随筆 我らの勝利の大道 No.37/38

随筆 我らの勝利の大道 No.37/38
             (2011.1.20/21付 聖教新聞)
新時代の希望の夜明け

生き生きと今日を勝て!
勇んで新たな価値創造を


挑戦だ! 青年は失敗を恐れるな

 燃えあがる
  旭日胸に
   いざや立て
  楽しき道を
    愉快に生きぬけ

 一生涯、人道主義の正義の魂を燃やし、青年の心で戦い抜いた大詩人ビクトル・ユゴーは歌った。
 「夜明けの光が射してきた。どんな夜明けだろう?」
 我らが見つめるのは、「青年」という夜明けだ。
 青年! なんと瑞々しい元初の太陽であろうか。
 学会は永遠に、青年と共に立ち、青年と共に走る。
 わが青年部は、結成60周年の年頭より、第1回の記念幹部会をもってスタート・ダッシュを切った。
 その英姿を、世界の識者も深い期待を込めて見守ってくださっている。

創価の若人に期待
 このほど、共に対談集『哲学ルネサンスの対話』(潮出版社)を発刊した、アメリカ実践哲学協会のルー・マリノフ会長も、新年早々、伝言を託してくださった。
 「SGI(創価学会インタナショナル)の青年たちは、本当にバイタリティーに富んでおります。その特質は、若き情熱と成熟した精神の両者を兼ね備えていることです。
 こうした青年たちの可能性を開発させていく直道は、仏法の実践にあります。なるべく早い時期、若い年齢から、その実践を開始すべきです」
 わが創価の未来部の薫陶も、青年部の拡大も、世界の「人間教育」の希望のモデルと光っている。
 この一年も、一人、また一人と、「宝」の人材を励まし、輝かせながら、時代の深き闇を照らし、晴らしていきたい。
        ◇ 
 マリノフ会長は、青年へのメッセージとして、さらに続けてくださった。
 「人類の飛行が可能になったのは、ライト兄弟の失敗を恐れぬ挑戦があったからです。
 エジソンの偉大な発明の陰にも、何千いな何万という失敗がありました。
 建設的な失敗こそが真の成功をもたらすのです」
 青年は、失敗を恐れてはならない。
 青春とは「挑戦」の異名であるからだ。
 たとえ失敗しても、クヨクヨすることはない。
 失敗から学べることは、実に多いからだ。
 より賢く、より強くなって前進する。これが青年だ。
 太陽を見よ! 雨であろうが嵐であろうが、毎朝、平然と昇るではないか!

新しき太陽と共に
 そもそも「元旦」という言葉も、「年の最初の日の朝」を意味している。
 漢字の「元」は、「始まり」の意義であり、「旦」は、太陽が地平線から昇ること、すなわち「夜明け」である。
 「旦」はまた、その字の成り立ち自体、日(太陽)が地上に現れる、日の出の象形である。
 かつて私が招へいをいただき、「人間こそ歴史創出の主役」と題して記念の講演を行った、中国の名門・復旦大学の校名にも「旦」の字が入っている。
 これは「もう一度、太陽を昇らせ、夜明けの光をもたらそう」との信条が込められたものだ。
 私たちも、この若々しい不屈の一念で進もう!
 昨日がどうあれ、今日は新しい太陽が昇る。
 自分は昨日までの自分ではない。学会も、昨日までと同じではない。そう決めて、今日から新しい夜明けを始めるのだ。
 今再び、わが人生の戦線に「価値創造」という新生の夜明けを開くのだ!
 福沢諭吉翁の教え子で、トインビー博士とも深い親交を結んだ「電力王」の松永安左ェ門氏は語った。
 「今日の一日をよく活かす人は、過去をもよく活かし、未来をもよく活かす人である」
        ◇ 
 この年末年始から、列島の各地で、降雪・積雪が続いている。
 日本海側を中心に、北海道、東北、信越、北陸、さらに中部、関西、鳥取・島根をはじめ中国、四国、九州など、例年にまして雪が多いようだ。
 大雪のため車が足止めに遭ったり、列車が立ち往生したり、停電になったり、各地で被害も相次いだ。厳寒のなか、どれほど心細いことだったろうか。
 大変なご苦労をなさっている皆様に、深くお見舞い申し上げたい。

社会に真心の春光
 各地で、学会員の尊き献身が光っている。
 先日、聖教新聞の「声」の欄にも、鳥取の無人駅に停車した列車で年を越した方々のためにオニギリを届けられた話が載っていた。その麗しき奔走の有り難さに、私は、心の芯まで温かくなった。
 ともあれ、近隣の助け合いや地域の支え合いの大切さが痛感されてならない。
 1月17日は、阪神・淡路大震災から16年の日であった。犠牲者のご冥福を祈念しつつ、筆舌に尽くせぬ苦難を越えてきた方々と共に、人間共和の新世紀を築いていきたいと、あらためて決意している。
 「われは万人の友である。万人のなかまである」とは、釈尊の精神であった。
 仏法の人間主義を行ずる私たちは、温かき励ましの春光を一段と大きく、一段と深く、地域・社会に広げていこうではないか。
 雪のなか、そして寒風のなか、「希望の春を!」との思いで、わが聖教新聞を配達してくださる“無冠の友”の皆様! 
 同志のため、愛する地域のために、日々、誠実一筋に奮闘してくださっている皆様方!
 いつもいつも、本当にありがとう!
 私と妻は、この一年も、偉大な皆様のご健勝とご多幸を、ひたぶるに祈り抜いてまいります。

励ましを最前線へ
 昭和40年、年明けから猛然と動きに動いた私は、九州、さらに関西へと走るなかで、鳥取・島根の同志が悪戦苦闘していることを伺い、電光石火、予定を変えて米子へ飛んだ。
 一番、大変な思いをしながら頑張っている友を励ましたい。その方々の幸福と勝利と栄光のために、仏法はあるからだ。
 日蓮大聖人は、末法において、苦難に耐えて法華経を弘める人をば、釈迦仏は衣をもって覆い、諸天善神は供養し、肩にかけ、背中に負うと御断言である(御書1359㌻、趣意)。
 あの時、私は、米子会館に勇み集ってこられた地区幹部の一人ひとりと、がっちりと握手を交わした。
 “同志を頼む! 地域を頼む! そして必ず勝利の人生を!”と祈りつつ。
 広宣流布のリーダーは、気取りなど、かなぐり捨てて最前線へ走るのだ。
 温かい心が、友の心を温かくする。燃える心が、友の心に火を灯す。そして、真剣な行動が、友の真剣な行動を生むのである。
 大聖人は、法門について真摯に質問してきた女性門下の求道心を讃えられて、「一言・一点も随喜の言を加えて善根の余慶にもやと・はげみ……」(同1200㌻)と仰せである。
 真剣な弟子が、さらに信心の善根を増していけるように、一言でも多く励ましを、との御心が拝される。
 この大聖人に直結する真心の激励を、誠実に積み重ねていく。それこそが一人ひとりの信力・行力を奮い起こし、広宣流布の躍進・勝利への仏力・法力を、いやましていくのだ。

 ユゴーの言葉は『ユゴー詩集』辻昶・稲垣直樹訳(潮出版社)。松永安左ェ門は『松永安左ェ門著作集2』(五月書房)。仏典の言葉は『仏弟子の告白』中村元訳(岩波書店)。

声は勇気! 行動は真剣!
殻を破って仏縁を広げよ


「努力」の人に幸福と栄光の宝冠

 胸張りて
  この人生を
   朗らかに
  今日も断固と
    仏の如くに   

 昭和40年1月、鳥取の米子を訪れた後、島根の松江に足を運び、初代の松江支部長・浜崎巌さん(当時・総支部長)のお宅を訪ねたことも懐かしい。
 松江支部が結成されたのは、昭和36年の春4月であった。今年で50周年になる。
 その晴れがましき支部の結成大会で、口下手な支部長は緊張のあまり、壇上で絶句してしまった。
 支部長を慕う同志の声援に応えて、精一杯に弘教・拡大の決意を語る、剛毅木訥の彼であった。私は色紙に揮毫して贈った。
 「声佛事」と。
 御義口伝には、「声仏事を為す」(御書708㌻)──“声が人を救うという仏の仕事をする”と示されている。
 それは、仏性つまり最も尊極なる仏の生命を触発することである。
 ゆえに、朗々と妙法を唱えながら、勇気の声、真心の声、正義の声、励ましの声を、惜しまず響かせていくのだ。会って、語って、仏縁を広げていくのだ。
 その大道を、鳥取、島根のわが同志は、心に太陽を輝かせながら、真実一路に進んできた。
 今、まさに両県は「山光」と謳われ、希望の灯台の如く、日本の進路をも照らし輝きゆく時代になったと、私は心から讃えたい。
        ◇ 
 私たちが日々、読誦している法華経寿量品の自我偈に「一心欲見仏 不自惜身命」(一心に仏を見たてまつらんと欲して 自ら身命を惜しまず)とある。
 日蓮大聖人は、「義浄房御書」の中で、この経文によって御自身の仏界を成就されたと仰せである(同892㌻)。
 そして「一心欲見仏」を妙法蓮華経の五字に配し、こう明言しておられる。
 「此の五字を弘通せんには不自惜身命是なり」と。
 甚深の御言葉である。

「一心を見れば仏」
 大聖人は、さらに「一心欲見仏」の経文を──
 「一心に仏を見る」
 「心を一にして仏を見る」
 「一心を見れば仏なり」
 と三重に読まれている。
 必死に、また一心不乱に仏を求め抜く。妙法流布のために、一生懸命に戦う。その不自惜身命の心こそ、実は仏なのである。
 仏とは、広宣流布の師匠である。この御文は、弟子が師匠の偉大な境涯に迫る、師弟不二の真髄を示されているとも拝せよう。
 いうまでもなく、「不自惜身命」とは、命を粗末にすることではない。反対に、わが生命を最大に輝かせていくことである。そのために、エゴや臆病に囚われた小さな自分の殻を決然と打ち破って、大法弘通のために打って出るのだ。
 ともあれ、あらゆる大難を乗り越え、勝ち越えて、文字通り「不自惜身命」の実践で、妙法の五字を全世界に弘めてきたのは、創価の師弟である。
 大聖人が、どれほどお喜びであろうか。三世十方の仏天の守護と讃嘆は、絶対に間違いない。
 チリの大詩人ネルーダは毅然と語った。
 「昔も今も、人間主義は闘争の中で強くなり、拡大した」

不自惜身命で勝利
 初代・牧口先生は不自惜身命の殉教であられた。
 2代・戸田先生も不自惜身命の弘法であられた。
 3代の私も、不自惜身命で師匠に仕え、日蓮仏法の人間主義の大光を、世界に弘め抜いてきた。
 そして、わが愛する弟子たちも、広宣流布の理想へ、師弟共戦の魂を燃やしながら、懸命に奮闘してくださった。
 だから勝った。学会は、不自惜身命で勝ったのだ!
 ここに、永遠に赫々たる旭日を、創価の前途に昇らせ続ける原理があることを忘れてはならない。
 私は、この万代の勝利の大道を、厳然と示し切ってきたつもりだ。その一切を青年に受け継いでもらいたいのである。
        ◇ 
 今、私は、ドイツのワイマール・ゲーテ協会のオステン顧問と共に、大文豪ゲーテをめぐる新たな対談を進めている。
 ゲーテは75歳を過ぎてから、畢生の名作である劇詩『ファウスト』第2部に精魂を傾けた。
 完成したのは82歳の誕生日前であった。
 研究によれば、この『ファウスト』の第2部には、「努力」という名詞と動詞が31回も出てくるという。ゲーテの人生観が、ここにもうかがえる。
 彼がその執筆に集中していた頃、若き弟子エッカーマンに述懐した。
 「私はいつも前進しようと努力している」「毎日そのこと(『ファウスト』第2部)について考え、書きつづけている」
 そして、いよいよ完成間近の原稿を見せたのである。エッカーマンは、その原稿の分厚さに驚いた。
 「ほかになさることがたくさんあり、これを書くのにつかわれたのはごくわずかな時間だけでした」
 そのなかで、これだけの仕事を!──弟子は、師匠の弛まぬ努力の結晶の大きさに感服したのである。
 ゲーテはある時、語った。
 「私が依然として努力によって生活している人間であることは、仕合わせだ」
 そして、「すべての誠実な努力に 執念が与えられてあれ!」とも叫んでいる。
 「努力こそ幸福」だ。
 「執念こそ勝利」だ。

一日一日を大切に
 大きい仕事は、一朝一夕に完成するものではない。まして、我らが目指す広宣流布は、末法万年にわたる永遠の挑戦である。
 だからこそ──
 一日一日、勇気だ。
 一日一日、行動だ。
 一日一日、前進だ。
 一日一日、勝利だ。
 弛みなく、辛抱強く、偉大な価値創造の歴史を築いていこう、共々に!
 人権の闘士キング博士は「正義のために立て」との誓いを胸に宣言した。
 「われわれは常に新しい日の夜明けに立っているのである」

 法華経に
  勝る兵法
   なきゆえに
  我らの今年も
   勝利 勝利と 

 エッカーマンによる言葉は『ゲーテとの対話』山下肇訳(岩波書店)。続く二つのゲーテの言葉は『イタリア紀行』相良守峯訳(岩波書店)、『ゲーテ 知と愛の格言集』高橋健二訳・編(華書房)。また高橋健二著『ヴァイマルのゲーテ 評伝』(河出書房新社)等を参照。キングはカーソン編『マーティン・ルーサー・キング自伝』梶原寿訳(日本基督教団出版局)。
2011-01-29 : 随筆 我らの勝利の大道 :
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魂の人間讃歌 第8回 桜梅桃李の個性

魂の人間讃歌  ジャズと人生と仏法を語る

第8回 桜梅桃李の個性  (2011.1.14/15付 聖教新聞)

ハンコック氏
音楽は“独自の音”をもつ戦い

池田 「春のはじめ御喜び花のごとくひら(開)け」(御書1575㌻)
 これは、日蓮大聖人が弘安4年(1281年)の正月、青年門下・南条時光のお母さん(上野尼御前)に送られた御手紙の一節です。
 この時、南条家は試練と戦っていました。「熱原の法難」に際し、わが身を顧みず同志を守り、経済的な圧迫も受けていた。
 さらに、時光の凛々しき弟が16歳の若さで急逝するという深い悲しみがありました。
 その中を、大聖人の御指導を支えに、母を中心として、厳寒の冬を耐え抜き、毅然と決意の新春を迎えていたのです。一家が「冬は必ず春となる」(同1253㌻)との実証を示していったことは、歴史にも明らかな通りです。
 ショーターさんもハンコックさんも、苦難を勝ち越えて、勝利の花を咲かせてこられました。その魂の凱歌を、今年も力強く奏でてください。
 吹雪に胸張る友に、希望と勇気を贈りながら!
ハンコック ありがとうございます。池田先生のご期待に応えられるよう、全力を尽くしていきます。
 音楽も、何が起ころうと、それを活かして、春のように花を咲かせていくことができます。どんなことも、音楽の創造を織りなす一端としていけます。こうした創造の力を、私たちが持っていることを自覚していきたいですね。
ショーター そうです。人々は、自らが創造者であることを自覚しなければなりません。また、壮大な無限の創造性と責任は、規律と相俟って真価が発揮されることを知らなければなりません。
 自由や、構成、創造性、規律のための作業において、私たち一人一人が、一個の人間としてリーダーシップをとっていく使命があります。
 偉大なジャズドラマーであった、アート・ブレイキーは、「自分自身のことが分かり、自分自身に目覚めなければならない」という言葉を好んで口にしました。
 よく、「君は自分がわかってきたかい?」と問いかけていました。
 彼は、「演奏の技術が熟達したら、今度は、独自の色を出していくんだ」とも言っていました。
        ♫
池田 まさしく、お二人の演奏は、錬磨し抜いた音色が鮮烈ですね。
 仏法には、「桜梅桃李の己己の当体を改めずして」(同784㌻)という御文があります。
 すなわち、桜も梅も桃も李も、寒さに負けず、時とともに自らの花を爛漫と咲かせます。他の花を羨んだり、嫉んだりなどしない。それぞれが、ありのままに、個性豊かな花を色とりどりに開花させていきます。
 人間も皆、尊極なる生命を持っています。その生命を、最大に輝かせ、自分らしく尊き使命の花を咲かせ切っていく。これが「自体顕照」です。そして、互いに尊敬し合い、学び合い、励まし合って、幸福と歓喜の花園を広げていくのです。ここに妙法の世界があります。日本の詩人が歌った通り、「みんなちがって、みんないい」のです。(金子みすゞ著「私と小鳥と鈴と」、『さみしい王女』所収、JULA出版局)
ハンコック 「桜梅桃李」を音楽的な観点から言えば、それは、音楽家の個性であり、まさに、音楽家一人一人の音色のことになると思います。つまり、一人一人が「独自の音」を持っているということです。
 仏法に照らせば、すべての人の個性が独特の音を持っていることを深く理解できます。仏法を実践することによって、私たちは、自分ではない誰か別の存在になるわけではありません。私たちは、あくまでも同じ自分自身です。

