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未来の翼 第27回 マレーシアの木陰

第27回 マレーシアの木陰      (2016.6.1付 未来ジャーナル)

「思いやりの世界」を広げる人に!
人々のために 社会のために 自分を磨き鍛えよ


 ──それは、200年前のマレーシアの物語です。
 ある少年が、毎日、お父さんに語学の勉強をさせられていました。
 〝もう勉強は嫌だ!〟
 遊び盛りの少年は、ついに我慢ができなくなってしまいます。
 すると、なぜ学ぶことが大切なのか、お母さんが優しく語り掛けてくれました。
 「もし、私たちがあなたにある程度の財産を残したとしても、あなたの運が悪ければ、それは一瞬のうちに目の前から消え失せてしまうでしょう。
 立派な知識と学問は、そのようなものではありません。命があなたの体から離れて行く時に始めて、それは離れて行くのですよ」と。
 これは、マレー文学の古典『アブドゥッラー物語』の名場面です。
 この父母の励ましを胸に、アブドゥッラー少年は、勉強に勉強を重ね、やがて〝言語の教師〟として歴史に名を残していくのです。
 私は、この逸話が好きです。
 「学ぶ」ということが、どれほど、かけがえのない宝であるか。その宝をこそ、子どもに託したい親の愛情が、どれほど深いか。胸に迫ってくるからです。
 そして私の敬愛するマレーシアの父母たちと後継の若人も、この物語の如く、親子一体の尊い勝利の劇を飾っているからです。
 マレーシアは、教育に力を注ぎ、人材が満天の星空のように輝く国です。

 日本と、ほぼ同じ面積の国土に、マレー系、中国系、インド系など、多様な民族が共存する天地が、マレーシアです。
 国教はイスラム教ですが、信教の自由が尊重されており、仏教やヒンドゥー教の祝日もあります。多彩な文化が交わり、マリンロード(海の道)の〝黄金の国〟と謳われる海洋貿易の要地です。
 首都のクアラルンプールには、伸びゆくマレーシアを象徴するように、大きなビルやタワーが並んでいます。21世紀が開幕した2001年には、「マレーシア総合文化センター」が誕生し、わがSGI(創価学会インタナショナル)の同志が、良き国民、良き市民として、生き生きと活躍しています。
 今年の創立記念日を目指して、マレー半島南端の都市・ジョホールバルに、「SGI東南アジア研修センター」の建設も進んでいます。アジアの平和の連帯のため、そして、その未来を担う皆さんのため、着々と手を打ってきました。
 これまで、私は、1988年と2000年の2度、この美しき国を訪問しました。街の歩道には木々が豊かに生い茂り、そこを歩けば濃い緑の香りに包まれます。
 常夏の国・マレーシアの日差しは、とても強い。その中にあって、街路樹の〝自然の日傘〟で陰のできた緑道が、道行く人々を守り、安らぎを贈っています。
 街では、さまざまな言語で書かれた看板が、次々と目に飛びこんできます。マレー語、中国語、英語──。人々の会話では、言語を自在に使い分け、仲良くコミュニケーションを図っているのです。
 街のいたるところで「思いやりの心」を発見できる。そんな温かな社会がマレーシアにはあります。
 創価大学が交流協定を結ぶ名門マラヤ大学も、「人類のために学ぶ」という理念を、誇りも高く掲げています。
 医学校として創立された当初から、他の国々から移住した人々への医療を充実させるなど、「生命への奉仕」「民衆への奉仕」を果たしてこられました。
 「自分のため」だけではなく、「人々のため」「社会のため」に、という学びの挑戦の中でこそ、本当の自分の底力が発揮されます。
 「思いやりの心」と「学びの心」という二つの翼を、家族や友人を大切にしながら、学校へ、社会へ、そして世界へと広げていこうと努力できる人は、自分を無限に強く、高めていくことができる人です。

 古来、マレーシアは、中国やインドを結び、大陸から太平洋の方向へと南下する民族移動の地でもありました。
 1927年、この「文明の十字路」を旅した一人の詩人がいます。インドの詩聖・タゴールです。
 マレーシアのマラッカ、クアラルンプール、ペナンなどの都市を訪れた彼は、自らが創立した「タゴール国際大学」の建学理念でる「全人教育」「世界市民の育成」について語り、賛同を集めて歩きました。彼は、遠く離れた異国の地で、祖国・インドの文明が、他の文化と共存している姿を、深く心に刻んでいったのです。
 タゴールは、「平和というものをは、外からくるものではなく、内から出てくるものなのです」と叫びました。友情や思いやりといった「内なる精神」の力が、真の平和を築くと考えました。大学を創立したのも、どこまでも青年たちの人間性を高めるためなのです。
 わが創価大学には、「タゴール広場」があります。キャンパスでは、マレーシアやインドをはじめ各国からの留学生が、多様性を認め合いながら、共生と友情の絆を育んでいます。若き世界市民が励まし合いながら、グローバル社会の未来を担う英知の指導者に成長しゆく様子を、タゴール像も、じっと見守ってくれています。
 「思いやりの心」と「学びの心」があれば、どんな違いがあっても、人類は共感し合い、皆の幸福と世界の平和のために、前進していくことができるのです。

 タゴールとほぼ同時代を生きた創価教育の父・牧口常三郎先生の生誕から、今月で145周年になります(6月6日)。
 牧口先生は、正義と勇気の教育者でした。軍国主義に突き進む日本では、子どもたちは「お国のために戦場へ」と教えられました。
 その中で、牧口先生は、教育の根本目的は「子どもたちの幸福」であると断言したのです。いかなる迫害をも恐れない、師子王の叫びです。
 とともに牧口先生は、誰よりも子どもたちを思いやる方でした。
 若き日、北海道での教員時代、あかぎれの子どもがいれば、教室でお湯を沸かして手を洗ってあげたり、雪道を登下校する児童の手を引いたり、背負ったりされたことも、感謝を込めて語り継がれてきました。
 東京での校長時代は、弁当を持ってこられない子どものために、自身の給料から、豆もちや簡単な食事を用意されてもいたのです。
 誰も置き去りにしない「思いやりの心」──それが、創価教育の原点であり、学会精神です。

