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新 あの日あの時 6

新 あの日あの時 6     (2009.7.31付 聖教新聞)

池田先生と尼崎総県

尼崎は「日本の柱」「広布の柱」

法廷闘争のスタート
 ぎゅうぎゅう詰めの人込みの中で、尼崎の寺井好子は、爪先立って背を伸はした。
 大阪拘置所の門が見える。
 1957年(昭和32年)7月17日。青年部の池田大作室長が逮捕されてから、すでに2週間が経っていた。
 「いよいよ池田先生が出てこられるんや……」
 きのうも来た。おとといも来た。高い塀を、にらみつけた。朝から夕方まで拘置所をぐるぐる回った。
 「きょう現場検証で、あそこに行かれるらしい」と聞けば、地区のみんなと自転車で走った。
 正午すぎ。鉄の門が開く。
 門をかこむ人々の肩越し。白い扇子を右手に室長が現れた。後ろには、小さな風呂敷を抱えた香峯子夫人がいる。
 寺井は跳び上がって、手を振った。
 しかし、まだ戦いは始まったばかりであることを知るよしもない。
        ◇
 大阪事件の前まで、池田室長は尼崎の地に足を運んでいない。
 ところが──「最近、先生は、よう尼崎へ行ってはる。大阪で会合をやって、尼崎から皆を呼べばええのになあ」
 公判が始まると、大阪の幹部は一様に首をかしげた。
 4年半に及んだ裁判。この期間に池田室長は集中的に8度も足跡を残している。
 法廷で勝つか負けるか。その熾烈な戦いの渦中で、なぜ尼崎を育てたのか。どんな意図があったのか。

一兵卒で戦う
 大阪事件の当時、尼崎は組織的に、まだ半人前のあつかいだった。
 兵庫県にありながら、大阪・梅田支部の傘下に置かれていた。
 世間の認識も似たようなものである。尼崎といえば、梅田の向こうにある工場街。阪神工業地帯を下支えする労働者の町である。
 池田室長の視点は違った。
 ──尼崎の名の由来は、一説によれば、漁民の「海人《あま》」と、海に突き出た場所を指す「崎」。思えば日蓮大聖人は御自身を「海人《あま》が子なり」と仰せになり、いばり腐った権力者でもなければ、見栄っ張りな貴族でもなく、庶民の子であることを誇り高く宣言されている。
 この「庶民の共和国」を大阪と神戸の間で埋没させてはいけない。尼崎は尼崎だ。独り立ちさせなければならない。ひそかにタイミングを計っていた。
 そんな折に、梅田支部の幹部会が尼崎市文化会館で開かれることになった。
 57年(昭和32年)12月2日。大阪・堺の会合を終えた室長は、すかさず現地へ向かった。
 これが尼崎への初訪問となった。
 ただの幹部会ではない。結成したばかりの尼崎総ブロックの大会の意義もとどめた。
 まだタテ線意識が強く、ブロックという概念は乏しい。ただ尼崎が自立する第一歩にしたかった。
 訴えたのは「尼崎は尼崎らしく」。そして「仲良く進むこと」である。
 登壇した室長は、壇上にずらっと並んでいる幹部を見回した。
 「いいかい。これは昔の話だからね。
 これから尋ねることに、正直に手をあげるんだよ」
 いたずらっぽく笑みを浮かべた。
 「これまで、酒好きだった人。博打好きだった人。夫婦げんかで周りに迷惑をかけたことがある人。さあ、手をあげて」
 それまで胸を張っていた幹部が気まずそうに首をすくめた。おそるおそる、小さく手をあげる。
 場内は爆笑の渦である。
 「今でこそ信心で立派な幹部になっていますが、かつては皆さんと同じ悩みをもっていたんだよ」
 しきりに参加者がうなずいている。幹部といっても自分だちと同じや。みんな先生の前では一兵卒や。

大物が出る
 ブロック組織の次は、会館に手を打った。
 尼崎市内を走る阪神電車に「大物《だいもつ》」という駅がある。この駅近くに、兵庫で初めての地方会館が誕生した。
 梅田支部会館。池田総務が名前を変えた。
 「尼崎会館にしよう」
 59年(昭和34年)9月5日の落成式にも駆けつけた。
 「ここは大物《だいもつ》にある会館です。その地名のように将来、ここから必ず大物《おおもの》が出ます。大人材が出ます。それを確信していただきたい!」
 尼崎は感激した。ここから大物が出ると宣言した人がいただろうか。大阪からも神戸からも「アマ」と呼ばれ、どこか軽く見られてきた。
 「いいですか、尼崎がしっかりすれば、学会は何かあっても大丈夫です!」
 会場の一隅に、入会を渋っていた重松勇がいた。
 小学校を出て炭坑で働いたが、長続きしない。長崎から大阪の造船所に渡り歩いてきた風来坊。
 同じ年格好やのに、何て立派な人か。この信心をしたら、ああいう人になれるんか。
 自分から進んで願い出た。
 「やらせてもらいます」
 後に重松は100世帯を超える弘教。地区部長、支部長として尼崎の柱になった。

世界に目を開け
 組織。会館。人材。次のポイントは青年である。
 このころからオール関西の会合も尼崎で開かれるようになった。
 59年(昭和34年)9月20日、関西男子部幹部会が行われ、池田総務が出席した。
 どこが全関西の急所なのか。砦なのか。大将自らが陣を移すことで、それを明らかにした。開催地・尼崎の士気も高まる。
 この日、眼鏡をかけ、汚れた作業服を着た青年が真摯に質問した。
 「今、安保闘争が社会の関心を集めています。学会は、どういう立場でしょうか」
 安保と聞いて、会場で顔を見合わせる者もいた──何やそれ。そんなんでメシ食えへんで。
 そんな空気を察した総務。
 「青年は、社会に眼を向けなくてはならない。大事なことだ」
 「でも、もっと大きな問題がある。広宣流布こそが最高の哲学だ。最高の平和運動であり、社会建設となるのです」
 総務は続ける。
 フルシチョフとアイゼンハワー。二人とも貧乏な家庭に育った。かれらが今、世界を握っている」
 米ソの首脳の名前が飛び出した。
 「若いときに苦労した人が、本当に偉くなる。名誉、財産、家柄などではない。私たちは信心という最高の信念をもっている。みんなは全世界のために、貢献をしてください。いいかい」
 「おおーっ」。雄叫びが起こる。
 尼崎から世界を動かせ!
 気宇壮大なロマンを広げる訴えだった。
 尼崎で鍛え上げられた人材は多い。ここで多感な時代を送った総関西長の西口良三。
 「よく、言うんです。一番、底辺にいるから『底力』が出る。地べたから、はいつくばってきた人間が一番、強い。それを先生が教えてくださった」

判決の前夜
 最後の仕上げは、人権闘争である。
 時は、62年(昭和37年)。冬の1月24日。
 ついに、あの大阪事件に判決が下る前夜だった。
 場所は、尼崎市立体育館。関西の男子部幹部会に1万2千人の精鋭が集った。
 これまで大阪事件について、池田会長が公的に会員の前で話すことは稀たった。
 この日は違った。
 「初めて裁判のことについて、私は口をきる。関西の男子部の諸君に申し上げます」
 場内に緊張が走る。
 「どうしても正義の人がいじめられる」
 その根底に嫉妬があるこを明らかにした。
 「不法な逮捕であることは、どこから見ても明瞭です」
 まじめな人々のために、まじめに尽くす学会員をいじめる勢力とは、一生涯、戦い続ける。烈々と宣言した。
        ◇
 幹部会が終わった。何人かの関西幹部がやってきた。彼らは、どれだけ会長が深い覚悟で尼崎入りしたか知らなかった。
 「先生、申し訳ありまん。我々は何にも知りませんでした」「必ず青年部が仇を討ちます」
 それに対し、にこにこと聞き返す。
 「じゃあ、みんな何をするつもりかな?」
 「それは権力を……」
 言葉に詰まった彼らに、諄々とと諭した。
 「仇討ちとは、やみくもに相手を憎んだり、傷つけたりすることじゃない」
 静かに続けた。
 「広宣流布に勝利すること。正義の陣列を拡大すること。一人でも多くの味方をつくること。そして、敵をアッと言わせることだ」
 翌25日。大阪地方裁判所。判決は無罪。
 この祈り続けてきた日は「関西婦人部の日」となった。
        ◇
 判決後、静かに尼崎を訪れている。阪神電車の高架下に近い、小さな飲食店である。裸電球かぶら下がり、駅のベンチのような長いすが並ぶ。
 尼崎の草創のメンバーを招いて、ささやかに懇談した。
 「ここは“尼が先”というけれど、本当に女性が強い。婦人部が、しっかりしている」
 判決前日の関西男子部幹部会に話が及んだ。
 「盛大だった。尼崎は強くなった。関西を陰で支えてきた功績は絶対に忘れません」
 正義を満天下に証明した法廷闘争。その戦いの真っただなかで「日本の柱」「広布の柱」は築かれた。名誉会長が全身全霊を込めた常勝の城──その名を尼崎という。
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2009-07-31 : 新 あの日あの時 :
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御書と師弟 正義の後継者

池田名誉会長講義 御書と師弟 
              (2009.7.30付 聖教新聞)

第21回 正義の後継者

未来部の君よ 負けるな
21世紀の南条時光と輝け
 

父母に感謝の「賢人」たれ
師を求めて若武者に成長


御聖訓
 「法華経を持《たも》つ人は
 父と母との恩を報ずるなり」
         (上野殿御消息、1528㌻)

 私の師匠である戸田城聖先生は宣言されました。
 「社会のため、日本のため、人類のため、活躍する若い人材を大いに育てるのだ。これが、創価学会の大目的である」
 わが学会の希望である未来部の「躍進月間」が、この夏も始まりました。全国の学会っ子たちが、勉強に、読書に、スポーツにと、溌剌と挑戦する姿を、私は何よりも嬉しく見つめております。
 大切な広宣流布の宝の友を真心で励ましてくださる「未来部育成部長」「二十一世紀使命会」の皆様、いつも本当にありがとうございます。
 そして、お子さんの成長を祈りながら尊き大使命に走るお父さん方、お母さん方に、妻と共に題目を送る日々であります。

勇気を貫いた門下
 今回は、日蓮大聖人が若き南条時光に認められた御文を拝読しましょう。
 「法華経を持つ人は父と母との恩を報ずるなり」(御書1528㌻)
 これは、建治元年(1275年)の御手紙です。時光は当時、数え年で17歳。ちょうど未来部の皆さんの年代でした。
 時光は、父と母から信心を受け継ぎ、一生涯にわたって水の流れるがごとく、勇気ある信心を貫き通した門下です。駿河(現在の静岡県中央部)の上野郷の地頭として貢献した、社会のリーダーでもありました。
 大聖人は、人々に尽くし、正義を護り抜くその信心と行動を讃えて「上野賢人」とも呼んでおられます。
 戸田先生は青年部と懇談の折、「大聖人門下の中で、誰が一番好感が持てるか」と問われたことがあります。私はすかさず「南条殿です」と答えたことを懐かしく思い起こします。
 時光は、わずか7歳の時に立派な父親を病気で亡くしました。この時、墓参のために足を運んでくださった大聖人と、永遠に輝く出会いを刻んだと拝されます。
 以来、大聖人を師と仰ぎ、母と共に真剣に信心に励むようになりました。
 そして時光は、学び鍛え、凛々しき若武者と生い立って、身延に入山された大聖人のもとへ自ら進んで馳せ参じたのです。
 この時、16歳。見事に成長した時光の逞しい姿を、大聖人はどれほど喜ばれたことでしょう。そして翌年、この御手紙を送られたのです。
 本抄では、自分を育んでくれた親を大切にすること、とりわけ、その恩に報いていくことが、仏法の道であると教えられています。
 今回の御文の直接の意味は、「法華経を持っていること自体が親孝行である」、すなわち法華経には親の恩を報ずる力があることが説かれています。
 それとともに、「法華経を持つ人こそ、親孝行をおろそかにしてはならない」という御指南と拝されます。
 亡くなった父の南条兵衛七郎は、地道な信心を誠実一路に持続しました。
 時光の母である上野尼御前は、子どもたちに大聖人の偉大さを語り、信心の後継の道を一緒に歩んできたのです。

報恩は人間の根本
 時光が大聖人から賜った御手紙は、御書全集で30編を超えます。多くの御手紙をいただいている、信頼厚き門下です。
 時光の胸には、大聖人門下としての大確信と大情熱が、誇り高く燃え上がっていた。
 後に弟が急死するという不幸もありました。しかし時光は悲しみの母を支え、弟の分まで信心で戦っていったのです。
 弘安2年(1279年)の熱原の法難の際には、時光は弾圧の矢面に立って戦い、門下たちを厳護しました。
 そして大聖人の御入滅後も、真正の弟子である日興上人とご一緒に、広宣流布のために全生命を捧げました。まさに未来部、青年部の模範の姿であります。
 戸田先生はよく「南条時光を見習っていけ」と言われました。「時光を手本として親孝行せよ」とも呼びかけられました。
 有名な「青年訓」の一節には、こうあります。
 「衆生を愛さなくてはならぬ戦いである。しかるに、青年は、親をも愛さぬような者も多いのに、どうして他人を愛せようか。その無慈悲の自分を乗り越えて、仏の慈悲の境地を会得する、人間革命の戦いである」
 親への愛情と報恩の心は、人間としての根本であります。
 一流の人ほど、親を大切にします。それは、私が世界中の指導者と友情を結んできた実感です。
 大聖人は時光に仰せになられました。
 「母親は子どもが胎内にいる時、死ぬほどの苦しみを味わっている。産み落とす時の苦痛は堪え難いと思うほどである」(御書1527㌻、趣意)
 お母さんは、死ぬほどの苦しみをして、皆さんを産んでくれたのです。出産とは、まさに命を懸けた戦いです。この一点でも、母に感謝し、恩返ししていかなければなりません。
 ゆえに、戸田先生は、親不孝に対しては、それはそれは厳しかった。親に心配をかける青年を「親の涙を知らないのか!」と烈火のごとく叱られたこともあります。
 大聖人は、今回の御文の直後で「我が心には報ずると思はねども此の経の力にて報ずるなり」(同1528㌻)と教えてくださっております。
 妙法には、万人を幸福に導く力があります。その妙法を根本に深く祈り、正しい人生を強く生き抜いていく。そこに諸天も動き、自然のうちに親孝行できる境涯になる、との仰せです。
 若い時の「つらい」ということは、実は青春の特権です。勉強や成績のこと、クラブ活動や友だちとの人間関係のこと、健康や身体のこと、自分自身の性格のこと……すべてを御本尊に祈り切っていけばよい。そして自分らしく努力することが、そのまま最高の親孝行の道なのです。

親に笑顔で向かう
 親孝行といっても、決して特別なことではありません。大聖人は時光に、親孝行について具体的に示されています。
 「親に良いものをあげようと思って、何もすることができなければ、せめて一日に二、三度、ほほ笑んで向かいなさい」(御書1527㌻、趣意)と。
 “僕には、私には無理だ”と感じる人もいるかも知れない。しかし、せめて元気な笑顔を見せてあげれば、お父さんもお母さんも、どれほど幸福な心になれるか。
 それだけで“よし、この子のために、もっともっと頑張ろう!”と元気になれるのです。そうさせてあげられるのが、真実の若き「賢人」です。
 「勉強しなさい!」と言われたら、何はともあれ「はい!」と元気に返事するのです。
 たまには「お父さん、私たちのために働いてくれてありがとう」「お母さん、いつも美味しい料理をありがとう!」「大丈夫だから! 私の成長を見ていてね!」等と語りかければ、親は涙が出るほど嬉しいのです。どんな苦労も報われるのです。
 親を喜ばせてあげたいという「心こそ大切」(同1192㌻)です。その心が、因果倶時で、皆さん自身の成長と、ご一家の幸福に直結していくからです。
 皆さんのお父さん、お母さんは、究極の正義のために、毎日毎日、岩盤に爪を立てる思いで必死に戦っておられる。人間として最も崇高なる広宣流布の大使命に、私と共に生き抜いてこられました。
 一番正しいのに、心ない悪口罵詈をされることもある。悔しい思いをじっと耐えながら、法のため、友のため、社会のために、一身をなげうち、歯を食いしばって進んでおられます。どんな有名人よりも、どんな権力者よりも尊い信念の行動です。
 無名の偉大な庶民が、創価学会をつくり上げてくれたのです。一人一人と忍耐強く対話を重ね抜いて、創価学会を世界の平和・文化・教育の大連帯に築き上げてくれたのです。
 それもすべて、愛する皆さんの福運を願い、皆さんの勝利の道を開くための不屈の挑戦であります。
 たとえ言葉に出して言わなくとも、皆さんのために命を削りながら、祈りに祈り、働きに働き、戦いに戦っておられる。親心とは、そういうものです。
 わが子の健康と成長と幸福を願う親御さんの信心の一念に、皆さんはどれほど深く包まれ、大きく守られていることでしょうか。

両親を誇りとして
 わが未来部の秀才の皆さんは、そうしたご両親たちを、誇りとしてください。また、お父さん、お母さん方の信心一筋、学会一筋の生き方がわかる一人一人となってください。そして父母を心から尊敬し、感謝し、その恩に応えゆく「大賢人」となっていただきたいのです。
 時光のように、お父さんを亡くした人、また、お母さんがいない人もいるでしょう。しかし、胸の中にお父さんもいる。お母さんもいる。題目を唱えれば、御本尊の中におられる。生命は、いつも一緒です。
 さらに、親が未入会であったり、親子の関係が思うようにいかなかったりする場合でも、皆さんが大きな心で父母の幸福を祈っていくことです。
 皆さん自身が勇敢に一人立って、強く強く信心に生き抜くのです。断じて青春に勝ち、堂々と人生に勝つのです。大いに学び、「頭脳」も「心身」も鍛え、広布と社会の偉大な指導者になることです。
 今は苦しくとも頑張ることが、「父と母との恩を報ずる」最極無上の生き方なのです。
 そして、その健気な生き方にこそ「師弟」の魂も発光していくからです。
 どうか、父母の心を、学会の魂を、そして創価の師弟の血脈を、立派に継ぎゆく皆さんであってください。皆さんの未来の勝利──それが、私の最大の願いであり、祈りであります。

わが子に語る誉れ
 現代化学の父ポーリング博士のご子息で、精神医学の権威であられるポーリング・ジュニア博士が、「家庭教育」について語っておられました。
 「子どもたちは、自然に家庭の中で、親の考え方や思想を継承するものです。言葉で伝える場合もあるし、無言のうちに伝わっていく場合もあります。親は常に心の中に“平和を推進する”という強い信念をもって行動することが大事ではないでしょうか」
 この模範を示しているのが、創価の家庭です。
 戸田先生は断言されました。
 「学会の幹部として戦う。人のため、法のため、平和のために働いている。これほど尊いことはないじゃないか。仏法即社会であり、一番尊い社会的地位だ」
 また、婦人部の会合では、こう話されています。
 「きょうの集いも、歴史の一ページとなって、夫に語り、わが子に語れる資格を得られたことは、あなた方の名誉と信じます。必ずや、広宣流布達成に邁進して、一生涯の幸福を得られることを信ずるものであります!」と。
 たとえ、多忙の中で、かかわってあげられる時間が少なくとも、広布のために真剣に戦う親の思いは、必ず必ず、わが子に通じていきます。
 大勢の人に尽くす父母の後ろ姿は、お子さんの心に深く残ります。時と共に、誇らしい宝の歴史と輝いていくものです。
 私にも、少年時代の忘れられない思い出があります。それは、戦争で亡くなった長兄との約束です。

世界一の親孝行を
 戦争中、わが家は4人の兄を次々に兵隊にとられ、肺病の私が弟や妹の面倒を見ることになりました。ある時、長兄は私にこう言いました。
 「後に残って、一家を支えるのは、大作、お前だ。親父の力になってあげてくれ。それから、お袋を大事にな……。俺の分まで、親孝行するんだぞ」
 そして長兄は戦地に赴き、帰らぬ人となったのです。
 母の悲しみはいかばかりであったか。私は「日本一、世界一の親孝行をしよう!」と決め、戸田先生を師と定めて、青春時代を生き抜いたのです。
 昭和25年(1950年)の5月9日、22歳の私は日記に綴りました。
 「家を離れて、早くも、一年。永遠の生命の、一瞬間に、不思議にも、因を、縁を、結びし親だ。苦労に苦労を重ね、私を一人前の人物として育み、苦しんで下さった親だ。忘れることは出来ない、瞬時たりとも。親孝行をしなくてはいけない。今に見ろ」
 当時、戸田先生の会社の経営は最悪の苦境に陥っていた。仕事に奔走し、その合間を縫うように、御書を拝し、学会活動に打ち込んでいた時代です。一人暮らしを始め、なかなか両親に会うこともできませんでした。
 しかし、どんなに多忙になっても、私は両親の幸福を祈り、親孝行を心がけてきました。
 その私の心を、誰よりもご存じだったのが戸田先生です。
 師匠は、弟子たちとその一家一族の前進と向上と勝利を一心不乱に、祈りに祈っています。

弟子を思う師の心
 成長した時光が病気になった時、大聖人が送られた御手紙には、こう仰せです。
 「鬼神どもめ、この人を悩ませることは、剣をさかさまに呑むようなものだ! 大火を抱くようなものだ! 三世十方の仏の大怨敵となるつもりか!」(御書1587㌻、趣意)
 愛弟子の時光を苦しめる鬼神を、烈々たる気迫で叱責されているのです。
 このころ、大聖人御自身も病と闘われているさなかでした。御自らの病身をおして、御手紙を綴られ、生命力を振り絞って、弟子を襲った病魔を打ち払ってくださっているのです。広大無辺の師匠の慈愛が、胸に迫ってくるではありませんか。時光は感涙の中、勇気百倍で病に打ち勝っていったのです。
 これが仏法の師弟です。
 戸田先生は、常々、青年に語られていました。
 「今、私が矢面に立っている。君たちには傷をつけさせたくないのだ。烈しい疲労の連続であるが、私は毅然として時を稼ぐ。君たちは、今のうちに勉強をし、力を養い、次の時代に敢然と躍り出て広布の実現をはかることだ。戦いは長い。すべて君たちに託す以外に何ものもないのだ。それまで、いかなる中傷、非難にも耐え、防ぎに防いでおくよ」
 私も全く同じ気持ちです。
 広宣流布は、若き未来部の皆さんに託す以外にない。私はあらゆる難を一身に受けて、時を創り、ひたすら待っています。
 皆さんの逞しき成長を!
 皆さんの輝かしき勝利を!
 そして皆さんのため、断固として世界に道を開き続けます。

“負けじ魂”で進め
 今、病気と闘っている皆さん! また経済苦や、学校でのいじめなどに悩む皆さん! 断じて負けてはならない。妙法の功力は絶対です。皆さんの生命の可能性は無限であります。
 題目を唱え抜いて、御本仏の師子王の大生命を若き命に漲らせ、「負けてたまるか!」と、勇気と執念で勝ち越えていくのです。皆さんには私がついています。私が祈っています。
 師匠は師子です。ならば弟子もまた師子である。自分自身のため、ご両親のため、師匠のために、断固として勝つのです。
 人と比べてどうかではない。昨日の自分と比べて一歩でも二歩でも前進しゆく人が、真の「勝利の人」です。
 アメリカ実践哲学協会のマリノフ会長が、創価学園生に出会った感動を語られていました。
 「この人たちだ。この人たちになら世界の運命を任せられる──本当にそう思いました」
 まさに、全未来部に対する期待の声でもあります。世界の知性は、人類の平和をリードする未来部の登場を待っています。
 大聖人は、時光に「王は民を親とし」(御書1554㌻)と教えられました。指導者が、民衆を親のごとく大切にし、親孝行をするように民衆に尽くす。そうした真の指導者が澎湃と躍り出る時が広宣流布です。その主役こそ未来部の皆さんです。
 「青春王者」である皆さんが一人も残らず栄光の人生を歩んでいくように、私も妻も、一生涯、いな永遠に祈り、見守ってまいります。
 どうか、わが若師子の未来部は“負けじ魂、ここにあり!”を合言葉として、快活に、朗らかに、私と一緒に進んでいこう! 親孝行の夏を頼むよ!
 君よ、あなたよ、偉大な二十一世紀の南条時光と輝け!