きょうも生命に元朝の太陽を
ショーター氏
座談会には差異を結び合う力

池田 戸田先生は、個性について、よく言われました。
 「どんな立派な人間でも、短所がある。また、どんな癖のある人間でも、長所がある。そこを活かしてあげれば、皆、人材として活躍できるのだ」と。
 ですから、音楽に例えれば、それぞれの持ち味の最高の音を鍛え上げながら、互いに活かし合って、人々の心を打つ名演奏を成し遂げていくことに通ずるでしょう。
        ♫
ショーター はい。「桜梅桃李」の譬えには、実に豊かな智慧があります。
 自分と外見が違ったり、行動が異なる人間に対して先入観を持つ「偏狭な人々」がいますが、私は最近、このような人々に、間違った差別観を捨てさせるさまざまな方法を示すために、この信仰や公演旅行を、活用できないだろうかと考えるようになりました。
 どうすれば、差異を受け入れることの素晴らしさを示せるのか。
 私は、一つの方法を見つけました。バンドで公演旅行に出る時、私は、よく「ほかに誰か一緒に旅をする人はいないか」と呼びかけます。なぜなら、多様であればあるほど、私たちの平和と愛を求めての運動は成功することを、私は知っているからです。
 人々は、多種多様な私たちを見て、「小型版の国連のようだ」と言います。
ハンコック 本当にそうだね。
 それぞれの音楽家にとって、独自の音を持つためには、開発を要します。単に楽器を手にすれば、自分の音が持てるというものではありません。それは、葛藤して、自分で見出して、創り上げるべきものです。
 私たちが自分自身の真の生命を顕現するためには、それを妨げている障害を打ち払っていく作業が大事なのではないでしょうか。
 仏法には、「発迹顕本」(迹を発いて本を顕す)という法理もありますね。
池田 その通りです。常に、自らの本源的な生命に立ち返って、生まれ変わったように新出発していくのです。
 戸田先生は教えてくださいました。
 「行き詰まりを感じたならば、大信力を奮い起こして、自分の弱い心に挑み、それを乗り越え、境涯を開いていくことだ。それが、我々の月々日々の『発迹顕本』である」と。
 ですから、妙法に生きる私たちは、毎日が久遠元初であり、毎日が元旦です。今日も、わが生命に赫々たる元朝の太陽を昇らせ、無明の闇を打ち破っていける。
 その暁鐘こそ、南無妙法蓮華経という音律なのです。
        ♫
ハンコック 池田先生が教えてくださった通り、私たちが勝利者となり、智慧を使い、自身の環境を成長の糧と転ずる方法を見つけ出すことによって、この「無明」という迷いを打ち破り、「元品の法性」を顕すことができます。
池田 そうです。御聖訓には、「一念無明の迷心は磨かざる鏡なり是を磨かば必ず法性真如の明鏡と成るべし、深く信心を発して日夜朝暮に又懈らず磨くべし」(御書384㌻)と説かれています。
 わが生命を明鏡の如くに磨き上げる──ここに、たゆみなき仏道修行の意義があります。
 ショーターさん、ハンコックさんが率先されている、自分と異なる他者との対話・交流も、自他共に生命の明鏡の輝きを増していく力ですね。
ショーター ありがとうございます。私は、公演旅行の中で出会った人々に、これまで自分が体験した偏見や、相手を受け入れない狭い心について語ってきました。
 ただし、そこでは、偏見、嫌悪、先入観といった言葉は使わずに、そうした問題の壁を破った物語を紹介します。そして、幸福を得た段階にまで話をもっていきます。
 この人間の差異を結び合うことについて語る上で、SGIの座談会での体験発表は、とても効果的であり、これほど誠実で心に触れる瞬間をもたらしてくれるものはありません。
池田 お2人は、地域でも自宅を座談会の会場に提供してくださっています。多忙な中、積極的に座談会に出席されていることもうかがっています。以前、関西の座談会に入っていただいた時も、皆、大喜びでした。
 学会の座談会は、法華経に説かれる「人華」のごとく「人間の花」「人間性の花」を咲き薫らせていく対話の園です。「人華」という美しい言葉は、南アフリカのマンデラ元大統領とお会いした折にも、話題になりました。
 私は、ハーバード大学での2度目の講演で、釈尊がどんな人たちとも自在の対話をなしえたのは“あらゆるドグマ(教条、独断)や偏見、執着から自由であったからである”と指摘しました。
 そして釈尊の言葉を通し、人の心に刺さっている“差異へのこだわり”という「一本の矢」こそ、克服されるべき悪であると強調しました。それは人間の外ではなく、内面にあります。
 人間の心にある「差別の意識」「差異へのこだわり」を克服してこそ、開かれた対話が可能になるからです。
        ♫
ハンコック 自分の文化と異なるものを受け入れられることは、実に重要だと思います。それは「包容」という智慧であり、開放性、他者への尊敬、自分の外にあるものへの尊敬の心から生じる智慧です。
ショーター マイルス・デイビスも、アート・ブレイキーも、偏屈で偏狭な音楽家ではなく、学者や、青年の素晴らしさから、進んで学ぼうとした点で、「開かれた心」の持ち主でした。2人とも、バンドメンバーとして、10代の若者たちを雇い、また、他文化の音楽や音楽家を取り入れ、用いていました。
 私も彼らと同じ思いです。
池田 誰もが同じ「人間」です。
 ヨーロッパ科学芸術アカデミーのウンガー会長も「人間が『生理学上、世界中のだれとでも、驚くほど同じである』」ことを強調されていました。
 そして、「この生理学上の同一性のうえに、文化や宗教の差異が構築されている。そうである以上、文化や宗教の違いを根本的対立だと解釈することは間違いではないでしょうか」と訴えておられました。まったく同感です。
 博士とは、宗教間や文明間の対話の重要性を大いに語り合いました。
 「異なるもの」「自分にないもの」を尊敬できる人、他者の個性を尊重できる人には、新しい発見がある。未来への展望が開けます。その人が、自分の個性を輝かせることができるのです。

人間は共に学び合って磨かれる
池田 アカデミー・フランセーズの会員であった美術史家ルネ・ユイグ氏との語らいのなかで、私たちが得た一つの結論があります。
 それは、さまざまな可能性をもった多くの人が、自らの才能を存分に発揮して、喜びや満足を味わっている社会こそが、豊かな創造を生み出すことができるということでありました。
 日蓮大聖人は、「鏡に向って礼拝を成す時浮べる影又我を礼拝するなり」(御書769㌻)と説かれています。
 開かれた心で打って出て、多彩な人々と生き生きと対話し交流する。他者の生命を尊敬し、共に学び合ってこそ、互いの個性がより光り輝いて、創造の花を咲かせていくことができるのではないでしょうか。
ショーター その通りだと思います。アート・ブレイキーも、「独創性は多様な相互作用から生まれる」と語っていました。
 彼は、湖を例に挙げて言いました。「水が流れ込む入り口と流れ出る出口のない湖の中に存在する生き物は、やがて汚染され、死んでしまう。しかし、ジャズには、この入り口と出口があって、前進し、多様化し続けている」と。
 アート・ブレイキーの音楽に接する時、聴衆は、そこに多様性から生まれる何かを聴くのです。
        ♫
ハンコック 私も、若い世代や異なったジャンルの演奏家と積極的に共演しています。ステージで実際に演奏している時、私は、すでに名人の域に達した演奏家と、成長過程にある演奏家とを区別しません。
 もちろん、私の役割として、演奏者の配置や、彼らの経験レベル、演奏家としての立場を認識することは必要です。舞台では、できる限り最高の音楽を作ることが最終目標だからです。
 その上で、一人の音楽家から奏でられる旋律は、すべてがかけがえのない宝となりうるのです。音楽家としての才能のレベルは、関係ありません。たとえば、粗い角を取り除いたり、型作りを手助けしたりしながら、宝石作りに手を差し伸べることはできるのです。それは、演奏中に、皆が相互に相手を引き上げようとすることです。
池田 大事なお話です。世代を超えて切磋琢磨しながら、互いの持てる力を引き出してこそ、偉大な躍進があります。
 大聖人の立正安国論には、「悦しきかな汝蘭室の友に交りて麻畝の性と成る」(同31㌻)という一節があります。蘭のように芳しい人格の友や、麻のように真っ直ぐな心の連帯と交われば、おのずと良き感化を受け、わが生命を律し、高めていくことができると示されています。
 特に青年にとっては、そうした良き集いを求めて、真剣勝負で自らを鍛えていくことが大切ですね。

ショーター氏
今この瞬間も自己の変革に挑戦
ハンコック氏
すべての音楽家は“育む感性”を

ショーター ええ。ジャズは大きな変化や改革を基調とする音楽です。そこでは、今この瞬間も、次の瞬間も自己を改革し、常に自己を浄化することが必要です。そこでの創造的表現が、内面の自分、つまり自分の本質、内面の法則からあまりにもかけ離れているなら、私たちは何も改革していないことになります。
 「こうすれば創造的なプロセスになる」という保証は、どこにもありません。聴衆の前で、真に独創的な演奏をするには、音楽自体が、その真価を発揮しなくてはならないのです。
        ♫
池田 ダイヤは、ダイヤでしか磨けません。
 あの大作曲家マーラーも、後輩を心から励ましました。「頭を高く上げて!」「仮にも本物であるなら、つねに学ぶ者でありつづけるのです」(須永恒雄訳『マーラー書簡集』法政大学出版局)と。その励ましを受けた後輩が、後に20世紀の大指揮者となったブルーノ・ワルターでした。
 若き世代を、惜しみなく激励し、伸ばしていくことも、自身を磨き上げた一流の人が成しうる聖業です。それは未来への使命であり、責任であるといってもよいでしょう。
ハンコック その通りです。成長過程にある相手の個性という果実を実らせ、成熟させるには、園芸家のように一つ一つの花や実を大事にする“育む感性”がなければなりません。それはすべての音楽家が持つべきものです。
池田 後輩を自分以上の人材へと育てたい──その思いは確かに、農作物をわが子のように懸命に育む方々の心に通じるものがありますね。
 南米アルゼンチンの芸術家で、ノーベル平和賞を受賞した人権の闘士であるアドルフォ・ペレス=エスキベル博士と、私は対談集を発刊しました。
 その中で、博士が、最高の品質のトウモロコシを作る農民のエピソードを紹介されました。なぜ、素晴らしい作物が作れるのか。それは、自らの農場でとれた良質の種を近隣の人々に分け与えているからだと。つまり、トウモロコシの花粉は風で運ばれるので、近隣の品質を高めれば、それだけ自分の畑の品質も高まるというのです。
 “私たちはお互いがそれぞれのために重要であり、共に助け合っていこう”と呼びかけるエピソードです。仏法の「自他不二」の精神とも一致します。
ショーター よく、わかります。
 今の私の挑戦課題は、聴衆自身が、演奏に連なり、その創造的な作業に参加できるよう、そう願って演奏することです。自分は、音楽家ではないし、演奏などできないと思い込んだり、また、人からそう言われてきた人々がいるかもしれません。私は、そうした人々に、私の音楽を聴いて、それまでできないと思っていたことが、自分にもできるのではないかという気持ちを抱かせるような音楽を目指しています。
 ある時、ドイツの医師の方から、一通の手紙を受け取りました。
 「マイルス・デイビス、ジョン・コルトレーン、チャーリー・パーカー、ハービー・ハンコック、それに貴方が演奏した音楽を聴いたおかげで、私は、より良き医師、より良き夫、より良き市民、より良き父親になることができました」と。
 音楽の中に飛翔する生命の共鳴音を聞く時、子どもも、若者も、年配者も、みんな、あたかも自分たちが共に演奏しているかのように、振る舞うようになるのです。
池田 胸を打たれました。聴衆を思うショーターさんの一念が、深く強く波動を広げていることが、伝わってきます。人間の一念の力は、無窮です。
 55年前(1956年)、28歳の私は、関西の同志と共に、「1支部で1カ月に1万1千111世帯」という折伏を成し遂げ、「“まさか”が実現」といわれる歴史を残しました。その時の私の祈りも、大阪中の内外の人が一人でも多く、この新たな民衆勝利の歴史に参加するようにとの一点にありました。
 大目的に向かって皆で邁進していく中で、人は自分一人の才覚や技量を超えた、巨大な力を発揮できるものです。集団の中に個性が埋没するのではありません。自分を信じ、良き仲間を信じて全力を出し切る時、個性はさらにまぶしく輝き出すのです。
ハンコック 音楽においても、たとえその人の才能に限界があろうと、それにもかかわらず偉大なことをなす道は見出せると、私は信じます。
 たとえば、世界的に著名な歌手でも、最も心地よい声を持っているとはいえない人がいます(笑い)。
 しかし、彼らには、確かに、歌う力や、歌う際の誠実さ、それに伴う品性があります。たとえ、パズルのすべてのピースがそろっていないからといって、失望してはいけません。それがないから、音楽で素晴らしいことができないとは限らないのです。
池田 それは万般に通じますね。
 人を育てるには忍耐が必要です。それぞれ性格も違う。性格や性分はなかなか簡単に変わらない(笑い)。
 “三世変わらざるを性”という言葉もあります。
 たとえば川をとってみても、その川幅や場所は変わらないかもしれない。しかし、よどみ濁った流れを、迸る清流に変えることはできます。
 人も止まることなく人間革命し、生命を浄化していくならば、それぞれの個性や性格を活かして、自分らしく価値を創造し、社会へ貢献していけるのではないでしょうか。
ハンコック 私は今、どうしたら、ジャズが未来へ発展し続けられるか、ということに心を砕いています。
 世代やジャンルを超えて、積極的に他者と関わりながら、音楽をつくっていくことは、長年、ジャズ奏者として経験を積んできた者の責任だと思っています。
 そのためにも、できる限り多くのことを、若い人たちから学びたいのです。
        ♫
池田 尊いです。人の成長のため、幸福のためにとの心で行動する人は、自分が一番成長できるものです。
 仏法では、「人のために火をともせば・我がまへあき(明)らかなるがごとし」(御書1598㌻)と説かれます。
 なかんずく、青年の心に光を送っていくならば、未来を明るく照らしていくことができます。
 世界の情勢を見ても、政治や経済の次元だけでは、さまざまな利害の対立や軋轢は、どうしても避けられない。
 だからこそ、平和・文化・教育次元での青年の交流が、ますます大事になってきます。
 私も、お2人をはじめ、192カ国・地域の「桜梅桃李」の同志とともに、いやまして、世界市民の心の連帯を広げていきたいと思っております。
2011-01-28 : 音楽を語る :
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第36回「SGIの日」記念提言 「轟け! 創造的生命の凱歌」

第36回「SGIの日」記念提言 「轟け! 創造的生命の凱歌」 (2011.1.26)


