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全国代表幹部会

全国代表幹部会での名誉会長のスピーチ     (2009.9.25 創価文化会館)

信頼と友情こそ私の誇り
世界の識者 7000人と対話


青年よ次の学会を頼む
戸田先生
「新しき舞台で大活躍を!」


 一、全国代表幹部会の開催、ご苦労さま!(大拍手)
 先日、学生部、女子学生部の新体制が発表された。おめでとう!(大拍手)
 〈新任の男女学生部長、書記長などが紹介された〉
 皆さんの舞台は、学会の中だけではない。社会である。全世界である。
 皆さんは、どこに行っても、どんな人に会っても、あの人は立派だな、素晴らしいなと言われるような「知性」と「人格」のリーダーになっていただきたい。
 それが英知の学生部の使命である。

体を大事に!
 一、男女青年部も新出発、おめでとう!(大拍手)
 〈ここで男女青年部の新リーダーが紹介された〉
 お父さん、お母さんによろしく!〈「ハイ!」と勢いよく返事が〉
 元気だな。いい青年たちだ。皆が元気で、私はうれしい!
 広い地域を担当する人もいる。大変だろうけど、体を大事に。
 また寒くなるから、風邪などひかないように。苦労も多いと思うが、それぞれの“使命の場所”で、名指揮を頼むよ!
 男性には、「師弟之魂」という言葉を、女性には、「幸福 宝冠」との言葉を贈りたい。
 一、各部の友に和歌を詠ませていただいた(大拍手)。

  〈壮年部へ〉
 元初より
  広宣流布に
    走りゆく
   尊き君をば
    断固と護らむ

  〈婦人部へ〉
 わが同志
  広宣流布の
    仏勅に
   進み舞いゆく
     三世に幸あれ

  〈男子部へ〉
 恐れるな
  妙法護持の
   英雄を
  三世にわたりて
    諸天は護らむ

  〈女子部・女子学生部へ〉
 父母も
  常楽我浄に
    微笑みて
   娘の活躍
    いつも讃えむ

  〈学生部へ〉
 あな嬉し
  青春はつらつ
    仏天に
   護られ走りし
      君は仏か

 一、戸田先生は語られた。
 「青年部がしっかりしていれば、創価学会は永久に発展する。
 新しき舞台で大いに活躍せよ!」
 青年部を伸ばして、次の学会を頼む以外にない。勝利を開くのは青年だ。
 もしも青年が育たなければ、学会の未来は敗北である。
 学会には、いい青年が、たくさんいる。
 青年部を大事にし、皆で励まし、育てながら、戦い進んでまいりたい。それを全リーダーが肝に銘じていただきたいのだ。
 一、新たなる「青年部の時代」である。
 今こそ青年が立ち上がるのだ。
 この創価の庭で、世界の庭で、素晴らしい人生を勝ち飾っていくのである。
 これほど誇りある、充実の大舞台はない。
 頑張れ、頼むよ!
 一、19世紀イギリスの女性作家シャーロット・ブロンテの言葉を女子部の皆さんに贈りたい。
 「試練はわたしのためになる」「もてるかぎりのエネルギーを奮い起こして嵐を乗り切ろう」(中岡洋・芦澤久江編訳『シャーロット・ブロンテ書簡全集/註解』彩流社)
 この女性作家の結論の一つは、「人生は戦いである」であった。
 女子部の「池田華陽会」の「勇気」にも通じる。女子部の皆さん、いつも本当にありがとう!(大拍手)

「核なき世界」へ 民衆の大連帯を
 一、今月8日、恩師・戸田先生の「原水爆禁止宣言」の日に寄せて、私は「核兵器廃絶へ 民衆の大連帯を」と題する提言を発表した(大拍手)。
 ご存じの通り、昨日(24日)、国連安全保障理事会は、核不拡散・核軍縮に関する初の首脳会合を開き、「核兵器のない世界」を目指す決議を全会一致で採択した。
 こうした核廃絶への動きを、さらに確かな潮流へと高めていくために、一段と世界の民衆の連帯を広げてまいりたい。これが恩師の第一の遺訓である(大拍手)。
 〈池田名誉会長の“核兵器廃絶への提言”には、世界の識者から高い評価の声が寄せられている。
 ペルーの外務大臣などを歴任した、米州機構メキシコ事務所のオスカル・マウルツァ・デ・ロマーニャ所長は次のように語っている。
 「核兵器のない世界を目指すために重要なのは、池田SGI(創価学会インタナショナル)会長の思想と哲学です。また、その思想と哲学に基づく行動こそが、核兵器廃絶という困難な挑戦への道筋を開くことになるのです。池田会長こそ世界にとって大事な人なのです。私たちは池田会長に連なり、前進できることに、誇りと喜びを持とうではありませんか」〉

勇気 勇気で会いまくれ

心に橋を懸けよ
 一、私は一民間人として、平和と共生の新時代を築くために、若き日から各国の指導者と語り合ってきた。
 「いかなる団体も、責任者、中心者が、しっかり、結果を“稼ぐ”のだ。
 自分の足で歩け!
 自分が人と会って、人脈を広げよ!」
 これが戸田先生の厳命であったからだ。
 一つ一つの会見が、どれだけ大変であったか。同じ時代に身を置いて、体験しなければ、わからないかもしれない。
 まず、中国では、周恩来総理、小平氏から、現在の胡錦濤国家主席、温家宝総理に至る、全世代のリーダーと会談した。
 ロシア(ソ連)では、コスイギン首相と2度、会見し、ロシアと日本、ロシアと中国を結んだ。チーホノフ首相には、米ソ首脳会談を提案した。ゴルバチョフ大統領とは対談集も発刊している。
 アメリカのケネディ大統領からも会見の要請があった。残念ながら実現しなかったが、弟のエドワード・ケネディ上院議員が東京の聖教新聞社へ来てくださった。
 キッシンジャー国務長官とも、幾度も意見交換を重ねた。ケネディ兄弟やキッシンジャー博士の母校・ハーバード大学で2度、招へいをいただいて講演したことも懐かしい。
 中南米では、キューバのカストロ国家評議会議長と会見した。
 この直前にはニューヨークで、キッシンジャー博士と再会した。当時、キューバは、アメリカと厳しく対立していた。私のキューバ訪問を知った博士が、両国の関係改善を願い、その真情を私に託された。
 私は、博士の心を携えて、カストロ議長と語り合った。文化・教育交流による平和を展望した。
 このように私は、民衆の一人として、世界市民として、あらゆる壁を超え、友情の「心の橋」を懸けてきた。
 〈名誉会長は、このほか、チリのエイルウイン大統領と対談集を発刊。またノーベル平和賞を受賞したコスタリカのアリアス大統領など、中南米各国の指導者と会見している〉
 一、欧州では、統一ドイツのヴァイツゼッカー初代大統領と、ライン川のほとりの大統領官邸で会談した。
 イギリス王室のチャールズ皇太子からは私邸に招かれ、アン王女とはバッキンガム宮殿でお会いした。
 アジアでは、タイのプーミポン国王を3度にわたり表敬訪問。
 ラジブ・ガンジー首相など、インドの歴代の指導者との語らいも忘れ得ぬ思い出だ。
 インドネシアの哲人指導者ワヒド元大統領とは、新たな対談を開始したところである。〈月刊誌「潮」10月号「平和の哲学 寛容の智慧──イスラムと仏教の語らい」と題して連載対談がスタートしている〉
 一、“アフリカの人権の父”マンデラ(南アフリカ)元大統領。27年半の投獄を勝ち越えられた、まさに「不屈」の人である。獄中で、私の文章を読み、SGIの存在を知ってくださった。来日された際の2度の出会いは忘れがたい。
 〈マンデラ元大統領は1度目の会見の後、「(名誉会長との出会いは)日本のみならず、アジア各国の訪問のなかでも、最大の思い出になりました」と語っている〉
 私は長年、「21世紀はアフリカの世紀」であると提唱してきた。
 ナイジェリアのオバサンジョ大統領をはじめ、アフリカ大陸から、幾多の指導者が来訪された。
 さらに中東やオセアニアなど、多くの方々と、文明と歴史を見つめて語り合った。
 一方、「人類の議会」国連についても、デクエヤル事務総長、ガリ事務総長など歴代のリーダーとお会いし、民衆の声を届けてきた。
 思えば、とくに冷戦の時代に、社会主義の指導者と会うことは、囂々たる非難を浴びた。しかし私には確信があった。“対話こそが、平和への最善の道だ。絶対に正しい道なのだ”と。ゆえに微動だにしなかった。
 また、一人の日本人として、日本のためを思い、真剣に行動してきたつもりである。
 鋭い質問を投げかける指導者もいた。立派な見識をもつ人が多かった。年若い私に対して、「いい勉強になりました」と謙虚に語ってくださる人もいた。一回一回が劇のようであった。
 これまでに会った世界の指導者、識者は、7000人を超える。一対一の対話を積み重ねて、新しき人間主義の潮流をつくり上げてきたのである。

断じて恐れるな
 一、世界平和のための、わが人生である。戸田先生に捧げきった、この生命である。
 20代の時も、30代も、40代も、その後も、どんな機会も逃さず、私は人と会ってきた。世界中、どの地でも、時間の許す限り、「会う」ことで学会の味方を増やした。「会う」ことで学会を強くしてきた。
 「もう、会う人がいない」というくらい、会って会って会いまくる。ここに学会の強さがあるのだ。
 御本尊を持ち、平和と幸福の大法を弘めゆく我らには、何も恐れるものはない。
 「会う」ことが「世界を変える」ことにつながる。「民衆を守る」道を開く。
 これからも、人間革命の希望の哲学を、正々堂々と語り抜いてまいりたい(大拍手)。
 一、ともあれ、広布の未来を思う時“陽”の当たらない陰の場所で、学会を守り、支える人こそ、かけがえのない存在だ。これは、私自身の体験から断言できる。
 学会の歴史は、何の地位も名誉もない、いわば“無名の一青年”が、大いなる「勇気」をもって築き上げてきた歴史なのである。
 人生の根幹、信心の根幹は「勇気」だ。
 勇気凛々と進もう!
 胸を張って、どんどん人と会うのだ。
 たくさん思い出をつくりながら、生き生きと、友情と信頼を広げてまいりたい(大拍手)。

貴女自身が太陽
 一、あらためて、きょうは、各地の青年部の新リーダーの誕生、おめでとう! 頼むよ!〈「ハイ!」と元気な返事〉
 平和・文化・教育の各分野で活躍する代表の皆さんも、ご苦労さま!
 婦人部の皆さん方も、いつもありがとう!
 フランスの文豪ロマン・ロランは綴った。
 「太陽はわれわれの内にあります。何ものもそれを消すことはできません」(『ロマン・ロラン全集28 戦時の日記Ⅱ』から、蛯原徳夫訳、みすず書房)
 「創価の母」である婦人部の皆さんの生命こそ、最も明るく、家庭や地域、そして世界を照らす太陽そのものである。
 広布の言論城を守る各地の代表も、ありがとう! どうか、同志の皆さんによろしく!
 一、本部第二別館の開館、本当におめでとう!(大拍手)
 これからが広宣流布の総仕上げだ。新たな前進のために、わが力を、張り切って発揮していっていただきたい。
 明年は、いよいよ学会創立80周年である。重要な節目の時だ。
 「八とは開く義なり」と説かれる。
 末法万年尽未来際へ、創価学会の永遠の大勝利を開く時である。世界広宣流布の未来を盤石に開く時である。断じてやろう! 勝利しよう!
 青年部、頼むよ!
 壮年部も、頼むよ!
 〈「ハイ!」との力強い返事〉
 〈さらに明年は、池田名誉会長の小説『人間革命』連載開始45周年(1月1日)、SGIの発足35周年(1月26日)、戸田第2代会長の生誕110周年(2月11日)、小樽問答55周年(3月11日)、池田名誉会長の第3代会長就任50周年(5月3日)、初の海外訪問50周年(10月2日)などの佳節を迎える〉

「先んずれば人を制す」戦いはスピードだ

きょう一日の実践で決まる
 一、中国・唐の大詩人である白楽天は綴った。
 「そもそも大いなる道を行い、大いなる功績を建てたいのであれば、速やかにすることを大事にせねばならない。思うに来年より今年やるにこしたことはなく、明日より今日やるにこしたことはない」(岡村繁著『新釈漢文大系101 白氏文集5』明治書院)
 「先んずれば人を制す」である。大事なのはスピードだ。先手必勝の行動だ。「きょう一日」の実践だ。
 戸田先生は指導された。
 「さあ、これからが大変な戦いになる。皆、しっかり覚悟して飛躍せよ! どこまで自分自身が伸びるか、人間革命できるか、精一杯戦うのだ」
 青年部が、断じて立ち上がることだ。今、戦わなければ自分が損をする。
 隆々たる発展を遂げている、偉大な学会の組織のリーダーとして指揮を執れるのだ。
 思う存分、やり切ることだ。挑戦し抜くことだ。そして、すべてに勝つことだ。
 一つ一つ、現実の目標を達成していく。自身の生活に勝ち、人生を開いていく。そのための信心である。

人間革命を! 世界広布を!
 一、どこまでも「勇気」が大事だ。
 勇気をもって、学会を守っていく。師匠を守り抜いていく。嵐の時にも、正義を叫びきっていく。
 これが真実の広布のリーダーの姿だ。
 戸田先生は語っておられた。
 「仏法の真髄は、慈悲である。われわれにも慈悲は必要だけども、凡夫だから、なかなか慈悲はもてないものである。
 この慈悲に代わるのが勇気だ。
 『人を救おう』『自分を向上させよう』『人間革命しよう』『日本を、世界を広宣流布しよう』という勇気だ。
 勇気をもって仏法を実践することが、慈悲に通じていくのである」
 断じて意気地なしであってはならない。
 私は、この師匠の言葉を生命に刻んで、学会のため、広布のために戦ってきた。先手を打ってきた。その行動に一点の悔いもない。

アメリカの仏教研究家
師弟不二があるかぎり 学会の未来に限界はない


『260』の栄誉
 一、全同志の皆様を代表して、私が世界の大学・学術機関から拝受した名誉学術称号は「260」をえた。
 〈260番目はアジア(マカオ)国際公開大学から。
 名誉会長に「名誉哲学博士号」、香峯子夫人に図書館「名誉館長」の称号が、9月24日に贈られた〉
 師弟は不二であるゆえに、私の栄誉は皆様の栄誉である。そして皆様のご一家、また子孫までもが、世界一の福運に輝いていく証しである(大拍手)。
 一、アメリカの仏教研究家であるクラーク・ストランド氏が、創価の師弟に着目し、次のように論じておられる。
 「師弟不二がなければ、創価学会が今日の発展を遂げることはなかったであろう」
 「学会における師弟の絆は、弟子に根底から自信を与え、成長させるものである」
 「どんな悩みにも負けず、敗戦の混乱にあえぐ(日本の)家庭や地域社会を、幸福の軌道へと立て直すことができたのは、『師弟』があったからなのだ。
 会員にとって師弟とは、文字通り、幸福と健康への“切符”なのである」
 そして氏は、師弟不二がある限り、“学会の未来に限界はない”と結論している。
 知性の眼は鋭い。
 さらに、アメリカの宗教史学者リチャード・シーガー博士は、“宗教には、指導者と組織が大切である”と指摘し、こう語られた。
 「優れた能力をもった指導者がいても、組織がなければ、その力は発揮されません。
 一方、組織の硬直化は、さまざまな弊害をもたらします。
 池田SGI会長は、その弊害と常に闘ってこられました。それを乗り越えるために、
 “心が大事である”と指導され続けています」
 私のことはともかく、まさに“心こそ大切”である。師弟不二の心で生き抜いてこそ、温かい血の通った、同志愛の組織が築かれるのである。
 一、全国の会館建設も、着々と進んでいく予定である。
 すべては、広宣流布のため、会員の皆様のためであり、未来の発展への土台である。
 かつての草創の時代は、会館も少なく、小さかった。座談会にせよ、会合にせよ、大勢は呼べなかった。
 皆さんの時代のために、今、すべての手を打っておきたい。これが私の決心である。

「絶対に勝つための御本尊だ」

 一、最後に、戸田先生の指導を、ともどもに心に刻みたい。
 「御本尊があるではないか。御本尊を忘れるな! 燃え上がる信心でなければ、祈りは叶わない。苦難に真っ正面からぶつかって祈り抜くのだ」
 「御本尊の力は、ただただ“妙”(=不可思議)と申し上げる以外にない。
 絶対の功徳のある御本尊だ。絶対に勝つための御本尊だ。祈りの叶わぬわけがない。
 寸暇を惜しんで題目をあげるのだ!」
 きょうは、ありがとう!
 〈ここで名誉会長の導師で唱題を行った〉
 皆さん、お元気で!
 ご苦労さま!
 また、お会いしよう!(大拍手)
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2009-09-30 : スピーチ・メッセージ等 :
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新 あの日あの時 17

新 あの日あの時 17     (2009.9.26付 聖教新聞)

池田先生とサンパウロ


青年を伸ばす「太陽の都」

市長は見た
 オレンジ色の屋根が続くリベルダージ(東洋人街)を、1台の車が風を巻くように走り抜けていく。
 2008年(平成20年)6月20日。
 ブラジルのサンパウロ市。
 南半球は秋から冬へと移る時期である。午後7時も過ぎれば、秋風が頬に心地よい。
 ポインセチアの赤い花が、ひときわ鮮やかに咲く年、サンパウロの冬は冷え込むという。さて今年は……。
 市長のジウベルト・カサビは、車を降り、長身をぐんと伸はした。
 眼前にブラジルSGI(創価学会インタナショナル)の平和講堂がそびえている。
 まもなく講堂を会場として、市の慶祝議会が行われる。カサビは市を代表して、池田大作SGI会長に「銀のプレート」を献呈する。
        ◇
 サンパウロは、幾度となくSGIを顕彰してきた。
 初代会長の名を冠した市立「牧口先生公衆衛生技術学校」。第二代会長の平和闘争を讃える「戸田城聖公園」は市民の憩いの広場だ。
 この日、カサビは名代の池田博正副理事長に、銀のプレートと「市の鍵」の授与決定通知書を贈った。
 「市の鍵」はサンパウロの最高栄誉。どうしても池田会長に直接、手渡したい。
 翌年、自ら訪日団を組んだ。09年5月。サンパウロ郊外のグアルーリョス国際空港を飛びたった。
 見送りの人波から、友人の声が聞こえた。SGIの壮年部メンバーであるカルロスが、陽気な声でエールを送ってくれた。
 「市長! 私の師匠のスケールに驚かないでくださいね!」
        ◇
 「ようこそ! 市長!」
 カサビが乗ったエレベーターの扉が開く。池田会長が両腕を広げて立っていた。
 5月13日、聖教新聞社(東京・信濃町)で「市の鍵」の授与式が挙行された。
 こぼれるような笑顔を浮かべ、カサビが右手を差し出す。
 「市長は美男子ですね!」
 カサビの精悍な顔立ちが、ほころんだ。
 ウィットにあふれる言葉に、同行の市議から甲高い声が上がる。思いがけない提案があった。
 「市長、ぜひご両親の桜を、創価大学に植樹させていただこうと思います」
 ありかたい。厚情に言葉を失う。
 ブラジル人は家族のきずなを大切にする。つい先年、母を亡くしたばかりだった。そのうえ医学者の父の健康まで気遣ってくれるとは……。
 日本まで来てよかった。東洋の宗教指導者は、世俗から遠く離れた人ではなく、人間の心のひだまで敏感に感じ取る人たった。
        ◇
 翌日。宿舎でカサビは国際通話の受話器を取った。
 電話の相手は、空港で見送ったカルロスである。
 カサビは声を張り上げた。
 「アミーゴ! 君の言った通りだ。途方もなく大きいスケールだったよ!」

日本人移住100年祭
 サンパウロ州の人口は約4500万人。そのうち日系市民は約100万人。ブラジル全日系人の7割にあたる。
 カズアキ・シンジョウも、その一人。沖縄から移民船に揺られ、一家でサンパウロに辿り着いたのは1959年(昭和34年)。
 待っていたのは土ぼこりが舞う荒野だった。
 慣れないバナナ栽培。肌が焦げるような太陽の下で鍬をふるう。出てくるのは石ころばかりである。
 ひと旗揚げたい。腕まくりで乗り込んだ父は、たちまち鍬より酒のコップを手にするようになった。
 喘息にあえぐ母と姉。薬がない。医者に診せる金もない。ほどなくバナナ園を手放し、都市部へ移った。
 露天商やクリーニング店を細々と営み、何とか糊口をしのいできた。
 そんなシンジョウー家が移民仲間に折伏されたのは69年である。
 まず健康を取り戻した。仕事も軌道に乗った。うつむいていた家族が太陽を見あげて笑うようになった。あまりの短時日の変化に驚いた親戚が、次々と入会した。
        ◇
 池田会長が初めてブラジルを訪れたのは60年10月。海外初の支部をサンパウロで結成した。
 だが4年後に軍事政権が生まれると辛酸の時代がはじまる。座談会場のそばに、目つきの鋭い政治警察の監視が立ち続けた。
 その渦中の66年ごは2度目のブラジル訪問を果たす。
 朝の来ない夜はない。会長の確信は微動だにしない。帰国の折、居合わせた女性たちに語った。
 「時代を変える本当の原動力は、女性の祈りと、生活に根ざした活動だ。女性の力は大地の力である。大地が動けば、すべては変わる」
        ◇
 日本人の移住開始から100周年となる2008年。サンパウロで慶祝記念式典が開催された。
 式典委員会からSGIに、出演者と役員の応援を依頼された。
 サンパウロ都市圏出身の役員を率いるのは婦人部のリーダーだった。
 あのシンジョウの妻シルビアである。
 子どもや甥、姪たちも、それぞれ創価班、牙城会、青年部の合唱団、女子部ダンスグループの一員として式典を支えた。
 シンジョウの家が、うらやましい──。
 友人たちが驚いている。これほど青年をしっかり育てられるシステムが開かれているとは!
 「鼓笛隊に入りたい」「息子を立派に育ててほしい」
 青年が伸びゆくブラジルSGIに、入会を希望する人は多い。

大統領に会わせたい
 「こんなにお若い方だったのか!」
 ブラジル大統領府の文官長ジョアン・アブレウは、SGIの担当者から手渡された一冊の写真集を開き、驚いた。
 1984年(昭和59年)。首都のブラジリアにある大統領府。
 大統領には各界から来客が引きもきらない。会うに、ふさわしい人物か。最終的な人物の見たてがアブレウの重要な職務だ。
 膨大な報告書類や資料に、入念なチェックを入れる。
 写真集を手に取ったのも、そのためだった。池田会長と各国の指導者の交流の様子が収められている。
 憲法学者のアブレウは最高裁判所で判事を務めた経験を持つ。
 前年の83年、海外の都市を訪れた際、歴史学者アーノルド・トインビーと池田会長との対談集を買い求めた。
 あまりにも高度で広範にわたる内容なので、てっきり池田会長も高齢の方だと思いこんでいた。
 興奮の面持ちで写真集を閉じたアブレウが、会見へのゴーサインを、政府関係者に告げる。
 こうして数年間にわたって準備されてきた大統領ジョアン・フィゲイレドと池田会長の会見が、ついに現実のものとなった。
        ◇
 84年2月21日午後5時25分。フィゲイレドは、池田会長と香峯子夫人を大統領執務室で迎えた。
 文官長のアブレウも会談の機会を得た。ようやく書物の中でしか知らなかった人物と会える──。
 といっても、会見のスケジユールを調整する立場である。40分間、池田会長を独り占めすることで、大いに満足した。

一歩も引くな
 「先生! どうか、どうかブラジルに来てください!」
 日系2世のジュリオ・コウサカが身を乗り出して訴えたのは、1983年(昭和58年)7月である。
 鹿児島県の霧島で行われた研修会。ブラジル男子部の中心者として参加した。
 「必ず行くよ。広宣流布は私の生涯の使命だ」
 翌84年2月、会長は18年ぶりにブラジルを訪問。だが、出迎えのメンバーにコウサカの姿はなかった。
 ブラジルSGIの機関誌の内容に、軍事政権から横槍が入った。編集担当のコウサカは責任を問われ、組織役職と併せて解任されていた。
 サンパウロ市内で行われた勤行会。会場の隅にコウサカがいた。唯一出席が許された行事だった。
 会長は言いきった。
 「20年、頑張れ。真の信用を勝ち取るには、最低20年が必要だ」
 85年4月、コウサカは再び訪日した。時差の抜けない体で飛行機を乗り継ぎ、会長のいる四国へ飛んだ。
 徳島、愛媛、奈良、和歌山……各県で創立55周年を祝賀する青年平和文化祭が開かれていた。
 四国3県、関西4府県を18日間で訪問する強行軍。コウサカは会長に同行した。
 行く先々で青年の圧倒的な演技を目の当たりにする。すごい。さすが日本だ!
 だが会長の視点は違った。
 「あの方は今も元気かな?」
 「あの功労者は、どうしてる?」
 青年の檜舞台を切り開いた功労者、陰の人に光を当てていた。真の将軍学とは何か。身をもって教えた。
        ◇
 2008年9月。コウサカはブラジルSGIの理事長に就任する。軍事政権の横暴に拳を震わせた日から、25年が経っていた。
 会長は短い伝言を託した。
 「リーダーは一歩も引いてはいけない。力強くいきなさい。何事も引いたら負けだ。本当の勝負は『これから』だよ」
 南米最大の都市・サンパウロ。「太陽の都」の前進はブラジルのみならず、世界を照らしゆく。
2009-09-26 : 新 あの日あの時 :
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御書と師弟 仏縁の拡大

池田名誉会長講義 御書と師弟 
              (2009.9.24付 聖教新聞)

第27回 仏縁の拡大

皆が創価の大使たれ

地域へ! 光り輝く生命で
世界に仏法共感の大潮流


御聖訓
 「其の国の仏法は
 貴辺にまか《任》せたてまつり候ぞ
 仏種は縁に従って起る」    (高橋殿御返事、1467㌻)