 偉大なる
  未来の名士の
    君たちよ
  今こそ負けるな
    努力が勝利に
2009-07-30 : 御書と師弟 :
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新 あの日あの時 5 

新 あの日あの時 5     (2009.7.28付 聖教新聞)

池田先生と新大阪総県

今再びの「勝利のVサイン」を

西淀川に会館を
 大阪市北区の中之島は、堂島川と土佐堀川にはさまれた中州である。
 中之島の中央公会堂から出て、堂島川にかかる橋を渡ると、大阪地方裁判所がそびえ立つ。
 今では橋の上を高速道路が走っているが、1962年(昭和37年)1月24日には、まだ視界をはばむものはない。大阪地裁も合同庁舎ビルに建て替えられる前だった。重厚な赤レンガ造りで、中央に丸屋根の塔がある裁判所がよく見えた。
 この日、中央公会堂では関西女子部幹部会が開かれた。場内の空気が、ぴんと張りつめている。
 4年半にわたって審理されてきた「大阪事件」。その判決公判が明日の1月25日、対岸にある大阪地裁で開かれる。しかも法廷で、その判決を受ける池田大作会長を迎えての幹部会である。
 ボルテージは高まる一方だった。登壇者は権力への憤りを口にする。
 いよいよ会長がマイクの前に立った。「最初に申し上げたいことは……」。5500人の瞳が集中する。
 「台風で大きな被害をうけた西淀川方面の会館を、土地が買えましたので、すぐに建設します」
 第2室戸台風が襲来したのは、前年の9月だった。水が引いたばかりの西淀川で学会員を励まし、必ずここに会館を建設することを約束した。
 自身の判決公判の前夜であろうと、会長の心は被災した会員に注がれていた。
 公会堂を出た会長の車は、国道2号線に入った。長い淀川大橋を渡ると、そこは西淀川区である。

東淀川から突撃
 天下の台所・大阪。
 古くから経済の中心地として栄えてきたが、その要は、水運の大動脈・淀川である。
 学会の組織も「淀川」を軸に見ると、その発展するプロセスがよく分かる。
 52年(昭和27年)に発足した大阪支部の中軸は3地区だった。
 阿倍野地区(大阪市南部)。堺地区(大和川以南)。そして大阪市の淀川流域から北へ広がる「淀川地区」である。
 淀川地区は、特に女性陣が元気だった。班長4人のうち3人が婦人である。縁故で折伏する他地区と異なり、地域に密着していた。
 54年(昭和29年)9月、池田室長が大阪の教学担当として通い始めると勢いは増す。淀川地区と、そこから誕生した梅田、九条の計3地区が、11月の折伏で全国の上位3位までを占める。
 そして、56年(昭和31年)4月、淀川地区は日本一になった。翌月の大阪支部の折伏1万1111世帯を牽引したのである。
        ◇
 東淀川区の阪急千里線・下新庄駅。北千里行きホームの端に立つと「吉田米穀店」の看板が見える。
 池田室長が訪れたのは56年6月ごろ。「大阪の戦い」の佳境である。
 店には茶色の米袋が胸の高さまで積まれていた。くすんだ銀色の精米機が、震えながらザーッと白米を吐き出していた。
 廊下をはさんだ二間続きの薄暗い和室に、約70人。むしむしと汗ばむ日たった。開襟シャツの室長も、じっとりと汗が噴き出ている。
 ハラハラと見ていた奥野敏子。店の夫人・吉田福栄《ふくえ》に声を掛けた。
 「水だして」「うち、ガラスのコップあれへん。湯飲みしかないねん」「ほんならコップを隣から借りてきてや」
 そんな、ひそひそ話も聞き逃さない室長。
 「大阪は『水の都』と言うけど、コップはないんだね」
 どっと笑いが弾けた。
 「私の家内は、小さな子の手を引きながら、学校の同級生の家をコツコツ回り、友だちと仲良く話しているよ」
 香峯子夫人を具体例に紹介した。難しい指導はいらない。毛筆をとり、模造紙に大書した。
 「突撃」
 せや、折伏精神や! 東淀川は全軍が「大阪の戦い」に突撃した。

淀川と7月17日
 淀川区の福田武子は長屋の住人だった。体を横にして、やっとすれ違える細い道が、迷路のように入り組んでいる。「あそこは、いっぺん入ったら出られへん。『地獄谷』や」と面白がられた。
 58年(昭和33年)4月に入会。翌日、ボロボロの座談会提灯を吊すと長屋は大騒ぎになった。無我夢中の対話が実り、折伏が決まると“見てみい! 地獄谷にも地涌の菩薩がおるんや”と叫びたいような気持ちだった。
 後年。大勢の人とともに、池田名誉会長と出会う機会があった。
 「1月2日が誕生日の人は?」と聞かれ、福田はさっと手を挙げた。
 「私と同じだね。どこから来たの?」
 「淀川です」
 「淀川か。あそこは昔、ずっと蓮池だったんだよな」
 名誉会長は懐かしそうな目になった。52年(昭和27年)の大阪初指導以来、淀川を見続けてきた。
 福田に即興で句を贈る。
 蓮池や
  泥より出でたる
      功徳かな
 ぬかるんだ路地裏を折伏に走ってきた福田は、すべての苦労が報われた気持ちがした。
        ◇
 79年(昭和54年)7月15日。豊中市の関西戸田記念講堂で合唱祭が開かれた。
 池田名誉会長の名代で香峯子夫人が出席し、歌声に拍手を送った。
 翌日、納涼の夕べがあったが、香峯子夫人は「明日の17日、どこか家庭訪問させていただけない
でしょうか」。7月17日は「大阪大会」が開かれた出獄の日である。
 淀川区の奥谷チエ宅が選ばれた。大阪事件で室長に何度も差し入れを届け、一度も欠かさず公判を傍聴してきた功労者である。
 奥谷宅に近くの婦人部員も集まってきた。香峯子夫人を囲んで、15人ほどが車座になった。
 夫の母を介護している婦人がいた。香峯子夫人は「大変ですね」とねぎらう。「でも、ご主人のお母様ですから、大切にすることは、尊い使命ですね」。婦人はハッとした表情になった。グチをこぼせば母がかわいそうだ、と気がついた。
 奥谷も、子どもが難聴である悩みを語った。
 「一家和楽の信心をできること自体が、すごいことなんです」と励まされた。
 大阪大会で池田室長が「信心しきっだ者が、最後は勝つ!」と言い切った日。淀川の婦人を前にして、香峯子夫人も同じ確信だった。

此花に“幸せの花”
 65年(昭和40年)6月1日、淀川区の新大阪駅(当時・東淀川区)に、新幹線が入線してきた。
 初代の「ひかり」号は、最近の長い流線形と違い、先頭部分は、丸みを帯びた「団子鼻」である。ワンピースにエプロンの二俣《ふたまた》政子が、ホームから乗りこんだ。
 二俣は、東海道新幹線の車内販売員。「ひかり」が新大阪を出ると、商品を詰め込んだ重いワゴンを中央の車両から後方へ押し始めた。
 京都駅を過ぎたあたりで、ある車両に入った。自動扉が開いて、あっと声を上げそうになった。
 池田名誉会長が乗車しているではないか。控えめに「わたし女子部です」。
 「そうですか」と笑顔が返ってくる。「このサンドイッチとお菓子、あとジュースも……」
 アルコール以外、京都土産の八橋まで全商品を注文してくれた。緊張して、なかなか計算できない。
 「損しちやダメだよ。しっかり計算してね」
 すっと楽になった。
 「こんなにたくさん買っていただいて、どうされるんですか」
 「心配しなくていいよ。これから名古屋に行くから、頑張ってる皆にあげるんだ」
 どこにあっても、脳裏には会員の幸福しかない。
 「幸せになるんだよ。人生に立派な花をいっぱい咲かせなさい!」
 会長の座席から離れると、ワゴンがすっかり軽くなっていた。
 2年後に二俣は結婚して、大阪市の此花区へ移る。
 淀川の河口にあり、阪神工業地帯の中心だが、公害で大気や水が汚された。やがて高度経済成長が終わると、工場の移転・閉鎖が続いた。
 それでも座談会は明るかった。油じみた作業着の労働者や、九州・四国からの単身者も多かったが、二俣は「人生に花を咲かせなさい」という指導を思い起こし、励まし合った。
 どこか、ほかに花が咲いているのではない。「此花」に咲かせるのだ! 町内会の婦人部長にもなった。
 2001年(平成13年)春、二俣の支部内の工場跡地に「ユニバーサル・スタジオ・ジャパン」がオープンした。

福島の三色旗
 1990年(平成2年)6月5日。帰京する名誉会長を乗せた車が、新大阪駅に向かっていた。
 阪神高速を下り、逆方向の福島区に入る。「聖天通《しょおてんどおり》」と書かれた商店街のアーチ。そこに大きな横断幕が張られていた。
 「祝 大阪平和講堂落成」
 学会の新会館の完成を祝う幕に、名誉会長はカメラを向けた。
 そのまま車は、大通りを北に折れ、大阪平和講堂の前を徐行する。門の前にいた会員に三色の旗を振った。
 「お元気で!」
 外まで駆けつけてきた婦人がいた。名誉会長は、窓から腕を出し、高々とVサインを示した。
 新大阪は常に勝利のVサインとともにある。
2009-07-28 : 新 あの日あの時 :
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忘れ得ぬあの瞬間 第6回

忘れ得ぬあの瞬間
名誉会長と共に80周年を勝利
 (2009.7.27付 聖教新聞)

第6回 世界広布の第一歩

目の前の「一人」に勇気の炎を

 うねるような轟音を響かせて、日本航空の大型ジェット機が、羽田空港から大空へと舞い上がった。
 1960年(昭和35年)10月2日、午前10時40分。
 大気を切り裂いて上昇を続ける機中には、世界広布への第一歩を踏み出した池田名誉会長の姿が。背広の内ポケットには恩師・戸田第2代会長の写真が収められていた。
 「大作、君は世界に征くんだ!」──師の遺命を胸に、初の海外訪問へ。目的地はアメリカだった。
        ◇
 なぜアメリカだったのか。
 「東洋広布」 「仏法西還」との言葉から、「まずアジアヘ」と考えた人もいた。
 しかし、名誉会長は違っていた。アメリカは、世界をリードする超大国であり、西側諸国の盟主。政治、経済、文化など、あらゆる面で“国際社会の中心地”たった。
 戦後は日本との結びつきが強く、信教の自由も保障されている。何より、日本から多くの学会員がアメリカに渡っており、直接の指導が切望されていた。
 まずは「急所」を押さえる。「要所」から戦いを始める。アメリカを中心に世界広布を展開するのだ──名誉会長には明確な構想があった。
 事実、これまでの米国訪問は27回に及ぶ。他の国々と比べ、群を抜く多さである。
        ◇
 10月2日、最初の訪問地・ハワイで、海外初の「地区」を結成。サンフランシスコ、シアトルなどを訪れ、カナダのトロントを経て、13日に二ユーヨークに入った。
 14日、国連本部を訪問。ちょうど第15回国運総会が開催されており、傍聴した。
 時は東西冷戦の真っただ中。総会でソ連のフルシチョフ首相は、激しい西側批判を展開。総会は荒れに荒れた。
 「今はフルシチョフが来ているから、このニューヨークだけは原爆を落とされないだろう」──そんなジョークが市民の間で交わされていた。
 名誉会長が国連を訪れたのは、フルシチョフ首相がソ連に帰国した翌日だった。
 「原水爆禁止宣言」、そして「地球民族主義」という恩師の理念。それを、どう世界に宣揚し、展開していくか。
 東西両陣営の首脳と胸襟を開いて語り合う「対話」。
 「人類の議会」を尊重し、もり立てていく「国連支援」。
 若き名誉会長の胸には、平和への潮流を巻き起こすための青写真が、生き生きと描かれていた。
        ◇
 この日の夜には、ニューヨークにほど近い、ニュージャージー州内の座談会へ。米国軍人と結婚してアメリカヘ渡った“戦争花嫁”を中心に、十数人が集まった。
 しかし、内容は「座談会」というには、ほど遠い。
 家庭不和。経済的困窮。異国での寂しさ。入会歴も浅い人が多かった。「とにかくつらい。もう日本に帰りたいんです」と涙を流す婦人たち。
 「皆さんの旅行カバンに私を入れて、連れて帰って」と懇願する人までいた。
 名誉会長は言った。
  「皆さんのご苦労は、痛いほどわかります。しかし皆さんは、偉大な使命があって、このアメリカに来たのです。
 仏法の眼から見るならば、どんなクイーン(女王)よりも、尊貴な存在なのです。絶対に幸せになれます!」
 「今に、日本とアメリカを飛行機で自由に行き来できるような境涯になります。アメリカと日本は、互いに庭先みたいになりますよ」
 友の心に、断じて「勇気」と「希望」の炎を灯すのだ。目の前の「一人」を立ち上がらせるのだ。渾身の激励は、2時間にわたって続いた。
        ◇
 第1回の海外指導は困難の連続だった。現地との連絡の行き違い。強行軍。体調の悪化。無理といえば、すべてが無理であった。
 「不可能」を「可能」にしてみせる。名誉会長は飛行機の中でも、車の中でも、小声で題目を唱え続けた。
 「アメリカの大地から、地涌の同志よ、湧き出でよ! 何としても、世界広布への道を切り開くのだ!」──と。
 それから半世紀。今、地涌の陣列の大河は192力国・地域を潤すに至った。
 「20年、50年たってみれば、きょうの日は偉大な記念日になるだろう」
 アメリカ大陸への第一歩を印した、サンフランシスコでの名誉会長の宣言である。
2009-07-28 : 忘れ得ぬあの瞬間 :
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新 あの日あの時 4

新 あの日あの時 4     (2009.7.24付 聖教新聞)

池田先生と西大阪総県

「常勝関西」発祥の地

白木の「2月闘争」
 1952年(昭和27年)。あの「2月闘争」の大旋風が画風・蒲田で巻き起こっていたころである。
 大阪市西成区。地下鉄「花園町駅」の薄暗い階段を、長身の男が、のっそり上がってきた。
 プロ野球選手の白木義一郎。地図を記したメモに目を落とす。練習の合間をぬってバラック街を折伏に歩く。
 2歳の娘・以知子や妻の文《ふみ》は、遠く東京に置いてきたままだ。
        ◇
 この年、東急フライヤーズから阪急ブレーブスヘ。在阪球団へのトレードを機に、蒲田支部の白木は「大阪支部長心得」になった。単身、落下傘で飛び降りるようなものである。さすがの剛球投手も心細い。
 「義っちゃん、これは御仏意《ごぶっち》だ。大阪を頼む。一緒に75万世帯をやろう!」
 どんと背中を押してくれたのは、蒲田の池田大作支部幹事だった。
 「大阪」だ。「関西」だ。ここを強くしなければ75万世帯は達成できない。その突破口を白木に託した。本気の一人をつくるしかない。
 1月末、東京から夜汽車で大阪へ発つときも、固い握手をかわして見送った。
 「2月闘争」への闘志が白木の胸に火を点した。
 やがて、それは大阪で赤々と燃え上がる。
        ◇
 「花園町駅」を出て、白木は目的の家へ大股で急いだ。紹介された山本福市は、妻が病弱で悩んでいた。仏法の功力を直球勝負で語った。
 「ほな、わたしら、やりますわ」
 52年2月17日。まず下町の西成で、関西の折伏第1号が実った。

西成の花園旅館
 55年(昭和30年)12月に関西本部が誕生するまでの間、しばしば本陣となった拠点があった。
 花園旅館。山本宅の目と鼻の先、西成を南北に走る南海電車の線路近くに立つ。電車の音が窓ガラスにピリピリと響く。木造の二階屋たった。
 宿の主が日蓮宗(身延派)の信者だった。戸田会長が声をかける。
 「ご主人、身延なんかやめなさい。この信心をすれば、いつの日か、必ず大きなビルが建ちます」
 あまりの確信に、そばで見ていた従業員が後で入会を申し出る。
 たちまち噂が広まった。
 「戸田先生が花園旅館にいてはるから、誰でも連れていきや!」
 生活苦、経済苦、病苦。それらが奔流となり、花園旅館の小さな一室に押し寄せた。
 不妊で悩む会員に真正面から言い切った。
 「子どもができなくて悩む親もいる。一方で、子どもを食い物にするような親もある。この信心をやりぬいて、宿命を転換するしかない!」
 青年部の池田室長への薫陶は厳しかった。
 ──ひとり室長が帰京する日。荷造りを終え、部屋へ挨拶に来たところ、いきなり会長が問いかけた。
 「大作」
 サッと居すまいを正す。
 「いま臨終になったら、従容としていられるか」
 「ハイ!」
 間髪を入れず、鋭い返事。大阪では常に「臨終只今」の精神だった。
        ◇
 ある日。戸田会長を囲んだ懇談の折である。
 「誰だ、そいつは!」
 激しい剣幕で一人を指さした。不審げに目をぎょろつかせている。他宗の信者が紛れ込んでいた。ひそかに様子を探りにきたものと見えた。
 「そこの拝み屋! ここは貴様のような者が来るところではない!」
 一喝されるや、脱兎のごとく逃げ出した。返す刀で居ならぶ幹部に檄が飛ぶ。
 「なぜ分からなかったのだ! 戦いの中でこそ、邪悪を見抜け!」
 花園旅館は、実戦の道場だった。

庶民の町・西大阪
 大阪湾へ流れる木津川を、市民の足の渡し船が、ゆったりと進む。
 湾の奥にある西成、大正、住吉、住之江。
 「常勝関西」の発祥の地・西大阪は“ド庶民の街”である。隅々まで池田室長の足跡が刻み込まれている。
        ◇
 住吉区の宮下伊平。戸田会長の気迫が今も忘れられない。
 「折伏は、この戸田がやる! ほかにやりたい人間は願ってついてこい。それでこそ戸田の弟子だ!」
 その会長に一番弟子がいると聞いた。さぞ強面の人やろう……。後に会合で室長と出会い、息を呑んだ。何とも爽やかな好青年ではないか。
 「私か舞を舞いましょう!」
 ♪生れ故郷を あとにして……
 大きく振りあげた腕《かいな》に、射貫くような眼《まなこ》。キリッと結んだ口元。ああ……。やっぱり戸田会長と同じや。同じド迫力や!。
        ◇
 西成区の西島夏子。57年(昭和32年)2月ごろ、会合の帰路、池田室長と一緒になった。「聞きたい事があったら、何でも遠慮せずに言ってごらん」
 「実は主人の仕事が忙しくて、地区幹事として活動できないことに悩んでいます」
 きっぱり言い切った。
 「信心は時間で決まるのではありません。心で決まるのです。
 たとえ30分でも、広宣流布のために真心を込めて戦うのです。あとは御本尊に、しっかり祈る事です。30分が3時間に値する戦いになります」
 ハッとした。誰よりも時間がないのは室長やった。
 笑顔で言われた。
 「必ず時間に困らない境涯になります。安心して活動に励まれるよう、ご主人に言ってあげてください。広宣流布のための願いは絶対、叶います」
        ◇
 住之江区の粉浜《こはま》(当時は住吉区)。古い軒が連なる住宅街に、ひときわ目立つ白壁があった。企業の重役の家だった。
 56年(昭和31年)5月の昼下がり。室長が上がり框をまたいだ。
 20人ほど集まり、会合が開かれていた。まだ会場には十分なスペースがあった。
 組長と組担に目を向けた。
 「どれくらい折伏をやるんだい」
 「地区一番になります」。思い切って背伸びした。
 室長が笑って、手を横に振った。
 「地区一や大阪一ではダメです。目指すのなら、日本一!」
 翌年、室長は再び同じ会場へ向かった。1年前と熱気がまるで違う。広い部屋の隅々まで、住之江や住吉などの会員でいっぱいだった。
 「この家も、だいぶ狭くなったねえ!」
 一人一人に視線を送りながら、新しい指針をピシリと打ち込んだ。
 「一に団結。二に団結」
 ひときわ語気を強めた。
 「三に、団結です!」
        ◇
 関西本部の勤行会に参加した大正区の前川ハル子。威勢よく立ち上がった。「大阪の戦い」の最終盤である。
 室長から声をかけられた。
 「あなたは自分が元気な間に、折伏を何世帯やるか。ここで私と約束しよう」
 あっ。計算している余裕などない。
 「に、200世帯やります!」
 にこりと相好を崩した。
 「20年、信心を真面目にやれば、世界にだって行ける。私も世界中へ行くからね」
 その約束を果たした前川。いま、90歳の卒寿を超え、室長が言ったとおりの境涯になった。

何でも一番になれ
 なんと気丈な方か。
 西成区の小林節子は身が引き締まる思いがした。
 73年(昭和48年)12月。中之島の公会堂での本部総会。
 小林は池田名誉会長の母堂・一さんと共に会場に着いた。半年前、東京の大田を訪れた際に交流を結んだ。
 総会は長時間に及んだ。端座したまま身じろぎ一つしない。じっと名誉会長の言葉に耳を傾けていた。
 「ぜひ西成にも、うかがわないと」
 来阪すると、小林の自宅や近くの聖教新聞の販売店までわざわざ足を運び、丁重に挨拶した。後々《のちのち》まで西大阪での思い出を振り返った。
 76年9月の逝去の際。名誉会長から小林のもとに揮毫が届いた。
 「母が 最も関西にお世話になり 最も関西の友が大好きであり 最も思い出をつくって下さったことを謝しつつ」
 母堂を偲び、西成文化会館の庭に「一桜《いちざくら》」の樹が植えられた。
 後に名誉会長は、母堂の名の由来にふれている。
 「母の両親が『一番幸福になるように。その子どもたちも何かで一番になり、社会に尽くせよ』という願いをこめて『一』と命名したんです」
 何でも一番!
 池田家の心は、最も縁《えにし》深い大阪の心意気でもある。
 2008年9月。
 本部幹部会で新リーダーが紹介された。関西婦人部長の山下以知子。
 白本義一郎が新天地の大阪へ来たとき、2歳だった娘である。西大阪の婦人部長を務めたこともある。
 スピーチの中で名誉会長が懐かしそうに声をかけた。
 「あの子が、こんなに立派になったんだもの。お父さん、お母さんも、きっと喜んでいるよ」
 壇上で名誉会長に誓った。
 「関西の同志とスクラムを組んで、必ず完勝します!」
 彼女の名前は以知子。
 母堂は一さん。
 「大阪の戦い」の金字塔は1万1111世帯。
 関西は、いつも一番で勝つ!
2009-07-24 : 新 あの日あの時 :
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世界との語らい 第36回

第36回
ロシア連邦・サハ共和国 ボリソフ文化大臣
                (2009.7.23.付 聖教新聞)
わが身は難攻不落なり
胸中に輝く智慧と勇気の“北極星”‼


 困難な闘争に、勇んで勝負を挑む人間は、尊貴である。
 逆境の中を、苦労して戦い抜く人生は、荘厳である。
 サハ共和国が誇る、大詩人クラコフスキーは謳った。
 「果てしなき勇気をもって
 絶望さえも打ち払い
 再び立ち上がるのだ!
 何百倍も
 燃え上がりながら!」
 この不屈の精神を体現しておられるのが、アンドレイ・ボリソフ文化大臣である。
        ◇
 サハは、ロシア連邦を構成する共和国の一つ。「シベリアの中のシベリア」と呼ばれ、国土の40%は北極圏である。
 最低気温の記録は、マイナス71・2度。夏と冬の気温差が100度に及ぶこともある。
 ボリソフ文化大臣を日本にお迎えしたのは、2004年の厳冬の1月であった。
 激務の大臣である。加えて、この時期は、空港もしばしば閉鎖される。マイナス50度以下では、飛行機の機体に付着した水分まで氷結し、エンジンの回転も鈍り、運航が危ぶまれるのだ。
 その中を、断固たる意志で来日くださった真心は、終生、忘れることができない。
 私との語らいで、文化大臣は言われた。
 「私たちは厳しい寒さも、やっかいとは思いません。マイナス40度といった寒さだと、ウイルスや細菌が活動できず、疫病は流行らない。
 私たちは、使命感を持っています。地球環境のために。私たちの自然豊かな広大な土地を守るという使命です」
 このサハの人々の誇り高き魂を、先師・牧口常三郎先生は、すでに100年前の『人生地理学』で讃えられていた。
 牧口先生も北国の育ちだ。
 「勇者にとっては、厳寒も友である」──サハの格言である。
 それは、北海道、東北、信越、北陸など、雪国で吹雪に胸張り、広宣流布の道なき道を開いてきた、創価の同志の気概と重なり合う。