間断なき「人間革命」を基盤に
新しき人類 新しき世界を‼


絆を紡ぐ「対話」の復興が急務

 21世紀の“第2の10年”の開幕の年にあたり、所感の一端を述べておきたいと思います。

広がる「無縁社会」
 さて昨年は、高齢社会を迎えている現代の日本を象徴するようなショッキングな“事件”が、世の中を震撼させました。いわゆる「消えた高齢者」=注1=といわれるもので、東京・足立区の111歳の男性の事例を皮切りに、調査を進めていくと、本来祝福されるはずの数多くの100歳以上の人々が、行方不明になっている事実が次々に判明。公的記録上は生存しているにもかかわらず、生死や所在地が分からないといった状況は、それらの人々の年金を遺族が長年にわたって不正受給していた事例もあり、長寿社会・日本の思わぬ落とし穴として、人々に衝撃を与えました。
 人間関係の砂漠化というか液状化というか、「無縁社会」などと評されるように、ともかく凍り付くような、寒々とした心象風景であります。仏教の“縁起論”が教えているように、なべて人間同士のあるいは人間と環境とのいわば“結縁”から成り立っている我々の日常生活の仕組みの脆弱さを痛感させる、文字通りの“事件”でした。家族や地域とのつながりが薄くなり、社会での孤立感が深まる中で、先行きを悲観視する若い世代や中高年も決して少なくありません。
 「無縁」とは「コミュニケーション不全」ということでもあります。「無縁社会」とは、コミュニケーションの最強、最良の武器であった言葉が、十全にはたらかず、機能不全に陥った社会にほかなりません。その背景には、厳しい経済状況や核家族化など多くの問題が潜んでいますが、そこに、情報化社会の急速な進展があることは否定できない。いわゆる情報化の負の側面──情報量の増大とは裏腹の言葉の空洞化、本来の重みや深みを失い浮遊する符丁のような軽量化、そこから必然的にもたらされる、人間を人間たらしむる対話力の衰退であります。
 哲学者のアルベール・ジャカールは、情報科学の意義を過不足なく評価した上で、情報科学がもたらすのは「急速冷凍したコミュニケーションでしかありません。沈黙と言葉からなる真の対話においては、創造性のある驚きが自然に生まれます。しかし、情報科学によってそれを引き起こすことは不可能」(吉沢弘之訳『世界を知るためのささやかな哲学』徳間書店)と。「急速冷凍」とは、言い得て妙であります。
 もちろん、情報科学の発達が一面で、人間同士の新しいつながりの輪を広げる可能性を持っていることは事実です。
 しかし、その情報科学を介したつながりが“匿名性”“非人称性”を特徴とするものと化せば、そこには“顔”がなくなってしまう。無機質かつニュートラルで、顔と顔、魂と魂との触発作業からのみ生まれる新鮮な驚き、肉感を伴う手応えや充足感とは縁遠い世界であります。
 こうした時流にあって、特筆しておきたいことは、私どもSGIが世界的に展開している仏法対話、特に座談会運動の有する精神史における意義付けです。
 私どもが日々、何千カ所、何万カ所、否、何十万カ所で行っている“顔”を突き合わせての、双方向の語らい──それは、まさしく「沈黙と言葉からなる真の対話」であります。
 言葉が相手の心に届いた時の喜び、充足感。届かなかった時の戸惑い、もどかしさ、そして沈黙。沈黙の中で、懸命に新たな言葉を探す忍耐と苦闘。探し当てた言葉がようやく相手に届いた時のさらなる充足感──こうした倦むことなき対話の織りなすグラデーション(徐々に変化すること)こそ、心を鍛え魂を磨きあげていく「溶鉱炉」なのであります。「急速冷凍」とは対極に位置する醸成、錬成の場なのであります。
 そうした「言葉の海」「対話の海」の中でのみ、人間は人間に成ることができる。逆に言えば、ソクラテスが「言論嫌い」(ミソロゴス)は「人間嫌い」(ミサントローポス)に通ずるとしたように、そこを避けていては、真の人間へと成熟していくことはできない。だからこそジョン・デューイ協会のラリー・ヒックマン元会長は、私とのてい談で、人々が集い語るSGIの拠点を「地域社会の絆を深める施設」であり、成熟した市民でデューイが言うところの「公衆」を生みだす母体と位置付けておられるのであります(「人間教育への新しき潮流」、『灯台』2010年11月号所収)
 地道で目立たなくても、否それ故に、私どもの対話運動は、そうした空洞化した言葉を蘇らせる文明史的意義を孕んでいることを誇りとしていきたい。
言葉の軽量化をどう乗り越えるか
 言葉の空洞化、軽量化といえば、昨年“ハーバード白熱教室”なるものが、話題を呼びました。
 いうまでもなく、ハーバード大学といえば、アメリカ最高峰の学府の一つですが、そこでマイケル・サンデル教授の政治哲学の講義が人気を集め、史上最多の聴講者を記録し続けているという。講義といっても一方的なものではなく、身近な話題を取り上げ、教授が音頭をとって学生たちの意見を募りながら、つまり双方向の言葉のやりとりを通して、問題の正否を吟味していく──。まさにソクラテス的対話を彷彿させるもので、日本でも評判になり、テレビや紙誌が何回となく取り上げ、サンデル教授も来日して、日本版「白熱教室」なども試みられた。また著書(『これからの「正義」の話をしよう』)は、この種の本としては、異例のベストセラーを続けているという。
 こうした話題に接するにつけ、私は感慨を新たにします。
 というのも昨年の提言でも、ユゴーの『レ・ミゼラブル』の冒頭、ミリエル司教と老ジャコビニスト(過激な革命主義者)が、正反対の立場から「正義」を巡って火の出るような論争をしているシーンに触れました。それを通して私は、古来“正義とは何か”ということが難問中の難問であることを訴えました。
 すなわち、こうした難問は安易に、軽々に取り扱ってはならず、もしその点をなおざりにすると、正義と正義がぶつかり合い、至る所でハレーションを起こして正義という言葉の空洞化、軽量化、インフレ現象を招き寄せてしまう。20世紀が戦争と革命による殺戮の時代であった大きな要因は、この正義のインフレ現象にあったのではないか。「白熱教室」のような試みがブームを呼ぶ背景には、そうしたことへの自省、自戒が、強くはたらいているといえないでしょうか。

ベルクソン哲学と深部で響き合う仏法の人間主義

何のため生きるか
 ここで、若き日に愛読したアンリ・ベルクソンの哲学を援用しながら、我々の標榜している人間主義というものの輪郭を、もう一歩明らかにしてみたい。
 けだしベルクソンほど言葉のインフレ現象、軽さ、換言すれば言語の虚構性を鋭く抉り、哲学者のウラジミール・ジャンケレヴィッチが名著『アンリ・ベルクソン』(阿部一智・桑田禮彰訳、新評論)で「頭で歩いていた哲学を本来の姿にもどした」と的確に評したように、ロゴス(言葉や論理)中心主義を主流にしてきた西洋哲学の偏向に、先駆的かつ包括的な警鐘を鳴らしていた人も稀でしょう。そして、そのスタンスをもたらしたのは、ベルクソン哲学では「人間のための哲学」という軸足が決してぶれることはなかったためであると、私は信じております。
 ベルクソンといえば、悩み多き19歳の夏、友人から恩師(戸田城聖第2代会長)との運命的な出会いとなる会合に誘われた際、生命の哲学に関するものだと聞き、とっさに「ベルクソンですか」と問うたのも、懐かしい思い出です。
 ベルクソンは、まず哲学する上で手放してはならない言葉として、生物学の「生きることが第一」(河野与一訳『思想と動くもの』岩波書店)をあげ、自らの哲学のモチベーション(動機づけ)をこう語っています。「私たち人間はどこからやってきたのでしょうか。私たち人間とは何なのでしょうか。私たち人間はどこへゆくのでしょうか。これらの問題こそまさに根本的な問題であります。もし、私たちがもろもろの哲学体系にたよらないで哲学をするならば、たちどころにこれらの問題に直面するはずであります」(池辺義教訳「意識と生命」、『ベルクソン』中央公論社所収)と。
 このモチベーションは、人間が善く生きようとする限り、誰もが、いつかは、どこかで直面せざるを得ない万人が共有する原初の問いかけであります。ところが「もろもろの哲学体系」は、枝葉末節にこだわるあまり、ややもすると根幹であるこの原初の問いかけを忘失しがちである。まさに仏教で説く“毒矢の譬え”=注2=の戒めと瓜二つであります。つまり、ベルクソンにあっては、“何のための哲学か”という人間主義のスタンスは、決してぶれることはなかった。このことは、科学や宗教の場合も同断であります。

若き日の即興詩
 私は、恩師との初の語らいの感動を、即興詩に託しました。

 旅びとよ
 いずこより来り
 いずこへ往かんとするか

 月は 沈みぬ
 日 いまだ昇らず
 夜明け前の混沌《カオス》に
 光 もとめて
 われ 進みゆく

 心の 暗雲をはらわんと
 嵐に動かぬ大樹求めて
 われ 地より湧き出でんとするか

 今思い返すと、不思議な符合であります。その時、私の念頭にベルクソンがあったわけではありませんが、ともかく、人間であることの条件ともいうべき原初の問いかけに、常にフィードバック(還元)し続ける、その意味では哲学らしからぬ哲学ともいえるベルクソンの哲学に想像以上に親近感を覚えていたのかもしれません。事実、その宗教観などにスポットを当ててみると、彼の意図を超えて(というのも、ここでは詳述しませんが、ベルクソンの仏教とくに大乗仏教への理解は、十全ではないからです)驚くほど仏法を基調にした人間主義と波長を一にしております。
 私どもが唱道する人間主義は、仏法を基調にする故に「法に依って人に依らざれ」(涅槃経)を規範にするが、化導、流通の面では、仏典に「法自ら弘まらず人・法を弘むる故に人法ともに尊し」(御書856㌻)とあるように、あくまで「人」に軸足を置きます。
 「法」といっても固定的なものではなく、「人」に体得、体現されて初めて、現実に生々脈動しゆくからです。

「師から弟子への継承」が象徴する高邁なる精神の伝播のドラマ

「人格的人間」への飛躍を促す思想
 それと軌を一にして、ベルクソンの時間観、生命観は、「人」に即した「動くもの」のダイナミズムそのものであります。主要著作に沿っていえば、ある時は“純粋持続”(『時間と自由』)であり、ある時は“緊張”(『物質と記憶』)であり、ある時は“生の躍動(エラン・ヴィタール)”(『創造的進化』)であり、最後の主著『道徳と宗教の二つの源泉』では、「動的宗教」における“愛の躍動(エラン・ダムール)”へと辿りつく。
 “エラン・ヴィタール”までは、いわば「生物的人間」の進化を追ったものだが、“エラン・ダムール”は、「人格的人間」への上昇、飛躍であり、ある種の神秘的体験によって触発されたその体現者にして初めて、閉じた世界から、人類社会、人類愛への飛躍も可能となる、とされます。
 いうところの神秘的体験とは、神懸かり的ないかがわしさとは全く無縁の、知力を尽くし抜いた果てに作動し、かつ「数ある障害をものともせずに知性を前方へ駆りやる力」としての情動であり、魂の「深部が震撼される」情動であります(森口美都男訳「道徳と宗教の二つの源泉」、前掲『ベルクソン』所収)
 その体現者を宗教的創造者といっても道徳的英雄といってもいい、この精神界の巨人は、「その人の行動自体が充実しているだけではなく、他人の行動をも充実させることができるような人であり、その人の行動自体が高邁であるだけではなく、高邁という炉床に火をつけ燃えあがらせることができるような人」(前掲「意識と生命」)であり、「(彼にとって)真に大切な問題は、まず自ら模範を示して、人類を根本から造り変えることである。この目的は、理論上は根源に存在していたはずのもの、すなわち神的な人間性がついに存在するに至ってはじめて達せられうるであろう」(前掲「道徳と宗教の二つの源泉」)と。
 このような魅力的な、磁力を秘めた(導く人の)魂が“招き”となって、(継ぎゆく人々の)魂の“憧れ”を引き寄せ、相呼応しながら、新たなる精神的地平が豁然と拓けゆく──例えばネルーが、ガンジーの出現が長年の植民地支配下で萎縮していたインドの人々の心から「どすぐろい恐怖の衣」をはぎ取り、「民衆の心の持ち方を一変させた」と評したように(辻直四郎・飯塚浩二・蠟山芳郎訳『インドの発見 下』岩波書店、現代表記に改めた)、宗教であれ思想であれ、精神性の伝播、継承とはこのようにしか成し得ないであろう究極の姿をかたどっているのではないでしょうか。
 そして、私にとって、恩師・戸田第2代会長こそ、まさしくこのような精神的巨人であり、無二の師表でした。「仏とは生命なり」との比類なき獄中体験をベルクソンのいう「創造的躍動力」(前掲「道徳と宗教の二つの源泉」)とし、仏法流布に生涯を捧げた稀有の師匠に出会い、仕え、その精神を継承し得たことは、何ものにも替え難い私の宝であり、誇りです。私が「師弟」の肝要なることを、折あるごとに訴え続ける所以もここにあります。また、その伝播、継承を確信する故に、ライフワークである小説『人間革命』のテーマを「一人の人間における偉大な人間革命は、やがて一国の宿命の転換をも成し遂げ、さらに全人類の宿命の転換をも可能にする」としたのであります。

変転を続ける現実を見定めより善く生きる意志を鼓舞

言語の固定化が招く精神の怠惰
 さて、言葉のインフレ現象、軽さについていえば、それを生み出す言葉への過信、軽信に対して、ベルクソンは警戒心を隠そうともしません。いわく、「私が真の哲学的方法に眼を開かれたのは、内的生活のなかに初めて経験の領域を見いだした後、言葉による解決を投げ棄てた日である」(前掲『思想と動くもの』)と。
 それは、期せずして竜樹が、縁起の法は「ことばの虚構を超越し、至福なるもの」(「中論」梶山雄一訳)と述べているような、仏教本来の「無記」の知見、言語観を想起させます。
 なぜ警戒心を露にするかといえば、ベルクソンにとって「経験の領域」つまり真のリアリティーである「実在とは動いているもの、いなむしろ動きそのもの」(前掲「道徳と宗教の二つの源泉」)であり、創造的生命の間断なき変化、変化の連続しゆく流れはひとときも止まることはない。その動きを感知するには、ベルクソンにも通暁し、私も生前お会いしたことのある小林秀雄氏のいう「未知な事物に衝突していて、既知の言葉を警戒」しながら正しい言葉を選び取る「精神の弾性」(『現代日本文学全集42 小林秀雄集』筑摩書房、現代表記に改めた)が欠かせない。ところが、言葉というものは、往々にしてそうした間断なき流れを断ち切り、言語によって固定化させ、「変化についてのスナップ・ショットでしかない」(前掲「道徳と宗教の二つの源泉」)ものを、実在そのものと錯覚させてしまう。
 いわゆる「時間の空間化」であって、彼はその象徴的な事例として、“飛んでいる矢は止まっている”あるいは“アキレスは亀に追いつけぬ”といった、古代ギリシャの哲人ゼノンのパラドックス=注3=を執拗に論難してやまない。なぜなら、言語による固定化がもたらす過信、軽信は、つまるところ精神の弛緩状態──知的怠惰、固定観念や偏見、ドグマ(教条)の温床になってしまうからです。先に論じてきた正義のインフレ現象(イデオロギーであれ、宗教であれ、ナショナリズムであれ)などは、その典型的な症例といえるでしょう。それは、労せずして、手っ取り早く結論を得ようとする安易さ、弱さや怠け心へと、人間を誘い込んでしまうのであります。
 私は、かつてその危険性を指摘し、「世間の主義主張には、どうしても(この)“型にはめる”という働きがともなう。仏法にもとづくわれわれの主張は、この定型化ということには重きをおかない。時代と状況の実質把握のほうに重点をおき、そこからどうあるべきかを観察していく」と述べましたが、「定型化」とは「固定化」「空間化」ということと、ほぼ同義語であります。

安逸や停滞を排す
 つまり、仏法的発想と踵を接するかの如く、ベルクソンの哲学というか気質ほど、人間の弱さや怠け心と氷炭相容れぬものはないのであります。だからこそ、彼は「緊張、集中、これこそ私が、新しい問題一つひとつに対してまったく新しい努力を精神から要求する方法の特徴を述べる言葉である」「私は安易さを排斥する。私は困難を惹き起こすような一種の考え方を推奨する。私はなによりも努力を尊重する」(前掲『思想と動くもの』)等々と、安逸や停滞と決別し、ひたすら前を見据え、善く生きよう、強く生きようとする人間の能動的な意欲を鼓舞してやまないのであります。
 緊張、集中、努力──これら心の“張り”は、「動くもの」を感じ取り、思考の硬直化を排しながら、時々刻々と変転してやまない「時代と状況の実質把握」を可能ならしむるための、いってみれば精神的な“動体視力”を養い鍛える上で欠かすことができない要因であります。
 この“張り”をベルクソンは「確乎として揺るがぬ知的健康」として、次のように精妙に述べております。「行動への熱意、環境に適応し、仕損じても挫けずに再興する力、嫋かさと結びついた堅忍、可能と不可能とを見分ける予言者の識別力、紛糾した事態を単純によって克服する精神など」(前掲「道徳と宗教の二つの源泉」)と。
 そしてこれらが、昨年の提言で私が簡勁に指摘しておいた、仏典の「強る心」「丈夫の心」と深部で響き合っていること、申すまでもありません。