 2000年、国立プトラ大学での式典の折、驚き、胸を打たれたことがあります。
 マレー語でスピーチされていたカマリア教育学部長が、その最後を、じつに美しい発音の日本語で結んでくださったのです。
 「世界平和という池田先生の『生涯の夢』が達成されますように」
 学部長は何度も、日本語を練習してくださっていたのです。
 語学の力が、友情をいかに深めるものか、あらためて心にしみ入りました。
 ともあれ、真の知性の人には「思いやりの心」があります。真の人格の輝きがあるのです。
 「法華経」に説かれる知性の人間像に、「観世音菩薩」がいます。観世音とは、「世音」すなわち世の中の「音」「動き」を公正に「観ずる」菩薩とされています。
 この菩薩は、多様な現実に応じ多様な姿を現して、人々を救っていきます。
 それは、仏の姿や、梵天、帝釈という大指導者の姿をはじめ、さらに王、長者、大臣、在家の男女、子どもの男女の姿です。あらゆる職業、立場、階層にわたる、全部で33のさまざまな姿を現じて人々を救うと説かれます。
 そして、この観世音菩薩の相手を思いやる「智慧」と「生命力」は、唱題によって、わき上がってくるのです。
 「どうしたら、この友を励ませるだろう」「どうしたら、あの友が笑顔になるだろう」、さらに「どうしたら、こうした難題を打開できるだろう」──真剣に、祈り、悩み、学び、智慧をしぼって行動していく。そうすれば、真心は必ず通じます。道は開かれます。
 本当に賢い人とは、思いやりと真心で友情を広げ、あらゆる創意工夫を重ねて世界を変えていく挑戦者なのです。

 マレーシア創価幼稚園を初訪問した際(2000年)、園内に、マレーシア・シンガポール・香港・札幌の「創価幼稚園の木」と、「創価学園の木」を記念に植えました。棕櫚というヤシ科の木々は今、青い葉を茂らせ、未来に伸びゆく人材の象徴となっています。
 私は、マレーシアの友に詠み贈りました。

 青春の労苦は
 ことごとく未来大成の養分だ
 それなくしては大樹は育たない
 労苦とは鍛えの異名
 飛翔のための
   尊き〝心の財〟なのだ
 ゆえに
 勇んで労苦を引き受け
 友と同苦し
 民衆に 社会に
 奉仕しゆく利他の人であれ

 大いなる理想に向かい、〝信心の根っこ〟を深く、がっちりと伸ばした人は、将来、自身の勝利の枝葉を、堂々と社会に広げていくことができます。
 「根ふかければ枝しげし」(御書329㌻)との御金言の通りです。
 マレーシアの未来部のメンバーも、友を、家族を、世界の人類を大きく自在に守りゆく大樹へと育ってくれています。
 強い日差しにも負けずに枝葉を伸ばし、人々に、憩いと安心の木陰をもたらしてくれる、マレーシアの街路樹のように──。
 マレーシアの同志の社会貢献はめざましい。国家の独立記念の行事での見事な活躍とともに、水害の復興にも尽力されています。さらに「ラン・フォー・ピース(Run For Peace)」という、平和を願っての大行進も大きな反響を呼んでいます。

 日蓮大聖人は、仰せになられています。「蔵の財よりも身の財すぐれたり身の財より心の財第一なり」(御書1173㌻)と。
 青春時代は、生涯の土台をつくるチャンスです。
 「広宣流布」即「世界平和」という大目的に向かって、学びに学び、鍛えに鍛えた若き生命は、知性と人格という「心の財」を限りつなく積んでいくことができます。
 皆さんが、この豊かな「心の財」を粘り強く積み重ねながら、お父さん、お母さんも、そして世界の同志も、皆が喜び、喝采してくれる勝利の物語を、百年先、二百年先の未来へ示してくれることが、私の希望です。

※タゴールの言葉は我妻和男ほか訳「書簡集」(『タゴール著作集第11巻所収、第三文明社刊)。参考文献はアブドゥッラー著『アブドゥッラー物語』中原道子訳(平凡社刊)、『タゴール著作集』第8・10巻(第三文明社刊)、我妻和男著『人類の知的遺産61 タゴール』(講談社刊)。
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2016-05-24 : 未来の翼 世界が君を待っている :
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未来の翼 第26回 メキシコの空港

第26回 メキシコの空港      (2016.5.1付 未来ジャーナル)

夢への飛翔は「今ここから!」
「努力する才能」に勝るものはなし。喜び勇んで挑戦を!


 晴れわたる希望の5月です。
 5月3日は、「創価学会の日」です。それは、1951年、わが師・戸田城聖先生が第2代会長になられた日です。さらに1960年のこの日に、私も恩師の心を継ぎ、第3代会長に就任しました。
 そして5月5日は、わが未来部の皆さんに次代の全てを託す、「創価学会後継者の日」です。
 未来部出身の先輩たちは、青春の誓いを胸に、世界中で、社会のために奮闘してくれています。
 中米・メキシコの詩人レイエスは、「私の家は地球である」とうたいました。これから、ますます、地球全体が、皆さんの活躍の舞台です。192カ国・地域の創価の地球家族も、皆さんが世界市民と躍り出て、思う存分にに乱舞してくれる日を、待ち望んでいます。