 広宣流布は、どこから始まるか。それは「地域」です。
 わが地域を発展させたい。わが地域から人材を出したい──この切実な祈りと行動から、最も確かな広布の波が広がる。
 戸田先生は語られました。
 「大事なのは足元だよ。何があっても浮き足だつのではなく、妙法の旗を掲げて、現実の大地にしっかりと立つことだ」
 今回、拝するのは、「地域」に住む一人から広宣流布が始まることを日蓮大聖人が教えられた御聖訓です。
 「其の国の仏法は貴辺にまか(任)せたてまつり候ぞ、仏種は縁に従って起る是の故に一乗を説くなるべし」(御書1467㌻)──その国の仏法流布は、あなたにおまかせします。仏種は縁によって起こるものです。このゆえに一仏乗の法華経を説くのです──。
 まことに有名な御金言です。高橋六郎兵衛入道にあてた御手紙とされてきましたが、異説もあります。建治年間から弘安年間のころ、駿河国(現在の静岡県中央部)の富士地方で、中心的な立場で弘教に励んでいた在家に送られた御文とも推定されます。
 当時、富士地方では日興上人を中心とした折伏戦が力強く進んでおりました。その旭日の勢いに恐れをなした権力者らが卑劣な迫害を加え、弘安2年(1279年)には「熱原の法難」が最も熾烈になっていたのです。この御書は、弾圧が激しさを増していた渦中に送られたと拝察されます。
 ここで仰せの「国」とは、門下の住む地域一帯のことです。「その国土の仏法は、あなたにおまかせします」──あまりにも重大な仏の信託であります。「頼むよ」と師の信頼の一言に、弟子は武者震いする思いで、勇み立ち上がったことでしょう。
 これが師弟の深遠《じんのん》なる生命の呼吸です。増上慢の坊主ではない。民衆のリーダーです。師の心を心として、自らの使命を自覚した勇気ある弟子こそ、地域広布の指導者なのです。
 この御文の前には、苦難の中で勇敢に師弟の道を歩み抜く信心を讃えられ、「釈迦仏・地涌の菩薩が、あなたの御身に入り替わられているのでしょうか」(同㌻、通解)と仰せです。
 釈迦仏・地涌の菩薩といっても、どこか遠くにいるのではない。いざという時に勇猛精進しゆく、わが生命にこそ、生き生きと躍動しているのです。
 法華経の勧持品第13には──
 「我れは是れ世尊の使なり 衆に処するに畏るる所無し」(420㌻)と説かれております。
 仏の使いとして広宣流布に戦う自分である。ゆえに、誰人に対しても臆することはない。堂々と妙法を説き弘めていけるのだという誇り高き宣言であります。師弟の道に生きゆく人生に畏れなし。正義は徹して強気でいくのです。
 法華経では、地涌の菩薩は、「娑婆世界の三千大千の国土」に涌出したと説かれます。
 娑婆世界とは、苦悩が渦巻く人間世界のことです。この現実の社会を離れて、仏法はない。
 地涌の菩薩は、必ず“使命の国土・地域”に躍り出るのです。

笑顔の太陽 婦人部 万歳

仏勅の同志に感謝
 この法華経の正しき方軌に則って、創価の師弟は、大聖人と釈尊の遺命である広宣流布を、地域に世界に遂行してきました。
 全国の本部で、支部で、地区で、そしてブロックで、友のため、地域のために献身を重ねる、わが創価の同志こそ、御本仏・日蓮大聖人から「其の国の仏法は貴辺にまかせたてまつり候ぞ」と正義の興隆を託された仏勅の闘士なのであります。
 これほどの名誉ある人生は絶対にありません。皆様方は、どんな権力者や大富豪も及ばない「使命即栄光」「責任即福徳」の大道を歩んでおられるのです。
 友の健康と幸福を祈る。悩んでいる方がいれば飛んで行って励ます。活動の一切を担い戦う。自分のことはさておいても、愛する天地のために奔走する。
 その地その地に根を張って、広宣流布のために苦労して戦う人こそが、一番、偉大なのです。地域を離れ、責任を持たない。自分はやらずに、人にやらせる。それは、仏法の精神に反します。
 わが地域の一世帯を、どう励ますか。新たな一人を、どう広げるか。それが根本です。
 本部長、支部長・支部婦人部長、地区部長・地区婦人部長、ブロック長・白ゆり長をはじめ、師弟の大精神に燃えて進まれる全国の尊貴な同志の皆様方に、私も妻も最敬礼して、朝な夕な真剣に題目を送っております。
 とくに、どんな時も太陽の如き笑顔で、地域を照らしてくださる婦人部の皆様の健康長寿と幸福勝利こそ、私たち夫婦の最大の願いです。
 また太陽会をはじめ、地域で“おじさん”と、皆から慕われる壮年部の方々こそ尊いのです。
 続く「仏種は縁に従って起る」との仰せは、地域広布を進める上での甚深の御指南です。
 相手の方が「一生成仏」という永遠の幸福を勝ち取る道も、まず私たちが「仏種」を植える対話から始まります。それこそが、仏の誓願を果たす具体的な行動なのです。広宣流布の大使が真剣に誠実に行動した分だけ、妙法への縁が広がる。皆さん方が仏縁を結ばなければ、何も始まりません。
 人の心は、縁によって瞬間瞬間に変わる。御書には「一人一日の中に八億四千念あり」(471㌻)とも説かれています。
 悪縁にふれれば、醜い命が出てくる。善縁に出あえば、素晴らしい生命が現れるのです。

結んだ縁は永遠に
 大事なのは、私たち自身が、相手の仏の生命を呼び起こし、薫発しゆく強い「縁」となっていくことです。その「仏事」(仏の仕事)を為すのが「声」です。
 「おはようございます!」
 毎朝、「無冠の友」の方々が、聖教新聞を配達してくださりながら、行き交う方々にかける挨拶は、なんと清々しく喜びの波紋を、わが街に広げゆくことか。
 「お元気ですか!」「一緒に成長しましょう!」──祈りと確信を込めた私たちの「仏の声」「仏界の響き」が、大勢の人々と縁を結び、広げていくのです。
 その振る舞いは必ず「仏縁」となる。その時は、かりに反発したとしても、相手の生命の奥深くに「仏種」として刻まれる。冬を越えて春が来るように、時とともに、「自他共の幸福」の大花と咲き薫ることは必然です。
 「法華経を耳にふれぬれば是を種として必ず仏になるなり」(御書552㌻)と御断言の通りです。
 ゆえに、まず自分が強くあれ!
 相手がどうあれ、自らが「縁」となって、その生命を幸福の方向へ力強く変えていくのです。これが仏の強さである。相手の弱い命や愚癡の命に引きずられるのではない。こちらが、毅然と引っ張っていくのです。
 戸田先生は「広宣流布のために会い、勇敢に、誠実に仏縁を結んだ人は、未来において、その人が必ず自分の眷属となって、自分を護り支えてくれるようになるのだ」とも語られました。
 仏法の縁は、三世永遠です。
 「是の故に一乗を説くなるべし」と御聖訓には仰せです。
 仏は「説くべき時」が来たならば、敢然と方便の教えを捨て、一仏乗の成仏の教えを説かれました。その仏の命を受けた私たちも、遠慮や逡巡はいりません。誰人にも具わる仏の大生命を開く、これ以上ない尊極の道を、自信満々に語り広げるのです。
 私は若き日から、この御書を拝し、自らの担当する地域を、大聖人から直々にまかせて頂いた使命の国土と受け止めてきました。そう思えば、力が出ないわけがありません。
 大森地区の地区委員として、蒲田支部の支部幹事として、青年部の第一部隊の部隊長として、文京支部の支部長代理として、さらに葛飾区の総ブロック長として、全責任を担い立ちました。
 さらに、北海道・札幌の夏季地方折伏にも、大阪の戦いにも、そして山口の開拓闘争にも、師子奮迅の力で臨みました。
 広宣流布の師匠である牧口先生、戸田先生に直結して、わが宿縁の天地で広宣流布の未曾有の拡大を成し遂げてみせると心を定めて、祈りに祈り、動きに動き、語りに語ったのです。
 一切の根本は、御本尊への真剣な祈りにある。御本尊は、勝つためにあられる。これが私の大確信でありました。
 すべて「地域革命」であり、「立正安国」の大闘争です。
 人に頼ることはできない。自分が責任をもち、執念をもって、粘り強く戦う以外にありません。
 「自分の法戦場で断じて勝ってみせる!」と題目を唱え、悩み、苦しみながら、一人また一人と対話を積み重ねていく。この人こそが、広布の英雄です。その祈りに、諸天善神も仏菩薩も、必ず応えて、働き出すのです。わが地域の広宣流布を避けて、世界広宣流布はあり得ません。
 邪智謗法の日本という国で、恐れなく不惜身命・死身弘法を貫き通してきたからこそ、一閻浮提広布の道も開かれたのです。
 恩師の遺影を抱きしめて、私は昭和35年(1960年)の10月2日、世界広布に旅立ちました。明年で50年になります。
 昭和50年(1975年)の1月26日、SGIの発足にあたり、私はグアムの地に集った各国の代表に申し上げました。
 「皆さん方は、どうか、自分自身が花を咲かせようという気持ちでなくして、全世界に妙法という平和の種を蒔いて、その尊い一生を終わってください。私もそうします!」
 これが広宣流布の先駆者の心意気です。私と共に、この心で生き抜いた先覚者がおられればこそ、今日、創価学会は世界192力国・地域に広がる民衆の大連帯となったのです。
 経文通りの悪口罵詈、猶多怨嫉の難にも、妙法流布の情熱と誇りに燃える先達たちは負けなかった。いかなる障害にあおうと、「いまだこりず候」(同1056㌻)との師子吼を、わが胸に滾らせ、岩盤に爪を立てる思いで信頼を勝ち広げてきたのです。
 断じて妙法を弘めてみせる!
 この責任感こそ、「貴辺にまかせ」の御金言を身で拝する法華経の行者の証しであります。
 今や、妙法の仏縁は地球上に広がり、人類史に例のない仏法共感の大潮流となりました。その先頭を行くのが皆様方なのです。
 私は国内外のどこへ行く時も、題目を大地に染み込ませる思いで唱題を重ねてきました。
 強い一念の唱題は、国土の隅々にまで波動を広げます。
 友情を広げる一歩一歩が仏縁の拡大です。苦労した分、悩んだ分だけ、喜びも功徳も大きい。その福運は、一家一族が未来永遠に勝ち栄えていく源泉となります。
 さあ、気高き地涌の友よ!
 今再び、光り輝く生命で、地域に生き生きと飛び出していこう!
 創立80周年へ、創価の大使となって、新たな仏縁を結ぶ「対話の風」を、楽しく朗らかに広げゆこうではありませんか!

  君もまた
   元初の同志の
    創価かな
   その地 その国
     勝利の旗持て
2009-09-24 : 御書と師弟 :
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随筆 人間世紀の光 No.204/205

随筆 人間世紀の光 No.204/205(2009.9.2021付 聖教新聞)

友情の道 信頼の城
㊤㊦

「人の振舞」こそ近隣友好の大道
勇気と確信の対話で「地域の宝」と光れ!


 永劫の
  大河の流れに
    わが生命
  無上の使命と
     無量の功徳を

 19世紀ドイツの思想家ニーチェは力強く歌った。
 「大河と偉大な人間とは悠然として曲った道をゆく/曲りながら 然し決してその目標をあやまたぬ」
 その通りだ。大河は山々の谷を縫い、緑野を走り、平原を潤しながら、滔々と流れる。いかなる紆余曲折があろうが、水源からの流れに、数多の支流を豊かに加えつつ、最終目的地の大海は絶対に見失わない。
 御聖訓には、「水は昼夜不退に流るるなり少しもやむ事なし」(御書841㌻)と仰せである。
 我らの妙法流布の大河には、瞬時の停滞もない。
 民衆の平和と幸福の実現という根本目的に向かって、威風堂々と前進する!
 これが創価の使命だ。
 これが師弟の誓願だ。
        ◇
 法華経に登場する「地涌の菩薩」は、「難問答に巧みにして 其の心に畏るる所無く」と説かれる。
 人は、ともすれば、他者との交流を「畏れ」、自分から「心の壁」をつくってしまう場合が少なくない。
 しかし、地涌の菩薩は、万人の生命に内在する尊極の仏性を、心広々と信じ、一切の壁を勇敢に取り払って対話を広げていくのだ。
 創価の地涌の友は、まさしく「畏るる所無く」、相手が誰人であれ、語りに語り抜いてきた。
 経文通りに、嵐の中、怒濤の中を突き進んできた。
 ただ人間の尊厳のため、民衆の幸福のため、世界の平和のために、一心不乱に信念の行動を貫いてきた。
 その真実を知るゆえに、世界の多くの友人たちは、何があろうが、変わらざる信頼で共鳴を語り、連帯のエールを送ってくださっている。その友情に触れるたび、私たちは、いよいよ勇気を強くし、さらなる平和への前進を決意するのだ。
 何ものにも揺るがぬ友情と信頼を築こう!
 そのためにも、まず自分自身が周囲の人びとの友となり、友の支えとなって、成長していくのだ!
     ◇
 太陽の
  母は地域に
    輝けり

 平和は、万人の願いだ。
 それは、いずこに求めたらよいのか。
 アメリカの女性平和学者エリース・ボールディング博士は、私に言われた。
 「平和は、たんに危機に対処するだけではなく、お互いが日常的に助け合うなかにあります。
 家庭、そして地域社会こそが、きわめて重要な平和の出発点なのです」
 平和は、どこか遠くにあるのではない。実は、私たちの足下から始まるのだ。
 博士は、こうも語られた。
 「そこで私は、まず隣人たちについて知ろうと思いました。お互いが助け合うためには、どうしても近くに住む人たちをよく知る必要があるからです」
 平和の起点は、近隣同士が日常的に助け合い、互いを知り合うことである。
 近いが故に難しく、近いが故に見落とされがちなのが、「近所付き合い」だ。
 隣人に心を配り、近隣に友好の花園を育みゆく「人の振る舞い」が、いかに尊いことか。
 アメリカの鉄鋼王カーネギーは、母を讃えた。スコットランドから移住して、苦労しながら、地域の太陽と輝いていったお母さんであった。
 「母はほんとうにいそがしかった。しかし、あらゆることを一手に引受けていながら、近所隣の人たちは彼女が賢明な、また親切な女性であるのを知って、困難な問題に直面するとすぐ相談に来たり、たすけをもとめるのであった」
 「近隣の間で、どこへ行っても、母は輝かしい存在であった」
 人びとから慕われる、わが創価の母たちと、なんと深く重なり合う姿か!
 法華経には「人中《にんちゅう》の宝」と記される。
 地涌の菩薩には、人びとを結び“地域の宝”“社会の宝”と光りゆく使命があるのだ。
 そこで、そうした“地域友好の達人”だちから寄せられる模範の実践、また私自身の経験を踏まえ、「近隣友好」の三つの心がけを確認し合いたい。
        ◇
近隣友好の心がけ
①地域の安穏と繁栄を祈ろう!
②礼儀正しく 良識豊かに!
③励まし合い 助け合う連帯を!


 第一は、まず「地域の『安穏』と『繁栄』を祈ること」だ。
 私たちが日々、読誦する法華経寿量品には「我此土安穏」(我が此の土は安穏にして)との経文がある。
 今、自らのいる使命の国土を安穏ならしめ、その地域の人びとを守り抜いていくことを、祈り行動する。これが法華経の行者だ。
 近年、地域の絆が一段と希薄になっていると、多くの方々が危惧している。
 日蓮大聖人は、「立正安国論」で、「一身の安堵を思わば先ず四表の静謐を禱らん者か」(御書31㌻)と仰せであられる。
 「四表」とは、東西南北の四方を指す。自分の周りの地域・社会であり、広くは世界をも包む。ゆえに「四表の静謐」とは、地域の安穏であり、さらには世界の平和といってよい。
 “近所の絆”を尊び、近隣の方々の健康と幸福を祈念していくことから、互いの心の扉は開かれる。
 地域の繁栄と幸福への深い祈りは、「一身の安堵」──すなわち自身の幸福につながり、わが身に返ってくることは必然の法則だ。
 日々、この“立正安国の精神”に直結し、自らの足で地域の大地を踏みしめながら、広宣流布を進めてくれているのが、模範の「無冠の友」の皆様である。

 この地域
  わたしが守りて
     幸の道

 かつて「無冠の友」の方々にお贈りした句である。
 私も妻も、日本はもとより、尊き全世界の友が住む各国・各地域の安穏を祈らぬ日は、一日としてない。
 地元の新宿区をはじめ、渋谷・港・千代田区等の近隣も、時間を見つけては、車で回りながら、題目を送り続けている。
        ◇
 二点目は、「礼儀正しく良識豊かに」である。
 「不軽菩薩の人を敬いしは・いかなる事ぞ教主釈尊の出世の本懐は人の振舞にて候けるぞ」「賢きを人と云いはかなきを畜といふ」(同1174㌻)との仰せは、信仰者の根幹を示されている。
 人間として、自分自身の賢明なる言葉と行動をもって、信頼を築き、友情を広げ、自他共の幸福の花を身近に咲かせていくことだ。
 「このたび越してまいりました池田です」
 昭和27年の夏、私たち夫婦は、それまで住んだ目黒区三田から、大田区山王の秀山荘に転居した。
 「今後ともお世話になりますが、どうかよろしくお願い致します」と、私も名刺を片手に、近隣へのあいさつ回りに歩いた。
 そして近隣の方々と顔を合わせるたび、声をかけ、心を通わせた。
 私の自宅には、青年部をはじめ、遅くに訪ねて来る同志も少なくなかった。
 若いメンバーが大勢なので、注意していても、近隣には騒がしく感じられる場合もあったにちがいない。
 そんな時は、翌日、妻が「昨夜はうるさくなかったですか……」と、近所の方にあいさつに伺った。その一声で安心し、理解してくださった。
 幼い時から個人会場の家に育った妻は、同志を温かく迎えるとともに、礼儀と誠意を尽くしての近隣友好を心がけていた。
 ともあれ、普段から、垣根をつくらず、自然なご近所付き合いをしていくことが大事であろう。
 「近隣友好」は、わが地域即寂光土への確かな幸福と和楽の土台となる。
 それだけに、座談会など地域の会場を提供してくださる尊き皆様に、改めて心から感謝を申し上げたい。
 妙法を弘通する法座である。集い来る友が一生成仏へ前進しゆく道場である。わが地域の繁栄のための立正安国の拠点である。その信心の長者のご家庭の福徳は計り知れない。
 皆で最大に感謝し、大切に使わせていただくことだ。会場のご一家や近隣に迷惑をかけぬよう、こまやかな配慮をお願いしたい。

 三世まで
  おお一族は
    栄えなむ
  広宣流布に
    振る舞う仏と

 ニーチェの言葉は「断章」(『ドイツ詩集』所収)山口四郎訳(角川書店)。カーネギーは『鉄鋼王カーネギー自伝』坂西志保訳(角川書店)

共生・共栄は世界平和への第一歩

 「人間は孤立すると、自己を見失う。すなわち人間は、広い人間関係のなかに、自らのより大きく、より真実な自己を見出すのである」
 これは、インドの大詩人タゴールの言だ。
 先日、八王子の創価大学のキャンパスに、この詩聖タゴールの像が設置された。21世紀を担う学徒に、「人間の中へ! 民衆の中へ!」と励ましを送ってくれている。
 折しも、わが英知の学生部・女子学生部が新出発した。新部長は、男女共にアメリカ創価大学出身の俊英だ。この人材の大河から、必ず新しき希望と勝利が開かれることだろう。おめでとう!
 人間は、人間を離れて人間になれない。人間の中でこそ、より大きな自分となり、より大きな喜びを得るのだ。
 その意味でも、近隣友好の心がけの三点目として申し上げたいことは、「励まし合い、助け合う麗しき連帯を!」である。
 人間関係には、顔を合わせる関係、あいさつを交わす関る関係、あいさつを交わす関係等々、さまざまな次元がある。その中でも、互いに励まし合い、助け合いながら向上していく絆こそ、人間世界の華であろう。
 御義口伝には、「鏡に向って礼拝を成す時 浮べる影 又我を礼拝するなり」(御書769㌻)と明かされている。
 地域に尽くせば、地域の方々から守られる。
 深い縁《えにし》があればこそ、近隣同士として巡り合った仲であることを銘記したい。
 第2次世界大戦下にパリで暮らしたフランス文学者の椎名其二《そのじ》氏が、当時の思い出を書き残されていた。
 フランスにとって敵国の日本人であるゆえに、戦争末期には、幾度も身の危険に遭遇した。だが、しばしば命がけで援助してくれたのは、フランス人の友人であり、隣人であったという。
 困っている人に手を差し伸べずにはいられない──それは、慈愛とも勇気ともいうことができようが、この仏文学者は「ボンテ」(善良さ)と呼んだ。そして、ボンテとは、「ほんとうに人間の心の底から出てくるものなのだ。彼等にあっては、それは『働きかける善良さ』であった」というのだ。
 味わい深い言葉である。
 「働きかける善良さ」とは、積極的に他者に関わる行動を伴った善意であろう。学会精神にも通じる。
 ことに、多宝会、宝寿会、錦宝会をはじめ、尊き“学会の宝”である皆様が、勇んで友と関わり、“地域の宝”と輝いている。嬉しい限りだ。
 創価の誇りを胸に、地元の消防団等で活躍される壮年・婦人部、青年部の友もいる。
 「団地部」「地域部」「農漁村部」「離島部」の友を筆頭に、わが同志は、高齢化や過疎化等の各地域の課題にも率先して挑んでおられる。なくてはならぬ依怙依託の存在だ。
 広宣流布のモデル地帯・沖縄では、入会していない方々から、友人葬の導師を依頼されるケースもある。
 毎年、沖縄戦の終結の日(6月23日)の慰霊祭では、自治会等の要請で、学会リーダーを中心に法華経の方便品・自我偈の読経唱題を行う地域もあると伺った。
 健気なる沖縄の友は、根強い旧習の壁も超えて、それほどまでに絶大なる信頼を勝ち得てこられたのだ。
 なお、秋の彼岸に当たり、亡くなられた功労者の方々、また全同志の先祖代々の諸精霊の追善回向を懇ろにさせていただいている。
 日蓮大聖人は、若き南条時光に深く打ち込まれた。
 それは、苦難の時にこそ強盛なる信心を勇猛に貫き通すことだ。そうすれば、亡き父も成仏できる。これこそ、最高の親孝行となり、そして一家も、生死を超えて護られるという方程式である。〈御書1512㌻参照〉
 ともあれ、「祈り」「良識豊かな行動」「助け合いの精神」を心がけながら、近隣の方々と結んだ友好は、何ものにも替え難い宝となる。
 特に各地の「兄弟会」の友どちは、長年、誠実一路の交流を重ねてこられた。それは、“創価のメロス”たちが打ち立てた、勝ち誇りゆく人間の信義の旗といってよい。
        ◇
 わが国土
  はたまた社会の
     柱たれ
  広布の闘将
    ここにあるかと
 本年春、武蔵野に三鷹平和会館がそびえ立った。
 「学会の会館は、明るい、芸術の薫りがする」「まさしく『平和』という名にふさわしい建物です」──近隣に住む高名な芸術家の方が来館され、述懐しておられたそうだ。
 会館は、地域に聞かれた“文化の城”であり、近隣との“友情の象徴”である。
 生命の尊厳を掲げ、市民の方々を厳然と守る“平和と安穏の牙城”として、信頼されていることも、わが創価の会館の誉れである。
 5年前(2004年)、わが信越の新潟は相次ぐ災害に見舞われた。7月に襲った豪雨、10月の新潟県中越地震……。
 私と妻も、愛する新潟の同志の安穏と、一日も早い復興を祈りに祈った。
 この時、災害の対策本部が置かれたのが、前年に完成した長岡平和講堂である。小千谷平和会館をはじめ、各地の会館も市民の避難所となった。
 婦人部の皆様が作ったオニギリ等の支援物資は、なんという温もりであったことか。
 阪神・淡路大震災の折、その奮闘に世界が涙した青年部のバイク隊やボランティア隊は、新潟でもフル回転した。
 ドクター部や白樺会・白樺グループの救護の奉仕も崇高であった。
 救援の指揮を執られた市の関係者の方々からも、「創価学会が一番最初に支援の手を差し伸べてくださった」との感謝の声が寄せられている。
 長い被災の苦難を乗り越えて、わが中越の友は断固として勝った! わが新潟の同志は一切を変毒為薬して大勝利した!
        ◇
 名誉ある
  正義の勲章
   大勲位
  偉大な権威は
    庶民の中にと

 我らの会館といえば、こんな思い出もある。
 19年前、人材拡大の城・東北の福島県にある白河文化会館を初訪問した。
 車が前庭に入る時、会館に隣接する、企業の社屋に目を向けた。社員の方々であろう、多くの人が会社と会館を隔てるフェンス越しに、こちらの様子を見ておられた。
 会館の玄関前では、地元・福島の幹部たちが待ってくれていたが、私は車から降りるやいなや、隣の会社の方々の所へ、あいさつに向かった。
 「騒がしくしてしまって申し訳ありません」──深々と頭を下げると、みな驚かれながら、親しみの笑顔を浮かべられた。
 私は私の立場で、「白河文化会館のことを、今後ともよろしくお願いします」との思いを伝えたかったのである。
 日頃、私と同じ心で、真心から近隣を大切にしてくださっている宝の友がいる。
 会館守る会、香城グループ、王城会、牙城会、創価宝城会の各種グループのメンバーや、会館長、副会館長、会館運営長、会館管理者の皆様方。さらに会合運営に毅然と携わってくれる創価班、白蓮グループ、婦人部香城会の友……。こうした陰の友の労苦ありての地域広布である。
        ◇
 英国の詩人ポウプは叫んだ。「友人、両親、隣人をまず抱擁し、ついで祖国を、つづいて全人類を」
 近隣の方々と共に生き、地域と共に栄える──共生・共栄こそ、世界平和への第一歩なのである。
 昭和32年、あの大阪事件の直後、私は戸田先生から、東京・葛飾の総ブロック長(現在の総区長など)の任命をいただいた。それまでのタテ線から、地域に根差した新体制の模範を、人情味豊かな下町で築き上げることを、師から託されたのだ。
 私は、大きな会合よりも、座談会と家庭指導を中心として、新しい拡大の大波を起こしていった。
 宿縁深き同志たちのことは、わが生命から永遠に離れることはない。
 昭和52年の4月、待望久しかった葛飾文化会館の誕生の折も、私は駆けつけた。そして語り合った。
 「1人が、10人の本当の友人をつくっていこう! そこに実質的な広宣流布がある」
 この誓いのままに、葛飾の友は、麗しき人間共和のスクラムを朗らかに粘り強く広げてくれている。
 ロシアの大文豪トルストイが胸に刻んでいた、米国の哲人エマソンの箴言がある。
 「その日その日が一年のうちでも一番良い日だということを、深く肝に銘ずるがよい」
 さあ、創価の友よ!
 新たな広宣流布の前進へ、立ち上がって、打って出よう! 沈黙していないで、語りかけよう!
 一日一日、友情と対話のドラマを綴るのだ!
 そして共々に、使命の天地に“幸福拡大の本国土”を築きゆこうではないか!