人間を信じ、無限の力を引き出す楽観主義《オプティミズム》こそ文明を導く方向舵

自他ともの喜びを創造しゆく菩薩道
 「強る心」「丈夫の心」に限界はありえない。仏教に基づく人間主義の真髄は、人間の精神的諸力のぎりぎりまでの行使、より正確にいえば無限の行使を要請し、人間であればそれが可能であると促している点にあります。それほどまでに徹して人間の可能性を信じ、そこに賭けている。
 これは、ファウストに象徴される、いわゆる欲望を肥大化させた近代人の傲慢とは似て非なるものであります。宇宙根源の法に帰依しているという確信から生まれる自覚であり、自負、矜持であります。
 なぜ自覚、矜持かといえば、仏教においては、宗教が人間の精神的バックボーンを成すのは当然のこととして、なおかつ「精神活動が宗教を包含するのであって、それが宗教の中に包含されるのではない」(ジュール・ミシュレ『人類の聖書』大野一道訳、藤原書店)という「人間のための宗教」という立ち位置を、厳しく自戒しているからです。
 ここにこそ「人間のための宗教」と「宗教のための人間」とを分かつ分水嶺があり、それをはき違えると、宗教は人間の弱さや醜さ、愚かさや怠け心を誘発する“お縋り信仰”へと堕落していってしまう。
 そうではなく、私どもの信仰は、人間の無限の可能性への挑戦を促し、鼓舞する真の「人間のための宗教」であります。したがって、精神的諸力の行使に終着点はありえない。「今」は、常に次なるステップへの出発点なのであります。「さあ これからだ!」という呼びかけは、人間主義の実践躬行を促す“起床ラッパ”なのであります。それは、現実社会の庶民群の中で“自他ともの喜び”を創造しゆく菩薩道へと展転していく。
 人間力の無限の行使の要請に応えんとするところ、そこに拓けるのは、無限の力、無限の希望、無限の勇気、無限の知恵等々、限りなき、洋々たる前途であり、どんなに紆余曲折、試行錯誤があろうと、前進また前進の勇者を待つのは、仏典に「歓喜の中の大歓喜」(御書788㌻)と記された創造的生命の凱歌であるというのが、仏法に基づく人間主義の希望の哲学であります。
 ベルクソン的オプティミズム、哲人が「経験の事実に即した最善観」(前掲「道徳と宗教の二つの源泉」)とした達観も、その無限性と根を通じております。

万人に開かれた自己完成の王道
 「努力によって、人は自分の持っている以上のものを自分のなかから引きだし、自分自身を自分より以上に高めることができるのです」(以下、前掲「意識と生命」)といった、精神の力の可能性、蓋然性に対する驚くべき期待、評価は、精神世界の無限性への不抜の確信あってのものでしょう。その努力の行き着くところは「歓喜」であり「歓喜はいつも生命が成功したこと、生命が地歩を占めたこと、生命が勝利を得たことを告げています。そうして、大きな歓喜なるものには勝鬨のひびきがあります」「歓喜のあるところにはどこにも、創造があることがわかります。創造が豊かであればあるほど、歓喜は深いのであります」と。
 のみならず、こうした無限性への志向は、古来人間に自らの有限性を自覚させ、宗教の世界へと目を向けさせる“死”という最大のアポリア(難問)にも、大胆かつ慎重に挑んでゆきます。なぜ大胆かといえば、「意識にとって来世があるならば、それを探求する手段が私たちに発見できない理由はありません」というスタンスは、死後の世界は神の宰領するものとするキリスト教的伝統とは異質のものであり、ジャンケレヴィッチが「人間の神格化」(前掲『アンリ・ベルクソン』)と名付けた、精神の力の無限性の証しともいえましょう。
 ベルクソンは、そうした精神の無限性への追求を、特殊な能力の人特有のものとするのではなく、精神的巨人の先導により、万人に開かれた自己完成への王道としております。
 彼は「ありとあらゆる人間がどんなときにでも追求しうる創造にこそ、人間の生命の存在理由がある」として、こう述べています。「その創造とは自己による自己の創造であり、少しのものからたくさんのものを引きだし、無から何ものかを引きだして、世界のなかにある豊かさにたえず何ものかを付け加える努力によって、人格を成長させること」(前掲「意識と生命」)と。
 言葉こそ違え、「一切衆生・皆成仏道」(御書557㌻)と説く、仏教の平等大慧の自己完成への道と見事に符合しているとはいえないでしょうか。

教条《ドグマ》が生む罠を徹して打ち破る
 とはいえ、その無限性の追求は、“人神”(ドストエフスキー)の思い上がりとは対照的に、あくまで慎重を極める経験主義者の流儀であります。いわく「もし霊魂問題というものが本当にあるとすれば、この問題は経験に即して述べられねばならぬ」「またその解決も経験に即して、前進的に、しかもどこまで行ってもただ部分的に得られるにすぎない」(前掲「道徳と宗教の二つの源泉」)と。
 これは「文証・理証・現証」という経験世界の「証拠」を重視する仏教の法理とも重なっており、私は、卓越した数学者でもあった恩師が、生前よく語っていた「科学が進歩すればするほど、仏法の法理の正しさが証明される」との言葉を想起しました。ともあれ生命の永遠性を垣間見ながらも、ベルクソンはあらゆるドグマから無縁の人でありました。
 「今世」と「来世」、「現世」と「生及びその前・死及びその後」とを分かつことのできない生命の無限の連続と捉えるこうしたアプローチを、周知のように仏法では「起は是れ法性の起・滅は是れ法性の滅」(天台智「摩訶止観」)と説いております。
 起=生・出現といい、滅=死・消滅といっても、法性という生命の本体が、縁に触れて生滅流転しているのだ、と。私は、かつてハーバード大学で講演した際(1993年9月、「21世紀文明と大乗仏教」)、この法理にのっとって「生も歓喜、死も歓喜」「生も遊楽、死も遊楽」という仏法の生死観を訴え、多くの賛同と共感の声をいただきました。
 その観点からも、ベルクソンのオプティミズム、生命観には、強い親近感を抱いており、なおかつ宗教がドグマの“罠”に陥らぬためには、こうした経験主義的アプローチとの対話を絶対に欠かしてはならない。これは、アーノルド・J・トインビー博士との対談でも痛感した点であります。

開かれた宗教を志向した精神性
 精神の力の無限性を信じ、追求しゆくベルクソン的オプティミズムは、必然的に人類愛へと至る開かれた魂、開かれた社会、開かれた道徳、開かれた宗教(動的宗教)を志向してゆきます。誰の目にも明らかなことは、現代の精神世界が、ベルクソン的世界とは正反対の閉ざされた精神空間に覆い尽くされているという事実ではないでしょうか。ペシミスティック(悲観主義的)で閉塞的な空間に逼塞させられた人間の魂は、「自分自身を自分より以上に高める」どころか、暗雲が立ち込めるなか、限りなき矮小化を余儀なくされているといってよい。耳をそばだててみれば、そこから生じる苦悶の呻き声は、至る所から聞き取ることができます。
 それだけに、現代の風潮とは対蹠的なベルクソン的な志向が、ことのほか尊いものに思えてならない。ベルクソン的オプティミズムは、行き詰まり、海図なき航海を続けている近代文明を、大きく軌道修正させてゆく“方向舵”たりうるのではないでしょうか。それはまた、人間主義を標榜する我々が、等しく共有する志向性なのであります。
 それを実現させうるか否かは、ほかでもない人間の自覚と責任にかかっております。ベルクソンは『道徳と宗教の二つの源泉』(前掲書)を、こう締めくくっております。
 「人類は今、自らのなしとげた進歩の重圧に半ば打ちひしがれて呻いている。しかも、人類の将来が一にかかって人類自身にあることが、充分に自覚されていない。まず、今後とも生き続ける意志があるのかどうか、それを確かめる責任は人類にある。次にまた、人類はただ生きているというだけでよいのか、それともそのうえさらに、神々を産み出す機関と言うべき宇宙本来の職分が──言うことを聴かぬこの地球上においても──成就されるために必要な努力を惜しまぬ意志があるのかどうか、それを問うのもほかならぬ人類の責任なのである」と。
 「神々を産み出す機関と言うべき宇宙本来の職分」の成就とは、いささか謎めいた形容ですが、端的にいって、生命の進化の過程で人間にのみ許された創造的生命の十全な開花──すなわち、「神秘的」体験によって魂を震撼させられた精神的巨人によって触発、先導され、「根本から造り変え」られた人間群による人類愛という地平への“愛の躍動”(エラン・ダムール)といってよいでしょう。

一人一人の自覚と責任が時代変革の波動を広げる

SGIの運動が目指す歴史的地平
 私がモスクワ大学のヴィクトル・A・サドーヴニチィ総長との対談集(第1集)を『新しき人類を 新しき世界を』と銘打ったのも、「新しき人類による新しき世界」を構想していたからです。
 その主役は、あくまで人間であります。それも社会機構や組織の中の一員に矮小化され、意気阻喪した人間ではなく、自己の無限の可能性を信じ、努力と挑戦のなか、自由意志の促すままに、ひたすら自己拡大を続けゆく創造的人間こそ、主役であるにふさわしい。そのほかの組織や制度、体制などの外的要因にのみ拘っていると、肝心の人間が端役の端役に追いやられてしまう。それがどんな悲劇を生んだかは、20世紀の苦い教訓であります。
 生き続ける意志はあるのか! 単に生き続けるだけでなく、善く生きんとする意志はあるのか!──哲人の人類への呼びかけは、「個々の人間の精神が真に更新されなくては社会にもまた更新はありえない」「個々の人間に、おのれの魂の救済にこそ世界の救済はあると気づかせるべきなのだ」(C・G・ユング『現在と未来』松代洋一編訳、平凡社)といった賢人の言葉と呼応しながら、「新しき人類」の誕生を待ち望んでいるように思えてなりません。
 こうした哲人、賢人の指し示す正道を歩み、事実の上で仏教史上に輝く世界的広がりを成し遂げてきたのが、まさしく我々の仏法を基調にした人間主義の運動なのであります。
 故に、今後とも着実に水嵩を増していくにちがいないSGI運動は、文明転換をもたらす“方向舵”として、時とともに輝きを放ち、スポットを浴びていくことは必定であろうと、私は確信しております。

時代を動かす“民衆の力強い連帯”で「生命尊厳の世紀」を建設

 続いて、人間の無限の創造性に照らし、同じ地球に生きる私たちが“共通の未来”のために取り組むべき課題について論じたい。
 21世紀の最初の10年が終わり、いよいよ、第2の10年が始まりました。
 振り返れば、冷戦の終結以降、経済を軸にしたグローバル化が進むにつれて、環境破壊や貧困などの地球的問題群への関心が高まり、国際的な対応を望む声が強まりました。
 しかし21世紀に入り、アメリカでの同時多発テロ事件から近年の金融経済危機にいたるまで世界に何度も激震が走る中で、地球的問題群に取り組む動きは、停滞どころか後退すら懸念される事態が生じています。
 その象徴的な例が、国連の「ミレニアム開発目標」=注4=をめぐる状況でしょう。
 世界では、毎年800万人以上の人々が極度の貧困に苦しむ中で命を落とし、劣悪な生活環境の下で10億人もの人々がその生命と尊厳を日常的に脅かされています。「ミレニアム開発目標」は、こうした状況を改善すべく21世紀の開幕にあたって掲げられたものでしたが、現在、世界的な景気悪化の影響もあって支援のペースが鈍化し、極度の貧困層を半減させるとの項目を除いて、他の残りの目標を期限である2015年までに達成することが危ぶまれているのです。
 同じく、地球温暖化を防止する取り組みも壁にぶつかっています。メキシコで先月行われた気候変動枠組み条約の会議では、2013年以降の温室効果ガス削減の枠組みが決まらないまま、議論が持ち越されることになりました。

脅威に苦しむ人々の目線を取り戻す
 いずれも不可避の課題として警鐘が鳴らされてきたにもかかわらず、本格的な対応がなかなか進まない背景には何があるのか──。
 思うに、脅威が叫ばれたとしても自国にとって死活的なものと受け止められない限りは、率先して行動したり、他国と連帯して対策を進めようとする機運が容易に高まらないという側面が、政府レベルでの協議や交渉には往々にしてつきものだからではないか。
 しかし忘れてはならないのは、時に後回しにされる支援や対策は、本来、多くの人々にとっての命綱となるはずのものであり、これから生まれてくる世代を守る安全網となるはずのものであったという点です。
 ゆえに、地球的問題群への対策がともすれば国益のせめぎ合いに収斂してしまう中で、その重力に抗して、“脅威に苦しんでいる人々の目線”へと引き寄せる力を生み出し、強めていくことが求められます。
 今こそ人類は、「警鐘の時代」と決別し、「行動の時代」「連帯の時代」へと踏み出さなければなりません。そして、その時代変革のための結集軸となるべきは国連だと思います。
 折しも今年の国連総会では「グローバル・ガバナンス(地球社会の運営)における国連システムの中心的役割」をテーマにした討議が行われる予定となっていますが、かつて国連の機能を国家間の利害調整に終わらせず、眼前の危機に対して積極的にイニシアチブ(主導性)を発揮する存在となることを模索したのが、ダグ・ハマーショルド第2代事務総長でした。
 ハマーショルドは、ベルクソンの「創造的進化」の概念を踏まえつつ、国連は“生きている機関”として常にニーズに照らし、持続的に成長しなければならないと考えていた。そのビジョンは、今日においても価値を失っておりません。
 では、国連が“生きている機関”として現代世界の要請に応えていくために、いかなる「創造的進化」を遂げる必要があるのか。
 私は、一にも二にも、NGO(非政府組織)を中心とした市民社会との協働関係を盤石なものにすることに尽きると考えます。
 なぜなら、国連という機関の生命の息吹は、憲章の前文で主語をなしている“われら民衆”の文言──なかんずく、その民衆を構成する一人一人にこそ宿っているからです。

リーダーシップ観の抜本的な見直し
 この点に関し、今なお深く胸に残る問題提起があります。国連の創設50周年に際してグローバル・ガバナンス委員会が発表した報告書の一節で、そこには、従来のリーダーシップ観を根本的に改めさせる頂門の一針ともいうべき提唱がされていました。
 「私たちがリーダーシップという場合、国内および国際舞台で最高のレベルにある人物だけを指しているのではない。その意味するところは、活動の場を問わず、人々の啓発に努力を傾けていることである」
 ゆえに、NGOや小規模な地域社会のグループをはじめ、民間部門や企業、科学者や専門家、教育界やメディア、そして宗教界にいたるまで、あらゆるレベルでさまざまな人々や団体が「勇気ある長期的なリーダーシップ」を発揮することが求められる──と(京都フォーラム監訳・編集『地球リーダーシップ』日本放送出版協会)
 国際政治のリーダーシップが欠けているならば、市民社会が世界を動かすエネルギーの供給源となっていけばよい。私も、“民衆一人一人がそれぞれの場所で自分にしかできない役割を担うこと自体が、リーダーシップの本旨である”との発想の転換こそ、閉塞状況を打破し、やがては地球をも動かしていく「アルキメデスの支点」=注5=となると確信します。
 私たちは、戦争と暴力が跋扈した20世紀の教訓を踏まえ、一人一人がかけがえのない役割を果たし、その連帯を幾重にも広げゆく中で、21世紀を「生命尊厳の世紀」へと築き上げていこうではありませんか。
 この信念に基づいて、21世紀の第2の10年を通して重点的に取り組むべき課題として、「核兵器の禁止と廃絶」と「人権文化の建設」に焦点を当て、国連を軸にした“目覚めた民衆の行動と連帯”で、その実現を図るための方策を探りたいと思います。

国連安保理サミットを定例化し2015年までに核廃絶の道開く交渉を

“われら民衆”の名で3つの挑戦
 まず、核兵器の問題を論じるにあたって、昨年5月に行われた核拡散防止条約(NPT)再検討会議の成果に触れておきたい。
 激しい意見対立が解消されず決裂に終わった前回(2005年)の轍を踏んではならないとの空気が広がる中、昨年の会議では10年ぶりに最終文書が採択されました。なかでも私が注目したのは次の3点です。
 ①核兵器の脅威に対する唯一の保証は、その廃絶以外にないと再確認した。
 ②核兵器の使用がもたらす壊滅的結果を踏まえ、国際人道法の遵守を求めた。
 ③「核兵器のない世界」を実現し維持するための枠組みを創設する特別な努力を払うことを求め、核兵器禁止条約に言及した。
 いずれも被爆者やNGOが長年訴え続けてきた主張にほかならず、核兵器に関して最も多くの国が加盟するNPTの公式文書で明確に謳われたことの意義は誠に大きい。ゆえに大切なのは、今回の合意を「核兵器のない世界」に向けての“協働作業の足場”としていくことでありましょう。
 そこで私は、国連憲章にならって、“われら民衆”の名において、以下の三つの挑戦を進めることを呼びかけたい。
 1、われら民衆は、核兵器の脅威に対する唯一の保証は廃絶以外にないとの認識に基づき、すべての保有国が全面廃棄を前提とした軍縮を速やかに進める体制を確保する。
 1、われら民衆は、どの国の行動であろうと「核兵器のない世界」という目的に反する行為を許さず、一切の核兵器開発を禁止し防止する制度を確立する。
 1、われら民衆は、核兵器は人類に壊滅的な結果をもたらす非人道的兵器の最たるものであるとの認識に基づき、核兵器禁止条約を早期に成立させる。
 いずれも、国家に“態度変更を求める”といった願望的なレベルにとどまるものではなく、目覚めた民衆の熱意と行動によって“新たな潮流を生み出す”ことに眼目があります。