 皆さんの道を開く一心で、私は世界54カ国・地域を歴訪してきました。その中でも、特別な意味を持った国があります。
 それは「メキシコ」です。戸田先生が夢に見て、「行ってみたい」と念願していた国だからです。
 私は、飛行機の給油で立ち寄ったことも含めて5回、訪問し、尊き同志たちと忘れ得ぬ出会いを刻みました。
 メキシコは、近代日本が初めて平等条約を締結した国です。ラテンアメリカで真っ先に日本人移住者を迎え入れてくれたのも、メキシコです。日本にとって、大恩ある国なのです。
 戸田先生は、そのメキシコに、強い関心を持たれていました。
 メキシコに関する本を読まれ、折に触れて、私にも語ってくださいました。また、幼少期をメキシコで過ごした関西の婦人に、現地の生活の様子などについて、よく尋ねられました。その方の話を、うなずきながら楽しそうに聞かれていた笑顔が、忘れられません。 そして1958年、亡くなる前月の3月、広布と人生の願業を成就された戸田先生は、ある朝、私を枕元に呼んで語られました。
 「大作、メキシコへ行った夢を見たよ」「待っていた、みんな待っていたよ。日蓮大聖人の仏法を求めてな」──その夢を携えて、私は不二の弟子として、世界を駆け巡ってきたのです。
 今、メキシコ広布は、目を見張るほどの大発展を遂げています。私が第一歩を印した1965年以来、尊き同志たちは、「良き市民」「良き国民」として誠実に社会貢献の人生を歩んできました。広布50周年の佳節を迎えた昨年11月には、メキシコ市の中心に、念願の「メキシコ平和文化センター」が誕生しました。
 恩師が満面の笑みで喜ばれる姿が、私の目に、ありありと浮かんできます。

 20年前の1996年6月、私は、コスタリカから、メキシコのベラクルス国際空港に向かいました。アメリカへの経由地として、メキシコに立ち寄ることができたのです。その機中、私は一詩を詠みました。

 おお!
 偉大なるメキシコ
 わが恩師が愛し憧れし 天地よ
 「待っていた。
 みんな待っていたよ」──
 恩師が 夢見し
 不思議なる縁の同志よ!……

 空港のロビーに降り立つと、そこには、戸田先生の夢見た通りの世界が広がっていました。熱気に満ちた数百人の友。生き生きと輝く瞳。はじける信仰の大歓喜に、私の胸も揺さぶられました。
 わずかな時間でしたが、勇み集った同志と共に永遠の時を刻む思いで、記念撮影も行いました。
 「どうか、一人ももれなく、力強く生き抜いてほしい。幸せになっていただきたい」──私は、メキシコの全同志の人生勝利を祈りつつ、滑走路へ向かう飛行機の機窓から、空港ビルで手を振るメンバーにカメラを向けました。
 機中で、私は即興の詩を詠み、再度、友に贈りました。

 ……ここにも 懐かしき
 創価の友がいた
 ここにも 使命に燃える
 地涌の友がいた

 あの日、ベラクルス国際空港で、青・黄・赤の旗を振って、真心の歓迎をしてくれた少年少女に、私は語り掛けました。
 「皆さん、ありがとう! 皆さんのことは、忘れません。大きくなったら、日本にいらっしゃい!」
 その中に、「ヨウコソ!」と日本語で花束を手渡してくれた、一人の少女がいました。私の呼び掛かけに、少女は、「いつか、必ず日本に行こう!」と固く決意したといいます。
 メキシコから見て、日本は地球の反対側。飛行機でも丸1日を要します。お金の工面も大変です。それでも彼女は、夢を思い描き、心躍らせながら、「どうすれば、日本に行けるか」と具体的に祈り、一生懸命、勉強を重ねました。
 その後、大学、大学院を経て、大手の石油会社に就職。社会で実証を示しながら、白蓮グループなど学会活動に元気に励みました。そして2011年のSGI研修会に、女子部のリーダーとして、念願の来日を果たしたのです。
 私は妻と、その報を聞き、「本当に来てくれたんだね。うれしい!」と伝えました。彼女は、「創価の心を、メキシコ中に広げていきます!」と、今日もメキシコ広布に走り抜いています。
 メキシコで最も著名なピアニストの一人、アレハンドロ・マトスさんとの出会いも忘れられません。1981年3月5日、メキシコ・ハリスコ州の芸術局長だったお父さまが、私たちをグアダラハラ市のご自宅に招いてくださったのです。
 当時、16歳で、ピアニストを目指していたマトス青年は、瞳を輝かせて、ピアノ演奏を披露してくれました。その流麗な響きに、美しい心と大きな可能性を感じ、私は真剣にエールを送りました。「大音楽家になってください」「何があっても負けないで!」と。
 以来、35年。「皆に勇気を送る音楽家に!」と志も高く、ピアノの練習に力を注ぎ、今や、マトスさんは、音楽の国オーストリアから国家勲章を受章するほどの世界的なピアニストとして輝き光っています。私たちとの心の交流も、深く続いています。
 夢をかなえた人たちに共通していること──それは「根性」であ「努力」です。
 「結局は『努力より才能』だ」という大人もいるかもしれない。しかし、私は断言します。
 「『努力する才能』に勝るものはない」。それは、「誰にも等しくそなわっている」と。
 努力を重ねても、思うようにいかないこともある。悔しい思いをし、失破に傷つくこともある。しかし、努力する中でこそ、人格は磨かれる。人間としての深みが増し、強く、優しくなれる。
 45年前、私が、高校生の時から見守ってきた一人の青年が、メキシコへ雄飛しました。その時、私は、あえて厳しく言いました。
 「外国に行くのだから、大変です。生やさしいものではありません。根性の人になりなさい。努力の人になりなさい。根無し草になってはいけない」と。
 彼は、根性を発揮し、努力を重ねて、メキシコ初の日本人公認会計士となり、メキシコの同志に大いに尽くしてくれました。
 300年前のメキシコで活躍した偉大な詩人ソル・フアナは、きっぱりと宣言しました。
 「私は宝も財産も望まない。喜ばしいことは知性を豊かにすることである」
 圧倒的な男性優位の時代に、学問の道を志した少女ソル・フアナは、本を友として、「読んでまたさらに読む」という努力を繰り返しました。
 すると、彼女は一つのことに気づきました。
 「ひとつの分野が他の分野の妨げにならないばかりか、たがいに補助しあって、催互の異同(違い)と隠れた関連によって光を当てあい、道を開きあうことになる」
 そして、力をつけた若きソル・フアナは、どんな傲慢な学者らと討論しても、毅然と論破していったと伝えられます。
 学べば学ぶほど、努力をすればするほど、学んだことや努力したことが互いに助け合って、「道」を開いてくれる。ここに気づけば、学ぶ努力ほど楽しいものはない。無駄な努力は一つもありません。
 未来を担う皆さんには、伸び伸びと学んでいただきたい。得意なものは、もっと得意に。その努力は、苦手なものさえ得意なものに変えてくれます。得意なものが見つからなければ、いろいろ学んでみよう。自分らしい得意な道が、必ず見つかります。
 皆さんは、若き朗らかな「努力博士」になってください。

