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随筆 人間世紀の光 No.202/203

随筆 人間世紀の光 No.202/203(2009.8.28/29付 聖教新聞)

人間の中へ 民衆と共に㊤㊦

偉大な力は「一対一の対話」から!
総仕上げが勝負! 悔いなく勝ち飾れ


 誠実な
   広布の時間は
    三世まで
  君の生命に
   功徳と成るかな

 「SGI(創価学会インタナショナル)の活動は、なぜ、これほど世界的に広がりを見せるようになったのでしょうか」
 アメリカの未来学者ヘンダーソン博士から質問されたことがある。
 「環境運動の母」としても名高い博士は、私たちの運動に、驚くべき“拡大の秘訣”があるのでは、と思われたようだ。
 重ねて問いかけられた。
 「どうやって、不撓不屈の団体をつくりあげてきたのでしょうか」
 私は率直にお答えした。
 「まず、一心不乱に事に当たったからです」
 誠に素朴だが、「一心不乱」──この一点に徹し抜いてきたからこそ、学会はここまで発展したのだ。
 いかなる時も、人生と広布の「勝利」を目指して、心を一つに定め、強盛に祈り、勇敢に動き、誠実に語る。これが学会精神だ。
 ともあれ、わが同志が、元気いっぱいに社会のため奮闘している。その躍動する地涌の菩薩の群像こそ、創価の誉れの勝利なのだ。
 「そのうえで」と、私は博士の質問に答え、創価の拡大の理由を申し上げた。
 「『徹して一人の人を大切にしてきた』からです」
 すべての勝利も栄光も「一人」から開かれる──これが、広布前進の変わらざる鉄則だ。いな、変わってはならぬ根本である。
 「一対“大勢”」ではない。どこまでも「一対一」で、納得と執念の対話に、敢然と飛び込んでいくのだ。だから強い。だから負けない。遠回りのように見えても、これこそ共感と理解を広げゆく直道であり、常勝の王道なのだ。
        ◇
 一人立て
   されば千人
     続かなむ
  仏の如くに
    菩薩の如くに

 日蓮大聖人は、「一人を手本として一切衆生平等」(御書564㌻)と仰せになられた。
 「一人」のなかに、尊極なる仏の生命を見出した。これが仏法の発見である。そこには、大宇宙を包み、人類へ広がりゆく偉大な力が秘められている。
 その力を現実に一人ひとりから呼び覚まし、糾合していくのが、日蓮仏法の「立正安国」の対話である。
 まだ交通の便も良くない時代、創立の父・牧口常三郎先生は、「一人」を励ますために、ある時は東北の福島へ、ある時は20時間、30時間もかけて、九州の福岡や鹿児島へと、勇んで足を運ばれた。70歳を超えても、なお、意気軒昂に正義を師子吼なされた。
 「折伏」「個人指導」──広宣の師・戸田城聖先生が、最も力を入れ、取り組まれたのも、膝詰めの「一対一」の対話であった。
 まず祈る。そして、人と会うことだ。声を掛けることだ。語ることだ。心を通わせることだ。
 私も、戸田先生に薫陶を受けた若き日より、今日に至るまで、内外を問わず、目の前の「一人」と誠心誠意の対話を続けている。
 「法華経を二人・三人・十人・百千万億人・唱え伝うるほどならば妙覚の須弥山ともなり 大涅槃の大海ともなるべし」(同288㌻)
 この撰時抄の仰せ通り、今、世界中に創価の平和と文化と教育のネットワークは広がっているのだ。
        ◇
 大いなる
  勝利の希望の
    喜多区かな
  今日も明日も
     強く楽しく

 それは、第3代会長に就任して3年後(昭和38年)の5月。私は、東京・北区の田端を訪れた。
 新進気鋭のリーダーとなった青年に会うため、彼の実家に伺ったのだ。
 ご両親は草創からの広布の功労者で、自宅を会場に提供してくださっていた。
 私は、心から謝意を伝えずにはいられなかった。
 「いつも本当にご苦労様です。会場提供の功徳は、あまりにも大きいのです」
 この思いは今も同じだ。私の妻の実家も、草創から蒲田支部の会場であった。妻と共に、会場を提供してくださっているご家庭に、深く深く感謝し、ご一家の幸福と繁栄を祈っている。
 私は、北区の功労の父母《ちちはは》に申し上げた。
 「いついつまでも、長生きでいてください!」
 人生も、戦いも、総仕上げが勝負だ。一番大切なのは、最後である。
 御聖訓にも、「法華経の信心を貫き通していきなさい。火をおこすのに、途中でやめてしまえば、火は得られない」(通解、同1117㌻)と仰せである。
 最後に勝ち誇って、勝利の松明を掲げゆくのが、仏法の真の道である。
 北区の家庭訪問から30年目、私は、そのお宅からほど近い場所にそびえ立つ北文化会館を初訪問した。高台にある“北の砦”の会館からは、大東京を見渡すような感慨を覚えた。
 まさしく、北区の前進が全東京の勝利だ。“喜多”は、隣接する足立、荒川、板橋、豊島、文京、そして川口、戸田、鳩ケ谷、蕨、草加、越谷、三郷、八潮など埼玉県の同志たちとも一体である。
 この天地には、異体同心の勝利の実証によって、“多くの喜び”を、世界の友に贈りゆく、不思議なる使命があるのだ。
 御書に「随喜する声を聞いて随喜し」(御書1199㌻)と記される通りである。
        ◇
 厳然と
  わが大本陣を
     守り勝て
  祈り祈りて
     走り走りて

 昭和54年の4月──私は、神奈川の横浜・旭区にいた。会長辞任を発表する4日前のことである。
 文京支部の時代から、苦楽を共にしてくれた縁深い同志のお宅に伺ったのだ。
 草創の保土ケ谷地区で活躍した、健気な旭の同志を前に、私は叫びたい気持ちでいっぱいだった。
 旭、保土ケ谷、さらには全横浜、全神奈川の友に、栄光あれ! 幸福あれ! 大勝利あれ!──と。
 創立80周年へ保土ケ谷の文化会館建設の朗報も、本当におめでとう! 横浜旭文化会館も、明年2月には、開館15周年の佳節を刻む。法友である皆様方の闘志に満ちあふれた笑顔が、目に浮かんでくる。
 私の妻もまた、私の心を携えて、時間を見つけては対話に歩いてきた。
 この昭和54年7月、私の名代として第1回関西記念合唱祭に出席した翌々日にも、妻は草創の同志のもとへ向かった。大阪・淀川区のお宅である。
 集った婦人部の友と、懇談に花が咲いたようである。何があろうが、わが大関西の婦人部は太陽のように明るい。朗らかだ。
 『母』『大地』などの名作で知られる、アメリカの作家パール・バックも、関西に思い出深い足跡を残した一人だ。彼女は、自らの母を感謝を込めて讃えた。
 「母はどんな場合にも恐れたことがない」
 「母の脈管に流れる開拓者の血の力は、彼女を落ち着かせ、強くし、恐怖を知らぬ者とする」
 私と妻には、まさに、愛する関西の母たちの「負けたらあかん」との叫びと、重なって響いてくる。
 大阪支部の初代の婦人部長・白木文《ふみ》さんも、微笑みながら語っていた。
 「私たち関西の婦人部は、どんな時でも、喜んで挑戦し、困難にあえばあうほど、勇気百倍しました。それを誇りに戦ってきたのです。
 『月月・日日につより給へ』(御書1190㌻)の御聖訓のまま、『いざや前進 恐れなく』と進んできたのです」
 この常勝の母の心は、今、錦宝会(多宝会)はもちろんヤング・ミセスにも、池田華陽会の乙女にも、生き生きと脈打っているのだ。
        ◇
 名誉会長になった私が、本格的に訪問対話を開始したのは、30年前(昭和54年)の8月下旬である。
 草創からの広布功労者や同志たちが、忘恩堕落の坊主に苛められる地域もあった。断じて許せなかった。
 正義は、第一線の会員の中にこそある!
 第一号の訪問対話となったのは、長野・佐久の功労者であった。先日も、ご家族の勝ち栄えゆく嬉しい近況を伝えてくださった。
 山梨、東京、神奈川、長崎、岐阜、奈良、滋賀、愛知……私は全国を巡った。
 いずこの地にあっても、わが創価家族は、この世で果たしゆく使命と栄光の劇を堂々と飾っておられる。

 恐れるな
  また歓喜せむ
   この人生
  無量の諸天が
    われらを守らん

 バックは『ノーベル賞文学全集7』所収「母の肖像」村岡花子訳(主婦の友社)

人間の中へ 民衆と共に

堂々と 青春勝利の旗高く!
戦い切った栄冠は わが生命に燦たり


 堂々と
  民衆の旗
   高らかに
  先頭 立ちゆく
     偉大な人たれ

 わが創価の妙音菩薩たる芸術部の友は、常に広布の前進の曲を奏でてくれる。なんと力強い響きか!
 芸術の闘士ビクトル・ユゴーは、昂然と綴った。
 「最上の手段は最後の決心から生まれてくる」
 その通りだ。「断じて負けない」と決めた一念ほど、深く強いものはない。
 往年の大横綱の納谷幸喜さん(元・大鵬親方)も、聖教新聞の紙上で、青年に語りかけてくださった。
 「『もうだめだ』と思った次の瞬間に『もう一歩!』と踏ん張る“耐える精神力”が大切だよ」と。
 反撃の執念こそが、わが生命を、金剛の力士の如く鍛え上げるのだ。
        ◇
 忘れもせぬ昭和56年の師走──大九州の大分に飛んだ私は、空港から、国東半島の付け根にある日出町《ひじまち》の功労者宅へと走った。
 第一次宗門事件の暴風が吹き荒れた大分で、理不尽な誹謗・中傷に耐え、戦い抜いた方々である。
 この勇者を讃えずして、誰を讃えるのか。この一人を励まさずして、誰を励ますのか。その一人は、必ず地域へ、未来へ波動する。
 福岡でも秋田でも、三重でも千葉でも、さらに群馬、宮城、また、石川、富山でも……いずこでも、私の足は立ち止まらなかった。
 法華経の行者の行住坐臥には、無駄な時間はない。瞬時の出会いでも、一本の電話でも、仏縁を結べる。
 それが、友の幸福を願い、正義を広げゆく地涌の菩薩の実践行動である。
 昭和58年3月、大阪・枚方市の関西創価小学校で“宝の王子・王女”を励ました後には、門真市に入り、大阪市鶴見区の友が営む店に立ち寄った。隣接の旭区にも店を構えておられた。勝利の人生を祈った。
 さらに一路、守口門真文化会館(当時)に向かい、和歌を贈った。

 守口と
  ともに門真の
   広宣に
  つくし果せし
    君に幸あれ
        ◇
 続く3月15日には、兵庫・西宮市の功労者宅に伺った。戸田先生が好まれた“大楠公”の歌の舞台でもある兵庫の弟子は、必ず“師弟”で立ってくれる。
 そう信じ、私は「3・16」のエピソードを通し、戸田先生との厳粛なる「師弟の劇」を語ったのだ。
 そして、私は宣言した。
 「私たちは、絶対に負けなかった。私たちは完全に勝った」
 あれから26星霜──誉れの兵庫の友は、大震災をはじめ幾多の苦難を勝ち越え、常勝不敗のスクラムを築き上げてくれている。
 「人間もほんとに信じあって一つにかたまると、こうも強く美しくなるもんか」──文豪の吉川英治氏が、楠木正成を中心とする団結を讃えた一節である。それにも勝る至高の結合こそ、我らの大関西なのだ。
 その後も、中国方面の島根や山口などで出会いを重ね、500軒目の功労者訪問は、愛する四国であった。愛媛・大洲のお宅である。昭和60年2月のことだ。
 さらに、対話の花園は、北海道にも、静岡にも、沖縄にも広がり、いつしか日本全国、600軒を超えて、語らいの花また花を咲かせていった。
 一人ひとりと結んだ“師弟の絆”は三世永遠である。
        ◇
 なんのため
  生き抜く我は
    成し遂げむ
   社会と世界に
     平和を築くと

 人類の議会たる国連のチョウドリ前事務次長は、私との対談で語られていた。
 「理解の輪を広げるには、まず、自分で自分をエンパワー(啓発)することが大切です」と。
 わが魂に力が漲っているか、情熱が燃えているか。ここが急所である。
 だからこそ、共に励まし合いながら、強盛なる祈りを根本に、自分で自分を勇気づけていくのだ。
 そしてトルストイが結論した如く「勝つと決めた人間が必ず勝つ」と大確信をもって、持てる力を出し切っていけばよいのである。
 チョウドリ博士は、さらに言われた。
 「自分自身から他の何人かの関心を呼び起こすことができる。そして今度は、その数人が、エンパワーメント(能力開花)の輪を広げていくのです」
 「やがて、二人、三人、四人と、『平和の文化』に取り組む人の輪が広がっていきます。これは実に魅力的で、大いなる変革です」
 自身の決定した一念が、目の前の一人の納得を呼び覚ます。そして、共感の波は一波、万波と広がっていくというのである。これは、私の長年の経験からも疑いのない方程式だ。
 蓮祖は、使命の戦いに臨む門下に仰せになられた。
 「釈迦・多宝・十方の仏・来集して我が身に入りかはり我を助け給へと観念せさせ給うべし」(御書1451㌻)
 すなわち全宇宙の仏天を、わが生命に「入其身《にゅうごしん》」させゆく祈りを教えてくださっている。広宣流布のため、苦難に挑むなかでこそ、汝自身の胸奥から、仏の真髄の大生命を発揮していくことができるのだ。
 これこそ、究極の「エンパワーメント(能力開花)」に通ずるといってよい。
 さらにチョウドリ博士は結論された。「すべての人びとを結ぶ『平和の文化』の壮大な連帯を築く“主役”は、青年です」と。
 私が出会いを重ねた祖父母や父母たちの信心を受け継ぎ、立派に成長する男子・女子・学生部の人材群が、今、世紀の大舞台に躍り出る時代となった!
 誠に頼もしい限りだ。
        ◇
 若き君
  立ちて走りて
      常勝譜

 今、青葉を広げる青年桜の側には、かつて「創価青年会館」があった。
 私の提案で建設された、初の本格的な“青年の牙城”であり、現在の世界青年会館の先駆の砦であった。
 その誕生は、40年前の8月30日であった。
 落成の前日、私は同会館を訪れ、若き後継の師子たちの大いなる成長と飛翔、そして大勝利を念じた。
 青年よ、戦うのだ!
 青年よ、走るのだ!
 青年よ、勝つのだ!
 嬉しいことに、今、新たに「常勝関西青年会館」の建設も進捗している。
 さらに、来る9月1日は、私か心から信頼する牙城会の記念日である。全国の宝城を、私と同じ心で厳護してくれている。
 広布の勇将・創価班の諸君とともに、わが直系中の直系の勝利の英雄である。

 青春の
  炎と炎が
    舞いあがり
  広宣流布と
   世界をつつまむ

 15年前、世界青年会館の誕生に贈った一首だ。
 「創価学会は、人材の城を築け!」──戸田先生は東北の天地で叫ばれた。
 一番大切なのは、不屈の“人材の城”である。創価の青年の一人ひとりだ。
 雄々しく戦い抜く、わが池田門下の男子部!
 麗しく対話の華を広げるわが池田華陽会の女子部!
 鋭き英知の言論を放つ、わが本門の学生部!
 清流の如く前進する青春の王女・女子学生部!
 広布第2幕の機は熟した。頭《こうべ》を上げて胸を張れ!
 今こそ、わが青春の生命をば、揺るぎない大城の如く、そびえ立たせるのだ。
        ◇
 かの英国の信念の指導者チャーチルは叫んだ。
 「最後まで戦うならば、栄冠以外のものはありえない」「何が起ころうとも、われわれはみんな最後まで戦ったと(後世)記録されるだろう」
 悔いなく戦い切った時、考えてもみなかった人間革命のドラマが待っている。わが地域に、功徳の華花《はなばな》が咲き薫ることだろう!
 創価の同志よ、誇り高く前進しよう! 目の前の一人から、朗らかに永遠の勝利の道を開きゆくのだ。
 日蓮大聖人は、愛弟子の太田左衛門尉に言われた。
 「法華経の持者は 教主釈尊の御子《みこ》なれば争《いかで》か梵天・帝釈・日月・衆星も昼夜・朝暮に守らせ給はざるべきや」(御書1017㌻)
 生命の位において「第一の人」であられる皆様方を、無数の諸天善神よ、守りに護り給えと、私も妻も、祈り抜いている。

 我らには
  内なる栄光
   満々と
  富にも勝る
    最後の勝利が

 ユゴーは『レ・ミゼラブル』豊島与志雄訳(岩波書店)。吉川英治は『私本太平記』(講談社)。チャーチルは『チャーチル名演説集』チャーチル研究会訳(原書房)、クート編『チャーチル名言集』天野亮一訳(同)。
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2009-08-30 : 随筆 人間世紀の光 :
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御書と師弟 普賢の英知

池田名誉会長講義 御書と師弟 
              (2009.8.30付 聖教新聞)

第25回 普賢の英知

新世代の智慧で勝て!
君よ仏法勝負の勇舞を
尊き創価の父母に最敬礼


御聖訓
 「此の経の広宣流布することは
 普賢菩薩の守護なるべきなり」
              (御義口伝、御書780㌻)

 「一日の命は三千界の財にもすぎて候なり」(御書986㌻)
 大宇宙の全財宝よりも尊い、この一日の命を、広宣流布のために捧げて戦い切る。これほど崇高な生命の道はない。その功徳は、無量にして永遠です。
 仏にも等しい、全国の同志の皆様方の尊き奮闘に、私は妻と共に最敬礼して、強く深く題目を送っております。
 絶対に幸福になる仏法です。全同志が一人ももれなく、健康で無事故で、堂々たる人生の大勝利者になっていただきたい。これが、私と妻の祈りです。
 男子青年部の勇敢なる拡大も、頼もしい限りだ。
 女子青年部の朗らかな前進も、本当に美事です。
 広布の実戦の中で、英知と信念の人材が澎湃と伸びている。

8・31「学生部の日」
 あす31日は「学生部の日」です。さらに9月9日は「女子学生部の日」です。
 昭和37年(1962年)の8月31日、私は学生部の代表に「御義口伝」の講義を開始しました。
 万人の幸福と、平和の大建設のための生命の極理を、若き門下が心肝に染めてもらいたい。その願いを込めて、毎月1回、約5年間、私は全魂の講義を続けました。その間、関西では「百六箇抄」、中部では「諸法実相抄」の講義も行いました。
 今回は、この「御義口伝」の御金言を拝したい。
 「此の法華経を閻浮提に行ずることは普賢菩薩の威神《いじん》の力に依るなり、此の経の広宣流布することは普賢菩薩の守護なるべきなり」(御書780㌻)
 甚深なる御聖訓です。妙法を閻浮提(全世界)に行じゆくことは、普賢菩薩の守護によって成し遂げられるのだ、との御予言であります。
 法華経28品の最終章(普賢品)には、この普賢菩薩が妙なる音楽を奏でて、大衆と共に明るく賑やかに登場します。
 「普賢」つまり「普く賢い」という名前の如く、宇宙をも包みゆく智慧をもって、一閻浮提への妙法流布を助ける。そして民衆を幸福にしゆく知性の指導者が、この普賢菩薩なのです。
 わが学生部には、この「普賢の英知」の力で、広宣流布の和合を厳護し、民衆勝利の時代を開きゆく重大な使命がある。
 学生部の結成に際して、師であられる戸田城聖先生が、「嬉しいね。私がどうしても創りたかった組織だよ」と喜ばれていたお姿が、私の命から離れません。恩師の心を心として、私は、学生部よ、青年部よ、創価の普賢菩薩たれ! と祈り、念じ、薫陶してきました。
 ここで、普賢菩薩の特質を3点にわたって述べておきたい。
 第1に、普賢とは、行動する「誓願の知性」である。
 普賢菩薩自ら、「普賢の威神の力」をもって、滅後に法華経を受持した者を徹して守り抜くことを誓っています。
 すなわち、いかなる魔性も打ち破って、法華経の行者を厳然と守護すること、そして一閻浮提の広宣流布を絶対に断絶させないことを、師に約束します。
 どんなに優秀であっても、自分の名聞名利だけを追い求める人生では浅ましい。まして恩を踏みにじるようでは「才能ある畜生」と成り下がってしまう。
 学とは、人格の勝利であり、人々を幸福にするためにある。
 師匠を持ち、哲学を持ち、学び鍛え、人々のため、社会のために行動し抜いていく。何と意義ある創価の青春でしょうか。
 第2に、普賢とは、勇敢なる「正義の知性」である。
 師・釈尊は、法華経を持つ者を誹謗する罪報を鋭く挙げられた。仏子を悩ませる悪と戦い、不退転の決意で前進する正義の陣列に連なれ! という教えです。まさに創価学会です。
 正義の和合を断じて護り抜く──その絶対の責任感と勇猛なる力を具えた生命が、普賢なのです。
 第3に、普賢とは、誠実なる「人間尊敬の知性」である。
 「当起遠迎《とうきおんごう》、当如敬仏《とうにょきょうぶつ》」(当に起って遠く迎うべきこと、当に仏を敬うが如くすべし)
 この奥義を、師・釈尊から譲り託されたのが普賢菩薩です。日蓮大聖人は、この八文字を「最上第一の相伝」と意義づけられました。広布のために戦う人を仏の如く尊敬し、大切にし、尽くし抜くことです。
 自らの才覚や地位に傲り高ぶって、庶民を見下す増上慢とは対極にある生き方です。

真の「知性」とは
 真の「知性」とは、単なる知識ではない。「誓願の行動」「正義の連帯」「誠実の振る舞い」──こうした「普賢の生命」を脈動させた、人間としての総合力なのであります。
 わが学生部も、わが青年部も、断じて、普遍の知性光るリーダーに育っていただきたい。
 それは、学歴などにとらわれない真正の実力であります。
 私は19歳で恩師と出会い、20代を恩師に仕え抜いた。私の98㌫は恩師から教わったものです。20代に受けた訓練が今の私を形作っています。
 戸田先生は私に個人教授をしてくださり、法律や経済・歴史・哲学・科学・天文学など万般の学問を授けてくださった。
 「一切の法は皆是れ仏法なり」(御書564㌻)です。
 仏法は、あらゆる学識や技術を人間の幸福のために活かし、大いなる価値を創造しゆく究極の智慧であります。だからこそ、学んだ分だけ、努力した分だけ、活用していける。
 この「戸田大学」の講義は、火花の散るような魂の触発の連続であった。25歳の時、私は日記に綴っています。
 「毎朝、冴えた頭で聴講できる自己を築かねばならぬ。負けじ魂。根性。意地」「十年後を、勝負と決めて、戦おう。十年後をみよと、勉強し、頑張ることだ」と。
 先生は常々、言われていた。
 「大作、勉強、勉強だよ。それは、仏法のことだけではない。社会全般のことはもちろん、全世界の運命のなかに自分というものを置いて、一切の発想をしていくことだよ」

民衆大学の誉れを
 私が世界の大学・学術機関から拝受した250を超す名誉学術称号も、「戸田大学」の卒業生としての報恩の栄誉です。
 それ自体、法華経に則った平和・文化・教育の運動への共鳴であり、普賢菩薩の守護の証左であると確信しております。
 青春の力は無限です。10代、20代、30代の青年が本気で立ち上がれば、時代は変わる。
 これが、古今東西の歴史の大鉄則だ。
 広宣流布は、永遠に智慧の戦です。使命の青春を生きゆく諸君は、労多きことを誉れとし、広布と社会の指導者としての真価を、深く強固に磨き上げてほしいのです。
 それが、苦労に苦労を重ねて戦い続けてくれている、皆さん方の偉大な父母の願いである。
 私は、昭和43年(1968年)の9月8日、第11回学生部総会で「日中国交正常化提言」を行った際にも、この「御義口伝」の一節を拝して俊英たちへの期待を語りました。
 今、真摯に生命尊厳の大仏法を学び、同志と共に実践する青年こそ、創価の民衆大学の誉れの学徒であると自負していただきたい。後継の君たちこそ、21世紀の普賢菩薩です。普賢菩薩の「威神の力」とは、「信心の力」にほかなりません。
 戸田先生は「最も偉大な人とは、結論するに、青年時代の信念と情熱を、生涯、失わない人だ」と明言されました。
 それぞれの分野で培った経験や見識も、妙法を根本にすることで生きてくる。そのすべてが、普賢菩薩の智慧の輝きを放ってくるのです。
 法華経の壮大な絵巻の最後に登場するのが、我らの普賢菩薩です。御書には、普賢菩薩が遅れてきたことを恐縮しながら、その分、張り切って、真剣に広宣流布に戦う様子が、ほほ笑ましく記されております。
 最後に勇んで躍り出る若き人材群が、広宣流布の勝利の決定打を放つのです。
 普賢品の正式な題名は「普賢菩薩勧発品第28」。「勧発」とは「勧め発《おこ》させる」。つまり「励まし」という意義に通じます。大事なのは「励まし」です。
 疲れた先輩方を労《ねぎら》い、皆を勇気づけ、勝利へ勝利へ前進する。普賢菩薩とは、溌剌たる「励ましの知性」なのです。
 男女学生部、ヤング男子部、池田華陽会の健闘にも一致する力用です。
 宇宙には、刻々と新しい星が誕生している。世界的天文学者のモウラン博士は言われた。
 「自分の一番輝く時を待って、その出番の時にしっかりと輝く。そして、後輩たちが来たら、しっかりと輝かせていく。これが宇宙の方程式です」
 さあ、仏法勝負を決しゆく、不思議なる使命を帯びた若き「普賢の金星」たちよ!
 勇気と英知の生命を輝かせ、創価の永遠なる常勝の軌道を、賢く朗らかに勝ち進もう!
2009-08-30 : 御書と師弟 :
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新 あの日あの時 12

新 あの日あの時 12     (2009.8.21付 聖教新聞)

池田先生と神戸市

「最後まで走り抜いた者が」勝つ

神戸を初訪問
 海岸線と平行して、屏風のように連なる六甲山系。
 青年部の池田大作室長が、その頂上近くから、じっと眼下を見つめていたのは、1957年(昭和32年)の3月16日だった。
 海と山の間に、帯のような市街地が伸びていた。阪急、国鉄(現JR)、阪神の鉄路が動脈のように具合、港に船影が動いている。
 三宮を中心に、建物が密集しはじめていた。
 東には、尼崎の工業地帯もあれば、西宮や芦屋の住宅地もある。
 西に目を転じれば、長田《ながた》区のような下町があり、海寄りから六甲の北にまで広がる兵庫区(その北部は現在の北区)のように、豊かな未来性を感じさせる土地がある。
 「うん、いいところだ」
 海あり、山あり、街あり。ここに暮らす人が団結すれは、限りない力が出る。
 必ず伸びていく。初めて訪れた神戸で確信した。
        ◇
 ──つい先日も名誉会長は語っている。
 「兵庫は『兵の庫』と書くのだから、すごいところだ」
 7世紀、大輪田泊《おおわだのとまり》(現在の神戸港の一部)に置かれた「兵器庫《へいきぐら》」が県名の由来といわれる。
 ここには「精兵」が打ち集っている。戦いが伯仲すればするほど闘志が燃える! 力が湧く!