交渉に非保有国やNGOの声を反映
 第1の柱となる「全面廃棄を前提とした核軍縮の推進」については、全保有国の参加による国連での対話や交渉の枠組みを定着させる必要があると思います。
 昨年4月にアメリカとロシアが締結した新戦略兵器削減条約(新START)は、両国の議会を通過し、批准書の交換を待つのみとなりました。
 削減規模や規制の対象が限定的ではあるものの、世界の核兵器の9割以上を保有する米ロ両国はより重い責任を持つだけに、削減に向けての努力は評価すべきでしょう。
 加えて、アメリカのオバマ政権が今後も引き続き、射程の短い戦術核兵器についてロシアとの削減交渉に乗り出す方針を表明していることは、歓迎すべき動きといえます。
 その上で私が求めたいのは、新STARTの前文で謳われたように、米ロによる核削減プロセスを他の保有国を含めた「多国間のアプローチへと拡張する」ことです。と同時に、その多国間交渉の結果を軍備管理的なものに終わらせず、「核兵器ゼロ」への展望が明確に開けてくるような、抜本的な核軍縮の水準にまで押し上げることです。
 では、いかにして大胆な核軍縮へと踏み出す環境をつくりだせばよいのか。
 そのためには、核兵器の保有を維持する前提とされてきた、“恐怖の均衡”で安全保障を維持するという抑止論的思考を徹底的に見直すことが欠かせないでしょう。つまり、保有国が核抑止論の呪縛を断ち切るには、国家、ひいては国民にとって“本当に必要なのは「安全保障」であって「核兵器の保有」ではない”──すなわち、核保有と安全保障とを同一視するような認識を改めることが出発点になると思うのです。
 この点に関連して、国連の潘基文事務総長が昨年8月に広島を訪問した際に、政治的な勢いを加速させるための方策として、2年前に行われた「核不拡散・核軍縮に関する国連安保理サミット」を今年から定例化させることを呼びかけた提案が注目されます。
 私も提言などで、同サミットの定例化を通じて核廃絶に向けたレールを敷くことを主張してきただけに、全面的に支持したい。
 その上で、安保理サミットの定例化にあたり、「安保理の理事国メンバーに限らず、非核の道を選択してきた国々の代表が討議に参加できるようにすること」と、「核問題に関する専門家やNGOの代表が意見表明する場を確保すること」を求めたいと思います。
 国際司法裁判所が96年の勧告的意見で全員一致の見解として示したように、NPT第6条は保有国に対し核軍縮交渉に取り組むだけでなく、誠実に交渉を進める結果として全廃を達成する義務を課したものです。
 そして、勧告的意見の審理に携わったモハメド・ベジャウイ元裁判長が指摘する通り、どの加盟国にも義務の達成を保有国に要求する権利があり、義務が果たされない場合にはNPT第6条を援用する権利を持つことを踏まえる必要があります(浦田賢治編著『核不拡散から核廃絶へ』憲法学舎/日本評論社)
 また審理に際し、約400万人の「公共の良心の宣言」が核兵器に対する一般市民からの非難の証拠とともに提出されたように、人類の運命にかかわる重大事を交渉するにあたっては市民社会の声を真摯に受け止めるプロセスが確保されなければなりません。
 私は、これらの要素を加味した安保理サミットを定例化する中で、2015年を一つのゴールとして「核兵器のない世界」への具体的な道筋を導き出すことを呼びかけたい。
 その上で、2015年のNPT再検討会議を広島と長崎で行い、各国の首脳や市民社会の代表が一堂に会して核時代に終止符を打つ「核廃絶サミット」の意義を込めて開催することを検討すべきであると訴えたいのです。
 昨年4月、各国の首脳経験者らによるOBサミットが広島で行われ、平和記念資料館の視察や被爆証言に耳を傾ける機会を経る中で“世界の指導者、特に核保有国の指導者は広島を訪れるべき”との提言を盛り込んだ声明が採択されました。これはまさに私が年来訴え続けてきた点であり、保有国をはじめとする現職のリーダーたちが被爆地を実際に目にする体験を共有することで、「核兵器のない世界」に向けた取り組みは揺るぎないものになるのではないでしょうか。

被爆国日本が「対話」の環境づくりに率先し中東と北東アジアの非核化を

CTBTの発効へ相互協定の締結を
 第2の柱となる「すべての核兵器開発の禁止と防止」については、包括的核実験禁止条約(CTBT)の発効が焦点となります。
 CTBTは爆発を伴うすべての核実験を禁止する条約で、96年の採択以来、182カ国の署名と153カ国の批准を得てきました。しかし、条約の発効には核技術を有する44カ国のすべての批准という厳しい要件が課されており、未発効の状態が続いています。
 しかし私は、発効の暁には核実験の禁止に加え、次の三つの意義があることを指摘し、非保有国と市民社会が連帯して対象国に署名と批准を促す動きを強めることを呼びかけたい。
 ①核兵器に関してNPTに未加盟の国をもカバーする普遍性を確保できる。
 ②核実験を永久に禁止する義務が国際社会の意思として確立されることで、核兵器廃絶に向けた心理的な土台が強固となる。
 ③条約の遵守状況を監視する地球規模の検証システムや査察制度と、これらを運営する専門機関(CTBTO)の存在は、交渉開始が待たれる核兵器禁止条約の制度的モデルともなりうるもので同条約に現実味を帯びさせる意義をもつ。
 いずれにせよ、CTBTを発効に導くには、批准に前向きな姿勢を示すインドネシアを除く残り8カ国の対応がカギとなります。
 そこで私は打開策として、国連などの仲介を通して対象国が“双務性”を前提とした協定を結び、一定期間内に署名と批准を進める方式を提案したい。
 2年前に行われた発効促進会議では、今後取り組むべき措置として「地域内及び多国間のイニシアチブ」を奨励する宣言が、全会一致で採択されました。その具体的な展開として、署名が済んでいない「インド、パキスタン」の間では相互署名協定を、「エジプト、イラン、イスラエル」の間で相互批准協定を結ぶことを模索してはどうか。
 また北東アジアでも6カ国協議をベースとしつつ、「北朝鮮の署名・批准と核能力の放棄」を前提に、「米中両国によるCTBTの批准と域内での核兵器の不使用」を誓約する協定を検討してはどうか。
 昨年来、朝鮮半島の情勢は哨戒艦沈没や延坪島《ヨンピョンド》への砲撃で緊迫の度を増しており、あらゆる外交努力を通じて事態を沈静化させることが急務となっています。その上で、朝鮮半島を含む北東アジアの永続的な平和と安定を目指すためには、北朝鮮の核問題を解決することが欠かせません。
 同じく中東においても、地域の永続的な安定を確保するには、非核化は避けて通れない道です。しかし、NPT再検討会議で合意をみた明年の「中東非核・非大量破壊兵器地帯の設立に関する会議」は、成否以前に開催そのものが危ぶまれているだけに、何らかの形で対話の環境づくりを進めることが求められます。
 そこで、まずは会議の前段階として、「核兵器を含む大量破壊兵器に関する軍拡の停止」をテーマに非公式レベルでの対話を試みることも一案かと思います。大切なのは、同じテーブルについて対話を交わすことであり、自国の政策がどのような脅威を互いの国に与えているかをよく理解し合うことが、事態改善の糸口となるに違いない。
 いずれにしても、明年の中東会議の前途には多くの困難が予想されるだけに、国際社会の後押しが欠かせません。特に、被爆国で、CTBT発効の推進役を担ってきた日本には、北東アジアの非核化の道を開く努力とともに、中東の非核化へ向けての対話の環境づくりを率先してサポートしていくことを求めたい。
 SGIとしても、中東を含む世界各地で「核兵器廃絶への挑戦」展を引き続き行い、CTBTの早期発効と非核兵器地帯の拡大に向けた国際世論を喚起していきたいと思います。
 このCTBTの早期発効とあわせて、私が訴えたいのは、「新型核兵器の開発と質的改良の禁止」を規範化することです。
 残念ながらこの問題は、昨年のNPT再検討会議で論点として当初取り上げられていたにもかかわらず、保有国の反対で最終的に見送られた経緯があります。
 しかし、この問題を放置し続けることは、NPTとCTBTの制度的基盤を根元から蝕む恐れがあるのではないか。実際、アメリカが昨年9月に未臨界核実験を再開し、また核兵器や核関連施設を近代化する予算を増額する方針を示したことは、CTBTをめぐる状況を複雑にさせるだけでなく、「核兵器のない世界」の実現を遠ざける行為と言わざるを得ません。
 ゆえに私は、安保理の常任理事国である五つの保有国が、2008年に共同声明で「核実験の停止継続」を誓約したのに続く形で、一切の留保を伴わない「核開発と近代化の停止声明」を行うことを求めたい。

NPT再検討会議での合意を足場に「核兵器禁止条約」を制定

核兵器は“絶対悪”との認識が不可欠
 最後に第3の柱として、核兵器禁止条約を“民衆の意思が生み出した世界法”として成立させる挑戦を提起したい。
 昨年のNPT再検討会議の最終文書で、「核兵器のいかなる使用も壊滅的な人道的結果をもたらすことに深い懸念を表明し、すべての加盟国がいかなる時も、国際人道法を含め、適用可能な国際法を遵守する必要性を再確認する」との文言が盛り込まれました。
 これは、96年の国際司法裁判所の勧告的意見の指摘をさらに前進させ、“あらゆる状況における核兵器の非合法性”を示唆した点で画期的な意義をもつものです。なぜなら、兵器の非人道性に鑑みて一切の例外を認めない原則を徹底化すれば、核兵器を“状況に応じて使用も可能な兵器”と考える余地は完全に失われることになるからです。
 そもそも核兵器は、国際司法裁判所が指摘したように、「その破壊力、筆舌に尽くしがたい人間の苦しみを引き起こす能力、そして将来の世代にまで被害を及ぼす力」において類例がなく、従来の兵器の範疇を超えたものとの認識に立つ必要があります。ゆえに、どの国が保有し、どんな理由を掲げようとも、国際人道法の理念とは本質的に相容れない存在であることを銘記せねばなりません。
 思い返せば、私の恩師の戸田第2代会長が半世紀以上前に「原水爆禁止宣言」で核兵器を“絶対悪”として位置付けたのも、核兵器の保有や使用を正当化しようとする論理に楔を打ち、根を断つためでした。
 戦争の最大の被害者は民衆であり、そこに自国や他国の境はないと訴え、日本の軍国主義と戦い抜いた恩師の熱願は、「世界にも、国家にも、個人にも、『悲惨』という文字が使われないようにありたい」(『戸田城聖全集3』)との一点に集約されていました。
 その意味で、核兵器による戦争は、世界にも、いかなる国にも、地球上のすべての人々にとっても、最も残酷で許し難い悲惨を強いるものでしかない。
 ゆえに恩師は、東西に分断された世界で相手の陣営の核保有ばかりを批判し合う風潮が強まる中、「生命の尊厳」を第一義とする仏法者として、イデオロギーにも体制にも偏することなく、世界の全民衆の生存権を守る立場から核兵器を弾劾したのです。
 時を経て、核時代を終焉させる歴史の分水嶺がようやく眼前に見え始めた好機を逃すことなく、核兵器の全面禁止に向けての挑戦を開始せねばなりません。
 注目すべきことにNPTの最終文書では、間接的な表現ながらも、核兵器禁止条約への言及が行われるにいたりました。
 そこで私は、今回の言及を突破口に、核兵器の廃絶と禁止を求める国々とNGOとが連携し、「核兵器禁止条約に関する準備会合」を早期に発足させることを呼びかけたい。
 たとえ、当初から多数の国が参加できなかったとしても、まず条約交渉の母体づくりに着手することを優先すべきだと思います。その上で「例外のない明確な禁止規範」と「期限を定めたスケジュール」の二つの要件を掲げながら、準備会合を重ねる中で、賛同する国とNGOをさらに募り、交渉開始への道筋をつけるべきだと思うのです。
 実際、マレーシアやコスタリカなどが国連総会に提出してきた核兵器禁止条約の交渉を求める決議は、中国、インド、パキスタン、北朝鮮を含む130カ国以上の賛成を得て昨年も採択されたように、コンセンサス(合意)の土壌は確実に存在しております。
 もちろん土壌があるからといって、それだけでは、核兵器禁止条約という成果を勝ち取り、「核兵器のない世界」を実現させることは夢物語のままで終わってしまう。しかし、市民社会が圧倒的な存在感をもって“国際世論による地殻変動”を起こしていけば、もはやどの政府もそれを無視できなくなるはずです。
 そのためにも、単に世論を喚起するだけでなく、明確なゴールを掲げて、それを支持する圧倒的な民衆の意思を、誰の目にも見える具体的な法へと“結晶化”させるプロセスを始動する必要があります。
 こうしたプロセスを経て実現した法は、民衆一人一人がその制定とともに、遵守の両側面にかかわるという意味で、国家間の関係を規律する伝統的な意味での国際法から“世界法”としての質的転換を志向したものとなるに違いない。
 これまで、核兵器の禁止や廃絶を求める声は主に、兵器そのものの非人道性と、核兵器の軍拡や拡散に伴う危険性の高まりという二つの点から提起されてきました。つまり、“非人道的だからなくさなければならない”との主張と、“危険だからなくす必要がある”との主張です。
 この二つの主張は、NPT再検討会議で全加盟国が確認した共通認識であり、「核兵器のない世界」へと人類が飛翔するための両翼としながら、核兵器禁止条約に賛同する裾野を広げていくべきだと訴えたい。
 また、より多くの人々が核兵器の存在を自分にかかわる問題と受け止め、時代変革の主体者としてリーダーシップを発揮する流れをつくりだすために、以下の“民衆による異議申し立て”を連帯の旗印に加えていってはどうか。
 1、いかなる国も、どの指導者も、多くの民衆の生命と未来を一瞬にして奪い去る核兵器を使用することは断じて許されない。
 1、核兵器は使用されなくても、開発や実験で深刻な健康被害や環境汚染を引き起こしてきた歴史があるだけでなく、その存在が絶えず軍拡と拡散を招く厄災となってきた兵器であり、安全保障の柱に据え続けることは許されない。
 1、核兵器の保有は、自国の安全と国益を守るためにはどんな方法も問わないという思考の究極の姿にほかならず、人類の平和的共存を根幹で脅かす思想は容認することはできない。
 これらの点は、他者の犠牲のもとに自己の幸福を求めない広義の人道性と、生命の尊厳を守り抜く人間の安全保障の観点から、核兵器がなぜ“絶対悪”であるかを浮き彫りにした「核兵器廃絶への挑戦」展を通し、私どもSGIが訴えてきた主張でもありました。
 ともすれば核兵器の脅威は目に見えず、日常的に感じられない面があるため、多くの人々にとって差し迫った不安というよりも過去に起こった悲劇として受け止められがちであることは残念ながら否めません。
 だからこそ、その壁を打ち破るためには、非人道性や脅威に対する認識にとどまらず、核兵器に覆われた世界で生き続けることが、いかに不条理かつ非人間的で、核兵器の存在が構造的暴力としてどれだけ世界をゆがめているかを見つめ直す必要があります。

青年の限りない熱と力で──「人権文化」を築く挑戦を‼

誰人も核兵器の犠牲にさせない
 その意味で私は、かつてパグウォッシュ会議のジャヤンタ・ダナパラ会長が、「軍縮とは、人々の人権とその生存を守るための優れて人道的な努力である。われわれは核軍縮運動を、奴隷制に反対し、男女平等を求め、児童労働の廃絶をもとめる組織的な運動と類似したものと見なければならない」(前掲『核不拡散から核廃絶へ』)と主張した点に深い共感を覚えます。
 大切なのは、同じ地球に生きる人間としての良心に照らして、どの国の民衆であろうと核兵器の犠牲となる事態を起こしてはならないとの意識に目覚めることです。そして、一人一人がその信念に基づいて、「ゆえに私は、核兵器の脅威の下でこのまま生き続けるのではなく、『核兵器のない世界』を自らの手で建設することを選択する」との声をあげ、それを積み上げていく──その“民衆による選択の重み”を、核兵器禁止条約の依って立つ法源としていく運動を目指すべきではないでしょうか。
 SGIでは、戸田第2代会長の「原水爆禁止宣言」発表50周年にあたる2007年から「核兵器廃絶への民衆行動の10年」をスタートし、展示やセミナーを開催してきたほか、核戦争防止国際医師会議(IPPNW)が進める「核兵器廃絶国際キャンペーン(ICAN)」への協力や、国際通信社IPSと共同で核兵器に関する記事や論考を発信するプロジェクトに取り組んできました。
 そして昨年は、日本の青年部が核兵器禁止条約の制定を求める227万人もの署名を集め、国連事務総長とNPT再検討会議の議長に提出しました。うれしいことに署名の取り組みは、日本の学生部が7カ国の青年部と実施した「核兵器に関する意識調査」とあわせて、若い世代の意欲的な活動として国連や軍縮関係者から注目を集めました。
 もはや機は熟しており、市民社会をあげて行動すべき時を迎えています。
 SGIとしても、核兵器禁止条約の制定を軌道に乗せる運動を「核兵器廃絶への民衆行動の10年」の中核に据え、全力で取り組みたい。そして、広島と長崎への原爆投下から70年となる2015年を一つの目標とし、青年を中心に、1年また1年と、「核兵器のない世界」への潮流の水嵩を大きく増していきたいと決意するものです。