 メキシコは、日常の中に音楽とダンスがある、文化薫る国です。街中でも、家でも、陽気な音楽が響き、ダンスが始まります。
 81年の訪問では、メキシコSGIの親善文化祭に出席しました(3月1日、メキシコ市で)。各地の伝統音楽に合わせ、色彩豊かな民族衣装をまとったメンバーが笑顔を輝かせて踊ってくれた姿が忘れられません。皆、仕事や勉強などで多忙な中、練習に挑戦してきたのです。未来部も、鼓笛隊をはじめとして大活躍でした。
 私は、法華経に説かれる「地涌の菩薩」を見る思いがしました。
 地涌の菩薩は、悩み苦しむ人々を救うため、大地から涌き出てきた、仏の直弟子たちです。その活躍の場は、末法の娑婆世界という人の心や思想が乱れた現実世界です。正しい教えを弘めるにも、困難や反発があります。
 しかし、日蓮大聖人は、「(地涌の菩薩のリーダーである)上行菩薩が大地から出現された時は、踊り出てこられた」(御書1300㌻、趣意)と仰せです。地涌の菩薩は、苦難を前に「踊りながら」喜び勇んで出現したのです。
 その「地涌」の力を最大限に引き出す源泉が、日々の勤行・唱題です。
 題目を唱えると、不思議と心が躍ります。「歓喜の中の大歓喜」がこみ上げてきます。「僕には可能性がある!」「私は困難に負けない!」と、生命の奥底から決意できます。
 ゆえに、題目を唱える人は、希望を創りゆく勇者なのです。
 現代メキシコの詩人で作家のオクタビオ・パスは、作品の中で、希望の光を見失わせようとする「心の闇」に、こう言い放ちます。「時間の中では、一分一分が永遠の種子なのだ」「我々は時の子供、時こそは希望さ」と。
 「いつか」ではない。「今」です。
 今この時に題目を唱えて、踏み出す一歩が、永遠に輝きわたる希望の未来を開きます。
 さあ、「全てが今ここから始まる!」と勇気の翼を広げて、私と一緒に、使命の大空へ、大きく高くフライトしよう!



ソル・フアナの言葉は『知への賛歌 修道女フアナの手紙』旦敬介訳(光文社刊)ほか。オクタビオ・パスの言葉は『ラテンアメリカ文学選集③ くもり空』井上義一・飯島みどり訳(現代企画室刊)
2016-05-24 : 未来の翼 世界が君を待っている :
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未来の翼 第25回 グラスゴーの緑の広場

第25回 グラスゴーの緑の広場      (2016.4.1付 未来ジャーナル)

新しい出会いから弾む心で出発!
朗らかなあいさつで友情の金の道をひらいていこう


 温かく陽光が降り注ぎます。
 明るく桜花が咲き誇ります。
 「春」は英語で「Spring(スプリング)」です。その通り、あらゆる生命が跳びはねるように躍動しています。
 新入生の皆さん、心躍る入学、本当におめでとう! 進級した先輩たちも、新たな挑戦の開始だね。
 誰しも、環境の変化を不安に思ったり、緊張したりするものです。
 しかし、皆さんには、勇気を奮い起こす題目がある。
 新出発を切る、わが未来部の皆さんに、英国スコットランドの国民詩人バーンズの詩を贈ります。
 「財宝も、快楽も、
 長く私どもを幸福《さいわい》にはせぬ。
 心こそ常に人の幸不幸を
 定むる機官だ」
 幸福《こうふく》は、心から生まれます。
 勝利は、心から花開きます。
 未来は、心から創られます。
 さあ朝の勤行・唱題から心に勇気の太陽を昇らせて、一日一日を勢いよくスタートしよう!

 英国スコットランドは、私にとって忘れ得ぬ心の故郷です。
 1994年の6月、私はスコットランド第一の都市グラスゴーを訪れ、民謡にも謡われるローモンド湖のほとりに到着しました。
 民族楽器バグパイプの妙なる調べが、湖をわたる風に響いて、迎えてくれました。湖に映る広い空は、どこまでも青く輝いていました。歓迎くださった地元の皆さんも、「こんな空は見たことがない」と喜ばれるほどの晴天でした。
 この地域は雨がよく降ります。そして、雨降りの日にも楽しみがあります。それは、雨上がりの美しい虹を見ること。日照時間のすくない故郷も、詩情豊かに「虹の国」と讃える人々は、人生を朗らに生きる賢者です。
 スコットランドは、イングランド、ウェールズ、北アイルランドと共に、英国を構成する連合王国の一つです。6世紀に始まったグラスゴーの歴史は、石畳の路と歴史的な建造物に映し出されています。人類史の大転換となった18世紀の「産業革命」の電源地として、ロンドン、パリ、ベルリンに次ぐ人口を誇るヨーロッパ第4の都市として栄えました。
 スコットランドの人々は、勤勉にして、誠実で忍耐強い。そして、「自由のある所、これ、わが故郷なり」という勇壮な心で、世界各地に雄飛して活躍してきました。
 日本との関係も、とても深い。
 江戸から明治へと時代が変わる時、日本は鎖国から開国へと舵を切りました。世界との〝出あいの時〟がやってきたのです。
 西洋の進んだ技術に学ぶため、海外から専門家や技術者を招いて、急速に近代化を進めました。そのうち、実に半数に当たる約2000人が英国出身で、大半はスコットランド人です。産業革命を支えた知識や経験を惜しみなく伝えてくれました。
 今、私たちの生活を支える上下水道、鉄道、灯台、近代銀行制度などは、全て、海を越えて来てくれた、この先人たちに学んだ技術がもとになっています。地震学、言語学、考古学など学問でも、大きな影響を受けました。日本に近代化をもたらしたスコットランドは、まさに〝大恩の国〟なのです。

