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随筆 民衆凱歌の大行進 No.2 二月闘争の誇り

随筆 民衆凱歌の大行進 No.2 (2014.2.18付)

二月闘争の誇り

一人を大切に! 地涌の底力を開け
元気で希望と歓喜の座談会を


 けなげにも
  寒風おそれぬ
      英姿かな

 新時代の二月闘争を!
 立春を過ぎても、いまだ厳寒の続く中、わが地涌の同志は、「壁を破ろう!」と、紅梅の如く鮮烈な広布の情熱を燃やし、生き生きと対話に挑戦している。
 あの地この地から届く、弟子たちの意気軒昂な奮闘の姿を、私は嬉しく、合掌する思いで伺う毎日だ。
 北海道や東北、信越、北陸など“北国”のほかにも、今月は山梨をはじめ東京、関東などでも大雪が続いている。この冬の試練と闘う同志の労苦が偲ばれてならない。皆、体を大事に、絶対、無事故で!──と、私は真剣に祈っている。

我ら折伏行の王者
 「伝統の二月」の淵源となった立宗700年の昭和27年(1952年)──この年の2月を前に、恩師・戸田城聖先生は、同志に和歌を贈ってくださった。

 友どちの
  集いも堅き
   学会は
  折伏行の
   王者なりけり

 この師子吼の如く、「折伏行の王者」の誇りに胸を張って、私たちは広宣流布の旗を掲げたのだ。
 とともに戸田先生は、具体的に最前線の組織である「組」中心に拡大を推進することを、学会全体の方針として打ち出されていた。
 だが、この師の真意を、まっすぐに実践しようとした幹部がどれだけいたか。「組」では戦えないと決めつけ、これまで通りの活動に安住したり、ただメンバーを集めて叱咤して満足している者もいた。
 戸田先生は「大白蓮華」の巻頭言で喝破された。
 ──信心の素晴らしさ、御本尊の偉大な功徳も教えないで、いくら号令しても人が動くはずはない、と。
 一人ひとりが、「すごい信心だ」と確信を持てば、「ぜひ友人にも教えたい」と行動が生まれる。納得が喜びを生み、勇気を生み、新たな対話を生むのだ。
 「組」中心とは、形式ではなく、第一線の学会員が主役となって、自信満々と行動していくことである。勇気の対話ヘ一人立つ友がいるところ、そこが“広布開拓の主戦場”なのだ。
 ゆえに蒲田支部で私が徹して実践したことも、直接一人ひとりに会い、共に祈り、共に動き、共に戦うという最も地道な活動である。
        ◇
 蒲田支部の二月闘争は、75万世帯の折伏への突破口を開いた。それは、いわゆる組織を動かした成果ではなかった。
 この時、私は24歳の無名の青年にすぎない。
 支部の壮年、婦人には、初対面の方々も多かった。
 お会いして、誠実に語り合わずして、どうして信頼されようか。自分が真剣に戦わずして、どうして共に動いていただけようか。
 だから私は勇んで飛び込んでいった。自身の悩みや宿命と必死に戦う人間群の真っ直中へ! かけがえのない一人ひとりの生命と向き合い、心に訴えた。人間革命と広宣流布の誓願に生き抜く尊き使命と喜びを!
 この一対一の人間の結びつきを根幹として、新たな人材を見つけ、励ましを送り続けたのだ。
 その結果、かつてない多くの友が折伏に挑戦し、同志の行くところ、集うところ、対話の花が咲いた。
この1カ月、蒲田の同志が繰り広げた対話は、何千回にも及んだに違いない。
 「新しい人」「新しい力」による、「新しい対話」が、爆発的に広がった。まさに地涌の底力によって、壁は破られ、「新しい歴史」の扉が開かれたのである。
 「一人の人間の一つ一つの偉大さによって人類は新しくなり、より偉大になる」とは、オーストリアの作家ツバイクの言葉である。
 この二月闘争で入会した201世帯の一人である丈夫《ますらお》は、その翌日から、早速、折伏を開始した。
 共に学んだ「心の師とは・なるとも心を師とせざれ」(御書1088㌻)との一節を命に刻み、挑戦を重ねていった。罵倒して水を浴びせてきた相手もいた。それでも題目を送った。
 しばらくして再会すると、その人は入会していた。当時のことを深く詫びつつ、「折伏してくれて、本当にありがとう!」と最大に感謝を語ったという。

人間のための宗教
 「一人を大切に!」──これは、日蓮大聖人が貫かれた御精神であられる。
 数々のお手紙を拝せば、直接の対告衆の門下への御指導はもちろんとして、配偶者へのお心遣いがあり、子どもや親族への個々の励ましもなされている。
 ある婦人の病気の報告には、「尼ごぜんの御所労の御事我身一身の上とをもひ候へば昼夜に天に申し候なり」(同978㌻)とまで激励されている。徹して、一人に寄り添い、慈愛を注がれているのだ。
 この御本仏のお心のままに、友と苦楽を分かち合い、築き上げてきたのが、創価の人間共和の世界である。
 その中から今、21世紀の希望と光る新たな人材群が躍り出ているのだ。
 見よ! 未来創造の熱と力にあふれた青年たちの、なんと頼もしいことか。
 今、女子部の白蓮グループの皆さんが全国の各地で行っている入卒式も、なんと清々しいことか。
 わが創価学会は、どこまでも「一人」を大切にし、「一人の人間」が持つ「世界を変える力」を限りなく発揮していく。これこそが「人間のための宗教」であり、「民衆の側に立つ宗教」であるからだ。
        ◇
 今月、新潟の佐渡では、“我らのふるさとを幸福の楽土に”と青年主張大会を開催した。郷土を愛する若人の真剣な発表に共感の輪が大きく広がっている。
 この地で、大聖人が魂を留められた「開目抄」に、次の文が引かれている。
 「慈無くして詐り親しむは是れ彼が怨なり」 「彼が為に悪を除くは即ち是れ彼が親なり」(同236㌻)
 友の幸福を真剣に願うからこそ、大仏法の正義を、臆さず、堂々と訴えていく。これが折伏精神だ。
 戸田先生は「折伏というものは苦しんでやるものではない、楽しくやらなければなりません」とも教えてくださっている。
 楽しくやろう。肩肘張る必要はない。心軽やかに、どんどん人と会い、信心の喜びと確信を語ることだ。そこに自身の人間革命の修行も、広宣流布の拡大も、全部、含まれている。
 「自他共の幸福」を目指して折伏に挑んでいること自体、何よりも尊貴で充実した人生なのである。