湊川の決戦や!
 62年(昭和37年)9月、灘区の神戸会館。
 湊川支部(当時)の浦嶋秀雄が、池田会長の前で居すまいを正した。
 「この生命の燃え尽きるまで、広布の旗を離しません!」
 会長が深くうなずいた。
 前月、神戸支部から分割して誕生した湊川支部。浦嶋は初代の支部長に任命された。
 かつて浦嶋は大手商社の海外駐在員だった。戦後、財閥解体の憂き目にあう。人生を模索する中で仏法を知った。
 すでに62歳。だが「実際の年齢から30歳を差し引いて」戦うと決めれば、たちまち32歳の青年である。勇んで前線に躍り出た。
 「ここ一番の戦いや! 全国一になって、日本中をアッと言わせるんや!」
 「湊川の決戦」が火ぶたを切った。
        ◇
 60年代、新開地は、映画館や演芸場が軒を連ねる大繁華街だった。
 湊川支部も、芝居小屋を借り切って結成式を開いた。庶民による、痛快な活劇の幕が切って落とされたのである。
 兵庫区の古沢昭一は男子部の中心者。父親の借金を背負い、高麗人参や製菓原料などを卸す問屋に勤めていた。自身と一家の宿命転換をかけて奔走した。
 湊川の流れは、北区に源流がある。兵庫区の洗心橋付近で西に流れを変え、長田区を抜けて大阪湾に注ぎ出る。
 小さな工場や商店が多い長田区。
 六つの鉄道が乗り入れる兵庫区。
 緑豊かな北六甲にある住宅街の北区。
 3区の頭文字を取ってNHK──日本社会の縮図のような地域である。
 折伏戦の合間に湊川公園の銅像を見あげると、甲冑をまとった騎馬の楠木正成が虚空をにらんでいる。
 息子の正行を残し、わずか700騎で足利尊氏方の敵陣に切り込んだ武将である。
 正成は敗れたが、俺たちは違う。
 勝つ。必ず勝つ。勝って先生のもとに集うんや!

連合艦隊、団結せり
 北区の高橋敏子は、湊川支部の地区担当員(当時)だった。強烈な原点がある。
 56年(昭和31年)の「大阪の戦い」の時、結核の身をおして関西本部に通い、スケジュール作成など、書記係で動き回った。
 時折、胸をえぐるような咳に襲われる。池田室長の御書講義が救いだった。「如説修行抄」「当体義抄」「撰時抄」。病んだ胸の実にビシビシと響いた。
 57年7月、関西本部で行われた教学試験の口頭試問。面接官は室長だった。範囲は「撰時抄」である。
 意外な質問が飛んできた。
 「仕事をしているの?」
 「結核で働けなくて……」
 まじまじと顔を見つめた。
 「いや、あなたの病気は治っているよ。仕事を探しなさい」
 病気を理由に、内へ内へとこもる弱気な心を打ち破ってくれた。
 仏法は「時」である。環境が厳しい時こそ、勇んで打って出よ!。
        ◇
 長田区の遠藤保夫。神戸の製鋼会社で高炉建設に携わっていた。
 共産党の活動に励んだが、カンパの金で呑んだくれる幹部に幻滅。「何か平等や!」。62年1月、入会した。
 その直後に参加した尼崎の関西男子部幹部会。熱気の向こうに池田会長がいた。
 「人のために戦う者を苦しめる。そんな権力とは、断固として戦う!」
 「大阪事件」の判決前夜だった。遠藤は身ぶるいした。
 これこそ、ほんまの革命家や!
 複数のタテ線組織で構成された湊川支部は、一枚岩になれない皮肉を込めて「連合艦隊」と揶揄された。
 一人一人の力量は折紙つきである。あとは一糸乱れぬ「団結」である。池田会長が、神戸に幾度も打ち込んだ一点だった。
 戦いが行き詰まると、皆で口癖のように励まし合った。
 「戦いなんや。途中で弱音を吐いたらアカン。最後まで走り抜く。それが戦いや!」
 「兵庫創価学会の興廃は、この一戦にあり」──ついに63年(昭和38年)10月、湊川支部は念願の全国第1位に輝いた。

神戸が見た名誉会長
 諏訪山の麓に立つ「神戸中華同文学校」。
 名誉会長と縁《えにし》の深い黄世明《こうせいめい》(中日友好協会元副会長)や、林麗韞《りんれいうん》(周恩来総理の通訳)など逸材を輩出してきた華僑学校である。
 校長の愛新翼《あいしんよく》は、いまも忘れられない。
 創立100周年の99年(平成11年)、学会から1000冊の図書を寄贈された。震災のため神戸の教育機関が本に困っていないだろうか。名誉会長の配慮で実現した事業だった。神戸中華同文学校の蔵書も多くが傷んでいた。
 誠意に打たれた。
 「わが校から創価学園に進学した卒業生は、中日友好に尽力する名誉会長の役に立ちたいと言っていました。
 わが校の建学の理念を見事に体現してくれています」
        ◇
 2000年(平成12年)にオープンした関西国際文化センター。「大三国志展」 「第九の怒濤展」など展示会やフォーラムに200万人を超える人が訪れた。
 何かイベントがあるたびに、最寄りの三宮の駅の利用者が増える。周辺の百貨店やショッピングモールも一段と賑わう。
 関西の財界人も脱帽する。
 「学会の国際文化センターが、神戸の経済を大きく底上げしてきた。学会が発展すれば、神戸も関西も発展する」
 神戸、関西の経済界で活躍する慶応義塾大学の出身者は多い。
 その一人、「ウエシマコーヒーフーズ」の会長の上島康男も、同センターで名誉会長の写真展を鑑賞した。
 一度きりのシャッターチャンスで、ここまで事象の本質を凝縮できるものなのか!
 写真が各国で絶讃されている事実も知る。長年、彼は珈琲貿易で海外と渡りあってきた。世界で認められてこそ本物という自負がある。
 「大震災で傷ついた神戸が、どれだけ文化の力で元気をもらったか、計り知れません」
 誰よりも神戸を愛する男の実感だった。
 「いま、大勢の人々が、あの震災を乗り越えた偉大な神戸の歴史を讃嘆している。『こうべ』(頭)を垂れている。不思議な国土世間だ」(池田名誉会長)

勝利の方程式
 あの「大阪の戦い」で、戸田会長は候補の白木義一郎に厳命した。
 「まず白木一家が真剣に祈り、支持者に礼を踏んで、真剣に戦うんだぞ。でなければ、みなが、かわいそうだ」
 白木は深く頭を垂れた。
 「何でもいたします!」
 公示日の朝。池田室長は、白木の家族全員を関西本部に呼び、ともに出発の勤行を行った。
 「いよいよ今日は公示です。ご主人だけの出陣と思ってはいけません。
 あなたがた一家の本当の出陣となるのです」
 一家の表情が引き締まる。
 「今日の出陣は、今後の白木一家の、すべてを決定する出陣である。忘れないでください」
 この日のことを、娘の山下以知子(関西婦人部長)は深く心に刻む。
 「まだ幼かったのですが、両親が幾度も幾度も語っていました。
 戸田先生、池田先生の指導通り、父も母も真剣になって戦いました。その姿を見て、皆さんも喜んでくださった。やりがいをもって支援してくださったのです」
 最後の正念場で白木家は立ち上がった。大阪中を猛然と走り、叫びぬいた。彼らの死にものぐるいの姿に、支持者も打たれた。爆発的な支援の渦が巻き起こったのである。
 「まさかが実現」も「最後の詰め」で決まった。この勝利の方程式を誰よりも知るのが、全関西を阿修羅のごとく支えてきた大兵庫である。
        ◇
 「過去を振り返れば、みな勝ち戦。未来を見れば、無限の宝の中に入っていくような人生。これが、本当の幸福であり、成仏であり、仏の大境涯である。
 兵庫よ、立て!
 神戸よ、勝て!」
 本年7月17日の出獄記念日。名誉会長が神戸の友に贈った言葉である。
2009-08-23 : 新 あの日あの時 :
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随筆 人間世紀の光 No.200/201

随筆 人間世紀の光 No.200/201 (2009.8.22/23付 聖教新聞)

広宣流布の言論戦㊤㊦

断固勝て 人間革命 光あり
声は勢い! 正義の魂の師子吼を


 師弟して
  この大道を
      勇敢に!

 来る日も来る朝も、無冠の友の皆様の足音から、我らの勝利の行進は始まる。
 先日の早朝、静岡の地震の折にも、真っ先に地域の方々の安否を確認しつつ、聖教新聞を配達してくださる仏使の英姿があった。
 来る8月24日は、「聖教新聞 創刊原点の日」でもある。
 昭和25年のこの日、戸田城聖先生と私は、迫り来る烈風のなかで、広布の機関紙の発刊を構想した。師弟の夢が結実したのは翌年の4月20日。聖教新聞の創刊号には「聖火 鶴見に炎上」の見出しが躍った。これもまた、神奈川の友との誇り高き共戦の歴史だ。
 わずか2ページであった。しかし、この生まれたばかりの創刊号を、わが尊き同志たちは、喜び勇んで配達してくださったのだ。
 足立支部・王子地区で戦う北区在住の広布の母も、その一人であった。恩師が綴られた『人間革命』が載る聖教新聞を、ご夫妻で懸命に配達されたのである。
 そして、豊島橋・江北橋を往来しながら、支部長宅のある荒川対岸の足立区の同志と一致団結して、正義の言論戦に打って出た。
 思えば、私か蒲田支部で月201世帯の弘教を達成し、大きく壁を破った「二月闘争」に奔走した時、負けじと奮闘して続いてくれたのは、足立支部であった。
 聖教とともに歩み続ける共戦の足跡は、神奈川、千葉、埼玉にも、また群馬にも着実に広がった。母たちの勇気は、やがて山梨にも、茨城、栃木にも波動していったのである。
 聖教が、皆の正義の声であった。皆の希望と勝利の旗印であった。
 御金言に仰せである。
 「此の妙法蓮華経を信仰し奉る一行《いちぎょう》に功徳として来らざる事なく善根として動かざる事なし」(御書500㌻)
 我らの信心の一つの行、一つの実践にも、功徳・善根と現れぬものはない。
 広宣流布の拡大のために歩んだ一歩一歩が、すべて大福運となって、汝自身の生命に積まれていくのだ。
 ともあれ、人間の真価は、行動によって決まる。
 チェコの作家チャペックは、鋭く提唱していた。
 「もし人物によって決定しようとするのだったら、単に言葉によってではなく、誰が何をしたかによってもその人物を考えてもらいたい」と。
 これが賢者の眼である。
        ◇
 断固 勝て
   人間革命
      光あり

 この「随筆 人間世紀の光」も、2004年の新春のスタート以来、今回で連載200回となった。
 小説『新・人間革命』の方も、長野で執筆を開始してより、去る8月6日で16周年を迎えた。
 その前の『人間革命』を、沖縄の地で書き起こしてから数えると、45年になろうとしている。二作を合わせれば、新聞連載は通算5730回を超えた。
 わが同志の皆様、読者の皆様の熱きご支援のおかげと、感謝に堪えない。
 一切の中傷を払いのけ、わが師・戸田城聖先生の真実を、そして師弟の大道を、未来永遠に輝き残すために、筆を執ってきた。
 新聞の連載は、過酷だ。ひとたび始まれば、多忙だろうが、体調が悪かろうが、締め切りは容赦ない。
 かつて原稿を書く手に力が入らず、ペンを握ることさえ辛い時もあった。
 火の国・大九州を訪れた折には、地方指導の寸暇に、口述の原稿をテープに収めて、東京へ送ったことも、となっては懐かしい。
 さらに、第1次の訪中(昭和49年)から帰国した直後のことであった。二十日近く日本を留守にしていたため、全国の同志を励ませればと、連載再開に踏み切った。3代の師弟の天地・北海道を舞台に、小樽問答の「発端」を綴った第9巻の第1章である。
 だが、想像以上に疲労は深く、やむなく、数回分は口述となってしまった。
 担当者に渡す原稿の欄外に、「少々身体が疲れているので女房に口述筆記をしてもらいました」と書いた。
 一日の行事や執務が終わって、夜半に帰宅してからの執筆となることも少なくない。その人知れぬ戦いを、陰の陰で支え抜いてくれた妻であった。
 文豪の吉川英治氏の信念は、「大衆即大知識」であった。ゆえに、その大衆に語りかける執筆は、「厳粛にならざるを得ない」「自分の身を削らずにいられない」と言われたのである。
 万般において、この民衆への畏敬を失えば、かりに人気を得たとしても、本質は大衆利用だ。それは、民衆蔑視の慢心にすぎない。やがて、賢明な民衆に見抜かれ、厳しい審判を下されることは、歴史の必然だ。
 吉川氏の心情は、私にも痛いほど、よくわかる。
 民衆を思い、同志を思い、大切な学会を思えば、どうして、全精魂を注がずにいられようか!
        ◇
 はつらつと
  今日も旭日《あさひ》を
     浴びながら
  偉大な人生
     偉大な歴史を

 大天文学者のガリレオが初めて望遠鏡で天体観測を行って、今年で400年になる。
 先月には、奄美大島等で皆既日食が、また日本列島の各地で部分日食が観測された。
 3年後の5月には、「金環日食」が、やはり列島の各地で見られるようだ。
 東京、横浜、名古屋、大阪、神戸なども、日食帯のなかに入っているという。
 ともあれ、天空にはロマンがあり、未来がある。
 昼も夜も決して沈むことのない不動の「北極星」は、北に輝く勝利の星だ。
 その常勝の光が、私には、東京、堺、神戸等の天地に煌めき続ける「北区」の同志と重なって見える。
 さらに、赫々と昇りゆく「旭日」を見れば、横浜や大阪の「旭区」の友らの勢いに心を躍らせ、北海道の「旭川市」、千葉の「旭市」、愛知の「尾張旭市」をはじめ、“旭”や“朝日”を冠した全国の街々を思う。
 御聖訓には、「ひとたび妙法蓮華経と唱えれば、太陽や月や星々の仏性も、一切衆生の心の中の仏性も、呼びあらわしていくことができる。その功徳は無量無辺である」(趣意、御書557㌻)と説かれる。
 妙法を唱え、行じゆく我らの境涯が、どれほど壮大であるか。この大確信で、勇敢に立ち上がるのだ。
 人生は、萎縮したら負けである。妙法を朗々と唱え抜きながら、大宇宙をも友にしゆく心で、明るく味方を広げていくことだ。
        ◇
 ところで、ガリレオが最も熱心に望遠鏡を向けたのが「木星」であった。
 木星は巨大である。地球に比べて318倍もの質量があり、地球の外側の軌道を悠然と回転している。
 ある研究によると、地球に生命が誕生し、存続・成長していくために、この木星が重要な役割を果たしているという。
 すなわち宇宙空間には、彗星や小惑星が無数にある。だが、木星のように大きな重力をもった惑星が控えて、それを引き寄せてくれている。そのおかげで、地球にぶつからない。
 つまり、木星は「地球の大きな保護者」であり、生命が安心して成長していく地球の環境を護ってくれているというのである。
 譬喩的にいえば、誰が見ていようがいまいが、自己の責務を担って、頑張る。労苦を厭わず、皆の安心の屋根となって戦う存在だ。その生き方は、戸田先生の不二の弟子の決心である。
 そしてまた、偉大な木星の如く、創価の幸福城たる地区を厳然と護り、広布の最前線のブロックを護り抜いてくださる英雄こそ、わが盟友たる壮年部なのだ。
 アメリカの哲人エマソンは「男らしさとは、自分のなしうることに全力を傾けることである」と言った。
 ここぞという正念場で。持てる力を振り絞って勇戦してこそ、真の男だ。
 来る8月24日は、我ら「壮年部の日」である。暑いなか、各地で奮闘する太陽会、ヤング壮年部をはじめ壮年の皆様方に、「体を大切に!」「皆を護る太陽の如く!」と申し上げたい。
        ◇
 今の関西の地でも東京でも、中部、中国、九州でも、常勝不敗の歴史を残した剣豪が、宮本武蔵だ。
 その勝負哲学の重要な鍵は「声」の力であった。
 「声は勢いである」──ゆえに戦いに臨んでは、できるだけ力強く、大きな声を出した方が勝つ。これが、武威の確信であった。
 仏法では、声が「仏の仕事」を為す。勇気ある声が仏の勝利の力なのだ。

 いついつも
  修羅の如きの
    この世にて
  正義の魂
   師子と吼えゆけ

 チャペックの言葉は『カレル・チャペックの警告』田才益夫訳(青土社)。吉川英治は『吉川英治対話集』吉川文子編(講談社)。木星の話はアクセル著『地球外生命体』加藤洋子訳(原書房)。エマソンは『エマソン選集3』小泉一郎訳(日本教文社)。宮本武蔵は『五輪書』佐藤正英校注・訳(筑摩書房)=現代語訳。

広宣流布の言論戦

人間の 命ありて 常勝三世に
後継の青年よ! 勇戦の誉れの歴史を


 嵐をも
  突風までも
   猛烈な
  君の雄叫び
    轟き 勝たなむ

 広宣流布の未来を託す、わが後継の青年たちが、決然と勇戦に立ち上がった。その若き正義の声が、新時代の号砲の如く、力強く私の命に迫ってくる。
 私は嬉しい。試練に胸を張り、大金星を輝かせゆく青年が躍り出ている。創価の前途は無限に明るい。
 アメリカの鉄鋼王カーネギーが掲げた箴言がある。「議論できないものは愚者である。議論しない人は偏屈者である。議論を戦わす勇気のないものは奴隷だ」
 相手が誰であれ、闊達に勇敢に、わが信念を語り切る。これが青年の特権だ。
        ◇
 天晴れて
  若き英雄
   君たちよ
  広宣流布への
    決戦 勝ちとれ

 今、20代のヤングたちも、はち切れんばかりの勢いで、同世代の友に勇気の対話を繰り広げている。
 さらに30代のリーダーが、鮮烈な大情熱の声を放つ姿も、頼もしい限りだ。
 「三十にして立つ」──『論語』の人間学である。
 思えば、初代会長・牧口先生が、若き独創の思想を天下に問うべく、あの名著『人生地理学』を発刊された時、32歳であった。
 第2代会長・戸田先生が、牧口先生を支え抜き、師と共に創価教育学会を創立されたのも、30歳の年である。
 第3代の私が、恩師の遺命を受け継いで、世界広宣流布への指揮を執り始めたのも、32歳であった。
 30代の生命には、満々たる闘魂がある。力がある。雄々しき開拓がある。
 30代にして「立正安国論」を師子吼された蓮祖の大境涯を拝し、仏の力を出して、青年部よ、乱世に正義の言論戦を展開せよ! 自分の新しき歴史を作れ! 永遠に勝ち誇りゆく第一歩を、今、痛快に踏み出すのだ!
        ◇
 「真実はどんなに強くいってもいいすぎることはない」
 これは、英国の社会思想家ラスキンの信条である。
 その通りだ。真実は、声を大にして叫ばなければ、悪意の扇動や意図的な喧伝に掻き消されてしまう。
 だから黙ってはならぬ。
 末法は「闘諍堅固」である。嫉妬の讒言など、言論の暴力が渦巻く時代だ。ゆえに日蓮大聖人は、デマや虚言を打ち返せ、打ち破れと厳しく教えられた。
 それどころか、邪論や暴論が騒ぎ立てられる時こそ、「破邪顕正」の原理で、かえって正義と真実を宣揚するチャンスなのだ。
 大聖人は、陰謀に陥れられた四条金吾に言われた。
 「必ず大なる・さはぎが大なる幸《さいわい》となるなり」(御書1164㌻)
 そして愛弟子のため、陳状まで御執筆くださった。
 「(大聖人が代筆された)この陳状を一人一人が見るならば、謀略を企てた悪人らの恥がはっきりと表れるであろう」(通解、同㌻)と記されている。
 弟子を護り、勝たさんとする、師匠の師子吼ほど、ありがたいものはない。
 ともあれ、「法華折伏・破権門理」の大精神に立って、明確に正義を宣揚し、邪悪を白日の下に晒す──この透徹した言論こそ、聖教新聞の使命である。
 あの傑作『神曲』では、師ウェルギリウスがダンテに、こう呼びかけている。
 「さあ、気を強く、大胆に」
 戸田先生も遺言の如く、
 「人生は強気でいけ!」と教えてくださった。
 弱気になり、受け身になれば、もはや敗北だ。
 強気でいけば、必ず勝利を切り開くことができる。
 創価の師弟は、徹底して強気で戦い進むのだ。
        ◇
 断固して
  攻めゆけ 勝ちゆけ
   堂々と
  勝ちたる姿を
    諸天は待つらむ

 広宣流布は、「声」の戦いだ。精神の剣の戦いだ。
 本気で戦う決心さえあれば、たった一人でも、叫べる。いつでも、どこでも、どこからでも、勝利の戦端を開くことができる。
 私は、若き日より、常にそうしてきた。
 「今こそ!」というその時に、師子王の心で叫ぶ。
 これが恩師・戸田先生の弟子の覚悟である。
 会長辞任から一年余が過きた昭和55年夏、私はペンで戦いを起こした。
 一番大切な同志を励ますのだ! 最前線の友の心に、エールを届けるのだ!
 そのため第1に小説『人間革命』の連載を再開する。
 第2に、新連載「忘れ得ぬ同志」を立ち上げる。
 私は神奈川で、この決断を下した。神奈川は、大聖人が「立正安国」へ大言論戦を開始された「正義」の天地であるからだ。
 7月末、連載が始まった「忘れ得ぬ同志」では、広布の大功労者を讃えつつ、正義の友よ、二陣三陣と続きゆけ! と願った。
 草創の本郷支部の初代支部長・笹木さん、九州男子部の先駆者・川内さん、関西では、兵庫広布の名将・浦島さん、大阪支部の第2代支部長の大井さん……。あの地、この地の懐かしき宝友は尽きることがない。
 皆、偉大な庶民の英雄、人間の大英雄である。
 名前を挙げる方を代表として、不屈の学会精神を燃やしてくださった全同志を顕彰しゆく祈りを込めて、私は書き続けた。

勇んで決戦場へ!
 この年(昭和55年)の8月10日付からは、『人間革命』第11巻の「転機」の章の連載を開始した。歴史に輝く「山口開拓闘争」が舞台であった。
 その後、『人間革命』の連載は、第2次宗門事件の渦中、1991年(平成3年)の8月には、中之島の公会堂で行われた、あの「大阪大会」のドラマを綴る段を迎えた。
 大会には、「負けたらあかん!」と拳を振り上げ、全関西の勇者が集った。
 一旦緩急あれば、関西中から、勇んで広布の決戦場に馳せ参ずる──これが、関西魂だ。久遠の同志だ。
 私は、この大阪大会での、恩師・戸田先生の烈々たる大宣言を記した。
 「まず何があっても微動だにしない大確信、大境涯に立つことが根本です。
 そして、そのうえで破折すべきことは徹底して破折していくんです。黙っていれば、世間はそれが真実だと思い込んでしまう。
 『いかなる事ありとも・すこしもたゆ(弛)む事なかれ、いよいよ・はりあげてせむべし』(御書1090㌻)というのが、折伏の精神です」
 正義の言論による破折精神、攻撃精神が、広宣流布の勝利の決定力である。
        ◇
 今夏も全国で、尊き多宝会、宝寿会、錦宝会の方々が、仏の如く拡大の対話を進めてくださっている。
 あのゲーテも、最晩年に至るまで、若々しい声で語り、皆の心を掴んだ。その声の若さに驚嘆した音楽家は、こう書いたという。
 「ゲーテがその気になりさえすれば、この声は『一万の戦士の上に響き渡る!』こともできるだろう」
 いわんや、題目を唱え、広宣流布のため真剣に語る創価の友の声は、大宇宙に、そして三世永遠に福徳を広げゆく大音声なのだ。
        ◇
 かつて、一世を風靡した話術家の徳川夢声氏は、わが聖教の愛読者であった。
 毎日、多数の新聞に目を通すなか、聖教が「一つの強烈な主張」に貫かれていることに刮目されていた。戸田先生とも対談された。
 ある時、この徳川氏が、講演を頼まれて、杉並の公会堂へ行った。
 控室に入ると、いつもと雰囲気が違う。会場をのぞくと、元気な女性が熱烈な演説を行っている。客席の聴衆も熱心そのものだ。
 創価学会の支部の大会であった。講演の日にちを間違えられたようだ。偶然、創価の女性の声の響きを耳にした徳川氏は、大変に感嘆された。それは、いかなる苦難もものともせぬ、学会の底力を確かに感じ取られたゆえであった。
 婦人部、女子部の声こそ、希望勝利の鐘である。
        ◇
 1992年(平成4年)の8月30日。私は、北海道で『人間革命』第12巻(最終巻)の、戸田先生の霊山への旅立ちを綴った「寂光」の章を書き上げた。
 そして恩師の故郷・厚田の戸田墓園へ報告に向かった。師弟の儀式である。
 戸田先生の声が蘇った。
 「広宣流布のいかなる闘争も、一人一人の学会員の宿命転換と人間革命の戦いである。大事なことは、全同志が、それぞれの持っている力を出し切って、悔いなく戦い抜くことだ」
 わが友が、「私はやり切った。悔いがない」と清々しく、汝自身の万歳を叫んでいければ、勝利なのだ。
 これが、「人間革命」という生命の讃歌である。
 この壮大なる創価の民衆叙事詩を、世界が見つめている。人類が讃えている。
 今日も、勇気に燃えて、自他共の幸福へ、社会の繁栄へ、師弟一体で広宣流布の言論戦に邁進するのだ。

 人間の
   革命ありて
    常勝 三世に

 カーネギーは『鉄鋼王カーネギー自伝』坂西志保訳(角川書店)。ラスキンは『世界教育学選集46 芸術教育論』内藤史朗訳(明治図書出版)。ダンテは『神曲I』寿岳文章訳(集英社)。ゲーテの声の話は「ゲーテとベートーヴェン」(『ロマン・ロラン全集23』所収)片岡美智訳(みすず書房)
2009-08-23 : 随筆 人間世紀の光 :
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御書と師弟 動執生疑

池田名誉会長講義 御書と師弟 
              (2009.8.20付 聖教新聞)

第24回 動執生疑《どうしゅうしょうぎ》

“限界の壁”を痛快に破れ
師弟の勝利の舞を!