 グラスゴーが産業革命の電源地となり得たのは、なぜか。学問の革命や技術の革命を担う逸材を陸続と育てたからです。その人材の揺籃として〝教育の大城〟と輝くのが、名門グラスゴー大学です。
 このグラスゴー大学から、私は戸田城聖先生の弟子として、名誉博士号を拝受しました。
 授与式が行われたのは、6月15日。石造りとモザイク模様が美しい学舎が迎えてくれました。街を見晴らす高台に立つキャンパスは、大学併設の美術館、博物館も有名です。
 創立は1451年。日本が戦国時代に入ろうとする頃、この最高学府は誕生しました。
 大学は、知と知、人間と人間の〝出会いの場〟です。私は、産業革命を開いた友情の逸話に思いをはせました。
 ──蒸気機関の発明で知られるスコットランド出身のジェームズ・ワットは、無名の器具造り職人でした。ロンドンで修行を積み、1年で技術を習い修めた後、グラスゴーで開業しようとしました。ところが、ギルド(同業者組合)から許可が出ません。正式なグラスゴー市民ではなかったことと、修業期間が短すぎるという理由からでした。
 優れた才能をもちながら、〝慣習〟の壁にぶつかったワットは、途方に暮れます。そんな青年に手を差し伸べた人物がいました。当時、グラスゴー大学で教員を務め、後に「経済学の父」と呼ばれた、若き日のアダム・スミスです。
 スミスの助力もあり、ワットは大学内に作業室を借り受け、仕事ができるようになりました。スミスは、ワットの作業室に足を運び、励ましの声を掛けたといいます。
 多くの学者との交流等を通して科学技術の知識をさらに深めたワットは、後年、人類初の蒸気機関を誕生させます。「職人」と「学者」という立場の違いを超えた二人の出会いが、時を経て、人類の歴史を変える発明に結実したのです。

 スコットランド出身の歴史家カーライルは、「人間が人間に与える力は無限である」と綴っています。全く、その通りです。人は、人と出会い、学び合い、励まし合う中でこそ、偉大になっていくのです。
 出会いは、自身を成長させる、かけがえのない宝です。
 出会いは、人生を彩る美しきドラマです。
 出会いは、歴史を創るエネルギーの源泉なのです。
 新学年になると、多くの新しい友達との出会いがあります。
 よき友と誠実に語り合えば、今まで分からなかった自分の長所にも気づくでしょう。
 「新しい友との出会い」は「新しい自分自身との出会い」のチャンスでもあります。
 日蓮大聖人は、「この法門を語り、他の人と比較にならないほど、多くの人に会ってきた」(御書1418㌻、通解)と語られています。  生命の哲理を明かした仏法を、若くして探究し、実践する皆さんは、最も価値ある出会いを広げていける人です。
 70億人という人類の中から、不思議にも、今ここに集い白った縁《えにし》を大切にしながら、新たな友にも「はじめまして!」「よろしくね!」と朗らかに声を掛けてください。そして、伸び伸びと聡明に、友情の金の道を開いていっていだきたいのです。

 グラスゴー大学での授与式は、まことに荘厳で、厳粛でした。
 会場は、天井の高い壮麗なビュート・ホールです。パイプオルガンの重厚な調べが轟く中、銀の職杖を掲げた儀官を先頭に、入場が始まりました。
 私は、他の9人の受章者の方と共に、中央の通路をゆっくりと進みました。ステンドグラスには、かの国民詩人バーンズをはじめ英国の誇る文化人の肖像が描かれ、見守っていました。
 式典では、受章者が一人ずつ、「ブラック・ストーン・チェア」といわれる椅子に座り、それぞれの推挙者から紹介されます。
 目と耳と口の三重苦を乗り越えて人類に貢献した女性ヘレン・ケラーさんも、かつて名誉博士号を贈られ、座った椅子です。
 私の番が来ると、グラスゴー大学の評議会議長である、マンロー博士が、「推挙の辞」を読み上げてくださいました。
 博士は、凜然としたよく通る声で、「池田氏の人生の方向を決定づけたのは、1947年、戸田域聖氏と出会い、氏の弟子になられたことであります」と語られました。
 19歳で戸田先生に出会って以来、私は弟子として一筋に生き抜いてきました。
 先生の事業を支えるため、夜学を断念せざるを得ませんでしたが、先生は、「私が責任をもって、君の個人教授をしていくよ」と、激務の合間を縫って、亡くなる直前まで個人授業をしてくださいました。
 誉れの「戸田大学」です。
 当時の日記には、「先生の悠然たる姿。あまりにも大きい境涯。未来、生涯、いかなる苦難が打ち続くとも、此の師に学んだ栄誉を、私は最高、最大の、幸福とする」と記しました。
 私は、将来、必ずや恩師の偉大さを世界に宣揚して、恩返しを果たすのだと誓ったのです。
 マンロー博士の「ジョウセイ・トダ」の声がホールに、何度も何度も響きました。今も耳から離れません。
 マンロー博士自身も、師匠との出会いによって人生が決まりまた。学生時代、アフリカ研究を専攻していた教授と出会い、その大情熱いに触れ、実業界への進路を変更して、アフリカ経済史の研究に生涯を捧げようと誓ったのです。
 「どんな世界でも、道を極めるには、師弟の関係を除いてはありえない」と博士は断言されました。
 ありがたいことに、マンロー博士は、その後も、創価大学からの留学生たちを、それはそれは温かく迎え、慈父の如く励まし続けてくださっております。
 グラスゴー大学に学んだ創価の友が、今、世界の各界で立派に活厳してくれていることも嬉しい限りです。
 また22年前、共に栄誉を分かち合ったスコットランドの友人方が、さらに信頼のスクラムを広げながら、社会に貢献されていることが、このうえない喜びです。

 私の最大の幸福は、戸田先生という師に出会えたことです。師のおかげで、真実の正しい人生の道を歩み通すことができました。
 そして今、私には後継の全てをたく託す、未来部の皆さんがいる。これほど幸福なことはありません。
 戸田先生は、「大作がいて、私は本当に幸せだ」とおっしゃってくださいました。
 今、私は、恩師と全く同じ思いです。「未来部の皆さんがいて、私は本当に幸せだ」──と。
 愛する皆さん、この1年間も、よろしく! 弾む心で、一緒に進もう!