仏法は「人の振舞」
 先般、原田会長が、出席した会合で聞いた新入会の立派な壮年の体験を、感動を込めて伝えてくれた。
 入会のきっかけは、3年前の東日本大震災の被災地で目の当たりにした学会の医師や看護師はじめ、創価の友の献身の姿であった。
 「その言葉は苦しんでいる人びとの心に染み入る誠実さに溢れていました。その姿を見る度に、私は何度も目頭が熱くなりました。疲れを知らない情熱の根拠を知りたいと思いました」
 自分の生き方を根底から変えようと入会。早速、折伏した二人の友人と共に黄金の人生を歩まれている。
 御聖訓には、「教主釈尊の出世の本懐は人の振舞にて候けるぞ」(同1174㌻)と仰せである。
 創価の友の「人の振舞」ほど、雄弁に仏法の素晴らしさを物語るものはない。
 友のため、地域のため、社会のため、真心を尽くす、わが同志の「振舞」の積み重ねが、知らず知らずのうちに、無数の仏縁を結び、育み、広げてきたのだ。
 時代は一段と我らの価値創造の行動を求めている。
 「学会は永遠に折伏の団体なり」──この誉れを胸に、声も惜しまず対話を進めようではないか!
 「声仏事を為す」(同708㌻)である。
        ◇
 二月闘争の誇りも高く、座談会が、全国各地でにぎやかに行われている。
 信心の歓喜と確信がみなぎる座談会を! 心と心が通い合う対話を! わが地区、わがブロックの和楽と躍動の姿が、そのまま世界広布新時代の前進である。
 「御義口伝」には、「喜とは自他共に喜ぶ事なり」(同761㌻)と説かれる。
 参加されたすべての方々が主役である。来て良かったと、皆が喜び合い、励まし合っていける、春を呼ぶ希望の座談会を、元気いっぱいに繰り広げていこう!

 勇敢に
  いかなる壁も
   打ち破れ
  広宣流布の
    君よ先駆を


 ツバイクの言葉は『ツヴァイク全集10』所収「トルストイ」堀内明訳(みすず書房)。
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2014-02-18 : 随筆 民衆凱歌の大行進 :
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生命の光 母の歌 第5章 「戦争の100年」から「平和の100年」へ

第5章 「戦争の100年」から「平和の100年」へ  (2014.2.5/6/11/12/13付 聖教新聞)

池田 「平和の時代は人間の創造であり、政治的平衡の上に築かれた芸術作品である」(深津栄一訳「戦争から平和へ」、『クーデンホーフ・カレルギー全集6』所収、鹿島研究所出版会)
 パン・ヨーロッパ主義を提唱した貴国オーストリアのリヒャルト・クーデンホーフ=カレルギー伯爵の言葉です。
 戦争に明け暮れてきた人類史の現実を鋭く直視しながら、それでもなお平和の創造へ不屈の挑戦を続けられた信念の闘士でした。
 伯爵とは1967年の来日の時に初めてお会いし、さらに3年後、再びの来日の折に4度、のべ10時間の対話を重ねて『文明・西と東』と題する対談集を発刊しました。これが、私にとって世界の知性との最初の対談集です。
 伯爵は「平和というものは、民衆が平和な心を持つとき初めて達成される」(鹿島平和研究所・鹿島守之助編訳『同全集8』同)とも語られ、特に女性が平和の担い手として一大勢力を成すことを希望されていました。

サイフェルト リヒャルト・クーデンホーフ=カレルギー伯爵は、大変有名です。EU(ヨーロッパ連合)の先達であり、その理念の先駆者ですね。
 姪のバーバラさんも有名で、ジャーナリストをされています。とても素晴らしい人格者で、頭脳明晰な方です。

池田 よく存じ上げています。伯爵の甥であるミヒャエルさんは画家として活躍され、私どもの東京富士美術館も交流を結んでおります。
 伯爵の悲願というべきEUは、前身のEC(ヨーロッパ共同体)から発展する形で、1993年に発足しました。
 昨年7月にクロアチアが加盟して28カ国の連帯となり、国際社会で大きな存在感を示しています。経済面など課題はありますが、これまで幾多の争いに苦しんできた多様な民族や国々がこうして連合体を形成していること自体、平和への大いなる希望といえましょう。
 ところで当初、学術者の道を歩もうとされていた伯爵が「パン・ヨーロッパ運動」に立ち上がる契機となったのは、100年前の第1次世界大戦でした。オーストリアによるセルビアへの宣戦布告(1914年7月28日)が、その端緒となりました。〈※注1〉