創価の大興隆に社会が驚嘆
梵天・帝釈が守りに護る


御聖訓
 「上行菩薩の
 大地よりいで給いしには
 をどり《踊》てこそ い《出》で給いしか
         (大悪大善御書、御書1300㌻)

 人間の生命には、大海原よりも深く、天空よりも広大な「仏の力」が秘められている。
 日蓮仏法は、師と共に、一人一人の弟子が偉大な仏の力を引き出していく大哲理です。
 人生や社会に対して、「仕方がない」と諦める心。「こんなものだろう」という惰性の心。その“心の壁”を破り、元初の太陽の如き仏の大生命で、躍動の人生を生き抜き、そして勝ってきたのが、わが創価の師弟であります。
 幾百千万の「人間革命」の実証に、社会も世界も驚嘆している。使命深く尊き学会員の生き方が人々の心を動かし、確かな信頼を勝ち広げてきました。

踊り出た菩薩たち
 今回は、有名な「大悪大善御書」の御聖訓を拝します。
 「上行菩薩の大地よりいで給いしには・をど(踊)りてこそい(出)で給いしか」(御書1300㌻)──上行菩薩が大地から涌出された時には、踊り出られたのである──。
 法華経の涌出品第15では、師・釈尊の呼びかけに応じて、無量千万億の地涌の菩薩が出現する。この時、上首(最高リーダー)である上行菩薩は喜び勇んで登場したと仰せなのです。
 この地涌の出現に驚いたのは、会座《えざ》にいた弟子たちです。
 それに先立ち、師・釈尊は、三類の強敵の出来《しゅったい》など、悪世に妙法を弘めることが、いかに困難かを繰り返し説かれていた。
 ところが、そうした大闘争を喜び求めて、尊貴な仏の生命の光明を放つ菩薩たちが勇んで踊り出たのです。その一人一人には、師匠である釈尊と共に戦い抜く誇りが漲り溢れていた。
 会座の人々の疑問を代表し、弥勒菩薩が釈尊に質問します。
 「これほどの無量の菩薩は、今まで見たことがありません。どこから来たのでしょうか?」
 釈尊は語りました。
 「私は、久遠よりこのかた、これらの大菩薩を教化してきたのである」──。
 釈尊が今世で仏に成られたとばかり思っていた人々は驚愕し、さらに疑問が深まります。
 「わずか四十年余りの間に、釈尊はどうやって無数の菩薩を薫陶されたのでしょうか?」
 この質問に答える形で、釈尊は、如来寿量品第16に入って、久遠の過去に成道していたという永遠の大生命(久遠実成)を説き明かしていくのです。
 いわば、地涌の弟子たちの光り輝く姿によって、想像を絶する偉大なる師匠の大境涯が示されていくわけです。
 このように、それまでの小さな法に執着した心を揺さぶり、より大きな価値観へ目を開かせる説法を「動執生疑」 (執を動じ、疑を生ず)と言います。
 末法の日本において、この「動執生疑」を起こしゆかれた方が、日蓮大聖人であられます。民衆を苦悩に陥れる邪義を糾す「立正安国」の師子吼が、傲り高ぶった権力の魔性を震撼させたのです。
 狂暴な弾圧は、既成勢力の動揺の表れにほかなりません。
 しかし大聖人は、身命に及ぶ迫害をも「日蓮悦んで云く本より存知の旨なり」(御書910㌻)と悠然と見下ろされ、戦い抜かれた。
 「日蓮は流罪を二度までも蒙り、すでに頸の座にもすえられたけれども、少しも恐れなかったので、今では日本国の人々の中にも『日蓮の言うことが道理かもしれない』という人もあるであろう」(同1138㌻、趣意)と仰せの通りです。
 この大聖人に直結する創価学会も、日本と世界に「動執生疑」を呼び起こしてきました。
 源流期の国家諫暁の殉難。
 草創期の民衆救済の折伏。
 躍進期の地域友好の拡大。
 そして今、仏法を根幹とした人類貢献の平和・文化・教育の大潮流を広げています。
 創価の理念も運動も人材も、旧来の精神土壌では考えられない前代未聞の壮挙である。
 真剣な皆様方の対話と行動は、日々、地域・社会に「動執生疑」の波を起こしています。
 法のため、人のため、社会のため、いかなる労苦も惜しまぬ皆様方の勇気と智慧と雄弁は、神々しいまでに、地涌の菩薩の大力用を放っているのです。
 本抄には「大悪をこれば大善きたる、すでに大謗法・国にあり大正法必ずひろまるべし、各各なにをかなげかせ給うべき」(同1300㌻)ともあります。
 どんな大悪があろうと、何も嘆くことはない。深い闇も大善の旭日が昇りゆく大瑞相なのだ。これが仏法の大確信です。
 時代は乱れに乱れている。不確かな風に不安を抱きながら、流されゆく人生があまりにも多い。誰もが、心の中では正しい哲学の指標を求め始めている。
 だからこそ、確固たる信念を勇敢に誠実に語り抜く皆様方の声は、仏の声の響きとなって、人々の心を揺り動かさずにはおかないのであります。
 たとえ相手が反発しているように見えても、根底では必ず仏性が薫発されているのです。
 以前、「先駆」の九州の一人の婦人から、入会の決意を伺ったことがあります。
 「皆さんの大情熱に『動執生疑』を起こされ、ついに私も『蘭室の友』となれました!」
 すでに入会前から、紹介者の方と教学を学んでいたのです。
 深き哲学を持つ人生は強い。
 米国アイダホ大学のガイヤ博士も語ってくださった。
 「創価学会の方々は、自らの強い信念に生きておられる。
 強い信条、信念のもとに、人々に目的観を示し、導いていくところにこそ、宗教本来の使命はあります」と。
 世界の知性が讃嘆してくださっているように、わが創価の友の行くところ、向かうところ、必ず正義の波動が広がります。
 今回の御文の直前には、「迦葉尊者にあらずとも・まいをも・まいぬべし、舎利弗にあらねども・立ってをどりぬべし」(同㌻)と仰せです。
 師匠は不惜身命で大難と戦い抜き、そして勝ち抜かれた。ゆえに、その師匠に続く弟子も苦難に立ち向かうのは当然だ。
 崇高な使命の闘争に、楽な戦いなどない。試練と戦うからこそ、仏の力が出せる。苦難に打ち勝つからこそ、師と共に仏になれる。これが法華経を貫く師弟の勝利の舞なのであります。
 あの大阪の戦いも、皆が地涌の舞を舞いながら「まさか」を実現した。常勝関西には師弟の真髄がある。ゆえに負けない。
 ともあれ、大変であるほど、師弟不二の信心の力で、仏の智慧を出して、我らは戦い進む。
 その姿を、心ある人々は真摯に見つめています。必ず仏縁が結ばれ、味方は広がります。

思い切り楽しく!
 大聖人は「元品の法性は梵天・帝釈等と顕われ」(御書997㌻)と仰せになられている。
 梵天・帝釈といっても、遠くにいるのではない。強盛な祈りで、わが法性(仏性)を発揮する時、その生命が梵天・帝釈として現れ、我らを厳然と守護することを忘れてはなりません。
 信心とは、究極の勇気です。その勇猛なる信心の一念で、衆生世間、国土世間をも大きく動かし、勝利していける。これが「一念三千」の極意です。
 私が戸田先生の弟子として、中国とロシアを初訪問してから今年で35年になります。
 当時は、反対や圧迫の声が渦巻いていた。しかし今や、両国をはじめ世界の五大州と結んできた平和・文化・教育の金の橋は、日本にとっても大事な命脈として感謝されている事実は、皆様方がご存じの通りです。
 法華経では、地涌の菩薩の出現によって本門が始まる。世界を舞台に、幾百万の地涌の青年が立ち上がった今、いよいよ創価の「本門の時代」の開幕です。
 戸田先生は叫ばれました。
 「前進前進、勝利勝利の創価学会であれ! そのためには、勇気と確信と真剣勝負の創価学会たれ! 断じて皆が勝つのだ。負けてはならない。これが広宣流布の方程式だ。これが自分自身の永遠の勝利の人生、すなわち仏になりゆくことだ」
 わが広布の英雄の皆様よ! 歓喜踊躍して舞う上行菩薩の生命力を漲らせて、生まれ変わったように生き生きと戦おう!
 そして思い切り楽しく声を出しながら、仏になりゆく勝利の万歳を叫び、勇敢に進もう!
2009-08-20 : 御書と師弟 :
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新 あの日あの時 11 

新 あの日あの時 11     (2009.8.19付 聖教新聞)

池田先生と常勝大阪総県

天下無敵の勝利の大剣

旭区と香峯子夫人
 「えらいこっちや、はよ旭会館に集まって!」
 大阪市旭区の婦人部の間で、緊急の知らせが飛びかったのは、1983年(昭和58年)3月12日の午後2時40分過ぎだった。
 この日の午後から同区の上原宅で懇談していた池田香峯子夫人が、大阪旭会館に向かったのである。
 ほんの10分足らずで、主要なメンバーに連絡が流れた。
 「ほんまかいな!」。サンダル履きで文化住宅を飛び出し、大阪旭会館へ集まった。
 2階建ての木造家屋を改修した会館である。老朽化していたが、ささやかな庭には植え込みもあり、昧のある建物だった。
 何よりも床の間には、旭区の宝物がある。「大阪の戦い」で青年部の池田大作室長がしたためた「大勝」の揮毫が掲げられていた。
 午後3時。上原宅から香峯子夫人が到着するころには、100人ほどが畳の上を埋めていた。
 「それでは、お題目を一緒にあげましょう」
 香峯子夫人を中心に朗々と唱題が始まった。
 ともに唱和しながら、上原慶子、令子の姉妹は胸にこみ上げるものがあった。美容院を経営する上原姉妹は、来店してくれた香峯子夫人に、旭区の前進ぶりを折にふれて報告してきた。
 特に「大勝」の揮毫は、旭区の旗印であることを熱く語った。
 200遍の唱題が終わると夫人は、くるりと体の向きを変えた。
 「戸田先生が関西から貧乏人と病人をなくしたいと言われていたことを思い出しながら唱題しました」
 そして「楽しく戦ってください」「必ず大勝利しましょう」と微笑んだ。

鶴見区と3・16
 81年(昭和56年)3月17日の夜である。
 午後7時前、鶴見区の「板原会館」に集まってきた女子部員たちが、ただならぬ気配に立ちすくんだ。
 鶴見本部の女子部で3・16記念の会合を開く予定だったが、個人会館に隣接する駐輪場にまで人があふれていた。会場に入ると、区幹部が勢ぞろいで、かしこまっている。
 「どうぞ女子部の方は前に来てください」
 幹部に促され、女子部員たちが前方へ進む。
 「実は、今、池田先生が向かいの板原宅におられます」
 もしかしたら……。
 期待が高まるが、その後の説明に、ますます戸惑った。
 「こちらに来られるかも知れませんし、来られないかも知れません。会合はそのままやってください」
 そんな……。いったい、どっちなんやろ。
 しばらくして、右手の入り口が勢いよく開いた。
 「こんばんは。ごめんやす!」
 大阪弁のアクセントをきかせ、名誉会長が姿を現した。
 近くにいた女子部員がサッと花束を差し出した。
 実は女子部の本部長が結婚するので、そのために用意したものだった。
 春らしい色の花々から、いい匂いが漂う。期せずして最高の形で贈ることができた。
 合掌するように手を合わせ、名誉会長は小ぶりな花束を受け取った。
 「じゃあ、今から一緒に祈ろう」「何でもいいんだよ」。仏壇の前へ進んだ。
 「今、皆さんが一番願っていることを祈りましょう」
 女子部にとって最高の3・16になった。名誉会長を中心に唱和する声が響いた。
        ◇
 鶴見の地名の由来は、日本書紀に出てくる「草薙の剣《つるぎ》」の「ツルギ」が、なまったという説がある。これを裏づけるかのように、区内には通称「剣《つるぎ》街道」が走る。
 名誉会長は鶴見区で、香峯子夫人は旭区で、地元のメンバーと題目を唱えた。
 天下無敵の「勝利の大剣」を抜きはなった。

守口地区への手紙
 「大阪の戦い」で守口地区は、青年部の池田室長のもと快進撃した。
 しかし、地区担当員だった山本悦子は、決して丈夫な体ではない。心配をかけないよう繕ってみせていたが、池田室長は見逃さなかった。
 56年(昭和31年)春、東京にいた室長から、山本の家に手紙が舞い込んだ。
 4月11日の消印である。
 「身体の具合ハ如何。仏法ハ勝負であり、吾が身の鬼神、第六天の魔を打破れる信心に、起たねバならぬでありましょう」
 広布のため、学会のため、全地区員と前進ができるように念願した後、端的に指針が示されていた。
 ①夜は規則正しく休み、くれぐれも身体を大事に。
 ②水のごとく清く、つつがない信心を。
 ③地区部長と力を合わせていきなさい。
 ④次のリーダーを立派に育成せよ。
 ⑤家庭も絶対に、おろそかにしないように。
 守口の同志に贈られた5指針である。
 やはり「大阪の戦い」の渦中だった。
 旭区内の拠点で、守口地区の稲岡正己が友人を折伏していたが、決まらない。
 “あかん、誰か助けてくれんやろか”。まだ入会して1年もたっていなかった。
 その時、玄関から「毎日ご苦労さまです」。池田室長の声だった。守口市内の座談会から、関西本部に戻る途中、立ち寄ってくれた。百万の味方を得た思いである。
 「日蓮大聖人の哲学とカントの哲学では、こんなにも違うのですよ」。室長は大きく両手を広げた。
 “うヘー、カントってなんやろ”。稲岡は、度肝を抜かれた。
 「私と友達になりましょう。どうか幸せになってください」
 その友人は即座に入会を希望した。
        ◇
 守口市に住む一婦人部員には忘れられない信心の原点がある。
 57年(昭和32年)に高校を卒業し、1カ月間だけ関西本部で働いたことがある。
 辞めた後、当時の自宅で開かれた会合に池田室長が出席した。
 顔を見た室長は「あなたのお宅だったんですね」。
 直接、話をする機会もなかったはずなのに、覚えていてくれた。
 居合わせた会員たちのために、色紙や扇に文字を書き、地区ごとに大きな揮毫をしたためた。
 婦人の地区には「断」の一文字が贈られた。
 決断。英断。勇断。さらには一刀両断。間断なき戦い。油断大敵──。
 たった一文字だが、幾重にも深い意味をはらんでいる。
 戦いは決断や!
 敵は一刀両断や!

門真の松下工場
 73年(昭和48年)4月11日の夜であった。
 門真市にある松下電器産業株式会社(現・パナソニック㈱)のラジオ工場では、就業時間も過ぎ、あたりに人気も少なくなってきた。
 遠くで京阪・門真駅(当時)に発着する電車の音が聞こえる。
 たまたま居残って雑巾だけをしていた従業員が、目を疑った。
 「あっ! 掃除してはる」
 腰を落として、床に落ちていたチリを拾っている人がいる。誰かと思えば、会長の松下幸之助ではないか。
 “松下病院で療養されていると聞いていたのに……”
 松下のラジオ工場は、来客を迎えたときの見学コースだった。
 しかも会長の松下が、自ら腕時計を見ながら、どれだけ移動に時間がかかるのかを計っている。
 付き添っていた社員が、松下の指示で、ベルトコンベヤーの下にもぐり、はんだ付けのカスをドライバーの先で削り取っていた。
 見たことがない光景だった。いったい誰が見学に来るのだろう?
        ◇
 翌12日の木曜日。
 午後1時すぎから、松下本社で松下が立っていた。雨つぶの落ちてくる空を見上げてから、小一時間ほど経つ。
 予定の午後2時前、国道1号線から人ってきた車が、正面玄関に停まる。松下がパッと頭を下げた。
 「ようこそ、いらっしゃいました」
 降車してすぐに腰を折ったのは、池田名誉会長である。
 前日に第1回入学式が行われたばかりの創価女子学園(現・関西創価学園)から、到着した。
 見学コースは、門真のラジオ工場と音響研究所だった。松下が名誉会長にピタリと寄り添っていた。
 名誉会長は、工場で働く人に丁寧に会釈していった。ベルトコンベヤーの音の中で、従業員が顔を見合わせる。
 「こんな人、初めてやな」
 廊下にいた一人の女性清掃員に目をとめた。作業服の胸元に、学会のバッジが光っている。
 「婦人部ですね。頑張ってください!」
 松下は、社員が声をかけられる光景を誇らしげに見守っていた。
 見学後、赤じゅうたんが敷かれた貴賓室へ。
 名誉会長の訪問は5時間を超えたが、そばを離れなかった。国家元首クラスでも、ここまではしない。
 「先生は日本に無くてはならぬ大指導者です」
 「世界平和と繁栄を築いていく人は、池田先生の外にありません」
 後日、松下から届いた礼状である。
2009-08-20 : 新 あの日あの時 :
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新 あの日あの時 10

新 あの日あの時 10     (2009.8.18付 聖教新聞)

池田先生と東京の北区

北の砦から勝利の烽火を!

王子に響いた婦人訓
 東京・北区の王子駅前に立つ「王子百貨店」のホールに、戸田城聖第2代会長の声が響きわたった。
 「本日、ここで『婦人訓』を発表したい!」
 1953年(昭和28年)5月17日。戸田会長から婦人部の新しい指針が発表されたのである。
 なぜ、この日、婦人訓が発表されたのか。
 婦人部が結成されたのは、51年(昭和26年)6月だが、いまだ本格的な指標が定まっていない。戸田会長には、それがずっと気がかりだった。
 ところが前日の5月16日、文京支部の会合に出席したときである。文京の井上シマ子が発表した「婦人の確信」に、大いに感ずるところがあった。
 師弟の道に生きる。戦うための実践の教学。怨嫉をしない。壮年部と団結する──婦人部に必要な指針が、すべて含まれていた。
 懐刀である池田大作支部長代理を文京に送り込んで、わずか1カ月あまり。
 さすが大作だ。もう婦人部を立ち上がらせたか!。
 即座に戸田会長は、井上の原稿に前文を書き加え、王子の地で発表したのである。
 「創価学会会長に就任以来、婦人の活動に期待するところ、重かつ大なり!」
 創価学会婦人部の本格的な前進は、北区から始まったのである。

江北から言論戦
 「王子なら、お願いしましょう!」
 戸田会長は、心から安心した口調で決断した。
 55年(昭和30年)、聖教新聞の印刷業者に、王子の紙を調達できる企業を選んだ。
 王子は、日本における洋紙発祥の地。新聞業界で「王子」といえば上質な紙の代名詞だった。
 戦前、戦後と出版業をいとなみ、用紙の手配に苦労してきた戸田会長である。これで一流の品質が確保できると安堵した。
 それから半世紀。聖教新聞は「王子の紙」に支えられてきた。
        ◇
 王子駅からバスに乗った青年部の池田室長が、江北橋を渡って、藤田建吉の家を訪れたのは、55年(昭和30年)である。
 足立区への初訪問だった。
 その4年後、藤田の会社は学会関連書籍を全国に発送する仕事を担った。
 ある秋口の午後、従業員井谷水彦《いたにみずひこ》が一服していると作業場に人の気配がした。
 「あっ、池田先生!」
 真剣な眼ざして語った。
 「発送の仕事は、広宣流布の血管の役目だよ」
 王子の紙」と「江北の血管」。
 北区と足立区は隣接する「兄弟区」。
 ともに広宣流布の言論戦の屋台骨となっだ。

赤羽台が結ぶ縁
 芸術部の山本リンダが、大きな目を一段と丸くした。
 「えっ、この部屋にトインビー博士が来たの!」
 2008年秋、赤羽台団地の20号棟3階の一室で、懇談会が開かれていた。
 約20年前から、この部屋に住む稲垣泰子。
 団地内の知人から聞いた話を披露した。
 ──トインビー博士は、赤絨毯を敷いた部屋に靴のまま上がってね。かがむように背中を丸めて、ふすまをくぐったのよ。部屋の外で報道陣が待っていたんですって。
 67年(昭和42年)11月。佐藤栄作首相と会見したトインビー博士は、同行者に、日本の庶民の暮らしぶりが見たいと打ち明けた。
 白羽の矢が立つたのが赤羽台団地である。
 北区は鉄道網が発達し、都営桐ケ丘団地や豊島5丁目団地などマンモス団地が広かっている。
 トインビーには、持論があった。
 「時代を動かすのは、新聞の見出しの好個の材料となる事柄よりも、水底のゆるやかな動きである」
 この年は、公明党の衆議院進出に日本中が驚いた年でもあった。
 帰国すると、池田会長の著作を丹念に調べた。
 「あなたの思想や著作に強い関心を持つようになりました」
 やがて一通のエアメールを送った。
 愛くるしいリンダ・スマイルが去った数週間後、学会副理事長の池田博正が同じ部屋を訪れた。
 「庶民のありのままの姿を見せた赤羽台が、父とトインビー博士の縁《えにし》を結んだんですね」

獅子は一人立つ
 北区は、池田名誉会長と縁が深い。
 67年(昭和42年)10月25日。西が丘の旧赤羽会館。勤行を終えた名誉会長が振り返った。
 「今日は座談会形式で話し合おう」。小さな座卓を囲むと、口々に生活の苦しさを訴えてくる。
 悩みがあるから不幸。環境が厳しいから敗北。そんな惰弱な心を、名誉会長は断ち切った。
 「私にだって、悩みは100も200もあるよ。だが煩悩即菩提だ。悩みがあること自体が幸せなんだ」
 目の前のソーダ水の泡を、じっと見つめる少女がいた。
 「飲むかい?」。コクリとうなずいた。後に喜多戸田区の婦人部長になる大梶陽子である。幼い脳裏に、たった一つだけ、名誉会長の言葉が焼きついている。
 「一人の人が大切だ!」
 羊千匹より獅子一匹の精神を打ち込んだ。
        ◇
 霜降橋から北区の滝野川方面に、一台の車が向かっていた。88年(昭和63年)11月15日の午後3時半である。
 車は本郷通りを進み、西ケ原の「旧古河《ふるかわ》庭園」へ。
 茶色の洋館が夕日に照り映えている。明治の元勲・陸奥宗光《むつむねみつ》の旧別邸には、バラが咲き薫っていた。
 香峯子夫人が嬉しそうに見わたす。
 「こんなに美しい庭園があるなんて素晴らしいですね」
 一目散に砂利を踏み散らして、名誉会長に駆け寄る壮年がいた。第3代会長辞任以
来、招待の手紙を書き続けてきた福田理一《りいち》だった。
 北区の日本一の庭を見てもらいたい。会長を辞任されようとも、私たちの師匠は池田先生!
 北区の皆の思いだった。
 その真心に、名誉会長夫妻は真心で応えた。
        ◇
 手紙の内容に、婦人部の中根えみ子は跳びあがった。
 「この資料は厳密な内容分析の上、詳細な目録カード作製の上、絶対基本文献として大切に永久保存いたします」
 一里塚交差点に近い「東京ゲーテ記念館」。ゲーテの世界的研究拠点である。
 2003年3月、名誉会長の連載「人間ゲーテを語る」が載ると、中根は真っ先に聖教新聞を届けた。
 ほどなく東京ゲーテ記念館から丁重な返事が送られてきた。一人の婦人の果敢な行動が実を結んだ。
 設立者の粉川忠《こなかわただし》は、世界中の新聞や本にゲーテの文字を見つけ、収集していた。なかでも池田名誉会長がゲーテを語り、書き綴ってきた事実に驚いた。日本きっての規模である。そもそも名誉会長の膨大な著作。世界との対話。まさにゲーテだ!
 「聖教新聞は日本一、ゲーテが載っている。その源は名誉会長の詩心です」

北区婦人部の日
 「太田道灌を知っているかい?」
 84年(昭和59年)8月18日。信濃町で北区の代表と懇談した折である。
 太田道灌。
 室町時代に江戸城を築いた名将だった。
 「彼が全関東の要衝としてクサビを打ち込んだのは、北区だった」
 東京の北の玄関口・赤羽駅。その南西の丘陵に、太田道灌が築城したという稲付城
の跡がある。
 太田のもとへ、太田とともに──。
 いったん急あらは四方八方から関東武士が集結し、敵との決戦に討って出た。
 「北区は、日本の急所だ。北の砦から、勝利の蜂火をあげるんだ」
 この日が「北区婦人部の日」の淵源となる。
 きょう、25周年を迎えた。

十条銀座から立て!
 十条銀座は「北区の台所」として知られている。
 名誉会長が十条銀座を訪れたのは、79年(昭和54年)7月12日だった。学会員が営む飲食店で、東京婦人部や北区の代表と懇談した。
 7月12日は、特別な日である。57年(昭和32年)のこの日、蔵前国技館で「東京大会」があった。
 池田室長の身柄は、あの「大阪事件」の不当逮捕により、大阪の拘置所内にあった。戸田会長の怒声がとどろく。
 大作を出せ! 直ちに出せ!
 録音係だった北区・豊島の末広良安《すえひろよしやす》。放送室で、スピー力ーを突き破ってくる叫びに全身が震えた。
 この日は、香峯子夫人の入信記念日でもある。
        ◇
 十条銀座の店には、電車が通るたびに、かすかな地響きが伝わってくる。
 名誉会長は婦人部にうながした。「さあ、東京の歌を歌おう」

♪おお東天に 祈りあり……

 山本伸一作詞の「ああ感激の同志あり」である。
 名誉会長も立ち上がった。拳を握り、唱和する。ひとり、また一人と口ずさみ始める。北区の橋元和子も必死に声をあわせた。

♪いざや戦士に 栄あれ
 汝の勝利は 確かなり

 東京よ、雄々しく立て!
 北区から、師弟一体の「東京の戦い」が始まった。
2009-08-20 : 新 あの日あの時 :
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アメリカ創大入学レセプションへのメッセージ

アメリカ創価大学入学レセプションへの創立者のメッセージ        (2009.8.5 現地時間)

学問は幸福 歓喜 勝利の道
開かれた心で学べ 新しき人類の価値創造を


 親愛なる新入生の皆さん、希望輝くご入学、誠におめでとうございます。
 英才中の英才の皆さんが、数ある大学の中で、このアメリカ創価大学(SUA)を選び集ってくれた。創立者として、これほどの喜びはありません。本当にありがとう!(大拍手)
 アメリカ創大は、人類が待望してやまぬ大指導者を創りゆく大学であります。
 アメリカ創大は、世界が要請してやまぬ英知の光を放ちゆく大学であります。
 そしてアメリカ創大は、未来が賞讃してやまぬ平和の大連帯を広げゆく大学であります。
 君たちよ、このカリフォルニアの陽光輝く天地で、思う存分に学び抜いてくれ給え!
 そして、偉大な21世紀の旭日の生命を輝かせていってくれ給え!
 ご家族の皆さま方、誠に誠に、おめでとうございます。ご友人の皆さま方にも、心からのお祝いを申し上げます。教職員の皆様方、大切な大切な宝の逸材を、何卒よろしくお願い申し上げます。
 そして、私の心を心として、新入生の歓迎に当たってくださった6期生、7期生、8期生の方々も、本当に本当にありがとう!