ハーディング博士の重要な問題提起
 続いて、私たちが21世紀の第2の10年で重点的に取り組むべき二つ目の課題として、人権文化の建設について述べておきたい。
 人権文化は、「人権教育のための国連10年」(1995年~2004年)を機に広がった言葉で、一人一人が自発的な意志に基づいて、人権を尊重し、生命の尊厳を守り抜いていく生き方を、社会をあげて文化的な気風として根づかせることを目指すものです。
 そもそも、この国連の枠組みはNGOの強い後押しで実現したものでした。
 その根底には、人権の法制度的な保障をいかに確立し、侵害された場合にどう救済するかといった観点とともに、日頃から侵害を起こさせない土壌を育むことが欠かせないとの問題意識が脈打っていました。
 私は現在、マーチン・ルーサー・キング博士の盟友で人権運動に長年挺身されてきた歴史学者のビンセント・ハーディング博士と対談を進めています。その中で博士が提起した言葉は、人権文化の建設を展望する上で極めて重要な指針として胸に迫りました。
 ──「公民権運動」という言葉は、自分たちが携わってきた運動を表すものとしては不十分である。なぜなら、次の世代が“これだけ多くの法律が成立したのだから、もうこれで終了だ”と、運動を過去の歴史として受け止めてしまいかねないからである。そうではなく、「『民主主義を拡大するための運動』と言えば、次の世代は、自らが受け継いだもの以上に、民主主義を拡大させていく責務があると自覚できるでしょう。この責務は、ずっと継続していくのです」と(「希望の教育 平和の行進」、「第三文明」2010年8月号所収)
 法律になったから人権が尊いのではない。法律を勝ち取る闘争そのものを精神的な法源とし、その精神を継いでさらに運動を拡大する担い手が陸続と続くからこそ人権は輝く──。この考えは、生命尊厳の思想を社会に根づかせる要諦として、仏法が「法自ら弘まらず」(御書856㌻)との視座を強調してきた点とも響き合うものです。
 釈尊の言葉に「生れを問うことなかれ。行いを問え。火は実にあらゆる薪から生ずる」(中村元訳『ブッダのことば』岩波書店)とあるように、仏法では、どんな人にも尊極な生命が内在するがゆえに人間は根源的に平等であると強調する一方で、生命を輝かせるカギはあくまで自らの行動にあると説きます。その上で、「一切の生きとし生けるものは、幸福であれ、安穏であれ、安楽であれ」(同)と説くように、自他ともの幸福と社会の安穏を目指す生き方を促す教えなのです。
 ゆえにSGIでは、人間の内なる変革を重視する仏法思想に基づき、国連NGOとしての活動の柱の一つに人権教育の推進を掲げ、取り組んできました。
 93年6月にウィーンで行われた世界人権会議に先立ち、同年4月に東京の国連大学で開幕した「現代世界の人権」展はその代表的な活動で、「人権教育のための国連10年」が終了する2004年までに世界40都市を巡回し、民衆レベルでの意識啓発を進めてきました。また私も、2001年8月にダーバンで行われた国連の反人種主義・差別撤廃世界会議に寄せたメッセージなどで、国連による人権教育の枠組みの継続を訴えてきました。

NGOとの協働で活動を進める国連人権教育計画を創設

人権教育と研修に関する宣言採択へ
 それだけに、国連10年の枠組みを引き継いで2005年にスタートした「人権教育のための世界プログラム」の冒頭で人権文化の建設が謳われ、国連人権委員会に代わって2006年6月に活動を始めた人権理事会の主要任務の一つに「人権教育と学習の推進」が掲げられたことは、実に歓迎すべき出来事でした。
 以来、具体的な取り組みとして、スイスとモロッコの提案を受け、2007年9月に人権理事会で「人権教育および研修に関する国連宣言」の草案起草が決定し、今秋の国連総会での採択に向けて作業が進められています。
 私たちは人権教育の国際基準を初めて定める宣言の採択を機に、すべての国で人権文化がより自覚的で力強いものとなるよう、一致協力して前進すべきではないでしょうか。
 そこで私は、その基盤づくりのために三つの提案を行いたい。第1の提案は、人権教育を専門に推進する国連組織の整備です。
 現在、「人権教育および研修に関する国連宣言」の草案は人権理事会で起草作業が進められていますが、国連総会でより多くの国々の賛同を得て採択され、世界各地で実施されるようになるには、市民社会の一貫した後押しが欠かせません。また「人権教育のための世界プログラム」についても専門の国際機関がないため、枠組みを今後も継続し充実させる上で、NGOの積極的なサポートが必要となってきます。
 これまでこの分野では、国連NGO会議(CONGO)の下部組織としてジュネーブで活動を行ってきた「人権教育学習NGO作業部会」を中心に、国連の人権教育に関する政策に市民社会の声を反映させる挑戦が続けられてきました。
 なかでも2009年3月に作業部会が、国際的なネットワーク団体である人権教育アソシエイツと協力し、NGO365団体の連名で人権理事会に提出した共同提案への評価は高く、多くの理事会関係者の関心を集めました。
 また、作業部会の議長を務めるSGIでは、人権教育アソシエイツと共同で、人権教育における具体的な成功例を紹介し、その重要性を訴えるDVDの制作準備を進めており、年内の完成を目指しています。
 そこで私は、人権教育に取り組み、あるいは人権教育に関心のある既存のNGOネットワークや団体を中心に「人権教育のための国際評議会」を発足させ、人権理事会や人権高等弁務官事務所と連携しつつ、人権教育を推進する国際的な流れを広げ、強めていくことを呼びかけたい。
 そして、国連と市民社会が協働作業の実績を重ねていく中で、将来的な展望として「国連人権教育計画」(仮称)のような専門組織を設置することも検討していってはどうか。
 運営面や資金面でより充実した体制を確保するとともに、各国レベルで国連と政府とNGOが協議して世界プログラムや国連宣言の履行を着実に果たしていく仕組みを整えながら、人権文化が地球上のあらゆる場所で花開くよう目指すべきだと思うのです。
 第2の提案は、「青年に焦点を当てた人権教育」を推進するための地域的な連携の強化です。
 国連では、昨年8月から今年8月までを「国際ユース年」と定め、人類が直面する課題を克服する上で、世界のユース(青少年)たちが持つエネルギーと創造性と自発性を生かすことを呼びかけています。
 歴史を振り返っても、ガンジーやキング博士が20代で立ち上がったように、多くの人権闘争は青年の熱と力によって切り開かれてきたものでした。
 厳しい社会の現実を突き崩し、新しい時代を築く上で、どれほど青年が果たす役割が大きいか──。
 キング博士は晩年、青年に対する警鐘として、「個人がもはや社会にたいする真の参加者でなくなり、社会にたいする責任を感じなくなったとき、民主主義は空洞化します」(中島和子訳『良心のトランペット』みすず書房)との言葉を残しました。
 このことは人権文化の建設にも当てはまり、先にハーディング博士が力説していたように、人権の担い手が世代から世代へと受け継がれる流れを強固にすることが欠かせません。
 そこで私は、グローバル化が進む現代の情勢を踏まえ、国単位での人権教育に加えて、国家の枠を超えた地域的な連携を強化し、人的交流も含めた「青年に焦点を当てた人権教育」を拡充することを提案したい。
 現在、欧州評議会を中心に「民主的市民教育と人権教育」が推進されているヨーロッパでは、市民を「社会の中でともに生きる人」と位置付けた上で、特に行動する若い市民の育成が奨励されています。
 こうした人権教育のための連帯を、NGOなど市民社会の側が主体的にかかわっていく形で、世界の他の地域でも広げていくべきではないでしょうか。
 かつて私は1987年の提言で、「国連世界市民教育の10年」を実施し、環境・開発・平和・人権の四つのテーマを軸に、21世紀を担い立つグローバルな市民意識の涵養を進めることを呼びかけました。
 SGIではこれを具体化する一環として、95年から始まった国連による人権教育の枠組みと2000年に開始された「平和の文化」の活動を支援する一方で、他のNGOと協力し「持続可能な開発のための教育の10年」の制定を呼びかけ、2005年に同10年がスタートしてからは、その取り組みを支援する活動を活発に進めてきました。
 今後も引き続き、「平和の文化」を全世界に根付かせ、持続可能な未来を築くための活動を力強く展開するとともに、人権文化については、国境を越えた人的交流などの実体験を重視しながら“互いの共通性を見出しそれぞれの多様性を生かしゆく心”を養う機会を設けるなど、人権の担い手となる青年が陸続と育つための環境づくりを多角的に進めたいと思います。

すべての人々の尊厳が守られる社会へ 今こそ宗教は積極的な貢献を

知識にとどめず誓いへと高める
 第3の提案は、「人権文化の建設に向けた宗教間対話」の推進です。
 人権は知識として学ぶだけで、人々の心に定着するものではありません。そのことは、国連人権高等弁務官事務所がまとめた小中高校向けのガイドブックでも明確に記されています。
 「最高の能力と細心の注意を持って教えたとしても、文書や歴史だけで、人権をクラスに根づかせることはできません」
 「(人権に関する)文書の重要性を単なる知識としないためには、実生活での経験という観点から人権にアプローチし、正義、自由、平等に対する生徒自身の理解を養うような形で取り組む必要があります」(『ABC 人権を教える』、国連広報センターのホームページから)
 例えば、子どもたちが身近な場所でいじめを前にした時、いじめに加勢しないだけでなく、止める側に回ることができるのか──そうした日々の現実との格闘なくして、人権感覚が錬磨されるはずのないことは、何も学校教育に限らず、すべての人々に当てはまるものといえましょう。
 私は、その礎となるのは「胸を痛める心」のような良心であり、どんな状況に直面しても自らに恥じない「最良の自己」であろうとする信念が重要な支えになると思います。そして宗教は本来、こうしたエートス(道徳的気風)を育む人間精神の大地であらねばならないと考えてきました。
 人権がどれだけ法律で保障されても、それが多くの人にとって外在的なルールや他律的な道徳として受け止められている限りは、人々を守る大きな力とはなりえません。
 ガンジーが自己の信念について「非暴力は、意のままに脱いだり着たりする衣服のようなものではない」(森本達雄訳『わたしの非暴力1』みすず書房)と叫んだように、“ひとたびそれを破れば、もはや自分ではなくなる”との誓いにまで昇華されてこそ、人権規範は社会を変革していくための無限の力の源泉になりうるのではないでしょうか。
 もちろん、宗教だけが倫理的な基盤を提供するものでは決してなく、医師による「ヒポクラテスの誓い」=注6=のように信念に基づいて自らに責務を課す生き方が、今後も重要になることは論をまちません。
 しかし一方で、宗教学者のパウル・ティリッヒが指摘したように、宗教は精神を揺り動かす根源的な問いかけである“人間は何のために生きるのか”といった意味への志向性に深部でかかわっているだけに、より大きな貢献を果たすことができるのではないか。
 つまり、宗教的信条に基づいた“より善き生”への意味づけを通して、ティリッヒの言う「自己自身を失うことなしに自己を越えて創造するところの力」(大木英夫訳『生きる勇気』平凡社)を発現させる道を、宗教は開くべきだと思うのです。

不軽菩薩の名に込められた精神
 前述したようにSGIの運動は、一人一人が内面の変革を通じて自他ともの“より善き生”の顕現を目指すものです。人権文化の文脈に照らしていえば、人権について学び、意識を磨くだけでなく、日々の生活の中で実践し、一人一人が“人権の体現者”として社会に波動を起こす存在となってこそ、人権教育の取り組みは初めて完結するとの信念の下、草の根の活動を続けてきたのです。
 仏法の真髄である法華経では、その範となる不軽菩薩の姿が描かれています。
 不軽菩薩は、人間は誰しも尊極な生命を具えているとの信念に基づき、出会うすべての人に「我れは深く汝等を敬い、敢て軽慢せず」と唱えて礼拝する実践を貫きました。しかし、混迷を深める世相にあって、人々から悪口罵詈され、揶揄されるばかりか、時には杖で打たれたり、石を投げられたりもした。それでも、礼拝の実践を決して投げ出すことはなかった。
 やがて法華経が中国に伝わり、鳩摩羅什によって翻訳された時に、彼の名は「常に人を軽んじなかった菩薩」を意味する言葉で表現されたのです。
 この名に込められた精神はまた、私ども創価学会が創立以来80年にわたって実践してきた人権闘争の魂にほかなりません。
 草創期から“貧乏人と病人の集まり”と時に揶揄されながらも、むしろそれを最大の誉れとし、悩み苦しむ人のために尽くすことが仏法の根本精神であるとの宗教的信条を燃やす中で、地道な対話で徹して一人一人を励まし勇気づける行動を続けてきました。
 法華経ではほかにも、普賢菩薩、薬王菩薩、妙音菩薩、観世音菩薩など、さまざまな菩薩が自らの特性を生かして人々に尽くしていく姿が説かれています。
 私どもはその精神を現代社会に敷衍して、誰もが自分の特性を最大に生かしながら「人権」と「人道」の担い手になることができると訴え、ともに成長を期してきたのです。
 国連では本年、人権分野に関して、“差別をなくすために声をあげ、行動する新しい世代をいかに鼓舞するか”に焦点を当てています。まずは、このテーマを軸に、宗教界がどのような貢献をなしうるかについて討議を進めていってはどうでしょうか。
 かつて私はハーバード大学で行った講演(1993年9月、「21世紀文明と大乗仏教」)で、「はたして宗教をもつことが人間を強くするのか弱くするのか、善くするのか悪くするのか、賢くするのか愚かにするのか」が厳しく問われる時代に入っていると、自戒を込めての警鐘を鳴らしたことがあります。
 さまざまな宗教が人権文化の建設という共通の目標に立って対話を重ね、互いの原点と歴史を見つめながら、人権文化の建設のために行動する人々をいかに輩出していくかを良い意味で競い合う──牧口常三郎初代会長が提唱していた「人道的競争」に取り組むことを呼びかけたいのです。

歴史の正道《せいどう》を歩む喜びこそ民衆パワーを生み出す源泉

時代を画する挑戦を成就させるカギ
 以上、「核兵器の禁止と廃絶」と「人権文化の建設」を中心に論じてきましたが、私たち民衆一人一人が自らの選択に基づいて起こす行動が、人類史を画する壮大な挑戦に直結しているとの誇りを忘れてはならないと思います。
 この点に関して思い起こされるのは、貧困の根絶のために行動を続けるコロンビア大学地球研究所のジェフリー・サックス所長が、過去2世紀の歴史を振り返って奴隷制と植民地主義とアパルトヘイト(人種隔離政策)を終焉させた挑戦が成功した要因を分析して述べた次の言葉でした。
 「過去にも人間の自由と幸福の拡大のために貢献した世代はあった。そんなチャレンジを可能にしたのは、努力、話しあい、忍耐、そして歴史の正道を歩んでいるという強い喜びである」(鈴木主税・野中邦子訳『貧困の終焉』早川書房)と。
 なかでも私が重要と思うのは、最後に挙げられた「歴史の正道を歩んでいるという強い喜び」です。
 自分たちの日々の行動や対話が世界を正しい方向へ向かわせているとの確信と喜びこそが、未曾有のパワーを民衆自身の中から生み出す源泉となるものにほかならないからです。
 私どもSGIは、「新しき時代創造の主役は民衆」との信念と「人間精神の変革が生み出す力は無限」との確信をいよいよ燃やし、「平和と共生の地球社会」の建設に向けて志を同じくする人々との連帯を幾重にも広げながら、前進していきたいと思います。

語句の解説

注1 消えた高齢者
 東京・足立区で昨年7月、戸籍上では111歳で生存しているとされていた男性の遺体が発見されたが、その後の捜査で、男性がすでに30年以上前に死亡していたことが判明した。この事件を機に、全国の自治体が高齢者の安否確認を進めた結果、住民票や戸籍が残っていてもすでに死亡していたり、行方不明となっているケースが各地で多数あることが明らかとなり、大きな社会問題となった。

注2 毒矢の譬え
 観念的な議論にふける弟子を戒めるために、釈尊が説いた譬え。“毒矢で射られて苦しんでいる人がいたが、だれが矢を射たのか、矢はどんな材質だったのかが判明しないうちは治療してはならないと本人がこだわったために、そのうちに亡くなってしまった”との譬えを通し、何よりもまず人々の苦しみを取り除く現実の行動に仏教の本義があることを諭した。