サイフェルト ええ。戦争のきっかけとなったのは1914年6月28日、サラエボにおけるオーストリア皇太子の暗殺(サラエボ事件)です。

池田 そこから、オーストリアとセルビアの戦争へと発展しました。
 さらに、セルビアを支持するロシアの参戦、オーストリアと同盟するドイツによるロシア、フランスへの宣戦、イギリスとドイツの開戦と、瞬く間に全ヨーロッパが戦場と化しました。

サイフェルト
 私は歴史家ではありませんので、あくまで個人の見解として聞いていただきたいのですが、第1次世界大戦を引き起こしたことは、皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の時代における、最大の汚点だと思うのです。
 すでに歴史の遺物となった古い原則(帝国の維持)に固執し、新時代への要求(諸民族の自治や権利獲得の要求)には盲目だったと言えます。
 (オーストリア皇室の直系である)オットー・フォン・ハプスブルクは、数十年にわたりハプスブルク家の当主として、第2次大戦後、パン・ヨーロッパ連合のために尽力されました。
 欧州議会の議員として、連合の成立過程において数々の講演も行いました。彼の視点から見れば、すでに19世紀の末には、統合された欧州の形である今日のヨーロッパ連合の基礎を築いておくべきだったのです。時は熟していたかのように見えましたが、その時代の人間は、まだそこまで到達していなかったのです。

池田 クーデンホーフ=カレルギー伯爵が「平和はすなわち調和です」と強調されていたことが思い出されます。伯爵は、一つ一つの国や民族同士の不調和、不平等がやがて大破局へとつながった第1次大戦、その戦後処理をめぐる対立が火種となった第2次大戦の教訓を鋭く見つめていました。“政治的現実に盲目な平和主義運動は戦争の危険を増す”と、あくまで現実的な平和構築を追求されたのです。
 欧州の連帯を実現した、第2次大戦後のパン・ヨーロッパ運動にあって、伯爵は当時、軍事・経済的勢力を強めていたソ連とアメリカに対し、ヨーロッパが連邦という一大勢力となり、両者を結ぶかけ橋となってこそ、新たな世界大戦を防ぐことができるとの大局観、平和への強い信念に立脚していました。なお、運動に「全て」を意味する「パン(汎)」と冠したのは、中央集権的な連邦ではなく、主権国家同士の共同体を築いていくという意味からでした。「調和による平和」の追求であったといえましょう。

サイフェルト 何はさておき、全ては平和に尽きます。是が非でも平和を守っていく──これが一番大切です。
 いろいろな政治的状況の中で、私自身、賛同できないことも多々あります。その最たるものが、諸外国で再び右傾化か見られることです。ファナティシズム(狂信)という辺境にあるもの全て、それが右派だろうが左派だろうが、到底、容認できるものではありません。
 だからこそ今日、EUが存在することは本当にありがたいと思いますし、それは私にとって、いまだに“小さな奇跡”としか言いようがありません。
 ここで私は、オーストリアで最も賢明な人物の一人である、エアハルト・ブゼク元副首相の言葉を紹介したいと思います。“さあ、今こそEUだ! 条件や異論を唱えず、EUを応援しよう!”と。
 たとえ経済的にいかなる困難に遭遇しようとも、私たちはEUをしっかり支えていかなければなりません。もちろん、そこには、構造上の改善や整備をしなければならない問題が山積していることは明白です。なぜなら、まだ端緒が開かれたばかりなのですから。

池田 その通りです。大切なのは、EUのような貴重な連帯が築かれてきた原点を忘れないことでありましょう。
 クーデンホーフ=カレルギー伯爵は語っておられました。「戦争というものは、すべて残虐そのものです。この人間の残虐性を根絶するためには、まずなによりも、戦争を防止しなければなりません」と。
 まさにこの「戦争とは残虐そのものである」という痛切な思いこそが、断じて忘れられてはならない原点です。そして、世代から世代へ語り継がれるべき最重要のメッセージでありましょう。

池田 サイフェルト博士は、ご両親が2度の大戦を生き抜かれ、住む家を爆撃で壊されたと伺っております。ご両親から、戦争の悲惨さについて、さまざまな思いを聞いてこられたのではないでしょうか。

サイフェルト 私の母は、第1次世界大戦中、ドイツを襲った飢餓状況のもと、大家族の中で、私の父よりもはるかにつらい思いをさせられたそうです。母方の祖父は戦時公債を引き受けており、それで財産を築けると信じていたそうですが、結局、一切を失ってしまいました。
 第2次大戦の当時、1943年に母は父と結婚した後、父が声楽の教授やコンサートの声楽家をしていたウィーンに移り住みました。かなり広いフラット(集合住宅内の住居)に住んでいましたが、実に戦争終結の14日前の空襲で破壊され、半分くらいになってしまいました。
 しかし、幸いにも父が授業で使っていた音楽部屋は辛うじて残りました。私は幼児期を全てこの部屋で過ごしました。音楽を“母乳とともに”吸収することができたわけなのです。
 当時はあらゆる面において、不自由を強いられていたそうです。経済的に困窮している時代でしたし、物資も不足していました。お金も食糧も乏しく、両親にとっては非常に苦しい時期でした。
 母は「あの頃が、私の人生で一番大変な時期だった」と、いつも話しておりました。母の3人のきょうだいも戦死したのです。
 池田会長のご家族も、戦争中、つらい経験をされたと思います。
        ♪
池田 お母さまのご苦労が偲ばれます。
 わが家も、第2次大戦中に強制疎開で壊され、新しい家も焼夷弾で全焼しました。
 私自身、爆弾が雨のように降る中を逃げたことも、炎上する家から必死に荷物を運び出したこともあります。
 4人の兄は次々と戦地に取られ、後には年老いた父母と、まだ幼い弟妹ばかりが残されました。
 一家を担う責任は五男の私の肩にかかっていましたが、小さい頃から病弱で、戦争による食糧事情の悪化と過労もあり、肺病を患いました。
 やがて終戦となり、出征していた兄たちは一人また一人と戦地から戻ってきましたが、2年近く経って、ずっと消息がつかめなかった長兄の戦死の報が届きました。最も頼りにしていた長兄でした。その時の両親、とりわけ母の悲しみの姿は、胸に焼き付いて離れません。
 戦争は、あまりにも残酷です。私は絶対に反対です。