万代の発展へ 完璧なる礎を
 今、ファウンダーズ・ホール(本部棟)の横では、君たちの入学をを寿ぐように、講堂や、新・教室棟の建設が、着々と進んでおります。まさに隆々と大前進しゆく、SUAの姿を象徴しております。
 わがSUAには、世界中の尊き庶民の計り知れない真心が託されております。この体育館も、新しき学生生活を始める寮も──石一つ、タイル一つにも、人類の平和と幸福に貢献しゆく皆さん方の成長を祈り、信じ、待つ、幾多の世界市民の深い深い願いが込められているのであります。
 皆さん方の先輩たちは、その信頼を勇気に、その期待を前進の力に変えながら、知性を磨き、人格を鍛えて、「教育の世紀」のフロンティアにふさわしい、堂々たる開拓と創造、共生と融合のキャンパスの気風を築いてくれました。
 その良き伝統を闊達に受け継ぎながら、近くは、創立10周年、そして、20周年、50周年へ、さらに万代への大発展の礎を完璧に仕上げてくれるのが、ここに勇み来たった9期生の皆さんなのであります(大拍手)。
 「九」は、東洋では古来、「聖なる数」とされ、「究める」との意義があるとも言われております。
 私は今、アメリカを代表する3人の歴史的巨人の魂を継承する大知性の先生方と三つの対話を同時に進めております。
 一つは、アメリカ・ルネサンスの哲人エマソンの精神を後継する「エマソン協会」の前会長であり、詩人としても名高いサーラ・ワイダー博士との対談であります。
 また一つは、今年、生誕150周年を迎えるアメリカの大教育者デューイ博士を宣揚するジョン・デューイ協会」のガリソン会長とヒックマン前会長との鼎談であります。
 そして、もう一つは、アメリカ公民権運動の父・キング博士の盟友である、著名な歴史学者のビンセント・ハーディング博士との対話であります。
 これらの対談に、私は、わが人生の師である戸田城聖先生の心を携えて臨んでおります。師弟は永遠に不ニであり、一体だからであります。
 そしてまた、私は、わがSUAの皆さんも車座になって、対談に参加してくれているという思いで、取り組んでおります。
 私の心は、常に皆さんと共に、人類の精神遺産を学び、偉大なる魂を呼吸しながら、新たな地球文明の創出へ尽くしたいと願っているのであります。

哲人エマソン
素晴らしき友人と歩めば 我々は容易に偉大になれる


「平和の文化」のモデルを世界へ
 うれしいことに、対談者の先生方も、すべてSUAに来校されて、皆さん方の未来に最大のエールを送ってくださっています。
 きょうは、その先生方とご一緒に、諸君の門出に3人の先哲の言葉を捧げたい。
 はじめに、私が青春時代から大好きであったエマソンの次の言葉です。
 「人生で最も必要なものは、自らの可能性を引き出してくれる存在です。それこそ、友人です。こうした友人と歩めば、我々は容易に偉大になれるのです」
 閉ざされて孤立した生命は、光彩を失う。
 常に開かれた心で友と対話し、学びゆく生命は、常に新鮮な価値創造の光を発していける。これが「創価」です。
 どうか、世界の各地から集い合った不思議なる縁の良き学友と、大いに切磋琢磨しながら、最高に充実した向学と上昇の青春を歩み通してください。
 そして、深遠なる人間尊敬に貫かれた「平和の文化」のモデルを、この学舎《まなびや》から、地域へ、社会へ、世界へ、聡明に示していっていただきたいのであります。
 次に、キング博士の箴言であります。
 「知性と人格の兼備。それが、真の教育の自的である」
 簡潔にして重大な結論であります。皆さん方は、実力と人間性という、二つの翼を伸びやかに鍛えながら、使命の天空高く羽ばたいていってください。
 そして、デューイ博士の哲学であります。
 「人間は、苦悩の中にあっても、幸福を見出すことができる。もしも、勇敢で、平静な精神を持つならば、不愉快な経験が続くなかでも、満ちたりて、快活でいられるであろう」
 青年が勇敢に困難に挑みゆくなかでこそ、いまだ開発されていない、壮大なる人類の智慧と創造性が開花していくものであります。
 世界は今、100年に一度と言われる危機と混沌の中から、新たな地球社会の在り方を模索しております。
 皆さんの学究生活は、その激動の渦中にあります。この大転換期にあって、君たちは“生命尊厳”の思想を根本として、“人類の共生”と“民衆の幸福”をリードしゆく確固たる力をつけていっていただきたい。
 真の学問とは、自他共の「幸福の道」です。高き理想を一つ一つ実現しゆく「歓喜の道」です。そして、人類の未来を明々と照らしゆく「勝利の道」です。
 皆さんの4年間が、「朗らかな挑戦」と「たゆみなき努力」によって、「私は勝った!」「我々は勝ちに勝った!」と胸を張って凱歌をあげゆく黄金時代となることを、私は創立者として心から願ってやみません。
 皆さん方の限りない成長と前進を、妻と共に、朝な夕なに、深く祈り、見守っております。
 結びに、「わが誉れの9期生に、健康あれ! 栄光あれ! 勝利あれ!」と叫んで、私のお祝いのメッセージといたします(大拍手)。
2009-08-19 : スピーチ・メッセージ等 :
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随筆 人間世紀の光 No.198/9

随筆 人間世紀の光 No.198/9  (2009.8.15/16付 聖教新聞)

永遠の同志・大関西㊤㊦

仏法は勝負! 決戦場に勇み立て
黄金の「今 この時」を 君よ悔いなく


 関西と
  いえば常勝
    晴ればれと

 希望の未来へ、溌剌と若木が伸びる夏。嬉しいニュースが飛び込んできた。
 関西創価高校のダンス部が日本一の「文部科学大臣賞」に輝いた。さらに箏曲部も「文化庁長官賞」を受賞したのである。
 2カ月前、私は、この学園生たちと会った。6月18日、関西創価高校2年生が創価大学で研修していると聞き、駆けつけたのだ。
 学園生たちは、はち切れんばかりの勢いで「外国語を習得します」「世界一の教育者になります」等と決意を語ってくれた。ダンス部や箏曲部など、各クラブのメンバーたちも、勝利への抱負を聞かせてくれた。
 誓いを立て、汗を流して努力し、持てる力を出し切る。そして勝つ。これほど痛快なことはない。
 わが学園生は、この「負けじ魂」を父母の後ろ姿から、学びとっているのだ。
 私は「頑張れ!」とエールを送りつつ、「お父さん、お母さんを大切に!」と、声を大に呼びかけた。
 後継の友の成長こそ、関西そして全国の父母の喜びである。私の誇りである。
 人生の土台となる青春期は、懸命に戦った全員が勝利者だ。私は、いつも皆の前進を祈り、待っている。
        ◇
 栄光の
  帝王 われと
   指揮高く
  逆巻く海をば
    無敵の舵とれ

 関西創価学園が立つ交野は、“万葉”の詩情を今に伝える天地だ。
 5世紀ごろから8世紀半ばの歌を収めた『万葉集』。その中に現れる地名の一つに、「住吉《すみのえ》」(後に「すみよし」)がある。これは、現在の大阪市住吉区、住之江区の付近を指す。往時は「白砂青松《はくしゃせいしょう》」の美しき海岸が広がっていた。「すみのえ」の音には「清江」とも当てられる。
 ここには「住吉津《すみのえつ》」と呼ばれる港があった。古代中国への使節は、ここから出発していったという説もある。世界と日本を結ぶ、国際港の「先駆」であった。
 私も訪れ、その歴史薫る風情に感じ入った一人だ。
 今や「世界の大関西」と謳われゆく、わが友の大行進を、先人たちも誇らしく見つめているに違いない。
 奇しくも、この西大阪の地域は、わが関西創価学会の発祥の大地でもある。
 大阪の初代支部長・白木義一郎さんの折伏の第1号は、西成区で決まった。
 さらに、戸田先生と私が師弟して臨んだ最初の関西の座談会は、昭和27年の8月16日、大正区で行われたのである。
 先生は厳と語られた。
 「私が関西に来たのは、貧乏人と病人をなくすためです!」
 師の構想を実現するのが弟子だ。ゆえに私は、この師の誓願をわが誓願とし、関西を走り抜いてきた。
 この西大阪は、大楠公・楠木正成《まさしげ》が痛快な勝利の足跡を残した地でもある。
 「合戦の勝負、必ずしも大勢《おおぜい》・小勢《こぜい》に依らず。ただ士卒の志を一つにするとせざるとなり」と正成が語ったのも、この折であった。
 勝負を決するのは、人数の多い少ないではなく、心を一つにする団結であるというのである。
 さらに正成の遺子・楠木正行《まさつら》が「早く生い立て」との厳父の祈りに応えて、宿敵を打ち破ったのも、この地の合戦であった。
 昭和60年の1月25日、私は西大阪文化会館(現・住之江文化会館)を訪問した。「大阪事件」の無罪判決から23年の日である。この日は「関西婦人部の日」となった。
 私は、瞬時にして心が通い合う同志に訴えた。
 「仏法は勝負!」
 広宣流布のためには、戦わなければならない。
 臆病に退いてしまえば、魔軍が増長するだけだ。
 戦うなら勝つしかない。
 正行の如く、後継の証明は勝利のみである。
 英国の作家シェークスピアの劇中の人物は誓う。
 「どんな恐ろしい困難とでも私は闘います。いや、必ず克ってみせます」
 大事なのは、この断固たる気概である。
        ◇
 慶応義塾大学の創立者である福沢諭吉先生も、現在の大阪市福島区の生まれだ。青春の薫陶を、大阪の適塾で、師匠・緒方洪庵から受けた。
 福沢先生は、その師匠への感謝を生涯、堅持した。晩年、自らの全集の冒頭に綴った言葉が、清々しい。
 「今日に至る迄 無窮の師恩を拝する者なり」
 ──今日に至るまで、無限の師匠の恩を慎んで受け、深く尊ぶものであると。
 人間は、師恩に応えゆかんとする時、最も尊貴にして、最も強靭なる生命の光を発するのだ。
 我らの大関西の強さも、ここにある。
      ◇
 大兵庫
  広布の白馬に
    君乗りて
 勝ち抜け 勝ち抜け
    勝ちまくれ

 大阪の住吉津から湾を隔てた兵庫には「大輪田泊《おおわだのとまり》」ができた。それが、憧れの神戸市兵庫区の港である。
 12世紀、平清盛がこの港を大修築した。鎌倉時代には、宋との貿易で大いに栄えている。
 兵庫区や長田《ながた》区、北区の地域は、古来、幾多の武将が駆け抜けてきた。三区が連接する付近には“鵯越《ひよどりごえ》”(兵庫区)、“ひよどり”(北区)、“源平” (長田区)等を冠した地名がある。
 花の若武者・源義経が台頭した「一ノ谷の戦い」。そこで見せた奇襲「鵯越の逆落とし」に縁があるとされる名勝負の舞台だ。
 義経は岩がむき出しの絶壁を前に案内者へ尋ねた。
 「ここから平家の城郭一ノ谷《いちのたに》へ馬でかけ下《お》りようと思うがどうか」
 「人の通れる所ではありません。まして御馬《おうま》などは思いもよりません」と言下に否定される。
 だが、「鹿は通るか」と聞くと、「鹿は通ります」との答えが返ってきた。
 義経は決断した。
 「義経を手本にせよ!」
 自ら先頭で、断崖へ飛び込む。決死の奇襲戦が、迎え撃つ平氏を敗走させた。
 率先垂範の果断と勇気、勝機を逃さず壁を破る突破力、そして逡巡せぬ魂が、逆境をはね返すのだ。
 御聖訓には、広宣流布の攻防戦に際して、「今まで生きて有りつるは此の事にあはん為なりけり」(御書1451㌻)と仰せである。そして「名を揚るか名をくだすかなり」(同㌻)と強調なされている。
 「今この時」に、死力を尽くして悔いなく戦い切ることだ。その名が、後世に「広宣流布の闘士の鑑」として輝いていくのである。
 大聖人は「皆 我が一念に納めたる功徳善根なりと信心を取るべきなり」(同383㌻)と教えてくださった。
 信心の上で苦労したことは全部、大福運に変わる。
 関西で命を賭して戦い切った私が、その証明だ。
 私と一緒に戦い抜いてくれた、関西の父母の大福の実証を見給え!
 「ひとつ勇気を出されたがよい、後世の人も褒めてくれるよう」とは、ホメロスの大叙事詩『オデュッセイアー』に記された一節だ。
 昭和39年の9月13日、神戸市長田区の育英高校で、今も歴史に光る兵庫総合本部の結成大会が行われた。
 私は、昭和31年の「大阪の戦い」を振り返り、真情を語った。
 「祈りとして叶わざるなしである。私は長として、御本尊に願い切っていこう、働き切っていこう、会員のために勝ち切っていこう、この決心だった」
 いかなる戦いも「長の一念」で決まる。リーダーは、同志を勝たせゆく重大な責務を担っているのだ。
 今、大関西の勇将たちが、なかでも壮年部の盟友たちが、私と同じ決意で、同志のため、地域のため、社会のために、粉骨砕身、戦ってくれている。
 ともあれ、関西の永遠の同志が健在ならば、断固と勝っていける。これが創価の勝ち戦のリズムだ。


 「住吉津」の話は大阪府史編集専門委員会編『大阪府史2』(大阪府)、楠木正成は佐藤和彦編『楠木正成のすべて』(新人物往来社)、源義経は杉本圭三郎訳注『平家物語9』(講談社)などを参照。シェークスピアの言葉は『ジュリアス・シーザ』中野好夫訳(岩波書店)。福沢諭吉は『福澤諭吉全集1』(岩波書店)。ホメロスは『オデュツセイアー』呉茂一訳(岩波書店)。


永遠の同志・大関西

世界に轟け! 正義の師子吼
わが民衆の大行進を 諸天が守らむ


「常勝」は師弟不二の宝冠なり
「勇気」の将軍学で「死闘」を競り勝て!


 おお 堺!
  会えば瞳が
   輝きて
  明るい久遠の
    楽しき同志と

 「永遠に栄えゆく堺たれ」──聖教新聞一面に、八段の大見出しが躍った。
 昭和43年の10月4日、私は、大阪府堺市の金岡《かなおか》体育館での堺本部幹部会に出席した。その時の躍動を報じた記事である。
 堺の名は、摂津、河内、和泉の三国の「境」に由来するという。まさに、活発な往来の要衝であった。
 昭和31年の「大阪の戦い」でも、華々しい結果を示したのが、大和川以南の地域──堺支部たった。
 堺の大発展を念願しつつ、私は「栄える」堺にと申し上げたのである。
 私が初めて大阪の土を踏んで、最初に参加した会合も、堺の座談会だった(昭和27年8月14日)。
 それぞれの経済苦や病苦を、いかに打開するかを、真剣に語るとともに、私は世界広布のロマンを展望した。それは世界に開かれた堺の栄光の歴史を踏まえてのことであった。
 かつて堺は「東洋のべ二ス」と呼ばれるほど、世界に名を馳せ、高度な自治で町人文化が花咲いた。
 その一つが、千利休が大成させた茶道である。
 千利休は、19歳の頃、武野紹鴎《たけのじょうおう》に師事し、師弟の精神を貫き通した。
 私も、19歳で出会った師匠の心に応えて戦った。
 その最高の証こそ、庶民の錦州城・大関西である。
 利休の晩年、側にいた弟子の山上宗二《やまのうえそうじ》が、茶の「名人」の条件の一つとして、三箇条をあげている。
 それは「胸の覚悟」「作分《さくぶん》」「手柄」である。
 「胸の覚悟」とは、心の持ち方、心掛けである。「一期一会」の精神も、その一つだ。すなわち一回一回の出会いが一生に一度限りであると、心を定めることだ。
 「作分」とは創意工夫。「手柄」とは実績である。
 これは、創価の対話の達人たちにも通じよう。
 まず、誓願、決意という学会精神である。
 次に、創造的な息吹で、智慧を湧かし、自ら戦いを起こすことだ。
 そして、勝利の実証を厳然と残しゆくことである。
        ◇
 大関西
   連戦常勝
    祈るらむ
  師弟の魂
   いやまし燃やして

 昭和32年7月。「大阪事件」で私が入獄した月、戸田先生は言われた。
 「関西は、大作と一体不二だ。大作と一緒に、大難に立ち向かい、戦い抜いてきた。だから強いぞ」
 「関西には爆発するような勢いが渦巻いている。関西さえ盤石ならば、学会は巌窟王の如く、50年先、100年先も勝ちまくれる」
 先生は、私と関西の結合に、広布の命脈を託された。その上で迎えたのが大阪事件の裁判闘争だった。
 弁護士でさえ「有罪を覚悟」と言った。確かに刑事事件の有罪率は99㌫を超える。
 しかし私は、日蓮門下として、「世間の失一分もなし」(御書958㌻)との決定《けつじょう》した闘魂に燃えていた。
 法華経に説かれる僣聖増上慢が出来し、学会に恐れをなした権力の魔性が牙を剥いてきたのだ。
 戸田先生の直弟子として、断じて負けるわけにはいかない。

師匠の仇討ちを!

 大聖人
  褒めなむ 讃えむ
    尼崎
  広布の原点
    正義の集いよ

 大阪事件の審理は、4年半にわたった。その期間、私がよく通ったのが、兵庫の尼崎だったのである。
 兵庫は「兵《へい》の庫《くら》」だ。雄々しき戦士の宝庫だ。兵庫が勝てば、関西が勝つ。関西が勝てば、全国が完勝する。
 尼崎は、その関西の電源地であり、学会の心臓部であるからだ。
 歴史を振り返れば、徳川家康も幕府を開いた後、関西への布石として、いち早く尼崎に手を打った。尼崎こそ急所なりと、家康も知悉していたのである。
 私は関西の幹部会、御書講義のために、何度も足を運んだ。尼崎会館のオープンも祝福した。
 大阪事件の最終陳述の日を迎えた昭和36年の12月16日、私は、証言台から師子吼した。
 「私たちの行動は、憲法に保障された国民の権利である!」──検察側の偏見を真正面から突き、最後に師・戸田先生に思いを馳せ、話を結んだのである。
 大阪拘置所から出た時に、先生は私に言われた。
 「いいじゃないか、裁判があるではないか。裁判長はわかるはずだ。裁判長に真実がわかってもらえればいいではないか」
 この師弟の劇を、私は、自身の最終陳述で語ったのであった。
 私は会長となっていた。後を継いだ者として、戦時中、同じく無実で獄に囚われた牧口先生、戸田先生の無念を晴らすしかない。
 師匠の仇討ちのために何があっでも勝つのだ!
 我らは師子だ。師と弟子が一体不二で邪悪を破り、正義を轟かせるのだ!
 この一念深き「祈り」と「雄弁」と「行動」が、諸天善神を揺り動かした。
 翌年1月、尼崎で行った関西男子部幹部会の翌日。私は晴れて無罪判決を受けたのである。
 さらに1年後の昭和38年の2月、尼崎で関西初の婦人部幹部会が開催されると、私は心から祝福した。丑寅勤行まで重ねて、最も深く私の無罪を祈ってくださった母たちである。
 「いかなる状況になろうと、金剛不壊の自分自身を築こう!」と訴えた。
 母が不動の信念であれば一家は安泰である。学会の前進も揺るぎない。
 思えば、長編詩「母」を発表したのも、昭和46年の10月、東淀川で行われた関西婦人部幹部会であった。
 「闇を貫き、圧倒できるのは、太陽だけである」
 こう歌ったのは、南米アルゼンチンの民衆詩人ホセ・エルナンデスである。
 どんな深い闇も、底抜けに明るい笑顔で打ち破ってくれる関西の母たちこそ、世界第一の「常勝の太陽」なのである。
        ◇

 淀川に
  元初の姉妹の
   集いたる
  錦州城は
   無限に にぎやか

 関西を潤す母なる大河が淀川である。
 江戸期、この淀川流域には豊かな田んぼが広がっていたが、排水路の不備から大雨のたびに被害を受けていた。そこで立ち上がったのが、農民たちであった。
 苦境の打開へ、自ら排水路の開削に着手したのだ。彼らは、いかなる困難にも屈せず、決死の覚悟で開削工事を敢行し、最後は幕府の支援も勝ち取った。
 こうして、今の東淀川から淀川、西淀川を経て此花の地に至る一帯に築かれたのが、中島大水道である。ここには、人びとのために、命がけで政治を動かした庶民の歴史が輝いている。

現場へ最前線へ!
 昭和36年の9月、私は裁判の公判前の時間を縫って、第二室戸台風の被災地・西淀川へ駆けつけた。
 この2年前の10月にも、私は、伊勢湾台風で被災した愛知と三重へ急行した。一旦緩急あれば最前線へ飛び込むのが、リーダーだからである。
 ともあれ、「大悪をこ(起)れば大善きたる」(御書1300㌻)とは、日蓮仏法の不屈の大確信だ。
 昭和38年4月6日、私は西淀川会館(現・西淀川文化会館)の入仏式で語った。
 「関西の10年の戦いは、広宣流布のために、民衆救済に戦ってきた苦闘の歴史だった。誹謗・中傷もされた。しかし、今日の学会は、大きく民衆が認めるところとなったのです!」
 西淀川はじめ東淀川、淀川の友が場外にあふれた。せめてもと、2階からも激励させていただいた。
 大阪市内で、関西本部に次ぐ会館であった。
 此花や福島の友も、淀川を渡って通い、どれほど深い真心で会館を厳護してくださったことか。私も妻も、よく存じ上げている。
 昭和44年9月4日には、東淀川会館(当時)を訪問し、清掃に当たってくださっていた婦人と、懇談のひと時をもうけた。
 関西の玄関口・新大阪駅に近い新大阪文化会館には、5回の訪問を重ねた。移動の合間で、長い滞在はできなかったことも多い。
 だが、一分一秒でも一人を励ませる。歓喜が千波万波と広がる。ゆえに、今の一瞬に全力を注ぐのだ!
 私が一期一会で駆け抜けたのが新大阪地域である。この地の友に私は贈った。
 「戦う人は諸天の力が増す。勝ちゆく人は諸仏の満足がある」
        ◇
 いついつも
  師弟の関西
    勝ち飾る
  皆様方の
    勇気 嬉しや