注3 ゼノンのパラドックス
 弁証法の祖と呼ばれるゼノンは、飛んでいる矢も瞬間瞬間の姿を捉えれば、それぞれ空間の一定の位置を占め、静止しているとの逆説を説いた。また、俊足を誇るアキレスと競走するにあたって、前方でスタートを切ることを望んだ亀は、アキレスが亀が最初にいた出発点に着く頃にはさらに先に進み、またそこに着いた時にはその分だけ先に進んでいるというように、アキレスには亀に対し無限に続く遅れがあるために永遠に追いつけないとの詭弁を展開した。

注4 ミレニアム開発目標
 2000年9月に採択された「国連ミレニアム宣言」などをもとにまとめられた国際社会が達成すべき目標。2015年を目標期限とし、極度の貧困と飢餓の撲滅、初等教育の完全普及、ジェンダーの平等と女性の地位向上、乳幼児死亡率の削減、妊産婦の健康改善など、8分野18項目の達成が目指されている。

注5 アルキメデスの支点
 「浮力の原理」の発見などで有名な古代ギリシャの科学者で数学者のアルキメデスは、「てこの原理」についても数学的な証明を行った。その原理を彼が象徴的に言い表したものとして、“われに支点を与えよ。しからば地球を動かしてみせよう”との言葉が伝え残されている。そこから転じて、物事を大きく動かすための急所を指す。

注6 ヒポクラテスの誓い
 古代ギリシャの医師の組合が提唱した倫理規範。医学者ヒポクラテスの見解に基づくものとされ、新しく加入したメンバーは必ず読み、その規範のままに行動することを誓った。その後、近代から現代にいたるまで欧米諸国を中心に医学教育でも採用される中で、文章の改定を経てさまざまな内容のものが存在するようになったが、その底流に流れる精神は今も受け継がれている。
2011-01-28 : 提言/寄稿/インタビュー等 :
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インド広布50周年記念大会へのメッセージ

インド広布50周年記念大会へのメッセージ                    (2011.1.16)

 仏法西還の未来記を創価学会が実現! 池田SGI(創価学会インタナショナル)会長のインド初訪問50周年の意義を刻む「世界平和の碑」が、首都ニューデリー近郊の創価菩提樹園に設置された。除幕式が16日(現地時間)、同園内で盛大に開催され、インド全土からの代表1000人をはじめ、大場SGI理事長、浅野SGI女性部長らが祝福した。引き続き、「インド広布50周年記念大会」が同園内の創価菩提樹講堂で行われ、SGI会長が尊き地涌の同志に万感のメッセージを贈った。

仏法の慈悲の光を全世界へ
恩師の遺命の実現に生き抜いた50年
道は開ける! 誓願の弟子が立てば


 一、心から敬愛するインド創価学会の同志の皆様方!
 栄光のインド広布50周年を祝賀する大会、まことにおめでとうございます。
 私と妻の心も、今、創価菩提樹園にあります。晴れやかに集われた、使命も深き「地涌の菩薩」の皆様一人一人に届けと、題目を送りつつ、祝福のメッセージを贈らせていただきます。
 一、法華経の寿量品には、「我此土安穏 天人常充満 園林諸堂閣 種種宝荘厳 宝樹多花菓 衆生所遊楽 諸天撃天鼓 常作衆妓楽(我が此の土は安穏にして 天人は常に充満せり 園林諸《もろもろ》の堂閣は 種種の宝もて荘厳し 宝樹は花菓多くして 衆生の遊楽する所なり 諸天は天鼓を撃って 常に衆《もろもろ》の妓楽を作し)」と記されております。
 まさに、その通りの姿が、インド創価学会の皆様方の会座であります。
 釈尊も、また十大弟子の方々も、そして、インドの幾多の先哲の方々も、どれほど喜んでおられることでありましょうか(大拍手)。

「いざ往かん 月氏の果まで」
 一、日蓮大聖人は、「月は西より東に向へり月氏の仏法の東へ流るべき相なり、日は東より出づ日本の仏法の月氏へかへるべき瑞なり」(御書588㌻)と、仏法西還を御予言されました。
 この未来記の実現、すなわち、貴国インドを原点とする偉大な仏法の光を、再びインドに、そして全世界に赫々と輝かせゆくことこそ、恩師・戸田先生の決意であり、恩師が私に託された遺命でありました。
 私は、会長に就任してまもない1961年(昭和36年)1月31日、「いざ往かん 月氏の果まで 妙法を 拡むる旅に 心勇みて」との恩師の歌のままに、インドの地を初めて訪れ、東洋広布への本格的な行動を開始いたしました。
 一、今、わがインドの天地からは、縁も深きわが同志の5万の友が、久遠の誓いのままに、勇んで躍り出て、尊き仏法対話と信頼の輪を広げてくださっております。日夜、友の幸福のため、社会の発展のために、世界広宣流布の前進へ、踊躍《ゆやく》歓喜して邁進される皆様方のお姿を、諸天も、仏菩薩も「善哉《よきかな》、善哉」と最大に讃えておられることは間違いありません(大拍手)。

先駆のインド
 一、本日、除幕された「世界平和の碑」は、まさに、50年にわたる「アジアの民の幸福」を目指し、ともに戦ってきた「創価の師弟」の広布誓願の結晶であります。そして本日より、わがインド創価学会が、私とともに新たな「青年学会」「青年SGI(創価学会インタナショナル)」を建設しゆく、全世界の先駆を切りゆく象徴なのであります(大拍手)。
 「諸法実相抄」には、「日蓮一人はじめは南無妙法蓮華経と唱へしが、二人・三人・百人と次第に唱へつたふるなり、未来も又しかるべし、是あに地涌の義に非ずや」(同1360㌻)と仰せであります。
 この「地涌の義」を、どこよりも力強く証明しゆく誉れの使命と宿縁が、インドにはあります。
 どうか“先駆のインド”を合言葉に、創立100周年へ、世界をリードしゆく「人材・躍進」の大行進を、明るく朗らかに頼みます(大拍手)。

団結を! そこに自身の成長が
誠実を! そこに人材の拡大が


忍耐強く前へ!
 一、「御義口伝」には、「忍辱は寂光土なり此の忍辱の心を釈迦牟尼仏と云えり」(同771㌻)と仰せであります。
 現実は、さまざまな試練の連続であります。しかし、いかなる苦難があっても、「苦をば苦とさとり楽をば楽とひらき苦楽ともに思い合せて」(同1143㌻)、妙法を唱え抜きながら、忍耐強く、一歩また一歩、前進し続けていく中にこそ、仏の智慧と仏の力が光り輝いていくのであります。
 組織においても、性格的に合わなかったり、感情的な行き違いを感じたりする場合があるかもしれません。
 しかし、やりにくい中で、心を合わせ、団結していくからこそ、仏道修行です。そこにこそ、互いに人間革命して、境涯を大きく開き、共々に功徳を受ける道があるのであります。
 大聖人は、「過去の不軽菩薩は、『一切の衆生には仏性がある。法華経を持つならば必ず成仏できる。その衆生を軽んずることは、仏を軽んずることになるのである』と、一切の衆生に対して礼拝の行を立てられたのである」(同1382㌻、通解)、さらに「こうした経文の教えに照らして考えてみれば、法華経を持つ者を、互いにそしってはならないのである。その理由は、法華経を持つ者は必ず皆仏であり、仏をそしれば罪となるからである」(同㌻、通解)と仰せであります。
 どうか、インドの皆様方は、御聖訓通りの模範の「異体同心」の団結で、励まし合いながら進んでいってください。
 なかんずく、広布のリーダーは、まず自らが一人立ち、苦労を借しまず、道を切り開いていくことです。
 そして「自他彼此の心なく水魚の思を成して」(同1337㌻)、誠実に同志に尽くし、大勢の後輩の道を開いていってください。

共感の波を 歓喜の渦を
 一、ともあれ、人材光るインド広宣流布の大発展は、世界の希望であります。
 わがインドの勝利こそ、世界のSGIの勝利であり、創価の師弟の勝利なのであります(大拍手)。
 聡明な皆様方は、地域社会にSGIの理解と共感の輪を一段と大きく広げながら、世界一、仲の良い、世界一、青年を大切にする、そして世界一、歓喜に満ち満ちたインド創価学会を築き上げていってください。
 私は、大切な大切なインドの同志の皆様とご家族が、いつまでも健康で、そしてご長寿で活躍されますよう、妻とともに祈っております。
 結びに、インドの同志に幸福あれ! インド創価学会に栄光あれ! 愛するインド共和国に発展あれ! と心より祈念して、お祝いのメッセージといたします。お元気で!(大拍手)
2011-01-22 : スピーチ・メッセージ等 :
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御書と青年 17/18 冥の照覧の誉れ

池田名誉会長が語る青春勝利の指針
御書と青年 17/18 冥の照覧の誉れ  (2010.12.28/29付 聖教新聞)

振る舞いが心を変える
誠実・真剣・率先の人たれ


棚野男子部長 池田先生、『新・人間革命』の「厳護」の章の連載、本当にありがとうございます。
 先生に教えていただいた通りに、青年部は創価学会を厳護し、新たな広宣流布の拡大を成し遂げてまいります。
池田名誉会長 頼むよ。創価の未来は、すべて今の君たちにかかっています。その根幹は不屈の信心であり、御書です。
 戸田先生のもとで、私は、日々、御書を一文一文、心肝に染める思いで拝しました。
 「つるぎなんども・すすまざる人のためには用る事なし、法華経の剣は信心のけなげなる人こそ用る事なれ鬼に・かなぼうたるべし」(御書1124㌻)
 これは、当時の日記に書き留めた御金言の一節です。この仰せ通りに勇敢に進んできたから学会は勝ったのです。
 ともあれ、世界広宣流布への活動ほど、晴れがましい、充実と栄光の青春の大舞台はありません。思う存分、戦って歴史を残してもらいたい。
熊沢女子部長 はい。先月の教学部任用試験でも、「行学の二道」に励む新しい人材が続々と育ちました。この下半期、全国で仏法対話の波が巻き起こり、多くの新入会者が誕生しています。
 私たちは、池田華陽会としての最高の誇りを胸に、ますます朗らかに「太陽の心」を燃やして前進します。

学会の教育力に注目
名誉会長 うれしいね。世界中から毎日のように、新たな地涌の友が躍り出ている報告が届きます。青年部は皆、本当に立派に成長している。「時」が来ているのです。
棚野 ありがとうございます。毎回の青年部幹部会の衛星中継にも、メンバーと一緒に多数の友人が参加しています。学会の会館に来るのは初めてという方も多くいます。
 最初は少しとまどったという人も(笑い)、創価班や牙城会、また白蓮グループなどのさわやかな姿、温かな笑顔に接して安心するそうです。「学会って明るいね」「こんなに青年がたくさん集まっているとは思わなかった」等々、感嘆の声が聞かれます。
名誉会長 学会の実像を見せることは、百万言の説明にも勝ります。
 御聖訓には、「現在に眼前の証拠あらんずる人・此の経を説かん時は信ずる人もありやせん」(同1045㌻)と仰せです。
 仏法は抽象論でもなければ観念でもない。「現証」です。「人の振る舞い」です。
 皆のために率先して行動する丈夫の英姿、皆の心に清々しい希望の響きを贈る乙女の声……、一つ一つが正しい信心の実証であり、尊き仏の如き振る舞いです。
 また実際に、そうした青年リーダーを無数に育てている事実に、学会の「教育力」の真価を見る識者も多い。
熊沢 はい。北海道・函館大学の河村博旨名誉教授も、道内での学会の行事に訪れた際、清潔感あふれる姿で、礼儀正しく行動する役員の姿に深く感動され、声を寄せてくださいました。
 「(大学で教える立場としては)どうすれば青年たちをこのように育てられるのかを知りたいとさえ感じた」
 「現在の日本において、三代会長の師弟関係のなかで築かれた、平和勢力たる創価学会こそ、青年たちに気概を持たせることができる数少ない宗教団体なのではないかと私は考えます」と。
 不況と厳しい寒さのなか、吹雪に胸張る北海道の友にも、大きな励ましです。
名誉会長 心ある指導者の方々は、未来の柱たる青年をどう育てるかを真剣に考え、手を打っておられます。それだけに、社会に貢献する人材群を送り出している創価の民衆教育、人間教育の意義を深く理解されているのです。
 来館者を迎える役員の人たちは、学会の“顔”ともいえる存在です。企業の経営者や教育者など、苦労を重ねてこられた方が見れば、本物かどうかはすぐわかります。君たち青年部の応対一つ、あいさつからも、多くを察していかれるのです。

御聖訓 陰徳あれば陽報あり
労苦の土台に人生の栄冠は輝く
学会厳護の献身に心から感謝


法華経の文の如く
棚野 はい。先月、中部のある婦人部の友人の方が、会館での会合に参加されました。途中、体調を崩されてしまったそうなのですが、その際の牙城会や創価班、白樺の方などの対応が親切で、非常に素晴らしく、心から感動されたそうです。そのことがきっかけとなって、今月、入会されたとうかがいました。
熊沢 若い世代の友人たちは、会合や会館の運営、警備などが、「ボランティア」で行われていることを知ると、非常に驚き、感動します。
名誉会長 不景気な時代だし、「無縁社会」といわれるほど人間のつながりも希薄になってきた。自分のことだけを考えるので精いっぱいの人も少なくない。
 そうした中で、自分も大変なのに、人のため、地域のため、広宣流布のために、わが身を惜しまず献身する。これほど尊い仏事(仏の仕事)はありません。
 「御義口伝」には、「釈尊八箇年の法華経を八字に留めて末代の衆生に譲り給うなり八字とは当起遠迎当如敬仏の文なり」(御書781㌻)と記されています。
棚野 法華経の28品の要諦は、この「当起遠迎当如敬仏(当に起って遠く迎うべきこと、当に仏を敬うが如くすべし)」の八文字に収まっているとの仰せですね。
名誉会長 寒風吹きすさぶ日もある。太陽が照りつける日もある。どしゃぶりの雨の日もある。大雪の日もあるでしょう。
 しかし、どんな時も、わが創価班、牙城会、そして白蓮グループなど役員の皆さんは、この法華経の経文の如く、仏様を迎える気持ちで、会館に集う同志を迎えてくれている。最敬礼して仏に仕える心で、任務についてくれている。
 これほど尊貴なことはありません。まさしく「当起遠迎当如敬仏」との「最上第一の相伝」(御書781㌻)を身に体しての振る舞いなのです。皆さんは、如来の使いの方々に尽くしている。広宣流布を唯一進める和合僧団である学会を、厳然と護ってくれている。
 大聖人は「末代の法華経の行者を讃え、供養する功徳は、かの三業相応(『身に行うこと』『口に述べること』『心に思うこと』が一致していること)の信心で一劫の間、生身の仏を供養することよりも百千万億倍勝れていると仏典に説かれている」(同1044㌻、通解)と仰せになられました。
 皆さんが同志に尽くしゆく功徳は無量無辺であり、「冥の照覧」は絶対に間違いないのです。
 私はこの場をお借りして、広布の法城を護り、支えてくれている創価班、牙城会、白蓮グループの皆さんをはじめ、白樺グループ、各方面・県の設営グループ、白鳳会、創翔会、デザイングループ、創価桜城会、清輝会、学生部の誓城会・牙城会、また、会館守る会、サテライトグループの方々など、すべての陰の功労者に心からの御礼を申し上げたい。
 私は皆さんの健康と無事安穏を心から祈っています。
棚野 ありがとうございます。皆、「冥の照覧」の誉れを胸に、使命を果たし抜いてまいります。