 今日もまた
  自身の心を
     開きゆけ
  そこに新たな
    不滅の軌道が

 タゴールの言葉は『人間の宗教』森本達雄訳(第三文明社)。椎名其二は蜷川讓『パリに死す 評伝・椎名其二』 (藤原書店)。ポウプは『人間論』上田勤訳(岩波書店)=現代表記に改めた。エマソンはトルストイ『文読む月日』北御門二郎訳(筑摩書房)から。
2009-09-20 : 随筆 人間世紀の光 :
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世界との語らい 第37回

第37回
英国の名門 クイーンズ大学 グレッグソン学長
                (2009.9.17付)
教育こそ最大の解放者
知識を人類に還元=世界市民の育成を


 アイルランドの誇る大詩人イェーツは絶唱した。
 「今こそ、わが魂を磨こう。高邁なる“叡智の殿堂”で、つとめて学ぶことによって」
 人の世に、有為転変の波は荒く、毀誉褒貶の風は激しい。
 その風波《かざなみ》を超克して、不滅の価値を創造しゆく道は、何か。学び続けることだ。磨き合うことだ。そして、人を育てることだ。
 20世紀最高峰の文豪と仰がれる、このイェーツも名誉博士として愛してやまなかった“叡智の殿堂”が、北アイルランドのクイーンズ大学ベルファストである。
        ◇
 荘厳であった。壮麗であった──新緑まばゆき創価大学の本部棟に伝統の曲が流れた。それは、クイーンズ大学の卒業式を寿ぐ旋律であった。
 本年の5月18日である。
 本国での儀典に則って、私に対する「名誉博士号」授与式を厳かに挙行してくださった。会場へと進む両大学の列席者の一番前には、創価大学の学生代表の凛々しき姿。ピーター・グレッグソン学長は、全責任を担うが如く、行列の最後尾におられた。
 「学生が先頭」──これも、クイーンズ大学に流れ通う、崇高な精神の象徴であった。
 式典におけるグレッグソン学長の第一声は、アイルランドの偉大な劇作家バーナード・ショーの名言であった。
 「平和は、戦争より良いだけではなく、戦争より、はるかに至難の業なのである」
 そこに学長が込められた。平和への断固たる不退の決意に、私は強く胸を打たれた。
 「破壊は一瞬 建設は死闘」。なかんずく平和の建設という最大の死闘に、いずこにもまして勇敢に挑んでこられたのが、同大学であるからだ。
       ◇
 北アイルランドでは、30年以上にわたり、対立と分断の紛争が繰り返されてきた。その終結と和平の前進に尽力してきた「平和創出の大城」が、クイーンズ大学である。
 1845年、ビクトリア女王により創立され、1908年に総合大学となった。社会の各分野をリードする、力ある俊英を育成してこられた。医学界の先駆者、政治指導者、ピュリツァー賞受賞者、オリンピックの金メダリスト、著名な俳優等、誠に多彩な人材群である。
 この栄光の名門学府を、さらなる躍進へとリードしてこられたのが、グレッグソン学長だ。「英国王立工学アカデミー」の評議員にも選出された、最優秀の研究者である。
 2004年8月、46歳の若さで学長に就任すると、研究機関としての一段の拡充を進められ、全英トップ20大学で構成される「ラッセル・グループ」加盟にも到った。
 大学の教職員の4分の1が、高等教育アカデミーの会員とも伺っている。
 「教育とは“クイーンズ大学で体験すること”の異名」との自負が、誇り高い。

開かれた大学
 クイーンズ大学は、その「使命」として、文化・社会・経済の発展に貢献することを、明快に掲げている。なかでも、学生たちが中心となって舞台芸術や視覚芸術などを披露する芸術祭「ベルファスト・フェスティバル」は、世界的に高く評価される。
 この祭典は、厳しい紛争中も決して中断されることはなかった。執念の持続であった。
 「暴力」は人間を引き裂く。
 「文化」は人間を結び合う。
 この芸術運動が、どれほど敵対する人々の心と心を結び、和平と連帯への道標《みちしるべ》となったことか。それは、さらに「アルスター(北アイルランド)・ルネサンス」と謳われる新たな文芸興隆の拠点ともなったのである。
 詩の朗読会やパンフレットの出版などを通じて、いまだ無名の若き詩人を次々と世に送り出していった。クイーンズ大学の卒業生で、後にノーベル文学賞に輝く国民詩人ヒーニー博士も、その一人だ。
 時代がどうあれ、社会がどうあれ、今この場所で、直ちにできる平和への闘争がある。それは、目の前の一人の青年を励ますことだ。その若き生命から、力を引き出すことだ。
 授与式に先立つ語らいで、グレッグソン学長は晴れ晴れと明言された。
 「文化・芸術は平和を建設する偉大な要素です」
 「北アイルランドの文化、わが大学の文化は、私たちの核心であり、私たちの心です」
 それだけに、学長は、私が創立した民音を訪問されて、多くの啓発を受けたとも語ってくださった。
 ともあれクイーンズ大学は、歴史からの挑戦に敢然と応戦する中で、世界に示された。
 このキャンパスがある限り、この学生たちがいる限り、必ず明るい未来が開ける──そう市民に信頼され、地域に希望を贈ることこそ、「開かれた大学」の使命である、と。
        ◇
 創価大学では、この夏も、市民の方々と「学ぶ喜び」を分かち合う「公開講座」が活発に行われた。工学部で進めた桑の新品種の開発は、桑都と呼ばれてきた八王子市の経済活性化にも寄与している。
 地元の防犯・安全のための地道な取り組みや、地域と世界を結ぶ「周桜観桜会」の開催等々、八王子を愛する学生有志の英知の行動も清々しい。
 アメリカ創価大学でも、「インターナショナルフェスティバル」が伝統の地域行事になりつつある。今年の5月には、1万人を超える市民が集まってくださった。この
 「文化の祭典」はオレンジ郡教育局の文化プログラムに指定された。地元有力紙でも報じられるなど、広く市民に愛され、親しまれている。
 「知識は社会に貢献しなければ意味がない」──グレッグソン学長と深く一致した。

師恩に報いる
 学長の祖父君は、機械技師協会の会長を務めた大学者であられた。学長は、幼い頃から祖父の研究に魅了され、工学を志したのである。
 その若き学才は、学生時代の師匠・フラワー教授との出会いで、大きく花開いた。
 「師は私に教えてくれました。確固たる証拠に裏付けされた着想こそ、新たなる学問の地平を開く、と。
 そして私は、師から学びました。若い学生たちを、やる気にさせるには、どうしたらよいか、を──」
 探究においても、教育においても、この師匠の教えを、学長は誠実に実践されている。
 「師匠の存在は、いかなる人にとっても大変に重要なものです」──学長は、授与式の前日に訪問された創価学園で、学園生たちの真心の歓迎に応えて語ってくださった。
 「私が受けた数々の師の恩を言葉で語り尽くすことはできません」。師恩に生き抜く学長の心は、あまりにも尊い。
 私はベルファスト市が掲げるモットーを思った。
 「これほどの恩に、何をもって報いるべきか」
 わが胸中の師と常に語らいながら、報恩の誠を尽くす。
 そこには、人間の最も高潔にして尊貴なる生命が、絶えることない光を発するのだ。

学生第一!
 「創価教育の価値観は、クイーンズ大学の価値観と深く共鳴するものです」
 授与式で、グレッグソン学長は、そう宣言なされた。
 対話が弾むほど、クイーンズ大学と創価大学の共通の理念が響き合った。
 その一つは「学生第一」。
 「教育は、学生あってこそ」との学長の信念は固い。
 一個の人格として、学生に最大の敬意を払う。そして、学生が可能性を最大に発揮できるように献身する。この責任感に徹底しておられる。
 創価大学との学術交流協定についても、「紙の上だけの協定ではなく、人の人生そのものを大きく変革するものだと確信しています」と言われた。
 式典で学長は、私の敬愛してやまぬマンデラ元大統領の言葉を紹介された。「教育こそ最大の解放者なのです」──。元大統領もクイーンズ大学の名誉博士である。「教育に携わる者は、この叫びを、決して忘れてはならない」と、学長は結論された。
 授与式の翌日には、両大学主催のシンポジウムが開催された。協定を現実の上で一つ一つ、時を置かず前へ進めていかれる学長の電光石火の行動力に、皆が感嘆し敬服した。
        ◇
 両大学の二つ目の共通点は「世界市民の育成」である。
 クイーンズ大学には、世界90力国から2万4千人の学生が学ぶ。「クイーンズ・ファミリー」と呼ばれる、10万人を超える卒業生の輪は、世界に広がっている。創大からの留学生も、温かく迎えていただいており、感謝に堪えない。
 大詩人のヒーニー博士も、世界に開かれた母校を誉れとされた。大学とは、「土地の言葉」だけではなくして、幾つもの「普遍の言語」に出会い、マスターしていく環境であると振り返つておられる。
 「ローカル(地域)に生き、グローバル(地球大)に思考する詩人」と評価される詩心の原点は、紛れもなく母校クイーンズ大学にあったのだ。
 “弟の大学”たる創価大学でも、新たに「世界市民育成プログラム」が開設される。
 グレッグソン学長は、創価大学には「世界市民を育成するための環境が整っています」と評価してくださっている。
 学園生についても「学ぶことに対して大いなる熱意を持っている」、そして「国際的
な人材になりたいという強い意欲を持っている」と讃えてくださった。国を超えて、青年を愛し、見守る大教育者の慈愛に満ちた慧眼だ。
        ◇
 「クイーンズは壮大な旅の途上にあるといえましょう」
 学長はこう語られながら、さらなる高みへ前進される。
 式典の日、東京からも堂々たる富士山の雄姿が見えた。「4度目の来日にして、やっと見ることができました」と学長の顔がほころんだ。
 富士の如く嵐にも微動だにせぬ、大信念の人格を鍛え上げる──。共に目指す、教育の勝利の真髄が、ここにある。

 白き雲
  彼方に見ゆる
   富士の山
  威風厳たる
   不滅の勝者と

〈参考文献=風呂本武敏編『アイルランド・ケルト文化を学ぶ人のために』世界思想社〉

 ピーター・グレッグソン(1957年~)
 スコットランド生まれ。ロンドン大学インペリアル・カレッジで材料科学を専攻し、博士号を取得後、サウサンプトン大学へ赴任。航空宇宙材料学の教授を務める。 96年、英国素材鉱物採掘研究所「ローゼンハイム・メダル賞」受賞。サウサンプトン大学副総長補、英国王立工学アカデミー特別研究員などを経て、2004年にクイーンズ大学ベルファスト学長兼副総長に就任。アイルランド王立工学アカデミーの特別研究員、公認経営者協会員を務めるなど、多方面で活躍する。
2009-09-20 : 世界との語らい :
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新時代第32回本部幹部会

新時代第32回本部幹部会での名誉会長のスピーチ
     (2009.9.10 東京牧口記念会館)

永遠に勇猛精進だ!
我らは立ち上がる!


前へ前へ! 民衆と共に! 民衆のために!
宝の同志を仏の如く敬え
広宣流布に戦う学会員が最も偉大


 一、いつも変わらざる広宣流布への前進、本当にご苦労さまです。
 いついかなる時も、常に、「勇猛精進」の強い決意だけは、そして前へ前へ進んでいこうという決意だけは、忘れてはいけない。
 ともあれ、毎日毎日の広宣流布の戦い、本当にありがとう! ご苦労さま!(大拍手)
 きょう集った皆さんが、それぞれの地域の同志に、後輩の方々に、この私の心を伝えていただきたい。
 少し時間をいただいて、未来のために、スピーチを残したい。さっぱりとした、ゆったりとした気持ちで聞いていただきたい。

花の芸術部ありがとう!
ズポーツ部の健闘に喝采!


 一、きょうは、創価の花・芸術部の代表も参加してくださった。
 皆さん、いつも、いつも、ありがとうございます!(大拍手)
 皆さんの活躍の様子は、全部、うかがっている。
 また全同志が、熱い涙で、皆さんの奮闘に感謝の大拍手を贈っている。芸術部の皆様、本当にありがとう!(大拍手)
 スポーツ部の皆様の健闘もうれしい! ありがとう!(大拍手)
 婦人部の皆さん!
 女子部の皆さん!
 本当にご苦労さまです!(大拍手)
 さらに、海外からの同志の皆さん! ようこそお越しくださいました。ご苦労さまです!(大拍手)

最上第一の相伝とは?
 一、日蓮大聖人は、法華経の最上第一の相伝とは、“法華経の行者を、まさに仏のごとくに敬え”と述べられた経文にあると教えられた。
 〈御義口伝で、大聖人は、次のように仰せである。
 「この品(法華経普賢菩薩勧発品第28)の時に、最上第一の相伝がある。釈尊が8年にわたって説いた法華経を8字に留めて、末法の世の人々に譲り与えられたのである。
 その8字とは『当起遠迎当如敬仏(当に起って遠く迎うべきこと、当に仏を敬うが如くすべし)』の文である」(御書781㌻、通解)〉
 法華経を受持している者を見たならば、必ず、立ち上がって迎えるべきであり、まさに仏を心から敬うようにすべきである──。
 これこそが最上第一の相伝であり、法華経の中で一番大事なことだと教えてくださっている。
 この一点を断じて忘れてはならない。
 法華経の行者である日蓮大聖人の教えのままに進む、偉大な世界広宣流布の指導者の方々を、私たちは最敬礼して、お迎え申し上げたい。本当にご苦労さまです(大拍手)。
 とくに今回、真剣な求道の研修で来日されたSGI(創価学会インタナショナル)の友を紹介したい。
 アメリカの皆さん、台湾の皆さん、香港の皆さん、マレーシアの皆さん、韓国の皆さん──本当によくお越しくださいました。
 どうか、風邪などひかれませんように!
 各国・各地域の大切な大切な同志の皆様
に、くれぐれも、よろしくお伝えください(大拍手)。

創立80周年ヘ総仕上げを!
 ー、明年の「創価学会創立80周年」を荘厳ずる記念事業として、今、東京・新宿区の学会本部周辺も着々と整備が進められている。
 その一環として建設されてきた「本部第二別館」が先日、晴れ晴れと完成した(大拍手)。
 また関西では、新たに「常勝関西青年会館」が誕生することが発表された。本当におめでとう!(大拍手)
 いよいよ、これからである。これからが、本当の勝負である。
 万年に輝く広宣流布のため、そしてまた、仏法を基調とした平和・文化・教育の運動をさらに世界的な潮流へと広げていくため、種々、協議を重ねながら、日本中、世界中見事に総仕上げをしてまいりたい(大拍手)。

一流に共通する民衆奉仕の精神
 一、現在、私は、インドネシアのアブドゥルラフマン・ワヒド元大統領と対談を進めている。
 〈池田名誉会長とワヒド元大統領との対談「平和の哲学 寛容の智慧──イスラムと仏教の語らい」は、月刊誌「潮」10月号から連載がスタートした〉
 元大統領は次のように語られた。
 「今日に至るまで、私にたくさんの非難が向けられてきました。しかし、私は、正しく、そして強いので、耐えられています。
 私は、どんなことも恐れません」
 「今日まで、多くの民衆の利益のために戦い続けています」
 素晴らしい信条である。
 自分のためではなく、民衆のために戦い、民衆のために尽くしていく──私がお会いしてきた一流の人物に共通する哲学といってもいい。
 〈ワヒド元大統領は「私は、自分自身のことではなく大衆のことを重視する人間に惹かれました。私の心は、池田博士の心と同じです」とも語っている〉
 一、きょうは、南半球の「平和の先進国」ニュージーランド出身の「池田華陽会」のリーダーも参加されている。ご苦労さま!(大拍手)
 ニュージーランドの先住民マオリの英知の箴言に、こうある。
 「世界で最も大切なものは何か?
 それは、民衆だ! 民衆だ! そして、民衆だ!」
 正しい。その通りだと思う。
 民衆である。一番大事なのは、一番強いのは。庶民の信念にこそ真実はあるのだ。
 なかんずく、広宣流布のために戦う学会員の皆様こそ、最も偉大であり、最も大切な存在である。
 私が若き日から愛読してきた、アメリカの民衆詩人ホイットマンは歌った。
 「私は、民衆の中から、民衆の心で進む」
 民衆とともに!
 民衆のために!
 常にこの原点に立ち返れば、無限の力
と、無量の智慧が湧いてくる。
 戸田先生は、「学会の大地は、全民衆から盛り上がる力に満ちている」と大確信で訴えておられた。
 正義の民衆の力ほど偉大なものはない。
 民衆の連帯の力で断固、勝ち抜くのだ。

師弟に生き抜く勝利者と光れ!
 一、古代ギリシャの大哲学者ソクラテスは叫んだ。
 「永久により有益でもあり、より立派でもあることを成し遂げた者、その者こそ勝利者である」(クセノポン著、船木英哲訳『ソクラテスの弁明・饗宴』文芸社)
 嫉妬と中傷によって不当に死刑を宣告された正義の師・ソクラテス。彼は、自らの思想を書物に書き残すことはしなかった。
 しかし、プラトンをはじめとする弟子たちが立ち上がった。そして、師匠の思想を著作に書き残して、その偉大な精神を永遠ならしめたのであった。
 師匠ソクラテスの勝利は、後世の弟子が実証したのである。
 ともあれ、人生の勝負は、長い目で見なければ分からない。
 ましてや、仏法という永遠の次元から見れば、移ろいゆく、さまざまな評価など、どれも、はかないものである。
 我らの広宣流布は、人類の幸福の大道を開きゆく永遠の大事業である。
 この広布に生き抜く創価の師弟こそ、永遠の栄光と福徳に包まれる、生命の大勝利者なのである(大拍手)。

成55周年 日本一の音楽隊万歳!

信心とは勇気!
 一、先ほどは、音楽隊が見事な演奏をしてくださった。
 「日本一の音楽隊、いつも、ありがとう!
 結成55周年、万歳!
 全国大会への出場、本当におめでとう!」と、若き楽雄の皆様に心から感謝申し上げたい!(大拍手)
 〈音楽隊の創価グロリア吹奏楽団は6日、第49回「東京都吹奏楽コンクール」の「職場・一般の部」で「金賞」に輝き、6度目となる全国大会出場を勝ち取った。音楽隊の関西吹奏楽団も全国大会出場を決めている〉
 19世紀後半から20世紀前半に活躍したオーストリアの音楽家マーラーが若き弟子に贈った言葉を皆さんに捧げたい。
 「勇気を出して頭《こうべ》を上げろ!」
 「君には洋々たる前途が控えているのだ」
 「ひたすら勇気あるのみ」(ヘルタ・ブラウコップフ編、須永恒雄訳『マーラー書簡集』法政大学出版局)
 勇気! 勇気!
 これしかない。
 信心とは、勇気の異名である。
 我らは不屈の勇気で、断固として立ち上がろう!(大拍手)

仏法には微塵も無駄はない
 一、学会創立80周年へ、いよいよ新たなスタートである。
 ドイツの文豪ゲーテは「われらが魂の炎を更新せよ!」(片山敏彦「盟約の歌」、『ゲーテ全集第1巻』所収、改造社)と謳った。
 一日一日、生まれ変わったように生きる。その人生には感傷もない。愚痴もない。
 堅実な一歩一歩が、必ず偉大な使命の人生となっていく。これが「創価の道」であり、妙法の「師弟の道」である。
 わが恩師・戸田先生は語られた。
 「一生のすべての体験が生きてくるのだ。何ひとつ、塵も残さず、無駄はなかったことが分かるのです。これが妙法の大功徳です」
 塵も残さず、無駄はない──先生のおしゃる通りだ。
 信心の眼で見れば、必ず全部、意味がある。
 学会活動は、人のために歩き、心を砕く、尊き修行だ。御聖訓通りの悪口罵詈を浴びて、苦労することもあるかもしれない。
 しかし、悔いなく戦い抜いた人は強い。私は全国の健気な同志に対して、もう一度、「日々の広布の戦い、本当にありがとう。ご苦労きま!」と心から申し上げたい(大拍手)。

“誰かがやる”との油断を排せ!
 一、「命をかけた人間でなければ、命をかけた人のことはわからない」
 戸田先生の言葉である。
 先生は厳しかった。今の私には、先生のお気持ちが、手に取るようにわかる。
 「不惜身命」が学会の魂である。“誰かがやるだろう”という油断ほど、恐ろしいものはない。
 「自分がやる」以外にないのだ。まず、自分がやる。そのうえで他人に頼むのはいい。自分がやらないで他人に押しつける。リーダーにそのようなずるさがあれば、根本から崩れてしまう。
 私は命をかけて戦った。そしてここまでやってきた。
 若き日より師に仕えた人生である。22歳の私は、苦境を迎えた戸田先生の事業を、人知れず支える心情を日記に記した。
 「一念三千の大波動を、常に、つくりゆけ。
 信念だ。苦闘の連続、その中に、生き、勝ち、証明してこそ、偉大なことなのだ」
 これからの学会を担う諸君もまた、「すごい勢いだな!」と感嘆されるような歴史をつくっていただきたい。

皆のために動けば力がつく
 一、草創期の関西の同志に宛てて、青年時代の私は次のように綴った。
 「皆が楽しんで、信じながら、闘争してゆける指導者に。
 一度会えば、皆が安心し、皆が喜んで、苦悩を吹き飛ばしてゆける指導者に。
 兵の将たるは易く
 将の将たるは難し」
 力がなければ、厳しき現実を勝ち抜いていくことはできない。
 リーダーは、御本尊に祈って力をつけるのだ。
 皆のために尽くせば実力がつく。
 逆に、自分の保身のために人を動かせば、成長などしない。それどころか、本来、持っていた力まで減っていってしまう。
 また、ある関西の同志に、「隼の如く 速く 猛虎の如く 強く進め」と認めた扇を託したこともあった。
 私は「大阪の戦い」をはじめ、関西中をまわって、常勝の歴史をつくった。
 わが愛する関西に対する思いは、今も微塵も変わらない。

「創価の母」に心から感謝

学会の土台
 一、ここで「母」にっいての詩を紹介したい。
 母ほど尊い存在はない。学会でいえば婦人部だ。本当に大切な方々である(大拍手)。
 マレーシアの国民的な芸術家P・ラムリーの詩の一節である。
 「母よ 母よ
 貴女《あなた》こそ 私の心の女王だ
 私が苦しみに苛まれるとき
 貴女はいつも私を励ましてくれた」
 「どんなことがあっても貴女だけは
 私の人生に いつも光を贈ってくれた」
 「母よ 母よ
 貴女こそ 私の心の女王だ」
 素晴らしい言葉だ。
 「創価の母」である婦人部の皆様、いつもありがとう!(大拍手)
 婦人部が、「お母さん」が学会の土台である。すべてを支える偉大な存在なのである。

戸田先生
信心を磨くのだ


変毒為薬だ!
 一、戸田先生は、苦難と闘う同志に対して指導された。
 「今が勝負だぞ。難があった時に、信心し抜いていけば、あとは功徳が大きい。題目を唱え切れ!」
 「信心を磨くのだ。磨けば磨くほど、何でも転換できる。変毒為薬できるのだ」
 また先生は、経済的に苦境にあった友を、こう励まされた。
 「たとえ一時的に損をしたように見えても、信心さえ貫けば、元の10倍にもすることができる。これが、変毒為薬というものだ」
 どこまでいっても、根本は信心だ。強盛な信心を貫いていけば、必ず勝利の人生を飾っていける。
 何も心配などいらない。断じて戦い抜いていくことだ。

「同志を頼むよ」
 一、先生は、こうも言われた。
 「会員を大切に頼むよ! 頼むよ!
 学会員は大聖人の子どもである。大聖人の仏法を流布している仏さまである。
 ゆえに、大切に励ましていくのだ」
 深く心に刻んでいくべき指導である。
 リーダーは、徹して会員を励ましていくことだ。
 先生の指導を、私は妻とともに大切に書きとどめてきた。夜中までかかって記録したこともある。後世のために。未来のために。
 これは、その一つである。
 それほど師匠の指導というのは、大切なのである。

人間の中へ!
 一、インドネシアの大詩人で、劇作家のレンドラ氏。
 「インドネシアの良心」と謳われた氏は、学会の平和・文化・教育の運動に大きな期待を寄せてくださった。
 レンドラ氏は綴っている。
 「闘うってことはすなわちしゃべるってことだ」(印堂哲郎編訳『レンドラ その前衛の詩宇宙』財団法人大同生命国際文化基金)
 リーダーは、元気いっぱい、力強い声でしゃべることだ。
 「声仏事を為す」(御書708㌻)である。大事なのは対話の力だ。
 人間の中へ、友の中へ飛び込み、笑い合い、握手し合い、肩をたたき合いながら、語る。
 どうか皆さんは、そういう、生き生きと、温かな人間の心が通い合う光景をつくっていっていただきたい。
 また、アルゼンチンの人権の闘士で、ノーベル平和賞を受賞したエスキベル博士は述べておられる。
 「偉大な革命家とは、日々行動し、日々変革し、日々平和のために戦う人を言うのです」
 行動し続ける。戦い続ける。その人が歴史を切り開くことができる。
 博士は私の大切な友人だ。創価の青年に対して、世界を変革しゆく原動力として大きな期待と信頼を寄せてくださっている。
 間もなく、私との対談集も発刊される予定である。

試練が宝に!
 一、このほど、創価大学のキャンパスに、インドの詩聖タゴールの像が設置された。
 創価大学も、女子短大も、創価学園も、そしてアメリカ創価大学も、見事な大発展を続けている。
 タゴールは叫んだ。
 「きびしい試練が大きければ大きいほど、
われわれの力は強まったり行きわたったりするのです。
 この苦しみによって得られたものは、しだいにわれわれの精神にとってのほんとうの宝となってゆきます」(蛯原徳夫訳「議長あいさつ」、『タゴール著作集第8巻』所収、第三文明社)
 苦難に立ち向かい、壁を破るたびに、一歩大きな自分へと成長できる。金剛不壊の生命を鍛え上げていけるのである。
 一、大聖人も参照なされていた中国の古典『淮南子《えなんじ》』には、次のように記されている。
 「巧みな者は善く未来を推し度り、知恵あ
る者は善く将来に備えるものである」(楠山春樹著『新釈漢文大系62』明治書院) 
 未来の勝利を見据えて、先手、先手を打っていくことだ。絶対に油断してはならない。
 仏法は「現当二世」のためにある。
 現在から未来へ、常に“さあ、これからだ!”と、大いなる希望に生き抜いていくのだ。

負けるものか!と強盛な折りを
 一、最後に、戸田先生の指導を贈ってスピーチを結びたい。
 先生は病と闘う同志を、こう励ましておられた。
 「『三障四魔なにするものぞ! 負けてたまるか!』と、きょうよりは大確信をもって、御本尊に唱題し、祈念していきなさい。
 広宣流布の使命に立つ人間が、勝てないわけがないのである」
 先生の確信は、ものすごかった。深き慈愛の大指導者であられた。
 ともあれ、私たちは、何があっても真剣に御本尊に祈っていこう! 頼むよ!〈参加者から「ハイ!」と元気な返事〉
 ありがとう!(大拍手)
 〈ここで名誉会長の導師で、全員で唱題した〉
 皆さん、お疲れのところ、本当にありがとう! ありがとう! サンキュー!
 お元気で!(大拍手)
2009-09-15 : スピーチ・メッセージ等 :
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御書と師弟 源遠流長

池田名誉会長講義 御書と師弟 
              (2009.9.10付 聖教新聞)

第26回 源遠流長《げんおんりゅうちょう》

威風堂々と世界広布へ
我らは末法万年の先覚者!


