会いは、講演の翌年の1975年の1月。高層ビル群を一望する市庁舎でした。
 部屋に入ると、長身のブラッドレー市長が、満面の笑みで迎えてくださいました。
 穏やかな語り口。飾らない率直さ。どこまでも謙虚な立ち振る舞いに、幾多の苦難に磨き抜かれた人格が輝いていました。
 ブラッドレー市長の祖父は、かつて奴隷の境遇にあった方です。父親は貧しい小作農で、その息子である市長も、小さい時から綿花畑で働かねばなりませんでした。市長が未来部の皆さんと同じ年代のころは、まだまだ人種差別が色濃く残っていました。
 大学進学は夢のまた夢でした。市長は学校の教員に、「大学など行けるはずがない、仕事をした方がいい」と言われたそうです。
 それでも、あきらめませんでした。「人生は夢を見るためにある」──お母さんの言葉が、市長を支える信念となっていたのです。
 努力に努力を重ねて、ついにUCLAへの進学を果たしました。その後、21年間、ロサンゼルス警察で働きます。さらに市議会議員を務め、市長に立候補して、2度目の挑戦で当選したのです。
 市長は、もともと警察官になることを希望していたわけではありません。周囲の勧めもあり、とにかく試験を受けてみたそうです。そこから道が開かれました。
 目の前の課題に、一生懸命、取り組む。“何事も、とにかくやってみよう”と挑戦する。たとえ夢がはっきりと見えていなくたって、かまいません。
 努力は絶対、無駄にはならない。ベストを尽くす一歩一歩が、必ず夢に向かって前進する栄光の道となるのです。
 その道の途中では、迷うこともあるでしょう。でも、焦る必要はありません。遠回りしたとしても、新しい発見をするチャンスととらえて、周りの景色を楽しめばよい。そのうちに、もっとすばらしい道が見つかったり、新たな夢の目的地が見えたりすることもある。
 大事なのは、失敗を恐れない勇気を持つことです。「いつか必ず夢をかなえてみせる」という不屈の意志を持ち続けることです。
 大きな夢だけが、夢ではありません。みんなが日ごろ目標にして願っていること、頑張っていることを、思い浮かべてみてごらん。
 「成績を上げたい」
 「部活でレギュラーになりたい」
 「海外に留学したい」
 「友達と仲良くなりたい」
 「家族の病気が治ってほしい」
 どれも、大切な「夢」です。
 夢の“種”は身の回りにあふれている。だから毎日、真剣に祈って、夢を見つける努力をしよう。夢をかなえる挑戦をしよう。
 皆さんが将来、ロサンゼルスを訪れる時に、まずロサンゼルス国際空港に降り立つでしょう。その国際線ターミナルの名は、「トム・ブラッドレー国際ターミナル」です。ブラッドレー市長の胸像が立っています。市長は今も変わらず、世界中の人々を、あの満面の笑みで迎えているのです。
 皆さんの心にも、きっと「さあ、夢を見よう!」と呼びかけてくれるに違いありません。

 アメリカ公民権運動の母ローザ・パークスさんも、私がロサンゼルスでお会いした大切な宝の友人です。
 「私には夢がある」という演説で有名な指導者マーチン・ルーサー・キング博士と共に、人種差別撤廃のために戦った女性です。
 何の罪もなく、ただ黒人たというだけで差別され、いじめられました。公共のバスの中でさえ、自由に座ることを許されなかった社会で、勇気に燃えて、正義の声をあげ、歴史を大きく変えたのです。
 パークスさんは、未来を担う少女に、こう語りかけています。
 「あなたも、自分自身を信じることによって希望の灯火《ともしび》を燃やし続けることができるのです。あなたが、自分自身と未来に対し、希望をいだき続けるならば、きっと、世界をもっと住みやすい場所にすることができるはずです」
 たとえ君が、あなたが、壁に突き当たり、窮屈な思いをしていても、夢を世界に広げれば、そこに希望は生まれる。希望がある限り、夢の道は永遠に続いていきます。
 世界をもっと良い場所に!──この夢に生きたパークスさんは、アメリカ創価大学(SUA)にも大きな期待を寄せ、励ましの手紙を送ってくださいました。
 ロサンゼルス近郊のオレンジ郡にあるSUAは、平和のために闘う世界中の人たちの夢の結実です。各国から最優秀の若き世界市民が集い、平和への夢の大道を歩んでくれています。
 私の心も、日々、この希望の光に満ちたキャンパスで向学と使命の青春に生きる学生たちと共にあります。世界中で奮闘する卒業生と共にあるのです。
 これから、皆さんの中から、また皆さんの仲間から、SUAに進んでくれる英才が、たくさん出ることを、私は楽しみにしています。

 青春の道は、日差しが爽やかな快晴の日もあれば、荒れ狂う嵐の日だってある。
 その試練の時に、力となるのは、共に支え合って前進していく善き友の存在です。
 日蓮大聖人は、「仏になるみちは善知識にはすぎず」(御書1468㌻)と仰せになられました。
 仏になる道においては、何よりも善き友の存在が重要であると説かれているのです。
 大いなる夢を掲げて、善き友と励まし合って歩むならば、決して行き詰まりません。
 皆さんには、未来部の担当者という、どんな時も善き味方となって、一緒に祈り、相談に乗ってくれて、真心から応援してくれる先輩方もついています。
 私が青春時代に愛読した一人にアメリカの民衆詩人ホイットマンがいます。彼の詩集『草の葉』にある「大道の歌」には、高らかに詠われています。
 「出かけよう、道はぼくらの前にある」
 青春の理想へ、人生の勝利へと続く大道は、今、皆さんの目の前に開けています。
 それは、果てしない理想の高みへと通ずる使命の道です。
 どんなに険しい峰が立ちはだかったって、絶対に大丈夫です。
 皆さんには──
 可能性を無限に発揮しゆく「夢の翼」があるからです。
 何ものにも負けない「希望の翼」があるからです。
 そして、世界に羽ばたく「未来の翼」があるからです。

ローザ・パークスの言葉は『ローザ・パークスの青春対話』高橋朋子訳(潮出版社刊)。ホイットマンは『草の葉(上)』酒本雅之訳(岩波文庫刊)
2014-04-01 : 未来の翼 世界が君を待っている :
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