民衆のために!
 ボリソフ文化大臣は、舞台芸術家としても名高い。32歳で、サハーアカデミー劇場の主席監督に就任した。手がけた作品は、ロシア連邦の名だたる賞に輝いている。
 溢れる才覚と篤実な人格。私との語らいでも、快活な名優そのものの振る舞いであった。「天才の中で、最も親しみやすい人」「大臣の中で、最も気さくな人」──サハの民衆の心を引きつけてやまぬ魅力を、垣間見る思いがした。
 大臣がリードしてこられたサハ・アカデミー劇場が標榜する理念には、こうある。
 「我らは芸術のための芸術を拒否する」
 「我らは、人間と民衆の運命のために作者が戦っていると、はっきり鋭く感じられる戯曲のみを認める」
 「我らは、役者が一個の人間として、人間と民衆の運命に真に心を痛めたとき、初めて役者の才能と情熱が観客に伝わり、演ずる役も観客を魅了し、共感を呼ぶことができると確信する」──と。
 何と誇らかな人間芸術、民衆芸術の宣言であろうか。「人間として人間のために!」「民衆と共に民衆のために!」
 それは、労苦をいとわず、声も惜しまず、尊き大使命に奔走してくれる、わが創価の芸術部の精神とも一致する。
        ◇
 大臣は、各国との芸術交流を積極的に推進されてきた。
 私が創立した民主音楽協会が、サハの国立民族舞踊団「ホトゥグ・スルス(北極星)」を招聘したのは、2001年、新世紀の出発の年である。日本の23都市で、3万人以上が鑑賞し、深い心の共鳴を広げた。
 大臣は語っておられる。
 「文化・芸術を伝えるには、“お互いを高め合い、豊かにしていくのだ”という『使命感』が大切です」
 日本にとって、大切な隣人であるサハの方々と、共に向上しゆく魂の交流を結び得た喜びは、誠に大きい。

言葉は偉大な力
 国土のほぼ全域が永久凍土に覆われたサハ。そこには、世界一の生産量を誇るダイヤモンドが眠っている。金、銀、石炭、石油、天然ガスなども豊富だ。
 凍土の中で「生存時のまま」保存されていたマンモスは、サハ共和国の尽力で、4年前に愛知で開催された「愛・地球博」や、一昨年、西大阪の住之江区で行われた展示会でも注目を集めた。
 豊かな自然、価値ある資源。それにも増して、サハを代表する真の宝は「人間」である。
 文化大臣は、私の対談集をはじめ『私の釈尊観』などの著作も読んでくださっていた。
 「一人一人の胸中に、仏の生命がある」と説く仏法哲学に鋭く共感を示されている。それは、「人間の心は海の如く、必要なもの全てを包含している」という大臣の洞察とも、響き合っているのだ。
 一人一人の生命に英知の精神があることを、演劇を通して思い起こさせたい! ここに、大臣の気高き信条がある。
 創価の人間革命の運動も、わが生命の大海に秘められた最上の智慧と力を、万人に発揮させゆく戦いだ。皆が励まし合いながら、人生と社会の大舞台で、幸福と勝利の劇を飾りゆくことである。
 そのための武器は、何か。勇気と慈愛の「言葉」である。
 「言葉は偉大な力を秘めている。言葉は人を元気にすることもできれば、殺すこともできる」とは、言葉の芸術を織り成す文化大臣の箴言だ。
        ◇
 若き日のボリソフ大臣が、庭掃除のアルバイトで掴んだ発見を伺ったことがある。
 冬、庭一面に張り詰めた、分厚い氷を割る時に、あっちこっちと突いても、少ししか割れない。しかし、一カ所を定めて打ち叩いていくと、そこから一気に、ひびが広がり、大きく割れるというのだ。
 万般にわたり、急所がある。そしてまた、大きく波動を広げるキーパーソンがいる。その人を見つけ、味方にすることだ。そこに勝利の方程式がある。
 ともあれ、一点に勢いを結集すれば、必ず活路は開ける。
 仏法で、「竹の節を一つ破ぬれば余の節亦破るるが如し」(御書1046㌻)と説かれる通りだ。

母は“心の理想郷”
 サハが一番、美しい季節は、一番、寒い時だという。
 人生も同じであろう。最も苦しい時にこそ、人間は最も光るのだ。それを、何よりも神々しく示してくれるのが、けなげな母たちである。
 文化大臣も語られている。
 「母は“心の理想郷”です」
 「感謝を込めて母のことを思えば、私たちを向上させてくれる、大いなる精神のエネルギーが発揮されるでしょう」
 ここに、人間が平和と幸福の道を歩みゆく原点がある。
 母に感謝しゆく青年は、人間の正道を外れない。
 母を大切にする社会は、必ず勝ち栄えていくのだ。

光れ!北区の友

 大臣は、私に語られた。
 「私たちのヤクート語では、北極星のことを『天の支柱』と呼びます」
 ソ連邦の崩壊をはじめ世紀をまたぐ激動の中、ボリソフ大臣ご自身が、揺るぎなき「文化の支柱」となり、不動の芸術の「北極星」となって、祖国を護り照らしてこられた。
 いかなる社会にあっても、仰ぎ見る北極星の存在が、勝ち光っていくならば、誰もが正しき進路を自信をもって進んでいくことができる。
 私は、北国の信頼する同志に、広宣流布の北極星と光れと語ってきた。さらに「北」の文字を冠した北区の友にも、同じ期待を寄せてきた。東京の北区をはじめ、札幌、さいたま、新潟、浜松、名古屋、京都、大阪、そして堺、神戸、岡山など、全国で北区の友の健闘が冴え渡っている。
        ◇
 大臣は、北極文化芸術国立大学の初代総長として、「人間」を育て上げてこられた。
 「誠実な心は、常に偽りを見破る」と、大臣は厳しく言われた。誠実でなければ、また真実でなければ、人の心は決して動かせぬことを、誰より知悉されている方である。要領や策など通用しない。
 その大臣が、創価の新春幹部会に出席され、感動されていたことがある。
 それは、会場の前方が青年部によって凛々しく埋め尽くされ、社会的な有力者などは、むしろ脇や後ろで、青年を見守っている配席である。
 そこに、正しき教育と文化の精神を見出してくださったのだ。さらに大臣は言われた。
 「演出家なので、どうしても舞台裏や演出に目が行きます。きょうの会場の、特に青年の方々の瞳を見て、『これは、作ろうと思って作れるものではない』と確信しました。心が鼓舞されました。
 こんな気持ちは、何十年来なかったことです。私の人生にとって、かけがえのない一日となりました」と。
 わが創価の青年こそ、新しき人類社会の北極星なのだ。
 その真摯な大情熱の瞳を、一段と強く燃やして、民衆の心を揺り動かしゆくことだ。そして、壮大なる正義の勝利の叙事詩を、21世紀の歴史に綴り残してもらいたい。
 サハには、名もなき民衆が作り上げた「オロンホ」という雄大な英雄叙事詩がある。
 その一節を、大臣と一緒に、私は世界の青年に贈りたい。
 「わが運命は不屈なり。
 わが力は無尽なり。
 わが身は難攻不落なり。
 わが威力は尽きず。
 わが運命は崇高にして
 永久《とわ》に崩れることなし!」


アンドレイ・ボリソフ(1951年~)
 サハ共和国文化大臣。オユンスキー記念サハ・アカデミー劇場主席監督。
 サハ共和国ニジリ村生まれ。サハ・アカデミー劇場の俳優、監督として活躍。演出した作品で「ロシア連邦国家賞」「ゴールデンマスク賞」などを受賞。ソ連人民代議員、ユネスコ・フォークロア委員会副会長、北極文化芸術国立大学の初代総長などを歴任。「ロシア連邦功労芸術家」「サハ共和国功労芸術家」の称号を持つ。
2009-07-23 : 世界との語らい :
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新時代第31回本部幹部会

新時代第31回本部幹部会/広布第2幕 第16回全国青年部幹部会/白蓮グループ大会/ブラジル ホンドニア連邦大学名誉博士号授与式での名誉会長のスピーチ㊤㊦
                    (2009.7.16 東京・創価国際友好会館)

アマラウ総長の授章の辞

教育 文化で心を変革

 池田大作博士並びに香峯子夫人、ご列席の皆様。
 ホンドニア連邦大学は、アマゾン南西部を流れるアマゾン川支流のマデイラ川沿岸に位置しています。
 名誉博士号を授与するという提案によって、その著作や行動から池田大作博士について知るという機会が生まれました。
 少し前まで、私自身も、このようなことを想像もしていませんでした。私は池田博士のことを存じ上げなかったからです。
 私が池田博士の著作に触れたのはごく最近のことです。そして今、対話と友情の橋を築くために、博士に直接、お会いするという栄誉に恵まれました。
 私たちの大学は、人と人との対話、学術対話、そして人道主義に基づく対話の可能性を広げながら、「人間主義の大学」としての道を開いてきました。
 ホンドニア連邦大学は、地理的には、多様な美しさに恵まれたアマゾンという環境の中で広大なキャンパスを有しており、教育・文化・社会環境の分野の模範となるべく、道を開いてきました。
 また、国際交流にも力を入れており、アメリカ、カナダ、オランダ、スペイン、ポルトガル、キューバ、ボリビアの大学とも学術・科学・技術の分野で、教員、学生の交流を図ろうと対話を進めています。そして今、特に創価学会との対話を端緒として、日本の学術研究機関とパートナーシップ(協力関係)を結ぶ可能性が生まれています。
 それによって、創価学会や池田SGI(創価学会インタナショナル)会長のことを、もっと近くで知ることができるようになったのです(大拍手)。
 池田会長は、平和・文化・教育に関する目的について、“平和とは、人の心の中から始まる。文化とは、その平和を育む人の能力の生き生きとした表現である。そして、教育とは、そうした創造的な能力を育てる手段である。したがって、教育と文化は、平和構築のために必要な要素であり、鍵である”と言われています。私たちの大学の強みも、教育と文化にあります。
 池田博士は、人権、平和の文化、非暴力のための対話を行うことによって、友情の橋を懸け、恒久平和の道を築いておられます。その著作や行動を通して、人々は、哲学者、作家、写真家、詩人、そして、とりわけ平和主義者である創価学会インタナショナル会長を知ることが可能となっています。
 SGIは、50年にも満たない歴史にもかかわらず、190力国・地域以上に素晴らしい広がりを見せ、社会を良くするために、教育・文化・研究の活動を進めています。ブラジルには、ブラジルSGIがあり、私は最近、その理事長と渉外部長にお会いしました。
 私は、地理学者として、また、ブラジルのアマゾンにある大学の総長として、真の環境保護者であり、アマゾンの賞讃者である池田博士と直接お会いするという光栄に浴し、心から感謝しております(大拍手)。
 また池田博士は、創価学会の平和・文化・教育分野の活動を進めるため、何年もかけて、音楽、芸術、文学に関する機関や、研究センター、教育機関、アメリカ創価大学、ブラジル創価学園、そして、アマゾン自然環境保護センターを創立してこられました。
 女性に気を配り、女性の力を認め、偏見や差別と闘うとともに、特に、青年を重視しておられることこそ、本当に卓越した人物の証しであり、私たちの模範であります(大拍手)。
 池田博士は、人間の生態系に関する問題を大変に懸念しておられ、核兵器やそのほかの大量破壊兵器の脅威という私たちの直面する危機の深刻さや地球環境の悪化に関して、人々の注意を喚起しています。
 池田博士は、私たち若き大学の称号を受章される初の東洋人であります。
 私たちは、平和・文化・教育の擁護者としての博士の勇気を認め、その行動と功績により、大学の最高栄誉である「名誉博士号」を授与することを決定しました(大拍手)。
 ブラジルの詩人であるチアゴ・デ・メロ氏の言葉を借りれば、「創価学会インタナショナルが行ってきた仕事を賞讃するには、仏教徒である必要はありません。人間王国の平和は、SGI会長の偉大な夢であります。会長は、私たちに、使命感をもって夢のために働くことにこそ価値があると教えられています」。
 英国の歌手であり、作曲家のジョン・レノンの思いを託した言葉に「一人で見る夢は、ただの夢でしかない。皆と見る夢は現実となる」とあります。
 池田博士が、大学の一員になってくださることは、私たちにとって大変な名誉であり、もう一人で夢を見ているのではないということを意味しています(大拍手)。
 大学が社会一般の人に授与することができる最高の学位は「名誉博士」であります。授与にあたっては、何よりも受章者の実績と社会的貢献が考慮されます。出版物だけでなく、特に池田博士の倫理的行動や、より人間的な社会構築のための際立った貢献が考慮された結果、名誉博士号を授与するにふさわしい方であると判断されました。
 社会の発展や人間としての成長を目標としている機関にとって、池田博士のような偉大な方に名誉博士号を受けていただくことは、大変な栄誉です。
 ホンドニア連邦大学も、この称号を授与させていただくことで、平和な社会の構築を信じる、世界のほかの機関や人々に連なることになります。
 ただ今より、本大学の各評議会や委員会を代表して池田大作博士に対し、名誉博士号を授与させていただきます。
 この称号を授与できますことは、私たちにとって大きな喜びであり、感謝の気持ちでいっぱいです。
 きょうという日が池田博士にとって、ホンドニア連邦大学にとって、そしてご臨席の皆さまにとって、幸福な一日となりますことをお祈りして、私のあいさつとさせていただきます。
 池田博士、ようこそわが大学へ。わがブラジルのアマゾンヘ。
 皆様、大変にありがとうございました(大拍手)。

SGI会長のスピーチ

君よ まさかが実現の大金星を

ブラジルの大英雄の信念
師の夢の成就へ一歩も引くな!


 一、きょうは、遠くブラジルの天地から、最高の賓客をお迎えしました(大拍手)。
 知性の先生方の真心に、深く深く、感謝申し上げたい。
 また全員で、盛大に歓迎申し上げたい(大拍手)。
 〈席上、ブラジルの名門・ホンドニア連邦大学から、池田SGI(創価学会インタナショナル)会長に「名誉博士号」授与された〉

ブラジルの文豪
不屈の民衆こそ永遠に勝利


我らは断じて屈服しない!
 一、ブラジルの大文豪アマード先生は、こう叫んだ。
 「この世において永遠なものは民衆」である、と(神代修訳『希望の騎士 革命児プレステス』弘文堂新社)
 この確信の一言は、私の心の奥底に深く入り、離れることはない。
 どんな権力者も、どんな大富豪も、どんな有名人も、時の流れとともに、消え去ってしまうものだ。
 それが宇宙の法則である。
 偉大なのは、民衆である。
 真実の民衆は、いかに迫害されても、決して屈服しない。何度でも立ち上がる。
 民衆の声は、太陽の詩人のごとく闇を破る。必ずや自由の夜明けを勝ち取ることができる。
 民衆こそ英雄なり!
 それがアマード先生の確信であった。
 永遠に勝ち栄えゆく、生命の王者──一体、それは誰か?
 それは、正義の信念のために戦う民衆である。
 まさしく、我々である。諸君である。
 我らこそ、本当の正義の勝利者なのである(大拍手)。

皆様の大勝利おめでとう!
 一、このブラジルの知性アマード先生も、創価学会の民衆の大連帯を、強く熱く、支持してくださっていた一人である。
 〈ジョルジエ・アマード氏(1912~2001年)は、世界的に著名な作家であり、「ブラジル文学アカデミー」の会員。
 SGI会長は1993年、同アカデミーの「在外会員」に就任している。
 1997年には、同アカデミーの創立100周年の意義を込め、氏からSGI会長に自著が届けられた。
 氏から贈られた著作は『夜の牧童』。
 この小説の冒頭には、「人生の学校に休日はない」とのブラジルの格言が引用されており、アマード氏は、「まさに、SGI会長のことを述べた言葉です」と語った。
 また著作には、「ダイサク・イケダ氏へ 最大の尊敬を込め 1997年7月、リオで」との献辞が記されている。
 さらにアマード氏はこうも語った。
 「イケダ氏は、世界的に著名な、大切な人物です。
 氏は民衆のために、民衆とともに戦うという世界的な活躍をされています。
 私も、民衆とともに戦うことのみがヒューマニズムを勝利に導く唯一の方法だと思っています」〉
 ともあれ、全国の皆様、今回の大勝利、おめでとう!
 特に、婦人部の皆様、本当にありがとう!
 ただただ、私は、心より、「ご苦労さま!」と申し上げ、皆様のご多幸を祈り抜いてまいります。ありがとう!(大拍手)
 一、きょうは、ブラジルをはじめ、尊き海外の皆様、遠くから、はるか遠くから、ようこそ、お越しくださいました。
 ありがとう、ありがとう、オブリガート!(ポルトガル語で「ありがとう!」)
 私たちは、喜び勇んで、全員、立ち上がって、大拍手をもって、海外の同志をお迎え申し上げよう!
 〈全員が立ち上がって、大拍手を〉
 どうか、お体を大切にしてください。

先師・牧口先生の殉教から65年
 一、ここにおられる、ホンドニア連邦大学のアマラウ総長は、地球の宝アマゾンを守る地理学者です。
 「アマゾンの守り人こそ、全地球の守り人なり」と、私たちは総長に対して、最大に感謝申し上げたいのであります(大拍手)。
 総長と同じく地理学者であった先師・牧口先生は100年前、人類と地球環境の連関を鋭く探究し、アマゾンにもたびたび言及しております。
 先生は人道的な共生の時代を深く見つめておりました。
 先ほど総長が壇上で話されている時、「ああ、ここに牧口先生かおられれば」と、私は胸が熱くなりました。
 今年は、牧口先生の平和と正義の殉教から65年。牧口先生は、軍部権力によって、牢獄の中で命を奪われた。
 私が本日、このように貴大学から栄誉を拝受したことを、牧口先生も、どれほど喜んでおられることか。
 これこそ弟子としての最高の誉れであります。総長、本日は、まことにまことに、ありがとうございました(大拍手)。

師弟の道を勇敢に進め
団結の道を聡明に貫け
対話の道を忍耐で拡大


不可能を可能に
 一、さて、19世紀の末から、アマゾンの奥地に分け入って、広大なブラジルを結ぶ、電気通信のネットワークを完成させた大英雄がおります。
 民衆の幸福と繁栄に人生を捧げた「人道」の勝利者であります。
 その人こそ、貴大学の名前に厳然と留められている、ホンドン先生なのであります(大拍手)。
 〈ホンドン氏は19世紀から20世紀にかけて活躍したブラジルの軍人、探検家。ブラジル奥地の調査・開発に取り組むとともに、先住民の保護に心血を注ぎ、晩年には「平和の元帥」「人間主義の元帥」と讃えられた。
 またホンドン氏は、先住民の尊厳を守るため、部下に対して「必要とあらは(自らの)死をも辞さないが、決して(相手を)殺してはならない」との教えを徹底した。この言葉は、彼を慕う先住民たちによって語り継がれ、パラグアイやウルグアイにまで伝えられた〉
 未知なるアマゾンヘの「電気通信」の開設。それは、誰もが「絶対に不可能である」と思っていた、至難の大事業であった。
 ホンドン先生は、なぜ、その「まさか」を実現できたのか。
 勝利の要諦を、3点挙げるならば──
 第1に「師弟の道」を勇敢に突き進むことである。
 このホンドン先生は、困難であればあるほど、師匠と仰ぐ、ブラジルの共和制の父、ベンジャミン・コンスタン先生らの教えを、いつも心に響かせて、自分で自分を勇気づけながら戦った。
 そして、社会のため、人々のため、未来のため、一歩も引かずに、祖国の発展という、わが師匠の夢を実現していった。
 だから強かった。だから負けなかったのであります。

獅子奮迅の力で
 一、勝利の第2の要諦は、「団結の道」を聡明に貫き通すことである。
 ホンドン先生には、苦楽を共にする同志が多くいた。その固い結合は“使命を自覚する学校”と呼ばれ、先生は皆から慕われた。
 電信網建設の先頭に立つ先生は、疲れを見せず、弱音を吐かなかった。
 誇り高き使命の盟友たちを、毅然と励ましながら、皆の獅子奮迅の力を引き出し、結集していったのである。
 いかなる戦いも、団結したほうが絶対に勝つ。先人の叫びが胸に響いてくる。
 私たちも、やりましょう! 新しき勝利の峰へ、団結して進もう!〈「ハイ!」と力強い返事が〉

わが地域に平和と正義の大連帯!

友の心をつかめ
 一、さらに、勝利の第3の要諦は「対話の道」を忍耐強く広げ続けることである。
 すなわち、ホンドン先生たちは、地元で暮らす先住民を徹底して大事にしました。
 地道な対話・交流を誠実に重ねながら、大胆に友好を広げた。
 最も苦しんでいる人々の“親友”となり、がっちり心をつかんで味方にした。ゆえに勝ちました。
 創価学会も同じです。ここに、重大な歴史の教訓がある。
 そして、この大英雄の精神を脈々と継承されゆく「人間主義の大人材城」こそ、貴・ホンドニア連邦大学なのであります(大拍手)。
 模範の学府です。
 まさしく、共生の時代をリードしゆく天地は、ブラジルである。心ある世界の識者は注目しております。

誇り高い人生を
 一、よりよき社会を築くため、私自身、青年時代に、愛する関西の友と大闘争に挑み、「“まさか”が実現」と謳われる、民衆の大勝利の金字塔を、堂々と打ち立てました。
 若き皆さんも、後世に胸を張れる、誇り高い人生を生きるのだ。
 この大金星を輝かせた原動力も、「師弟の道」「団結の道」「対話の道」を、最後まで祈り抜き、走り切ったことにある。
 この事実こそが、永遠の勝利の大道であることを、諸君は知っていただきたい。

新時代第31回本部幹部会

恐れるな! 勇気で突破口を開け

 一、輝く未来を切り開くうえで、一切の根本は何か。それは「勇気」です。
 意気地なしや弱虫、卑怯者。おべっかばかり使う人間──そういう人は、偉い人間にはなれない。本当に大事なことは、何も成し遂げられない。
 私はこれまで何万、何十万、何百万という人を見てきました。堕落し、同志を裏切る人間もいた。
 こうした経験からも、私は断言できるのです。
 悪い人間に負けない。すべてに勝っていく。そのために必要なのが「勇気」です。
 勇気、そして、何ものも恐れないこと──これが日蓮大聖人の仏法の真髄です。
 敢然と進もう!
 信心とは、勇気の異名なのです。
 地位や立場ではない。本当の勇気を持った人が偉いのです。
 私たちは、断じて恐れない「勇気」に燃えて、歌声も高らかに、明日への「希望の橋」を悠々と前進し、勝とう! 頼むよ!〈「ハイ!」と元気な返事〉

白蓮グループの皆さん、いつもありがとう!
創価の女性は「勝利の女王」
朗らかに! 強き祈りで!
苦闘を越えて幸福の花を


一番、大変な中で 一番、清浄な花を
 一、アマゾンは1000万種ともいわれる多彩な生物を育む、巨大な「生命の宝庫」です。
 このアマゾンの象徴と讃えられる花は一体、何か。
 それは、直径2㍍にもなる大きな葉を持ち、気高く咲く、 “白蓮(オオオニバス)”の花なのであります(大拍手)。
 〈オオオニバスはスイレン科の植物で、花は開いた当初は白く、やがて赤くなる〉
 「白蓮グループ」の大会、本当におめでとう! いつもいつも、ご苦労さま!(大拍手)
 アマゾンの“白蓮”には別名があります。それは「勝利の女王」という名前です。
 私は、こうした意味も考えて、女子部に“白蓮”という名を贈らせていただいた。
 一番、大変な泥の中から、一番、清らかな花を咲かせるのが白蓮です。すごいことです。“世界一の花”だ。
 人間の偉さ、女性の最高の幸福の姿が、そこに象徴されている。
 まさに、わが創価の女性こそ「勝利の女王」です。私たちは、その活躍に最敬礼し、心からの感謝と賞讃を捧げたい(大拍手)。

悔いなき人生
 一、どうか、一人として苦難に負けないでいただきたい。
 誰にでも苦難はある。また、どんなに幸せそうに見えても、苦労のない人間などいません。
 苦難に負けず、朗らかに、そして健康で、幸福の花を咲かせきっていく。
 これが戦いです。そのための題目です。正しい信心を貫く人が、悔いなき人生を飾っていけるのです。
 皆さんに、絶対に幸福になってもらいたい──これが、私と妻の一心不乱の祈りです。
 それには信心しかない。必ず勝てるのです。皆さんは、幸福への最高の“武器”を持っているのですから。
 「女子部、万歳!」と私は声を大にして、申し上げたい(大拍手)。