御聖訓
 「日蓮が慈悲曠大ならば
 南無妙法蓮華経は万年の外
 未来までもなが《流布》るべし」    (報恩抄、御書329㌻)

 永遠に
  広布と創価の
    人生は
  勝利と功徳の
     仏の人びと

 新しき舞台の開幕だ!
 新しき時代の号砲だ!
 創立80周年へ、世界192力国・地域の同志と共に、新たな大行進が始まりました。
 「願くは我が弟子等・大願ををこせ」(御書1561㌻)
 「大願とは法華弘通なり」(同736㌻)
 創価学会は、広宣流布の団体です。日蓮大聖人の妙法を世界に弘め、民衆を幸福にしゆくことこそ、我らの「大願」です。
 この大願に生き抜く偉大な使命のリーダーは、いついかなる時も、元気いっぱい堂々と、勇猛精進していくのです。
 末法万年の人類を照らす大法を弘通し、恒久平和へ根本的な寄与を果たしているのが、創価の師弟です。この誇り高き大遠征は、燃え上がる「勇気」と「確信」、そして「智慧」と「不屈の精神」がなければ、成し遂げることはできない。
 今回拝読する「報恩抄」の一節は、広宣流布の根本の大精神を示された御聖訓であります。
 「日蓮が慈悲曠大ならば南無妙法蓮華経は万年の外・未来までもなが(流布)るべし、日本国の一切衆生の盲目をひらける功徳あり、無間地獄の道をふさぎぬ」(同329㌻)
 大聖人の広大無辺の大慈大悲によって、南無妙法蓮華経は、万年、そして未来までも流布しゆくのだ、との御断言です。
 私たちの広宣流布の大運動は、「全世界」が舞台であり、「一万年」の彼方をも視野に入れています。この壮大なスケールに立って、一切を悠然と見晴らして戦い進んでいくことだ。
 汝自身の生命の旅も、三世永遠であります。目先のことで、一喜一憂することはありません。妙法を唱え弘めて生きる人生は、「苦をば苦とさとり楽をば楽とひらき」ながら、自他ともに、どこまでも「常楽我浄」の軌道を悠々と上昇していけるからです。
 報恩抄は、建治2年(1276年)の7月、大聖人が身延の地から、安房国(現在の千葉県南部)の浄顕房と義浄房の二人に与えられた御書です。師であった道善房の死去に際して送られました。
 この御文は、本抄の結論です。法華経の肝心である南無妙法蓮華経こそ、末法万年尽未来際の一切衆生を救う大法であることを宣言されています。
 そして、妙法を弘通なされた大聖人の功徳が、故・道善房に集まることを明かされ、報恩の証しとされているのです。
 一切衆生の苦を、わが苦となされる大聖人の慈悲の大きさ、深さは、計り知れません。その不惜身命・死身弘法の大闘争には、人間の苦悩の元凶である無明を、完璧に打ち破る力が漲っております。だからこそ、末法万年にわたり、無間地獄への道をふさぐことができるのです。

「源」ありて清流が
 「根ふかければ枝しげし源遠ければ流ながし」(御書329㌻)──大聖人は、報恩抄でこう述べられています。
 どのような時代の転変、社会の振幅があろうとも、大聖人の仏法が一閻浮提へ広宣流布していくことは断じて間違いない。「一定《いちじょう》なるべし」です。
 それはなぜか。絶対に尽きることのない「源」があるからです。この「源」から滾々と湧き出ずる妙法流布の清流は、永劫に止まることはありません。
 日蓮仏法は、その深遠《じんのん》なる哲学性のゆえに、国家や民族など、諸々の差異を超えて、全人類の心を潤すことができる。
 金剛の信念の先師・牧口常三郎先生は、「行き詰まったら原点に戻れ」と教えられました。
 大聖人が唱え出《いだ》された南無妙法蓮華経には、無量無辺の大功力があります。どんな試練が行く手を阻もうとも、この題目を唱えれば、久遠元初の大生命に立ち返ることができる。その瞬間から、新しい勝利勝利の旭日が燦然と輝き始めるのです。
 ブラジルの天文学者モウラン博士も語られました。
 「『南無妙法蓮華経』という音律には、宇宙が創り上げられていくような根源のエネルギーを感じます」と。
 題目の力用は、宇宙大です。
 恩師・戸田城聖先生は、厳然と言われています。
 「この大宗教を信ずることによって、生命のリズムは宇宙のリズムに調和し、生きている幸福をしみじみと感ずるのである。生命の歓喜こそ、幸福の源泉力である」
 幸福になるための信心です。そして絶対に幸福になれる仏法です。何があっても、安心して朗らかに、異体同心で、題目を唱え抜いていってください。

主師親の三徳の光
 今回の報恩抄の御文を、日寛上人は「主師親の三徳」に配されました。
 「日蓮が慈悲曠大ならば……ながるべし」=「親の徳」。すなわち民衆を慈しむ働きです。
 「日本国の一切衆生の盲目をひらける功徳あり」=「師の徳」。すなわち民衆を導く働きです。
 「無間地獄の道をふさぎぬ」=「主の徳」。すなわち民衆を護る働きです。
 この御聖訓には、日蓮大聖人こそ、「主師親の三徳」を具えた末法の御本仏であられるとの元意が込められているのです。
 この御文の前には仰せです。
 「一閻浮提の内に仏滅後・二千二百二十五年が間一人《いちにん》も唱えず日蓮一人・南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経等と声もをしまず唱うるなり」(御書328㌻)
 大聖人がただ御一人から開始された、この末法広宣流布の大闘争を、現代に正しく受け継いでいるのは誰か。
 我ら創価の友以外には、絶対におりません。
 戸田先生は、関西の天地で師子吼なされました。
 「百年の大計、いな何千年の平和の大計を立て、もって日蓮大聖人の御恩に報ずるとともに、民衆万年の幸福を確立することが、創価学会の使命である」
 この師の心を、わが心に炎の如く燃えたぎらせて、人間の中へ飛び込んでいく。そして一人また一人と、信念の対話を繰り広げる。これが学会精神です。
 この創価の師弟の源流に立ち戻っていく限り、広宣流布の前進の力は満々と漲ります。そこには、弱々しい臆病な命などない。そしてまた、傲り高ぶった増上慢の命もありません。
 君が愁いに我は泣き
 我が喜びに君は舞う──
 移ろいゆく人の世にあって、私たちは、変わらざる人間の心の深く強き結合をもって、威風も堂々と前進していくのです。
 仏教発祥の天地インドの大哲人であるロケッシュ・チャンドラ博士も、日蓮大聖人が提起された「主師親の三徳」を、現代に力強く展開しているのが、創価の師弟であると讃えてくださっております。
 敷衍していえば、「勇気」(主の徳)、「智慧」(師の徳)、「慈愛」(親の徳)──。この三徳を具える世界市民の登場こそ、荒れ狂う迷いの海に漂う人類の精神を目覚めさせる。その菩薩の大連帯を、博士はSGIに見出されているのです。
 創価の平和・文化・教育の運動も、この「主師親の三徳」を、社会における「価値創造」の原理として具現化したものです。
 生命の尊厳を護る「主の徳」を目指すのは、平和の貢献です。
 青年を正しく導く「師の徳」を体現するのが、人間教育です。
 人類の心を耕し、結び合う「親の徳」は、文化の交流です。
 この平和・文化・教育の大城は、いよいよ21世紀の希望とそびえ立っております。
 報恩抄には、こう仰せです。
 「極楽百年の修行は穢土の一日の功徳に及ばず、正像二千年の弘通は末法の一時に劣るか」(同329㌻)
 万年の未来を思えば、我らはまだまだ草創期です。万代に崩れざる盤石な土台を築いているのだから、苦労も多い。悪口罵詈も猶多怨嫉の難も必然です。
 だからこそ、現在の仏道修行が、いかに時に適い、その功徳がいかに大きいか。子孫末代にわたる大福運を積む信心は、今の一日一日にあります。不思議な“時”が来ているのです。
 御書には、この世の栄耀栄華など「夢の中の栄え」「幻の楽しみ」に過ぎない、はかなく消え去ると喝破されております。
 60年前の昭和24年の9月、私は日記に綴りました。
 「正義の剣を持《じ》し、戦う者は、必ず、歴史が証明することだろう。大聖人の照覧なれば、断じて恐れてはならぬ。卑屈になってはならぬ。雄々しく進め。大胆に進め」
 「今日の日に、最上を尽くすとき、未来は、必ず光明に輝く。歓喜の焔は燃えたってくる」
 広宣流布に生き抜く栄光と福徳は、不滅であります。歴史を残せるのが、人間です。そして、最も尊き歴史を永遠に残していけるのが、仏法なのです。
 我らの舞台は、世界です。
 我らの友人は、人類です。
 我らの栄光は、永遠です。
 さあ、「慈折広宣流布」の壮大なるスクラムを、愉快に勇敢に広げようではありませんか!

 君ありて
  広布の流れは
    幾重にも
  万年までも
    輝き渡らむ
2009-09-10 : 御書と師弟 :
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記念提言 『核兵器廃絶へ 民衆の大連帯を』

『核兵器廃絶へ 民衆の大連帯を』
   戸田第2代会長生誕110周年 記念提言(全文)(2009.9.8/9 聖教新聞)

 明年の戸田第2代会長生誕110周年の開幕を記念し、池田SGI(創価学会インタナショナル)会長は、戸田会長が「原水爆禁止宣言」を発表したきょう9月8日に寄せて、「核兵器廃絶へ 民衆の大連帯を」と題する提言を発表した。提言ではまず、世界で核拡散の脅威が高まる中、アメリカのオバマ大統領が「核兵器のない世界」への決意を表明するなど、変化の兆しが見られることに言及。この動きを確かな潮流へと高めるためには、歴史家のトインビー博士が促していたように、各国が自らの意志で必要な変革に踏み出せるよう、歴史の教訓を真摯に学ぶ必要があると強調。その上で、戸田会長の「原水爆禁止宣言」の現代的意義として、「政治指導者の意識変革」「核兵器禁止の明確なビジョン」「人間の安全保障のグローバルな確立」の3点を挙げ、人類の生存権を守る立場から核兵器を絶対悪と位置付けた先見性について論じている。続いて、「核兵器のない世界」の実現に向け、①核軍縮②市民社会との協働体制③核拡散防止④「核兵器に依存しない安全保障」への移行⑤核兵器の禁止、の5項目にわたる提案を。核兵器ゼロに向けた保有国による軍縮促進のための措置をはじめ、国連に「核廃絶のための有識者パネル」を創設し、核拡散防止条約に「常設作業部会」を設置するプランを提唱。民衆のグローバルな連帯の力で「核兵器禁止条約」の基礎となる国際規範を確立することを呼びかけている。

地球上から「悲惨」の二字をなくす
人類共闘の限りなき挑戦を!


正念場となるNPT《核拡散防止条約》再検討会議

 世界を分断し、破壊する象徴が核兵器であるならば、それに打ち勝つものは、希望を歴史創造のカヘと鍛え上げる民衆の連帯しかない──。
 20世紀を代表する科学者であるアインシュタイン博士が、生涯で唯一の過ちと悔いていたものがありました。
 アメリカにナチスの原爆開発の危険性を伝え、早急な対応を求める手紙に署名し、ルーズベルト大統領に送ったことです。
 「戦争の理由が何であれ、私は戦争への奉仕は直接的なものも間接的なものも絶対に拒否する」(アリス・カラプリス編『アインシュタインは語る』林一・林大訳、大月書店)と宣言していた博士が、知人の科学者の要請があったとはいえ、なぜこのような決断を下したのか。
 原爆の破壊力を誰よりも察知できたがゆえに、ナチスが先に手にした場合の世界の行く末に、底知れぬ恐れを抱いたためと言われています。
 年来の主義に反して署名した博士の思いは、軍事の論理の中で置き去りにされていった。しかも、ナチスの敗戦で核開発の意味は失われたと安堵した矢先、原爆が広島と長崎に投下された──。言語に絶する衝撃を受け、亡くなるまでの10年間、核兵器の廃絶を世界に訴え続けたことは、あまりにも有名です。
 「最初の原子爆弾が完成して以来、世界を戦争から守るためには、何事も完成されておりません。ところが一方では戦争の破壊力を増すために多くのことがなされてきました」(『晩年に想う』中村誠太郎・南部陽一郎・市井三郎訳、講談社)
 この言葉をアインシュタイン博士が述べたのは、1947年でした。その前年に、国連で論議された原子力の国際管理構想〈注1〉が挫折し、ソ連やイギリスが核兵器開発に乗り出す中で、憤りを込めて同じ文章の中で、その警告を三度《みたび》繰り返したのです。
 この47年は、私が師の戸田城聖第2代会長に初めて出会った年でもありました。
 師は、軍国主義に抗して、2年に及ぶ獄中闘争を貫き、戦後は平和を求める民衆運動の先頭に立ちました。
 そして、ソ連がアメリカを後追いして核実験に成功し、その事実を認めた直後(49年10月)に、「原子爆弾による戦争が起こったならば、世界の民族は崩壊の道をたどる以外にない」(『戸田城聖全集第3巻』)と警告していたのです。

危機が増す中で見え始めた動き
 以来、核兵器が対峙する時代に突入してから60年が経ちますが、アインシュタイン博士の警告への抜本的な対応はなされていません。むしろ、危機の度を増している。
 冷戦の終結以降、世界規模での核戦争の脅威は薄れつつあります。しかし、核拡散が進んだ結果、今や核兵器を保有する国は、核拡散防止条約(NPT)が発効した時点と比べて、倍近くに達しようとしています。
 いまだ世界に核兵器が2万5000発も存在すると言われる一方で、闇市場を通じて製造技術や核物質が流出し、核兵器を用いたテロという想像を絶するような新しい形の脅威を懸念する声も高まっています。
 こうした中、アメリカのオバマ大統領が2009年4月にチェコのプラハでの演説で、核兵器を使用したことがある唯一の核保有国としての「道義的責任」に言及しつつ、「核兵器のない世界」に向けて先頭に立つ決意を表明しました。
 そして、ロシアのメドベージェフ大統領と2度にわたって首脳会談を行い、第1次戦略兵器削減条約(START1)に続く新しい核軍縮条約の枠組みに合意しました。
 その後、7月にイタリアのラクイラで開催されたG8サミット(主要国首脳会議)で、「核兵器のない世界のための状況をつくること」を約束する首脳声明が発表されました。
 更に、今月24日には、国連安全保障理事会の「核不拡散と核軍縮に関する首脳級会合」が予定されるなど、これまでにない動きが次第に見られるようになっています。
 これらの一連の動きが、果たして本当に、時代転換への新たな潮流を生み出すことにつながるのかどうか──。その正念場となるのが、来年5月に開催されるNPTの再検討会議でありましょう。
 前回の2005年のNPT再検討会議では、核軍縮の優先的な対応を求める主張と、核拡散防止の優先を求める主張が対立し、残念ながら、成果を得られないまま閉幕しました。
 その轍を踏まぬよう、2009年のジュネーブ軍縮会議においてカットオフ条約(兵器用核分裂性物質生産禁止条約)の交渉開始がようやく決定するなど、歩み寄りの兆しは見え始めてはいます。
 しかし、世界を覆う核時代の暗雲は、表面的なムードの変化だけで打ち払えるものではありません。
 “核兵器の存在が、どれだけ世界を不安定にし、人類を脅威にさらしているのか”との、政治や軍事上の利害を超えた根源的な問い直しが、絶対に避けて通れないと思うのです。

トインビー博士が呼びかけた心構え
 そこで私が提起したいのは、歴史家のトインビー博士の言葉です。
 博士が大著『歴史の研究』(長谷川松治訳『トインビー著作集2』所収、社会思想社)で、「われわれのどうしても回避することのできない挑戦」として、人類に等しく応戦を呼びかけたのが、核兵器の問題でした。
 私との対談でも、核兵器の保有を拒否する「自ら課した拒否権」を世界全体で確立しなければならないと、遺言のように訴えていたことが忘れられません(『二十一世紀への対話』、『池田大作全集第3巻』所収)。
 博士は、人類がその応戦に臨む心構えについて、次のように述べられていたことがあります。
 「私たちに深く浸透した習慣と革命的に訣別したり、慣れ親しんできた制度を放棄する辛さには感情的な抵抗があるだろうが、それは自己教育によって乗り越えなければならない。核時代においてはそれは力では破れない。ゴルディウスの結び目〈注2〉は剣で一刀両断に断ち切られる代りに辛抱強く指でほどかれなければならないのである」(『現代が受けている挑戦』吉田健一訳)

胸襟を開いた「対話」こそ平和建設のカギ
歴史の教訓から活路探る努力を


核兵器を“絶対悪”と指弾した戸田会長の「原水爆禁止宣言」

 これまで、核戦争の惨事は何とか避けられてきました。しかし今、核兵器をめぐる不安定要素が増す中で、核兵器を保有するすべての国と、核兵器に安全保障を依存する国々の指導者たちは、以下の自問を行うことが求められているのではないでしょうか。
 「核兵器は本当に必要なものなのか。なぜ持ち続けなければならないのか」
 「なぜ他国の核保有は問題で、自国の核保有は問題ないと言い切れるのか」
 「今後も、人類には核兵器の脅威の下で生きる選択肢しかないのか」と。

終末時計に込めた科学者たちの憂慮
 そこで、「自己教育」というトインビー博士の言葉を手がかりに、これらの自問にも関わる歴史の教訓を掘り下げてみたい。
 まず、核兵器誕生の前後に科学者たちが直面した葛藤に焦点を当て、核兵器に対する考え方を問い直していくことです。
 今や存在が当たり前のようにみなされている核兵器ですが、その誕生に携わった少なからぬ数の科学者が憂慮や躊躇を示していた“望まれない兵器”であったことを、まず思い起こす必要があります。
 第2次世界大戦が始まる前年(1938年12月)、ベルリンでウランを使って人工的に核分裂を引き起こす実験が成功しました。
 実験に携わった科学者オットー・ハーンは、その恐ろしい可能性に気づき、手持ちのウランをすべて海に投棄して、自殺することを考えたほどだったといわれています。また翌39年に、原爆製造の次の関門とされた核分裂の連鎖反応の可能性を立証したレオ・シラードも悲劇を予感し、「私は世界が悲しみに向かっていることを知った」と述べざるを得ませんでした(シドニー・レンズ著『核兵器は世界をどう変えたか』矢ケ崎誠治訳、草思社)
 そして、シカゴ大学の原子炉で連鎖反応の制御が成功し、マンハッタン計画が軌道に乗った後、いよいよ最初の核実験が行われるという直前(45年7月)に、兵器としての使用を見合わせるよう求める請願書をまとめたのも、同大学で核開発に携わった科学者たちだったのです。
 思えば、私がシカゴ大学を訪れたのは、SGIの発足を目前に控えた75年1月のことでした。大学首脳との会談や図書館の視察を行った折に、キャンパスの一角にある核開発の記念碑を目にし、往時の科学者たちの呻吟や苦衷に思いを馳せたことを覚えています。
 その1週間ほど前にニューヨークの国連本部を訪問し、創価学会青年部が集めた核廃絶を求める1000万人の署名簿を提出したばかりでした。それだけに、核廃絶への決意がひときわ強く胸に刻まれました。
 シカゴ大学には「終末時計」が設置されており、核戦争の危険度が、世界の状況の変化に応じて、そのつど示されてきました。
 私たちは、こうした核開発の裏面史を見つめ直し、「終末時計」に込められた先人たちの憂慮の意味をかみしめていく必要があるのではないでしょうか。

先入観やイメージで目を曇らせない
 次に、核時代の中で起こった危機や出来事に政治指導者がどう対応したのかを振り返り、その経験と教訓から学ぶことです。
 現代史をひもとくと、これまで何度も核兵器の使用が検討された事態があったことがわかります。なかでも最も深刻で切迫したのが、米ソが核戦争の瀬戸際に立たされた、62年10月のキューバ危機でした。
 このキューバ危機を経た後のケネディ大統領の行動として注目すべきは、ソ連との平和共存の可能性を探る前提として、敵意や偏見を払拭する重要性を呼びかけていた点です。
 「平和の戦略」と題する有名な演説(63年6月)で大統領は、ソ連によるアメリカヘの非難に言及した上で、こう訴えました。
 「このようなソ連の言い分を読み、米ソ間の間隙がいかに大きいかを知ると、悲観せざるを得ません。しかし、それは同時に警告であり、ソ連と同じような落し穴に陥らないよう、相手方のゆがめられた絶望的な見方だけ見ることのないよう、紛争を不可避と考えたり、協調を不可能と見たり、コミュニケーションは形容詞や脅し文句の交換以上の何物でもないと思ったりすることがないよう、アメリカ人に警告しているのです」(長谷川潔訳『英和対訳ケネディ大統領演説集』、南雲堂)と。
 先入観やイメージにとらわれて目を曇らせてはならないとのメッセージです。この点は、核時代における「ゴルディウスの結び目」を解く上で欠かせない要件だと思われます。
 事実、私は74年に中国とソ連を相次いで初訪問し、両国の首脳との会談で緊張緩和の道を探った時、そのことを強く実感しました。
 平和を希求する一人の仏法者として、“どの国の民衆も戦火など望んでいない。この機を逃さず、何としても橋渡しをしなければならない”との覚悟で民間外交に臨んだのです。
 初訪中から3カ月後(74年9月)に、ソ連のコスイギン首相と会見した際、私は、首相が味わったレニングラード攻防戦の悲劇の話を伺った後で、単刀直入にこう申し上げました。
 「中国の首脳は、自分たちから他国を攻めることは絶対にないと言明しておりました。しかし、ソ連が攻めてくるのではないかと、防空壕まで掘って攻撃に備えています。中国はソ連の出方を見ています。率直にお伺いしますが、ソ連は中国を攻めますか」
 すると首相は、「ソ連は中国を攻撃するつもりはありません」「中国を孤立化させようとは考えていません」と明言された。
 時を置かずして私は、その意向を中国の要人に伝える一方、アメリカに赴き、キッシンジャー国務長官と米中関係や戦略兵器制限交渉(SALT)について意見交換をしたのです。
 一連の会談を経て得た教訓は、「どんなに状況が厳しくても対話が打開の糸口となる」「相手の意思を正確に知るには、胸襟を開いて語り合う以外にない」の2点であります。
 思うに、互いの心の壁を取り払う対話の精神を足場に、核廃絶の可能性が真剣に論じ合われたのが、86年10月にレイキャビクで行われた米ソ首脳会談ではなかったでしょうか。
 この年の年頭、ゴルバチョフ書記長が核兵器の全廃構想を示した時、レーガン大統領も前向きに受け止めようと考え始めた。反対する側近にも、「私はソフトになるつもりはない……。しかし、私には核兵器のない世界という夢がある。われわれの子や孫をこんな恐ろしい兵器から解き放ちたいのだ」と、正直な思いを語ったといいます(太田昌克著『アトミック・ゴースト』、講談社)
 一方のゴルバチョフ書記長も、同年4月に起こったチェルノブイリ原発の事故に強い衝撃を受け、決意をさらに固めていた。
 そして、首脳会談で率直な意見が交わされる中、“96年までの10年間で一切の核兵器をゼロにする”との方針で一致をみかけた。しかし最終段で、戦略防衛構想(SDI)をめぐって意見が折り合わず、歴史的な合意は幻に終わってしまったのです。
 会談に立ち会ったシュルツ元国務長官をはじめ、キッシンジャー博士ら4人の元高官が2007年に「核兵器のない世界」と題する提言〈注3〉を発表し、大きな反響を呼びました。
 核の脅威が深刻化する今、レイキャビク会談で合意しかけた核兵器全廃の可能性を、もう一度真剣に探るべきではないか──。共同提言の出発点は、まさにそこにあったのです。
 以前、ゴルバチョフ氏と会談した折(2001年11月)、当時の話を詳しく伺う機会がありました。
 氏は、こう述懐されていました。
 「私たちは、“アメリカがどういう態度であろうと、こちら側が主導権をとって、絶対に対話の場をつくる”という決意で臨みました。じつは、ソ連が一歩踏み出すこと自体が非常に重たい仕事でした。そのソ連が態度を変え、対話をしようと呼びかけた。今までにないことです。だから、アメリカのレーガン大統領も態度を変えざるを得なかった──そう私は思います」と。
 私は、レイキャビク会談に象徴される首脳対話の3つの教訓──①明確な危機意識に基づくビジョンの共有②他国の反応にかかわらず、自発的にイニシアチブを発揮する確固たる意志③交渉が難航しても、最後まで失われなかった相互の信頼感──を、未来への懸け橋とし、核時代における「ゴルディウスの結び目」から人類を解き放つ挑戦に、各国の指導者が手を携えて立ち上がるべきだと訴えたいのです。

逝去の7カ月前に青年に託した遺訓
 オバマ大統領はプラハでの演説で、「私たちは、20世紀に自由のために戦ったように、21世紀には、世界中の人々が恐怖のない生活を送る権利を求めて共に戦わなければなりません」と述べ、「核兵器のない世界」への人類共闘を呼びかけました(演説の日本語訳は、駐日アメリカ大使館のホームページから)
 かつて核軍拡競争が激化した時代に、こうした核兵器が人々にもたらす脅威や恐怖という民衆の側からの視点に立って、核兵器廃絶を訴えたのが、師の戸田第2代会長でした。
 逝去の7カ月前、戸田会長は病の小康状態の中で、青年を中心とした5万人を前に核廃絶を遺訓の第一とする『原水爆禁止宣言」(『戸田城聖全集第4巻』所収)を、52年前のきょう9月8日に発表したのです。
 現在の状況に照らして、私が重要と考える宣言の柱は、「政治指導者の意識変革」「核兵器禁止の明確なビジョン」「人間の安全保障のグローバルな確立」の3点です。
 第1の柱は、「われわれ世界の民衆は、生存の権利をもっております。その権利をおびやかすものは、これ魔ものであり、サタンであり、怪物であります」と述べ、核保有の奥底にある国家のエゴイズムを厳しく指弾し、指導者の意識変革を強く促した点です。
 「サタン」や「怪物」といった表現は、いささか唐突で奇異な印象を与えるかもしれませんが、核抑止論の底流には、自国の優位や安全のために人類を犠牲にすることも辞さない、常軌を逸した非情の論理が脈打っていることを人々にわかりやすく伝えるとともに、指導者に内省を求めることに主眼がありました。