サイフェルト そうでしたか……。一人でも戦争によって亡くなる人がいたら、それは本当に残念なことです。
 実は私の祖母も、大変な目に遭っているのです。東ドイツで飢餓に苦しみ、本当にかわいそうなことに、末の息子と夫を失いました。
 その祖母の夫は、わが子を死の床で看取り、同時刻に亡くなったそうです。これは、私の中では、到底、受け入れられるものではありません。
 平和という一点において、私は創価学会と池田会長に賛同します。人間は互いを理解するために歩み寄ることが最も大切です。つまり、他人を知ることなく、軽んじることによって、戦争は起こるのだと思うからです。

池田 全く同感です。戦争は人間を人間と思わせなくしてしまいます。
 私はこれまで、折に触れて、民族やイデオロギー、宗教などの枠に当てはめて、人間を「抽象化」し、他者に「敵」というレッテルを貼って排斥していく危険性を指摘してきました。ファシズムやスターリニズムによる災禍は、その最たるものです。
 そうした事実の上から、「20世紀の精神の教訓」をめぐって対話を重ねたのが、ゴルバチョフ元ソ連大統領です。
 元大統領は語っておられました。「私たちが、戦争で生き残った『戦争の子ども』であるという一点を見逃すと、私たちの世代の人生も、行動も、理解することは不可能でしょう」と。「戦争の子ども」という一言には、私たちの世代に共通する体験や苦悩、辛酸、そして平和への強い願いが凝縮されています。
 サイフェルト博士もまた、「戦争の子ども」の一人として、ご家族の悲惨な体験を原点に、平和への行動を貫いてこられましたね。

サイフェルト その通りです。こうした戦争の傷は、親から子へと継承されていくものなのです。
 私の両親はナチスから迫害を受けていました。そしてそれは、主に母のほうでした。というのも、前章でも少し申し上げましたが、母が盲目なのは、遺伝性のものだと非難されたからです。
 より詳しくお話ししますと、母を告発したのは、かかりつけの眼科医でした。その医師は、母が遺伝性疾病であると疑い、不妊手術の請求を裁判所に申し立てたのです。
 当時、母は、まだ父と知り合っていませんでした。しかし当然、彼女は子どもを産みたいと願っていました。法廷での戦いは困難を極めましたが、一人の医師の支援を得て勝つことができました。ナチスは、それほど人間を軽視した政権だったのです。

池田 恐るべき魔性です。
 「反ユダヤ主義の毒を少しずつ服用させられていたおかけで、ヒトラーという致死性薬物にまで免疫になっていた」(ルーシー・S・ダビドビッチ著、大谷堅志郎訳「ユダヤ人はなぜ殺されたか 第1部」サイマル出版)という痛恨の回想があります。
 ナチスによる迫害は、ユダヤ人のみならず、障がい者、少数民族などマイノリティー(少数派)の人々にも及びました。
 まさに“同じ人間を人間と見ることのできない”毒に侵された狂気の悪行です。

サイフェルト 私は、あの時代に、現実に起こったことを確かめるために、ポーランドのトレブリンカ強制収容所を見学したことがあります。
 ガス室の中にも入り、扉を閉めてみました。どんな気持ちになるのか、体験してみたかったからです。
 一番すさまじかったのが、そこに収容された人々のひっかき傷や爪痕が無数に壁に残っていたことです。本当に惨いことです。広島にも平和記念資料館があるように、若い世代にそれを見せていかなければいけないと思います。
 私は“この人たちの死を無駄にしてはならない”と、常に肝に銘じています。彼らの生命は、どこかにまだ存在しているのです。“自分はその時に、そこにいたわけではない”と、責任から逃避することはできないと思うのです。
 自分の目で見ることが大切です。目をそらしてはなりません。人間が人間にしたことが、どんなに恐ろしい行為だったかを──。
        ♪
池田 私たちSGIも、その断固たる決意で、核兵器の脅威やホロコースト(ユダヤ人大量虐殺)の現実を取り上げた展示会を世界の各地で開催し、二度とこのような残虐な行為を起こさせてはならないと訴え続けてきました。戦争体験集の発刊にも取り組んできました。
 1993年、アメリカ・ロサンゼルスの地で、ホロコーストの歴史を永遠に留めゆく、サイモン・ウィーゼンタール・センターの「寛容の博物館」を訪問した際にも、私は申し上げました。
 「(『人権の城』であり『人道の砦』である)貴博物館を見学し、私は『感動』いたしました。いな、それ以上に、非道の歴史に『激怒』しました。いな、それ以上に、未来への深い『決意』をいたしました」──と。
 その思いは今も変わりません。ともどもに平和への決意を、次代の青年に伝えていきたい。その胸奥に歴史の教訓を厳然と刻みつけてもらいたいと願っています。