全員が「万歳」を
 一、きょうは、青年部幹部会も、おめでとう!(大拍手)
 うれしい。本当に、青年部は、よく健闘してくれている。
 見事な歴史を残してきた。
 仏法も、人生も、すべて善を打ち立てるための戦いだ。「どうせ戦うならば、痛快に、堂々と勝ちゆけ!」と私は申し上げたい。
 新たな決勝点は、我らの前にある。全員が大勝利して、心晴れ晴れと、「万歳!」を叫びたい。
 一、あらためて、きょうは、ホンドニア連邦大学ご一行の皆様、本当によくお越しくださいました。
 私には、きょう拝受した名誉博士号を捧げたい人がいます。
 一人は、大教育者で、私の師匠の師匠である牧口先生。先ほども申し上げました。
 そして、もう一人は、イギリスの大歴史学者、トインビー博士であります。
 博士は、私を、わが子のように、かわいがってくださいました。
 対談も行い、世界に残しました。
 博士のご自宅にうかがった時には、まるで国家の指導者を迎えるがごとく大事にしていただいた。
 対談後も、「池田会長はお元気ですか」と気にかけ、終生、心を寄せ続けてくださったことは、忘れることができない。
 博士は、真の知性でした。本当に固い友情の絆を結びました。
 〈トインビー博士は、対談終了の翌年である1974年(昭和49年)5月の池田SG丈二長の初訪中に際しても、その直前に、「日本のためにも、中国のためにも、いな、全世界の人びとのためにも大きな意味をもっている」と期待を寄せている〉

「勝利の前には必ず試練が」
 一、ブラジルの大言論人であるフェルナンド・サビーノの叫びを、青年部の諸君に贈りたい。
 「勝利の前には、必ず試練がある。ゆえに我らは、試練さえも、新たな道を開く突破口とするのだ」
 青年部の皆さん!
 すべてにわたって、全員、頼むよ!〈「ハイ!」と力強い返事が〉

壮年部よ立ち上がれ! 断固として勝ちまくれ

青年とともに進めば若くなる
 一、壮年部の皆さんも、ご苦労さま!
 たとえ年齢を重ねても、元気のない声ではいけない。生き生きと語るのだ。
 たしかに壮年は、苦労が多いかもしれない。家に帰れば、奥さんに叱られ、娘には責められる。職場でも、若い人から疎んじられる──そう嘆く人もいたようだ(笑い)。
 壮年部は、凱旋将軍のごとく胸を張って、朗らかに進もう!
 青年と一緒に、全力をあげて戦おう!
 その人こそが、若い生命になる。その人が幸福なのである。
 今こそ、壮年部が立ち上がるのだ。
 我らは、「断固として勝ちまくれ!」を合言葉に、創立80周年へ突進してまいりたい。
 一家にあっても、青年が立ち、“親父”(笑い)も立てば、その波動は計り知れない。
 青年部が立ち上がるのは当然のことだ。そこに、壮年部も立ち上がれば、学会は、2倍、3倍、いな、それ以上の偉大な力を発揮していける。
 これを、どうか肝に銘じてもらいたい。

壮年は千人力!
 一、壮年部は、心まで老けてはいけない。信心が停滞してはだめだ。若々しく、社会で勝ちゆくことである。
 私は、壮年部を激励したい。
 広布の太陽・婦人部は、元気いっぱいに頑張ってくれている。男子部も走っている。女子部も輝いている。青年部は大丈夫だ。あとは、壮年部が一番大事である。
 壮年部が本気になれば、一人で千人をも率いていけるからだ。
 最後の勝利は、壮年部で決まる。
 ここに焦点を定めてまいりたい。

ブラジルの作家
流れる川はいつも新しい


偉大なる勢いで
 一、ブラジルの大作家ギマランエス・ローザは言った。
 「流れる川は、いつも新しい」と。
 簡明だが、深い意味がある。精神の大河もまた同じだ。
 いつも新しく流れ続ける雄大なるアマゾン川のごとく、わが愛する母校であるホンドニア連邦大学が、これからも隆々たる大発展をされゆくことを、心からお祈り申し上げたい(大拍手)。
 そして我らも、世界第一の王者の川・アマゾンのごとく、何ものも恐れず、負けない、偉大なる勢いで、勝利また勝利の大前進をすることを、固く固く決意し合って、私の御礼のあいさつとさせていただきます。
 オブリガート!(ポルトガル語で「ありがとう!」)
 皆さん、お体を大切に!
 ありがとう!(大拍手)
2009-07-20 : スピーチ・メッセージ等 :
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新 あの日あの時 3

新 あの日あの時 3     (2009.7.18付 聖教新聞)

池田先生と沖縄

ここから勝利の虹を架けよう

小説『人間革命』
 沖縄本島の南部。
 巨大なツメで、深くえぐられたような道を池田大作名誉会長が踏みしめる。太平洋戦争で米軍に破壊された痕跡である。
 密生した木々の暗がりにガマ(自然洞窟)が、ぽっかり口を開けている。沖縄戦では、大小のガマで島民が強制されて、集団で死を選んだ。
 1960年(昭和35年)7月。初めて沖縄を訪れた名誉会長は、糸満《いとまん》市内に点在する戦跡や摩文仁《まぶに》の丘を丹念に回った。
 ひめゆり部隊に動員された女子生徒たちを慰霊する「ひめゆりの塔」。
 沖縄県師範学校の男子生徒たちが亡くなった地にある「健児之塔」。
 それぞれの塔の前で真剣に題目を唱え、犠牲者の冥福を祈った。
 南部戦跡には、まだ鎮魂の公園や記念館も整っていない。那覇へ戻る道も、岩がむき出しで、ごつこつしている。あまりの揺れに車が横に倒れかかった。
 那覇市内の宿舎。部屋には小さな虫が出て、風呂場にはネズミが走っていた。ある朝、入室した青年が驚く。
 白アリが行列をつくっている。「知っているよ」。池田名誉会長は悠然と新聞を読んでいた。
        ◇
 64年(昭和39年)に来島した際、名誉会長は小説『人間革命』を書き始めた。しかし、あえて沖縄での執筆開始を公言しなかった。
 第1巻の「はじめに」を記した折、欄外に「昭和三十九年十二月二日より書き始む」と、したためたのみである。
 その原稿用紙は後に人の目に触れるが、特に意識する者はいなかった。
 73年(昭和48年)6月。沖縄の三盛洲洋《みつもりくにひろ》が初めて、その日付に強く反応した。聖教新聞に何気なく出ていた記事がきっかけだった。
 12月2日といえば、あの日じゃないか──。
 「やあ、沖縄の学生部、元気にやっているな!」
 忘れもしない。沖縄本部で行われていた学生部員会に名誉会長が来てくれた日だ。
 「やがて沖縄から世界の指導者が出る。10年間、私についてきなさい」と励ましてくれた。
 学会本部に問い合わせると、名誉会長の伝言が返ってきた。
 「そのとおりだ。よく見つけた。『人間革命』は沖縄で書き始めた。誰が最初に気づくか。それを私は待っていた」

安同情されるな
 72年(昭和47年)1月30日。コザ市(現・沖縄市)で記念撮影会があった。
 会場はコザ市の諸見会館たった。
 空軍基地や弾薬庫も近くにあり、約1年前には「コザ騒動」が起きている。米兵の横暴に住民が怒り、米兵の車などが焼かれた。
 不穏な空気は消えない。名誉会長のコザ行きを危ぶむ声もあった。
 しかし「私は、人心が揺れているところに真っ先に行く」と決断した。
 高校生の久場紀子《くばのりこ》。母親は台湾からの引き揚げ者で、米軍の那覇エアベースのタイピスト。沖縄社会になじめない。父は失業している。
 名誉会長は、未来部に対しても厳しかった。
 「福運をつけなさい。誰かに頼ってはいけない。自分で幸せをつかむ。それが信心だ」
 久場は2年後に沖縄本部で再会。
 「安同情されるような生き方をしてはいけない!」
 何かに依存するのではなく、どこまでも強く、強く生きることを教えた。

門中制度の壁
 沖縄には独特の「門中制度」がある。父系の血縁団体で、一族の結束は固い。家長の意向には、きわめて重みがある。
 稲嶺有晃《いなみねゆうこう》が創価高校の1期生として入学すると、父・一郎の逆鱗にふれた。
 「ヤマト神の学校に行くのか!」
 父は「琉球石油(現・りゅうせき)」の創業者。後に参議院議員を3期つとめ、沖縄開発政務次官にも就いた。稲嶺が創価高校に進んでからは、二度と会ってくれない。門中から放り出されたも同然である。
 上京した稲嶺は成績もふるわず、すっかり自信をなくす。沖縄の島言葉には、独特のアクセントがある。東京で話しても、相手に意志が伝わらない。いつしか無口になってしまった。
 68年(昭和43年)9月に行われた創価学園のグラウンド開き。稲嶺は学園を訪れた創立者に呼ばれた。
 「沖縄の大統領になりなさい」
 何ごともトップになれ、という激励だった。
 翌年。寮生・下宿生の懇談会があった。
 創立者と、一人一人が握手する。
 稲嶺の番になった。
 「握手の力が弱い。男なら、もっとしっかり握るんだ」
 稲嶺は創価大学に進み、卒業後は沖縄県庁に就職した。
 寝食を忘れ、職場でめざましい実績を積んだ。その働きぶりが父や兄の耳に届く。
 89年、琉球石油社長だった兄から、うちに来ないかと誘われる。
 ついに一族から認められるまでになった。
 だが、門中制度のしきたりのなかで、学会員として生き抜いていけるだろうか。そんな不安がよぎり、創立者に手紙を書いた。
 即座に伝言が届く。
 信心の眼で見れば、小さな違いしかないことを指摘したうえで「とにかく沖縄に尽くしていきなさい。実証を示しきっていきなさい」と背中を押された。
 現在、稲嶺は「りゅうせきエネプロ」の社長。県内有数のプロパンガス事業会社を率いている。

創立者の外交
 名護市の松田晴江は創価大学の3期生。兄から「ここはいい。一流の教員がいる。必ず大発展する」とすすめられ、合格した。
 少女時代は教会で聖書に親しんだこともある。大学に電話して、宗教を強制されないか確かめ、上京した。
 誰もが創立者を「先生」と呼び、尊敬していることに戸惑った。恩師と教え子の間柄とも違う。不思議に思えてならなかった。
 入学から3カ月後。73年(昭和48年)7月12日に創立者を豊田寮に迎えた。松田が沖縄出身と知った創立者が「前にいらっしゃい」。小さな座机をはさんで、ジュースやスイカをすすめてくれた。
 秋には英語の授業を見学に来てくれた。松田のすぐ隣に座る。板書された学生の英文を見ながら「すごいね。優秀だな」。
 宗教の枠など超えた、人間と人間の信頼がある。
 「先生」と敬愛される理由が、よく分かった。
 沖縄県出身なので、やはり戦争と平和の問題には関心がある。
 在学中、創立者はキッシンジャー米国務長官、ソ連のコスイギン首相、中国の周恩来総理と相次ぎ会見する。
 74年(昭和49年)11月、モスクワ大学のホフロフ総長をキャンパスに迎え、松田はギターで歓迎演奏した。
 一学生でありながら、平和外交の一翼を担う──こんな大学、ほかにあるだろうか。

南大東島の医師
 うるま市の祝嶺千明《しゅくみねちあき》は、かつて沖縄の離島・南大東島の診療医たった。急患は自衛隊機で那覇まで搬送するしかない環境だった。
 91年(平成3年)2月、沖縄研修道場に名誉会長を迎え、諸行事が行われたとき、運営役員の医療スタッフに祝嶺が加わった。
 チャンスがあれば、ぜひ南大東島のことを知ってほしい。報告のタイミングがないかと思っていると、ある朝、道場内の談話室に招かれた。
 「先生、私の島は……」
 切りだそうとすると、逆に質問された。
 交通、食糧、産業、天候、通信、医療・出産の体制、保安、島の同志の活躍ぶり……。祝嶺が報告しようと準備していた以上の内容だった。
 沖縄の離島を心から愛してくれていた。

雨上がりの虹
 南城市の新垣《しんがき》博(創大2期)。
 創価大学に在学中の72年(昭和47年)暮れ、同級生たち数人と創立者から食事に招待された。住みこみで新聞配達していた新垣は、創立者の心配りに恐縮した。
 「私も新聞少年だったから、苦労はよく分かる。東京の朝は寒いだろう……」。
 食事が終わりかけたころ、創立者から提案があった。
 「私が皆さんの故郷に行く機会があったら、そこでまた会おうじゃないか」
 74年2月9日、新垣は沖縄で創立者と再会した。名護市内の会場で待っていると、両手を広げて歩みよってくる。
 「さあ、車でまわろう」
 創立者のすぐ右隣の席に座らせてもらった。本部半島を周回する国道へと走りだす。
 「戸田先生は浜辺で育ったから、海が本当にお好きだった」
 左手には、コバルトブルーの海が広がっている。
 道中、突然のスコールが襲ったが黒雲《こくうん》の下を抜けると、ぱっと晴れ間が広まった。
 沖縄は、雨も降り始めるとすさまじいが、いったん晴れれば日差しも強烈だ。そんな南国の気候を肌で感じながら、創立者は語った。
 「沖縄は、戦争の道を行くのか、平和の道を行くのか、どちらかだ。中途半端はない。そう決めて進むことだ」
 雨上がりの空には七色のアーチ。沖縄から“勝利の虹”は架かった。
        ◇
 「もう二度と、沖縄に戦争はない。できない!」
 桜花に包まれた沖縄平和墓園で、創立者が力強く宣言したのは、それから25年後の99年2月である。
 正義の拡大こそ平和の大道を開く。
2009-07-19 : 新 あの日あの時 :
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御書と師弟 立正安国の太陽㊤㊦

池田名誉会長講義 御書と師弟 
              (2009.7.16/18付 聖教新聞)

第19/20回 立正安国の太陽㊤㊦

「立正安国論」提出750年
世界に対話の大道は燦然


戸田先生
「立正安国論」は
日蓮大聖人の御書中の巨星であり
末法の一切衆生への強烈な指南書である


御聖訓
 汝 須《すべから》く一身の安堵を思わば
 先ず四表の静謐《せいひつ》を禱らん者か
           (立正安国論、31㌻)

 戸田先生は言われました。
 「『立正安国論』は日蓮大聖人の御書中の巨星であり、末法の一切衆生に対する強烈な指南書である。実に立派な金剛不壊の明鏡と称すべきである」
 日蓮大聖人が、国主諫暁の書である「立正安国論」を、時の最高権力者・北条時頼に提出なされたのは、文応元年(1260年)の7月16日です。その歴史的な諫暁から、今年は750年目に当たります。
 大聖人の御化導は「立正安国論に始まり、立正安国論に終わる」と言われます。万年のための御闘争は、まさに「立正安国」の大理想に捧げられたのです。
 今回は、御本仏の忍難弘通を偲びつつ、安国論の重要な御聖訓を拝してまいりたい。
 「汝須く一身の安堵を思わば先ず四表の静謐を禱らん者か」(御書31㌻)
 ──あなたは、自分自身の安穏を願うならば、まず四方の平和を祈るべきである──。
 「人間の幸福」と「世界の平和」を祈り、行動する仏法者の大精神を、為政者に対して厳然と示された御金言であります。

民衆の幸福を願い
 大聖人が、このように仰せになった鎌倉時代の様相はどうであったのでしょうか。
 「立正安国論」の冒頭には、こう記されております。
 「近年より近日に至るまで天変地夭・飢饉疫癘《えきれい》・遍く天下に満ち広く地上に迸る牛馬巷に斃れ骸骨路に充てり死を招くの輩既に大半に超え悲まざるの族敢て一人も無し」(御書17㌻)
 それは、自然災害・飢饉・疫病が打ち続き、大勢の民衆が命を落とした悲惨な時代だったのです。
 「安国論」提出の3年前、正嘉元年(1257年)には、鎌倉一帯を大規模な震災が襲いました。この「正嘉の大地震」をはじめ、水害や大火災に苦しむ人々。大聖人は、こうした末法の時代相を凝視され、民衆を不幸にする根本の原因について探究を極められていたのです。
 そして、民衆の幸福を願う大慈大悲から、あらゆる大難を御覚悟の上で、仏法の正義をもって、当時の権力者を真正面から諫められた御書が安国論です。
 「立正安国」とは「正を立て国を安んずる」との意義です。正義を打ち立てて、国を安寧にする。ここに、本書に込められた大聖人の悲願があります。
 まさしく、大聖人が平和の大理想のため、社会に向かって決然と放たれた“警世の大提言”とも拝されましょう。
 もとより、国とは日本一国にとどまらない。日寛上人は、「文《もん》は唯日本及び現世に在り、意は閻浮及び未来に通ずべし」(立正安国論愚記)と仰せです。未来永遠にわたって、全世界の平和と、全民衆の幸福を勝ち開くことこそ、我ら仏法者の究極の誓願である。
 2000年の秋、読売新聞が行った「二十一世紀に伝える『あの一冊』」という調査では、この「立正安国論」が「日本の名著」の第2位に選ばれています(同年11月29日付朝刊)。
 戸田先生が宣言された通り、安国論は「御書中の巨星」にして「金剛不壊の明鏡」である。21世紀、いな未来永遠にわたって、人類文明の指標と仰がれゆく大哲学書であります。

慈悲の“仏法対話”
 よく知られているように、本書は、客と主人の10問9答からなる問答形式で綴られております。
時代の苦しみを嘆く「旅客」に対し、「主人」は、打開のために正義の確立が不可欠であることを諄々と語り聞かせます。最初は反発していた客も、主人の語る哲理を聴き、次第に理解を深め、ついに正法への信仰に目覚めていく──。こうした確信と共感の“仏法対話”の流れで織りなされています。
 まさに日蓮仏法は、偉大なる「対話の宗教」なのです。
 恩師はよく話されました。
 「大聖人の説得力は、単なる説得力ではない。根本が慈悲と勇気から発している説得力である。だから偉大なのである」
 慈悲と勇気の「対話」こそ、心を動かし、時代を変えゆく最大の武器であります。
 創価の対話運動は、大聖人に直結した最も正しい仏法の方軌なのです。
 今回の御文の「一身の安堵」とは、個人の幸福を指します。
 「四表の静謐」とは、東西南北の四方の安穏、すなわち社会全体の平和のことであります。
 個人の幸福を願うがゆえに、まず社会の平和を祈る。そのために真剣勝負で行動する。この両者を追求し、実現しゆくのが真の宗教です。
 惑星の運行に譬えるならば、「一身の安堵」とは「自転」であり、「四表の静謐」とは「公転」に当たります。
 自転と公転が連動して、大宇宙の調和の軌道が成り立っている。どちらか一方だけということはあり得ません。
 大聖人御在世の当時、流行していた念仏をはじめとする諸宗は、ひたすら自己の救済のみを願うことを説いていた。
 しかし、仏教本来の“自己の救済”とは、自身の内面に崩れざる境地を確立することにほかならない。自身の生命の変革がなければ、本当の意味での救済も不可能だからです。

「民の力」を強く!
 当時、庶民の間には「念仏の哀音」(御書96㌻)が広がり、無力感や厭世感が蔓延して、人々の生きる力を衰弱させる一方でした。御書に「当世は世みだれて民の力よわ(弱)し」(1559㌻)と記されている通りです。
 大聖人は、こうした宗教界の風潮を打破し、「民の力」を強めるべく、正義の大師子吼を敢然と発せられたのです。
 宗教本来の使命とは、個々人の幸福は当然として、広く地域・社会・国家・世界の平和と繁栄に貢献する活躍でなくてはならない。また、真実の宗教は、それだけの力ある「祈り」であり、「実践」なのです。
 ただ伽藍に閉じ籠もって、わが身の安泰ばかりを祈るのは、仏法の本義では断じてない。
 地球は一瞬たりとも回転を止めない。太陽も一日たりとも昇らない日はない。正しき信仰とは、「前進また前進!」「行動また行動!」と、快活に、生き生きと、人生・社会に価値を創造しゆく源泉なのであります。
 私が共に対談集『地球対談 輝く女性の世紀へ』を発刊した、アメリカの未来学者のヘンダーソン博士は語られました。
 「皆にとって良い社会を築くことが、結果的に、自分にとってプラスとなることを理解し、自らの生き方とすることが大事なのです」と。
 「四表の静謐」のために尽くすことが、そのまま真の「一身の安堵」に通ずる。これが世界の良識が志向している人生の道です。
 来る日も来る日も、世のため人のため、真剣な対話と行動を重ねている創価の同志は、その素晴らしき模範です。
 なかんずく、わが婦人部の皆様の活躍こそ、地域の太陽であり、社会の太陽であります。
 悩んでいる人がいれば、自分のことはさておいて飛でいく。友の幸福を、真剣に祈り、心の底から励まし、宿命転換の戦いに一緒に立ち上がる。これほど崇高な、神々しい慈悲の連帯が、どこにありましょうか。
 わが学会の同志こそ、現代における「立正安国」の栄光の闘士なり! いかなる虚栄の人よりも尊貴な人間の王者なり! 私は、こう心から讃嘆申し上げたいのです。

「前代未聞の大法」
 日蓮仏法は、古代以来の日本の宗教土壌を、根底から変革しゆく正義の大法です。
 大聖人は安国論に仰せです。
 ──仏閣は甍《いらか》を連ね、経蔵は軒を並べている。僧も大勢いて、民衆も敬っているようにみえる。しかし、法師たちは心がひねくれて人々の心を惑わせている。王臣たちは無知のため、邪正を弁えない(御書20~21㌻、趣意)と。
 いくら外見上は隆盛を誇っているようでも、幸福へ、繁栄へ、平和へとリードしゆく正しい教えが広まっていかなければ価値を生まない。問われるべきは、内実の哲学であります。
 どんなに物質的に恵まれ、科学技術が進歩しても、時代の底流にある哲学が浅く、誤っていれば、民衆の人生観や生命観、ひいては政治・経済・文化・教育など、すべてのとらえ方が狂う。やがて社会全体が行き詰まってしまうのは必然でしょう。
 大聖人は、仏眼・法眼をもって、こうした大きな時代のダイナミズムを見つめておられた。
 そして、時の最高権力者に仏法の正義を威風堂々と師子吼なされました。
 正は正! 邪は邪!
 善は善! 悪は悪!
 こう明快に言い切るのが、真の仏法者です。「破邪」なくして「顕正」はありません。
 正邪を疎かにし、権勢に媚びて利養を貪る偽善の聖職者。そして宗教を民衆支配の道具としていた為政者。この魔性に対し、大聖人は真っ向から挑まれたのです。
 大聖人は叫ばれました。
 「仏法渡って今に七百余年前代未聞の大法此の国に流布して月氏・漢土・一閻浮提の内の一切衆生仏に成るべき事こそ有り難けれ有り難けれ」(同1283㌻)
 仏法が日本に渡来してから七百余年。大聖人は前代未聞の「立正安国」すなわち世界平和の大法を打ち立てられました。
 そして、それから、さらに七百余年を経て、仏意仏勅の創価学会が、大聖人の仰せのままに「立正安国」の大法を、展開していったのです。
 「立正」という宗教的信念!
 「安国」という社会的理想!
 この両輪で、力強く進みゆくのが、わが創価の正義の大行進です。それを目の当たりにして、いわば社会が動執生疑(=自らの執着が動揺し、疑いを生じる)を起こすことも、これまた御聖訓の通りであります。

学会に日本が驚嘆
 戸田先生は語られました。
 「わが創価学会によって、『宗教は生きている』『生きている宗教があるのだ』ということを、日本社会は知り、驚いている」
 昭和31年(1956年)、“まさかが実現”と日本中を驚嘆させた大阪の戦いの大勝利。その直後に発せられた、恩師の師子王のお言葉です。
 日蓮仏法は、時代と社会を変革する民衆の雄々しいエネルギーが漲る「生きた宗教」にほかなりません。
 だからこそ、大難が競い起こることも必然である。
 昭和32年の7月17日。権力による不当な逮捕を勝ち越えて出獄した私は、大阪大会(中之島の大阪市中央公会堂)で、駆けつけてくださった2万人の同志に、こう訴えました。
 「戸田先生は、三類の強敵のなかにも僭聖増上慢が現れてきた、このように申されております。『大悪をこれば大善きたる』との日蓮大聖人の御金言のごとく、私もさらに、より以上の祈りきった信心で、皆様とともに広宣流布に邁進してまいります」と。
 魔が競えば競うほど、ますます猛然と祈り抜き、戦い切るのが信心の真髄です。
 大聖人は「但し大難来りなば強盛の信心弥弥悦びをなすべし」(御書1448㌻)と仰せです。
 創価の師弟は、いよいよの「強盛の信心」で、いかなる難も恐れず、「立正安国」の大道を、日本そして世界に切り開いてきました。
 アメリカの名門デンバー大学のナンダ副学長は語ってくださいました。
 「私たちは、社会に奉仕する必要があります。『悟り』は、本質的には、たんなる利己的な利益のためではなく、社会、人類という、自分を超えたものに奉仕するという、より大きな意義があるのです。
 その意味で、SGIが、社会の諸問題の解決に向かって積極的にかかわっておられることが、私には嬉しいのです」
 心ある識者の眼には、創価の運動の意義が鋭く映し出されています。