民衆の犠牲を前提とした核抑止論
「人間の安全保障」の確立が急務


師の宣言を胸に半世紀──
 変革の波を広げる活動に全力


 この宣言と同じ年に発足したパグウォッシュ会議の創設に尽力した哲学者ラッセルも、権力者が陥りかねない生命状態を、「ギリシアの神々の王ジュピターのように、雷電を武器として携えている」姿になぞらえていたことがあります(『権力』東宮隆訳、みすず書房)
 仏法でも、「念々に常に彼《か》れに勝れんことを欲し、人に下《くだ》るに耐えず、他を軽んじて己れを珍《とうと》む」(天台大師『摩訶止観』)という勝他《しょうた》の欲望が、人間の生命にあると説きます。
 そして、すべてを自分のための手段にしようとする欲望が極まった状態を、「他化自在天」と説くのです。そこでは、他者の存在は限りなく矮小化され、どんな犠牲が生じても躊躇や心の痛みなど感じなくなってしまう。
 この点、アメリカで核戦力を掌握する戦略軍総司令官を務めた退役軍人のリー・バトラー氏の次の述懐が思い起こされます。
 「私たちは、冷戦期の核抑止という極端な戒律にこだわることで、人間性のもとである生命への尊敬の念をすり減らし、また道徳的感性を削ってきた」(ロバート・D・グリーン著『検証「核抑止論」』梅林宏道・阿部純子訳、高文研)
 また、マンハッタン計画に当初加わりながら、道徳的な理由から途中でただ一人離脱した、パグウォッシュ会議のジョセフ・ロートブラット博士も、核戦争が人類にもたらす破局について警告していました。
 96年に国際司法裁判所で核兵器の威嚇と使用に関する勧告的意見が示された際、これに先立つ審理で、各国の意見陳述が行われる中、南太平洋のソロモン諸島を支援する形で代表団に加わり、次のような意見を文書で表明したのです。
 「空間的にも時間的にも、有害な作用が広がるという放射性降下物の特性は核戦争の持つ独特の特徴である。戦争当事国の住民だけでなく、事実上世界の全人口とその子孫までが、核戦争では犠牲になる。そこに、核兵器が戦争という概念にもたらした根本的な変化がある」(NHK広島核平和プロジェクト著『核兵器裁判』、日本放送出版協会)と。
 博士は、放射線が人体に与える影響を詳しく調査し、保有国が核実験を行うたびに放射性物質の脅威にさらされてきた人々の苦しみを代弁して、人類に警鐘を鳴らしたのです。
 こうした破滅的な末路を知りながら、核政策を改めることができないのは、他者の痛みを感じ取る“想像力の破産”というほかありません。冷戦時代の負の遺産である核抑止論を、今こそ勇気をもって清算すべき時を迎えているのです。

一切の例外許さず核兵器使用を断罪
 第2の柱は、「もし原水爆を、いずこの国であろうと、それが勝っても負けても、それを使用したものは、ことごとく死刑にすべきである」と述べ、いかなる理由があろうと、いかなる国であろうと、核兵器の使用は絶対に許されないと明言した点です。
 生命尊厳の思想を根幹に据える仏法者として死刑に強く反対していた師が、あえて極刑を求めるかのような表現を用いたのは、核使用を正当化しようとする論理に明確な楔を打ち、その根を断つためでした。
 戸田会長は、人類の生存権を根源的に脅かす存在である核兵器は“絶対悪”にほかならず、核兵器を従来の兵器の延長線上に置いて、状況に応じて使用も可能な“必要悪”と考える余地を一切与えてはならないと強調したのです。
 当時、東西の陣営に分かれて、互いの核保有を批判する主張が横行する中で、戸田会長はその迷妄を打ち破り、いかなるイデオロギーにも体制にも偏することなく、人類の名において核兵器を断罪しました。
 戦時中に軍国主義と戦い抜いた師は、どの国もどの民族も戦争の犠牲となってはならないと訴え、「地球民族主義」を提唱しました。「原水爆禁止宣言」は、その論理的帰結にほかならなかったのです。
 こうした一切の例外を認めない考え方は、国際社会で何度も表明されるにいたっています。61年の国連総会で、核兵器を使用するいかなる国も国連憲章や人道の法則に違反し、人類と文明に対する犯罪とみなされるとの決議が採択されて以来、同様の決議が繰り返されてきました。
 また2006年には大量破壊兵器委員会が報告書で、「ある国々が保有する核兵器は脅威とならないが、別の国々が保有すると世界が致命的な危機に陥るという考え方を認めない」との見解を示しています。
 あたかも“良い核兵器”と“悪い核兵器”の区別があるかのような考え方が存在している限り、いくら核拡散防止の体制を強化しても正当性や説得性は持ち得ない──。戸田会長の宣言は、核問題の解決を図る上で避けては通れない“急所”を浮き彫りにしたものでもあったのです。

核の奥に隠された爪をもぎ取りたい
 第3の柱は、「核あるいは原子爆弾の実験禁止運動が、今、世界に起こっているが、私はその奥に隠されているところの爪をもぎ取りたいと思う」と述べ、核実験への抗議もさることながら、多くの民衆の犠牲の上で成り立つ安全保障思想の根絶を図らない限り、本質的な解決はありえないことを指摘した点です。
 ひとたび核攻撃の応酬が始まれば、他国の国民にとどまらず、自国の大半の国民も犠牲を免れないことは明らかです。そうした事実に目をつぶって、いくら「国家の安全保障」を声高に叫んでも、本来守るべき国民を捨象した“抜け殼”でしかありません。
 核兵器が使用されないまでも、核実験に伴う放射線被曝で多くの人々が命を落とし、がんや遺伝性疾患などに苦しめられています。また、核兵器関連施設の周辺でも、同様の被害が広がっていると言われます。
 戸田会長の熱願は、「世界にも、国家にも、個人にも、『悲惨』という文字が使われないようにありたい」(『戸田城聖全集第3巻』)との一点にありました。
 その熱願が凝縮した宣言は、一人一人の人間が直面している悲惨な状況を取り除くことに平和の基礎を見いだすアプローチ──すなわち、今日、その重要性が叫ばれている「人間の安全保障」の視座に立脚したものだったのです。
 そして何より重要なのは、戸田会長が、「世界」と「国家」と「個人」という、それぞれのレベルにおいて、等しく悲惨な状況を招いてはならないと強調していることです。
 つまり、いくら世界の平和を守る大義があったとしても、犠牲となる国があってはならない。国の安全を守るためとはいえ、一般民衆を犠牲にすることがあってはならない。こうした状況を引き起こしている元凶を見定め、核問題の「奥に隠されているところの爪をもぎ取る」作業こそ、人類に課せられた共同の責任ではないでしょうか。

対話や提言を重ね意識啓発も推進
 この「原水爆禁止宣言」から半世紀──。
 「いやしくも私の弟子であるならば、私のきょうの声明を継いで、全世界にこの意味を浸透させてもらいたい」との師子吼を、私は一日たりとも忘れることなく、その場で胸に焼き付けた直弟子として、核廃絶への潮流を高める挑戦を続けてきました。
 師の逝去から2年後、創価学会の第3代会長に就任した60年に、師の写真を上着の内ポケットに納め、アメリカヘの第一歩を印して以来、各国を訪問し、保有5力国すべての指導者をはじめ、国連首脳や多くの識者と対話を重ね、核兵器や世界平和への課題について語り合ってきました。
 また、国連で、78年、82年、88年と3回にわたり行われてきた軍縮特別総会にも、毎回、提言を寄せてきました。83年から毎年発表している「SGIの日」記念提言でも、核廃絶への提案を続けてきたのです。
 さらに96年には、師の平和思想を原点に、世界の民衆のための平和研究のネットワークを広げる拠点として、戸田記念国際平和研究所を創設しました。主要プロジェクトの一つに核兵器廃絶を掲げ、国際会議の成果をまとめた研究書籍も発刊しています。
 またSGIとしても、核兵器の脅威と非人道性をより多くの人々に伝え、意識啓発していく運動に一貫して取り組んできました。
 核兵器の脅威は不断に存在し、人類に等しく降りかかる恐れがあるにもかかわらず、多くの人々にとって目に見えて現れないため、リアリティーを感じられないことが、脅威を無意識に看過させてしまっている。
 私どもは、その“無意識の壁”を破ることが先決と考え、82年6月にスタートした「核兵器──現代世界の脅威」展を、国連の世界軍縮キャンペーンの一環として巡回したのをはじめ、さまざまな展示を企画し、保有国を含む多くの国々で開催してきました。特に近年は、国連が呼びかける「軍縮・不拡散教育」を民衆レベルで推進する活動に力を入れてきました。

世界の被曝証言収めたDVDも
 更に、「核兵器のない世界」を築くには、民衆自身が立ち上がり、その連帯を地球大に広げる以外にないとの信念に基づき、「アボリション2000」を支援して集めた1300万人の核廃絶署名を、98年10月に国連本部に提出しました。
 そして、2006年8月の提言で私は「核兵器廃絶へ向けての世界の民衆の行動の10年」を提唱し、「原水爆禁止宣言」発表50周年にあたる2007年9月から、SGIで同10年の運動を立ち上げたのです。
 現在、人間の安全保障の観点から核兵器の問題を考える「核兵器廃絶への挑戦と人間精神の変革」展を各地で開催し、また教育用ツールとして「平和への願いをこめて──広島・長崎 女性たちの被爆体験」と題する5言語版DVDの上映を進めています。今後の計画として、世界各地で放射能汚染や被曝に苦しむ人々の証言DVDの制作にも取り組みたいと思います。
 こうして私どもは、師の「原水爆禁止宣言」を時代精神へと高めるべく、半世紀にわたり行動を続けてきました。今後も、民衆次元から核廃絶を目指す運動に、更に全力で当たっていく決意です。

保有国は責任とビジョン共有し「核兵器のない世界」への行動を

市民社会の力で軍縮の履行支える
有識者パネルを国連に創設


 核兵器廃絶を目指し、長年取り組んできた経験から、今、強く感じてならないのは、核問題をめぐる潮目に大きな変化が起こりつつあることです。
 つまり、従来の平和論的なアプローチだけでなく、核兵器の脅威が乱反射する状況を前にした現実主義的な判断に基づいて「核兵器のない世界」を求める声が、保有国の間からもあがっていることです。
 こうした二つのアプローチを協働させることができれば、より大きな推進を生み出すことが可能となります。キッシンジャー博士も、その重要性を指摘していました。
 私は、この協働の軸となるものこそ、「明確なビジョン」「揺るぎない決意」「勇気ある行動」であると確信します。
 このことを念頭に置きながら、私は、「核兵器のない世界」の実現に向けて、今後の5年間でその基盤を築くために、次の5項目の提案を行いたい。
 一、来年に行われる核拡散防止条約(NPT)の再検討会議で、保有5カ国が「核兵器のない世界」のビジョンの共有を宣言し、ただちに具体的な準備作業に着手する。
 一、国連に「核廃絶のための有識者パネル」を創設し、核軍縮プロセスにおける市民社会との協働体制を確保する。
 一、2015年の再検討会議までに、各国の協力で核拡散防止のための環境を整備し、核兵器ゼロに向けての障害を取り除く。
 一、2015年までに、各国が協調して、安全保障上の核兵器の役割縮小に積極的に取り組み、「核兵器に依存しない安全保障」への移行をグローバルな規模で進める。
 一、2015年までに、「核兵器の非合法化」を求める世界の民衆の意思を結集し、「核兵器禁止条約」の基礎となる国際規範を確立する。

全廃達成の約束に誠実に応えゆく道
 第1は、保有5カ国が「核兵器のない世界」のビジョンの共有を、来年のNPT再検討会議で宣言した上で、ただちに具体的な実行に向けての準備作業に着手することです。
 NPTが不平等な構造をもった条約にもかかわらず、ほとんどの非保有国が加入し、その上、無期限延長まで認めるに至ったのはなぜか──。それは、保有国に軍縮促進を約束させることを前提に、核保有の選択肢を放棄することが、自国の安全と世界全体の平和につながると考えたからにほかなりません。
 しかし、保有国が軍縮努力を長らく怠り、新たな核開発の動きもみられたことは、拡散防止の国際協力を進める上での信頼を損なう状況を招いてきました。
 ゆえにシュルツ元米国務長官らも2008年に発表した提言で、「ゼロに向かうというビジョン無しには、我々の下降スパイラルを止めるのに必要不可欠な協力を得られないであろう」(『核軍縮・平和2008』、高文研)と警鐘を鳴らしたのです。
 2010年のNPT再検討会議で、保有5カ国が「核兵器のない世界」のビジョンの共有を誓約し、勇気ある行動に踏み出せば、保有国への信頼は大きく回復し、車の両輪であるはずの核軍縮と拡散防止は、相乗効果をあげながら前進を始めるに違いありません。
 その上で、保有5カ国が取り組むべき措置として提案したいのは、①一切の核開発を行わないことを約束する「モラトリアム宣言」②核能力に関する透明性の増大③最低限の保有可能数について話し合うフォーラムの設置、です。
 まず、保有5カ国による「モラトリアム宣言」を、2010年の再検討会議の場で「核兵器のない世界」のビジョンと同時に誓約することを強く呼びかけたい。
 もはや他国の優位に立つこと以外に核開発競争を進める積極的な理由はなく、現状凍結の誓約は、核兵器ゼロヘの“最初の自制”を示すことになります。
 それはまた、核能力の増強に終止符を打ち、戸田会長が告発していた、核保有にひそむ「勝他」の衝動をともに断ち切る作業につながっていくはずです。
 次に、実際に「核兵器のない世界」への行程表をつくる前提として、核能力に関する透明性を確保することが重要となります。
 米ソ両国による軍縮交渉以来の歴史が示すように、互いの状況が明らかでない限り、建設的な議論を進めることはできません。「モラトリアム宣言」で現状凍結を図った後、1年以内に国連の安全保障理事会で情報開示に踏み切ることを求めたいと思います。 
 その上で、核兵器ゼロに至る道程《みちのり》において、各国で最低限どれだけの核兵器が不可欠になると想定しているのか、一度精査し、議論の俎上に載せることが必要となってきます。
 国連事務総長も交えてフォーラムで協議を進める中で、各国が一定の水準──たとえば、最低限100発の保有が必要と判断したことが明らかになれば、それを核兵器ゼロに向けての中間目標と位置付けることができます。目標がひとたび具体性を帯びていけば、「核兵器のない世界」のビジョンは大きな求心力を生み出し、核兵器ゼロヘの登頂を果たす上でのベースキャンプにすることもできると思うのです。
 こうした一連の取り組みこそ、2000年の再検討会議で合意された「核兵器の全廃を達成する明確な約束」に誠実に応える行為とはいえないでしょうか。
 かつてアインシュタイン博士は、「少しずつ進んでいるふりをし、必要な変革をあいまいな未来に先送りする余裕はない」(アブラハム・パイス著『アインシュタインここに生きる』村上陽一郎・板垣良一訳、産業図書)と訴えました。
 国際の平和と安全の維持に第一義的責任を負う安保理の常任理事国でもある5カ国のリーダーは、この警句と責任をかみしめつつ、今こそ一致して「必要な変革」に踏み出すべきではないでしょうか。

日本が主導して専門家の糾合を
 第2は、国連に「核廃絶のための有識者パネル」を創設し、核兵器ゼロに向けた軍縮プロセスにおいて、市民社会との協働体制を築いていくことです。
 以前、冷戦の負の遺産として旧ソ連諸国に残された核兵器の廃棄と拡散防止の措置を、各国で支援する体制がつくられました。
 その際、大量破壊兵器関連の科学者や技術者の能力を民生目的に向ける機会を提供するための「国際科学技術センター」が設置されたことがあります。
 今後、核兵器ゼロに向け、すべての保有国で軍縮が始まる段階に入った場合、それをはるかに上回る国際的なサポートが求められることは必須です。
 そこで、国連事務総長の下に設置されている軍縮諮問委員会の活動を通して、これまで蓄積された知識や経験を生かしつつ、核兵器に対象を特化した形で新たに有識者パネルを設置することを提案したい。
 そして、軍縮以外にもさまざまな分野の専門家を糾合しつつ、核兵器ゼロの達成に向けて必要となる措置について、技術的側面も含めて、国連事務総長に諮問する体制を整えるべきだと考えるのです。
 このほかにも、パネルが担うべき三つの役割を提起しておきたい。
 ①核兵器がもたらす脅威に関する報告書を定期的に発表し、多くの人々に実態を知らせて国際世論を喚起する。そして、その世論の高まりを、核兵器ゼロヘの不可逆性を担保する最大の力としていく。
 ②今なお各地で、放射能汚染の被害に苦しむ人々の医療体制の充実を図る。
 ③核軍縮の履行と核兵器の禁止事項について、各国の遵守を一般市民の立場から監視し、違反を通報する「社会的検証」の制度について研究を進める。
 また、パネル設置に当たっては、国連事務総長が発起人となり、国際機関や各国の軍縮専門家、パグウォッシュ会議、核戦争防止国際医師の会(IPPNW)、国際反核法律家協会(IALANA)、拡散に反対する技術者と科学者の国際ネットワーク(INESAP)をはじめとするNGO(非政府組織)、また専門的な知識や技能を有する学術機関や平和研究機関にも広く呼びかける形で、体制づくりに着手することが望ましいと思います。
 私が創立した戸田記念国際平和研究所でも、これまでの実績や幅広い研究ネットワークをもとに全面的に協力していく所存です。
 2010年、日本の主催で核軍縮会議が予定されています。同様のパネルの構想を提唱するノルウェーや核兵器解体に伴う検証研究を重視するイギリスなどと協力し、日本のリーダーシップでパネル設置を実現させてほしいと願うものです。

自国の変化で他国の変化を促す
核の脅威をグローバルに削減


「常設作業部会」をNPTの下に設置
 第3は、核兵器の脅威の広がりを阻止し、低減させるための国際協力を進め、核兵器ゼロに向けての障害を取り除くことです。
 そこでまず呼びかけたいのは、来年のNPT再検討会議への各国首脳の出席です。締約国はもとより、非締約国の首脳も、オブザーバーとして招聘するなど、事実上の“核問題に関するグローバル・サミット”として開催することを目指してほしいと思います。
 その上で、各国の総意でNPTに「常設作業部会」を設け、まずは2015年までの5年間、核拡散防止に関する集中的な討議を行い、国際協力の強化を図ることを求めたい。
 そして将来的には、この作業部会をベースに、NPT体制に関する常設の意思決定機関へ発展させていくことも視野に入れるべきではないでしょうか。
 「核兵器のない世界」への環境を整えるには、核保有の理由となってきた抑止論の根拠、とくに脅威の実態を分析し、本当に必要な対応は何かを見きわめる作業が欠かせません。
 冷戦の終結により、保有5カ国の間で互いの国に対し核兵器を使用するケースは、もはや想定しにくいものとなりました。
 その結果、現在、核戦力の維持が必要とされる主な理由に挙げられているのは、①自国もしくは同盟国の生存を脅かす他の国家による核使用の抑止②核拡散につながる開発計画の阻止③非国家主体による核テロの防止(抑止)、などに限られるといえましょう。
 ①については徹底的な議論が必要となるケースであり、次の第4の項目で詳論するとして、②と③については、核兵器の使用や威嚇で根本的な解決を導けないことは、多くの専門家の指摘するところです。
 この二つの脅威に対しては、核抑止力の強化ではなく、自国の変化で他国の変化を促す二つの挑戦──「保有宣言国や疑惑国を拡散防止の枠組みに組み込む努力」や「核開発技術と核関連物質の拡散を防ぐ国際制度の整備」で臨むべきではないでしょうか。
 その最も象徴的な例で変化の兆しがみられるのが、包括的核実験禁止条約(CTBT)〈注4〉でしょう。現在、オバマ大統領は批准の意向を示していますが、もしそれが実現すれば、中国が批准に踏み切る可能性も開けてきます。
 さらに米中の批准をきっかけに、インドとパキスタンの署名や批准につながっていけば、CTBTの発効へ大きな前進となるに違いありません。そして、この変化がまた、未批准のイスラエルやイラン、未署名の北朝鮮にも、新たな決断を促す環境を整えることにもなります。こうしたプラスの連鎖を突破口に、NPTの枠外にある国々を含め、すべての国を網羅した核拡散防止体制の基盤が形成できると思うのです。
 また、CTBTの発効以外にも、「カットオフ条約の早期締結」や「核燃料サイクルの国際管理の確立」「核テロ防止条約〈注5〉の批准促進」とともに、「再生可能エネルギーや省エネ技術の導入支援」「宇宙の非軍事化の徹底」などの措置が重要となるでしょう。
 特に、高まるエネルギー需要や、地球温暖化防止などの観点から、原子力発電の施設を増設したり、新たに導入を検討する国が増える中で、核兵器の拡散や核テロの脅威が高まることが懸念されています。
 国連の潘基文《パンギムン》事務総長も、このいわゆる「原子力ルネサンス」が、世界の新たな不安材料となることへの憂慮を示しています。
 国際原子力機関(IAEA)による監視体制の強化だけでなく、再生可能エネルギーや省エネ技術の普及を含めた、エネルギー政策における国際協調の面からも、拡散防止の環境づくりを補強すべきではないでしょうか。
 私は、来年の再検討会議でこうした重点課題を定め、「常設作業部会」で具体的な議論を進める中で、その次の再検討会議までの5年間をかけて、大幅な前進を期すべきであると呼びかけたいのです。そのために、現在、NPTの事務局としての機能も担っている国連軍縮室の強化も必要となると思います。

64年で1度も使用されなかった重み

 第4は、各国が安全保障上の核兵器の役割縮小に積極的に取り組み、「核兵器に依存しない安全保障」への移行をグローバルな規模で進めることです。
 冷戦時代の考え方に終止符を打つために、安全保障戦略における核兵器の役割を縮小し、他国にも同様の措置を取ることを促したオバマ大統領が、最後まで考慮しなければならない事例としてあげたのは、自国や同盟国の生存を脅かす脅威への対応でした。
 しかし、この問題を考える上で忘れてはならないのは、広島と長崎への原爆投下がもたらした惨劇を前に、64年にわたって、どの国も、どの指導者も、核兵器を一度も使用できなかったという事実です。道義的な理由をはじめ、さまざまな理由があるとしても、「核使用の敷居」が相当高くなり、今や軍事的手段としては“ほぼ使用できない兵器”であるとの認識が定着しつつある側面は見過ごすことはできません。
 あえて私見を恐れずに言えば、核使用のブレーキとなってきたのは、抑止力そのものよりも、核使用に踏み出すことへの決断の重みではなかったか。実際、核の傘に依存してこなかった大半の国々も、核攻撃の対象となることはありませんでした。地域の緊張緩和や非核兵器地帯〈注6〉の設置に取り組む中で、自らの手で核兵器の使用を許さない状況をつくり出す努力を続けてきたのです。
 ゆえに、核抑止の最後の関門についても、懸念される脅威を解消することが先決で、「核兵器による対抗」が問題の本質ではないことを、しっかりと見きわめる必要があります。
 そして何より、核兵器を安全保障の手段から取り除くことは、軍縮義務を定めたNPT第6条の対象が保有国だけに限られていないように、すべての締約国に等しく課された義務であることを、常に念頭に置かねばなりません。
 かりに保有国が「核兵器の役割縮小」を通じて大幅な軍縮を図ろうとしても、同盟国が核の傘の継続や強化を望む限り、実行に移すのは難しくなります。
 その場合、結果的に、NPTの精神に反することにもなりかねず、そのことを深く考慮した上でもなお、核の傘を維持することが、安全保障上の死活的要素といえるのか──。私は10年前に行った提言でも、同様の問題提起をしましたが、今こそ、保有国と同盟国が協議を重ね、緊張緩和策をはじめとする総合的な代替案を真剣に探る必要があると思うのです。
 「核兵器に依存する安全保障」の見直しを求める声は、東西冷戦対立の最前線だったドイツでもあがり始めています。2009年1月には、ヴァイツゼッカー元大統領やゲンシャー元外相ら4人が、シュルツ氏らの提言に呼応する形で声明を発表しました。
 特に注目されるのは、「対決の時代の残滓は我々の新世紀にあっては、もはや不適切である」として、保有国に核兵器の先制不使用に関する条約の締結を早急に求めると同時に、ドイツに配備されたアメリカの核弾頭の撤去を呼びかけた点です(ピースデポ「核兵器・核実験モニター」第321号)

北東アジアの平和構築へ「核不使用宣言地域」を設置
 私は、冷戦的思考が今なお払拭できず、北朝鮮の核問題が膠着している北東アジアでも、日米両国が決然たる意思を示すことで時代転換の波は十分起こせると確信しています。
 以前、ケネディ大統領のブレーンなども務めた経済学者のガルブレイス博士と対談した際、日米両国が有する特別な責任について、博士がこう語っていたことが思い出されます。
 「核兵器を使用することの意味や結果を知っているのは、日本だけです。これは、日本とアメリカにとって特別な責任であると言えるかもしれません。世界で、この二つの国だけが、核兵器を使用した戦争を経験しているからです。日米両国は、人類が再び核兵器による大量虐殺を起こさないよう、先頭に立って努力しなければいけません」(『人間主義の大世紀を』、潮出版社)と。
 先ほども紹介したように、SGIでは、広島と長崎の被爆体験の証言DVDの上映を進め、証言映像のインターネット上での公開もしています。
 「生き残った私がね、何をすることがあるかしらと思ったんです。そうした時に、このね、核のね、この悲惨さと、人間が人間を殺し合う愚かさをね、二度とやっちゃいけないって、これを伝えていく役目が私にあるために、私は今、生きているんじゃないかなと思うんです」(広島で被爆した女性)
 こうした証言を通し、胸に迫ってくるのは、“自分たちが受けた苦しみを、これ以上、誰にも体験させたくない”との、やむにやまれぬ思いです。
 被爆国として日本が、「ノーモア・ヒロシマ」「ノーモア・ナガサキ」を訴える立脚点もそこにあるべきです。
 その日本が、核武装を検討したり、非核三原則を見直すようなことは道義的に許されないはずです。
 ゆえに日本は、今後も非核三原則を堅持するとともに、「永遠に核兵器を保有しない」との方針を明確に宣言することを、一日も早く望みたい。
 その上で私は、日米が協力して、北朝鮮の核問題を含む北東アジアの平和構築に臨み、6カ国協議の国々で「核不使用宣言地域」の設置を目指すべきではないかと思うのです。
 長年、私は「北東アジア非核地帯」の設置を主張してきましたが、実現を難しくしている原因は、6カ国すべてが、核を保有、もしくは核の傘の下にあるという他の地域には見られない特異な構造にあります。
 現在の膠着状況を打開するためにも、まず、「互いを核攻撃せず、大量破壊兵器に関する脅威を高める行為を行わないこと」を制度化することが重要ではないかと思うのです。
 この6カ国では、すべての国が生物兵器禁止条約に加入しており、化学兵器禁止条約も北朝鮮を除く5カ国が加入しています。
 そこで、北朝鮮に同条約への加入と、4年前に6カ国協議の共同声明で約束した「すべての核兵器及び既存の核計画の放棄」の実行を求めると同時に、他の国々は「核兵器の不使用」の誓約とその支持を表明し、次のステップを目指すべきではないでしょうか。
 もしこれが軌道に乗れば、いまだ非核兵器地帯が形成されていない南アジアや中東などの空白地域でも、事態の改善を図る際に参考とすべき一つの事例になるに違いありません。
 北東アジアでの対立構造を転換し、“どの国の人々であろうと核兵器の犠牲者としてはならない”との理念をグローバルに広げつつ、「核兵器のない世界」への挑戦の先頭に立つことこそ、21世紀における日米両国のパートナーシップの機軸に据えるべきだと、私は訴えたいのです。