 「永遠の都」ローマで活躍した常勝の大英雄がジュリアス・シーザー(ユリウス・カエサル)である。
 シーザーは、歴史に燦たる名将であるゆえに、あらゆる戦いを悠々と勝ったように思われるかも知れない。だが、実像は決してそうではないのだ。
 勝つか負けるか、全くわからない、困難な戦いの連続だったのである。
 関西の戦いも、同じだ。
 「常勝」とは常に「死闘」に競り勝つことである。
 その大激戦を勝ち抜く原動力は、いったい何か。
 シーザーは、乱戦になればなるほど、「勇気」のいかんで勝負は決まると確信していた。
 たとえ、相手が「数」を頼みに襲いかかってこようとも、我々は自分たちの「勇気」に対して、自信と誇りをもって戦うのだ。そうすれば、禍を転じて福となすことができる!
 これが、シーザーの「将軍学」であった。
 関西も、ただただ師弟の「勇戦」によって、一切を勝ち越えてきたのだ。

受け身になるな!
 シーザーが、戦いに臨んで大切にした伝統がある。
 それは声を出すことだ。
 声を出すことによって、「敵を畏怖せしめると共に味方を奮いたたせる」。
 この声の力を、シーザーは武器としたのである。
 とともに彼は、「相手の優勢を恐れないこと、迅速に行動すること、これしかない」とも語る。「迅速」と「勢い」だ。
 紀元前48年の8月、シーザーは、ポンペイウスの軍勢との天下分け目の決戦に挑んだ。有名な「ファルサロスの戦い」である。
 ポンペイウス軍は、5万4000。これに対して、シーザーの軍勢は、2万3000。半分以下の劣勢であった。
 しかし、戦いには、シーザーが大勝利した。
 なぜか。その要因の一つは、シーザーの陣列は攻め抜いた。相手は、その攻撃を待ち受ける態勢をとったからである。彼は語った。
 「突撃した方の力がまさり、その方の力が、本来の力の二倍にも三倍にもなる」
 受け身にはなるな!
 勇猛なる心で攻め抜け!
 これは、人生の万般に通ずる勝利の鉄則である。
 さらに、シーザーが立ち向かったポンペイウス陣営は、人数は多かったが、重要な役割を担う騎兵は、身分が高く、見栄っ張りが多かったと指摘される。
 彼らは、貴公子気取りで、わが身と乗る馬を飾り立てて、壮絶な戦場を甘く見て臨んでいた。
 そして、戦いが始まると、我が身や顔を傷つけられることを恐れて、たちまち逃げ出したというのだ。
 いかなる戦いも、見栄や気取りなど、かなぐり捨てて、一心不乱に最後まで力を出し尽くした方が勝つ。
 これが、庶民の強さであり、関西の強さである。
 関西は、この人間の大英雄の底力で、これからも、断固として勝ち抜くのだ。
 そして民衆が胸を張り、平和と繁栄を謳歌していく「永遠常勝の都」を築き上げていくのだ。

「われは変らじ」

 常勝の
  その名も高き
   関西は
  世界一なる
    凱歌の城かな

 「もうひとつ〈創価学会〉をお作りになられる位の心意気で」──私が還暦を迎えた際、経営の神様・松下幸之助先生が寄せてくださった祝辞の一節である。
 松下先生とは深い交流を重ねた。昭和48年には、お招きを受けて大阪府門真市の松下電器産業(現・パナソニック)本社を見学させていただいた。
 昭和54年、私が第3代会長を辞任する前に会見した最後の日本人の識者も、松下先生であった。
 その直後の4月24日──私が辞任した日の夜のことである。
 守口門真文化会館(現・守口文化会館)で、緊迫した空気のなか、緊急大阪本部長会が開かれた。
 かつて師匠・戸田先生に、私が捧げた和歌──
 「古の
  奇しき縁に
    仕えしを
  人は変れど
   われは変らじ」
 関西の真情を、この一首に託し、西口良三君が読み上げた。そして皆が叫んだ。
 「関西の私たちは、永遠に師匠と共に戦い、共に勝つ!」
 この“守口の誓い”から、全創価の弟子の反転攻勢は始まったのだ。
 守口市、門真市、大阪市の旭区、鶴見区からなる常勝大阪総県との縁《えにし》は、この嵐のなかで、幾重にも深く結ばれていった。
 翌55年の早春の3月9日、「自分たちが先生のもとヘ!」と、学会本部に駆けつけてくれたのは、門真の友であった。急きょ会場入りした私は、共戦の息吹に心で涙しながら、ピアノの鍵盤を叩いた。
 この会合は聖教新聞でも報じられたが、私のことは一行も出ていない。
 だが、活字にならなくとも、師弟の生命には、金文字で永遠に刻まれている。
 実は、今でも報道されるのは、私の闘争の千分の一、万分の一といってよい。
 誰が見ていなくとも、恩師に誓った広宣流布の大道を切り開いてきた。これが、私の人生だ。
 ともあれ何があろうと、信念の道を堂々と歩み抜くのが、男の誉れである。
 アルゼンチンの民衆詩人エルナンデスは、「厳しい苦難のなかで、私は男になったのだ」とも歌い上げている。
 わが壮年部の友も、同じ心意気と信じてやまない。
 昭和56年3月には、鶴見区の個人会館にお邪魔し、居合わせた女子部の乙女たちと共に、地域の発展と幸福を深く祈念した。
 その2年後の3月には、妻が大阪旭会館で唱題させていただいてもいる。
 「法華経の行者の祈りのかな(叶)はぬ事はあるべからず」(御書1352㌻)と仰せの妙法である。
 一切の戦いは祈りから!
 これが勝利の要諦だ。
 あの、今再びの闘争より30年──。
 私は今、宿縁深き常勝大阪の同志たちに、「もう一つ、新しい常勝関西を築こうではないか!」と呼びかけたいのである。

「誓願」に燃えて

 立ちにけり
  偉大な若き
    指導者は
  大関西を
    断固と舞台に

 「喜びあふれる若人よ来れ」と、イギリスの大詩人ブレイクは呼びかけた。
 私が恩師のもとで戦ったのは19歳から30歳。
 戸田先生の命で、難攻不落の錦州城を築くため、大阪へ、兵庫へ、京都、和歌山、奈良へと走り抜いた。先生が行けなかった滋賀と福井へも、先生の分身として、会長就任前に駆けた。
 大聖人は、「開目抄」において大宣言をなされた。
 「我 日本の柱とならむ我 日本の眼目とならむ我 日本の大船とならむ等とちかいし願やぶるべからず」(御書232㌻)
 開目抄の御執筆は、命にも及ぶ、佐渡流罪の大難の渦中であられた。
 過酷であればあるほど、勝利の誓願を断じて貫き通す。妥協なく徹し抜く。そして、美事なる勝利の実証を打ち立てる。
 ここに、大聖人が示し残してくださった、広宣流布の勝利の極意があるのだ。
 この通りに、戦いが厳しければ厳しいほど、師弟の勝利の誓願を赤々と燃え上がらせ、「“まさか”が実現」の勝利をもぎ取ってきた仏意仏勅の大城こそ、わが大関西なのである。
 関西は民衆の柱である。関西は師弟の眼目である。そして関西は、青年の大船である。
 おお、わが青春の大闘争の故郷であり、常勝の魂を吹き込んだ大関西!
 二府五県が鉄壁に団結した、師弟不二の大関西!
 思えば、不思議にも、この30年の間に生を受けた、奇しき縁の青年たちが、関西中を乱舞し、奔走してくれている。
 常勝・不敗の大関西に、いよいよ気鋭の新世代が躍り出たのだ!
 いかなる険難の峰も、痛快に乗り越えよ!
 どんなに逆巻く波浪も、断固として進み抜け!
 百戦錬磨の壮年部よ、今こそ、正念場を越えゆく模範を示してくれ給え
 朗らかに前進また前進の婦人部の皆様、「いよいよ」の本領発揮を!
 わが直系の男子部、女子部、学生部の青年たちよ、突破力が最大の武器だ!
 常勝の使命と責任を帯びた人関西よ、勝って、勝って、勝ちまくれ!
 「常勝」とは、師弟不二の宝冠なのである。

 偉人なる
  常勝の城
    厳然と
  そびゆる嬉しさ
     関西万歳


 山上宗二の話は桑田忠親著『千利休』(中央公論社)、中島大水道は川端直正編『東淀川区史』(東淀川区創設30周年記念事業委員会)などを参照。ホセ・エルナンデスの言葉は『マルティン・フィエロ』(サレジオ会)=スペイン語版。シーザーの言葉及び事績は『ガリア戦記』國原吉之助訳(講談社)、『内乱記』國原吉之助訳(同)、長谷川博隆著『カエサル』(同)。ブレイクは『ブレイク詩集』土居光知訳(平凡社)。
2009-08-15 : 随筆 人間世紀の光 :
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御書と師弟 三世の勝利劇㊤㊦

池田名誉会長講義 御書と師弟 
              (2009.8.13/14付 聖教新聞)

第22/23回 三世の勝利劇㊤㊦

師弟の宿縁は永遠なり

御聖訓
 「過去の宿縁追い来って
 今度《こんど》日蓮が弟子と成り給うか
 釈迦多宝こそ御存知候らめ
 「在在諸仏土常与師倶生」
 よも虚事候はじ
       (生死一大事血脈抄、御書1338㌻)

 はじめに、このたびの台風九号で被災された兵庫、岡山、香川、徳島はじめ各地の皆様、また地震に遭われた静岡の皆様方に、心よりお見舞いを申し上げます。
 さらに、毎日毎日、真心をこめて聖教新聞を配達してくださる「無冠の友」の皆様方に、あらためて深く感謝申し上げます。尊き皆様の絶対無事故とご健康を、日々、真剣に祈っております。

恩師と出会い62年
 仏法の師弟は永遠不滅です。私は「月月・日日に」、恩師・戸田城聖先生と前進しています。
 師弟は一体です。同じ目的に向かって、同じ責任をもって、同じ戦いをしていくのです。
 毎朝、私は胸中の先生にご挨拶し、「きょうも一日、弟子は戦います! 勝ちます!」とお誓い申し上げて出発する。不二の一念で、全国、全世界の広布の指揮を執り、夜には一日の勇戦の結果を先生にご報告申し上げる。その連戦が私の毎日であります。
 恩師と出会って62年。行住坐臥、私は常に先生と一緒で戦い抜いてきました。恩師は、私の血潮の中に厳然と生き続けておられます。今世も一緒であり、三世にわたって一緒です。
 戸田先生と初めてお会いしたのは、東京・大田区の座談会です。昭和22年(1947年)の8月14日、木曜日の夜でした。先生は47歳、私は19歳。私は、先生に質問申し上げた。
 「先生、正しい人生とは、いったい、どういう人生をいうのでしょうか」
 先生は私の目をじっと見つめ、答えてくださいました。
 人間の長い一生には、いろいろな難問題が起きてくる。人間、生きるためには、生死の問題を、どう解決したらいいか──これだ。これが正しく解決されなければ、真の正しい人生はない」
 「生死」という人類の根本問題を解決するには、仏法の信仰しかない。この大確信を先生は、名もない一青年に諄々と語ってくださったのです。
 この出会いから、私の師弟不二の闘争は始まりました。私が戸田先生にお仕え申し上げたのは十年余。しかし、この10年で、100年にも、1000年にも匹敵する薫陶を受け切ったと自負しています。

最蓮房への御金言
 今回拝する「生死一大事血脈抄」の御聖訓は、師弟という仏法の真髄を明かされています。
 「過去の宿縁追い来って今度日蓮が弟子と成り給うか・釈迦多宝こそ御存知候らめ、『在在諸仏土常与師倶生』よも虚事候はじ」(御書1338㌻)
 ──あなた(最蓮房)は、過去の宿縁に運ばれ、今世で日蓮の弟子となられたのでしょうか。釈迦仏・多宝如来の二仏こそがご存じでありましょう。法華経化城喩品の「在在諸仏土常与師倶生」の経文は、よもや嘘とは思われません──。
 本抄は文永9年(1272年)の2月11日、大聖人が流罪の地・佐渡で、門下の最蓮房に与えられた法門書です。
 最蓮房は、天台宗の学究ですが、何らかの理由で佐渡に流罪された人物とされます。大聖人の法門と御人格にふれて、帰依しました。
 教学の素養を具えた知性派であり、しかも熱い求道の心に燃えた門下でありました。この「生死一大事血脈抄」や「諸法実相抄」など、仏法の極理を明かされた重要な御書を、数多く賜っています。
 流罪の地・佐渡で出会い、共に大難にあいながら、弟子の道を貫く覚悟をもった門下。まさに不思議なる縁の師弟であります。
 その最蓮房を、大聖人は最大に讃え、「在在諸仏土常与師倶生」の経文を示されたのです。
 これは、法華経化城喩品第7の文で、「在在《いたるところ》の諸仏の土に 常に師と倶《とも》に生ず」(法華経317㌻)と読みます。
 あらゆる仏の国土に、師と弟子が常に倶に生まれ、仏法を行ずる。すなわち、師弟の因縁は今世だけでなく、永遠にわたることを明確に示しています。
 法華経の最大のテーマは、「師弟不二」にあるといっても過言ではありません。
 弟子たちを、いかに自身と同じ不二の仏の境涯に高めるか。また、そうなれる力があることを、どう弟子たちに悟らせるか。ここに、師・釈尊の深い慈悲と智慧があったのです。

仏の「三周の説法」
 法華経では、そのために、弟子である声聞たちの機根に合わせて、①法理②譬喩③因縁という三つの視点から「師弟不二」の教えが説かれております。
 声聞・縁覚の境涯でとどまってはいけない。皆、師匠と同じ仏菩薩の境涯を得られるのだ。この「師弟不二」の成仏の教えを三度にわたって周《めぐ》り説いたので、これを「三周《さんしゅう》の説法」と呼びます。
 師匠は、弟子が生命の勝利を勝ち得るまで、繰り返し、粘り強く指導を続けるのです。
 「在在諸仏土常与師倶生」の文は、この三番目の説法(因縁周)で語られます。
 すなわち、仏と衆生の「因縁(原因とかかわり、いわれ)」は今世だけではない。過去世の修行時代から長遠の間、続いてきたことを説いているのです。
 ──三千塵点劫もの昔、私(釈尊)は大通智勝仏という仏の16番目の王子として活躍していた。仏と同じく法華経の教えを弘め、民衆を救ってきた。今、私の教えを聞いているあなた方は、遠い過去に王子であった私と因縁を結んできたのです──と。そこで明かされるのが、この「在在諸仏土常与師倶生」の教えです。
 師弟の宿縁は永遠なり!
 釈尊の説法を聞いた弟子たちは心から驚嘆し、そして随喜した。「師弟不二」という深遠《じんのん》なる境地を、法理でも譬喩でもなく因縁を説かれることによって生命の底から実感し、信ずることができたのです。
 最蓮房も、当然、この経文のことを知ってはいたでしょう。しかし、それをわが生命に即して深く会得するためには、偉大なる師匠との全人格的な交流が必要だったのです。
 経文に、よもや嘘があるはずはない──。この仰せに、最蓮房は大聖人との深き宿縁を確信したに違いありません。
 如来の金言は絶対です。ところが、凡夫の浅い境涯では、その境地をなかなか信じることができない。時には遠いお伽話のように感じることもあるかも知れない。
 しかし、法を体現した師匠の広大無辺な境涯にふれるならば、生き生きと実感し、如実に体得していけるのです。
 師の慈悲は、弟子が思っているよりも、遥かに深く大きい。弟子の小さな境涯のカラを打ち破り、より高みへと引き上げてくださる存在が、師匠なのであります。

仏法は庶民が主役
 釈尊の教えを聞いた弟子の大多数は、仏との深い「因縁」を聞いて発心した人々でありました。師匠の人格、師匠の慈悲、師匠の境涯を命で感じ取り、心から尊敬して、師の教え通り、ひたぶるに実践する人こそが、直系の門下といえる。
 最優秀の最蓮房でさえ、机上の学問で得た「理」を突き抜けて、師匠の大境涯から発せられた法門への「信」によって、仏法の極意を会得していった。
 仏法は、どこまでも「以信代慧」(信を以って慧に代える)です。肩書や学歴などは、信心とは関係ない。仏の金言を強盛に信じ抜く力(信力)、行じ抜く力(行力)によって、人生の勝負も幸不幸も決まるのです。
 日蓮大聖人の仏法は、一部のエリートのためのものではありません。どこまでも、無名にして勇敢なる庶民が主役である。
 戸田先生は「創価学会の大地は、全民衆から盛り上がる力に満ちている」と宣言されました。
 真剣に信心に励み、広布へ戦う真面目な民衆を見下したり苦しめたりする者は、大謗法である。仏罰は厳しい。
 戸田先生は今回の御文を講義され、教えてくださいました。
 「師匠と弟子というものは必ず一緒に生まれるという。この大聖人様の御言葉から拝すれば、実に皆さんに対して、私はありがたいと思う。約束があって、お互いに生まれてきたのです」
 これこそ師弟の「約束」です。

師とともに勝つ!
 戸田先生は、戦後、学会再建の第一歩の座談会でも、この「在在諸仏土常与師倶生」の経文を踏まえて、殉教の師・牧口先生と共に、三世永遠に戦うご決意を、烈々と師子吼されました。
 大聖人は最蓮房に「我等無始より已来《このかた》師弟の契約有りけるか」(御書1342㌻)等、たびたび「契約」という表現を用いられています。
 世法の次元においても「契約」という言葉には重みがあります。いわんや、仏法上の「契約」です。それは、絶対に違《たが》えない仏の約束ということです。
 しかも、仏法の「師弟の契約」は、今世限りの関係ではありません。
 師と弟子が、ともに大難を受けながら、命をかけて仏国土の建設のため、人類の宿命転換のために戦う。その実像の中に、過去から未来へと続く久遠の生命の栄光が、凝結しているのです。
 広宣流布という無上の使命を抱いて、我らは「勝つため」に生まれた! そして「師とともに」戦い勝つ! これが師弟の約束です。誓願であります。
 「在在諸仏土常与師倶生」とは、三世永遠にわたる師弟不二の広布大願のドラマにほかなりません。

三世の勝利劇

未来へ! 偉大な共戦譜を
「平和」とは不惜の大闘争


 「きょうはすごい功徳を話すことにする」── ある時、戸田先生は切り出されました。
 「我々はこの世に生命を受けて生きているが、決して今世だけの生命ではない。過去、現在、来世にわたって、三世に仏の大生命を体得するのである」
 我ら凡夫が三世にわたって常楽我浄の幸福境涯を会得できる。そのための信心であり、師弟の道なのであります。
 きょう8月14日は、昭和27年(1952年)、私が愛する関西への第一歩を印した日であります。
 縁深き大関西、そして東京、神奈川の友をはじめ、全国の同志は今、大聖人の仰せのままに「立正安国」の対話を広げ、「広宣流布」の拡大に挑戦してくださっている。その尊き同志の健康・長寿とご多幸、そして栄光勝利を、私は祈りに祈っています。生命の次元で、私と皆様は永遠に一体不二であります。
 また、お盆に当たり、私は亡くなられた全同志の方々に、追善回向のお題目を送らせていただいております。
 仏法の三世の生命観に照らすならば、広布の途上に逝いた同志も「寂光の往生を遂げ須臾の間に」(御書574㌻)と仰せの如く、元初の生命力を漲らせて、すぐに妙法流布の陣列に戻って来られることは絶対に間違いありません。
 広宣流布のため、信心の上での苦労は、未来永遠の自身の大勝利と、一家一族の大福運に直結しています。

「君の師匠は僕だ」
 それは、昭和25年(1950年)の8月の24日。私の入信3周年の日でした。戸田
先生の事業が破綻をきたし、先生は一切の責任を担われ、学会の理事長職を辞任することを発表されたのです。
 しかし、理事長が誰になろうとも、私の師匠は戸田先生以外におられませんでした。
 「先生! 私の師匠は……」。こう申し上げる私に、先生は「苦労ばかりかけるけれども、君の師匠は僕だよ」と、涙を浮かべて応えてくださいました。
 この一言に勇気百倍して、私はますます畏れなく、師をお護りする戦いに打って出たのです。胸を患い、痩せ細っていた体から、鋼の如き一念で師子奮迅之力を湧き立たせました。そして先生を、学会を、阿修羅の如く護り抜いたのです。
 当時、私は日記に綴りました。
 「私は再び、次の建設に、先生と共に進む。唯これだけだ。前へ、前へ、永遠に前へ」
 「歓喜で働ける日、苦しみながら戦う日、様々だ。だが、これ程、真剣に戦えば、絶対に悔いはない。倒れても、誰人も見ていなくとも。御本尊様のみ、すべてを解決して下さる」
 その絶対の誠心を一首の和歌に託し、先生に捧げました。

 古の
  奇しき縁に
    仕えしを
  人は変れど
    われは変らじ

 恩師の不二の分身として、私は戦いました。そして勝って、師の正義と真実を、満天下に示してきたのです。

終戦の日に寄せて
 あす8月15日は、64回目の終戦記念日です。私は妻と共に、戦争で亡くなられた日本、アジア、そして全世界のすべての方々のご冥福を心より祈っております。
 終戦2年目の夏、国が亡んだ日本で、19歳の私は、戸田先生にお会いしました。
 師と弟子は、広宣流布という人類未聞の“無血革命”“平和闘争”に、敢然と立ち上がりました。
 そして今日、創価の平和・文化・教育の大河は、世界192力国・地域に燦然と広がっています。
 「古の奇しき縁」に目覚めた弟子は、あらゆる迫害の烈風を乗り越え、全同志と共に、この地球上に平和と人道の大潮流を創り起こしたのです。
 創価大学でも教鞭を執られた経済学者の故・大熊信行博士は、戦後日本の民主主義・平和主義のあるべき姿について、警鐘をこめて鋭く論じておられました。
 日本と世界に永続的な平和を建設するためには、「死をおそれぬ平和主義者の出現を必要とするように思われる」
 「人類を破滅からすくうためには、そのために命をささげて悔いない覚悟が、だれかれの胸中に生まれてくることが必要である」と。
 「平和」とは、観念の遊戯ではない。また、保身や宣伝のための掛け声でもありません。
 「不惜身命」の精神で、民衆の幸福のため、自らは犠牲となって戦う覚悟なくして、真の平和社会は創り出せません。
 指導者自身がいかなる哲学を持つか。その生命観・生死観・民衆観が、浅薄であれば、どんなに美辞麗句を並べても、社会を誤った方向へ向かわせてしまう。それが歴史の教訓です。
 小説『人間革命』の冒頭に、私は綴りました。
 「戦争ほど、残酷なものはない。戦争ほど、悲惨なものはない」。そして「愚かな指導者たちに、ひきいられた国民もまた、まことにあわれである」と。
 三世永遠の甚深の生命観に立脚した仏法こそ、21世紀の人類を平和ヘリードしゆく最高の指導理念であります。
 初代・牧口先生、2代・戸田先生の師弟は、軍部権力の弾圧で投獄されました。牧口先生は獄中で殉教であります。お二人の命を継いだ私も、無実の罪で獄中闘争・法廷闘争に挑みました。そして巌窟王の決心で、厳然と打ち勝ってきたのです。
 戸田先生は、最も苦境の中で、私に言われました。
 「大作、私のこの世に生まれた使命は、また君の使命なんだ。私と君とが使命に生きるならば、きっと大聖人の御遺命も達成する時が来るだろう」
 今度は、わが宿縁深き青年たちが、この三代の「師弟不二」にして「生死不二」の平和闘争を断固として受け継ぎ、人類の悲願を実現してくれることを、私は固く信じています。
 8月14日は「伸一会の日」でもある。後継の伸一たちよ、不二の弟子と立て! 絶対勝利の将の将たれ! これが「師弟の契約」です。
 私の友人である、モスクワ大学のサドーヴニチィ総長が語ってくださいました。
 「私は、三代にわたって大きく展開されてきた”創価の理念”が、地球上の多くの人々の心の中へと広がり、万年にわたって輝き続けることを念願しています」

「当《まさ》に前進《すす》むべし」
 さあ、平和の仏国土を建設しゆく我らの聖業は、いよいよこれからが本番であります。
 法華経で「在在諸仏土常与師倶生」と説いた釈尊は、弟子たちに呼びかけました。
 「汝等《なんだち》は当に前進むべし」
 「当に大精進を発《おこ》すべし」
 前進せよ! 大いに精進せよ! その人こそが「師弟不二」である。これが仏の遺命です。
 非暴力の英雄ガンジーの高弟バジャージは叫んでいる。
 「私は、幸せである。恐れなど、何もない。私にあるのは、ただ一つの願いだけである。それは、師とともに戦うという、この至福の喜びを楽しむことだ」と。
 戦おう! 私と一緒に勝ち進もう! 全員が19歳の青年の心意気で、“創価の師弟ここにあり”と、未来永遠に痛快な勝利劇を綴りゆこうではないか!