識者が期待
学会は現在の日本で青年に気概を持たせられる数少ない団体

全部、自身の功徳に
名誉会長 御聖訓には、こう仰せです。
 「人の身には、同生と同名という2人の使いを、天は、その人が生まれた時からつけておられる。この2人の神は影が身に随うように、寸時も離れず、その人の大罪・小罪・大功徳・小功徳を少しもおとさず、かわるがわる天に昇って報告していると、仏は説いておられます」(同1115㌻、通解)
 誰も知らないところで、広宣流布のために、祈り、尽くしている。心を砕いている。
 その尊き行動を、全宇宙の仏天は厳然と見ているのです。
 反対に、「どうせわからないだろう」とさぼっても、それもしっかりと見られている(笑い)。
 因果の理法は峻厳です。
 自分が、どう祈り、どう戦っているか、どう行動してきたかは、自身の生命に厳然と刻み残されている。
 どこまでも真面目に、誠実に信心を貫いた人が、絶対に最後は勝つ。必ず無量の福運を積んでいけるのです。これは60年以上、妙法に生き抜いてきた私の結論です。
 大聖人は「陰徳あれば陽報あり」(同1178㌻)、そして、「かくれての信あれば・あらはれての徳あるなり」(同1527㌻)とも記されています。
熊沢 池田先生と奥様のお姿が、その何よりの証明だと思います。
名誉会長 妙法のために行動したことは、全部、仏因となり、すべて自分の仏性を開く働きとなる。自身の仏性が現れるからこそ、全宇宙の諸天善神が働くのです。必ず「陽報」があり、「あらはれての徳」があるのです。
 仏法は遠いところにあるのではない。広宣流布のリズムの中で行動することは、全部、自分自身の功徳になるのです。また自分だけでなく、一家一族が、生々世々、大功徳に包まれていく因となる。
 誰が見ていようといまいと、妙法の照覧だけは間違いありません。
 今、私がてい談を行っているハービー・ハンコックさんも、学会行事の際に裏方の役員などを喜んで務めてくれました。その姿を見た報道関係者は、世界的な音楽家が一役員として献身する行動に衝撃を受けたといいます。
棚野 それは池田先生が、先頭に立って示してくださった道です。先生の、若き日の日記には記されています。
 「いかなる総会にも、いかなる大事な闘争にも、誰人にも認められず……誰人の感謝も欲せず、いつも、ただ陰にて全魂を傾け、指揮と、楔を打つ自己──その宿命に、微笑を浮かぶ。妙法の照覧を、私は堅く信ずるようになれた」

御聖訓 竹の節を一つ破れば他も破れる

ただ広布のために
名誉会長 誰からもほめられない。反対に悪口罵詈さえされる。それでも、莞爾として己が使命を果たし抜く。
 ただ師匠にお応えしたい。ただ広宣流布のために──私の青春はそれだけだった。
 大聖人は仰せです。
 「一切の人はにくまばにくめ、釈迦仏・多宝仏・十方の諸仏・乃至梵王・帝釈・日月等にだにも・ふびんと・をもはれまいらせなば・なにかくるしかるべき、法華経にだにも・ほめられたてまつりなば・なにか・くるしかるべき」(同1135㌻)
 戸田先生のもとで、私は、あらゆる会合の企画や運営にも全力を尽くしました。
 役員の手配、雨天の際の対応、車両や列車など輸送手段の確保……集ってくる同志が最高に歓喜して、決意をして帰れるように、常に万全を尽くしました。
 真剣に祈りました。億劫の辛労を尽くしました。妻も同じ心、同じ祈りです。
 だから私は今、学会を陰で支えてくださる青年部をはじめ、多くの方々の心が、本当によくわかる。皆さんが何を悩み、何に苦労しているのか、手に取るようにわかります。
 それゆえに私は徹して、陰の人を励ましてきました。皆もそれに応えてくれた。だからこそ、学会はここまで発展した。世界的な創価学会になったのです。
熊沢 先生と奥様のお心を私たちは、そのまま、まっすぐに受け継いでまいります。
名誉会長 戸田先生は言われていた。
 「やりにくいところで、うんと苦労してこそ、人間は偉大な人になれるのだ」と。
 苦闘が人間を磨く。労苦の土台の上にこそ、絢爛たる人生勝利の大輪の花が咲き薫っていくのです。
熊沢 白蓮グループの友も、各地で真剣に仏法対話に取り組んでいます。
 岐阜のあるメンバーはこの秋、勇気を出して大学の友人を学会の会合に誘いました。
 その友人は平和のために行動したいとの思いを持っていたそうですが、以前、別の友達から「なに真面目ぶってるの」と言われ、何も行動できずにいたそうです。
 しかし、会合に参加して学会の平和・文化運動に感動。さらに白蓮グループの総会などにも一緒に行って、「私も、人のために尽くせる生き方がしたい」と、11・12「女子部の日」に晴れて入会をしたそうです。
 この弘教が大きな波動となり、多くのメンバーが立ち上がりました。
名誉会長 偉いね。大事なのは「一人」です。一人が立てば、皆が立ち上がる。
 御書に「竹の節を一つ破ぬれば余の節亦破るるが如し」(1046㌻)と仰せです。
 人ではない。自分です。自分が勇気を出して壁を破ることだ。そこから、広宣流布の緑野は大きく開けるのです。
棚野 男子部でも、創価班、牙城会などの大学校生が先駆を切って弘教・拡大に挑戦しています。
 大阪のある男子部員は自身を高めたいと、本年、牙城会大学校に入りました。
 大不況の波を受け、自身の会社の経営も悪化し、大変な状況でした。「だからこそ」と折伏に挑戦し、石川県まで対話に走り、友人への弘教を実らせることができました。
 池田先生のご指導通り「誠実」をモットーに仕事に取り組む中、業績は大幅に向上。今では忙しすぎて困るほど(笑い)、全国を飛び回れるようになりました。

「後輩のために!」 それが創価の伝統
新しき人材の陣列を

先駆の師子と光れ

訓練が人間をつくる
名誉会長 青年が青年を呼ぶ。若き創造と開拓の生命で一緒に前進を開始する。ここに人間主義の時代を切り開く、広宣流布の新たな連帯が築かれます。
 弘教に勝る喜びはない。友の幸福を願い、真剣に祈り、語りきった福徳は永遠です。
 こちらが熱心に対話をしても、相手が信心しない場合も当然あるでしょう。それでもいいんです。すでに、仏になる種は、その心の大地に深く植えられているからです。
 大事なのは、勇気を出して、真心で語りきることです。そうすれば、何よりも自分自身が功徳を得、境涯を大きく開き、より確信を深めることができる。
 若き時代に、折伏をやり抜いた人は強い。自身の胸中に金剛不壊の勝利の土台を築くことができる。今は、その最高のチャンスなのです。
棚野 男子部のリーダーの多くは、創価班や牙城会の大学校時代に信心の原点を築いています。皆、口々に語るのは「先輩が実によく面倒を見てくれた」ということです。
 一緒に題目をあげてくれたり、悩みを聞いて励ましてくれたり……あまりの情熱に「少し、しつこいなぁ」と思う場合もあります(笑い)。
 しかし、時がたつほど、そのありがたさが身にしみてきます。
名誉会長 大学校生も大変だろうけど(笑い)、励ましてくれる先輩方も本当に偉い。
 皆、仕事も忙しい。自分の悩みとも格闘している。そうした中で、時間をこじあけるようにして、一人一人に会い、激励をしてくれている。
 「後輩のためなら」と労苦を惜しまぬ先輩がいるから、学会の人材の流れは盤石なのです。広宣流布は断絶することなく、未来へと発展していくことができるのです。
熊沢 学会の講演会に講師として招かれた識者は、深い信念を持ち、生き生きと行動する青年部の姿に、「ここに創価学会の大きな存在意義を感じます」と語っておられました。学会の青年部の役員が、一流企業の社員教育にも匹敵する訓練を受けていることに感銘したそうです。
名誉会長 「訓練の力ほど偉大なものはなく、その効果ほど強力なものはない」
 これは、イタリア・ルネサンスの思想家レオナルド・ブルーニの言葉です。
 若き日に訓練を受けきった生命は、時とともに、新しい歴史を創り開く力を発揮していけるものだ。 
 御聖訓には「根ふかければ枝さかへ源遠ければ流長し」(御書1180㌻)と仰せです。人生においても「根」を張り、「源」を豊かにすることが大事です。それが青春の鍛えなのです。
 学会は、よりよい社会の建設のために、貢献する人間を育てています。ありとあらゆる分野に、深き生命尊厳の哲学を身に体した人材を送り出しているのです。
棚野 私たちも、日々の実践のなかで、皆で励まし合い、錬磨し合っていきます。
 とくに年末年始は、各会館でも、火災などの事故に対して、いっそう注意をするように心掛けてまいります。
名誉会長 よろしくお願いします。事故は断じて起こしてはいけない。皆が不幸になってしまうからです。
 御書には、「神の護ると申すも人の心つよきによるとみえて候」(同1186㌻)と仰せです。「心にふかき・えうじん(用心)あるべし」(同1176㌻)とも戒めておられる。
 絶対に、油断は大敵です。
 私は、この一念で指揮を執り続けてきました。皆も、「自分が学会を護る」との責任感に立って、強盛なる祈りと細心の注意を絶対に忘れないでもらいたい。

時代の変化に智慧と団結で勝て

挑戦は青年の特権
熊沢 今、一般に少子高齢化が進み、青年世代の人が少ない地域が増えています。学会でも、青年部だけの会館任務や行事運営が難しくなっている場合があります。
 こうした中で、どのようなことを心掛けていけばいいでしょうか。
名誉会長 大切な問題です。基本は地域の実情に即して、よく考えていくことです。
 新しい会館も増えているし、会合も多様化している。「昔はこうだった」という考えが通用しないことも多い。
 大事なのは、同志を思いやる「慈悲」から発する「智慧」です。
 皆で「団結」して「工夫」していくことです。
 壮年部や婦人部の方ともよく相談をしながら、「どうすれば万全の運営ができるか」「どうすれば役員の負担が過度にならないか」を考えていっていただきたい。
 今は、ありがたいことに、壮年部の王城会や婦人部の香城会の方々も、着任してくださっている。青年部も、尊き百戦錬磨の先輩方に学び、智慧を出し合いながら、地域の宝城を厳然と護り抜いてほしいのです。
棚野 偉大な「厳護」の魂を受け継ぎながら、広布を拡大し、新時代を必ず勝ち開いてまいります。
名誉会長 牧口先生は「羊千匹より獅子一匹」と叫ばれた。学会青年部は、1人が万軍に勝る勇者の集いです。
 「挑戦」は青年の特権です。「現状を維持しよう」とか「失敗をしないようにしよう」といった「守りの心」に陥ってはいけない。
 どんどん、勇敢に打って出るのです。青年が少なかったら、祈って増やすのです。人材が足りなかったら、 1人を一騎当千に育てればいい。
 学会は、何もないところから、ここまで広げてきた。まさに命懸けの戦いでした。
 大聖人は宣言されている。
 「日蓮が法華経を信じ始めしは日本国には一滞・一微塵のごとし、法華経を二人・三人・十人・百千万億人・唱え伝うるほどならば妙覚の須弥山ともなり大涅槃の大海ともなるべし仏になる道は此れよりほかに又もとむる事なかれ」(同288㌻)
 これが、永遠に変わらざる広宣流布の方程式です。
 広布の未来も、人類の未来も、すべて君たちにかかっている。若き諸君が地涌の底力を発揮して、新しい「創価青年学会」を築いていくのです。
 「人材・躍進の年」は、その新たなスタートの重要な一年です。壮年・婦人の皆さんも、全力で青年部の活躍を応援してくれています。
 青年らしく、学会っ子らしく、生き生きと、挑戦してもらいたい。
棚野 はい。明年は、日顕宗と決別し、創価ルネサンスの大道を堂々と歩んで20年の節目です。一切に完全勝利するためにもまず、新年勤行会から開幕ダッシュをしていきます。また大躍進の決意を込めて、はつらつと、会館で同志の皆様をお迎えします。

今から! ここから!
熊沢 今、白蓮グループも、アメリカやブラジル、韓国や台湾など、全世界に広がっています。世界中の会館で、池田華陽会のメンバーが、訪れる方々を、最高の笑顔と真心で迎えています。
名誉会長 すごい時代になったね。全世界で地涌の若人が、地域のため、社会のため、人類の幸福と平和のため献身している。
 大聖人のお喜びはいかばかりかと、私の胸は躍ります。
 創立100周年への大闘争の幕は開かれました。いよいよ「今から」「ここから」「自分から」、新たな広布の山を登りゆくスタートです。
 2030年は、世界広布の70周年でもある。どれほど壮大にして絢爛たる妙法流布の時代を迎えることか。
 「広宣流布の時一閻浮提の一切衆生・法華経の行者となるべきを涌出とは云うなり」(同834㌻)と仰せです。人類は、いよいよ妙法の英知を待ち望んでいます。
 新しい一年も私と同じ信心に立って、「陰徳陽報」という、着実にして偉大な一歩また一歩を踏み出してもらいたい。そして、踊躍歓喜して、世界の青年と手を携えながら、人々が目を見張る勝利、勝利の歴史を築きゆくことを、私は祈っています。


ブルーニの言葉は、池上俊一監修『原典 イタリア・ルネサンス人文主義』名古屋大学出版会から。
2011-01-11 : 御書と青年 :
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新時代第46回本部幹部会へのメッセージ

新時代第46回本部幹部会へのメッセージ
         (2011.1.8 創価国際友好会館)

学び 語り 祈り 動き 挑め!

「活動こそが幸福!」ゲーテ
戸田先生
信行学に励み 皆が大功徳を
強き生命力で歴史を開け


 一、はじける勢いで、世界広宣流布の未来を開きゆく、第1回の青年部幹部会、誠におめでとう!
 かくも偉大な哲学と情熱と団結が光る青春のスクラムが、いずこにあるでしょうか。学会の前途は洋々と明るい。
 新しい成人の皆さん、おめでとう!
 創立100周年に、君たちは40歳。これからの時代の晴れの主役です。
 君たちの桜の木を植樹したドイツのヴィラ・ザクセン総合文化センターは、大文豪ゲーテが「ここから見るライン川が一番美しい」と讃えた天地です。
 きょうの門出に、私はゲーテの叫びを贈りたい。それは「活動こそが幸福」という言葉です。〈石井不二雄訳「ドイツ避難民閑談集」、『ゲーテ全集6』所収、潮出版社〉
 なかんずく広宣流布のため、学び、語り、祈り、戦い、動き、果敢に勝負に挑んでいく。この学会活動こそ、自分が幸福になるだけではない。父母も、家族も、友人も、縁する人々を、皆、朗らかに幸福へ、永遠の幸福へとリードしていける、最も確かな正義の大道なのであります。
 日蓮大聖人は、仰せになられました。
 「日輪・東方の空に出でさせ給へば南浮の空・皆明かなり大光を備へ給へる故なり」(御書883㌻) ──太陽が東方に昇ったならば、南閻浮提(世界)の空は皆、明るくなる。太陽が大いなる光を備えているからである──と言われるのであります。
 妙法は、全生命を照らす太陽の光であります。どんなに時代の闇が深くとも、ひとたび地涌の菩薩が躍り出て題目を唱え広めゆくならば、わが地域も国土も、必ず大いなる希望の光で照らしていける。
 きょうは、その誉れも高き平和の太陽であられる海外の指導者の方々が駆けつけてくださいました。
 ようこそ! ありがとう!
 一番寒い時に、よくぞ来てくださった。
 一番頑健に、生命の威光勢力が増しゆく大福運は、絶対に間違いありません。本当に、ご苦労さまです。

恩師の大いなる夢を実現
「聖教を世界中の人に」
無冠の友 通信員 新聞長など皆様に感謝


試練を越えゆく勇気を社会へ!
 一、今年は、聖教新間の創刊60周年。
 「日本中、世界中の人に聖教新聞を読ませたい」との恩師の大いなる夢が皆さんの力で実現しています。 昨年10月、集中豪雨に見舞われた奄美大島では、無冠の友の方々が、自らの家が被災しているにもかかわらず、その翌日から、友のためにと険難の道を越えて、聖教を配達してくださいました。     
 また、わが同志が被災地の救援と復興に全力で献身する際、水浸しになった家の中の泥水を吸収するために、聖教の古新聞が大いに活用された。その折、聖教の見出しや記事を目にした地域の方々から、「聖教の言葉は弾んでいる。元気をもらった」等の声が寄せられたと、うかがいました。
 聖教新聞は、この励ましという活字文化の真髄の力を一段と発揮し、いかなる試練も勝ち越えゆく勇気と、価値創造の智慧を、社会に世界に広げていきたい。
 気高き無冠の友、通信員、さらに新聞長をはじめ、お世話になっている皆様方、いつも、本当にありがとうございます。今年も、よろしくお願いします。
 私も、さらに書き綴ってまいります。

毎日が出発!
 一、戸田先生はよく言われました。
 「妙法の功徳は絶大である。率先して信行学に励んで、あの人があれほど立派になったかと言われるようになってほしい」「一人も残らず功徳を受け、その大歓喜をもって、人類の幸福のために尽くしてもらいたい。これが私の願いである」と。
 仏法は「煩悩即菩提」であり、「変毒為薬」です。題目の師子吼で、悩みも病魔も全部、吹き飛ばしていくのです。大事な節目のこの一年、わが創価家族が皆、大きく諸天善神を動かし、人生の勝利の実証を断固と示しゆかれることを、私と妻も真剣に祈り、題目を送り続けます。
 どうか健康第一で、風邪などひかれませんように!
 「毎日が元旦」の決心で、久遠元初の旭日が昇りゆくごとく、生命力を満々と漲らせながら、いよいよ喜び勇んで、勝ち光っていこうではありませんか!(大拍手)
2011-01-09 : スピーチ・メッセージ等 :
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