真に対峙すべきは核を容認する思想
 第5は、2015年までに「核兵器の非合法化」の基礎となる国際規範の確立を目指し、世界の民衆の声を結集することです。
 96年に国際司法裁判所が示した勧告的意見を踏まえる形で、翌97年に核戦争防止国際医師の会(IPPNW)をはじめとする三つのNGOが中心となり、核兵器禁止条約のモデル案が起草されました。これは、国連文書として配布された後、2年前に内容の改訂を経て、NPT再検討会議の準備委員会に作業文書として提出されています。
 こうした規範の確立を求める声は、昨年10月に国連の潘事務総長が重要性を指摘するなど、次第に広がりをみせています。

世界の民衆の力強い意志を結集
核兵器禁止を人類の規範に
人間に備わる無限の力で地球全体に不戦の潮流を


 私どもSGIでも、IPPNWが進める「核兵器廃絶国際キャンペーン」に賛同する形で、核兵器禁止条約の締結を目指す運動に加わってきました。
 そこで、今回提案したいのは、「人類の生存権を脅かす核兵器を、非人道的兵器の最たるものとして禁止する」との意思表示を、個人や団体、さらには自治体や国レベルで行うことを呼びかけながら、同条約の締結の基礎となる国際規範を形成することです。
 モデル案の前文が「われら地球の人民は」との一節で始まっているように、条約を単に国家間の合意ではなく、平和な地球社会を求める“一人一人の人間”の名において制定していくことが欠かせません。
 そして何より、条約締結の困難さを理由に、いたずらに時間の経過を許してはならない。世界の民衆の圧倒的な意思を結集し、条約の制定を求める国際世論を力強く喚起しながら、もはや誰にも無視できない状況を現出させることが重要ではないでしょうか。
 この点、アクロニム研究所のレベッカ・ジョンソン所長が「すべての人々に対する安全の保証」と題する論考で述べた次の言葉は、私どもが目指す方向性と響き合うものがあります。
 「核兵器の使用を非難し、非合法化していくプロセスは、勇気ある指導者が一方的措置を講じ、多国間の規範を形成するチャンスでもある。これは重要なイニシアチブであり、非保有国が──さらには市民や市民運動が──これに支持を表明し、強固な倫理規範を形成していけば、核軍縮への取り組みは確固とした足場を築くことができる」
 そこで私は、志を同じくする人々や団体、宗教界や精神界、また世界の諸大学・学術機関などが共同で、国連の諸機関とも協力して取り組む、仮称「核兵器廃絶を求める世界の民衆宣言」運動を立ち上げることを提案したい。
 核時代に終止符を打つために戦うべき相手は、核兵器でも保有国でも核開発国でもありません。真に対決し克服すべきは、自己の欲望のためには相手の殲滅も辞さないという「核兵器を容認する思想」です。
 戸田会長が「(核保有の)奥に隠されているところの爪をもぎ取りたいと思う」と訴え、「全世界にこの意味を浸透させてもらいたい」と呼びかけたのは、その認識の共有にこそ国境を超えて民衆が連帯できる足場があり、一人一人に意識変革の波を起こし、地球大に広げる挑戦の中でしか、核時代を終焉させる地殻変動は起こせないと確信していたからです。
 96年に国際司法裁判所で勧告的意見が審理された際、40の異なる言語による約400万人の「公共の良心の宣言」が、核兵器に対する幅広い一般市民の非難の証拠とともに提出され、結論に至る過程で考慮された経緯があります。
 今度は、この「民衆宣言」を多くの関係者と協議してとりまとめ、2015年までに国連総会へ提出することを目指し、核兵器禁止条約の交渉開始の機運を高めていきたい。同時に、前文を起草する際の最重要の参照文書とするよう働きかけていってはどうか。
 SGIとしても、現在進めている「核兵器廃絶へ向けての世界の民衆の行動の10年」の中核として、この「民衆宣言」運動を位置付け、より多くの人々や団体と手を携えながら、核廃絶への民衆の大連帯を幾重にも築いていく決意です。

国家のあり方をも根底から変える
 以上、5項目にわたる提案を行いましたが、最後に強調したいのは、「核兵器のない世界」への挑戦は核兵器の廃絶だけでなく、国家のあり方や国際関係のあり方を根底から変える挑戦でもあるという点です。
 かつてアインシュタイン博士は、核問題に対して各国は「黒死病の流行が全世界を脅やかしているような場合」にとる態度と同様に振る舞うべきだと主張しました。そうすれば、「重大な異議をさしはさむことなく、採るべき手段について迅速に意見の一致をみる」はずで、「自国だけが黒死病の害を免れて他国は黒死病によって多数の民が斃されるというような手段をとろうと考えることはない」と(『晩年に想う』中村誠太郎・南部陽一郎・市井三郎訳、講談社)。
 この場合、倫理的にも現実的にもとるべき行動は明確かつ急務であり、自国の安全だけを追い求めることは許されないはずです。
 創価学会の牧口常三郎初代会長は、100年以上も前に、「他の為めにし、他を益しつつ自己も益する方法」──いわば「人道的競争」に、国家間の対立を乗り越える道があると強調しました(『人生地理学』、『牧口常三郎全集第2巻』所収、第三文明社)。そして、各国が切磋琢磨しながら、人道的な行動と世界への貢献を良い意味で競い合い、平和的な共存の精神を広げゆく地球社会の創出を呼びかけていたのです。
 私が提示した5項目の提案はいずれも、この人道的競争の理念をベースにしており、シュルツ氏らが呼びかけていた“核保有国のあり方を変化させる共同事業”と志向性を同じくするものにほかなりません。
 この国家のあり方の変化が伴ってこそ、これまで核兵器の開発や維持のために注ぎ込まれてきた多くの資金や人的資源を、環境や貧困など地球的問題群の解決のために向けていく機運も生まれるはずです。
 かつて、公民権運動の闘士であるキング博士が、「世界の権力闘争の力学を、だれも勝てないような核兵器競争から、全世界の人々の平和と繁栄を実現させるために人間の才能を管理できるような創造的競争に変えていく必要がある」(C・S・キング編『キング牧師の言葉』梶原寿・石井美恵子訳、日本基督教団出版局)と訴えたのは、そうした意味合いが込められていたと思うのです。
 こうした地球社会の創出へとつながる人類史を画する挑戦を成就させる上で、市民社会のカ強い後押しが何よりも欠かせません。
 その意味で、世界のNGOの代表が集い、今月、メキシコで、「国連広報局NGO年次会議」が初めて軍縮を中心テーマに開催されることは、誠に時宜を得たものです。
 このまま座して地球の脅威を看過するのではなく、私たちが生きるこの時代に「核兵器のない世界」の実現は不可能ではないことを、民衆自身の力で示そうではありませんか。
 声を上げたり、行動を起こすのは、何も特別な人間にしかできないむのでは決してありません。
 “平和な生活を送りたい”“大切なものを守りたい”“子どもたちに苦しい思いをさせたくない”といった、人間としての当たり前の感情さえ持ち合わせていれば十分です。
 平和と科学の巨人として20世紀の歴史に名を刻む、かのライナス・ポーリング博士もまた、行動に踏み出す決め手なったのは「妻から変わらぬ尊敬を受けたいという私の願いでした」と、私に率直に語られていたことが忘れられません(『「生命の世紀」への探求』、池田大作全集第14巻』所収)
 この人間性の絆こそ、誰もが共有でき、行動の足場としていけるものではないでしょうか。
 私どもSGIは、自分たちの身の回りで人間性の絆を強めていく「対話」こそ、迂遠のようでも世界平和への直道であると信じ、人間主義に基づく民衆の連帯を広げてきました。その輪は現在、192カ国・地域に広がっています。

平和のパワー創出の主役は「青年」
 仏法では、「一念三千」といって、すべての人間の生命には、自らの一念の変革によって周囲や社会にも変革の波動を広げ、やがて国家や世界をも突き動かしていく無限の力が秘められていると説きます。
 その力を一人一人から引き出し、結集していくのが、SGIが進める平和運動の眼目なのです。
 人間には、物事を悪の方向にも、善の方向にも変えていく力があります。
 アインシュタイン博士が発見した質量とエネルギーに関する有名な方程式も、もともとは物理の公式にすぎませんでした。
 しかしそこに、かつてない「破壊のパワー」をもたらす兵器の青写真を見いだし、国家が総力を挙げて製造したものが核兵器にほかならず、人類は核時代の底なし沼から抜け出られなくなってしまった。
 今度は、この方程式を、一人一人の人間の生命に備わる無限の可能性に敷衍させ、民衆の勇気を起爆剤に核時代に終止符を打ち、「平和と不戦のパワー」を一緒に生み出していくべき時を迎えています。
 その最大の主役こそ、青年にほかなりません。
 どんなに素晴らしい理想も、胸に描いているだけでは夢物語のままで終わってしまう。そこに“生きた現実”としての輪郭を帯びさせるためには、自分には何もできないのではないかといった無力感やあきらめと戦い、行動に踏み出す「勇気」が必要です。
 その勇気の炎を社会に灯す熱源こそ、青年です。青年の情熱には、一人から一人、また一人へと伝播し、あらゆる困難の壁を溶かし、新しき人類史の地平を開く力が脈動している。
 私たちは、核兵器廃絶への挑戦は「戦争のない世界」の基盤をつくる挑戦であり、その未曾有の挑戦に連なっていくことが“未来への最大の贈り物”になるとの誇りをもって、ともに手を取り合い、グローバルな民衆の連帯を強く築いていこうではありませんか。

語句の解説
〈注1〉原子力の国際管理構想
 1946年1月、初めて開催された国連総会で原子力委員会の設置が決定。6月にアメリカは、国連原子力開発機構の創設を柱とする「バルーク案」を提出したが、移行段階でアメリカに核保有の独占を認める一方、違反行為に厳しい罰則を定める内容に、ソ連が反発。 12月に行われた採決で、ソ連とポーランドが棄権し、構想は挫折した。
〈注2〉ゴルディウスの結び目
 紀元前333年、東方遠征の途中で、古代フリュギアの都に立ち寄ったアレクサンドロス大王は、「ゴルディウス王が結んだ複雑な縄を解いた者は、アジアの支配者となる」との予言を耳にし、、その縄を剣で両断した。この故事に由来し、転じて「至難の問題」を意味する。
〈注3〉「核兵器のない世界」と題する提言
 シュルツ元国務長官、ペリー元国防長官、キッシンジャー元国務長官、ナン元上院軍事委員会委員長が、2007年1月に「ウォールストリート・ジャーナル」で発表した提言。 2008年1月にも同様の提言を行い、かつてアメリカの核政策を担った4人の主張として反響を呼んだ。

〈注4〉包括的核実験禁止条約
 部分的核実験禁止条約が対象としていなかった地下核実験を含む、すべての核実験を禁止する条約。 1996年9月に国連総会で採択された。条約発効には特定の44力国すべての批准が必要で、このうち、未署名の北朝鮮、インド、パキスタンに加え、アメリカ、中国、イラン、イスラエルなど9力国がまだ批准を行っていない。

〈注5〉核テロ防止条約
 核兵器や放射性物質を使用したテロ行為を防止するための条約で、2005年4月に国連総会で採択。2007年7月に発効し、現在の締約国は54力国。核保有国で批准しているのはロシアだけで、アメリカ、イギリス、中国、フランスは署名のみの状態となっている。

〈注6〉非核兵器地帯
 特定の地域内で核兵器の生産や保有などを禁止するとともに、議定書などを通じて核保有国にも域内への核攻撃を行わないことを求める制度。これまで、中南米、南太平洋、東南アジア、アフリカ、中央アジアで、それぞれ条約が成立。今や、南半球のほぼ全域をカバーし、北半球の一部にまで非核兵器地帯が拡大している。
2009-09-08 : 提言/寄稿/インタビュー等 :
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忘れ得ぬあの瞬間 第9回

忘れ得ぬあの瞬間
名誉会長と共に80周年へ
    (2009.9.7付 聖教新聞)

第9回 神奈川の幹部会

苦難こそ大成長のチャンス

 新会長を初めて神奈川に迎える喜びが、川崎市民会館(当時)を埋め尽くしていた。
 その数、1万5千人。
 昭和35年(1960年)5月17曰、鶴見・京浜・横浜支部合同の幹部会である。
 場内を揺るがす拍手。真剣な眼差しを浴びて、池田会長が語り始めた。
 「戦後の学会の最初の難は、戸田先生の事業が窮地に陥ったことです。先生は最も苦しまれていた……」。最高の晴れ舞台で、最大の苦難の歳月に触れたのである。
        ◇
 神奈川と名誉会長の縁は幾重にも深かった。
 今からちょうど60年前の昭和24年秋、10月。
 「蒲田の青年部の池田です!」
 詰め襟の学生服で、池田青年は横浜・鶴見の折伏座談会に現れた。
 入信2年余の21歳。誠心誠意、仏法と師匠の偉大さを語り、5人の友が入会を決意している。
 この第一歩に始まり、座談会に、御書講義に、家庭指導に、何度も足を運んだ。そして、昭和25年から26年にかけて、仕事で毎日のように通ったのも鶴見方面であった。
 当時、戸田会長は事業で莫大な負債を抱え、学会の理事長職も退いた。
 池田青年は、その恩師を一人支え、苦闘していた。給料は遅配。続けたかった夜学も断念。胸を病み、倒れ込むように家にたどり着く日々。
 「その時、かつて戸田先生にお世話になった3人の幹部が言ったことが、私は忘れられません」
 壇上の池田会長はそう述べて、3人の言葉を紹介した。
 一人目。「戸田なんかに使われるのはやめたまえ。体まで壊して、ばからしいじゃないか」
 二人目。「戸田につかないで、俺の方の商売をやっていけ」
 しかし、最後の一人はこう励ましてくれた。
 「今こそ信心で立つ時だ。決して御本尊を疑ってはいけないよ」
 師弟が苦境を乗り越えた時、現証は厳然であった。前の二人は学会を去り、人生に敗れた無残な姿をさらした。
 一方、最後の一人は、学会の幹部として皆の信頼を集め、悠々たる境涯を開いている──。
 池田会長は続けた。
 「学会が難を受け、窮地に追い込まれた時、師子王のように敢然と一人立ってこそ本当の信心です。現在の私があるのは、戸田先生が最大の苦難に遭われた時に、一心に仕え抜いた福運であると確信しています」
 「難こそ自身の成長のチャンスです。ひとたび難があったならば、それを喜びとし、敢然と戦う師子王の如き皆さんになってください!」
 広布の長征には、山も谷も、順風も嵐もある。わが友よ、いついつも、不屈の信心で立ち上がれ!──その魂を、この時、打ち込んだのだ。
        ◇
 あいさつを終え、同志の中を“中央突破”で退場する池田会長。
 一人一人と、目であいさつを交わした。
 恩師を護りに護った青春の激戦地・神奈川。
 海を見つめつつ、会長辞任から世界広布へ反転攻勢を開始した神奈川。
 そこには、「正義」と「共戦」の同志がいる。広宣流布の聖火は、今も赤々と燃え続けている。
2009-09-08 : 忘れ得ぬあの瞬間 :
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新 あの日あの時 16

新 あの日あの時 16     (2009.9.6付 聖教新聞)

池田先生とアフリカ

人類の希望の新大陸を

マンデラの願い
 東京・赤坂のオフィス街。
 貿易振興をテーマにしたビジネスセミナーが終わり、受講していた創価大学の教員が、仲間と連れ立ってカフェに入った。
 1998年(平成10年)の春。日本は金融不安の渦中にあり、国際的な信用も失墜気味である。
 それでも、そのカフェが活気づいたのは、南アフリカの事情にくわしい企業人が、創大の教員に、ひとつの秘話を明かしたからである。
 ──3年前の夏、南ア大統領のネルソン・マンデラが日本に来た。アフリカ民族会議(ANC)の副議長として90年に初めて日本の土を踏んで以来、3度目である。
 マンデラには、どうしても会いたい日本人がいる。だがスケジュール表のどこにも、空きがない。
 日本側の関係者も口々に言う。今回は国賓としての来日である。民間人との会見は無理だ。滞在期間も短い……。
 それでもマンデラは納得しない。27年半、約1万日の投獄にも屈しなかった男だ。アパルトヘイト(人種隔離政策)の分厚い壁にくらべたら大した障壁ではない。
 「こっちの持ち時間なら構わないだろう?」。南ア大使館主催のレセプションを欠席することに決めた。
 これには、さすがの日本側も折れた。95年7月5日、迎賓館で会見が実現した──。
 話し終えた企業人が、飲みかけのコーヒーカップをテーブルに置き、創価大学の教員を見た。
 「その民間人というのはね。おたくの創立者だよ。田会長。まったく凄い人だ」

カイカン・ソング
 大西洋に面した、西アフリカのガーナ。
 ♪ブロックを一つ、もう一つ シャベルが一本、また一本……
 工事現場から、太鼓のリズムに合わせて「カイカン(会館)・ソング」が聞こえる。
 79年(昭和54年)、首都アクラではガーナ会館が建設中だった「カイカン・ソング」のビート乗って杭を打ち込む。セメント入りのバケツを頭に乗せて、ステップを踏む。
 メンバーは赤土の道を歩いたり、卜口トロと呼ばれる小型バスに乗って工事現場までやって来る。
 露天商やパイナップル農園の労働者もいれば、主婦、政府高官までいる。それぞれシャベルやハンマーなどの工具を持参。自分たちの手で会館を完成させたい。思いはひとつだった。
 ある日、メンバーのもとにプレゼントが届けられた。映写機と映画「人間革命」のフィルム。池田大作SGI(創価学会インタナショナル)会長からである。
 狭い部屋に肩を寄せ合い、即席の上映会を開いた。
 日本の創価学会の歴史を知って驚いた。もともと学会は、満足な会館ひとつないと
ころから開拓していったのか……。
 できうる限り、立派な会館にしたかった。針金やガラスを調達するため、町中の店を当たり尽くした。
 ドアノブはナイジェリア、鍵はトーゴまで足を運んだ。
 起工から足かけ7年。経済の混乱による中断を幾度も乗り越え、アフリカ初のガーナ会館が完成した。

ガーナの英雄
 ガーナ共和国の大統領ジェリー・ローリングスが、2㍍はあろうかという堂々たる体躯を演壇に運んだ。
 97年(平成9年)12月1日、信濃町の聖教新聞社で、創価大学名誉博士号の授与式が行われた。
 厚い胸板に、隆々と盛り上がった肩、大きな手。ガウンのような民族衣装が似合う。
ガーナの議場で、その野太い声を響かせて腐敗を一掃。伝説の英雄「ロビンフッド」にも譬えられる。
 授与式のスピーチが進むにつれて、口調が激しくなってきた。
 アフリカの民は貧困と対立に喘いでいるのに、先進国は何をしているのか!
 同席者たちが、ハラハラし始めた。
 軍人出身。激しやすい。怒りを隠そとしない。一度、火がつくと、もう誰も止められない。
 スピーチが終わった。と同時に池田SGI会長が立ち上がっだ。
 大統領の肩をポンと叩く。
 「ならば、一緒に戦いましょう! 徹底して話し合いましょう!」
 1時間後。会見から戻った大統領は、にっこり上機嫌である。
 あの「怒りのローリングス」を一変させるとは。
 随行していた外交関係者が一驚した。

アフリカの総意
 聖教新聞社の1階ロビーにナイジェリアのドゴン=ヤロ駐日大使が入ってきた。
 母国の伝統的衣装と帽子を身につけている。真っ白い服が、精悍な黒い肌を引き立てていた。
 夢だった池田SGI会長との会見が実現したのは、1988年(昭和63年)4月26日だった。
 対談中、うれしい言葉があった。
 「貴国は、アフリカでも格段に多くの大学を持つ教育大国ですね」とSGI会長。ナイジェリアの経済力に注目する人は多い。だが、教育に目を向けた人は初めてだった。
 「ピカソもアフリカ美術に強い影響を受けました。ジャズなど多くの音楽の淵源もアフリカです」
 数多くのリーダーと会ってきたが、これほどアフリカに敬意を払ってくれた人は見たことがない。
 「池田会長は、ジャイアント(巨人)だ!」
        ◇
 91年(平成3年)秋。
 在東京アフリカ大使館の定例会が行われていた。
 東京に大使館を置く26力国の代表が一堂に会している。
 ナイジェリアのドゴン=ヤロが発言を求めた。
 「アフリカの総意として、SGIの池田会長に賞を贈りたい」
 「おー、ミスター・イケダ!」「あの方か!」
 大使たちの記憶がよみがえってきた──。前年の10月31日、彼らは在京アフリカ大使館主催のレセプションに出席していた。
 折から来日していたアフリカ民族会議副議長のネルソン・マンデラがスピーチに立ったのである。
 「きょうは、ある方とお会いした。日本を代表する仏教団体のリーダーだ。青年の大歓迎にも、とても感動した。うれしかった」
 マンデラの発言が、大使たちの脳裏に残っていた。むろん、アフリカに対するSGI会長の提言や行動もよく知られている。
 ドゴン=ヤロの提案は全会一致で採択され、SGI会長に「教育・文化・人道貢献賞」が贈られることが決まった。
 授賞式は91年11月29日。
 在東京アフリカ外交団として、SGI会長のもとにずらりと勢ぞろいした。
 日本の一民間人のためにアフリカが一つになる。異例のことだった。
        ◇
 その直後のことである。
 いつものように朝、英字新聞を開いたドゴン=ヤロが破顔した。
 なに、宗門が学会を破門した?
 正義の人が、時代遅れの聖職者たちに妬まれる。古今の歴史が物語っている真実じゃないか。
 やっぱり会長はジャイアントだ!

月桂冠を君に
 2001年(平成13年)8月16日。創価大学のアフリカ訪問団が、ケニアの首都ナイロビにあるセント・ジョージ小学校を視察した。
 男の子が駆け寄ってきた。
 「きょうはイケダセンセイも来てるの?」
 この場には創立者が来ていないことを伝えると、少し残念そうな顔になったが、こんなメッセージを託された。
 「そうなんだ。僕たち、センセイに会えるのをずっと楽しみにしてるの。センセイに会ったら、そう伝えてね!」
 続いて開かれた交歓会。
 一人の少女がすっと立ち上がり、朗々と詩をそらんじていく。身ぶり、手ぶりを交え、豊かな情感を表現する。
 現地通訳が教えてくれた。
 「創立者の詩です。桂冠詩人でいらっしゃいますね」
 一行は再び目を丸くした。
 少女の父親は、ナイロビ大学の教授ヘンリー・インダンガシ。
 ケニア作家協会の会長。口承文学協会の会長などを務めた。SGI会長とも対談を重ね、交換教員として創大に滞在した経験もある。
 インダンガシ家では毎晩のように、娘へSGI会長の詩を読み聞かせてきた。この小学校で教員をする妻も、会長の詩を教材にしている。
        ◇
 八王子の東京牧口記念会館。SGIの春季研修に参加しているメンバーの前でご田SGI会長がマイクを握った。2004年(平成16年)3月のことである。
 「ご苦労さまです。一番、遠くから来た人は?」
 コフィ・コアメ・レミと、ズーズー・コアシ・ポールが手を挙げた。
 はるか西アフリカのコートジボワールから、3カ月分の給料を旅費に充てて、日本まで来た。かつて象牙海岸と呼ばれた地である。
 壇上からSGI会長が手招きした。「遠い所から、よく来たね!」
 青年部のコフィの頭に「月桂冠」を載せた。勝者の証しである。二人の肩に腕をかけ、ぐっと引き寄せる。「福運だよ! 勇気だよ! 忍耐だよ!」
 帰国後、コフィは300力所の会合を猛然と回り、1万人以上のメンバーに、その感動を伝えた。
 アフリカ人の心に勇気と希望を贈ってくれた人は誰か。
 アフリカ人の未来のために、祈り、行動してきた人は誰か。
 ──アフリカの庶民は、誰よりもよく知っている。
2009-09-06 : 新 あの日あの時 :
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弘益大学「名誉文学博士号」授与式

弘益大学「名誉文学博士号」授与式   (2009.9.4 創価大学本部棟)

 韓国の名門「弘益《ホンイク》大学」(李勉榮《イミョンヨン》理事長、権明光《クォンミョングワン》総長)から、創価大学創立者の池田SGI(創価学会インタナショナル)会長に「名誉文学博士号」が授与された。これは韓日を結ぶ教育・文化・平和への偉大な功績を讃えたもの。授与式は4日、東京・八王子市の創大本部棟で挙行され、弘益大学の金完哲《キムワンチョル》総長代行、金東憲《キムドンホン》企画処長が出席。山本創大学長に名誉博士号の学位記が託された。

金総長代行の授与の辞


一人一人の心の中に「平和の松明」を灯した

 私どもは李勉榮理事長、権明光総長、また弘益家族の心を携えて訪問しました。
 その目的は、世界的な碩学であられる池田大作博士に、わが弘益大学の「名誉文学博士号」を授与するためであります。
 弘益大学は、このたび、大学院委員会での厳正な審議と議決をもって、創価大学創立者の池田博士に名誉文学博士号を授与することを決定し、本日、授与式を挙行する運びとなりました(大拍手)。
 池田博士が世界で最も卓越した指導者として尊敬を受けている方であることは、1975年にモスクワ大学から名誉博士号を初めてご受章されて以来、世界五大陸から250を超える名誉学術称号を受章されているという一点が証明しております。
 67年に欧州統合の父であるクーデンホーフ・カレルギー伯、72年の世界的歴史学者である英国のトインビー博士をはじめ、周恩来総理、ゴルバチョフ大統領など世界をリードする識者、指導者との対話を展開されました。
 不信と分断の「戦争の20世紀」を、誠信の対話により、信頼と結合の「平和の21世紀」へと導かれました。
 それは、人種、国境、イデオロギーを超え、世界の一人一人の心の中に希望の光明を、人類文明の方途に平和の松明を灯さんとする、壮大な文化運動でありました。