※バーンズの言葉は『バーンズ詩集』申村為治訳(岩波書店刊)、カーライルの言葉は山崎八郎訳『ゲーテ=カーライル往復書簡』岩波文庫所収。参考文献は高橋哲雄著『スコットランド 歴史を歩く』岩波新書
2016-05-24 : 未来の翼 世界が君を待っている :
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未来の翼 No.10〜14

第14回 イタリアの「花の都(フィレンツェ)」 (2015.5.1付 未来ジャーナル)

「負けじ魂」光る 努力の天才たれ!
君の 貴女の胸中には無限の可能性がある。信じ抜く勇気を持て!


 「人類の宝」と光る皆さんと、今回は、地球に輝く文化の「花の都」へ、心の旅に出掛けよう!
 その街は、時の流れに色あせることがありません。いな、時とともに、いよいよ光彩を増していくように思えます。
 それは、イタリアのフィレンツェです。アルノ川のほとり、小高い丘にあるミケランジェロ広場に立つと、「屋根のない博物館」と呼ばれる世界遺産の街並みが一望できます。
 私は、ここからの眺めが大好きです。3回(1981年、92年、94年)のフィレンツェ訪問の折、行事の合間を縫って、青年たちと幾度となく立ち寄りました。この地で活躍した、きら星の如きルネサンス人と対話する思いで、カメラにも収めてきました。
 フィレンツェは、14世紀から16世紀にかけて、イタリアに始まり、ヨーロッパに広まった文化運動「ルネサンス」の電源地です。「ルネサンス」とは、フランス語の「再生」「復興」という意味で、文芸の復興、人間の復興が叫ばれました。
 ルネサンスでは、中世までの「教会中心」の社会、「聖職者中心」の身分制度が、経済力をつけて自立した市民たちによって、変革されていきます。
 市民が模範としたのが、古代ギリシャ・ローマの「人間性の春」でした。人々は呼び掛けました。「古代へ帰れ! 人間に帰れ!」──と。
 そうした人々を象徴する姿が、ルネサンス美術の巨匠ミケランジェロによって作られた、堂々たる「ダビデ像」です。ミケランジェロ広場には、そのレプリカ(複製)が立っています。
 ダビデは、古代イスラエルで宿敵の巨人を倒し、祖国を救った「無名の青年」です。それまでの美術作品では、もっぱら “勝利したダビデの姿” が描かれてきましたが、ミケランジェロは “これから戦いに挑む姿” として表現しました。ダビデ像には「よし、戦おう!」「断じて負けない!」という気迫と活力がみなぎっています。
 ルネサンスとは、人間性を抑圧する邪悪な力に対する「精神の戦い」です。その生き生きとした戦いの中で、人々は自分たちの生命の尊さに目覚めていったといってもよいでしょう。
 「我に無限の可能性あり!」
 「人間はかくも偉大なり!」と。

 この5月末に、イタリア共和国と文化交流協定を結ぶ東京富士美術館(八王子市)では、ルネサンスの偉大な魂を学ぶ「レオナルド・ダ・ヴィンチと 『アンギアーリの戦い』 展」が始まります。そこでは、二人の天才、レオナルド・ダ・ヴィンチと、ミケランジェロに光が当てられます。
 実は、私もお招きをいただいたフィレンツェ市庁舎・ヴェッキオ宮殿には、かつて、この二人がそれぞれにフィレンツェの戦いの歴史を描いた壁画で、大広間を飾るという構想がありました。当時は完結しなかった “夢の競演” が、今回、500年の歳月を超えて、美術展として結実するのです。
 ダ・ヴィンチは、生涯で1万ページともいわれるノートを書き残し、「モナ・リザ」で知られる絵画や彫刻、さらに建築、数学、生物学、物理学など、万般にわたって貢献しました。
 わが創価大学の本部棟には、この “創造的人間” のブロンズ像が、厳然とそびえ立っています。
 ダ・ヴィンチは言います。
 「障害が私を屈服させることはない。あらゆる障害も奮励努力によって打破される」
 万能の天才も、“負けじ魂” で必死に努力を貫いていたのです。
 “負けじ魂” 光る、真のルネサンス人たる未来部の皆さんから、「21世紀のレオナルド・ダ・ヴィンチ」「21世紀のミケランジェロ」が陸続と登場することを、私は楽しみにしています。

 81年に「花の都」を訪れた時、私は尊敬する友人との再会を果たしました。イタリア出身のアウレリオ・ペッチェイ博士です。
 博士は、地球環境の汚染に、いち早く警鐘を鳴らした「ローマクラブ」の創設者です。
 20世紀最大の歴史家であるトインビー博士が、「ぜひともお会いするように」と、私に推薦してくださったお一人でした。
 初めての出会いは、75年のフランス・パリ。人類の未来をめぐって、真剣に語り合いました。
 81年は3度目の語らいでした。72歳のご高齢にもかかわらず、博士は自ら車を運転し、ローマから4時間もかけて来てくださったのです。しかも博士は前日、ロンドンからローマの自宅に戻られたばかりでした。
 人類のために東奔西走される “戦う知性” を、私は仰ぎ見る思いで迎えました。
 会談は2時間余に及びました。
 博士は、私との対談集 『21世紀への警鐘』 の中で、人間に内在する「未開発で未使用の能力という、莫大な富」に注目され、それを開発する「人間革命」の重要性について語られました。
 「現代という苦難の時代におけるこの人間精神のルネサンスこそ、私が 『人間革命』と呼んでいるものなのです」
 「われわれは人間革命を推進すべく、力の及ぶ限りあらゆる手を尽くさなければなりません──手遅れにならないうちに」
 博士の不屈の人生を貫くもの。それは「人間の内なる無限の力」への信頼でした。
 「人間革命」とは、わが生命の力を信じ抜く勇気なのです。
 君の胸中には、広大なる天空の如き、未知の可能性がある。
 貴女《あなた》の胸中には、美しい花の都の如き、清らかな生命がある。
 目には見えないかもしれない。それでも君の可能性を信じ抜くことだ。貴女自身を信じ切ることだ。自分の努力を疑わないことだ。
 その「信じる」行為の究極が、信仰です。祈りです。
 博士は、私との対談集が発刊された84年に逝去されました。亡くなる12時間前まで、病床で口述され、貴重な未来への警句を残し続けておられたのです。
 私は、博士のご子息とも友誼の交流を続けました。ご子息が教えてくださった博士の晩年の魂の叫びが、私の胸から離れません。
 「世界を変革できるのは、青年だよ。青年の人間革命によって、世界が変わるんだよ」
 この人間革命の大道を、世界に広め、継承していく正統の中の正統の後継者は、まちがいなく、未来部の皆さんです。