「此の一凶」と戦え
 世界的な文化人類学者である、ハーバード大学のヤーマン教授も、論じてくださいました。
 「創価学会の功績は、モラルを失い、混乱した社会に正しい方向性を示し、社会、政治、経済、文化の万般にわたって、蘇る力を与えたところにある」
 これが、世界の信頼です。
 「如かず彼の万祈を修せんよりは此の一凶を禁ぜんには」(御書24㌻)
 この御金言も、安国論の一節です。敷衍すれば、民衆を苦しめ、不幸にする邪な思想の「一凶」と戦う勇気を失っては、真の幸福も、平和も成り立たないことを、鋭く喝破された師子吼の一節であられます。
 「民衆」という軸がなければ「立正」も「安国」もない!
 「正義」という旗がなければ「平和」も「繁栄」もない!
 これが、大聖人の正統として戦われた初代・牧口先生、2代・戸田先生以来の、創価学会の大確信であります。
 この魂を受け継ぐ人材の流れを創り上げること──ここに「立正安国」の血脈がある。
 昭和54年の7月16日。私は神奈川の天地で、宿縁深き「鳳雛会」「鳳雛グループ」の友に一詩を綴り贈りました。
 「わが最愛の
   鳳雛の弟子たちよ」
 「この日の誓いを
   忘ること勿れ
  われ いかなる事あれども
   その遺業を
  必ずや君達が
   雄渾なる信心にて
  又 炎の使命感を持ち
   成就しゆくことを
   私は固く信じている
          合掌」
 「狂気の讒言の中
  一人正義の旗を持ち
  耐えつつ 君等を偲びつつ」
 あの嵐の試練より30年──鳳雛たちは立派な大鵬《おおとり》となり、あの地でも、この地でも、「立正安国」の勝利の指揮を雄渾に執ってくれています。

立正安国の太陽

わが胸中に正義の大旗を

 恩師・戸田城聖先生は、私に教えてくださいました。
 「戦争をなくし、真に平和で幸福な世界を創るためには、社会の制度や国家の体制を変えるだけではだめだ。
 根本の『人間』を変えるしかない。民衆が強くなるしかない。民衆が賢くなるしかない。そして世界の民衆が、心と心を結び合わせていく以外ない」
 人類社会に必要なのは、根本とすべき指導哲理です。宇宙と生命の大法則を説き明かした仏法こそ、時代社会をリードし得る最高の哲学であります。
 この恩師の信念をわが信念として、私は「立正安国」の理想に生き抜いてきました。
 日蓮大聖人が叫ばれた「立正」とは、まず何よりも「汝自身の胸中に、正義の大旗を打ち立てる」ことであると拝されます。その連動から「安国」の大道を開く民衆のエネルギーが、燦然と発光していくからです。

宇宙が味方する!
 御聖訓には「人の心かたければ神のまほり必ずつよし」(御書1220㌻)と説かれます。
 妙法という絶対の正義によって立ち上がるとき、三世十方の仏菩薩、諸天善神が大車輪で動きに動き、皆様を守りに護らないわけがありません。
 「正義によって立て! 汝の力 2倍せん」とは、私が青春時代から胸に刻んできた箴言であります。
 アメリカ公民権運動の指導者キング博士も、「宇宙は正義に味方する!」という雄大な信念で戦い抜きました。
 一切は、内なる生命の「立正」から始まるのです。
 「世界を制覇せんとする者は、汝自身の悲哀を制覇せよ」
 これも、私が若き日から座右の銘としてきた言葉です。
 師・戸田城聖先生を先頭に、戦後の焦土から起ち上がった創価学会の大興隆とともに、日本は奇跡的な経済復興を遂げました。これは偶然ではありません。
 わが宿命に打ち勝つ幾百万の民衆の「人間革命」の熱と力が、日本社会の発展を力強く担い支えてきたことに、心ある識者は着目しております。
 「一人の人間における偉大な人間革命」(=立正)が、やがて「全人類の宿命の転換」(=安国)をも可能にするのです。
 創価の師弟は、地球を舞台として、この原理を縦横無尽に展開し、証明してまいりました。
 今、幾多の青年が、この「人間革命」即「立正安国」の大道を、ダイナミックに、地域へ、社会へと広げております。

安国論との出合い
 私が「立正安国論」と出合ったのは、わが永遠の師匠・戸田先生と初めてお会いした時のことでした。
 忘れもしない昭和22年(1947年)8月14日の木曜日。友人に誘われて参加した東京・大田の座談会で、先生が確信みなぎる音声《おんじょう》で講義されていたのが、この「立正安国論」だったのです。
 先生の五体からは、苦悩の民衆を一人も残らず救わずにおくものかという大情熱が、溶鉱炉の如く発せられていました。
 もとより、法門の深い意義は理解できませんでした。しかし19歳の私は「この人なら信じられる!」と直感したのです。
 その10日後の8月24日、私は創価学会に入会しました。
 先生が「立正安国」という金剛の信念のゆえに、師匠である牧口先生にお供して獄中闘争を貫かれたという事実に、私は深く感動した。
 まさに、わが師弟不二の歩みは、「立正安国論」によって幕を開けたのであります。
 大聖人が安国論を幕府に提出されてから、満700年に当たる昭和35年(1960年)の5月3日、私は、牧口先生、戸田先生の「立正安国」の魂をわが生命に燃やして、創価学会の第3代会長に就任しました。

不二の弟子の50年
 会長推戴をお受けした時、私は固く心に期しました。
 「戸田先生の大恩に報い、先生の御遺志である広宣流布に一身をなげうとう。──わが命の燃え尽きる日まで」
 以来、明年で50年。SGI(創価学会インタナショナル)の「立正安国」の陣列は、世界192力国・地域に拡大しています。
 この間、私は、7000人を超える国内外の指導者・文化人と対話を重ね、「日中国交正常化提言」や毎年の「SGIの日」記念提言などを発表するとともに、人類の平和のために文化・教育の交流を広げてまいりました。
 大歴史学者トインビー博士をはじめ、世界の知性との「対談集」も、70点を数えようとしています。
 すべては「四表の静謐」を祈る仏法者としての信念から、やむにやまれぬ思いで重ねてきた、戸田先生の不二の弟子としての「立正安国」の挑戦であります。
 それは、御聖訓通りの中傷・迫害の嵐を受け切りながらの闘争でありました。
 21世紀の人類にとって、宗教の第一義は「平和を創り出す宗教」でなくてはならない。
 創価学会が進めている平和・文化・教育の大運動は、日蓮大聖人の御金言を寸分違わず実践しゆく、「立正安国」の現代的・世界的な展開なのであります。
 学会創立60周年の記念日を迎えた1990年(平成2年)11月18日。神奈川の横浜アリーナで、創立記念の大文化祭が開かれました。
 祭典のテーマは「平和の道 文化の道 世界の道」。そしてタイトルは、「THE SUN(太陽)」でありました。
 日蓮大聖人が「立正安国」の師子吼を放たれた大神奈川の天地で、1万3000人の青年たちが「創価の師弟」の勝鬨を轟かせました。あの英姿は、今も私の胸奥から離れません。
 「立正安国」の勝利の太陽は、常に正義の旗を掲げゆく若き生命から、燦然と昇りゆくのです。

「一人」から始まる
 ブラジルの大天文学者モウラン博士は、私との対談集(『天文学と仏法を語る』)で語られました。
 「行動し始める時、創造のための活動を行う時、おのずから周りの環境の変化が始まります。それは大きな出来事であれ、家庭や地域や町などの小さな範囲の出来事であれ、同じです。すべては、一人の人間から始まります。一人こそ、偉大な出発点なのです」
 いずこの地にも、その「一人」となって、新たな勝利への行動を起こす青年がいる。乙女がいる。母がいる。父がいる。これが創価の誇り高き群像です。
 大聖哲が御遺命なされた、万年の民衆を救う「立正安国」の大道を、私たちは世界へ広げに広げ抜きました。日蓮大聖人に、また牧口先生、戸田先生に、胸を張ってご報告できます。そこに何一つ悔いはありません。
 大聖人が「立正安国論」を提出されたのは39歳の御時。天変地夭・飢饉疫癘に苦しむ民衆の姿を見て、「胸臆《くおく》に憤悱《ふんぴ》す」(御書17㌻)という大感情を注がれた正義の書であります。
 青年よ、正邪に峻厳であれ!
 断じて正義は勝利せよ!
 これが、安国論に込められた御本仏の叫びであられます。
 その安国論を、大聖人は晩年まで、弟子たちに御講義なされました。御自身の全生命を傾けられ、後継の門下に「立正安国」の魂魄を伝え残そうとされたのであります。
 こうした師の深き一念に応え抜いたのが、日興上人であり、日目上人であられました。
 23歳の若き俊英であった日目上人は、大聖人の命を受けて、天台僧との法論に臨み、敢然と相手を論破されています(池上問答)。
 師匠にお応えしようと、若き弟子が見事なる正義の勝利を示され、「立正安国」の魂の継承の証しを打ち立てられたのであります。
 大聖人のお喜びは、いかばかりであられたことか。
 社会に正義の号砲を!
 師匠に勝利の吉報を!
 これこそ弟子の誓願であり、無上の誉れであります。

インドの哲学者
妙法の輝きを探究する青年たちは「奇跡」!


世界的な人材革命
 21世紀の最初の10年を飾ろうとする今もまた、「立正安国」の松明を、幾百万の青年たちが赤々と受け継ぎ、地涌の如き勢いで起ち上がってくれています。
 わが敬愛する創価の青年は、ありとあらゆる分野で信頼を勝ち取り、世界へ陸続と羽ばたいている。
 アメリカ創価大学では、世界の国々から集った英才たちが、きょうも真剣勝負で「学問の闘争」に勤しんでいます。
 政財界、産業界、教育・学術界、文化・芸術界──いずこでも、「創価の青年は素晴らしい!」という感嘆の声が無数に聞かれます。
 豊かな実力と人間性を兼ね備え、社会に貢献する逸材を地球規模で育成しゆく、前代未聞の人材革命! これこそが我ら創価の大連帯であります。
 これから、ますます洋々と開けゆくであろう「立正安国」の燦然たる未来を思う時、私の心は歓喜に躍ります。
 これもひとえに、私と心を合わせて学会の城を厳護し、青年・未来部を育て、広宣流布に尊い生涯を捧げてこられた同志の皆様方の熱誠の賜です。
 その大福徳は、未来永遠に皆様自身の生命を荘厳しゆくことは絶対に間違いありません。
 先般、仏教研究の世界的権威であるインド文化国際アカデミー理事長のロケッシュ・チャンドラ博士から、丁重な書簡を頂きました。
 書簡の中で博士は、創価の仏法運動によって「新しい世代が、法華経の内なる輝きを探求するという奇跡を起こしているのです」と記されております。
 妙法の光を放ちゆく創価の青年の姿そのものが、偉大なる「奇跡」である! 仏教発祥の天地の大哲人が、こう讃えてくださっているのです。
 どうか仏勅の誉れを胸に、創価の正義を堂々と社会に語り切っていってください。

識者
宗教は社会を支える柱

人間革命から地球革命へ

「社会変革」の宗教
 私の友人である、ベルギー・ルーベン大学のカレル・ドブラーレ名誉教授(国際宗教社会学会元会長)も、こう綴ってくださっています。
 「宗教組織は、いわば社会を支える『柱』の役割を担ってきた」「SGIのメンバーは、信仰が堅固で皆、生き生きとしており、また確信にあふれている。また、社会の中に安定した勢力として、一人一人の人格の向上に貢献し、地道な実践を貫いている。こうした姿こそ、現代の宗教組織に必要な点であろう」
 世界的な宗教社会学者の重大な証言です。「立正安国」を目指す創価の前進は、模範的な「社会変革」の宗教運動であると、世界の超一級の知性が讃嘆してくださるのです。
 さらに、ローマクラブの会長であられたホフライトネル博士は、こう語られました。
 「名誉会長が唱えられている『人間革命』──これが、最も重要です。いかなる変革も、一人の人間の意識、認識を新たにすることから始まります。
 私たちは、今、『地球革命』の時代を迎えています。これは、人類の歴史が、これまで経験したことのない、まったく新しい時代です。私たちは、『歴史の新しいぺージ』の前にいるということを知らねばならない」
 まさに、我らの世界広宣流布こそ、人類の栄光を勝ち開きゆく「地球革命」であります。

断固勝ちまくれ!
 戸田先生は叫ばれました。
 「正義の陣列は、連戦連勝たれ!」と。
 「立正安国」とは、正義の連続闘争です。
 師匠から受け継いだ、この「立正安国」の旗印を、私は今、青年部に託します。
 君たちよ、「一身の安堵」の揺籃から勇敢に打って出よ!
 「四表の静謐」のために戦う革命児たれ!
 「立正安国」の大道を、勝利の闘争で広げゆくのだ!
 断固として勝ちまくれ!

 広宣の
  三世の友は
   最極《さいごく》の
  正義の大道
   勝ち抜く使命が
2009-07-16 : 御書と師弟 :
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忘れ得ぬあの瞬間 第5回

忘れ得ぬあの瞬間
名誉会長と共に80周年へ
 (2009.7.15付 聖教新聞)

第5回 最初の地方指導

関西に 常勝の旗 永遠なれ

 真新しい濃紺の支部旗を手渡す瞬間、その眼光は、鋭さを増した。
 新たに誕生した阪神支部など10支部の新支部長たちの目を、真っすぐに見つめ、一人一人を鼓舞する池田新会長。
 「この旗は、折伏の旗印です」
 「しっかり戦ってください!」
 緊張し切った新リーダーたちの表情が、みるみる上気していく。
 “折伏の旗印”を両手に握り締め、支部長が壇上で横一列に並んだ。
 どよめく拍手。勢いに押され、旗も、翩翻と、はためいて見える。
 それは、新会長が示した「300万世帯」の達成へ、堂々たる出陣の劇であった。
 昭和35年(1960年)5月8日。池田新会長を迎えて挙行された、関西総支部幹部会の光景である。
 参加した草創の友が振り返る。
 「意気 天を衝くとは、まさに、あのことです。あれほどの歓喜の会合は、ほかにありませんでした」
 この日、会場となった大阪府立体育会館には、開始が夕刻にもかかわらず、朝から続々と同志が集まり始めていた。
 「会場の都合で早く来ないように」と徹底されていたが、午後2時には、参加者で溢れ返った。
 人場整理券のない人たちも押し寄せ、特設の第2会場まで、立錐の余地もなかった。
 「一目、私たちの先生に会いたい」
 参加した1万3000人の、否、全関西の思いは、ただそれだけだった。
        ◇
 第3代会長として、初めての地方指導を、どこにするか。
 昭和35年5月6日の日記には、こう記されている。
 「明日より、地方指導の第一歩を。まず、苦楽を共にした関西に決定。同志の嬉しそうな顔が目に見える」
 ほかのどこでもなかった。昭和27年の初訪問以来、一番苦しい、一番楽しい戦いを共にした関西を最初に選ぶことは、必然だったと言える。
 小説『人間革命』第10巻に、「生涯を決定する一戦」と綴られた昭和31年の「大阪の戦い」。
 この“まさか”の勝利を可能ならしめた力とは、何であったか。
 それは、恩師の分身となって、命懸けで同志を励ました、青年部の池田室長と、それに応えた関西の同志の「信心」と「団結」の力にほかならなかった。
 5月7日、池田会長が大阪に到着。「地方指導の第一歩」が刻まれた。
 翌8日、会場の体育会館に着くや、池田会長は真っ先に、別室で待つ友のもとを訪れた。
 「大阪事件」の取り調べで理不尽な圧迫に苦しめられた同志たちであった。
 会長自ら、事実無根の冤罪で投獄された。戸田先生亡き後の学会を一人で支えつつ、過酷な法廷闘争を戦い続ける身であった。
 池田会長は、友に語りかけた。
 「私と共に苦労した同志を決して忘れません。
 戸田先生に代わって、私が皆さんを何としても護っていきます」
 同志は、涙で誓った。
 「正義は負けたらあかん。絶対に勝だなあかん。関西は、すべてに勝って、第3代会長を護り抜く!」
 常勝不敗の原点7・17「大阪大会」から間もなく52星霜を迎える。
        ◇
 会場の体育会館は、熱気でむせ返るような暑さ。
 しかし池田新会長が壇に立つと、流れる汗、溢れる涙を拭うことも忘れ、手も砕かんばかりに、拍手が打ち鳴らされた。
  「関西の皆さんには、お世話になりました!」
 池田会長にとって、家族にも等しい関西。関西にとって、何があっても、変わらぬ、私たちの先生。
 新会長は訴えた。
 「関西に人材の城を!」
 「わが正義を叫び抜け!」
 先生、関西は、やりまっせ!──常勝魂が、真っ赤に燃え上がった。
2009-07-16 : 忘れ得ぬあの瞬間 :
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新 あの日あの時 2

新 あの日あの時 2     (2009.7.12付 聖教新聞)

池田先生とイタリアのフィレンツェ

永遠の「勝利の都」を勝ち築け

黒革のサイン帳
 夜の帳がイタリアの古都を包み、フィレンツェのレストラン「ブーカ・ラーピ」の窓にも、赤みがかった明かりが灯った。
 1880年に創業された店。この日は、1981年5月31日で、新しい百年の節目を迎えていた。
 テーブルの間を回っていたウエーターの目が、ある席に吸い寄せられた。そこでは、東洋の紳士を中心に歓談していた。テーブルマナー、ゲストヘの気配り、人の話を聞く態度。どれも一流である。
 “ただ者ではない”。フロアの情報は逐一、スタッフに届けられる。キッチンで、名物のリゾットを調理していたシェフの顔も引き締まった。
 「シニョーレ(お客さま)」
 プレスのきいたスーツを着た支配人が近づいてきた。
 「よろしければ、ぜひお名前を」。手ざわりの良い、黒革の芳名録を開く。
 詩人、音楽家、画家……。名だたる著名人のサインが記されていた。
 あるページには一種、異様な筆跡。狂気の独裁で知られたドイツの政治家である。
 東洋の紳士は、眉をひそめた。民衆の側に立つ人であることがうかがえた。
 支配人が新しいページを開いてテーブルの上へ。
 さっとペンを走らせた。
 「山本伸一」

青年の都たれ!
 この時、池田大作SGI会長はフィレンツェを初訪問。ペンネームでサインし、「芸術の都」に敬意を表した。
 当時、イタリアSGIの勢力は約300人。8割が青年である。
 ミケランジェロ広場に行った日は、日差しが強かった。わざわざ露天で麦わら帽子を買い求め「ありがとう。かぶりなさい」。汗にまみれた役員の青年に手渡した。
        ◇
 アルノ川沿いのカッシーネ公園。
 すたすたと足を進める。速い。若者たちは付いていくので精いっぱいである。SGI会長が振り返った。
 「悪いね。私は何でも速いんだよ」
 陽気で、マイペースなイタリア人気質の青年たちは、こんなスピードで世界を駆け抜けてきたことに、少なからぬ衝撃をおぼえた。
        ◇
 郊外にある丘の街フィエーゾレ。フィレンツェ大学の学生と石畳の坂を歩き、カフェでエスプレッソを傾けた。
 「ダンテが『神曲』を書いたのは、このフィレンツェを追放される前だったか、後だったか」
 学生たちは顔を見合わせ、首を振る。過去に埋もれていたルネサンスの詩人の魂を、若い胸中によみがえらせた。
        ◇
 フィレンツェの会員宅。イタリアに、マリファナやコカインが広がっていることが話題になった。深刻な社会問題だったが、それを食い止める哲学がなかった。
 SGI会長は、強く言い切った。「麻薬に頼ってはいけない。仏法に現実逃避はない。正面を向くのが仏法だ」
        ◇
 イタリアの会員数は、92年に1万5千人、2000年に3万人になった。81年を起点にすれば、実に20年で100倍の拡大である。
 フィレンツェの青年が起爆力になった。

バチカンの枢機卿
 イタリアのバチカン市国は、広さ約0・44平方㌔。東京ディズニーランドより小さい。世界最小の主権国家だが、世界に10億人の信者をもつカトリックの総本山である。
 枢機卿セルジョ・ピニェードリは、バチカンの宗教間外交を一手に担っていた。非キリスト教信徒事務局のトップである。
 72年10月に、静岡で初めてSGI会長に会って以来、強烈な印象が消えない。
 バチカン駐日大使ブルーノ・ヴュステンベルク(大司教)からも、詳細なリポートが届いている。同大使とSGI会長は、計6度の会談を重ねてきた。
 文化や教育レベルの事業に高い意識がある。異なる文明の間を対話で結ぼうとしている。社会運動家としてみても精力的である。
  “信頼できる。教皇は池田会長と会うべきだ……”
 第262代ローマ教皇パウ口6世との会見が決まった。
        ◇
 75年5月、SGIの代表がバチカンを訪れた。国際センター事務総長の原田稔、欧州議長のエイイチ・ヤマザキ、イタリアSGIのミツヒロ・カネダの三人である。
 “何かあったな……”
 ピニェードリは直感した。
 サン・ピエトロ大聖堂に近いローマ教皇庁舎の一室。
 枢機卿の証しである緋色の法衣に身を包んで、ピニェードリは現れた。
 「池田会長は、お会いできなくなりました」
 原田稔の声が大理石の床に響く。
 枢機卿の濃い茶色の目が、じっと見つめてくる。
 「そうですか。残念です」
 出会いが実現すれば、平和という宗教の根本使命を、分かち合うことができたに違いない。
        ◇
 SGIの一行が再びバチカンを訪れたのは翌月である。
 「教皇との会見をキャンセルしたのは、池田会長が初めてです」
 枢機卿ピニェードリが微笑んだ。
 ただ、なぜキャンセルせねばならなかったのか。真意が知りたい。
 「理由は何ですか?」
 ピニェードリの目が真っぐに見つめている。
 「……宗門です」
 枢機卿が大きくうなずいた。「やはり。思った通りです」
 世界宗教へ飛躍しゆく学会と閉鎖的な宗門。
 その構図をバチカンは見抜いていた。

勝利を刻む広間
 「この広間に、フィレンツェの勝利の歴史を描いて欲しい──」
 宮廷画家のヴァザーリに、フィレンツェを治めるコジモ1世が命じたのは、16世紀なかばだった。今の市庁舎(ヴェッキオ宮殿)の広間を飾る壮大な絵画である。
 すでに、ダーヴィンチとミケランジェロの両巨匠が筆を競ったが、それぞれ未完成に終わっていた。
 しかし、周辺の勢力との戦いに勝利し、フィレンツェを芸術都市に整備したコジモ1世は、あきらめない。
 フィレンツェは勝った。この歴史を描かせ、永遠に宣言したかった。
 命じられたヴァザーリは市庁舎の「五百人広間」にフレスコ画を描く。題材はピサ、シエナにおける攻防戦。
 敵陣に攻め込む兵士。勇敢に指揮を執る馬上の将軍の姿がある。まさに「軍には大将軍を魂とす」である。隆盛を決定づけた「勝利」の合戦だった。
        ◇
 この「五百人広間」に池田SGI会長が足を運んだのは、92年6月30日の夕刻である。
 まもなく「フィオリーノ金貨」授与式典が隣の市長室で始まる。市長ジョルジュ・モラリスが待っているはずだ。
 左右の壁から、今にも騎馬と兵士が押しよせてきそうなヴァザーリの絵画が、SGI会長を見つめている。
 この日、フィレンツェのモラリス市長は語っている。
 「他の宗教を信じる人であれ、無宗教であれ、SGI会長の精神に必ずや共鳴すると確信します」
 宗門の黒い妬みで、ローマ教皇との会見が中止になったこともあったが、ルネサンスの都は、SGI会長を勝利の人として迎え入れた。
 2007年には「五百人広間」でSGI会長に「平和の印章」が贈られている。