 新世紀
  胸張り進まむ
   師弟不二
  断固と勝ち抜き
    歴史ぞ残さむ
2009-08-13 : 御書と師弟 :
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新 あの日あの時 9

新 あの日あの時 9     (2009.8.11付 聖教新聞)

池田先生と東海

天下を決する東海勢

大阪事件と名古屋
 「どうも地検の様子が、おかしいんですわ」
 関西の幹部が、大阪から息せき切って、名古屋にいる青年部の池田大作室長のもとへ駆け付けた。1957年(昭和32年)5月11日。弁護士も一緒である。
 直前の4月。参院大阪補選で、学会推薦候補が苦杯をなめた。これを機に、大阪地検は池田室長に魔手を伸ばしていた。
 「虎視眈々」と、室長を狙っとるんですわ」
 確かな筋の情報だった。
 室長は、うなずいたまま、顔色ひとつ変えない。
 ただ、戸田城聖第2代会長が4月末に倒れたことが気がかりだった。
 初めて本部幹部会を欠席した恩師。思わしくない体調のなか、室長の地方指導を心配していた。
 「戸田先生にご心配をかけることはできない」
 午後から降り始めた雨は、次第に雨脚を強めていた。
 名古屋駅前の「松岡旅館」で事件の対応を協議した。話し合いは翌日にも及んだが、
弁護士の口から出るのは悲観論ばかりである。
 「どんな展開になろうと、私は必ず勝ってみせる!」
 その場にいた木村四郎は、室長の烈々たる気迫に圧倒された。権力との闘争は、名古屋から開始された。
 協議は13日未明まで続き、午前2時過ぎの急行列車「月光」で帰京する。

浜松、沼津の思い出
 「大阪事件」。香峯子夫人は当時、陰で支えてくれた人たちへの感謝を、今でも忘れない。
 静岡の学会員たちの志を、先日も述懐している。
 それは、室長が大阪拘置所から出獄し、夫人と帰京する7月19日のことである。
 「池田先生が、お元気で帰られるぞ」。文京支部の関係者から聞いた木村松江(同支部沼津班)は、居ても立ってもいられない。
 浜松駅で待ちかまえ、室長夫妻の車両を見つけ、乗りこんできた。
 昼前後の列車なので、当時の時刻表によれば、急行「雲仙」か、特急「つばめ」ということになる。
 唐草模様の風呂敷包みを胸元にかかえ、木村松江はボックス席まで入ってきた。その結び目を解くと、ほのかに甘い香りがした。
 木箱の中に25個の桃が並んでいる。
 暑い季節に牢に入っていた室長。せめて甘み豊かな果実で疲れを癒やしてもらいたかった。
 木村松江は沼津駅まで同乗した。同駅で降りようとすると、ホームが賑やかである。
 やはり知らせを聞いた沼津班の会員が、40人ほど集まっていた。
 班長の望月剛たちである。
 室長と香峯子夫人が、列車の窓を大きく持ち上げ、全開にした。
 後ろから人波をかき分けるようにして、腕を伸ばす者もいた。室長は身を乗り出し、ひとりひとりの手を握った。
 いかなる嵐も、室長夫妻と東海の会員の間を引き裂くことはできなかった。

家康のふるさと
 愛知県の岡崎。徳川家康が幼名・竹千代として出生した地である。
 名誉会長は1986年(昭和61年)6月27日、名古屋から名鉄電車に乗って、三河方面へ向かった。
 藤棚で知られる岡崎公園で、茶店を営む学会の婦人部員を見つけた。「おばあちゃん、いい顔しているね」。88歳。励ましの言葉を贈った。
 「春夏秋冬 いつまでもお達者で」
 岡崎公園の藤棚は、毎年5月3日を前に咲き誇る。岡崎の会員も、この日を目指して前進している。
 三河文化会館(当時)の庭に、スイカが用意されていた。
 名誉会長が自ら包丁を取って、サクサク切り分ける。地元メンバーがおいしそうにかぶりつく。
 支部結成25周年の勤行会。
 「家康公ゆかりの岡崎城を仰ぎながら、もう一歩深く、愛知の広布を思索したいと考えていた。それが実現でき、本当にうれしい」
 岡崎の同志の名を次々に紹介し、共戦の思い出を語っていった。
 会合が終わり、題目を三唱。会場には、幼子を連れた多くの母たちが駆けつけていた。その時である。
 「先生!」
 呼び掛ける子どもたちのもとへ、名誉会長が歩みを運ぶ。姿勢を正すと「はじめまして。創価学会の池田です」。
 子どもたちに対して深々と腰を折った。丁寧に握手を交わす。
 “創価の竹千代たちよ、未来の大将軍と育て!”
 そんな思いが母たちの胸に伝わった。この岡崎から創価大学・学園への人材の流れが生まれていく。
 翌日も名鉄電車で、東海市の知多文化会館へ。
 「愛知は、信長、秀吉、家康という歴史上の三大英雄を輩出した地だ。重大な意義と力を秘めた国土世間です」
 東海の人材群に期待した。

富士宮焼きそば
 静岡県富士宮市の学会員、米内《よない》勝子は、大衆的な食堂を開いてきた。
 「焼きそば よない」。40年ほど前にオープンしたが、当初は赤字続き。そんな店を応援してくれたのが、名誉会長である。
 差し入れにするため、幾度も店の品々を買い求めてくれた。ふだん忙しくて遊んでやれない長男に話しかけ、相撲の相手までしてくれた日もあった。
 彼は創価学園に進む。卒業式の謝恩会で、名誉会長は言った。
 「お母さんを連れておいで」
 テーブルに呼ばれた米内は、店を繁盛させ、地域に根を張っていく決意を述べた。
 しかし、90年代に入り、学会の登山会が終わると、富士宮市内も客足が遠のいた。米内は閉店も考えたが、そこで踏みとどまる。
 名誉会長に応援してもらった焼きそば店である。学会の旗を降ろしたくない。ダシと水にこだわった伝統の味で勝負したかった。
 「富士宮焼きそば」が一大ブームを巻き起こしていくのは、その数年後である。
 昔ながらの店構えで、背伸びしないでやってきたが、その雰囲気が、折からのB級グルメブームにマッチした。
 「よない」は一躍、名物店になった。

トンボの楽園
 浜松市の飯山徳明《のりあき》・博代《ひろよ》夫妻は、なかなか子宝に恵まれなかった。
 結婚13年目、待望のわが子を身ごもった。しかし妊娠8カ月で、心音が消えた。
 半年後の1977年(昭和52年)6月、浜松平和会館が誕生し、名誉会長を迎えた。個人会館をしている飯山宅にも立ち寄ってくれた。
 まんじゅうを一緒にほおばりながら、博代は子どもを亡くした話を切々と語った。
 名誉会長は心のひだに染みいるように語ってくれた。
 「大勢の同志をはじめ、出会った人たちを、自分の子どもと思って大切にしていくことだよ」
        ◇
 浜松市に隣接する磐田市。
 桶ケ谷《おけがや》沼は珍しいベッコウトンボなどが、すいすい空を泳ぐ。“トンボの楽園”として知られていた。
 しかし、その生態系にも危機が及び、なかなか保護運動も進まない。
 思いがけないきっかけが訪れる。桶ケ谷沼の美しい自然を知った名誉会長が、ふと口にした。
 「一度、そこに行ってみたい。写真に握りたいものだ」
 1985年(昭和60年)のことである。
 それを伝え聞いたのが、浜松の飯山徳明たちだった。
 広く地元地域に呼び掛け、学会が沼の保護に立ち上がった。住民と一体になった保護運動が巻き起こる。壮年・婦人部は「トンボ合唱団」を結成したほどである。
 保護運動は大きなうねりとなり、91年、県の自然環境保全地域に指定された。
 2001年1月に、磐田市で「自然との対話」写真展が開幕。
 会場で、鈴木望市長(当時)は語った。
 「池田先生に、いつ来ていただいてもいいように、この沼を守ります」
        ◇
 三重県の四日市。
 四大公害病のひとつ、四日市ぜんそくに悩まされた地に、名誉会長が足を運んだのは、1964年(昭和39年)12月である。
 公害病に認定される前年だった。煤煙だらけの街である。正直なところ、心からの郷土愛など持てない。これが本音だった。
 しかし、四日市会館(当時)で名誉会長は語った。窓の外には、コンビナートの煙突が炎を吹いていた。
 「信心があるじゃないか。私たちの信心で、素晴らしい街にしていくんだ」
 後日、代表に根本の指針を打ち込んだ。
 「法華経に勝る兵法なし」
 国土の宿命を変えるのも、すべて信心の戦いである!

天下分け目の戦い
 1969年(昭和44年)11月、岐阜羽島《はしま》の駅を降りた名誉会長は、関ケ原の古戦場を視察した。
 合戦跡を見つめ、東西の布陣の説明に耳をかたむける。天下分け目の決戦。勝敗を決めるのは何か。
 「布陣は西軍のほうがいい。しかし、団結がなかった。結局は攻め込んでいったほうが強い」
 攻め込んだのは三河武士。東海一の最強を誇った。東海が勝ったから家康は天下を制した。
 全軍の勝利を決する先陣に立つ。
 東海勢の使命である。
2009-08-13 : 新 あの日あの時 :
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忘れ得ぬあの瞬間 第8回

忘れ得ぬあの瞬間
名誉会長と共に80周年へ
  (2009.8.10付 聖教新聞)

第8回 初の男子部幹部会

嵐の中を諸君とともに

 青年たちの燃えるような瞳が、壇上を見つめていた。会場の熱気を一身に集めて、池田第3代会長が勢いよく登壇した。
 昭和35年(1960年)5月10日。学会本部に近い千駄ケ谷の東京体育館。会長就任後、初の男子部幹部会である。
 池田会長は冒頭、「諸君とともに」という言葉を、4度、繰り返している。
 「最後まで諸君とともに戦い、諸君とともに苦しみ、諸君とともに喜び、諸君とともに悩み、そして護法のために一生を過ごしたい心でいっぱいでございます」
 諸君とともに──この一言に、若き池田会長は万感を込めた。
        ◇
 9年前(昭和26年)の7月11日、男子部結成の日は豪雨だった。180人ほどが戸田第2代会長のもとに集まった。戸田会長は、次のように語った。
 「きょう、ここに集まられた諸君の中から、必ずや次の創価学会会長が現れるであろう」
 「その方に、心からお祝いを申し上げておきたい」
 月日は巡る。
 恩師亡き後の学会を、池田第3代会長が背負って立った。
 かつて200人足らずで出発した男子部。この日、参加者は2万を超えたと当時の本紙は報じている。
 不思議にも、再び雨の中の出陣となった。
 池田会長は「開目抄」の一節を引いて語った。
 ──男子青年部が「詮ずるところは天もすて給え諸難にもあえ身命を期とせん」(御書232㌻)の心で、日本の柱となり、眼目となり、大船とならねばならない宿命に立ったことを自覚していただきたい──
 ──狭い日本だけにとらわれず、広く世界に雄飛せよ!──
 学会は嵐の中を進む、民衆の希望の船だ。その険しい旅路の象徴が、きょうの雨じゃないか。
 さあ、俺たちが全軍の先頭に立つぞ! 池田先生とともに! そう心に定め、折伏に走った。個人指導に歩いた。
 敢えて雨の中を征こう。
 障魔の嵐を突き抜けろ!
 そこにのみ、学会の活路は開かれる。師弟の正義が輝く。
 これこそ結成以来、学会男子部が誇りとしてきた魂である。
        ◇
 学会伝統の「破折」についても、この日、明快な指針が打ち出された。
 民衆を欺き、不幸に突き落とす動きを、断じて許してはならない。これが日蓮大聖人直結の、私たちの変わらざる信条である。
 「必ず三障四魔と申す障いできたれば賢者はよろこび愚者は退く」(御書109㌻)
 「いよいよ・はりあげてせむべし」(同1090㌻)
 学会は、仏敵と戦う“賢者の団体”である。だから発展したのだ。
 破折とは、一方的な強弁ではない。ましてや人を軽蔑する暴言であってはならない。それらとは真逆の、「大誠実の闘争」であることを、池田会長は丁寧に訴えた。
 「もっとも効果的な、もっとも価値的な方法は、座談会です」「これが大事な民主主義の縮図でもある」等と強調。正々堂々と、「一対一」の対話を最重視する方針を確認した。
 男子部よ、「敵を恐れおののかせゆく師子王の心」を持て! しかしその態度は「真摯に」「あくまでも礼儀正しく」。
 そして、勇んで最前線の「支部に入れ」「地区に入れ」とも語った。
 いつの時代も、青年部が広宣流布の全責任を担い立つのだ──この日、火蓋は切られた。
 未曾有の前進が始まったのである。
2009-08-13 : 忘れ得ぬあの瞬間 :
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池田名誉会長の人物紀行 第7回

池田名誉会長の人物紀行 「歴史の巨人」と語る
             (2009.8.9付 聖教新聞)

第7回 韓国のジャンヌ・ダルク 柳寛順《ユ グワン スン》

乙女よ立ち上がる時は今!

 「救国の乙女が
 平和と幸福の礎
 勝利の果実を我らに
 もたらした」(森田稔訳)
 ロシアの作曲家チャイコフスキーの傑作オペラ「オルレアンの少女(ジャンヌ・ダルク)」の一節である。
 この世に、正義の信念に生き抜く乙女の声ほど、強く、尊く、美しいものはない。
 15世紀のフランスには、ジャンヌ・ダルクが登場した。20世紀の韓国には、柳寛順が躍り出た。時代の光明は、尊き使命に舞いゆく乙女の生命から発する。そして今、創価の華陽の乙女たちが、人類から仰がれ讃えられゆく平和と正義のスクラムを広げている。
        ◇
 その乙女の像は、今まさに行進せんとする姿に見えた。
 ソウルの奨忠壇《チャンチュンダン》公園の一角。優美なチマ・チョゴリを纏い、大きな松明を掲げて、足を踏み出している。何と誇りと勇気に燃えた顔《かんばせ》か!
 「韓国のジャンヌ・ダルク」柳寛順の瞳は、澄み渡ったソウルの天空のもと、彼方の未来を見つめていた。
 1990年の9月22日、ソウル・湖巌《ホアム》ギャラリーで、東京富士美術館所蔵の「西洋絵画名品展」が盛大に開幕した。韓国で初となる本格的な西洋美術展である。
 その前日、同館の創立者として、私は少年の日より憧れの韓国に遂に第一歩を印した。文化大恩の国へ、芸術交流を通して、せめてもの報恩の道を開くことができ、万感胸に迫る思いであった。
 開幕式の後、夕刻には帰国という過密な日程。その中、たまたま宿泊先近くの公園で巡り合ったのが、この柳寛順の銅像だったのである。
       ◇
 韓国の小学校では、彼女の讃歌が歌い継がれてきた。
♪やよいの空を仰ぎ見て
 ユガンスン姉《ねえ》さん思い出す
 牢の中でもマンセ《万歳》さけび
 青空も見ず なくなった
   …… ……
 今もあの声きこえそう
 青空見上げ 呼んでみる
           (姜小泉作詞、仲村修訳)
 愛する祖国が最も苦難の嵐に晒されていた時に、命を賭して立ち上がった乙女。その恐れなき音声は、人々の心に深く響き続けているのだ。
 柳寛順は1902年(別説あり)、忠清南道《チュンチョムナムド》の天安《チョナン》郡に生まれた。3人の男兄弟と共に、兎を追い、栗拾いや茸採りをして、野山を駆け回る活発な少女だったようだ。
 母・李少悌《イソジェ》は、近所の貧しい家と食べ物を分かち合う慈愛の女性であった。寛順も母の差し入れを携えて、使いに行くのを誇らしく思ったという。母から「思いやりの心」を受け継いだ寛順は近所の幼い子らの面倒をよく見る、心優しい乙女でもあった。
 1910年、日本は恩義を踏みにじり韓国を併合する。それ以前から、悪逆非道な支配が、寛順の一家にも影を落としていた。
 父・柳重権《ユジュングォン》は、志が高く、勇気ある教育者だった。地域の有志と独立を目指し、「民衆の啓発」に尽くした。「教育こそ祖国独立の基盤」との信条で、私財を抛って、興湖《フンホ》学校を創設したのである。
 しかし、経営に行き詰まってしまった。日本人のあくどい高利貸しから借金をし、むごい取り立ての拷問に遭った父は、自らが運営から身を引くことによって、学校を守った。
 この不撓不屈なる父の「信念の炎」は、愛娘・寛順の命に烈々と燃え盛っていった。
        ◇
 1916年、14歳になった彼女は、故郷の天安を離れ、ソウルの梨花《イファ》学堂(現・梨花女子大学の前身)の学寮に入った。彼女の村を訪れたアメリカの女性宣教師が、才能を見抜き、その推薦で給費生となったのである。多くの善意に支えられての学校生活に深く感謝し、報恩の心で真剣に学び、努力する寛順であった。
 人の嫌がる仕事も自ら引き受け、皆から慕われる太陽のような存在と光っていった。
 私には、親元を離れて寮や下宿で鍛えながら学ぶ、創価学園生や創大・短大生、アメリカ創大生、そして尊き留学生の友らの姿重なり合う。

最後の一人まで
 時代は大きく動いていた。1919年2月8日、東京から独立運動の火の手が挙がった。これを契機に3月1日、ソウルで「独立万歳!」を叫ぶ運動が沸き起こった。それは地方ヘー気に拡大した。
 万歳運動は、学生が先駆を切った運動である。と同時に、女性が決然と立ち上がった覚醒運動でもあった。封建制度の殻に閉ざされていた女性たちが、太極旗(韓国の国旗)を作り、次々と身を投じていったのだ。
 「万歳」──それは、理不尽に蹂躙された祖国を断固と護り、人間の尊厳を示す命懸の魂の勝鬨であった。
 学校が休校となり、寛順は天安に帰省した。陰険なる官憲の監視を前に、故郷の人々は、いまだ息を潜めていた。
 わが故郷も、敢然と立ち上がる時が来た!
 寛順は、独立運動を呼びかけるため、地元の有力者など周辺の村々を回り始めた。
 乙女は訴えた。「自由をもてずに生きることは、生きていることになりません」
 使命に燃ゆる寛順の熱誠の訴えに、一人また一人と、村人は奮い立っていった。
 真剣の二字に貫かれた乙女の対話が、心を開き、心を掴み、心を揺り動かしたのだ。彼女は、20日間、数百里を歩き通し、語り抜いた。
 「最後の一人まで!
 最後の一瞬まで!」
 運動の拡大に執念を燃やす寛順のモットーであった。

轟く「万歳!」
 ついに、天安郡で最も大きな市が開かれる並川《ピョンチョン》市場で、決起する運びとなった。
 決行の前夜。寛順は夜更けの暗く険しい山道を登った。翌日の独立運動の蜂起を確認する合図を発信するためだ。
 息を弾ませながら頂上に着き、松明に火を灯す。高々と掲げ、暗闇に目を凝らした。
 すると、四方八方の山々から、次から次へと蜂火が挙がっていった。その紅の光は24力所にも広がったという。
 明けた4月1日の正午、並川市場には数千人の人々が続々と集まってきた。群衆の前に、ひときわ大きな太極旗が打ち立てられた。運動の主宰者が独立宣言文を読み上げたあと、柳寛順が壇上に立ち、演説を始めた。
 「独立万歳の叫びは三千里の村々に欠けることなく伝わっています。我々が脱落していいものでしょうか、みなさん我々も独立をかちとるため万歳を叫びましょう」(姜徳相著『朝鮮独立運動の群像』青木書店)
 話し終えた寛順は、声高らかに「朝鮮《チョソン》万歳!」と叫んだ。すると、仲開か太極旗を掲げて、「万歳!」と呼応した。それを、きっかけに、市場は「万歳!」「万歳!」の連呼が轟き渡っていった。
        ◇
 デモ行進が開始された。大きな太極旗を手に先頭に立つのは、寛順の両親である。
 徹底した非暴力の平和的な行進だった。にもかかわらず、恐怖に駆られた官憲が小銃の引き金を引いた。この銃撃で、寛順の父・柳重権が倒れた。さらに残忍な無差別発砲で、多数の同志が犠牲となった。その中には寛順の母・李少悌もいたのである。
 寛順は目の前で、最も尊敬する正義の父と母を相次いで奪われた。そして自らも、不当に囚われの身となった。

悪を見過ごすな
 牢獄では過酷な拷問が続いた。しかし、いかに脅されようと、彼女は屈しなかった。
 移送の車からも、編み笠を彼らされたまま、群衆に「独立万歳!」と叫び抜いた。
 共に獄に入った同志が溜息をつくと、叱咤した。
 「拷問がつらいといっても、悪逆を黙って見過ごしているよりも、楽なことではないか! 断じて戦おう!」
 一人の乙女が、どれほど強靭にして、崇高な精神闘争を貫き通せるか。あまりに神々しき歴史が、ここにある。
 秋が深まる頃、同じ牢の女性が別の部屋で出産した。赤ん坊を抱いて戻ってきた母親に、寛順は「おしめ」を手渡した。温かい。寛順が自分の体に当てて温めていたのだ。
 彼女は一方的な裁判に臨んでも、祖国への誇りと正義の信条を堂々と言い放った。
 だが残虐な拷問と栄養失調で、体の衰弱は激しかった。寛順は面会の兄に語った。
 「物たりないけれど自分は義務を果したと思う」(『朝鮮独立運動の群像』)
 1920年の10月12日、気高き一生の幕は閉じた。
        ◇
 乙女たちが命を抛って燃え上がらせた「三・一独立運動」の火は、中国の「五・四運動」に運動した。アジア・アフリカ諸国の独立運動にも、その精神の大光は広がった。
 創価の父・牧口常三郎先生と戸田城聖先生が師弟の出会いを結んだのも、この時代であった。全世界の民衆が、自分自身の幸福の万歳を、愛する祖国の繁栄の万歳を、そして人類の平和の万歳を誇らかに叫びゆくためには、生命の尊厳と平等の大哲学が絶対に必要である。両先生は、いまだかつてない壮大な世界市民の連帯を築き始めたのだ。
 日本の軍部権力と戦い抜いた師弟は、韓国そしてアジアヘの思いは格別に深かった。戸田先生が自らの獄中闘争を振り返りつつ、韓国の殉難の乙女たちの話をしてくださったことも忘れられない。その目には涙が光っていた。
 私も、高等部や創価学園生に、折りに触れ語ってきた。
        ◇
 寛順の座右には、ジャンヌ・ダルクの伝記があった。ジャンヌの如く、永遠に光を放つ使命の青春を走り抜くことを固く決意していたのだ。
 今、寛順ゆかりの梨花女子大学でも、創価の女子学生が母校愛を光らせ学んでいる。
 韓国の国花は「無窮花《ムグンファ》」。その名の通り、夏から秋へ窮まることなく咲き誇る花だ。
 韓国でも、日本でも、世界中で、華陽の友が「正義と友情の華の対話」を、朗らかに勇敢に繰り広げている。
 一人ももれなく健康で「幸福勝利の青春万歳を!」と、妻と祈りゆく日日である。



 本文中に明記した以外の主な参考文献=朴殷植著、姜徳相訳『朝鮮独立運動の血史 1・2』平凡社、早乙女勝元編『柳寛順の青い空 韓国で歴史をふりかえる』草の根出版会、柳大河著『柳寛順物語』新幹社、梁東準・太田哲二・全順子著『韓国偉人伝』明石書店、成律子著『朝鮮史の女たち』筑摩書房
2009-08-09 : 人物紀行「歴史の巨人」と語る :
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新 あの日あの時 8

新 あの日あの時 8     (2009.8.8付 聖教新聞)

池田先生と堺総県

新時代はいつも堺から

貴婦人たれ
 大阪府堺市に住む寺田享《きょう》(堺総県東総区総合婦人部長)の一家には、信仰の原点がある。「大阪の戦い」で、母の百合子が班長として奔走した。
 若くして夫を失い、市場で魚の行商をしていた。黒いゴム長靴に、くわえタバコ。男まさりで、強面の仲買人も顔負けである。
 1956年(昭和31年)6月27日。青年部の池田大作室長を迎え、班長会が行われた。男性陣にまじり百合子が最前列に腰を下ろす。
 じっと室長が見つめる。隣にいた者に聞いた。
 「このあたりでは、いくらで水油は買えるかな?」
 「はい……百円ほどです」
 ふたたび百合子の顔を見つめた。レントゲンと呼ばれるほど、ずばり本質を見抜く。
 「あなた、班長だね」
 「はい!」。野太い返事。
 周りの男性に聞かれないよう、そっと、ささやいた。
 「女性は身だしなみが大切だ。百円あるかい?」
 小さくうなずく。
 「すぐに水油を買ってきて、頭につけなさい」
 百合子は鏡をのぞき込んで赤面した。顔は日焼けで真っ黒。頭はクシャクシャ。髪をかき分けると、ところどころに魚の鱗がピカピカと光っている。
 彼女のように苦労してきた女性が、白百合のように輝いてこそ学会は伸びる。
 常々、室長は語ってきた。
 「貴婦人とは、相手がどんなに立場の高い人だろうと、おそれなく堂々と対話できる人です」
 ただ、お化粧してドレスアップすればいいというのではない。
 「もうひとつ、相手がどんな身分や境遇であろうと、なんの偏見もなく、大切にしてあげられる人。それが貴婦人です」
 どうせ魚屋のおばはんや。開き直っていた百合子。それが自分の住む世界を狭くしていた。
 水油をつけた日を境に「女性として、母として尊敬されなければ」と考える。子どもが嫌がっていたタバコとも縁を切った。
 室長のもと大阪中を弘教に走る。山口作戦にも志願した。不思議と行く先々で好感を持たれる女性になった。

教学の試験官
 国鉄・鶴橋駅を降りると、蒸し暑い空気が肌にまとわりつく。堺支部の阪井鶴和《つるかず》は関西本部へ急いだ。
 57年(昭和32年)7月27日。教学試験の口頭試問を翌日に控え、池田室長を中心に役員会があった。
 阪井は伝言をあずかっていた。堺支部の中心者からである。「39度近い熱があるんや。今日は休む。明日の試験官はできへん」。軽い口調だった。
 風邪か、しゃあないな。
 阪井は何の気なしに室長に伝えた。
 雷のような叱咤が飛んだ。
 「明日のことが今から分かるのか。戦わずして病気に負けているではないか!」
 予想もしない答えに凍りついた。
 「教学の試験官は、師匠・戸田先生の名代として参加させていただくのだ。試験官として誇りを持つのが弟子ではないか!」
 一同は静まりかえっている。
 「今日、熱があるから、明日も下がるまい。だから欠席する。それでは戸田先生の名代としての誇りも、喜びも、戦いもない!」
 決して無理をしろというのではない。「大阪の戦い」でも病人は休ませ、睡眠や食事にまで気を配った。
 要は一念である。戦う前から臆病風に吹かれる。負けだと決めこむ。
 かねて周囲からも心配されていた幹部だった。
 「彼は、試験官として失格だ」
 真っ青になっている阪井に指示を与えた。その幹部に電話して、いま話した内容を一言もたがわず伝えなさい。
 阪井は事務室に飛び込んだ。震える手でダイヤルを回す。用件を伝え、すぐ室長のもとに戻った。
 「なぜ君に電話をさせたか、分かるかい。私に直接言われる以上に厳しく受け止めるだろう。おそらく今ごろ、必死に題目をあげている。これで病魔を打ち破ることができる」
 厳愛の真情から出た叱咤である。その幹部が見違えるように成長したのは言うまでもない。