 人類の新たなルネサンスを託すのは青年しかいない──私はこの思いで、イタリアの若き友とも出会いを重ね、語り合ってきました。
 92年にフィレンツェのイタリア文化会館で開かれた芸術音楽祭の時、本館前で未来部のメンバーと記念撮影会を行いました。
 94年の訪問でも芸術フェスティバルが開催され、演目の合間に未来部の友と交流のひとときを持ちました。お菓子をプレゼントし、帽子をかぶせて差し上げた時の、光の王子、王女たちの笑顔は忘れられません。
 うれしいことに、こうした出会いを結んだ友が今、広布のリーダーとして立ち上がっています。
 ある時、日差しの強いミケランジェロ広場で、私が麦わら帽子を贈って励ました青年は、その後、アメリカの名門大学での研究職を勝ち取ったと伺っています。
 もともと勉強が苦手で、5年制の高校を7年がかりで卒業した彼でしたが、執念の祈りと努力で、見事、夢を叶えたのです。
 イタリアの友に贈った長編詩に、私は万感を込めて綴りました。

 「ああ 若き 若き翼よ
 君たちの
 その双肩に
 不滅の未来が実在する
 故に その胸中に使命がある
 尊き地涌の君たちこそ
 翔べよ また翔びゆけよ
 栄光燦たる
 無窮の天座の彼方へ」

             (「新たなるルネサンスの鐘」)

 私のフィレンツェ初訪問から現在まで、イタリアSGI(創価学会インタナショナル)は、若き友が躍進の中心となり、平和の連帯を大きく広げてきました。
 創価の師弟に生きる青年には、自身の無限の可能性を開き、無窮の大空へと飛翔する「未来の翼」があります。一人の青年が立ち上がれば、世界は変わるのです。

 日蓮大聖人は、「天晴れぬれば地明《あきら》かなり法華を識《し》る者は世法を得可《うべ》きか」(御書254㌻、「観心本尊抄」)と仰せになられました。
 天空に太陽がひとたび昇れば、大地も明るく照らされます。
 若くして太陽の仏法を持《たも》った皆さんは、勉学であれ、生活であれ、友情であれ、すべてにおいて、希望の光、勇気の光、勝利の光を放っていくことができます。
 さあ、さわかやに晴れわたる、5月が到来しました。
 5月3日は、恩師・戸田城聖先生が第2代会長に、そして不二の弟子である32歳の青年の私が一人立ち上がり、第3代の会長に就任した「創価学会の日」です。
 そして、学会にとって最も大事なこの日を、後年、私は、「創価学会母の日」にと提案しました。
 さらに、5月5日の「創価学会後継者の日」は、私の直弟子である未来部に一切を託す日です。
 私にとって5月は、戸田先生への報恩の誓いを新たにする時であり、未来に続く君たちの未知を開くために、「やらんかな!」と再び立ち上がる月です。
 どこまでも私と一緒に、清新な決意で進もう!
 五月晴れの青空のように!
 無限大の可能性を秘めた君たち、貴女たちの躍動を、全世界が待っているのだから。


ダ・ヴィンチの言葉は 『レオナルド・ダ・ヴィンチ 天才の素描と手稿』 H・アンナ・スー編・森田義之監訳・小林もり子訳(西村書店刊)。

第13回 中国・桂林の山河     (2015.4.1付 未来ジャーナル)

古い友人を大切に 新しい友をつくろう
平和の地球は友情から! 自ら声をかけよう。自ら善き友になろう


 新入生の皆さん、入学おめでとう! 進級した皆さんも、「いよいよ」の心で新出発だね!
 皆さんは、一年ごとに、友情のスクラムを快活に聡明に広げゆく青春であり、人生であってください。その一つの秘訣があります。
 それは、「古い友人を大切に、新しい友人をつくる」ことです。この世で最も尊く、最も美しいものは友情です。友情こそ人生の勝利と栄光の縮図でありましょう。
 友情を大切にする人こそ、真の世界市民です。平和の創造者なのです。
 一口に友情といっても、国と国の友情もある。政治や経済の次元での交流もある。それはそれで大事だが、それだけでは弱い。時に、力や利害が幅をきかせて、ぶつかってしまうことがあるからです。
 だから、人と人を結ぶことです。文化や教育の交流で、人間と人間、民衆と民衆、青年と青年が友情で結ばれていれば、平和は揺るがない。私が、お隣の国・中国との友好を訴え、10回にわたり訪問してきたのも、この信念からです。

 35年前の1980年の4月、私はお招きを受けて、5度目の訪中の旅に出ました。
 連日、諸行事や会見が続く中、中国側のご配慮で景勝の地「桂林」を案内していただきました。
 「桂林の山水は天下に甲《かん》たり」──その山水は天下第一なりと、讃えられた桂林です。地面から突き出たように天に伸びる山々が、漓江《りこう》の静かな流れを帯のようにまとっていました。
 川下りの船着き場に下りていくと、岸辺で子どもたちが遊んでいました。一緒に記念のカメラに納まり、「一生懸命に勉強して、立派な人になってくださいね」と、一人一人に声を掛け、ささやかな日本のおみやげを渡しました。
 船を待っていると、今度は、2人のかわいらしい薬売りの乙女に出会いました。
 利発な彼女たちが、「薬は何でもそろっています。お好きなものをどうぞ」と言うので、私は自分の頭を指さしながら、ユーモアを込めて、「それでは、頭の良くなる薬はありませんか」と尋ねました。すると、にっこり笑って、こう言うではありませんか。
 「その薬なら、たった今、売り切れてしまいました!」と。
 明るい笑顔が広がりました。
 あたりは春の雨で、煙っています。案内してくださった方が、「煙雨《えんう》の桂林が、一番、美しいのです」と教えてくれました。
 船に乗ると、中国の山水画そのものの世界が広がっていました。いつしか雨は上がり、霞がかった奇峰《きほう》の数々が水面《みなも》に影を落としていました。両岸には人々の生き生きとした生活がありました。
 終点の陽朔《ようさく》に着くころには、時折、陽も差してきました。漓江の川面が青磁色に光り始めました。晴れてもまた美しい桂林でした。
 船着き場を下りて、名残を惜しんで漓江を振り返ると、戻る船が一艘、進んで行きます。
 ──旅人を楽しませる知恵、温かくもてなす心に満ちた中国の人と大地に感謝しつつ、私はシャッターを切りました。