今日は再び来ない
 天井にカンツォーネが響く。背筋をぴんと伸ばした老紳士が、ステージに拍手を送っている。
 1992年6月28日、フィレンツェのSGIイタリア文化会館で芸術音楽祭が行われていた。
 紳士の名はリベロ・マッツア。元内閣官房長官である。第2次大戦中、ナチスの魔手から幾多のユダヤ人を救う。フィレンツェの破壊を食い止めた英雄である。
 SGIに強く惹かれていた。麻薬におぼれていた青年を次々に更生させているという。陽気な祭典にも感嘆したが、SGI会長のスピーチにも唸った。
 「悪と戦わない人は正義ではない」「生きている限り、私は戦う。行動を続ける」
 マッツアの心と強く共鳴した。これまで命を狙われること34回。政界を退いてからも、マフィアと麻薬の撲滅のため戦ってきた。
 しかも、イタリア文化会館はメディチ家ゆかりの建物。国の重要文化財である。
 SGI会長は、文化を護る人でもある。
        ◇
 イタリア政府が、国家的な顕彰のためにき出した。
 今こそ我らは「平和の同盟」を結ぶべきではないのか。池田会長のような世界市民を模範として!
 2006年1月30日。
 東京のイタリア大使公邸で、SGI会長に「功労勲章グランデ・ウッフィチャーレ章」が贈られた。
 公邸の中庭に、大きな池をたたえた日本庭園が広がっている。
 その空の向こうには、目黒駅を使って幾度も足を運んだ戸田城聖第2代会長の自宅があった。
 若き日から、フィレンツェの詩人ダンテをめぐり、戸田会長と語り合ってきた。
 「今日という日は再び来ないのだ」
 『神曲』の一節を引くと、恩師は「大作、その通りだな」と微笑んだ。
2009-07-13 : 新 あの日あの時 :
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池田名誉会長の人物紀行 第5/6回

池田名誉会長の人物紀行 「歴史の巨人」と語る
             (2009.7.10/11付 聖教新聞)

第5/6回 民主主義の父 リンカーン㊤㊦

「正義は力なり!」と 
勝負はこれからだ


 さあ、今日という一日を、思う存分に戦い切ることだ。一切は、そこから開ける。
 「今日の苦闘は、今日だけのものではない。
 それは、壮大な未来のためのものでもある」
 こう語りかけ、青年を励ましてくれる先哲がいる。誰にも増して、悪戦苦闘の人生を生き抜き、人類の未来を切り開いた、筋金入りの苦労人だ。
 その人こそ、アメリカ合衆国の第16代大統領エイブラハム・リンカーンである。
        ◇
 1960年の10月、私は、世界への平和旅を、アメリカから開始した。
 首都ワシントンDCでは、ギリシャ神殿を思わせる白亜の殿堂を訪れた。リンカーン大統領の記念堂である。
 大理石で造られたリンカーンの大座像が迎えてくれた。広い額、高い鼻、鋭くも温かい眼光からは、聡明な頭脳と強靭な意志が伝わってくる。
 その顔《かんばせ》こそ、「ひとかたならぬ苦労によって崇高な人間性という秘宝が姿をあらわした」と讃えられた尊容である(マリオ・M・クオモ/ハロルド・ホルザー編著、高橋早苗訳『リンカン民主主義論集』角川選書)
 壁に刻印されているのは、かの有名な「ゲティスバーグ演説」の一節である──。
 「人民の、人民による、人民のための政治をこの世から消滅させてはならないのです」(前掲書)
 万人の生命の尊厳と平等を説き明かした仏法哲学を掲げ、平和のため、人類の幸福のため、この「人民根本」の理念を実現していくことが、広宣流布の展開であると、私は同行の青年たちと強く語り合った。
 昨年、このリンカーン記念堂から程近い「大使館通り」の一角に、創価のワシントンDC文化会館が誕生した。
 学識者を招いての平和講演会なども、活発だ。ロビーに飾られたリンカーン大統領の肖像が、わが愛するアメリカの友を見守っている。

民衆詩人の讃歌
 リンカーン大統領と同時代を生きた、民衆詩人ホイットマンは語っている。
 「私の親愛なる愛しき母親の次に、他の誰よりもリンカーン大統領を、私は最も親しく、そして身近に感じるのだ」
 彼らが共に生きた19世紀半ば、アメリカは奴隷制度の是非をめぐり南北が分裂し、激しい憎悪をもって自国民が争う状態が続いていた。
 だがリンカーンは、厳然と民主主義の精神を貫きながら、自由と平等の国の建設へ舵取りをしていった。
 「穏やかで、率直で、義に篤く、意志強く、周到な指揮ぶりで、/どんな国どんな時代にも例を見ぬ史上最悪の罪を敵にまわし、/諸州寄りつどう連邦を救ってくれた」(酒本雅之訳『草の葉㊥』岩波文庫)
 リンカーンを讃嘆したホイットマンの詩の一節である。
 ホイットマンはリンカーンによって素晴らしい詩想を得、リンカーンはホイットマンによって輝きを増した。二人の詩心と信念は、米国を希望の方向へ前進させたのだ。
        ◇
 今年は、リンカーンの生誕200周年である。この佳節に、米国史上初のアフリカ系の元首として、バラク・オバマ大統領が誕生した。
 母国再生の指揮を執り、理想を追い求めつつ、徹して現実主義者であり続けるオバマ大統領に、リンカーンを重ね合わせる人は少なくない。
 オバマ大統領も、リンカーンを深く敬愛し、「比類なき偉人が大統領を務めたおかけで、私の物語は可能になった」と感謝を捧げている。
 私が交友を結んだ世界的な経済学者のサロー博士は、「最も評価される歴史上の指導者は」との問いに、リンカーンを挙げられた。
 先般、お迎えした、英国の名門クイーンズ大学ベルファストのグレッグソン学長も、リンカーンの深き精神性と明確なビジョンを高く評価されている。
 私も、実業家の松下幸之助氏から「今までの世界の歴史において、偉大な政治家と思う方は誰か」と問われ、明快にリンカーンと答えた。

激戦の中で磨け
 なぜ、リンカーンが偉大か。
 何よりも、常に庶民を愛し、人々の苦しみを、わが苦しみと感ずる深き慈愛の心にあふれていた。
 あの南北戦争の際、女性たちから寄せられた夫や息子の除隊願いの大部分を受け入れたことも、よく知られる。
 青春時代、私が編集長を務めていた雑誌「少年日本」でも、リンカーンと少年との麗しい逸話を紹介したことがある(1949年12月号)。
 南北戦争のさなか、大統領のもとで働く少年給仕は、必死に働いて得たお金を、病気に苦しむ父と母に仕送りして支えていた。
 その状況を知ったリンカーンは、健気な少年に真心の金貨を贈り、こう語ったという。
 「明日、早速、お母さんに送ってあげるがいい。
 どんなに貧乏していても、君のような孝行者を子に持った母親が羨ましいと、大統領が申しましたと手紙に書いてあげなさい」
 リンカーンの振る舞いは、民主主義を体現していた。
 地位や立場に関係なく、誰とでも友人となり、親切で、思いやりのある言葉をかけていったとの証言が多々ある。
 それは、リンカーンが若くして、人生の茨の道を歩んできたからにちがいない。
 1809年の2月12日、ケンタッキー州の開拓農民の子として丸太小屋で生まれた。
 正規の学校教育を受けたのは、1年にも満たなかった。9歳の時に、愛母と死別する。青年時代には、営んでいた雑貨店が破産し、多大な借金を抱えたこともあった。
 しかし、彼は屈しない。努力を惜しまなかった。働きながら読書に励み、思索を重ね、文章を綴り、自らの見識を養った。そうして得た知識を、庶民との交流で智慧に変えた。実社会という総合大学の中で自身を磨いたのである。
 世界の一流の人物に共通する足跡であり、わが創価の多くの同志が歩んでいる道だ。
 リンカーンは苦難を前に一歩も退くことなく、借金も、十数年かけて完済した。
 誠実、勇気、忍耐──艱難は、その人間力を鋼の如く鍛え上げていった。
 大統領に就任した際、閣僚に7人の大学出身者がいた。
 もしシーソーの一方に7人が乗っても、片方にリンカーンが乗れば、彼の重みで相手の7人は空高く跳ね飛ばされてしまうだろう。そう評されたくらいである。
 この話を通して、戸田先生も、よく語ってくださった。
 ──庶民の中にこそ、英知がある。労苦の中でこそ、実力は磨かれる。わが青年部は、激戦の中で、どんなに威張り腐った連中にも、断じて負けない力をつけよ、と。

虚偽には抗議を
 州議員の時代のことである。リンカーンの人気と名声を嫉んだ対立候補が、公衆の面前で卑怯な人身攻撃を始めた。その男は、立身出世を企んで自らの信念を曲げ、かつての盟友も裏切る変節漢であった。
 リンカーンは正義の弁舌で戦った。当意即妙のユーモアを交え、虚偽を毅然と正した。
 獅子の雄弁の前に、相手は一目散に退散したという。
 「抗議すべき時に沈黙する者は、卑劣な人間となってしまう」とは、彼の信条である。
 そしてまた、「真実は中傷に対する最上の弁明である」と確信していたのだ(石井満著『リンカン』旺文社文庫)
 「言論の自由」は民主主義の誇り高き柱の一つである。
 それは、根拠のない虚偽を流す自由ではない。人々を騙す欺瞞を語る権利でもない。真実と公正な社会を築くためにあるのだ。
 ゆえに、リンカーンは、言論の暴力を許さなかった。
 「正しい証拠と公正な議論を虚偽と欺瞞にすりかえる権利は誰にもないのです」とは、リンカーンの獅子吼である(『リンカン民主主義論集』)。

起死回生の作戦
 リンカーンは、逆境を撥ね返す勝負強さを持っていた。
 土壇場に追い込まれても、底知れない粘りがあった。
 大統領再選の選挙の際も、そうであった。
 長期化する南北戦争への不安から、勝利は遠のいていた。「リンカーンはもう駄目だ」「勝つのは不可能だ」と、味方からも見放された。
 絶体絶命のリンカーン陣営が取った起死回生の作戦──それは、出征している北軍の兵士たちも、確実に投票の権利を行使できるように万全の態勢を整えることであった。
 最後まで、気を緩めることなど決してなかった。
 結果は逆転勝利! 作戦は見事、難局の突破口を開いた。
 断じて諦めない追撃の布石に勝因があった、と分析する歴史家もいる。
 「断固として立つなら、敗れることはありません」
 「遅かれ早かれ、勝利はかならずめぐってくるのです」(前掲書)
 これが、百戦錬磨のリンカーンの勝負哲学であった。

民主主義の父 リンカーン

今日を勝て!
勝って証明を


 ロシアの文豪トルストイはリンカーンを讃えて言った。
 「全世界を包みこむ人道主義者だった」と(マリオ・M・クオモ/ハロルド・ホルザー編著、高橋早苗訳『リンカン民主主義論集』角川選書)
 世界に開かれ、世界のために貢献する。人類とつながり、人類から信頼される。
 この世界市民の先駆の道を、リンカーン大統領は歩んだ。それは、日本の民主主義の夜明けにも連動している。
 わが関西の出身で、幕末期、日本最初の新聞を横浜で創刊した浜田彦蔵は、リンカーンとの出会いを宝としていた。
 「大統領は大きな手をさしのべて、日本のような遠いところからよく来てくれましたね、といい、まごころのこもった握手をかわした」(近盛晴嘉著『ジョセフ彦』日本ブリタニカ)
 いささかも権威ぶらない。対等に親切に迎えてくれた。人間指導者の握手の温もりは、青年の行動の熱となった。
 彦蔵は、合衆国憲法をモデルに「信教の自由」などを備えた憲法の草案を提出したことでも、知られている。
 リンカーンも彦蔵も追求した「人道」を、人類の指標として高らかに掲げたのが先師・牧口常三郎先生である。
 先生は「ちっぽけな島国根性で『蝸牛(カタツムリ)の角の争い』をしている時代ではない」と戒められた。
 その心を心とする、創価の平和と正義と人道の連帯は、世界192力国に広がった。
 今や、「民主主義の殿堂」たるアメリカ連邦議会からも、意義深さ顕彰を拝受する時代に入っている。
 世界が、我ら創価の前進そして勝利を祈り、待ってくれていることを忘れまい。

人民のために!
 1861年の3月、リンカーンは、大統領就任式に臨んで語っている。
 「人民が選挙によって私を選び、演説の中で述べられた希望を実現するための道具としてくれたわけです」(『リンカン民主主義論集』)
 自分を選んでくれた人民に、いかに応えてゆくか──。出発点が明快であった。
 さらにまた、リンカーンは、大統領の就任式で宣言した。
 「なぜ、国民の究極の正義をあくまでも信頼しようとする姿勢がないのでしょうか?
 それ以上の、あるいはそれに匹敵する希望がこの世に存在するでしょうか?」(前掲書)
 すべての為政者が耳を傾け、心すべき警鐘であろう。
 リンカーンには、この確固たる哲学があった。理念があった。ゆえに、現実処理のみに追われ、自己保身に汲々とするのではない。現実に深く根差しつつ、常に人民を信じ、人民のためにと、リーダーシップを発揮していった。
 国家の命運を担う大統領として、奴隷制度は悪であるとの断固たる信念に立ちつつ、冷静に事態を分析し、最大限に智慧を働かせて、でき得る限り、穏健な路線を進んだ。
 政治の目的は、「個人の幸福」と「社会の繁栄」との一致にあるとは、恩師・戸田城聖先生の慧眼であった。
 その理想を実現するためには、どんなに時間がかかろうとも、どんなに苦労があろうとも、人民の大地から、人民の手づくりで、リンカーンの如き哲人指導者を育て上げていく以外にない。これが、戸田先生の結論であった。
        ◇
 数多《あまた》の犠牲を払って、なお続いた南北戦争──。
 火薬の臭いが漂う緊張した空気のなか、彼は第2期の大統領就任演説で、こう訴えた。
 「なんぴとにも悪意をいだかず、すべての人に思いやりを示し」と(同)
 それは、道徳を基盤とした政治こそ真の民主政治であるとの信条に裏打ちされていた。リンカーンは、一党一派の利益や一部勢力の便宜のために働くのでなく、国家百年の大計、さらには全世界的視野に立っていたといってよい。
 彼は北部の出身であった。しかし、常に連邦全体の発展に焦点を当てていた。
 また当時、世界に民主国家と呼べる国は皆無に等しかった。彼は、アメリカの民主主義を確立することによって、世界の民主主義を擁護するチャンスと責任が生まれると考えていたのだ。
 そのためには、「自由を愛する世界中の人びとが」心を一つにすることだ。
 そうすれば、「われわれは連邦を救うだけにとどまらない」「あとにつづく数百万人の幸福な自由人と世界中の人びとは立ち上がり、末代までもわれわれを賞賛するだろう」と、リンカーンは確信してやまなかった(同)
 この信念の通り、1863年1月に「奴隷は即時、無償解放される」と宣言した。
 世界史に、そびえ立つ自由と平等の燦然たる金字塔を打ち立てたのである。

雄弁家=戦う人
 リンカーンは言った。
 「私の哲学に、偶然はない。すべての結果には、原因があるものだ。過去は現在の因であり、未来の因は現在にある。
 すべては、有限から無限へと続く終わりなき鎖のようにつながっているのだ」
 要するに、坐して黙しているだけでは、何も開けない。
 リンカーンは、一貫して言論で民衆を力強く鼓舞していった。
 直接、語りかけただけではない。南北戦争の渦中には、当時、全米にネットワークを広げていた電報を価値的に活用した。軍事電報局を拠点として、遠く離れた最前線の指揮官に直接、打電し、指令や激励を、時には夜を徹して送り続けたのである。
 リーダーが安住していては、人の心を動かすことなどできない。まして油断は大敵である。
 即座に報告を入れよ!
 即座に手を打つのだ!
 これは、かのアショカ大王が貫いた鉄則でもあった。
 今、この時に、できることは何か。勝利のため、なすべきことは何か。頭を絞り、智慧を出し、声の限りを尽くして、皆に勇気を贈ることである。真の雄弁家とは「戦う人」の異名である。
 言論闘争とは、いつ、いかなる場所にあっても直ちに起こせる戦いである。
 私も、どこに身を置いても常在戦場の決意で、日本はもちろん、世界の友に激励の手を打ってきた。夜行列車の車中で原稿を書いたことも、移動の車から和歌を発信したことも、数を知れない。
 雄弁の本質について、リンカーンは論じている。
 それは、「言葉や文章のうまい並べ方」ではない。「真摯で情熱的な口調と態度」にある。そして、「目的および正義の重要性にたいする強い確信と偉大な誠実さにのみ由来する」というのである(同)
 大事なのは、格好ではない。
 真剣であり、真心である。
 誠実であり、勇気である。
 情熱であり、確信である。
 友の心を歓喜と感動で揺さぶり、敵には舌鋒鋭い破邪顕正の矢を放っていくのだ。
 御聖訓には、「一《ひとつ》の師子王吼れば百子力を得て諸の禽獣皆頭七分にわる」(御書1316㌻)と説かれる。

宗教こそ不可欠
 リンカーンは「信教の自由」を尊重してやまなかった。
 「宗教の公然たる敵、またはその嘲笑者であるのがわかっている人を公職に推す気にはとうていなれない」とは、あまりにも有名な言葉である(B・P・トーマス著、坂西志保訳『リンカーン伝㊤』時事通信社)
 宗教をあざ笑うような無知にして驕慢な人間こそ、民主主義の破壊者である。
 ホイットマンも洞察した。
 「崇高で真摯な宗教的民主主義が厳然として指揮し、古臭いものを分解させ、表面を脱皮させて、それ自らの内面的な生命の原理から、社会を再建し民主化してゆく」(鍋島能弘訳「民主主義の予想」、河出書房新社『世界大思想全集、哲学・文芸思想篇25』所収)
 真正なる宗教性こそ、民主主義の建設に不可欠なことを展望していたのである。
 こうした世界の民主主義の趨勢を踏まえつつ、恩師は、政治を鋭く監視していくことを青年に託されたのだ。

女性から始まる
 ある日ある時、リンカーンは涙を浮かべながら語った。
 「今の私があるすべては、そして将来、私がなすことのできるすべては、天使のような母のおかげである」
 母への尽きせぬ感謝、そして報恩──そこにこそ民衆へ奉仕する力の源泉がある。
 ホイットマンは謳った。
 「女性の正義のなかから、あらゆる正義が開かれ現れる。
 女性の共感のなかから、あらゆる共感が開かれ現れる」
 リンカーン、そしてホイットマンが、わが創価の母たち、女性たちの「正義」と「共感」の連帯を見つめたならば、何と賞讃し、何と詠嘆したことだろうか。
 この尊極の母たち、女性たちの笑顔が明るく満開に咲き薫る人間社会にこそ、民衆の勝利の実像があるのだ。
        ◇
 歴史を変える戦いは、最も苦しい試練の時にこそ、最後まで頑張り抜く「執念」で決まることを、リンカーンは、繰り返し訴えていた。
 2007年9月8日──。恩師の「原水爆禁止宣言」50周年を記念して、ニューヨークのクーパー・ユニオン大学で、核兵器の廃絶を世界に呼びかける「市民平和フォーラム」が盛大に開催された。
 会場となったキャンパスは、リンカーンが、奴隷制度の是非を問う歴史的な演説を行った、ゆかりの場所である。
 「市民平和フォーラム」へのメッセージを、私は、そのリンカーンの演説で結んだ。
 「正義は力であるとの信念をもち、この信念に立って、自身の義務であると信じることを最後まではたそうではありませんか」(『リンカン民主主義論集』)


 本文中に明記した以外の主な参考文献=高木八尺・斎藤光訳『リンカーン演説集』岩波文庫、本間長世著『リンカーン』中公新書、井出義光著『リンカーン 南北分裂の危機に生きて』清水新書、本間長世著『正義のリーダーシップ リンカンと南北戦争の時代』NTT出版、巽孝之著『リンカーンの世紀』青土社
2009-07-11 : 人物紀行「歴史の巨人」と語る :
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随筆 人間世紀の光 No.193/4

随筆 人間世紀の光 No.193/4  (2009.7.8/9付 聖教新聞)

「青年創価学会」の息吹㊤㊦

若き君よ! 広布の決戦場で断固勝て

新しき夜明けだ!

 新しき
  広布の風を
    起こしゆく
  馬上 豊かに
   君たち《英雄》 走らむ

 新たな夜明けは、青年の台頭が告げる。
 青年が立てば、時代は変わる。青年が進めば、悪は逃げ去る。青年が勝てば、母たちは幸福に輝くのだ。
 革命の闘魂の男子部も!
 華陽の生命の女子部も!
 先駆の英知の学生部も!
 若き弟子たちの溌刺たる前進は、頼もしい限りだ。
 これほど深き哲学を持って、気高く社会貢献に汗を流しゆく若人の大陣列が、一体いずこにあろうか!
 「革命または改良といふ事は必ず新たに世の中に出て来た青年の仕事」
 これは、人材の要衝たる東京・目黒の天地に足跡を刻んだ、歌人・正岡子規の言葉だ。
        ◇
 負けるなと
   次代の君の
     晴れ舞台

 私が固い友情を結んだローマクラブの創立者ペッチェイ博士は、地球環境の保護のために、いち早く警鐘を鳴らした賢人である。
 私たちの「人間革命」の思想に、最大の賛同を寄せてくださっていた。
 博士は強く叫ばれた。
 今、人類が直面している「重大な過渡期」を乗り切るためには、「若い世代の想像力と行動組織にもっと活動の場を与えること以外にない」と言われたのだ。
 わが学会も、幾多の険難の山また山を乗り越えてきた。なかでも「重大な過渡期」の一つは、第2代会長・戸田先生亡き後の2年間であったといってよい。
 ここぞとばかり、世間の非難・中傷は襲いかかってきた。しかし、その暗い逆風下でも、学会は断固として大発展を続けた。
 それは、見えない水面下で、恩師が残した若き分身の弟子が全学会のスクリューとなって、死に物狂いで戦っていたからだ。
 学会には、青年がいる! 広宣流布の全責任を担い立つ後継の青年がいる──親愛なる同志は知っていた。いな信じていた。
 そして、「若き世代」の鮮やかな登場を、祈り待っていてくださったのだ。

 君来たり
   創価の人材
       光あり

 それは、ちょうど50年前(昭和34年)の6月30日のことである。学生部の結成より2周年の記念日でもあった。
 前年の同じ6月30日に、ただ一人の「総務」に就いていた私は、この日、学会の「理事」に就任したのである。そして、11人に拡充された理事室を代表して、総務が組織部門と事務部門のすべてを統括・推進することが決まった。
 つまり、一段と責任を明確に“執行部”の要として、全学会の指揮を執ることになったのである。
 それは、戸田先生が第2代会長に就任された時に匹敵する大機構改革だった。
 この時、「聖教新聞」「大白蓮華」をはじめ、出版、企画、経理など多くの部門の責任者にも、青年部出身者が抜擢された。
 支部・地区でも、恩師の薫陶を受けた若武者たちの登用が進んでいった。
 「次の時代は青年に!」
 この恩師の念願が、一段と明確な形となり、清新な「青年創価学会」が颯爽と姿を現し始めたのである。
 学生部結成の記念日は、1周年も、2周年も、私の新たな出発となり、重々の縁を感じてならない。
 あの思い出深き荒川文化会館で、学生部歌「広布に走れ」を発表して、大合唱したのも、昭和53年の6月30日のことであった。地元・荒川の友の誇り高き顔《かんばせ》が、私の心に光って離れない。
 ──なお、師弟の言論誌「大白蓮華」は、この7月で創刊60周年の佳節を刻んだ。世界の識者も注目し、賞讃する論陣が嬉しい。
        ◇
 大東京
  君よ 走れや
   指揮とれや
  ああ百万の
   歓喜のうねりを

 戸田先生の心を心とし、一切の勝利の力用を青年が双肩に担い立って、怒濤の大前進が開始されたのだ。
 この昭和34年6月の大機構改革と同時に、組織の一番の柱である支部の充実・発展が図られ、新たに16支部が誕生した。
 “庶民の英雄”と輝く荒川支部や、“信心一筋”の魂を継ぐ世田谷支部、そして“豊島の勝利城”池袋支部が発足したのも、この時である。
 また、板橋、江東、葛飾、大田、渋谷、そして横浜、京浜、杉戸、船橋、さらに関西の京洛、平安、東北の宮城、北上の各支部も生まれた。本年で記念すべき結成50周年である。
 若々しい息吹はすべてを新鮮にする。新勢力の勃興に、蒲田、足立、中野、小岩、向島、杉並、文京等の伝統の支部も、大宮等の中堅の支部も、奮い立って、心新たに船出した。
 特に新設支部のうち12支部は首都圏であった。さらに北多摩や町田など、現在の第2総東京の新天地も輝きを放ち始めていた。
        ◇
新時代へ3つの大波を
 師弟不二たれ!
 異体同心たれ!
 絶対勝利たれ!