注1 第1次大戦に至るオーストリアの状況
 大戦のそもそもの発端は、半世紀ほど前にさかのぼる。
 1867年、皇帝フランツ・ヨーゼフ1世がハンガリーにのみ自治を認め、オーストリア・ハンガリー帝国という二重帝国が成立。「アウスグライヒ(和協)」と呼ばれる協定によって、ハンガリー王国のマジャール人に独立した国家の地位が与えられた。
 この協力によって他の民族を抑え込み、帝国の支配構造を維持しようとしたが、結果として、取り残されたスラブ系その他の諸民族の失望と不満は一層拡大した(当時の帝国は、チェコ、ポーランド、ルーマニア、クロアチアなどにまたがる大国であった)。そして、“セルビア人民族主義者によるオーストリア皇太子夫妻の暗殺”という事件が起こるのである。
 サラエボ事件の2年後、フランツ・ヨーゼフ1世が崩御。その弟であるカール・ルートヴィヒ大公の孫に当たるカール1世が後継者と定められるが、1918年、オーストリア・ハンガリー帝国は崩壊。カール1世は家族と共に亡命する。彼の息子がオットー・フォン・ハプスブルク(1912年11月20日生まれ、2011年7月4日没)である。

戦火なき世界へ! 英知と良心を結集せよ

サイフェルト
 前回、ナチスによるホロコースト(ユダヤ人大量虐殺)が話題となりましたが、私はイスラエルに、とても魅力的で素敵な友人がいます。実は彼女は、池田会長の著作の熱烈な愛読者なんです。
 彼女は、チェコスロバキア(当時)のブラチスラバで生まれました。父親は繊維会社を経営していました。両親共にユダヤ人ですが、現地のカトリック教会に通っていました。一家は第2次世界大戦の渦中、ナチス・ドイツによる危険にさらされていました。

池田 イスラエルは、民音が世界各国の中で最初に交流を結んだ国でもあります(1965年)。
 サイフェルト博士は文化交流でよく足を運んでおられるそうですね。ますますお元気な活躍がうれしいです。
 ご友人の出身地のブラチスラバは、現在のスロバキア共和国の首都ですね。
 かつて、その麗しい都にもヒトラーは魔手を伸ばし、傀儡国家をつくりました。
 第2次世界大戦中、ナチス支配下のスロバキア政府は次々と政令を出して、ユダヤ人から職を奪っていきます。
 与党人民党の「突撃隊」によるユダヤ人排斥の暴力も激化し、やがてナチス支配下の他地域と同様に、ユダヤ人の強制移送が始まります。スロバキアからも、何万という人々がアウシュビッツなどの収容所へと連行されていきました。現地に残ることができたのは、地下に身を隠すことなどが可能な、わずか数千人だったそうですね。

サイフェルト ええ。私の友人の父親は、ある友人に全財産を渡し、家族を守ってもらえるようお願いしましたが、その友人はお金を持ち逃げし、彼女たちを置き去りにしました。
 たまたま、見ず知らずの農家に数カ月間、かくまってもらうことができたそうですが、本当にひどい話です。
 ナチス政権が崩壊した後、彼女の父親も解放され、会社を再建しましたが、今度は共産党が台頭し、再び勾留されてしまいました。
 その後、一家はイスラエルへ渡ります。彼女はまだ8歳だったそうです。
 彼女とは5年前、ウィーンで、彼女のいとこを介して知り合いました。これがきっかけで、私はホロコーストの問題と向き合うようになったのです。

池田 平和と軍縮を目指す科学者の連帯「パグウォッシュ会議」を創設した一人であり、生涯、核兵器廃絶のために行動し続けたジョセフ・ロートブラット博士も、最愛の夫人がホロコーストの犠牲になりました。素晴らしい夫人を偲ばれながら、当時のことを語ってくださいました。
 1939年、核物理学の研究のため、祖国ポーランドからイギリスのリバプール大学へ留学していた博士は、ワルシャワに留まっていた夫人を呼び寄せようと、8月に一時帰国しました。
 ところが、夫人が急病にかかったので、いったん単身でイギリスに戻ります。ナチス・ドイツがポーランドに侵攻したのは、その2日後でした。
 博士は八方手を尽くします。しばらくの間、“妻はビザを持っているはずだから、何とかイタリアにたどり着けたのではないか。そこからなら、ポーランドよりも容易に出国できるだろう”という希望に、すがりつくようにして生活していたといいます。
 しかし、待てど暮らせど、何の知らせも来ません。ずっと後になって、博士は1通の手紙を受け取りました。その手紙は、ワルシャワから送られていました。夫人は国境で引き戻されていたのです。
 博士は言われました。
 「1940年の末に、彼女から、もう1通の手紙がきました。そして沈黙が、永久に続きました──」と。

サイフェルト ロートブラッド博士と同じような悲劇を、私も知っています。
 イスラエルの友人のいとこが、まだ少女だったころの話です。彼女の母親はナチスから逃れるため、翌日にブラチスラバを出立する予定でした。その準備をしていた矢先、ナチスが踏み込んできたのです。母親はアウシュビッツ強制収容所に移送され、そのまま帰らぬ人になってしまいました。
 何と、むごいことでしょう。たった一夜違いだったのですよ。小さな子が本当に哀れです。母親が殺されるなんて……。あまりにも残虐な仕打ちを、人が人に対して犯したのです。「なぜ?」「何のために?」と、問わずにはいられません。これは今でも強く印象に残っており、深く考えさせられる事実です。