先駆者は常に茨の道を歩む
 わが国との交流においても、90年9月に初めて訪韓されて以来、東京富士美術館所蔵「西洋絵画名品展」の開催、本学をはじめ数多くの大学との交流など、平和・文化・教育を基調とした潮流をつくってこられました。
 これは、それまでの韓日交流が政治や経済が中心であったことを考えると、まさに画期的なことでありました。
 何より、わが国に対して「文化大恩の国」「師匠の国」とまで温かい言葉をかけられ、世界の青年たちに、そして国家指導者たちに向けて、この勇気ある言葉を訴えながら、今日の民間交流の扉を敢然と開いてくださいました。
 さらに私どもは、池田博士がこれまで、わが国、また日本に暮らすわが同胞たちに贈られた随筆と詩に接し、感動せずにはおられませんでした。
 差別に苦しむある在日韓国人の女子学生に、次のような言葉を贈られたと伺いました。
 「元来、人間には国境なぞなかった。
 それが、いつしか人為的に国境がつくられていった。
 ゆえに、私共は、国境の奥の次元の人間連帯に到達し、生きゆくことを忘れまい」
 隣国の日本に、アジア、世界との真の友好・平和を願う方がおられることに驚きと感謝の思いを禁じえません。
 私どもは、池田博士が半世紀近くにわたり、韓国・中国・ロシアなどをはじめとして、道なき道を開いてこられた行動が、本来なら賞讃されるべきであるにもかかわらず、日本ではいわれなき批判や中傷を受けてこられたこともよく存じております。
 日本や韓国に限らず、歴史的な偉業を成し遂げようとする先駆者は、常に茨の道を歩んでおります。
 わが大学の建学理念は、校名にも冠している“弘益人間”です。
 その意味は、「広く世界の人類に奉仕する有益な人間とならん、広く人類に奉仕する人間教育をなさん」という、「人間教育の普遍の精神」であります。
 わが大学は、この建学理念に照らして、名誉文学博士号の授与をもって、池田博士を讃えたいのであります(大拍手)。

師の志を継ぐ大偉業に敬意
 本日の名誉博士号の授与につきまして、私どもは、池田博士の恩師である牧口、戸田両先生に対する敬意を込めたいと思います。
 創価教育の父である初代・牧口常三郎先生、第2代・戸田城聖先生は、第2次世界大戦の際、治安維持法により逮捕され、牧口先生はついには監獄で殉教されたという話をお伺いし、大変な感銘を受けました。
 日本の軍国主義に真っ向から反対され、尊い命を終えられたことに、私どもは心から合掌し、万感の敬意を表する次第です。心ある人は国を超えて、襟を正し、謹聴すべき歴史的真実であります。
 私は2000年に貴大学を訪問した折、池田博士が尊き師匠の遺志を継承され、創価大学・創価学園、民音、東京富士美術館など平和・文化・教育の殿堂を設立されたことを知りました。
 私は、池田博士の「私の人生で最後の最も大切な事業は教育である」との思いに深く共感します。
 わが弘益大学も、理事長・総長を中心に団結し、世界に通じる韓国最高峰の大学を目指して心血を注いでまいりました。まさに教育に生涯をかけてきたと言っても過言ではありません。
 “崇文好学”を誇りとするわが民族は、教育こそが人間として最も尊い聖業であり、一冊の本を著すことが家宝になると言われております。
 最高学府である大学の発展に尽くす以上の誉れはなく、私たちはキャンパスの整備にあたり、一本の樹木にも学生の大成の願いを込めております。
 最高水準の教育環境を整えられた大学の創立者として、池田博士の長年のご辛労は、私たちには胸が痛いほど理解できます。これは当事者でなければ分からないでありましょう。
 博士は、弘益大学をはじめわが国の学生たちを、幾度も激励されています。2002年の語学研修に際し了は、次の言葉を贈ってくださいました。
 「青春は 悩みとの戦い。
 青春は 一生の勝利と栄光のための 学問の宝を磨く時。
 敬愛する貴国の未来の大指導者に育ちゆく皆様方の健康を祈りつつ」
 この言葉には、青年に対する限りない期待が込められています。
 博士から直接、激励を受けた男子学生は、帰国後、兵役につき厳しい訓練も、この言
葉を思い出して乗り切ることができたと語っておりました。彼は現在、韓日両国を結ぶ貿易会社で日本語と韓国語を駆使して活躍しています。

“大学は学生の姿で評価できる”
 私は、本日の授与を学生の皆様にも、お祝い申し上げたいと思います。今から20年近くも前に、創価大学のハングル文化研究会の学生数人が、韓国の学生と交流したいとの一心で、わが大学を訪問しました。
 当時、総長であった李理事長は、日本からの突然の来訪者を歓迎しました。学生たちはそれ以来、今日に至るまで、毎年わが大学を訪問し、学生との交流を重ねてきました。
 帰国後、学生たちは真心の礼状をしたため、それを特製の和紙に包み贈ってくださいました。理事長は私たち教職員に、この学生たちの真摯で誠実な姿を見習うべきだと繰り返し話していました。
 “大学は学生の姿で評価できる”とも言われています。
 私自身も語学研修で来訪した創価大学の学生を歓迎し、懇談したことがありますが、隣国友好を心に刻み、世界市民になろうと努力する姿こそ、最も正しい道であると確信いたします。

艱難汝を玉にす
 最後になりますが、学生の皆様に激励の言葉を贈りたいと思います。
 本学の李理事長は、2001年3月、創大・女子短大の卒業式に参加した際、力強く勇敢な姿を表現した「黄牛(ファンソ)」の像を贈りました。牛は「忍耐、労苦、平和を象徴するもの」として、わが大学のシンボルになっています。
 人生には、苦しみ悩み、耐え忍ばねばならない時があります。
 「艱難汝を玉にす」との言葉があるように、忍耐と労苦をいとわず、平和への大望を見失うことなく、人生に勝利されていくことを祈っております。
 21世紀を担いゆく学生の皆様、どうか創立者のお心を大切に、韓日友好の心を大切に、勉学に励み、世界を舞台に活躍されゆくことを心より願っております(大拍手)。
 結びに、池田博士のご健勝、貴大学の無窮のご発展、若き学生の皆様に前途洋々たる道が開かれますことを心から願い、授与のあいさつといたします。
 このたびは、大変におめでとうございます(大拍手)。

SGI会長の謝辞(代読)

教育は「未来の勝利の大河」に
弘益大学は創大の“21世紀最初の交流校”
人道社会へ共に価値創造を


 一、心より尊敬申し上げる、金完哲総長代行、金東憲企画処長。
 貴国の麗しき国花・無窮花《ムグンファ》が咲き誇りゆく、わが初秋の創価大学へ、両先生、本当にようこそ、お越しくださいました。
 本日、私は、「教育の世紀」「芸術の世紀」「平和の世紀」の旭日と輝きわたる貴・弘益大学より、最高に栄えある「名誉文学博士号」を拝受いたしました。
 尊敬申し上げてやまぬ李勉榮理事長、そしで、権明光総長はじめ、貴大学の先生方の、あまりにも深く寛大なるご厚情を、私は一生涯、忘れることはありません。
 誠に誠に、ありがとうございました(大拍手)。

「弘益」は人類の共存目指す精神

 一、思えば、生命の尊厳を明かした仏法も、貴国が日本に伝えてくださった精神の遺産であります。
 貴国から受けた文化の大恩は、あまりにも大きく、計り知れません。
 この仏法では、「名前」の意義を重んじ、「一切の物にわたりて名《な》の大切なるなり」とも、「名は必ず体《たい》にいたる徳あり」とも、説かれております。
 貴大学は、その校名に「弘益」(弘く益をもたらす)と高らかに掲げておられます。
 「弘益」──何と明快な、そして、何と尊貴な言葉でありましょうか。
 「弘益」とは、史書『三国遺事』に刻まれた、貴国の崇高なる建国の理念であります。
 それはまた、貴国の「教育基本法」にも厳然と明記された、不滅の指針なのであります。
 広く世界を利益し、人類の共存共栄を目指しゆく人間主義が結晶した「弘益」の精神こそ、いまだ衝突と不確実性を極める国際社会にあって、必要不可欠な黄金則といってよいでありましょう。
 その「弘益」を誇り高く校名に冠された貴大学こそ、まさしく、世界に燦たる人類貢献の逸材を薫陶しゆく学府であると、私は声を大にして讃嘆申し上げたいのであります。

自他ともに益する道を
 「弘益」の精神は、私たち「創価」の精神とも深く響き合っております。「創価」とは、「価値」を「創造」するという意義であります。
 「創価教育の父」である牧口常三郎先生は、非道な戦時の圧迫の中にあって、積極果敢に創造すべき「価値」とは、「生命」に対して有益な「価値」に他ならない、と明言しておりました。
 先師は個々人においても、国際関係においても“他を益しつつ自己も益する人道の方途”を提唱したのであります。まさに「弘益」の信条であります。
 民衆を戦争へと駆り立てる軍国教育にも敢然と警鐘を鳴らし、“自分も他者も共に幸福になろうという生き方こそが正しい”と叫びました。
 そして、大恩ある貴国を蹂躙した、日本の野蛮なる国家主義と勇敢に対峙し、獄中で信念の生涯を閉じたのであります。
 ゆえに、本日、賜りました貴大学からの至高の栄誉を、私は牧口常三郎先生に捧げ、そして、この創価教育の道を歩み、人類の平和共存を創り開く使命深き英才たちと分かち合いたいのであります。

「自主」「創造」「協同」を掲げて
 一、貴大学は「弘益」の具現化のために、「自主」と「創造」、そして「協同」という三つの明確な目標を定めておられます。
 私は、ここにこそ、21世紀を担う人材が備えるべき要諦があるとの感銘を深くいたしました。
 「自主」──何ごとにも責任を担い、自ら立ち上がり、物事に挑戦していくこと、であります。
 「創造」──挑戦の中で新たな価値をつくり、自らにしかできない歴史を築きゆくこと、であります。
 「協同」──志を同じくする友を糾合し、切磋琢磨し合いながら一つの目標へ進み抜くこと、であります。
 この英邁なる校是を堅持されつつ、貴大学は総合大学として、教育界に不動の地位を築き上げられました。
 なかんずく、アメリ力の有力経済誌が“世界最高峰の学校”と絶讃してやまぬ芸術分野での実力は、その金字塔でありましょう(大拍手)。
 さらにまた、貴大学が、学術・芸術を、社会や産業と結びつけ、より実用的な分野で生かす取り組みを進めてこられたことも、各界から高い評価を得ております。

大学の改革は学生のために
 一、大学が象牙の塔に閉じこもるのではなくして、地域社会の発展へ、世界平和の前進へ、地球環境の共生へ、広く益をもたらし、価値を創造する──。
 この21世紀の大学のあるべき姿を示されゆく最高学府の模範たる貴大学を、卓越したリーダーシップで率いてこられたのが、高邁なる李勉榮理事長なのであります。
 理事長は語っておられます。
 「私は、弘益大学が韓国の名門大学として長く発展することに生涯をかけています。大学の改革のスピードを速めているのも、すべては大学の発展と学生のためです」
 私は、この断固たる決心をうかがい、感涙したたる思いがいたしました。8年前の春3月、来日された李理事長との語らいは、今も私の胸奥から離れることはありません。
 貴大学と、光栄にも、わが創価大学は、2001年の1月、「学術交流協定」を結ばせ
ていただくことができました。
 創価大学にとりまして、“21世紀に入って最初の交流校”こそ、他でもない、貴大学なのであります。
 うれしいことに今、わが創価大学出身の教育者も、貴大学の教壇に迎えていただいております。
 さらにまた本日は、貴大学、そして貴国からお迎えしている、最優秀の留学生の皆さんも参加してくれており、私は感慨無量なのであります。

青年よ英知の太陽たれ
独立の英雄 安昌浩先生
「大きな仕事を開始しよう 恐れず、休まず、大胆に」


自身の“生命の大車輪”を回せ
 一、来る10月9日、意義深き「ハングルの日」に、ソウルの光化門《クワンファムン》広場に、弘益精神を体現した大指導者・世宗《セジョン》大王の像が除幕されるとうかがいました。
 この高さ6・2㍍にも及ぶ、微笑みを浮かべた雄壮なる文化大王の像を創り上げられたのは誰か。喜ばしいことに、芸術の殿堂たる貴・弘益大学の金永元《キムヨンウォン》教授なのであります。
 今、私の胸には、世宗大王の命によって編纂された「龍飛《ヨンビ》御天歌《オチョンガ》」の一節が轟いてまいります。
 「根深き木は風に動じず、よき花を咲かせ、多くの実をみのらせる。
 源深き泉は日照りにも渇かず、川の水となり、海へと流れ進む」
 いかなる嵐にも揺るがぬ社会の繁栄の大樹。その深き根こそ、教育であります。
 いかなる変動にも怯まぬ未来の勝利の大河。その源こそ、教育ではないでしょうか。
 貴大学の校章の意義は、深遠であります。その円形のデザインは、「宇宙と太陽」そして「絶え間なく発展を続ける車輪」を表現されております。
 内なる宇宙である人間の心は、まさに限りなき可能性の広がりを秘めております。
 本日より私も、誉れ高き貴大学の一員とさせていただきました。先生方の信頼にお応えできるように、人間教育の熱誠によって、一人一人の青年の英知の太陽を輝かせてまいりたい。
 そして、生命の大車輪を、若人とともに、さらに力強く回転させながら、大いなる「弘益」の理想へ向かって、間断なく前進しゆく決心であります(大拍手)。
 結びに、韓日両国そして世界の青年に、貴国の大教育者・安昌浩《アンチャンホ》先生の叫びを贈り、私の謝辞とさせていただきます。
 「青年よ、泰山のような大きな仕事を開始しよう。
 気を落とさず、恐れず、休まず、勇敢に、大胆に進もう」
 わが敬愛する貴大学が、無窮の栄光に包まれゆくことを、心よりお祈り申し上げます。
 カムサ・ハムニダ!(韓国語で「ありがとうございました」)(大拍手)
2009-09-05 : スピーチ・メッセージ等 :
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池田名誉会長の人物紀行 第8回

池田名誉会長の人物紀行 「歴史の巨人」と語る
             (2009.8.27付 聖教新聞)

第8回 革命と情熱の詩人 バイロン


勇み立て! 青年ならば前進だ

 若き日に
  読みたる感動
    バイロンの
  姿を見つめむ
    君らの英知に

 青春の魂は恐れを知らぬ。
 若き英国の詩人バイロンは、渾身の叫びを上げた。
 「我れ絶望に屈服せず!
 我れ我が苦悩と戦いぬ」
 青年ならば、前進だ。勇敢に前へ進む限り、希望という友が微笑み、ついてくる。
 バイロンは18世紀末から19世紀初めの激動の世界を駆け抜けた。フランス革命があり、反革命の応酬があった。英傑ナポレオンの台頭があり、その没落があった。
 時代は大きく揺れ動いていた。だが若き勇気の詩の英雄は、社会を翻弄する激流にも決して屈しない人間の尊厳を、勇壮に謳い上げたのだ。
 詩人は、民衆が苦悩する歴史の激戦地へ馳せ参じて、正義の旗を決然と打ち立てた。
 波瀾万丈の36年──。その大情熱の闘争は、「19世紀のヨーロッパの民衆運動」を力強く鼓舞していったと讃えられる。
 今、21世紀の世界市民の民衆運動を快活に創り広げているのが、創価の青年だ。
        ◇
 青春の命は、道を求める。
 バイロンは見抜いていた。
 「野心の生命も辛労もすべては悉く空無なり」
 「善は空しき名にあらず」
 わが命を燃焼して悔いなき、確かなものとは何か──真の生の充足を求めて、バイロンは人生を旅した。
 彼が実質的な最初の詩集を発刊したのは、19歳である。
 「詩人が留意すべきことは」
 「喜ばせることと向上させることだ」──やがて、詩心の深き使命を自覚する。
 私かバイロンの書を手にしたのは、戦後まもない、神田の古本屋街である。当時の読書ノートにも、書き留めた。
 幸運にも、私は19歳にして、永遠の師・戸田城聖先生に巡りあうことができた。
 「正しき人生とは」。私が尋ねると、簡明直裁な、しかも誠実な答えが返ってきた。
 この人なら、信じられる!
 その感動と感謝を、私は即興の詩に託して朗誦した。
 「嵐に動かぬ大樹求めて
 われ 地より湧き出でんとするか」
 天あり、地あり、師匠あり──最も正しき生命の歓喜と向上の道へ! わが青春の師弟の旅は、ここに姶まった。
        ◇
 それは1972年の5月。大歴史学者トインビー博士は、私との対談が一区切りつくと、御自宅の側《そば》のホーランド公園へ案内してくださった。眩き緑の中を、博士ご夫妻と家族のように散策した。
 この公園は、19世紀のイギリスの政治・文学に大きな影響を及ぼしたホーランド卿の邸宅があった場所である。そこは、バイロンはじめ最高峰の文化人らが集い合う「対話の広場」であったという歴史を、博士は私に紹介してくださった。
 博士とは、イギリスの教育が誇るパブリックスクールをめぐっても語り合った。
 トインビー博士はウィンチェスター校の出身。バイロンはハロー校の出身であった。
 それぞれ、試練の挑戦に雄々しく応戦し、不撓不屈の若き心身を鍛えた母校である。

若き「負けじ魂」
 青春は悩みを力に変える。
 バイロンは、生まれつき足が不自由であった。それゆえ、いわれない悪口を浴びせられた。誇り高いバイロンの心は、傷つき、苦しんだ。
 しかし、その分、若き「負けじ魂」を燃え上がらせた。水泳やクリケットの名手として、敢然と活躍する。
 また、当意即妙の機知に富んだ堂々たる雄弁を磨き、周囲を心服させていった。
 青年には柔軟な頭がある。その頭を思う存分に使うことだ。愚昧ではならない。どんな局面でも、活路を開く智慧は泉の如く汲み出せるのだ。
 自ら苦労を重ねたバイロンは、卑怯ないじめを断じて許さなかった。ある時、強暴な上級生が一人の下級生を殴りつけていた。通りかかったバイロンは「半分、僕を殴りたまえ」と申し出たのである。
 バイロンが庇った少年は、のちに大首相として名を上げるロバート・ピールである。
 虐げられた人の側に立ち、傲り高ぶる者に立ち向かう。バイロンの一貫した信条だ。
 学園時代に正義の闘魂を錬磨したバイロンは、やがて英国上院で熱弁を振るった。産業革命による機械化に伴い、解雇された労働者を擁護した名演説は有名である。権力者の横暴、欺瞞、虚偽、虚栄を、痛烈に攻め抜いた。
 バイロンは叫んだ。
 「私の義務は、正しき目的のためにすべてを賭することにある」
 今春、私は創価学園の愛唱歌「負けじ魂ここにあり」に新たに5番の歌詞を贈った。
 「正義の誇りに 胸を張れ」──この一節には、バイロンを凌ぐ英雄詩人よ、躍り出でよ!との願いも込めている。

世界が前にある
 青春の勇気は無敵である。
 「如何なる空の下をも行かん、/我に洸《こう》たる勇心あり」
 「勇気は如何なることでも成し遂げるものだ」──これが、バイロンの心意気であった。
 新しい詩歌の道を創り開くバイロンは、卑劣な匿名の悪罵を浴びせられた。
 文豪ビクトル・ユゴーも、そのバイロンを偲んで、「凡ての勝ぐれた人々のように、たしかに慥《たしか》に讒謗の餌食となった」と綴っている。
 しかし、誹謗されて萎縮するようなバイロンではなかった。ならば、いまだかつてない大傑作を生み出して、あっと言わせてみせると、いやまして闘志を奮い立たせた。
 惰性や堕落や嫉妬が渦巻く既成の権威に、自分が負けてしまえば、後に続く新しき世代の道が閉ざされてしまう。その先頭に立って、堅忍不抜の努力と開拓を重ねたのだ。
 バイロンは「全世界がわたしの前にある」との気概で、心広々と精神闘争に打って出た。
 壮大な長編詩「チャイルド・ハロルドの遍歴」、詩劇「マンフレッド」、叙事詩「ドン・ジュアン」等々──何ものにも縛られぬ魂の自由を謳歌し、人間精神の勝利を宣言した詩作は、狭小な悪評などものともせず、全世界からの賞讃を勝ち得ていった。
 かのドイツのゲーテも、ロシアのレールモントフも、日本の高山樗牛も、バイロンを激賞してやまなかった。
 若き世界市民は勝った。
        ◇
 青春は最前線に躍り出る。
 バイロンの勇戦が世界史に不滅の光彩を放った時──。それこそ、ギリシャ独立闘争への参加であった。
 当時、ヨーロッパ文明発祥の大恩の天地ギリシャは、大国の軛の下にあった。
 隷属から立ち上がったギリシャの勇士の陣列に、世界の民衆詩人たるバイロンは、熱き血潮を燃やした。
 ──時は来た。今こそ行動の哲学を完成させゆくのだ。
 さあ行こう!
 バイロンは、私財を擲ち、自ら義勇軍を率いて、ミソロンギの天地へ上陸した。
 1824年のことである。
 戦況は、悪戦苦闘の連続であった。それでもバイロンは忍耐強く陣形を整え、率先の行動で同志を励ました。
 「自由を欲するものは、自ら起って戦わねばならぬことを知らないのか。/勝利は自らの腕によって得られるのだということを知らないのか」
 困難が起こるほど、バイロンは生命の充実を感じた。民衆のために、苦労して戦うほどの名誉はないからだ。
 「青春を悔いるならば、なにゆえに命を永えるか」
 甘ったれた青年には、何もできない。いざという時、狡賢く傍観する臆病な青春は、佗しい後悔を残すだけだ。
 使命の戦線に勇んで駆けつけ、若き生命を捧げゆけ!
 これが、バイロンの不退の決意であった。誉れ高く一人立つ獅子の勇気を、バイロンは謳い、そして体現した。
 学会精神と響き合う心だ。
 「革命は死なり」とは、戸田門下の青年の覚悟であった。
 ゆえに私は青年部の室長として、聖教新聞に「革命詩人・バイロン──生涯を情熱で貫く」と題し寄稿した。
 昭和32年6月、学生部誕生の直前である。夕張炭労事件に続いて大阪事件が競い起こらんとする渦中であった。
 バイロンを通して「実行だ、闘争だ、前進だ」と訴えた私の師子吼に、全青年部が応え、猛然と立ち上がってくれた。今も同じだ。

強気で攻めよ!
 青春の勝利とは、不滅の栄光を残しゆくことである。
 バイロンは、志半ばにして病に倒れた。
 「進め! 勇め、我に倣って進め! 恐れるな!」
 これが遺言となった。最後の一瞬まで、強気で攻めるのが、勇者の真髄である。
 その気迫は、死によっても消え去ることはなかった。
 バイロンの自由と正義の戦いは、やがて世論を動かし、政治を動かして、祖国イギリスはギリシャ支持の声明を発するに至った。そして、ついに独立は成ったのである。
 ギリシャの国民の手で建てられた「英雄の園」には、バイロンの名を刻印し、讃える大理石の柱がある。
 「ここに勇者の碑あり、彼は自由を愛したり、ゆえに来たりてギリシャのために死せり」と。
 民衆から捧げられる感謝こそ、青年の永遠の誉れだ。
 「私の中には、拷問にも時にも屈しない何か、この身が滅んでも生きつづける何かがある」──バイロンの英国の墓碑に刻まれた詩句である。
 ゲーテは「バイロンの大胆さ、勇敢さ、雄大さ」を讃えた。大作「ファウスト」にも、バイロンをモデルとする青年を登場させている。
 その青年は叫ぶ。
 「ながめているだけなのか
 いや、苦難をともにする」
 「すべての戦う人びとに、
 ぼくの参加が大きな力となるように!」
 「いざ、彼の地へ!
 誉れに向かって、道はひらかれている」
 創価の青年よ! 未来の人類から仰がれゆく、大いなる勝利の歴史を、断固、残し飾りゆけ! バイロンの如く!