 50年前は、広宣流布の会館も少なかった。師弟の縁も深き豊島公会堂をはじめ、各地の体育館等を借りて活発に大会が行われた。
 青年部の役員が真剣に絶対無事故の運営に臨んだ。創価班、牙城会、そして、7・8“グループの日”を迎えた白蓮グループ等の尊き友が受け継いでくれている「学会厳護」「会員厳護」の心である。
 全軍の牽引とともに、私はさらなる高みを見つめ、次の勝利への基盤を、深く強く打ち込んでいった。
 「300万世帯の成就」「世界広宣流布」という恩師に捧げた誓願が、瞬時も胸を離れなかったからだ。
 理事に就任直後の7月、私は全同志に叫んだ。
 「戸田先生の時代に還れ」──これが、新時代の旭日を昇らせゆくための、私の結論であった。先生の魂を凝結させ、私は特に3点にわたって、新たな波動を起こしていったのである。
 師弟不二たれ!
 異体同心たれ!
 絶対勝利たれ!──と。
        ◇
 師弟不二
  広宣流布の
   誉れの同志

 第一の波動──それは、「師弟不二」である。
 「よき弟子をもつときんば師弟・仏果にいたり」(御書900㌻)
 仏法の極意である師弟の哲理を貫き通せば、学会は永遠に勝ち栄えていける。
 「いよいよ強盛な信心をせよ!」──レコードから流れる戸田先生の師子吼を、理事室の皆と幾度も聞いた。聞くたびに満々たる勇気が湧いた。
 「確信のあるところには、おのずから情熱が湧く」
 先生の残してくださったご指導の通りだ。
 師の開拓精神!
 師の建設精神!
 師の破折精神!
 恩師の思考は、常に新しく未来へと向かっていた。
 私は、いかなる会合でも恩師の教えを叫び続けた。
 私の身体の、どこを切っても、戸田先生の広布一徹の熱さ血潮が流れている。先生が「戸田の命より大事」と言われた学会の組織の隅々に、恩師の血流を通わせるのだと必死だった。
 残念ながら、峻厳な師の心を忘れ、慢心になり、向上心を失って、惰眠を貪る幹部もいた。
 その姿は、大聖入御在世に、「日蓮御房は師匠にておはせども余にこは(剛)し我等は やは(柔)らかに法華経を弘むべし」(同962㌻)と退転した、増上慢の弟子の如くであった。
 私は、誠烈なる青年群を中心に、学会のど真ん中に、目の覚めるような師弟の魂を据えていったのだ。
        ◇
 第二の波動。それは、「異体同心」の団結である。
 御金言には仰せである。
 「総じて日蓮が弟子檀那等・自他彼此の心なく水魚の思を成して異体同心にして南無妙法蓮華経と唱え奉る処を生死一大事の血脈とは云うなり」
 「若し然らば 広宣流布の大願も叶うべき者か」(同1337㌻)
 この大聖人に直結して、広宣流布へ邁進しゆく同志の結合は、わが学会の他には、どこにもない。あの友の勝利も、この地の栄光も、「自他彼此の心なく」祈りゆく、異体同心の極致の団結が、我らにはある。
 ゆえに「生死一大事の血脈」が脈々と流れ通うのだ。
 その要諦は、御書根本の教学であり信心である。
 私は、昭和34年後半だけでも、福岡、岡山、大阪、静岡、名古屋、岐阜、尼崎、横浜などを駆けめぐり、御書講義を行った。
 青年部には「心の財第一なり」(同1173㌻)の御精神を訴えた。
 毀誉褒貶に流され、名聞名利に狂い、信念を捨て、同志を裏切る浅ましい邪道だけは歩んではならない。どんなに自身を正当化しようとも、「万歳悔ゆる」人生となってしまうからだ。
 私は、一生涯、健気な庶民と苦楽を共にし、「心の財」の和合を護り抜くことを、若き友と固く約していったのである。

 正岡子規の言葉は『病牀六尺』(岩波書店)。ペッチェイは『未来のための100ページ』大来佐武郎監訳・読売新聞外報部訳(読売新聞社)。

「青年創価学会」の息吹

勝ちまくれ! 若き生命を燃やせ
「大いなる祈りと行動」から「大いなる力」が!

 久遠より
  同志か家族か
   離れざる
  三世の仲間の
     正義の力よ

 「異体同心」の中心軸は、信心である。妙法の信仰の絆で結ばれた同志であり、師弟なのである。
 「十界の依正 即ち妙法蓮華の当体なり」(御書510㌻)
 これは、私が折々に婦人部・女子部の友と拝した、「当体義抄」の一節だ。
 日夜、現実の生活の労苦と格闘しながら、人びとのために尽くし続ける、最も尊貴な女性たちである。
 幸福は、どこか遠くにあるのではない。
 創価の女性の心それ自体が「幸福の蓮華」であり、
 「仏の生命の当体」であるとの大確信で、最高に仲良く朗らかな前進を、と祈りながら講義した。
 さらに、四条金吾夫妻を励まされた「王舎城事」も、幾度となく皆で拝した御文である。
 「御いのりの叶い候はざらんは弓のつよ(強)くしてつる(絃)よはく・太刀つるぎ(剣)にて・つかう人の臆病なるやうにて候べし」(同1138㌻)
 創価のスクラムは、最強に勇気ある団結だ。
 “鐘をそっと打てば小さい反響しかない。大きく打てば大きく反響する!”
 ──講義する私の胸には、常に戸田先生の声が響き渡っていた。
 ともあれ、「祈りとして叶わざるなし」の妙法である。全身全霊で祈りをぶつけていけばよい。なかんずく広宣流布のため、異体同心で祈り抜き、祈り切る。
 その時、十方にあまねく諸天が動き、護る。豁然として活路が開かれる。叶わぬ祈りは絶対にないのだ。
 「日蓮が一類は異体同心なれば人人すくなく候へども大事を成じて・一定《いちじょう》 法華経ひろまりなんと覚へ候、悪は多けれども一善にかつ事なし」(同1463㌻)
 これが、創価の師弟が一体となって証明してきた仏法の功力である。
        ◇
 頑強な
  巌も砕かむ
   妙法の
  力用 出《いだ》せや
     我らは仏と

 そして「師弟不二」「異体同心」に続く、第三の波動。それは、「絶対勝利」への率先の行動である。
 全リーダーが最前線に勇み出て、自ら広布の勝ち戦を切り開くことである。
 広宣流布とは肉弾戦だ。
 今も記憶に残る集いがある。その日は、理事就任から1カ月余の、昭和34年の夏8月6日であった。広島の「原爆の日」である。
 私は平和への祈りも深く、この日は、“栄光の人材城”中野支部の組座談会に出席した。
 会場には、50人ほどの方々が来られただろうか。皆、真剣であった。
 夜遅い仕事と学会活動の両立に悩む方がいた。
 私は、自分自身の苦闘の体験を通して語った。
 「真剣に祈ることです。必ず自由に学会闘争が出来るようになります! 行きたいところに、行けるようになります!」
 そして、ユーモアを交えて付け加えた。
 「あまり、ほうぼうに行きすぎて、私は牢獄にまで行っちゃったよ」
 どっと爆笑が弾けた。
 この2年前の7月、私は、あの「大阪事件」で、無実の罪を着せられ、勾留されたのである。裁判闘争も続いていた。御聖訓通りの三類の強敵との戦いであった。
 だからこそ、社会の荒波に翻弄され、萎縮してしまいかねない友の心を励まし、強く大きく広げたかった。
 皆、私と一緒に戦う同志だ。権力の魔性の迫害さえも朗らかに笑い飛ばしながら、私は、一人ひとりと民衆勝利のうねりを起こしていったのである。
 新来の友がおられた。終わりだけに声をかけると、即座に入会を決意され、大拍手が高鳴った。
 実はこの集いは、「中野支部・墨田地区」の座談会であった。
 いわゆる“タテ線”の時代である。会場は、この墨田地区の地区部長・地区担当員のご夫妻が住む江東区の地にあった。仲の良い、下町の人情あふれる、忘れ得ぬ同志たちだ。
        ◇
 人生は
  いかなる生きがい
   持ちゆくか
  創価の宝を
   持つ人 勝ちたり

 何よりも嬉しいことは、共に広宣流布の幾多の激戦を勝ち越えてきた同志が、今も燃え上がる学会精神で、生き生きと戦ってくださっていることだ。
 何歳になろうとも、いかなる立場になろうとも、創価の勝利のため、力の限り、声の限り、語り抜いてみせる、と。あまりにも気高き仏の振る舞いだ。
 私には日本中、世界中に、真の同志がいる。不二の弟子がいる。ゆえに、私は無上の幸福者である。
 どんなに離れていようとも、心は一体だ。その友に届けと、私と妻はひたぶるに題目を送り続けている。
      ◇
 勝ちまくれ
  若き生命の
   血潮 沸く
  正義の君の
    宝刀 振り上げ

 “民衆の王者”足立区ゆかりの大文豪・森鷗外は、若き日、医学界の変革者として試練に晒されながら、決然と叫んだ。
 「吾《わが》志は奪ふべからず」
 信念の道を突き進む青年ほど、強いものはない。
 私が対談したフランスの行動する知性アンドレ・マルロー氏が書き留めた、青年革命家の言葉がある。
 「若さは人生の春であり、新芽の押し上げる力、発芽であり、開花である。年をとっても保持しなければならないのは、この活動力である」
 「幸福勝利」「健康勝利」の妙法を朗々と唱え、はち切れんばかりの若々しい生命力で、奔流の如く進みゆく人は、皆、青年だ。
 価値創造こそ青年の特権なり! ゆえに「創価」とは、青年の異名なのだ!
 若き英雄・ヤング男子部よ走れ!
 広布の華・池田華陽会よ輝け!
 文化の香り高き世田谷区を拠点とした徳冨蘆花は、少壮の時代に書き綴った。
 「困難に打ち勝って道を開いて行くのは、つらくも楽しみなものです」
        ◇
 幾星霜を経ても、7月が巡り来るたびに、私の青年の魂は燃え上がる。
 7月3日は、日本の敗戦の直前、恩師が出獄した日であり、その12年後に私が入獄した日である。
 また7月6日は、初代・2代の会長が逮捕された日である。
 その同じ7月に、恩師の慈愛に包まれ、わが男女青年部は結成されたのだ。
 青年が躍動する学会!
 青年が成長する学会!
 青年が団結する学会!
 そして、青年の偉大な力で、断固勝つ学会なのだ!
 結びに、『若き日の日記』の一節を直系の諸君に贈りたい。「青年創価学会」の建設に突進するなかでの誓いである。
 「口を真一文字にして進め。恐るるな。おじけるな。そして己が信念と正義のため、突き進みゆけ。
 青年らしく。学会の先駆者の如く。まさに、東洋の王子らしく。革命児らしく。かつは先生の第一の弟子らしく──」
 「今、青年指導者たちが、勇敢に、突破口を開くか否かの、大事の秋《とき》となる」

 断固して
  共に この世を
   師と弟子で
  広布と創価に
     戦う嬉しさ

 森鷗外の言葉は『鷗外全集29』所収「敢て天下の醫士に告く」(岩波書店)。マルローが記した言葉は柏倉康夫著『若き日のアンドレ・マルロー』(行路社)から。徳冨蘆花は『小説 思出の記』(岩波書店)。
2009-07-08 : 随筆 人間世紀の光 :
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池田名誉会長の人物紀行 第4回

池田名誉会長の人物紀行 「歴史の巨人」と語る
                (2009.7.6付 聖教新聞)

第4回 近代科学の父 ガリレオ・ガリレイ

勝ってこそ正義は永遠に光る‼

 ガリレオ・ガリレイは、「対話の人」であった。
 彼は、生き生きと天空を見上げ、星たちと論じ合った。そしてまた、陽気に街へ飛び出して、人々と話し合った。
 友人たちと共に「真理の間をさすらい、論議を重ねながら歩むのは、この上もなく楽しいことだ」と語っている(ジョルジョ・ド・サンティリャーナ著、武谷三男監修、一瀬幸雄訳『ガリレオ裁判』岩波書店)
 「近代科学の父」は、少しも気どらない。偉ぶらない。ざっくばらんな人であった。
 1981年の5月。私は、イタリアの青年たちと一緒にピサの斜塔を見つめた。
 ガリレオが、それまでの固定観念を覆し、「落体の法則」(重い物も軽い物も同じ速度で落ちる)を証明したと伝えられる歴史の塔である。
 今、わがイタリアの友は、ガリレオの故郷ピサなど、全国の4300カ所で快活に座談会を繰り広げている。
 時を超えて、我らの座談会にガリレオを招き、「宇宙と生命」 「迫害と人生」など、語り合えたならば、どれほど心躍る交流が広がることか。
        ◇
 ガリレオが自作の望遠鏡で、人類初の天体観測を行ってから400年。今年は国運等が定めた「世界天文年」である。日本委員会公認のイベントも、この春から、東京の荒川区、世田谷区、足立区、豊島区、中野区、墨田区、また町田市や東大和市などで、活発に開催・予定されている。
 月面の凹凸、木星の衛星、太陽の黒点、金星の満ち欠けなど、ガリレオの新発見は、何と鮮烈に、我ら人類の眼を宇宙へ開いてくれたことか。
 「私は、この宇宙を、これまでのすべての時代の賢人たちが考えていたものより、百倍も千倍も拡大した」と、ガリレオが自負する通りだ(前掲書)。
 天文年という佳節に、私が一緒に対談集を発刊したブラジルの著名な天文学者モウラン博士は語っておられた。
 「地球も宇宙の一員なのです。さまざまに存在する世界の一つとして、自らの世界を認識する──天文学が人間を謙虚にする一つの側面が、ここにあります」(『天文学と仏法を語る』第三文明社)
 天文学を学びゆくことは、平和を愛する世界市民、大宇宙市民の心を育むことだ。
 関西創価学園ではNASAの教育プログラム「アースカム」に参加してきた。国際宇宙ステーションに搭載されたデジタルカメラを、学園生が遠隔操作し、地球を撮影している。世界一の参加回数の記録を更新中である。
 さらに、創価大学の開発による人工衛星が、いよいよ2010年に、宇宙航空研究開発機構(JAXA)の金星探査機と共に打ち上げられる。
 400年前、手作りの望遠鏡で真理の探究を続けたガリレオの求道の心は、最先端の天文教育に挑む若き創価の俊英に脈打っている。
        ◇
 ガリレオの観測は、ヨーロツパ中から喝采を博した。一方、輝く業績を否定したり、誹謗したりする動きもあった。
 望遠鏡を覗くと、頭痛がすると拒む者もいた。覗いてみたが、何も見えないと却下する者もいた。新しい天体は望遠鏡の筒の中に施されていると、放言する者さえいたのだ。
 「無知とは、もろもろの悪意、嫉妬、瞋恚の母であり、他のすべての悪の中で、最も卑劣で醜い罪悪である」と、ガリレオは憤怒した(『世界の名著21 ガリレオ』中央公論社)
 真実の光は絶対である。どんな虚偽も白日の下にさらし出す。真理の力は無敵である。いかなる邪説も粉砕せずにはおかぬ。ここに精神闘争の決着がある。

嵐を恐れるな!
 ガリレオは観測から、地動説の正当性を確信する。また、発見した木星の衛星を「メディチ星」と名づけた。
 メディチ家は、イタリア・ルネサンスの推進力となった学問・芸術の保護者である。
 フィレンツェにあるSGIのイタリア文化会館も、メディチ家ゆかりの館を整備・修復したものである。
 ガリレオは、メディチ家付きの哲学者・首席数学者として、研究を重ねていった。
 こうした目覚ましい活躍を妬む人間も少なくなかった。目先の利く陰謀家ら、ガリレオ失墜を目論む徒が蠢いた。嫉妬と虚栄と権威は結託する。これは歴史の鉄則である。
 ガリレオは黙っていなかった。矢のように降り注いできた論拠なき暴論を、一つ一つ滔々たる弁舌で破折した。
 言われたら、言い返す!
 打たれたら、打ち返す!
 私が対談を重ねた、世界的な経済学者ガルブレイス博士も、不当な中傷には迅速かつ徹底的に反論することを、心がけておられた。
 ガリレオの反撃の書の表紙には、ベネチアのシンボルであった獅子に跨った戦士の像が描かれていた。まさしく、彼は正義の獅子となって真実の言論を放っていったのだ。
 「われわれはもはや、暗黒も、真っ向から吹つけてくる嵐をも、恐れる必要はありません」と、彼は叫んでいる(『ガリレオ裁判』)

大敵に勝つ喜び
 嫉妬に狂った卑劣漢は、毒意に満ちた残忍な奸計を仕組んだ。科学では太刀打ちできない。ゆえに、宗教の次元にすり替えようとしたのだ。ガリレオの手紙の写しを入手すると、それを改竄して、聖書の教えに反した地動説を唱えていると、ローマの異端審問所に告発したのである。
 以後、地動説を支持してはならないと訓告された。
 さらに、支持者であったメディチ家の当主の死を機に一派の憎悪が襲いかかった。
 しかし、ガリレオの巌の信念は揺るがなかった。
 「弱い小敵より勇敢な大敵にたいして勝ちのこるほうが、うれしい」(『世界の名著21』)
 いや増して、正義の言論の炎は燃え上がった。敢然と科学革命の大著『天文対話』の執筆に着手したのである。
 どうすれば禁令に背くことなく、地動説を紹介できるか。
 重篤な病を押しながら、ガリレオが編み出したのは「対話形式」による著述であった。天動説の支持者、地動説の支持者、そして良識ある市民、3人の人物の対話を通して、両学説を説明し、是非の判断は、読者に委ねようと試みたのである。
 日蓮大聖人の「立正安国論」も対話形式であった。
 難解な論文は、なかなか多くの人々に読まれない。その点、対談形式は読みやすい。
 また、多くの御書は庶民のために仮名交じりであった。
 「皆に、わかりやすく」──そこに、慈悲から発する価値創造の智慧が光る。
 ガリレオも、この『天文対話』を、学術的なラテン語ではなく、当時の日常語であるイタリア語で著した。
 平易な表現でありながら、含蓄豊かな彼の書は、市民はもちろん学者や聖職者からも絶讃されたのである。
 しかし半年後、発売禁止になり、ガリレオはローマの異端審問所に強制召喚された。
 容疑は、地動説を棄てるようにとの誓約を破り『天文対話』を発刊したことであった。
 これは理不尽な冤罪であった。そもそも、教皇庁の許可の上での出版であったからだ。背景には、陥れの讒言があったという説もある。
 ガリレオは、底知れぬ人間の嫉妬や悪意を「征服しがたい獣性」と慨嘆していた(スティルマン・ドレイク著、田中一郎訳『ガリレオの生涯③』共立出版)
        ◇
 7月6日は、先師・牧口先生、恩師・戸田先生が狂った軍部権力の手により、逮捕・投獄された日である。
 正義ゆえに、悪口される。
 真実ゆえに、弾圧される。これこそ先覚者の誉れである。
 不当な裁判の結果、幽閉の身となりながら、ガリレオは今まで以上の情熱と闘魂をもって研究と著述に没頭した。
 病により肉体は衰弱し、両眼の光も失った。だが、胸奥には不敗の希望が輝いていた。
 それでも地球は回っている──。たゆみなく前進しゆく宇宙の確かな力と法則に目覚めたガリレオは、自らも使命の軌道を断固と進み続けた。
 未来のため、人類のため!
 「無限のそして素晴らしい結論に満ちた新しい考えへのドアが開かれた。それをほかの創造的な人たちが行使するときがやがてやってくるだろう」とは、彼の遺言である(オーウェン・ギンガリッチ編、ジェームズ・マクラクラン著、野本陽代訳『ガリレオ・ガリレイ』大月書店)

愛弟子の叫び!
 ガリレオが亡くなったのは、1642年1月8日。宗教権力の圧力ゆえに、その遺骸は、公的な礼拝堂から離れた一隅にひっそりと葬られた。
 この大功労の師匠への冷遇に、悔し涙する弟子がいた。その名は、ヴィヴィアーニ。若き20歳の弟子の心には、最晩年の師から受けた薫陶が明々と燃え上がっていた。
 愛弟子は、師・ガリレオの学問を発展させ、師の研究を継承する学会も発足させた。とともに最初の伝記を発刊し、師の全集を世に出している。
 さらに彼は、不当に葬られた師の墓所を栄光ある礼拝堂に移し、公の記念碑を建てさせるため、必死に尽力し抜いた。執念の戦いであった。この愛弟子は「ガリレオ先生! ガリレオ先生!」と生涯、叫び切って死んでいったのだ。
 師の偉大さを宣揚し抜いた弟子の悲願が、生死を超えて成就したのは、1737年。ガリレオの改葬と記念碑の設置は、遂に実現したのである。
        ◇
 私が今、対談を進めるアメリカの女性詩人ワイダー博士は、「師弟」の結合を、太陽と地球に譬えておられた。
 師匠という太陽の存在があればこそ、弟子は地球の如く回転できる。師匠の「励まし」に弟子が「感謝」を込めて応えゆくところに、十全なる人間の可能性の開発、すなわち「人間革命」がある、と。そのモデルを、博士は創価の師弟に求めてくださっている。
 1994年5月25日、私は再びピサの斜塔を訪れた。
 その2年前、時のローマ法王ヨハネ・パウロ2世により裁判が誤りであったことが認められ、ガリレオに謝罪が表明された。逝去から実に350年後の名誉回復であった。
 斜塔は8階建て、高さ55㍍の英姿を微妙に傾けたまま、6世紀以上にわたって、人間の栄枯盛衰、毀誉褒貶を見つめている。
 その偉容から、歴史の審判を勝ち越えたガリレオと弟子たちの師弟の勝鬨が聞こえてくるようだった。
 「真実は勝たねばならぬ! 断じて勝ってこそ、真実も正義も永遠の光を放つのだ!」

 本文中に明記した以外の主な参考文献=山田慶児/谷泰訳『星界の報告』岩波文庫、青木靖三訳『天文対話』(上・下)岩波文庫、青木靖三著『ガリレオ・ガリレイ』岩波新書、田中一郎著『ガリレオ』中公新書、伊東俊太郎著『人類の知的遺産31 ガリレオ』講談社、シテクリ著・松野武訳『ガリレオの生涯』東京図書、W・シーア/M・アルティガス著・浜林正夫/柴田知薫子訳『ローマのガリレオ』大月書店、デーヴア・ソベル著・田中一郎監修・田中勝彦訳『ガリレオの娘』DHC
2009-07-07 : 人物紀行「歴史の巨人」と語る :
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忘れ得ぬあの瞬間 第4回

忘れ得ぬあの瞬間
名誉会長と共に80周年へ
 (2009.7.5付 聖教新聞)