池田 そうした極限状況がどうしてつくられてしまったのか。なぜ回避することができなかったのか──。
 この悲惨な歴史について、ドイツの哲学者ヨーゼフ・デルボラフ博士と語り合いました。博士は、ドイツが当時、世界で最も民主的とされた憲法下のワイマール体制からナチス体制へと移行してしまった背景として、四つの要因を挙げられました。
 「ベルサイユ条約でドイツに課せられたにがい犠牲と屈辱」
 「ドイツとオーストリア両帝国の崩壊後も存続していた旧来の領主制の反民主主義的伝統」
 「ドイツのワイマール共和制とオーストリアのウィーン体制という民主主義政体の明らかな構造的欠陥」
 「最悪の時期でオーストリアの全人口に相当する600万人もの失業者を出したワイマール共和国の、1920年代後半における構造的経済危機」と。

サイフェルト
 残念ながら、当時のオーストリアで、反発や抵抗が余りにも少なかったことも、深刻な失業問題と関連していました。飢餓に苦しみ、路頭に迷っていた人々のもとに、ヒトラーが現れ、雇用の創出を約束していったのです。たしかにドイツでは、ナチス政権初期の経済繁栄で人々が職を得ているという状況があったのです。しかし、それは新しく始める世界大戦のため、軍備を拡張する目的のためだったということに気づく人はいませんでした。
 もちろん、詳細は専門の文献を精査する必要があるかとは思いますが、大勢の人々がドイツ帝国への併合とほぼ同時期に弾圧され、収容所に送り込まれていったのです。
 この事実は、ナチスが何年にもわたって、オーストリアを併合するべく、事前に周到な準備を行っていたことを如実に物語っています。

池田 真摯に歴史の事実を見つめなければ、より良き未来を開くことはできません。
 言うなれば、20世紀は「戦争の100年」でした。これを断じて転換し、21世紀を「平和の100年」とするために、人類は英知と良心を結集しなければならない。その深き自覚と行動が、何よりも求められています。

サイフェルト博士
悪には直ちに正義の声を! 後から「ああすべきだった」と非難するのは簡単です
池田SGI会長
若き友よ「史実」から学べ! 仏典「未来のかを知らんと欲せば其の現在の因を見よ」

池田 第1次世界大戦前、反ユダヤ主義の風潮の中で、ウィーンの多くのユダヤ系芸術家が苦しめられた歴史があります。
 大音楽家マーラーも、その一人でした。
 ユダヤ系作曲家のメンデルスゾーンが、ある演奏会でののしられた時、自分に何の関わりがあるのかと平然としていたというベルリンの音楽家に対して、マーラーは「もちろん大ありだ! だれもかれもが、そんなことは自分に関係ないと言ってすましている」「世の中のことはすべて、私となんらかのかかわりがあるものだ」と言って、叱りつけたというのです。〈酒田健一訳、桜井健二著『マーラーとヒトラー 生の歌 死の歌』二見書房〉
 私どもの創価の父・牧口初代会長は語っていました。
 「よいことをしないのは悪いことをするのと、その結果において同じである」
 「事件が起きることが予想されるのに、いうべきことをいわないで、後に後悔する卑怯者になってはいけない」と。
 悪を断じて見過ごさない。何ものも恐れず、師子王の心で正義を叫びきっていく。牧口会長自身が、その通りの実践を貫きました。

サイフェルト 牧口会長、戸田会長も軍部政府と対峙し、投獄されていますが、レジスタンス(抵抗運動)の闘士の勇気には感嘆せざるを得ません。なぜなら、自分には生き残れるチャンスがないということを覚悟の上で、ナチスと戦っていたのですから。
 私はレジスタンスの闘士について、いろいろと調査しました。当時、各地にナチスに抵抗した方々がいました。
 ドイツの神学者で、獄中で命を落としたディートリヒ・ボンヘッファーもそうです。彼はポーランド出身の女性革命家ローザ・ルクセンブルクらとともに、前に取り上げた平和の先覚者ベルタ・フォン・ズットナーの後継者ともいうべきでしょう。
 オーストリアに抵抗運動をした方々がいたことも忘れてはなりません。レジスタンスに参加した人たちのリストは、とても長いものになります。そして、そのほとんどの人たちが、自らの命と引き換えに運動を繰り広げていったのです。

池田 ボンヘッファーは、マハトマ・ガンジーとも書簡を通じて交流があり、ガンジーの道場に行く希望もあったようですね。直接会うことはできないまま、ナチスへの抵抗運動に殉じています。39歳の若さでした。
 欧州SGIの草創期を築いた友が語っていました。
 「欧州の真正の文化人は、『信念の深さ』が違います。ナチスと戦ってきました。命をかけて戦う文化人なのです。だから、社会における重みも違うのです」と。
 私か深い親交を結んだ多くの方々も敢然とファシズムと対峙し、戦い抜いてこられた「真正の文化人」でした。
 美術史家のルネ・ユイグ氏は、フランス・ルーブル美術館所蔵の人類の至宝をナチスから命懸けで守りました。
 歴史家のアーノルド・トインビー博士しかり、ローマクラブ創始者のアウレリオ・ペッチェイ博士しかり。
 フランスの作家アンドレ・マルロー氏も、そうでした。
 「人間の尊厳」とは──氏は私に、自身の小説の中の、ファシストとその人物から拷問を受ける農民革命家の言葉を使って、こう語られました。
 「人間的尊厳とはなにか」
 「そんなこと、知るものか! わかっているのは、屈辱とはなにか、このことだけだ!」(対談集『人間革命と人間の条件』)
 ナチス支配下のフランスにあって、レジスタンス闘争を戦い抜いた氏ならではの叫びであると思います。