堺の鉄人会
 堺文化会館(現・堺平和会館)の正面に名誉会長を乗せた車が止まった。76年(昭和51年)1月8日の午後2時すぎである。
 前夜から徹夜で準備していた男がいた。堺の本島《もとじま》義明である。
 設営グループ「関西鉄人会」の1期生。高校を出てから、看板屋の父のもとで腕を磨いた。
 立て看板、横断幕、会館の装飾、文化祭のステージ造り……どんな無理な注文にも首を横に振ったことはない。意地がある。プライドがある。
 別に光を浴びなくていい。舞台裏が性に合っている。
 池田先生に設営物を見てもらえればいい。それがオレのすべてだ。
 この日も会館の裏手で、鉄人会の黄色いジャンパーを着て、静かに待機していた。
        ◇
 名誉会長は車から降りると、建物の左手に向かった。あまり人が通らない狭い路地である。
 目立たぬよう、奥で息を殺していた本島。背後に人の気配がした。名誉会長だった。
 「いつも、本当にご苦労さま。ありがとう。一緒に勤行をしよう」。力強い握手。夢のようだった。
 名誉会長は3階の会場へ。本島は遠慮して2階に控えていた。ここが分相応だろう。
 しばらくして役員が険しい形相で降りてきた。
 「すぐに3階にあがってください!」
 会場を見渡した名誉会長が「彼らが、いないじゃないか。なぜ入れないんだ」と呼んだのである。
 本島は鉄人会の仲間と猛ダッシュで駆け上がった。はじめての晴れがましい表舞台である。勤行を終えると、名誉会長が語り出した。
 「将来、堺に1000人ぐらい入る3000坪の会館を造ります」
 本島は度肝を抜かれた。堺文化会館は1000坪ほどである。それが3000坪とは。そんな大プロジェクトに加わってみたいものだ……。
 黄色いジャンパーの集団に名誉会長は目をやった。
 「ここにいるメンバーが、その会館建設の委員です!」
 設立委員会の名簿を見て、男泣きした。堺の大幹部とともに、本島たち鉄人会の名が記されていた。

鬼に勲章!
 観客が固唾をのんで中央の一点を見つめていた。名誉会長がカメラを構えている。
 82年(昭和57年)3月22日、関西青年平和文化祭。
 満員の長居陸上競技場では、クライマックスの六段円塔が完成しようとしていた。
 最上段の一人が、ゆっくりと立ち上がった。スタンド席がいっせいに「関西魂」の人文字に変わる。どよめくような歓声が沸きあがった。
 99人の力が一つになった六段円塔。頂点に立った青年部員の名は、たちまち関西に広がった。
 名誉会長の視点は違った。
 「一番下の方で支えた人は誰か。陰で誰が戦ってくれたのか。すぐに調べなさい」
        ◇
 本番4日前。
 大阪の体育館で二人の男が腕を組み、厳しい表情で仁王立ちしていた。
 堺男子部の西脇義隆と身野幸一。六段円塔の演技指導者である。不可能を可能にするのだ。鬼軍曹に徹してきた。
 これまで20回以上も挑戦したが、ただの一度も成功していない。きょう失敗したら、きっぱり諦める。
 オール大阪から人選したが、円塔の99人中18人が堺たった。土台に近い、いちばん苦しい急所も支えている。
 堺の誇りにかけて、立たせてみせる! 新時代は堺が開く!
 「いくぞ!」
 下から慎重に積み重なっていく。一段また一段。最下段には2㌧もの重みがかかる。
 最後の一人が頂上へ上り始める。99人の二の腕に太い筋が青く浮き上がった。死んでも離すものか!
 「ウオーツ!」
 立った! 立った!
 すかさず西脇のすさまじい檄が飛んだ。
 「当たり前や! もっと早くできたはずや! 何を喜んどる。当日は風も吹くんやぞ!」
 本番は一発勝負である。
 そこで勝つまでは一瞬たりとも油断しない。いな、させない。
 目が吊り上がっている。
 鬼の形相だった。
        ◇
 文化祭の翌日。
 関西文化会館に西脇と身野が呼ばれた。関西の最高幹部が急ぎ足でやってきた。
 二人に記念のメダルが手渡された。池田名誉会長からだった。
 「鬼に勲章! そう先生は仰っていで!」
 大阪という“巨大な六段円塔”。鬼神のごとく支え続けてきたのは堺である。
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随筆 人間世紀の光 No.196/7

随筆 人間世紀の光 No.196/7  (2009.8.6/7付 聖教新聞)

「師弟共戦」の8月㊤㊦

壁を破れ! ナポレオンの如く


広宣流布は前進また前進
「電光石火の行動」と「異体同心の心」で!


 君もまた
   広宣流布の
    ナポレオン
  断固 前進
    勝ちまくれ

 この8月は、世界史の大英雄ナポレオンの生誕240周年に当たっている。
 「『前進!』──これは、わがナポレオン家の歴史と精神を表す言葉でもあります」
 私が対談を進めるナポレオン家の当主シャルル・ナポレオン公は語られた。
 「人類は、弛みなく前進を続けていかなければなりません。歴史は前に向かってしか進まないのです」
 日々、前進だ!
 日々、決戦だ!
 日々、勝利だ!
 広宣流布に生き抜く我らに停滞はない。
 「進まざるは退転」だ。
 前進してやまぬ生命それ自体が常に勝利者である。
 対談で、私たちは、常勝将軍ナポレオンの強さについても語り合った。
 結論は「スピード」──すなわち「即断即決」 「電光石火」の行動であった。
 ナポレオンいわく。
 「戦術とは時と処とを活用する技術だ」
 「迅速の進行」が「勝利を得る力を増加する」と、確信していたのである。
 時を逃すなI スピードが力だ。勢いで決まる。
 仏法の諸天善神の一つ「韋駄天」は、早く走る象徴として知られる。もともとの呼び名は「スカンダ」である。これは、アレクサンドロス大王(ペルシャ語等でイスカンダル)の名前の転訛とする学説もある。
 古代の人びとが、疾風の如く駆け抜ける若き大王の姿に畏敬の念を抱いたのであろうか。
 ともあれ、ナポレオンが尊敬してやまなかったアレクサンドロス大王の強さも、“決断の勇気”であり“迅速の行動”にあった。
 失った過去は取り戻せない。だが、未来は誰人にも平等にやってくる。

「今」を価値的に
 「未来の果を知らんと欲せば其の現在の因を見よ」(御書231㌻)と「心地観経」は説く。
 今この時を、いかに戦うか。次の瞬間を、いかに動くか。そして今日の一日を、いかに価値的に使うか。その連続闘争の中に、勝利の因がある。
 これが、「法華経の兵法」の鉄則だ。

 恐れるな
   前へ前へ
     悠々と
  そこに必ず
    勝利の旗が

 英雄ナポレオンの光と影には、さまざまな評価がある。それはそれとして、そのリーダーシップからは、時代を超えて学ぶべき、勝利の「将軍学」があろう。
 時は1796年8月──26歳の若きナポレオンが、わずか5日間という「短期決戦」で、圧倒的勝利を収めた戦闘があった。
 「カスティリオーネの戦い」である。
 優秀な部隊を有するオーストリア軍5万人と、ナポレオンの率いる2万5千人のフランス軍が、イタリア北部の町カスティリオーネで対峙したのだ。
 オーストリア軍は、大軍にまかせて勢いづいていた。ナポレオン軍の兵力は半分の劣勢である。加えて相次ぐ戦闘で、肉体的にも疲労の極みにあった。
 だが、決戦に臨むナポレオンの表情は溌剌と輝き、意志は巌の如く揺るがなかった。自ら各部隊を励まし、将兵たちを鼓舞した。ただただ勝利のために一念を定め、目の前にある打てる手を、迅速に的確に打っていったのである。
 8月5日の夜明け。遂に決戦の火ぶたが切って落とされた。
 先手を打ったのはナポレオン軍だ。夜のうちにオーストリア陣営の左翼の背後に進み、暁とともに襲いかかったのである。
 この第一撃に驚き乱れた敵陣に対して、ナポレオン軍は追撃の手を緩めない。
 ナポレオン軍のあまりの勢いに、敵の大軍の士気は一気に下がった。ここに、勝敗は決したのだ。
 この時の攻撃のポイントは大きく二つ挙げられる。
 一つは、攻められる前にスピーディーに攻撃を加える「先手必勝の猛攻撃」。
 そして二つ目は、全軍が一枚岩となって、最後まで戦い抜く「固い団結」だ。
        ◇
 「少軍で大軍に対抗しようとする時は」──ナポレオンは、大軍を相手にする時の心構えを記している。
 それは「迅速に味方を集合し、あたかも雷の如く」突撃することであった。
 要は、いざという時、味方がすぐに一つにまとまることである。機先を制し、先手、また先手で、押し続けるのだ。
 いかなる戦いも「遅滞」「散漫」「後手」では、流れはできない。何よりも。そうした戦いの起点に、逡巡の気持ちがあれば、力を出し切れないものだ。
 ナポレオンは、それを痛烈に訴えた。
 「成功を確信する者は成功する。決して成功の如何を疑うことなく、必ず成功すべしと確信せよ」
 迷うことなく突き進め!
 恐れなく前へ前ヘ!
 そうすれば、結果は必ず、わが方についてくる。
 本当の敗北は、環境や状況に左右され、「勝つ!」と決められない一念の甘さ、弱さにこそある。
 その己心の一凶を破ることが、真の勇者の条件だ。
 ナポレオンの深さは、自軍を知ると同時に、よく敵軍を知っていた点にある。
 「人は自己の艱難を見ることはあっても、敵の困難を見ることができない」と。
 自分の心が臆すると、敵は実像よりも大きく見える。だが必ず勝機はある。最後の最後まで、粘り強く攻め切った方が勝つのだ。
 御聖訓には、「かたきをしらねば・かたきにたぼら(誑)かされ候ぞ」(御書931㌻)と仰せである。
 我らには、妙法という最極の生命の明鏡がある。研ぎ澄まされた信心の眼《まなこ》で、一切の事象を鋭く見極めていくのだ。
 そして、時を逃さず、一気呵成に攻めるのである。不撓不屈で勝ち抜くのだ!
 ナポレオンは力説した。
 「目的を貫徹するのは、ただ堅忍と不撓とによる」

原爆より魂は強し
 ところでナポレオンは、こう語ったという。
 「世界には二つの力しかない、すなわち剣と精神とである」「ついには、剣は常に精神によって打ち破られる」
 この言葉に鋭く反応し「精神」の勝利を叫び抜いたのが、非暴力の闘士マハトマ・ガンジーであった。
 64年前、あの原爆の惨禍を直視しながら、なお「『魂の力』は原子爆弾よりも強い」と、彼の信念は揺るがなかった。
 1993年(平成5年)の8月6日の「広島原爆の日」──私は長野研修道場で、インドの哲学者ラダクリシュナン博士と、このガンジーの信念を語り合った。
 そして、その日、私は、「平和ほど、尊きものはない。平和ほど、幸福なものはない」と、小説『新・人間革命』の冒頭を書き始めた。人類の平和へ、精神の勝利へ、新たなる言論闘争を開始したのである。
 ガンジーの「行動」を、「即戦即決でした」と讃えたのは、共戦の弟子であったネルー初代首相だ。
 平和への戦いも、大事なのは勇気であり、果断であり、スピードである。

わが大阪・夏の陣

 連戦と
  連勝 綴りし
   錦州城
 さらに勝ちゆけ
   常勝 舞いゆけ

 炎暑の8月を迎えるたびに、私は、師と共に“連戦連勝”の金字塔を打ち立てた歴戦を思い出す。
 毎年の「夏季地方指導」である。それは、常に2週間に満たない短期決戦であった。そこに凝結し抜いた勝利勝利の歴史を刻んだ。
 私が常勝関西の大城・大阪に第一歩を印したのも、夏季地方指導であった。
 昭和27年(1952年)の8月14日──師匠・戸田先生と初めてお会いした“師弟の日”から5年後のことである。
 特急「つばめ」が、あの関西の大動脈・淀川の鉄橋を渡りゆく折の命の鼓動が蘇る。いざや前進!と。
 その夜、飛び込んだのは、文化の都・堺の座談会であった。わが同志は躍動し、7人の新来の友が入会を決意したと記憶する。
 私は、先師と恩師の願い通りに、創価教育の学園・大学を創立し、偉大な指導者を育成する構想も、この堺で語った。
 さらに大正区、東淀川区等の集いにも、勇んで参加したことが懐かしい。
 その翌年も、翌々年も、8月に、戸田先生と私は大阪で折伏の波動を広げた。
 師弟して正義の師子吼を放った仏教大講演会で、69人もの方が一度に入会を申し出たこともあった。
 西成区にあった花園旅館などを拠点に、愛する大阪の庶民の街、人間の大地を、金の汗を流して走った歴史は、青春の誉れだ。
 「大坂・夏の陣」で活躍した、奈良出身の有名な剣豪・柳生宗矩は、勝負において「油断」を厳しく戒めた。
 「二重、三重、猶四重、五重も打つべき也」と。
 ともあれ間髪入れずに、徹底して攻め抜く!
 そこに、勝つための極意を定めていたのである。


 ナポレオンの言葉は奈翁会編『奈翁全伝』(隆文館書店)の5・7巻=現代表記に改めた。最後の言葉のみオブリ編『ナポレオン言行録』大塚幸男訳(岩波書店)。ネルーはメンデ著『ネールは主張する』大山聰訳(紀伊國屋書店)。柳生宗矩の言葉は『兵法家伝書』渡辺一郎校注(岩波書店)。

「師弟共戦」の8月

勇敢に「夏の陣」を勝ち抜け!
常勝不敗の「師子王の心」は わが胸に!


 偉大なる
  門下の宝剣
    振り上げて
  師弟不二なる
    法戦 楽しや

 札幌農学校に学んだ思想家・内村鑑三は綴った。
 「臆せず、撓《たゆ》まず、悪と戦い、善と興《おこ》すべきなり」
 「進め、どこまでも進め、前途を危懼せずして進め」
 「明日は今日よりも完全なれ」
 「正義は実《まこと》に誠《まこと》に最終の勝利者である」
 広布史に「札幌・夏の陣」と謳われる夏季闘争が繰り広げられたのは、昭和30年の8月であった。
 私が指揮する札幌班は、10日間で388世帯の弘教を成し遂げた。班としては、前人未到の「日本一」の拡大となった。
 真剣だった。一分一秒が惜しかった。スクーターの後ろに乗っての移動中も、“札幌の同志に勝利を!”と題目を唱え続けた。
 短期決戦は、一日たりとも空費できない。一日一日が珠玉の時間である。一日一日が渾身の勝負だ。
 その一日の勝利は、“朝の勝利”から始まる。
 私は札幌の地で、同志と共に、毎朝、真剣に祈り、御書を拝しながら闘争をスタートした。
 師匠・戸田先生が悠然と北海道に到着されたのは、8月18日──。
 師は、道内の各地で、大確信の仏法対話を広げられた。私は一人、分身として奮闘を重ね、最後に、札幌に師をお迎えした。
 そして、札幌の大勝利はもちろん、北海道全体で、実に1400世帯もの弘教が実ったのである。
 「師弟相違せばなに事も成《なす》べからず」(御書900㌻)──「師弟共戦」に勝るものはない。
 師弟共戦は、いかなる苦境をも勝ち越え、障魔をも打ち砕く。人智では計り知れない力を、信仰者の生命に呼び覚ますのだ。
        ◇
 断固たる
  無敵の信仰
    勇み立ち
  この一生に
    無量の功徳が

 「極楽百年の修行は穢土の一日の功徳に及ばず」(同329㌻)とは報恩抄の一節である。
 苦難の時に、法のため、人のため、世のため、勇敢に戦い抜いた栄光と福徳は無量であり、永遠である。
 戸田先生の膝下で、最後の夏季指導となったのは、昭和32年の荒川の夏季ブロック指導であった。
 あの大阪事件の直後である。私は創価の巌窟王の心を燃え上がらせて臨んだ。わずか1週間で、当時の荒川区内の会員世帯の1割を超える、二百数十世帯の拡大が成し遂げられた。
 その信念の対話の喜びは、荒川を発火点に庶民の王者・足立区へ、歓喜の都・北区へ飛び火した。そして全東京、広布の要・大関東へ拡大していったのだ。
 この夏季指導は、恩師亡き後も、師弟共戦の魂の伝統として輝き続けた。
 昭和33年の夏には、私は大関西へ、師弟の縁深き信越へ、そして九州──福岡、鹿児島、宮崎へ飛んだ。佐賀、長崎、熊本、大分と一体で、広布の先陣を切る“先駆の大九州”の友の笑顔が光り輝いていた。
 昭和34年──ちょうど50年前の夏には、“獅子の中国”、また“堅塁・中部”、さらに“不屈の東北”の勇者たちとも語らいの花を咲かせた。あの夏、誇り高き“正義の神奈川”の集いにも出席した。
 そして迎えた9月、暑い夏を大勝利した、わが尼崎の同志と、嬉しき勝ち戦の握手を交わしたのである。
 この兵庫・尼崎から関西指導がスタートした。
 新たな常勝の熱き血潮は、関西の心臓部・尼崎から広がっていったのだ。
 また、私が第3代会長に就任後、最初の夏季指導ともいうべき歴史が、昭和35年7月の平和の要塞・沖縄への初訪問であった。
 さらに夏といえば、「誓」の北陸の友との記念撮影も忘れられない(昭和42年8月、富山・高岡で)。
        ◇
 「情熱は必ず人を承服させる唯一の雄弁家である」とは、フランスの文人ラ・ロシュフーコーの言葉だ。たとえ短時間でも、大情熱の対話から共鳴が広がる。
 あの歴史に燦然と輝く「山口闘争」も、短期決戦の連続であった。
 私が山口の現地で指揮を執ったのは、わずか20日余。昭和31年10月から32年1月までの間の3回の訪問で、1回の滞在は10日以内だった。
 短期間だからこそ、電話なども有効に活用し、連絡・連携を密にした。
 1回目の訪問より、2回目、そして3回目と、拡大の布陣が強固になるよう、猛然と祈り指揮を執った。
 中国方面の拠点であった岡山にも足を運んだ。そして永遠の平和の都・広島を訪れ、深き祈りを捧げた。
 波は一度では足りない。押しては引き、引いては押し、一波、ニ波さらに三波と波を起こしていくのだ。
 「教主釈尊をうごかし奉れば・ゆるがぬ草木やあるべき・さわがぬ水やあるべき」(御書1187㌻)と仰せである。我らの強盛なる祈りは、諸天を揺り動かさずにはおかない。
        ◇
 勇敢に
   偉大な名誉を
    残しゆけ
  君の笑顔に
     君の心に

 ともあれ、嬉しかったのは、全国の同志が、山口の広布開拓のために、馳せ参じてくれたことである。
 蒲田、文京、足立、本郷、鶴見、志木、大宮、大阪、堺、梅田、船場、松島、仙台、八女、福岡、岡山、高知支部をはじめとした全国の永遠に忘れ得ぬ歴戦の勇士たちであった。
 九州からも、志の天地・四国からも、共戦の同志が勇んで集って来られた。
 「私は、この地で広布の歴史を刻みます!」
 459世帯から4073世帯へと、未曾有の拡大を達成できた。全国の同志が、私と同じ心で決戦場に臨み、対話に邁進してくれたからであった。
 これほど強く、これほど美しく、これほど尊い人間の結合が、一体、どこにあるだろうか。この究極の団結で、創価は勝つのだ。
 「私は思います」。ナポレオン公は、創価の師弟の平和運動の継承を賞讃してくださりながら語られた。
 「道なき道を開いた『一人』の存在は偉大である。しかし、それ以上に、その険しき道に続き、さらに道を広げていく人の存在は、さらに偉大である」
 わが創価の友は、崇高なる広宣流布の大道を歩みゆく最も大切な、最も高貴な一人ひとりだ!
 険しい道もある。烈風もある。しかし、だからこそ楽しい。勇気がわく。
 蓮祖大聖人は「立正安国」という大理想のために、命に及ぶ大難に遭われても、悠然と叫ばれた。
 「強敵を伏して始《はじめ》て力士をしる、悪王の正法を破るに邪法の僧等が方人をなして智者を失はん時は師子王の如くなる心をもてる者必ず仏になるべし」(同957㌻)
 難こそ正義であり、苦闘を突き抜けての勝利こそ、日蓮仏法の醍醐味だ。
        ◇
 戸田先生は、よく呵々大笑されながら言われた。
 「我々の姿は時として、貧乏菩薩や病気菩薩のように見えるかもしれない。
 しかし、それは、人生の劇を演じているんだよ。
 生命の本地は、正真正銘の地涌の菩薩なんだ。
 人生の劇ならば、思い切って楽しく演じ、勝ちまくって、妙法の偉大さを証明していこうではないか」
 さあ、わが本門の勇戦の弟子たちよ、打って出る時は来た。“いよいよ”の心意気で、愉快に、痛快に、仏縁を広げゆくのだ。
 今こそ、「師子王の心」を奮い起こして、声高らかに正義を叫び抜くのだ。
 「スピード」だ!
 「団結」だ!
 「情熱」だ!
 「共戦」だ!
 「師子吼」だ!
 そして、「八の字」の如く大きく開けゆく、八月の青空に、誉れ高き「師弟完勝」の旗印を堂々と掲げようではないか!

 晴れ晴れと
  勝利で この世を
   師弟して
  断じて残さむ
    偉大な歴史を


 内村鑑三の言葉は『内村鑑三著作集3』(岩波書店)、最後のみ『内村鑑三著作集5』(同)=現代表記に改めた。また、『ラ・ロシュフコー箴言集』二宮フサ訳(岩波書店)。
2009-08-06 : 随筆 人間世紀の光 :
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新 あの日あの時 7

新 あの日あの時 7     (2009.8.4付 聖教新聞)

池田先生と横浜市

世界一の「勝利の港」に

開港150年
 神奈川県の横浜は本年6月2日、150周年の開港記念日を迎えた。
 わずか100軒ほどの半農半漁の村が、大きく世界に開かれたのは、1859年(安政6年)だった。
 江戸幕府がイギリスと修好通商条約を交わした時、英国側の特命全権大使は、第8代エルギン卿だった。
 そのエルギン卿の直系の子孫が、チャールズ・ブルースである。
 ブルースは、グラスゴー大学名誉教授のマンローと交友がある。同大学は1994年(平成6年)6月、池田大作名誉会長に名誉博士号を贈った英国の名門である。
 ブルース自身、SGI(創価学会インタナショナル)に友人がいる。その一人から、学会の神奈川文化会館のゆかりを聞いて驚いた。
 正面にある赤レンガの洋館(戸田平和記念館)。
 一帯では、関東大震災で残った唯一の英国商館(1922年建造)だった。
 世界の港を結んだ英国の魂は、創価学会の中で生きていたのか!