第4回 第3代会長 就任式

生死を超えて師弟の法戦

 「日本晴れだ。創価学会の前途は万々歳だ!」
 5月の青空を、池田名誉会長が見上げた。
 1960年(昭和35年)5月3日午前10時半すぎ。
 東京・墨田区の日大講堂にタクシーで降り立った。黒のモーニングは、戸田第2代会長の形見である。
 受付で、香峯子夫人が胸章を整える。左胸に菊花の大輪、そして「會長」の大きな2文字があった。
 学会の第22回本部総会。
 全同志が待ちに待った、32歳の青年会長が、いよいよ躍り出る時が来た。
 会場は早、2万余の人で立錐の余地もない。
 とっておきの背広を纏った壮年や青年。制服姿の学生。和装の婦人。白いブラウスに、黒や紺のスーツも凛々しい女子部員。音楽隊、鼓笛隊が繰り返す学会歌に、唱和の声が高鳴る。
 外は日本晴れ。友の心も晴れわたっていた。
        ◇
 名誉会長をおいて、「第3代」はあり得ない。それは、事実の上から、誰の目にも明らかだった。
 恩師の事業の苦境を、病弱の体で一人支え、第2代会長就任の道を開いた。
 蒲田、文京、札幌、山口で、壁を破る拡大の金字塔。
 “まさかが実現”と世間を驚かせた関西の栄光。
 夕張で、大阪で、戸田会長に指一本触れさせず、権力の弾圧と戦い抜いた。
 「学会は空中分解する」との風評をはねのけ、東京と全国の決戦を大勝利に導いた、総務としての指揮。
 何より、命を削っての励ましに、どれほど多くの同志が生きる勇気をもらったことか!
 その人が、遂に広布の大将軍として立つのである。
 ──正午。本部旗、男女青年部の部隊旗と共に池田新会長が入場した。眼は、正面の戸田第2代会長の遺影をじっと見つめている。
 午後1時30分。就任の第一声。
 「若輩ではございますが、本日より、戸田門下生を代表して化儀の広宣流布をめざし、一歩前進への指揮をとらせていただきます!」
 大鉄傘を、歓声と拍手の嵐が揺るがした。感激の涙が、友の頬を伝った。
        ◇
 その夜、大田区小林町の名誉会長夫妻の家を、祝福に訪ねた同志がいる。大阪の白本義一郎夫妻である。
 質素な家は、留守かと思うほど静かだったという。
 「先生、会長ご就任、おめでとうございます」
 お祝いを述べる白木夫妻に、名誉会長はこう語り出した。
 「きょうは、家ではお赤飯も炊いてくれないのだよ。この人がね(と香峯子夫人を指して)、きょうは池田家のお葬式の日だと言って……」
 どんな時も笑顔の香峯子夫人が、この日だけは違っていた。その姿に、白木夫妻は胸を衝かれた。
 「きょう来てくれた記念に、私の大切にしている写真をあげよう」
 名誉会長はそう言って、いくつかの写真を取り出し、義一郎さんに渡した。
 義一郎さんが選んだのは、晩年の戸田会長が名誉会長の肩によりかかり、談笑する写真だった。
 「やっぱり、これを取ったね。私もこれが一番好きなのだよ。戸田先生と二人の写真だから……」
 この夜、名誉会長は日記に記した。
 「恩師の喜び、目に浮かぶ。粛然たり。
 生死を超え、今世の一生の法戦始む。
 わが友、わが学会員、心から喜んでくれる。
 将らしく、人間らしく、青年らしく、断じて広布の指揮を」
 夜空には、蛍のように星が瞬いていた。
 間断なき「師弟不二」の闘争は、明年で50年を迎えようとしている。
2009-07-05 : 忘れ得ぬあの瞬間 :
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御書と師弟 不退転の信心

池田名誉会長講義 御書と師弟  (2009.7.2付 聖教新聞)

第18回 不退転の信心

勇戦が7月3日の魂
勝負は一歩も退くな

御聖訓
 日蓮其の身にあひあたりて
 大兵を・をこして二十余年なり
 日蓮一度もしりぞく心なし
           (辧殿尼御前御書、1224㌻)

女性門下の師弟不二の心を御賞讃

 「一歩も退くな! 広宣流布の前途を勝ち開け!」
 恩師・戸田城聖先生の遺言であります。
 信心とは、断じて貫き通すことです。御本尊に祈り抜き、「法華経の兵法」で戦い切っていくならば、勝ち越えられない試練などない。そこに必ず、無上の幸福境涯が開かれていくことは、御書に照らして絶対に間違いありません。
 今回は、不退転の信心を強調された「辧殿尼御前御書」の御聖訓を拝読します。
 「日蓮其の身にあひあたりて大兵を・をこして二十余年なり、日蓮一度もしりぞく心なし」(御書1224㌻)
 この御書は、辧殿(大聖人門下の弁阿闍梨日昭)と、その縁者である尼御前に送られた御手紙です。
 本抄を記されたのは、佐渡流罪中の文永10年(1273年)9月19日のことです。
 絶海の佐渡での御生活は、窮乏を極め、常に死と隣り合わせの状況であられました。
 その大聖人の御身を案じ、尼御前は鎌倉から佐渡まで、自分が頼みとしている使用人を遣わして、お側で仕えさせるなど、不二の心で赤誠を尽くしたのです。
 大聖人は、こうした尼御前の真心に最大に感謝され、賞讃されています。

国土を変革する戦
《いくさ》
 御文では、大聖人が「法華経の行者」の身として、仏法正義の「大兵」を起こしてから、二十余年を経たと仰せです。
 この「二十余年」とは、建長5年(1253年)4月28日の立宗から、本抄御執筆の時期までを指します。立宗の日より、ただの一度たりとも退く心なく、戦い抜いてこられたと師子吼なされているのです。
 「一度もしりぞく心なし」!──これほど誇り高き魂の勝利宣言があるでしょうか。信心の真髄である「生涯、絶対不退転」の精神を教えてくださった御金言であります。
 それでは、「大兵を・をこして」とは、どのような大闘争であられたのか。
 この御文の直前には「第六天の魔王・十軍のいくさを・をこして・法華経の行者と生死海の海中にして同居穢土を・とられじ・うばはんと・あらそう」(同㌻)と記されております。
 第六天の魔王が十種の魔軍を率いて戦を起こしてくる。そして、法華経の行者と、この娑婆世界を取られまい、奪おうと、あい争うことを、喝破されているのです。「生死海の海中」とは、生老病死の苦悩が荒れ狂う、この現実世界を譬えた表現であります。
 それは、末法の衆生が実際に暮らしているこの国土を、穢土から浄土へ変革できるかどうかの法戦です。
 まさに広宣流布とは、仏が陣地を取るか、魔に奪われるかという熾烈な死闘なのです。
 「十軍」とは、さまざまな煩悩を、魔軍として十種類に分けたものです。
 「大智度論」には──
 ①欲②憂愁《うしゅう》(憂えること)③飢渇(飢えと渇き)④渇愛(五欲に愛着すること)⑤睡眠⑥怖畏(怖れること)⑦疑悔(疑いや悔い)⑧瞋恚(怒り)⑨利養虚称(財を貪り、虚妄の名聞に執着すること)⑩自高蔑人(自ら傲り高ぶり、人を卑しむこと)──という十の魔軍が挙げられています。
 衆生が住む世界を支配しようとする第六天の魔王が、これら「十軍」を従えて、あらゆる手を使い、法華経の行者を圧迫し、蝕もうとするのです。
 この「十軍」に対して大兵を起こすとは、まず、自分自身の「己心の魔」との真剣勝負であります。

「信の一字」で勝て
 そして、胸中の魔性に打ち勝つ要諦とは、第一に「不退転の信心」であると、大聖人は教えてくださっているのであります。
 何があろうと、わが信仰の戦闘を続行しゆく「不退の人」こそが「勝利の人」です。
 牧口先生は叱咤なされた。
 「大聖人は『大悪をこれば大善きたる』『各各なにをかなげかせ給うべき』と仰せである。
 どんな時、どんな場合でも、それをバネとして、大きく転換していけ!」
 少しも嘆かない。前へ前へ進む信心こそ、「大悪」を打ち破り、「大善」に転じ切っていく力です。
 「進まざるは退転」である。もう一歩、あと一歩と忍耐強く攻め抜く。勝利をつかむ最後の一瞬まで前進をやめない。この心が大切なのです。この一念が勝敗を決するのです。
 第二の要諦は「挑戦の心」です。「大兵」を起こすとは、第六天の魔王という、大宇宙に瀰漫する根源的な魔性に対する断固たる挑戦だからであります。
 第六天の魔王の正体とは、「元品の無明」(=根源的な無知)です。
 政治も経済も、教育も文化も、さらに国際社会全体も、この見えざる生命の魔性を打破していかなければ、民衆の真の幸福を確立することはできない。
 大聖人の御在世当時がそうであったように、末法がさらに進んだ現代においては、創価学会の躍進に対し、あらゆる誹謗・中傷が浴びせられてきました。
 それは、元品の無明に心を囚われ、怨嫉の炎に焼け焦げた姿にほかなりません。
 こうした生命次元の「戦」に厳然と勝つ力が信心です。
 大聖人は、「元品の無明を対治する利剣は信の一字なり」(御書751㌻)と仰せです。
 「信の一字」の利剣で、生命の元品の無明を断ち切るのが、我らの折伏行です。社会の精神土壌を根底から変革し、民衆が喜び栄える仏国土を築きゆく運動が、広宣流布なのです。

戸田先生
さあ来い! 負けてたまるか!
この覚悟で向えば 魔は退散する


永遠の信念と正義
 魔というものは、皆を悩ませ困らせる働きをいう。だから戦わなければいけない。いかなる作戦も、その根本は強盛なる祈りです。敵が「魔」だから、「仏」に祈る。それで断ち切っていけるのです。
 戸田先生は叫ばれました。
 「さあ来い! 魔などに負けてたまるものか! この覚悟で向かった時は、魔は退散するのです」「命がけで戦っている人を、仏様がいつまでも悩ませておくわけがない」
 臆病では、功徳は出ません。
 「戦う!」「挑む!」「断じて勝ってみせる!」──この強靭な一念に、絶対の幸福境涯が必ず開かれていくことを確信していただきたい。
 題目は、そして信心は最強無敵の「利剣」であります。
 「十魔軍」と言っても、信心の利剣で打ち破れないはずがない。すごい妙法なのです。
 戸田先生は語られました。
 「大聖人は、流罪にされようが、何をされようが、大切な民衆を救うために戦い抜かれた。だからこそ偉大であられるのです。迫害のなか、全人民を救うために一歩も退かずに戦い続けられた。この大精神を忘れてはいけない」と。
 何があろうと、毅然と広宣流布へ「前進し続ける」ことができれば、その人はもう勝っている。生命の勝利者なのです。
 広宣流布のために行動すれば自分が得をする。やらなければ自分が損をする。これが信心であり、仏法であります。
 「日蓮と同意」(御書1360㌻)で広布へ邁進しゆく人は、未来の勝利の因を、わが生命に積んでいるのです。三世にわたる大功徳を積むための今日の活動です。今世の修行です。
 正義の人に、敗北はない!
 勇気の人に、不幸はない!
 皆様は、何の報酬も求めず、人々に正しい幸福の道を示し、最高の立正安国の哲学を実践されている。「永遠の信念」と「究極の正義」に生きておられる。これほど尊い使命と栄光の人生はありません。皆様こそ真の菩薩であり、真の仏です。

逆境の時にわかる
 中途半端では悔いが残るだけです。戸田先生は、よく言われました。「戦いとは、最後に『本当に楽しかった』と言えるまでやるのだ」と。
 「私は、やるだけやり切った!」──それが、永遠の「所願満足」につながります。
 「所願満足」とは「不惜身命」と表裏一体です。
 大師匠であられる大聖人は、不退の御決意で戦われました。しかし、大聖人が大難を受けられると、多くの忘恩の弟子が卑怯にも退転してしまった。
 本抄にも「弟子等・檀那等の中に臆病のもの大体或はをち或は退転の心あり」(御書1224㌻)とまで厳しく仰せられています。
 その中で、この尼御前は地道に辛抱強く信仰を貫き通しました。大聖人は「尼御前が、経文に通じてもいない身でありながら、今まで退かなかったことは、申し上げようもないほど嬉しい」(同㌻、通解)とねぎらわれ、讃嘆なされています。
 そして、尼御前が佐渡の大聖人に尽くした真心についても、「必ずや、釈迦・多宝・十方分身の諸仏も御存じのことでしょう」(同㌻、通解)と感謝されているのです。
 いざという時に強いのは、女性です。逆境の時に、人間の真価がわかる。師匠が大難に遭われた時にこそ、弟子の真実の心がわかるものです。

本物の弟子として
 昭和54年(1979年)の3月、私の妻は東京・練馬区の座談会にうかがいました。参加した方々から記念にと求められて、妻は色紙に認めました。
 「不退転
 七つの鐘 総仕上げの年」
 以来、30年──。大東京をはじめ全国の婦人部の皆様方は、まさしく「不退転の信心」で戦い歩んでくださいました。
 今日の創価の栄光は、わが婦人部の栄光であります。皆様の幸福と勝利を、私も妻も、日々真剣に祈り抜いております。
 「不撓不屈の精神をかたむければ、何でも楽しい」(蓮実重彦訳)とは、19世紀フランスの作家フロオベールの言葉です。
 師も不退! 弟子も不退!
 師も前進! 弟子も前進!
 これが師弟不二の実像です。
 この不二の闘争があるところ、三世十方の仏菩薩、諸天善神が、動きに動き、護りに護ります。冥の照覧は絶対です。
 戸田先生は願われました。
 「よき広宣流布の闘士として、末代にまで、自己の名を歴史に残していただきたい」
 昭和25年(1950年)の6月3日。22歳の私は、「辧殿尼御前御書」の御聖訓を日記に記し、こう綴りました。
 「青年よ、快活であれ。青年よ、理想に、厳粛に進め」
 「先生、見ていて下さい。きっとやります」
 この決意のままに、私は走り通してきました。本物の師匠に、私は本物の弟子としてお仕えし抜いた。広宣流布のご構想を実現するため、執念、また執念で全魂を尽くしました。
 昭和31年(1956年)の「大阪の戦い」では、私は関西の同志とともに、一万一千百十一世帯の弘教という不滅の金字塔を打ち立てました。
 「勇戦」の二字を墨痕に託し、友を鼓舞したこともあります。戦後の日本社会の闇を照らしゆく目覚めた民衆の潮流を、私は巻き起こしていったのであります。
 あの「夕張炭労事件」に続いて、「大阪事件」が勃発したのは、翌32年の7月です。
 御聖訓通り、三類の強敵との闘争なくして、広宣流布はない。正義の民衆が勝たずして、日本の民主主義の真の夜明けもない。これが、戸田先生から平和勢力の確立を託された私の覚悟でした。

悪を抑えてこそ!
 一切の艱難よ、わが身に来い。戸田先生には、指一本たりとも触れさせてなるものか! 私はこの一念で、わが胸中から「大兵」を起こしました。不二の誉れの直弟子として、「しりぞく心」なく、獄中闘争に臨んだのです。
 7月3日に入獄。奇しくも、12年前の戸田先生の出獄と同じ日、同じ時刻でありました。
 そして、2週間後の7月17日に出獄。私は、中之島公会堂の大阪大会で宣言しました。
 「最後は、信心しきったものが、また、正しい仏法が、必ず勝つという信念でやろうではありませんか!」
 今もまったく変わらず、私は燃え上がる「必勝」の情熱で、世界広布の指揮を執り続けております。断固たる勇戦! これが師弟の7月の魂であります。
 御聖訓には、「悪を滅するを功と云い善を生ずるを徳と云うなり」(御書762㌻)と仰せです。悪を滅して善を生じる、その戦いに大功徳があるのです。
 悪を抑えなければ、善は伸びない。邪悪と戦わなければ、功徳も成仏もありません。
 「学会は『日本の潮』」──かつて戸田先生は、こう題して講演されました。
 「この創価学会の潮を、全東洋に流し、地上に楽土をつくらんとするのが、我らの理想であります」
 恩師の烈々たる大音声が轟いてから五十余年──。
 初代・牧口先生、2代・戸田先生が起こされた妙法流布の「大兵」を受け継いで、私は、尊き仏の陣列を世界192力国・地域へと拡大しました。
 今日、創価学会は「世界の大潮流」と広がっております。我らの世界広宣流布は、いよいよこれからが本番であります。

「創価の青年に 世界の未来が」識者

人類を勇気づける
 インド独立の父マハトマ・ガンジーの直系の大哲学者であるラダクリシュナン博士は、語ってくださいました。
 「師の心を心として行動する一人の弟子の峻厳な態度と、揺るぎない師への思い。
 あらゆる機会に、その前進を阻もうと容赦なく押し寄せてくる想像を絶する困難を、悠々と乗り越えゆく創価の師弟──。
 その姿は、人類を最高に勇気づける振る舞いとして、歴史に残っていくでしょう」
 「今、全世界に幾百万の戦う創価の青年の連帯が築かれています。皆、偉大なる非暴力の闘士です。ゆえに私は、今後の世界の動向は、ひとえに、この目覚めた献身的なSGIの青年の躍進にかかっていると確信してやみません」
 世界の命運は創価の青年にあり! 創価は世界の希望なり!
 この大確信で、「しりぞく心」なく、前進また前進、勝利また勝利の歴史を綴ろうではありませんか!

 勝ちにけり
  また勝ちにけり
   学会は
  君らの戦闘
    君らの勇気で
2009-07-03 : 御書と師弟 :
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新 あの日あの時 1

新 あの日あの時 1     (2009.7.3付 聖教新聞)

池田先生とオーストリアのウィーン

信念の人に栄光は輝く

ベートーヴェンの家
 マリアは先ほどから、一人の来館者が気になっていた。東洋の男性がベートーヴェンの楽譜の前で、じっと動こうとしない。
 ウィーン郊外の「ハイリゲンシュタットの遺書の家」。
 ベートーヴェンの遺稿やピアノなどが展示されている。質素な一軒家が記念館になっていて、マリアは、その管理者である。
 世界から音楽ファンを自認する来館者があるが、『田園』の曲が聞こえそうな散歩道を楽しんで、次の目的地に去っていく。
 だが、この男性は──。
 かれこれ40分にもなろうか。板張りの床を踏みしめ、一室一室を丹念に回る。マリアは記念館を30年以上も守ってきたが、ここまで真剣な人は珍しい。
 鑑賞を終え、東洋人が近づいてきた。
 その感想を通訳が訳す。
 「死を間近に感じるほどの苦悩があったからこそ、世界一級の作品が残せたんですね」
 そう、その通り! この記念館は、それを感じてもらいたいの。
 難聴で自死までも考えた楽聖の苦悩が宿った館である。
 マリアは急に、うれしくなった。
 奥からアルバムを取り出す。記念に、あなたの言葉をぜひ。
 さっとペンが走った。
 「正義 青年時代に憧れの 大作曲家の家に来たる べートーベンと 常に生き語りし想い出を 思い出しながら しばし、この地にたたずむ ダイサク・イケダ」
 マリアは、通訳してもらい、うんうんと、うなずいている。
 ふと迷った顔になったが、遠慮ぎみに申し出た。
 「ここで一緒に写真を撮っていただいても、よろしいでしょうか?」
 1981年(昭和56年)5月27日の水曜日である。
 以来、日本からの来館者に写真を見せる。「あなたは、プレジデント・イケダを知っていますか」
 なかには、「なぜ、学会を宣伝するんだい」と聞く人もいた。
 マリアは笑みをたたえ、決まって、こう切り返す。
 「そう言うあなたは直接、お会いしたことがありますか? ベートーヴェンの心を深く知っていらっしゃる方だからですよ」

精鋭17人で出発
 オーストリアのウィーン。今日も、どこかでオペラの幕が開き、舞踏会のステップが聞こえる。
 石畳の道や、運河に吹く風の中に、いつも音符が踊っているような街である。
 ベートーヴェン。モーツァルト。ヨハン・シュトラウス。ハイドン。シューベルト。ブラームス。
 そうそうたる顔ぶれがウィーンから世に出て行った。
 世界から音楽家の卵がやってくるが、現実は甘くない。
 ベートーヴェンの記念館に行く前日のことである。新緑の森に、ひっそりと立つホテル・クライネーヒュッテでウィーン本部が結成された。
 祝賀の演奏。
 一組の夫婦がフルートを手に立ち上がった。音楽学校で講師をしているキヨシ・ツクイと、その妻でオーストリア人のエリカである。
 1966年(昭和41年)1月。静岡で「五年会」の淵源となる大会に参加したツクイ。池田大作SGI会長が演壇に立った。
 「学会は師子の団体である。まことの師子の後継者に育っていただきたい」「男ならば広く世界を見よ、世界に羽ばたけと申し上げたい」
 世界ヘ──。音楽好きな少年の針路が、大きく変わっていく。
 日本の音楽学校を出て、船で横浜港からソ連のナホトカまで渡った。
 えんえんとシベリア鉄道に乗って、ウィーンまで1週間以上かかった。
 ビザなしでの新生活。言葉が通じない。本場にいながら、音楽を学べない。日本に帰りたくても、もう旅費もない。皿洗いをしながら屋根裏部屋でふんばった。
 77年、ドイツのオーケストラに才能を見いだされ、音楽教育者の国家試験にも最優秀で合格した。
 そんな折にSGI会長をウィーンに迎えたのである。
 演奏を終えたツクイが、思い切って胸の内を明かした。
 「私は、オーストリア国籍を取りたいと思っています」
 SGI会長は、その覚悟を見て取った。「オーストリアの土になる。男らしい決意じゃないか」
 この日、小さな会議室に集まったメンバーを見渡し、このように指導している。
 「きょうはオーストリアに世界一、小さな本部を結成します」
 ウィーン大学に学ぶ女子学生。中南米出身の外交官。音楽を求めて苦学する青年……。
 集ったのは、わずか17人。
 「少数精鋭でいい。とにかく、いい人で。あせらずに、長い将来の基盤をつくっていこう」
 いかなる組織でも、まず中軸をかためる。なによりも、その国土世間に応じた人材を育てる。「真の信仰者ならば、文化を徹底的に愛しなさい!」
 ツクイの胸にずしりと響いた。
 徹底的──仏法にも芸術の道にも、中途半端はない。信念の人に栄光は輝く。
 ツクイは著名なフルート奏者に成長していく。現在は、オーストリアSGIの書記長である。国立放送局などでも活躍。市立ブラームス音楽学院に勤続30年。現在は副校長をしている。

カレルギーの友人
 ウィーン国際空港。
 オーストリア大使の小野寺龍二が到着ロビーでSGI会長を待ちうけていたのは、92年(平成4年)6月9日の火曜日である。
 特に出迎えの予定はなかったはずだが……。
 「日程をうかがい、やってまいりました。ぜひ私も、明日の叙勲式に出席させてください」
 オーストリア共和国から「学術・芸術最高勲位栄誉章」が贈られることになっていた。
 小野寺は知っている。
 SGI会長は60年代から、3人のオーストリア駐日大使と会見。世界への対話も、ウィーン大学出身のクーデンホーフ・カレルギー伯爵から始まっている。
 「本当にご縁が深い。両国の交流の恩人を、大使が、お祝いしないで、どうするのですか」
 小野寺が、胸を張ってみせた。
        ◇
 たしかにウィーンでは、こんな光景が見られる。
 赤レンガのアパートで開かれた座談会。オーストリア人の男が初めて仏法の話を聞くが、正直、東洋的な思想についていけない。
 しかし、、話題がSGI会長の世界的な対話になると、ぴくんと顔を上げた。
 「クーデンホーフ・カレルギー伯爵と会っているのかい?」
 伯爵は、第2次世界大戦前に、欧州統合の構想を提唱した。ナチスにも、ひるまなかった闘士。オーストリアの誇りである。
 男は一冊の写真集を手に取った。あつらえたばかりの老眼鏡をかけ、目を凝らす。
 SGI会長との対談の場面。後日の伯爵の感想も。
 「この会談は私にとっては、東京滞在中のもっとも楽しい時間の一つであった」
 男が初めて表情を崩した。
 「伯爵の本当のご友人ですね。それならば信頼できる」

叙勲式を終えて
 翌6月10日。
 叙勲式は、伝統ある文部省の建物で行われ、ホルンの音色が式典に花を添えた。引き続き「賓客の間」で祝賀会になった。
 ひときわ目を引いたのは、女優オーガスチン・エリザベートである。
 SGIメンバー。王宮劇場の専属で舞台に立つ。大河ドラマのヒロイン役でも絶賛され、国民的な女優になった。
 SGI会長が声をかけた。
 「ご活躍は、よくうかがっています。大女優にお会いできて光栄です」
 長身のエリザペートが、華やかな笑みを浮かべる。その心中を包みこむように、言葉を続けた。
 「でも女優である前に、立派な人間として幸福になってください。それが何よりも大事です」
 エリザペートは、はっとした。有名イコール幸せか。裕福イコール幸せか。つねに煩悶してきた。
 誰もが、ちやほやしてくれるが、心の奥の葛藤まで知ろうとしない。SGI会長のような人は初めてだった。
 式典を終えた夕刻。市立公園のヨハン・シュトラウス像の前で記念撮影会が開かれた。数人の少年少女と肩を組み、ゆっくり像の周りを歩くSGI会長。
 輪の中の一人が、エリザベートの長女バレリーだった。
        ◇
 バレリーは、後にアメリカ創価大学に進む。イギリスの大学を経て母国に帰り、作家をめざしている。
 母のエリザベートは、オーストリアSGIの広報部長になった。かつて古城だったオーストリア文化センターで開くコンサートに、音楽の都のスターと友情出演する。
 いま、ウィーンつ子たちは口々に言う。
 「夢の競演が見たければ、あの森の近くのお城に行くといい」
2009-07-03 : 新 あの日あの時 :
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