サイフェルト
 そうしたレジスタンスの中で、ヒトラーを打倒する計画が頓挫したことがありましたが、その時、私の母は持ち前の純真さで、お隣りの夫人に言ったそうです。「なんてことでしょう、あれがうまくいかなかったなんて! 首尾よくいけば、世界が救われたかもしれないのに」と。
 隣人は慌てて、「そんなことを言って、誰かに見られたり聞かれたりしたら、私はあなたを告発しなければいけないのよ」と語ったそうです。当時はそんなありさまで、何も言えない状況だったのです。
 ちなみに戦前の時代に、祖母が次のように語っていたと、母から聞いたことがあります。
 “行間を読み取らなければなりませんよ。ヒトラーは戦争を望んでいるのだということを!”と。祖母は、早くから戦争の危機を感じ取っていたというのです。

池田 賢い庶民は、悪の本質を鋭く見抜いているものです。
 中国戦線に行った長兄が、一時帰国した際、私に語っていました。「日本軍は残虐だ。あれでは、中国人がかわいそうだ。日本はいい気になっている! 平和に暮らしていた人たちの生活を脅かす権利なんて、誰にもありはしないはずだ。こんなことは絶対にやめるべきだ」
 そして涙を浮かべながら、こう言ったのです。
 「大作、戦争は、決して美談なんかじゃない。結局、人間が人間を殺す行為でしかない。そんなことが許されるものか。皆、同じ人間じゃないか」
 戦地を見てきた長兄の言葉は今も、私の胸奥に焼き付いています。
 かつて、軍国主義の時代に、日本がアジアの国々を蹂躙した歴史は、日本人が断じて忘れてはならないことです。
 有名な仏典に「過去の因を知らんと欲せば其の現在の果を見よ未来の果を知らんと欲せば其の現在の因を見よ」(御書231㌻)とあります。
 過去は現在、現在は未来とつながっています。
 過去を拒絶する人は、過去の過ちを乗り越え、未来に生かす方途を知ることもできないでしょう。
 ドイツのヴァイツゼッカー元大統領が叫ばれた、「過去に目を閉ざす者は結局のところ現在にも盲目となります」(永井清彦訳『荒れ野の40年──ヴァイツゼッカー大統領演説全文』岩波ブックレット)との言葉を深く心に刻んでいかねばなりません。

サイフェルト おっしゃる通りです。後になって当時の世代について、“あの時、彼らは、ああすべきだったのに……”云々と非難するのは、たやすいことです。しかし、もっと公平に見た場合には、“私たちは二度とあの過ちを繰り返さない!”と過去から学ぶべきなのです。
 そして、悪への抵抗や反発は、そうした兆しに気づいた段階で、早いうちに、速やかに戦わなければなりません。
 「いや、それは間違っている!」と、直ちに勇気をもって、反対の声を上げなければならないのです。

理想は高く 連帯は強く 人間愛と正義の勝利を

池田 「戦争ほど、残酷なものはない。戦争ほど、悲惨なものはない。だが、その戦争はまだ、つづいていた。愚かな指導者たちに、率いられた国民もまた、まことに哀れである」
 私は小説『人間革命』を、この一節から書き起こしました。
 執筆開始は1964年(昭和39年)12月2日。着手する場所は沖縄と決めていました。というのは、第2次世界大戦中、日本で最も凄惨な地上戦が行われたのが沖縄であったからです。
 書き始めた時、すでに終戦から20年近く経っていましたが、沖縄はアメリカの施政権下にあり、その意味で戦争は“いまだ終わっていない”現実があったのです。
 小説は、45年7月の東京を舞台に始まります。敗戦前後の日本は、悲惨に満ち満ちていました。特に、多くの民衆は、やっと戦争が終わったという思い以上に、虚脱感と不安に苛まれていました。深刻な食糧不足で、ちまたは修羅の様相を呈していました。

サイフェルト
 第2次大戦後、ウィーンの大部分は破壊されておりました。当時の模様を知らせる、たくさんの古い映像が公文書館に保存されています。
 当時、私自身はまだ子どもでしたが、連合軍による占領時代のことは、今でもよく覚えており、どちちかというと、占領というより、保護に近い感覚でもありました。両親や他の大人たちとの会話から、多くのオーストリア人は、いまだにナチスの思想にとらわれていて、思想転換の過程は遅々として進まないと聞かされたことがあります。
 私が通っていたギムナジウム(日本の小学校高学年から高校に相当する)では、この(ナチスの)時代のことが教えられることはなく、教材はいつも第1次世界大戦で終わっておりました。
 その分、今日、若い世代の人たちには我々と違った教育に力を注ぐ必要があり、私たちの過去の歴史の脆弱な部分を教え伝えることで、旧世代が犯した過ちから学ばせることが大切だと思います。

池田 真実を伝える歴史教育が、どれほど重要か。
 恩師・戸田先生もよく語られました。「歴史は大事だ。歴史は、過去から現在、現在から未来へ、より確実に平和をめざし、人類の共存をめざす道しるべとなる」と。
 そうした意味で、もう少し伺いたいのですが、オーストリアが戦後、復興を遂げていく中で、今でも心に残っている光景はありますか。

サイフェルト 私が記憶しているのは、まだ幼かったころですが、ウィーン国立歌劇場やブルク劇場が再開したことです。とても高価だった入場券を購入することはできませんでしたが、その模様をラジオで聞き知ることができました。当時はテレビが普及していませんでしたから。あれは特別な思い出です。