❶丸川仁夫他訳『バイロン全集第5巻』那須書房❷岡本成蹊他訳『バイロン全集第3巻』③東中稜代著『バイロン初期の風刺詩』山口書店④阿部知二訳『世界詩人選4 バイロン詩集』小沢書店❺熊田精華他訳『バイロン全集第4巻❻岡本成蹊他訳『バイロン全集第1巻❼榎本秋村訳『ユウゴオ論説集』春秋社書店⑧田中栄一訳『バイロン』評論社❾アンドレ・モウロア著、木村毅訳『バイロン』改造社⑩鶴見祐輔著『バイロン』潮文庫⑪笠原順路編『対訳バイロン詩集』岩波文庫⑫エッカーマン著、山下肇訳『ゲーテとの対話(中)』岩波文庫⑬池内紀訳『ファウスト第2部』集英社文庫⑭山下肇他訳『ゲーテ全集3』所収、潮出版社。
白抜き文献は現代表記に改めた。
他に『阿部知二全集第13巻』河出書房新社、楠本晢夫著『永遠の巡礼詩人バイロン』三省堂、等を参考にした。
2009-09-04 : 人物紀行「歴史の巨人」と語る :
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新 あの日あの時 15

新 あの日あの時 15     (2009.8.26付 聖教新聞)

池田先生と埼玉県

新時代を開く「関東の師子王」

3代会長と川越
 「この戸田の名代として、毅然と行ってきなさい!」
 師の厳命によって、青年部の池田大作班長が、埼玉・川越の御書講義に討って出だのは1951年(昭和26年)の秋である。
 戸田城聖第2代会長の事業を一身に支える苦闘の真っ只中だった。池袋駅から東武東上線で約45分。発車ベルの鳴る電車に、飛び乗ることもあった。
 成増駅を過ぎると埼玉に入る。大和町(現在の和光市)、朝霞、志木、鶴瀬、上福岡、新河岸──。
 やがて埼玉が大発展する日を祈りに祈りながら、電車に揺られた。
 53年2月10日の日記。
 「埼玉、川越地区に講義。──『佐渡御書』。受講者。約五十名。次第に、人材、人物が、輩出して来た様子」
 その5日後の2月15日。
 川越会館(当時)で志木支部の総会があり、戸田会長が出席した。
 さすがは大作だ! よくぞ埼玉を育ててくれた!
 総会は大成功に。この日、戸田会長は川越にある旅館「佐久間」に投宿した。
        ◇
 この旅館「佐久間」には牧口常三郎初代会長も泊まっている。
 1907年(明治40年)10月、川越中学(当時)で講演するために滞在した。
 女性教育に力を入れていた牧口会長は、3日間にわたり、学資がなくても学べる女性のための「教習所」の実現を市民に呼びかけている。
 「佐久間」の創業は1894年(明治27年)。皇族や文豪の常宿として愛されてきた。島崎藤村も、ここで小説『夜明け前』を執筆した。
 そんな名だたる賓客をもてなしてきた「佐久間」だが、戸田会長を迎えた日のことは、いまだに語り草になっている。2代目の女将・佐久間スミが「すごい方が来られた!」と家族に熱っぽい口調で語っている。
 その人柄に魅了され、わざわざ信濃町の学会本部まで、旅館の将来などを相談しにきたほどである。
 3代目社長の佐久間勇次。
 「歴代の会長が市民のために足を運ばれた川越です。学会の川越文化会館も素晴らしい。新しい名所ができたような思いです」

香峯子夫人と共に
 明治時代、埼玉の川越で女性の幸福を願った牧口会長。
 名誉会長の香峯子夫人は、その牧口会長が出席した座談会に参加した経験をもつ。香峯子夫人もまた折にふれて埼玉の女性を勇気づけてきた。
 82年(昭和57年)8月、長野県。
 関東から参加したメンバーの研修が終わり、香峯子夫人が、ねぎらいの声をかけた。めざとく関東女子部長だった栗和田《くりわだ》薫を見つけた。
 「親孝行してくださいね。あなたがリーダーとして戦われていること自体が、立派な親孝行ですから」
 栗和田は、これまで胸の内にしまってきた思いを語り出した。
 母と姉妹4人で信心を貫いてきたこと。第3代会長の辞任を知った時の悔しさ。病弱だった母が、聖教新聞の配達をしながら、100世帯を超える弘教を成し遂げたこと……。
 香峯子夫人は静かに、すべてを聞いてくれた。
 「お母様を大切にしてくださいね」
 翌日、栗和田の母に名誉会長から一首の和歌が届く。
 「埼玉の 陰の陰なる母ありぬ その名忘れじ その名薫れと」
 池田名誉会長が、全埼玉の婦人部、女子部に贈る思いで詠んだ歌であった。
        ◇
 89年3月12日、埼玉婦人部の代表が、香峯子夫人と懇談していた。
 「どうしても関西を超える戦いをしたいんです!」
 夫人は少し困ったように微笑んだ。
 「関西は主人がつくった組織ですから……。皆さんらしく戦うことが重要ではないでしょうか」
 その年の10月。
 関西入りした池田名誉会長は、京都の会合に出席した。
 「“大変な時こそ、まかせてください。関西は何倍もやりまっせ”との心意気。それが『関西魂』の素晴らしさである」と讃えた。
 続いて、埼玉に刻まれた史実を通してスピーチした。
 ──埼玉の行田市に、忍城《おしじょう》という美しい城がある。戦国時代、城主と軍兵《ぐんぴょう》が出陣した隙に2万もの豊臣勢が押しよせた。城には年配者と女性しかいない。絶体絶命である。
 しかし城主の妻が、わずか300の兵と立ち上がる。城を落としてなるものか。妻みずから泥にまみれて堀を掘り、ついには豊臣勢を圧倒した逸話を通じた指導だった。
 埼玉は、埼玉らしく!
 不朽不滅の歴史を築け!
 名誉会長夫妻は、常勝関西の地にあっても常勝埼玉にエールを送ったのである。

川口で文化祭
 1985年(昭和60年)9月29日午後、川口市立芝スポーツセンターに到着した。埼玉青年平和文化祭に出席するためである。
 名誉会長は体調をくずしていた。それでも来賓の到着を知ると、畳をバンと叩き、勢いよく立ち上がった。
 文化祭が幕を開けた。
 東京の北区、足立区に隣接する川口市の名物「キューポラ」(鋳物工場の溶銑炉)の火をイメージしたダンスが始まった。
 青年たちが、炎暑のなかで練習を重ねた演技が続く。
 名誉会長は、拍手を送り続けながら、来賓に声をかけ、飲み物にも気を配った。
 終了後の懇談会では、川口の同志の近況に耳を傾けた。
 奮起した川口は、埼玉屈指の組織に発展。3年後、待望の川口文化会館が落成した。

テレビ埼玉の社長
 埼玉西武ライオンズ。
 浦和レッズ。
 大宮アルディージャ。
 埼玉のスポーツファンは、ホームチームの試合を中継する「テレビ埼玉」を愛してやまない。
 社長の岩崎勝義。創価学会に興味を抱いたのは「人間教育実践報告大会」に招かれてからである。
 埼玉県深谷市で行われた。胸を打つエピソードに涙があふれた。
 テレビマンとして、この団体の本質に迫るうと、特別番組を手がけてきた。
 切り口は豊富にある。
 まず「母」という角度。
 名誉会長の長編詩をモチーフにした「母に贈る歌」。2000年(平成12年)から3年にわたり「母の日」に放映した。
 中国という側面も、見逃せない。
 02年は日中国交正常化から30周年の節目だった。「世代から世代へ伝える“金の橋」を制作。中国ロケも敢行し、名誉会長の足跡、功績も取材できた。
 文化交流。
 06年5月、「大ナポレオン展」が埼玉で開幕されることを知り、特番を組んだ。子孫であるナポレオン公と名誉会長の会見映像も流した。
 「番組をつくる以上、池田先生、学会のことも徹底的に調べさせていただきました」
 現場のプロデューサーやディレクターはもちろん、営業部門も巻き込んだ。
 「未来を築く教育や、郷土を守る農村にも光を当てている。池田先生は大変に素晴らしい」

笑顔で進め!
 85年(昭和60年)の師走。
 第3埼玉県(当時)の代表が聖教新聞社の前で名誉会長に出会った。
 「どこから来たの?」
 平川良子たちが答える。
 「第3埼玉です!」
 具体的な地名がイメージできないせいか、少し首を傾げた名誉会長。
 「中心は、どこ?」
 圏婦人部長が次々と声をあげる。
 「春日部です!」「越谷です!」「三郷です!」「久喜です!」「羽生です!」「熊谷です!」
 それぞれの地域名を聞き、「分かった。本当にご苦労様! またね」。心から、ねぎらってくれた。
 埼玉の東部から北部に広がる地域である。県民の間でも知名度が高いとはいえない。
 “勝つことだ。見事な勝ち名乗りを上げて、先生に知っていただくしかない”
 ことあるごとに活動の結果を報告し、86年11月24日、その夢が三郷で実現した。
 この日、名誉会長は三郷文化会館を初訪問。三郷市、八潮市をはじめ第3埼玉の代表らが集った。
 懇談の際、こんな場面もあった。
 三郷婦人部の岩田栄子が悩みを打ち明けた。長男の下肢がマヒしていた。その息子を抱きかかえ、婦人部本部長として活動してきた。
 池田名誉会長の指導は明快だった。
 「信心は明るくするものだ。感傷に涙する婦人部ではいけないよ」
 その確信に圧倒される。
 「太陽のごとく! 明るく前を向いて生きなさい。それが仏法だ」
 その夜、和歌が届く。
 「香《かぐわ》しき 秋の実りにつつまれし 笑顔と笑顔の 三郷城かな」
 笑顔で進め! 新たな指針を胸に進む三郷には、勝利の城がそびえる。
 岩田の長男も、三郷圏の男子部主任部長になった。

師弟の埼玉たれ
 2000年(平成12年)9月に行われた埼玉の記念大会。名誉会長はメッセージを寄せ、呼びかけた。
 全員が、師子王となって、戦い、走れ! これが日蓮仏法の真髄であり、創価学会の魂であるからだ。埼玉よ、世界一の埼玉として、永遠に、その名を残せ!」
 「私は、埼玉の大勝利を待っている。夢に見た埼玉の大勝利を待っている」
 埼玉は立ち上がった。
 機関紙誌の拡大、記念展示等の参加人数も常にトップに立つ。
 いざ戦いとなれば、東京、神奈川、関西も押し上げる「関東の要」である。
 後継の陣列も整った。
 08年9月には、3万6000人の広宣流布の闘士が、さいたま市のさいたまスーパーアリーナに堂々と集結。
 その波動は、来賓として参加したブラジル青年部の代表の心も動かす。本年5月、ブラジルの地でも2万人の文化総会が行われた。
        ◇
 07年5月8日、埼玉池田研修道場で、名誉会長は新たな指針を示した。
 「師弟の埼玉になりなさい。創価の三代は自分を捨てて、会員を守ってきた。その心が異体同心につながる。勝って、また会おう!」
 「関東の師子王」埼玉が新時代を勝ち開く。
2009-09-03 : 新 あの日あの時 :
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新 あの日あの時 14 

新 あの日あの時 14     (2009.8.25付 聖教新聞)

池田先生と千葉県

広宣流布の「勝利の旭日」

成田から世界へ
 房総半島の沖で、機体が高度を下げている。
 ベルト着用のサインも出て、池田大作名誉会長は座席でシートベルトを締めた。
 北京から上海を経由した国際便が、着陸態勢に入ったのは、1978年(昭和53年)9月20日の夜9時ごろである。
 第4次訪中の帰途だった。
 成田の空に、名誉会長を乗せた飛行機が見えてきた。
 この年の5月に開港した成田国際空港を初めて利用したのは、この時たった。
 往路と復路が別々の場合もあるが、これまでに50回以上、成田空港を使用している。
 米国のハーバード大学にも成田から出発した。統一ドイツのヴァイツゼッカー大統領にも会いに行った。イギリスのメージャー首相のもとへも翼は風を切った。
 「大鵬の空をぞかける姿して」と恩師から贈られた歌のままに、東へ西へ。
 干葉は名誉会長にとって、世界へ離陸する地である。
        ◇
 SGI(創価学会インタナショナル)メンバーや名誉会長の賓客も、成田から日本への第一歩を印す。
 佐倉総県と池田総県の婦人部を中心とする「凱旋グループ」。空港を擁する地の代表が、真っ先に海外の友を出迎えてきた。
 初めての日本に戸惑う来客も、歓迎の笑顔にふれた瞬間、ホッと胸をなで下ろす。学会に対する認識も一変する。
 池田名誉会長夫妻も折々に讃え、感謝している。
 ──常に凱旋グループが、最高の真心の笑顔で海外のお客様を歓迎してくれる。その時点で、創価の外交戦は勝っている。
 香峯子夫人もまた、どこにあっても、相手が誰であろうと、常に微笑みを絶やさない。そんな姿を、戸田城聖第2代会長は“送迎部長”と呼んで、嬉しそうに讃えた。
 凱旋グループに加わったことで語学力を磨き、身だしなみを整えるようになった人も多い。世界が身近になった。
 皆の心は常に、名誉会長夫妻と共にある。

ハスの花が咲くまで
 「千葉《ちば》」の名前は「千葉《せんよう》の蓮華」に由来するという説がある。
 古来、蓮華の花が多かった土地だが、ハスの花は泥の中から出て、美しく咲く。
 干葉の発展の陰にも、目に見えない泥の中に、黙々と種を植えた人がいる。
        ◇
 53年(昭和28年)ごろ、男子第1部隊の折伏戦は、とどまることのない勢いを見せていた。
 東京の下町が主戦場だが、池田部隊長を先頭に東京湾岸にも旋風を巻き起こした。
 江戸川の橋を渡って、市川市、習志野市、千葉市へと転戦していく。
 「外に打って出よう。これは出稽古だ」
 池田部隊長が立案した作戦だった。青年は小さくまとまってはいけない。大きく動くことだ。
 バス部隊。自転車隊。徒歩部隊。いくつものチームに分かれ、干葉県内を開拓していった。
 ある男子部員は、角のタバコ屋で買い物しながら尋ねた。「このへんに、何かを信仰している強信者はいませんか」。敵は強い方がいい。
 「強敵を伏して始て力士をしる」。佐渡御書の精神が池田部隊長から、たたき込まれていた。この第1部隊の精神を受け継いだ干葉が、こんどは東京、神奈川、関西へと打って出るようになる。
 激戦地ならどこでも駆けつける。強敵であるほど「燃える心」で勝ちまくる。誉れ高き千葉青年部の魂である。
        ◇
 51年(昭和26年)、香峯子夫人は女子部の班長だった。
 蒲田支部の矢口地区に所属していた船橋の班へ幾度も通った。
 総武線の下総中山駅で京成線に乗り換え、葛飾駅(現・京成西船駅)で下車。西船橋の拠点まで徒歩で向かう。矢口渡の自宅から1時間半はかかったろうか。
 まだ区画整備もままならず、野良犬が暗い夜道をウロウロしていたような時代である。
 だが座談会では、疲れた色など微塵も見せない。朗らかに女子部の活動の様子を語った。
 2008年12月、船橋池田講堂がオープンした時、立派な会館に集う同志の晴れ姿の写真に、誰よりも喜んだのが香峯子夫人だった。
 青年時代、船橋に通いながら、神奈川の鶴見・川崎にも足を運んだ。
 千葉と神奈川。まさに「南関東」こそ、香峯子夫人の青春の舞台だった。
        ◇
 まだ学会の会館も整っていない時代に、名誉会長が拠点にしたのが、市原市にある相川仁保《ひとやす》の家だった。
 この相川宅には、かつてはハスの池があった。
 のちに埋め立てられたが、美しいハスの花が咲いていたという。
 69年(昭和44年)1月15日に、名誉会長が相川宅へ。ハスの池があった場所に立ち「よく草が刈ってあるね」「ここに、広布の城を築いていこう」と語った。
 相川は開業医だった。折伏に来る人も、最初は裸足同然で、泥んこの足をしていた。
 それが回数を重ねるうちに、玄関に並ぶ履物が、下駄になり、靴になり、上質な革靴になる。
 「うーん、これはすごい」
 泥の中に何か光るものを感じて入会したのである。
 この地域には、今、市原文化会館が堂々と立っている。

強気でいけ!
 プロ野球の投手だった白本義一郎が、チームメートを学会本部に連れてきた。バッテリーを組むキャッチャーの上林《かんばやし》繁次郎《しげじろう》である。千葉の船橋に住んでいた。
 「紹介したい男がいるから」。戸田会長は一人の青年を呼んだ。
 「池田です。よろしくおねがいします」
 51年(昭和26年)7月13日。白木に折伏された翌日であった。
        ◇
 56年(昭和31年)、青年部の池田室長は上林を「大阪の戦い」の戦列に加えた。折伏戦の渦中、マスコミに中傷され、弱気な姿を見せる。
 ある日、関西本部の一室で厳しい目で見据えた。
 「この戦い、あなたは、絶対に勝てると思っていますか!」
 「はい、そのつもりで戦っています」──室長より一回りも年上だが、背筋をピンと張り、顔を強ばらせた。
 しかし室長は納得しない。“そのつもり”などで勝てる道理がない。
 「本当ですか!」
 「はい……」
 こうした、やりとりが8回も繰り返された。ついに、ほろっと本音をもらした。
 「いや、その、本当は自信がありません……」
 室長の檄が飛んだ。
 「その弱気が一凶なんです!」
 強気でいけば勝てる。切り開いていける。何ごとかを成し遂げられる。弱気になり、受け身になったら負ける。敗北の根本だ。
 「人生は強気でいけ」──その鉄則を打ち込んだのである。

太陽の仏法が昇る
 浦安市の東京ディズニーランド。ここを運営するオリエンタルランドを設立した江戸英雄(三井不動産相談役)は、池田名誉会長と親しく対談を重ねてきた。
 「池田先生、ぜひディズニーランドにお越しください」。ようやく実現したのは、87年(昭和62年)11月10日だった。
 多忙なため短時間しか割けなかったが、次のように記帳している。
 「全世界の 少年少女の夢とロマンとの 『平和』の金の城の 永遠の栄光を祈りつつ 大作 香峯子」
 後日、名誉会長から御礼の手紙が社長に届く。
 「多くの若い職員の方々が礼儀正しく溌剌と働いておられる姿、また謙虚な中にも自らの仕事に誇りと責任を持っておられる姿に、たいへんさわやかな印象を強く受けました」
 社内報「LINE《ライン》」の新年号に、全文が掲載された。
        ◇
 嵐の79年(昭和54年)。名誉会長は、千葉文化会館で陣頭指揮を執った。
 本部幹部会(2月23日)。市原地域本部の勤行会、青年部との記念撮影(2月24日)。東京支部長会(3月4日)。
 「人間、誰にも負けないものがあればいい。私は権力も財力も何もない。たった一つ、戸田先生を思う気持ちがあるだけである」
 師弟の真髄を言い残した。
 82年(昭和57年)6月9日、松戸会館(現・松戸平和会館)で松戸・市川・柏圏の勤行会が開かれた。
 名誉会長は「この三つの圏は千葉の心臓部に! 日本の心臓部に!」と呼びかけた。
 本年3月には心臓部にふさわしく、松戸池田講堂が完成した。喜びの波動は大東京へ広がった。
 91年(平成3年)11月8日。宗門が学会本部に“解散勧告書”なる文書を突きつけてきた。
 その8日後、千葉ポートアリーナでの文化友好祭。名誉会長の悠然たる振る舞い、青年たちの圧巻の演技に、来賓もマスコミも驚嘆した。
 「宗門に叩かれても、学会は微動だにしていない。さすがだ!」
 あの「創価ルネサンス」の開幕の烽火も、千葉から上がったのである。
        ◇
 名誉会長の本家は、「千葉庄《ちばのしょう》池田郷《いけだのごう》」、現在の千葉城(千葉市中央区)の周辺にルーツがあったとされる。
 「干葉には深い縁《えにし》を感じる。故郷のような愛着がある」(名誉会長)
 千葉の蓮華──千葉は、日蓮大聖人が誕生なされた地である。約21年間も在住された。神奈川の鎌倉で12年、山梨の身延で8年、指揮を執られた。どこよりも長く干葉や南関東の周辺に、仏縁を残された。
 大聖人は“釈尊はインド、天台は中国、伝教は日本”と三師を挙げられた上で、御自身を、生まれ故郷の「安州《あんしゅう》(安房の国)の日蓮」と名乗られた。千葉の名を誇りも高く掲げられ、末法広布の道を開かれたのである。
 太陽の仏法は、創価学会によって今、世界を照らす。
 新しき広宣流布の「勝利の旭日」は、干葉から昇る!
2009-09-03 : 新 あの日あの時 :
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新 あの日あの時 13

新 あの日あの時 13     (2009.8.24付 聖教新聞)

池田先生と東北

東北は「2倍戦い」「2倍勝つ」

北国の“熱い夏”
 遠くで汽笛が聞こえた。
 C57型。スマートなスタイルをしていて、後年、SLファンから「貴婦人」と呼ばれる蒸気機関車だ。
 「あれでね」
 「んだ」
 古びた弘前《ひろさき》駅。青森支部弘前地区の十数人が首を伸ばす。1960年(昭和35年)8月29日。大時計は午後3時20分をさしていた。
 あの急行「津軽」に、池田大作会長が乗っているはずだ。
        ◇
 青森の8月は、ねぶた祭の「ラッセラー、ラッセラー」の掛け声で始まる。弘前、黒石、五所川原でも灯籠山車が満を持して出陣する。
 しかし、今年は第3代会長が誕生して最初の夏。夏休み返上で折伏に討って出た。「みっけだ!」。田んぼの人影に声をかける。返事がない。よくよく見ると案山子だった。
 行く先々で水をまかれ、塩をまかれた。
 「いらね、いらね! もぉ来《く》な!」
 反発されるほど燃えるのが、津軽のじょっぱり精神である。
 29日、情報が飛び込んだ。池田会長が訪問先の北海道から、秋田経由の急行「津軽」で帰京する。
 こうして弘前地区の面々は、弘前駅で待ちかまえていたのである。
 「津軽」の茶色の客車の窓がサッと開いた。「お元気ですか!」。池田会長だった。
 停車時間は短い。しかし、渾身の指導が奔《はし》った。「題目をあげ抜いてください!」「皆さまによろしく!」
 祭りも盆も関係なく、弘教に汗を流してきた一人一人の顔が、くしゃくしゃになった。
        ◇
 ねぶた。竿灯。七夕。花笠。東北は冬が厳しいぶん、夏の祭りは燃え上がる。だが学会の夏は、もっと熱い。
 82年の夏も、そうだった。8月22日、第1回宮城平和希望祭。
 会場の宮城県スポーツセンターにクーラーはない。水銀柱は、ぐんぐん上がり、館内は40度に達した。最後にマイクを握った名誉会長。
 「私は身体が弱かった。ならば精神を鍛えようと19歳の時に信仰した。いかに批判さ
れても、精神を鍛えた私には何でもない!」
 翌23日、仙台空港に向かう途中、閖上《ゆりあげ》漁港の「南雲魚店」に立ち寄った。2階で懇談していると、3人の孫がパタパタと走り寄る。
 「昨日は出演したの?」
 名誉会長が尋ねると、一番上の孫娘が答えた。
 「豊年こいこいです」
 香峯子夫人が「まあ、あの難しかった歌ね」。名誉会長もうなずいた。
 「そうか。将来、創価大学にいらっしゃい」
 約束どおり創価女子短大に進んだ孫娘。卒業後、故郷に帰り、女子部、ヤング・ミセスで東北を走った。
 仙台の帰路、名誉会長は語った。
 「暑い日に何かを成し遂げたということは、一生の思い出になるんだよ」

会津藩の覚悟
 「会津に鶴ケ城という城がある」
 東京・八王子で創大生と懇談していた創立者が、福島の話を始めた。
 「行きたかったけれど、今回は寄れなかった」
 つい3日前、福島から帰京したばかりだった。
 78年(昭和53年)6月2日の夕刻である。
 幕末、会津藩の鶴ケ城は猛攻撃を受けた。
 「なぜ狙われたか分かるかな」
 学生たちが首をかしげる。
 「敵は急所しか狙わない。鶴ケ城だけは怖かったからだ」
 会津は教育に力を入れていた。藩校「日新館」で文武両道を鍛え、精兵を育てた。
 「頼んだよ。あの額の下で記念撮影をしよう。みんなは会津グループだ!」
 『自身鍛錬』の額の下で記念のカメラに納まった佐藤修。集まった創大生のなかで、ただ一人、福島出身者だった。
 福島に帰り、小学校の教員になった佐藤は、2004年に48歳で校長に抜擢された。
        ◇
 福島に難攻不落の城を築いてきた。
 第3代の会長になって、最初の正式な東北指導も福島を選んだ。
 60年6月4日、郡山市民会館。人があふれ、第2会場、第3会場まで用意された。
 なんだ第3会場か……。
 会津から来た川宮康雄は29歳。若い漆塗り職人である。
 ところが終了後、突然、新会長が姿を現した。
 「池田でございます。私は第3代会長ですから、第3会場の皆様とは縁《えにし》が深い」
 どっと笑いがはじけた。
 それから35年──。
 川宮は、福島研修道場で名誉会長と再会する(95年6月)。
 来場者を歓迎するための特設コーナーが並び、会津塗のブースには伝統工芸師になった川宮がいた。
 6月19日、ブースに立ち寄った池田名誉会長から質問された。
 「御書に『うるし(漆)干ばいに蟹の足一つ』と仰せですけど、あれは本当ですか?」
 「はい。漆でかぶれた皮膚に沢ガニの汁を塗ると治ります。漆は蟹ですぐにダメにな
ります。ですから本当です」
 「そうか、大聖人はウソを仰しゃらない。何でもご存知なんだ」
        ◇
 この御文は、いかに信心を貫こうとも、正法に背けば水泡に帰す譬えである。
 89年(平成元年)7月、宗門の阿部日顕が福島県内の禅寺に墓を建立し、こっそりと墓参した。
 後に、福島の幹部が、この事実を突き止め、有名な「禅寺墓」事件が白日の下にさらされた。日顕宗の邪義は、福島で正体を暴かれ、破折されたのである。

詩心と米沢、八戸
 池田名誉会長が、青森・奥入瀬の滝に寄せて詠んだ“滝の詩”。
 今、全国の壮年部員が奮い立つ詩の源流も東北にある。
 この奥入瀬渓流をはじめ、東北を讃えた名誉会長の長編詩「みちのくの幸の光彩」が、山形の地元紙「米沢日報」の新年号を飾ったのは99年(平成11年)である。
 社長の成澤《なりさわ》礼夫《のりお》が、この詩には東北人の心がある、と惚れ込んだ。数日後、名誉会長から自筆の漢文が届く。
 「特立而独行」
 (世の風評に左右されず、自己の信念に立って行動するの意)
 自分の目で確かめてみよう。成澤は創価大学、アメリカ創価大学、イギリスのタプロー・コートなどへ取材に飛び、特集記事を書いた。
        ◇
 八戸に拠点を置く三八五《みやご》グループの代表・泉山元《はじめ》(青森経済同友会の代表幹事)は、名誉会長の詩を事業の指針にしている。
 「強くなれ! 強くなれ! 絶対に強くなれ! 強いことが幸福である……」
 2004年、関連37社の全事業所に、詩を印刷したポスターを張り出した。
 「厳しい経済情勢の中で奮闘する全社員に、この強い心を浸透させるためです」

口と口の戦いだ!
 「たいへんだ! 池田先生が水沢に寄られるかもしれないぞ!」
 東京で下宿していた岩手出身の学生部員の吉田裕昭や鷹觜《たかのはし》猛男は、こんな電話をかけ合った。取るものも取りあえず、午後11時32分上野発の夜行列車「いわて3号」に飛び乗った。
 79年(昭和54年)1月11日、池田名誉会長は完成まもない水沢文化会館を訪れる。
 翌12日、名誉会長の来県の報を受け、8000人の会員が駆けつけた。
 名誉会長は全員参加の自由勤行会を提案。自ら司会役を務め、雪道を越えて続々と訪れる友を励ました。
 役員を慰労する会合で吉田ら学生役員を見つけた。
 「岩手は大変なところだ。一人一人を守りなさい。そういう人に、君たちがなるんだ!」
 この時に馳せ参じた若者たちは、やがて岩手のリーダーに育つ。
        ◇
 「秋田には学会の原点がある」と指導したのは、94年8月27日の鹿角《かづの》会館である。
 この年の秋田の勝利は轟いていた。新年勤行会を“日本一”の結集で荘厳。春先には、機関紙の大拡大で、正義の言論戦に勝利した。
 4月の本部幹部会。名誉会長は“師匠直結の秋田”を掲げて前進する秋田婦人部を最大に讃えた。
 「秋田大班《だいはん》」。草創期に、蒲田支部から伸びていったのが秋田である。
 「勝って、池田先生と、蒲田の白木のおばさんに報告するべ」
 十和田の支部長だった対馬久夫の口癖だった。鹿角会館を出発する時、対馬の娘・成田智枝子に、香峯子夫人が声をかける。
 「いつも私の実家にお手紙をくださる対馬さんの娘さんですね。本当にありがとうございます」
 この夜。対馬は、いつものように香峯子夫人の母堂・白木静子さんに電話をかけた。
 「池田先生を鹿角にお迎えすることができました。ますます戦います!」
 勝ちに勝って師を迎えた8月27日。この日は「総秋田女性の日」になった。
        ◇
 八戸市で食堂を営んでいた内城《ないじょう》重次郎《じゅうじろう》。
 71年6月14日、八戸会館。
 「何でもいい。功徳の実証を2倍にしよう」という名誉会長の指導に奮い立つ。
 「人間は目標がないと茫漠としてしまう」。経済力でもいい。友人の数でもいい。「何か」で2倍の境涯を広げよう。
 よし、だったら自分は商売で2倍になろう。内城は妻のツナと2倍の対話に徹した。気がつけば4年で倍増の売り上げになった。
 2倍戦い、2倍勝つ!
 東北に、新しい指標が生まれた。“2倍革命”に燃える東北の戦いは、東京、神奈川、関西をはじめ各地の勝利をリードしてきた。その使命は今、一段と重い。
        ◇
 「戦《いくさ》」という文字について池田名誉会長は東北で訴えている。
 「かつては口を二つ書く『戰』だった。戦は、口と口の戦いだ。言論戦だ。広宣流布は、語りに語っていかなければならない」
 勢いよく! 元気よく! 人々がアッと驚く大音声で!
 この夏、東北は語り抜いて勝つ!
2009-09-03 : 新 あの日あの時 :
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