恩師のために
 名誉会長と横浜。その絆は60年にわたる。
 ──連合国軍総司令部(GHQ)のジープが土ぼこりをあげて、鶴見市場の駅前を走り抜けていく。
 小さな家が並んでいた一角に、飯島キヨの家があった。ほそぼそと鶏卵を商っていたが、車が通るたびに屋内で鶏の羽根が激しく舞い上がる。
 夫は脊椎カリエス(結核菌が病巣を作る病)を患い、寝込んだまま。学会の幹部がやってきても、鶏の糞で臭う室内に上がりたがらない。
 1951年(昭和26年)の寒い日。一人の青年が訪ねてきた。使い古したカバンを手に、長靴を履いている。
 「お母さん、お題目をあげましょう」。礼儀正しく長靴をぬぐと、仏間で一緒に題目をあげてくれた。
 病床の夫の枕元に座り、固く手を握る。「お父さん。まじめに信心をやり抜けば、必ず春が来ます」
 池田と名乗るその青年は、毎月のように通ってきて、御書の一節を引いてくれた。
 偶然、京浜急行線の踏切で出会うこともあった。
 「女性が持つのは大変ですから」。魚のアラでいっぱいのバケツを、家まで運んでくれた。
 少しでも栄養になればと思い、キヨが選りすぐりの生卵を割り、醤油をたらして差し出した。池田青年は、実に美味しそうに飲み干す。
 「戸田先生は、お体の調子がすぐれないんです。この新鮮な卵を、ぜひ毎月、購入させてもらえませんか」
 恩師のため、古新聞にくるんで、大切に持ち帰った。     
        ◇
 横浜の下町、南区吉野町。
 入り口に「日本橋」と書かれた小さな商店街のアーチが掛かっている。
 その下に学会員の営む下駄屋があった。
 この界隈に数世帯しか学会員はいないが、池田青年は、こまめに通ってくれた。
 ある時は、やかんや鍋を持っている。理由を聞くと、恩師の事業を支えるため、金物まで売り歩いているという。
 ひと仕事を終えるとアーチ近くの銭湯「大和湯」で汗を流した。食事は近くのうどん屋で、手早くすませているようだ。
 下駄屋の主人は感心した。
 ここまで身を粉にして師匠に尽くすのか!
 この青年なら信頼できる。
 思い切って商売の悩みも相談した。いかに下駄の売り上げを安定させるか。できれば芸者衆など大口の顧客をつかみたい。
 「ちがう、ちがう。同じ花街の人でも、下働きの人に買ってもらうんです。口から口へ評判が広がるじゃないですか。一番安い下駄を買いに来るお客さんを大事にすることですよ」
 目の前がパッと開ける思いだった。

日本一になれ!
 第3代会長を辞任後に回数を重ねた功労者宅の訪問。
 1979年(昭和54年)6月22日には、横浜の上郎《こうろう》悦子の家で当時の心情を明かしている。
 「立場がどうあれ、学会の師弟の絆は永遠に変わらない。どんことがあっても、私が会員を守る。今度は世界が舞台なんだ」
 上郎の目頭が熱くなった。先生は、あの時と微塵も変わらない。
 ──53年(昭和28年)春、文京支部の田中正一宅。池田支部長代理が上郎夫婦を面接してくれた。
 「広宣流布のためなら、何でもやる。そう決めることが大事だ。
 私も戸田先生のもとで、何でもやらせていただいた。だから今があるんです」
 師弟に徹すれば、無限の力が出る。
 「僕は、日本一の力をつける。あなた方は、神奈川一になりなさい」
 神奈川で一番! 夫と顔を見合わせると、一段と力強い声が響いた。
 「いや、僕は、世界一になる。あなた方は、日本一になりなさい!」
 ちっぽけな悩みで汲々としていた心の壁が、一気に吹き飛んだ。

保土ケ谷の一家
 横浜中華街の朝陽門《ちょうようもん》をくぐった先にある喫茶店「ミカド」。
 池田名誉会長が保土ケ谷区の大川剛行《たけゆき》一家を招いたのは、80年5月18日の午前10時半である。
 名誉会長のテーブルに、次男の輝男《てるお》(5歳)が、ちょこちょこ寄ってきた。「先生、お口を見せて!」
 名誉会長が、にこにこしながら、大きく口を開く。輝男の顔が、ほころんだ。彼には知的障害があった。
 長男で言語障害のある周一(6歳)は、店内のインベーダーゲームに熱中している。
 まだ乳児だった長女を抱き、母の茂子は、兄弟の様子をパラパラと見つめるしかなかった。
 池田名誉会長の口調は温かかった。
 「お母さん。子どもは誰でもみな福子なんだよ。たとえ、どんなことがあっでも、どんと構えるんだよ」
 障害のある二人の子育ては、並大抵ではない。世間の目。学校でのいじめ。突然、次男がてんかんで倒れ、救急車で運ばれたこともある。
 “どんと構えろ”。何度も自分の胸に言い聞かせ、歯を食いしばった。
        ◇
 あれから30年目。
 長男の周一は、学校を出て焼き鳥店で修行した。
 焼き場で腕を磨きながら、牙城会員として横浜池田講堂に着任する。
 保土ケ谷養護学校を卒業した次男の輝男は、大手食品メーカーに就職。
 今では、創価班員として学会本部の担当につくまでになった。
 母の腕に小さく抱かれていた長女の江里子は、保土ケ谷を朗らかに走る区女子部長(星川太陽区)である。

旭区と「共戦」
 2009年4月14日の火曜日。名誉会長は、79年5月3日に神奈川文化会館でしためた「共戦」の大書を初めて公にした。
 力感のある太い墨痕が目に飛びこんくる。
 その場にいたSGI理事長の大場好孝の脳裏に、一つの出来事がよみがえった。
        ◇
 先生が神奈川文化に! 旭区の土屋トメ子は思わず立ち上がった。
 79年5月。それまで名誉会長の動向は、誰に聞いても分からなかった。
 ひと目でいい。晴天の早朝、近隣の婦人部二人とバスに飛び乗った。
 満員の車内でもみくちゃになりながら到着したのは午前10時前。会館前の大きな樹木の陰に陣取った。
 「先生にお会いできるまで帰らないからね」。3人でうなずき、じっと正面玄関を見つめた。
 1時間、2時間。初夏の大陽が、ぐんぐんと中天に昇る。レンガ色のタイルに照り返す光が眩しい。
 3時間が経過した。土屋が汗ばんだ額に手を当て、何気なく見上げた。
 あっ、7階の窓! 名誉会長が、こっちに向かって右手を振っている。左手にカメラを持っていた。
 先生、先生!
 身をよじるようにして手を振り返した。
 元気だ、お元気なんだ!
 その3カ月後、土屋は思いがけず神奈川文化会館に招かれた。
 会館の事務局長だった大場好孝が足早に近づいてくる。茶封筒から3人分の写真を差しだした。
 「先生から『この方々を探して、差し上げてください』とありました」
 六つ切りサイズの写真には、大樹の陰で、深い決意をみなぎらせた土屋たち3人が、それぞれ写っていた。
 3枚とも、撮影した角度が違う。
 名誉会長は、一人一人をレンズ越しに見つめ、一番いい瞬間に、シャッターを切ったのである。
        ◇
 池田名誉会長の「共戦」の大書。
 その脇書には「真実の同志あるを 信じつつ 合掌」と、したためられていた。
 大場は深く息をのんだ。
 この30年間、師は、誰と共に戦ってきたのか──。
 わずかばかりの社会的地位、財産を鼻にかけて「いざ鎌倉」の土壇場で逃げ去っていった者も多く見た。
 小揺るぎもしなかったのは、庶民である。
 あの日、神奈川文化会館の前で立ちつくしていた名もない人々ではないか。
 「神奈川は、一番大事なところだ。私が会長を辞めて、真っ先に来たんだから」
 開港150年の港に、いま、共戦の旗は天高く翻る。
2009-08-04 : 新 あの日あの時 :
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忘れ得ぬあの瞬間 第7回

忘れ得ぬあの瞬間
名誉会長と共に80周年を勝利
  (2009.8.2付 聖教新聞)

第7回 初の女子部幹部会

幸福とは 師と共に戦うこと


 「池田先生!」
 全国から集った、女子部の友の歓呼が轟く。
 池田第3代会長が誕生して6日後の、昭和35年(1960年)の5月9日。
 関西から舞い戻った会長が、各部の幹部会で最初に出席したのは、女子部であった。
 1万6千人の熱気漲る東京・台東体育館。
 出発の幹部会が終わった直後の、感激覚めやらぬ“瞬間”である。
 上の階にいた友が、階段を下りてくる。
 そこに、池田会長が通りかかった。間近に出会いがかない、喜びにわきたつ友。
 颯爽と進む新会長。
 その姿を、湊女子部長(後の多田婦人部長)が、真剣な眼差しで追っている。
        ◇
 池田会長は、青年部の室長、また総務の時代から、手塩にかけて、若き人材群を育てた。あらゆる機会をとらえ、真剣勝負で薫陶を重ねた。
 入会して日の浅いある女子部員。信仰は「心の内面の充実」のためだけだと思っていた。
 しかし学会は、勇んで社会へ打って出る。それは、民衆のため、正義のため、平和のための、誇り高き言論戦であると、池田総務は訴えた。
 「牧口先生は軍部権力と戦い、殉教された。
 戸田先生もまた、獄中闘争を貫き、巌窟王の決心で学会を再建された。
 牧口先生、戸田先生の思いを考えたとき、民衆を踏みにじる権力とは、戦わねばならない。
 どう戦うか。
 広布の戦に勝つことだ。勝ってこそ、満天下に民衆の力を示すことができる。これ以外に、社会を変革することはできない。石にかじりついても、絶対に勝たなければならないのです」
 一切を勝ち越える信心の骨格を! そのために池田総務は、恩師の逝去後、女子部の友らに、学会本部で、たびたび御書
講義を行った。
 また、女子部の代表幹部に、予告なしで教学試験を行うことも。「立正安国論」「総勘文抄」など甚深の法理について質問される。皆、毎日、必死で御書を研鑚した。
 幸せとは? 広宣流布の未来は?──女子部のリーダーは、湊女子部長とともに集っては、よく語り合った。その結論。
 「私たちの幸せは財産や地位ではない。広宣流布に生き抜くこと。師匠である池田先生とともに戦えるということ!」
 池田先生が会長に就任したら、真っ先に女子部の会合に来ていただこう──そう決めて、早くから会場を確保していた。
        ◇
 池田門下生の出陣となった女子部幹部会。会長が、特に力を込めたのは「教学」であった。
 ──「女子部は教学で立て」と戸田先生は言われました。大聖人の仏法を、永遠の生命哲学を、一切衆生に知らしめていけと先生は命じられた。女子部は教学に力を入れていただきたい──
 さらに、こう訴えた。
 ──御本尊に題目をあげきっていくのです。そこに、仏の生命がわいてくる。幸福は人から与えてもらうものではない。題目をあげれば、仏界の働きが、汲めども汲めども尽きない喜びが、わいてくるのです。
 純真な信心をしていく私どもを、大聖人が守られないわけがない。絶対に幸福になれるのだと。希望に燃えて、勇敢なる闘争をしていこう──
 幹部会の会場を出ると、純白の制服に身を包んだ鼓笛隊が、祝賀の曲を凛々しく奏でる。
 池田会長は、車中の人になっても、窓を開け、身を乗り出すようにして励ましを贈り続けた。
 “進もう! ともに!
 「勝利」の道を‼”
2009-08-02 : 忘れ得ぬあの瞬間 :
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随筆 人間世紀の光 No.195

随筆 人間世紀の光 No.195  (2009.7.29付 聖教新聞)

「正義」の旗高く

大勇の一騎は万騎に通ずる
君たちよ 師弟完勝の金波銀波を!


いざ出航! 人生は攻撃精神で勝つ
神奈川の港から 創価の大船は堂々と


 この人生
  共に生き抜け
    勝ち抜けや
  正義の道を
   勇気で悔いなく

 躍動の夏、鍛えの夏だ。未来部の友もはつらつと学び、成長してくれている。伸びゆく鳳雛の歌声を聞けは、無限の希望が広がる。
 弾むリズムの少年部歌は「ビー・ブレイヴ」(勇気を出して!)と歌い上げる。
 「ビー・ブレイヴ」とは、あの喜劇王チャップリンも大切にした言葉だ。
 「ビー・ブレイヴ! フェイス・ライフ!」
 勇気を出して、人生に立ち向かえ──名画「街の灯」の一場面だ。
 臆病は、戦う前から侘びしく敗北である。勇気ある行動は、朗らかな勝利の劇だ。
 日蓮大聖人は熱原の法難の渦中、鎌倉の四条金吾はじめ門下一同に言われた。
 「各各師子王の心を取り出して・いかに人をどすともをづる事なかれ、師子王は百獣にをぢず・師子の子・又かくのごとし」(御書1190㌻)
 我らは、いかなる広宣流布の激戦にも「師子王の心」で勇敢に立ち向かう。
 合言葉は「勇気の大前進」「正義の大攻勢」である。
 法のため、人びとのため、社会のため、そして未来のために、何ものも恐れず、我らは戦い進む!
 「かしこへ・おしかけ・ここへ・おしよせ」(同502㌻)との如説修行の御金言のままに!
 この人知れぬ労苦の歩みこそが、黄金の栄光と福運の足跡《あしあと》となる。その道には、未来の逸材たちが力をつけて続いてくれるのだ。
 ともあれ、炎暑の夏である。皆、お体を大切に!
 特に、今回の中国地方と九州北部の豪雨の被害に、改めて心からお見舞いを申し上げます。被災地の皆様方のご健康と復興を、深くお祈りしております。
        ◇
 日本一
   いな 世界一の
    神奈川は
  創価の模範か
    広布の模範か

 港は、一切の起点だ。
 神奈川は、常に創価の勝利へ出発しゆく港である。
 わが神奈川から、連続勝利の波動を!
 わが横浜から、師弟完勝の金波銀波を!
 この祈りを込めて、私が新しい神奈川文化会館を初訪問したのは、昭和54年の4月のことである。
 あの嵐の渦中、世界へ開かれた横浜の天地に、新会館が誕生したことは、不思議の中の不思議であった。
 邪宗門と反逆の輩の陰謀が荒れ狂う中で、広宣流布の前進を指揮できるよう、日蓮大聖人から賜った法城と拝されてならなかった。
 この神奈川で、誉れ高き栄光の「七つの鐘」を打ち鳴らせ! そして、いよいよ、世界広宣流布の出航の銅鑼を乱打するのだ! と。
 この正義の反撃の本陣を目指して、神奈川はもとより全国から、多くの同志が澎湃と駆けつけてくれた。
        ◇
 白糸の
  誓い忘るな
    祈るらむ
  君らは わが弟子
   いざや立ち征け

 昭和54年の夏8月18日には、わが「白糸会」の青年たちが、熱き誓願に燃えて集い来てくれた。
 白糸の滝が流れる静岡・富士宮で結んだ師弟の絆を胸に、結成11周年の総会を開いた会場が、神奈川文化会館だったのである。
 十年一剣を磨き、「いざ鎌倉」と馳せ参じてくれた弟子たちの心意気が、私は何よりも嬉しかった。
 「本当の広宣流布の攻防戦が姶まったんだ。これから面白くなるぞ!」
 白糸の盟友たちは、再び、滝の如く激しく、王者の大行進を! と約し合った。
 じつは、「白糸の滝」は、全国各地に存在する。
 私が「滝」の詩を寄せた青森・十和田市の奥入瀬渓流にも、白糸の滝がある。
 山形・戸沢村の白糸の滝は、日本の滝百選の一つだ。
 福島・猪苗代町、群馬・長野原町、山梨の韮崎市、小菅村、長野・軽井沢町、岐阜・下呂市、島根・隠岐の島町、広島の呉市、廿日市《はつかいち》市、山口・美祢市、福岡の前原市、飯塚市等にも、白糸の滝がある。
 そして、わが横浜の旭区にも、凛とした白糸の滝があると伺った。
 清冽な滝水がやがて注ぎゆく帷子川《かたびらがわ》は、旭区と共に勝利の前進を続ける保土ケ谷区に流れ通い、横浜港へと注ぎゆくのだ。

男は「滝」の如く!
 「滝」は壮年部の象徴だ。今、全国で、滝の如く、朗らかに堂々と、わが壮年部が立ち上がってくれている。
 景気は、依然として深刻だ。先行きの見えない混迷が続いている。その中で。壮年部の戦友は、歯を食いしばって奮闘する日々だ。
 本気の男の姿は、「一騎当千」である。旭区には、その名も「万騎《まき》が原」と呼ばれる古戦場がある。旭・保土ケ谷、そして神奈川の壮年部は、まさに一騎が「万騎」に匹敵する力を発揮せんと意気軒昂だ。
        ◇
 大いなる
   使命と決意の
    神奈川の
  多宝の城を
    築かむ 地湧と

 先日の本部幹部会で、ブラジルの「人道の英雄」ホンドン元帥を紹介した。
 この元帥は、民衆の幸福と繁栄を願って、アマゾンの奥地まで歩きに歩いた。
 その距離は4万キロ。地球の赤道一周に当たる道のりを歩き通して、人びとと対話し、尽くしていった。
 人生は歩いた人が勝つ。喋った人が勝ちである。
 ホンドン元帥は、師匠を胸に、90歳代に入っても、心軽やかに行動を続けた。そして人生の最後の最後に「共和国、万歳! 共和国、万歳!」と叫び切って亡くなったのである。
 大神奈川にも、そうした功労者が無数におられる。その多宝の方々は、私と妻の胸奥に深く刻まれて離れない。いつもいつも題目を送り、後継のご家族のご多幸を祈り続けている。
        ◇
 恐れなき
   仏の大軍
     賑やかに
  神奈川天地で
    舞いに舞いゆけ

 大聖人の御在世から、神奈川は立正安国の主戦場であった。だからこそ、三障四魔も紛然と競い起こる。正法正義なるゆえに、魔軍との乱戦は当然のことだ。「悪口罵詈」も「猶多怨嫉」の難も、最大の名誉である。
 そのすべてをはね返し、祈り勝ち、攻め勝ち、競り勝ってきた。これが、あの四条金吾、日妙聖人など、鎌倉の門下が留め、今日の神奈川創価学会に脈打つ誇りである。誉れである。
 大聖人が金吾に示された天台大師の御文がある。
 「信力の故に受け念力の故に持つ」(同1136㌻)
 すなわち、正しき信仰を受持することこそ、人間として究極の「信念」であると言われるのだ。
 この最極の信念の対極にあるのが、「へつらい」であり「臆病」である。
 ゆえに、大聖人は金吾に対し、繰り返し戒められた。
 それは「すこしも・へつら(諂)はず振舞仰せあるべし」(同1164㌻)との御金言である。
 師匠の教えの通り、正義の信念を貫き、行動する。人間として、これほど崇高な道は絶対にない。したがって、いかなる局面にあろうとも、臆したり、怯んだりしてはならない。
 当然、礼儀や常識を弁えることは大前提である。その上で、誰人であれ、へつらうことなく、仏法者として、広宣流布の大闘士として、信念を勇敢に語り切っていけば、よいのだ。それが、最も人の心を打つ。
 仮に、その時は反発されたとしても、相手の心の奥深くに仏縁が結ばれて、必ず花開く時が来るのだ。

魂の揮毫から30年
 共戦の
   正義の旗もつ
    君なれば
  諸天も諸仏も
      勇み護らむ

 昭和54年、私は神奈川文化会館で認めた。
 5月3日には「共戦」。
 5月5日には「正義」。
 私は若き日より、恩師が「旗持つ若人 何処にか」と歌われたお心に深く呼応して、決然と一人立った。
 御書に仰せの通り、大難は、師弟の「共戦」と「正義」の証だ。
 正義は、座して宣揚できるものではない。
 「正」という字義には、「攻めて正す」とある。「正義」とは、義を正す能動の戦いなのだ。
 人生は攻撃精神で勝つ!
 広宣流布は正義を語り抜く攻めの対話で勝つ!
 強気の攻めの戦いこそ、勝利の絶対的要因だ。
 これこそ、わが師・戸田先生が教えてくださった必勝の極意である。
 あの日あの時、私はただ一人、反転攻勢への決意を燃え上がらせて、待った。
 共に「正義」の旗を掲げ、創価の大光を社会に放ちゆく愛弟子を!
 共に「師弟」の誓いを貫き、仏法勝負の勝鬨を轟かせゆく真の同志を!
 神奈川には、その愛弟子がいた。真の同志がいた。
 私が会長を辞任した後、内外の方々から数え切れぬお手紙を頂戴した。永遠の宝として、大切に保管させていただいている。
 神奈川の母から頂戴した、憤激と悔し涙で綴られた手紙も、その一通である。
 真心の便りに、私と妻は即座に返事をお送りした。
 ──何卒、強盛な信心で受け止めてください。そして、さらなる信心の炎を燃やして、日本第一のご一家を築き上げてください、と。
 ご一家は、その通りに。学会と共に生き抜いた人生がいかに勝ち栄えていくかという実証を、晴れ晴れと示されている。
 「生涯にわたり われ広布を 不動の心にて 決意あり
 真実の同志あるを 信じつつ」と、私は「共戦」の書の脇書に刻んだ。
 その一念に、厳として応えてくれたのは、宿縁深き神奈川の弟子である。
 当時、未来部や青年部たった友も、創価のメロスの如く約束を貫き、今、広宣の最前線で指揮を執ってくれているではないか!
 まさしく、「共戦」と「正義」に貫かれた三十星霜であった。
 そして今、神奈川の天地に「勝利」の大旗が掲げられようとしている。
 私の本門の人生は、神奈川家族と苦楽を共に勝ち抜いていく命運にあるのだ。
        ◇
 神奈川の
  正義の船出の
     凱歌かな

 神奈川文化会館の前に広がる山下公園には、貨客船・氷川丸が係留されている。この氷川丸は、昭和5年、横浜の生まれである。
 太平洋を約250回横断し、横浜─北米航路で約2万5千人を運んだ。チャップリンも、氷川丸をこよなく愛した一人である。
 ナチスの迫害を逃れて日本に入国し、氷川丸で海を渡ったユダヤ人もいた。岐阜出身の外交官、杉原千畝氏が発給した“命のビザ”に救われた人びとである。
 氷川丸は歴戦の風格を湛え、明年、学会と共に80歳を迎えようとしている。
 御聖訓には、「生死の大海を渡らんことは妙法蓮華経の船にあらずんば・かなふべからず」(御書1448㌻)と仰せである。
 創価の大船は大難の嵐の海を越えて、民衆の勝利の岸辺へ向かっていくのだ。
 大シケの海を航海する時、次々と牙をむいて襲いかかってくる荒波を乗り越えゆく秘訣は一体、何か。
 わが誉れの波濤会の友が毅然と語ってくれた。
 それは「逃げないこと」である。
 荒波には、船首で波を受けるように立ち向かう。避けようとして、横波を受けてしまうと、かえって危険だというのである。
 人生の闘争もまた、同じであるに違いない。
        ◇
 燦々と
  旭日昇る
    姿こそ
  仏の軍勢
   我らのことかな

 横浜は今、開港150周年の賑わいで、街も人も、活気にあふれている。
 その原点を築いた先駆の人びとは、誰であったか。
 それは、東海道の名高い宿場・保土ケ谷宿から進出してきた「保土ケ谷商人」たちであった。
 隣宿の神奈川商人とともに、保土ケ谷商人たちは、横浜発展のために大きな役割を果たした。
 150年前、村から町となった横浜で、行政組織の責任者(横浜町総年寄)の一人にも、人びとから慕われる保土ケ谷宿の名主が任命されている。
 保土ケ谷には、未踏の地を切り開く、先駆の責任と使命が脈打っているのだ。
 思えば、あの明治維新の先覚の師・吉田松陰が海外雄飛の志を秘めて、保土ケ谷に宿泊したのは、数え年・25歳の時である。
 「苦しいこと、困難なことがあるほど大きな仕事をなしとげるには好都合だと思われます」とは、若き松陰の気概であった。
 それは、全国に先駆けてヤング男子部を誕生させた、頼もしき神奈川青年部の不屈の闘魂にも通ずる。
        ◇
 100年前、明治の文豪・森鷗外が、開港50周年の佳節に寄せて作詞した「横浜市歌」も有名である。
 「されば港の数多かれど この横浜にまさるあらめや」
 「果なく栄えて行くらんみ代を 飾る宝も入りくる港」
 横浜は、今なお、世界の憧れの宝の港だ。

 皆さまが
  ありて広布の
    大道は
  いやまし輝き
    世界に光りぬ

 5月3日には、毎年恒例の大パレードが催される。これには、わが愛する鼓笛隊も出場してきた。
 今年も、世界へ広がる横浜の大空に、平和と希望のシンフォニーを鳴り響かせてくれた。神奈川文化会館の前でも、颯爽と演奏行進を繰り広げてくれたのだ。
 厳しい練習をやり抜いた鼓笛の乙女のモットーは「今 師とともに 正義の心で! 創価の師弟の勝利のパレード‼」であった。私と妻は、明るく健気な天使の心を、合掌しつつ胸に刻んだ。
 華陽の乙女たちの一途な「正義の心」こそ、師弟勝利の華であり、陽光である。
        ◇
 「軍《いくさ》には大将軍を魂とす大将軍をく(臆)しぬれば歩兵《つわもの》臆病なり」(同1219㌻)
 この将軍学の真髄は、武士への御文ではない。一番大変な時に、一番強盛な信心で戦い切った鎌倉の母に贈られた御聖訓である。
 まさに神奈川の一門こそ、尊き母たちを中心として、広宣流布の勝ち戦を決定づける仏の全軍の魂なのだ。その象徴の御金言と、私は拝してきた。
 「此の経を持つ女人は一切の女人に・すぎたるのみならず一切の男子に・こえたり」(同1134㌻)
 これまた、神奈川の女性門下への仰せである。
 私が対談を進めているアメリカを代表する女性詩人ワイダー博士も、神奈川の母たちとの語らいを宝の思い出とされている。
 博士は確信されていた。
 「幸福は積極的な戦いから生まれるものである。その戦いがあるからこそ、人間としてこの世で責任を果たすことができるのだ」と。
 この幸福スクラムの先頭を走るのが、神奈川の婦人部そして女子部である。
        ◇
 6年前(2003年)の11月18日、73周年の創立記念日を、私は秋晴れの神奈川文化会館で迎えた。ここには、大首都圏の代表も集ってこられた。
 静岡は、大聖人の御在世から神奈川と一体である。干葉は、大聖人が御聖誕された広宣の旭日の天地だ。山梨は、大聖人が令法久住の後継を薫陶された人材の山河である。
 奇しくも、静岡、千葉、山梨、そして神奈川という、蓮祖に有縁の各県が今、絶妙の呼吸で前進している。
 大聖人は「悪は多けれども一善にかつ事なし」(同1463㌻)と御断言である。私たちは断固として誓い合った。
 「勇気」で勝つのだ!
 「忍耐」で勝つのだ!
 「智慧」で勝つのだ!
 そして「信心の団結」で勝つのだ!
 いよいよ、創立80周年の開幕だ。神奈川の青き海原を、正義の勝利の燦たる太陽が光り照らすその時を、私は待つ。世界の同志が、祈り待っている。

 神奈川の
   偉大な同志を
  大聖人
   見つめ讃えむ
    福勝《ふくしょう》たしかと


 氷川丸の話は郵船OB氷川丸研究会編『氷川丸とその時代』(海文堂出版)、バルハフティク著『日本に来たユダヤ難民』滝川義人訳(原書房)などを参照。吉田松陰の言葉は川口雅昭著『吉田松陰名語録』(致知出版社)。「横浜市歌」の歌詞は横浜市のホームページによった。
2009-08-01 : 随筆 人間世紀の光 :
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