池田 「音楽の都」ならではのお話ですね。博士が親交を重ねてくださっているオーストリアSGIの女性リーダーは、おじいさまが戦後、ウィーン国立歌劇場を再建した建築家でした。「ウィーン市民に、失ったものを、往年の姿のまま取り戻させるべきである」との信念から、「歴史的施工図」に忠実に再建したことを、孫として誇り高く語つてくれています。
 この国立歌劇場は1945年の3月の空爆で大きな被害を受けましたが、5月にドイツが降伏して戦火が収まると、その月の月末には早くも再建が発表されました。それから10年の歳月を経て完成し、55年11月に巨匠カール・ベーム氏指揮によるベートーベンの「フィデリオ」で新生の幕を開けます。ベーム氏といえば、民音招へいによる国立歌劇場の来日公演でも指揮を執ってくださったことが懐かしいです。
 ともあれ、権力悪に対する人間愛の勝利、正義の勝利を歌い上げたオペラを、オーストリアの人々は、ラジオを通して万感の思いで聴かれたのではないでしょうか。
 音楽や演劇、芸術に注がれるウィーンの人々の熱情が、どれほど強く、深かったか。世界のどの都市も、はるかに及ばないものでしょう。

サイフェルト ええ。この年(1955年)は、連合国との国家条約締結で、オーストリアが国家主権を回復し、占領していた連合軍が撤退したわけですが、私たちにとってオペラ劇場などの再開は、文化的な面において、同じくらい重要な出来事だったのです。当時のことを思い浮かべると、今なお、心臓がドキドキします。
 戦後のオーストリアでは、非常に優秀な政治家が輩出されました。彼らは良識豊かに、国家に新しい安定をもたらすよう努めたのです。

池田 東西冷戦が激化する中にあっても、オーストリアの指導者たちは隣国ドイツのような国土の東西分割の回避を勝ち取り、一国での主権回復を実現しました。
 ナチス支配下での辛酸を共に嘗めた指導者たちが、右派や左派との立場よりも、オーストリアのためという一点で緊密に協力し、政治・経済的安定が生まれたことも成功の一因とされていますね。その後の指導者たちが、永世中立国として冷戦時代に果たした役割も、大きく評価されています。
 貴国の政治家といえば、フランツ・フラニツキ首相のことが思い起こされます。1989年の10月、日本でお会いしました。当時は東欧革命の真っただ中で、会見の約2カ月前、オーストリアとハンガリーの国境が解放され、東側の民衆が次々に西側へ脱出するという、歴史的な出来事がありました。そして、会見の翌11月には、冷戦の象徴であった「ベルリンの壁」が崩壊したのです。
 首相は私に、毅然とした口調で言われました。
 「ラテン語の格言には『平和を願うならば、戦争の準備をせよ』とあります。しかし、私はこの言葉を『平和を願うならば、平和の準備をせよ』と置き換えて、活動しているのです」と。

サイフェルト その言葉には、心から賛同します。とともに、第2次世界大戦が終了して、すでに70年近くが経過しているのに、今なお流血の戦争が起こっています。言語に絶します。それには、私たち全員に責任があると思うのです。日本を含めた各国がそれぞれ、考えていかなければなりません。
 最近、ある戦争の危機が迫る国家間で、両国の市民たちがフェイスブック(インターネット交流サイト)を通し、互いに「戦争を望んでいない」 「友人であることを望んでいる」といった真情を伝え合うやりとりをし、それが広く公開されたことがあります。これはまさに、現代の民衆が平和を望んでいるということだと思うのです。今は近代的媒体を通して、国際的にネットワークを築くことが、より容易になっているのです。

池田 その通りですね。平和の実現こそ、世界中の民衆の真情です。
 平和の先覚の女性ズットナーは言っております。
 「本物の、筋金入りの平和の闘士は、必ず楽観主義者です。根っからの楽観主義者です……彼らにとって将来世界が平和になるというのは、単なる可能性の回題ではなく、必然のことなのです」(糸井川修訳)と。
 サイフェルト博士は、まさにこの断固たる信念で、文化と芸術の交流を通し、平和のために行動し続けておられます。
 私どもSGIも、平和社会の建設のために、国連を一貫して支援しつつ、世界192カ国・地域で、さまざまな運動を粘り強く展開してきました。なかでも欧州SGIは、これまで、各界の識者を招き、宗教間・文明間対話の会議や平和展示などを実施しています。
 2007年9月、ドイツのヴィラ・ザクセン総合文化センターで行ったシンポジウムには、サイフェルト博士にもご出席いただきました(ヨーロッパ科学芸術アカデミーと東洋哲学研究所、ドイツSGIの共催)。
 国連ウィーン本部(ウィーン国際センター)では、SGI制作の「核兵器廃絶への挑戦と人間精神の変革」展を、ウィーンNGO(非政府組織)平和委員会との共催で開催しました(2010年10月)。同展はスイス、ノルウェー、イタリアなどでも巡回してきました。さらに力を入れていきたいと考えております。
 今こそ、平和を願う心ある人々の声を一段と結集し、市民社会の連帯を広げて、平和への流れを強めていかねばなりません。

サイフェルト
 同感です。平和のプロセスを推進することが大切です。常に、そこに焦点を合わせて行動することです。具体的に照準を合わせて、長期的に問題に取り組んでいくべきです。
 そして、世界平和の名のもとに人々が結集する中立的な場所として、ウィーンはとてもふさわしいのではと思っております。
 同じ目標や志を持った人たちと一緒に共同作業を行うことで、有意義なプロジェクトを推進できます。私は、SGIのネットワークを心から信頼し、皆さんに期待しているのです。
2014-02-14 : 生命の光 母の歌 :
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