 実は、桂林の一帯は、3億年前は海底だったそうです。やがて石灰岩の巨大な大地が地殻変動で隆起し、水の浸食によって長い時間をかけて、不思議な形の山々が生み出されたといいます。
 長遠な大自然の営みによってつくられた偉観を眺めつつ語り合った中国の友人が、お国の故事成句を教えてくれました。
 「兼聴則明、偏聴則暗(あわせ聴けばすなわち明るく、偏《かたよ》り聴けばすなわち暗し)」──多くの人と出会い、広い心で意見を聞けば理解が深まる。一方の話だけ聞いているだけでは、物事は明らかにならない、という意味です。
 悠久の中国の歴史が育んだ「平和の知恵」が光っていました。
 思えば、1974年の5月から6月にかけて、私が初めて中国を訪れた時、首都・北京で私は一人の少女に、こう尋ねられました。
 「おじさんは、中国に何をしに来たのですか?」
 私は即座に答えました。
 「あなたに会いに来たのです」
 私の偽らざる真情でした。その通りに私は、中国の首脳や各界の指導者とお会いする一方、庶民の方々とも、青年や児童たちとも可能な限り語り合いました。
 ある時は、大学で学ぶ学生たちと、またある時は、工場で汗をにじませて働く労働者とも。
 全長約430キロの大河・漓江は、遠くから眺めると、流れているのかどうかわからないほどです。しかし、確かな大きな力で、岩を削り、大地を潤し、絶えず上流から下流へと進んでいます。
 私が対談した大歴史家のトインビー博士は、真に歴史を創るものは、目立たない「水底《みなそこ》のゆるやかな動き」であると言われていました。世間をにぎわすニュースや出来事は、むしろ流れの表面にすぎないと達観されていたのです。
 そして博士から私は、たとえ地味であっても、心と心を深く結びゆく対話と友情を、さらに世界へ広げることを託されました。
 日蓮大聖人は、「他人であっても心から語り合えば、かけがえのない命にも替わりうるのである」(御書1132㌻、通解)と仰せです。一対一の友情と信頼が集まれば、友好の大河となります。そこに、押しとどめようのない平和の流れが生まれます。新たな友情が、新たな歴史を創るのです。

 中国の「人民の父」周恩来総理、「人民の母」鄧穎超先生ご夫妻と私は、黄金の友情を築くことができました。
 中国は、日本と2000年以上のお付き合いがあり、漢字や仏教など、私たちがさまざまなことを学んできた「文化大恩の国」であり、「兄の国」です。
 その国を第2次世界大戦で、日本の軍部政府は蹂躙しました。戦火は美しき桂林にも及び、5回の渡海の失敗を乗り越えて日本に仏教を伝えた鑑真ゆかりの寺も、大半を消失しました。この残酷な歴史を、私たちは決して忘れてはいけません。
 1968年9月8日。私は信頼する後継の青年たちの前で、「日中国交正常化提言」を発表しました。当時の日本政府は中国を敵視しており、私は、世間から嵐のような非難中傷を受けました。
 そんな中、私の提言に注目し、高く評価してくださった方が、周総理でした。後にそれが、両国の国交正常化(72年9月)のきっかけの一つとなりました。
 総理は、中国とアジア、ひいては世界の行方を決定づけた「20世紀の諸葛孔明(『三国志』の名宰相)」ともいうべき方でした。
 新中国が誕生した49年に、総理兼外務大臣に就任されました。「生命不息 戦闘不止(命ある限り、戦いを止めず)」との信念のまま、民衆に尽くし抜き、76年1月に逝去されるまで総理を務められたのです。

 74年12月、周総理と私は、「一期一会」の出会いを果たしました。その時、総理は重い病で入院中でした。それでも私との会見を望んでくださったのです。医師からも “命の保証ができません” と忠告されました。私も総理のお体が心配で、いったんは会見を辞退しました。しかし、総理は、「どんなことがあっても会わねばならない」と言われ、私に直接、両国友好の後事を託してくださったのです。
 その席上、総理は日本に留学された時のことを、懐かしそうに振り返られました。私は「桜の咲くころに、ぜひ、もう一度、日本に来てください」と申し上げました。総理は「願望はあります。が、実現は無理でしょう」と答えられました。
 桂林を訪れた5回目の訪中の際、北京のご自宅を訪問し、鄧穎超先生と、亡き周総理の思い出を語り合いました。その日に行われた歓迎の集いで、鄧先生は総理との大切な思い出を教えてくださいました。「若き日、恩来同志と二人で約束したことがあります。それは、人民のために奉仕するということです。死んでもこのことは同じです」と。
 総理との約束の通り生き抜かれた鄧先生もまた、民衆奉仕の信念の方でした。何度も出会いを重ね、私たちを家族のように大切にしてくださいました。
 最後にお会いしたのは90年5月のこと。会見が終わり、ご自宅を後にしようとした時でした。立つことも歩くことも困難だった鄧先生が、両脇を支えられて玄関の外まで出てこられたのです。一度乗った車を降りて、再び、ご挨拶しましたが、それこそ私たちが見えなくなるまで、じっと見送ってくださったのです。そのお姿は、今も瞼に焼き付いて離れません。
 わが創価大学には、周総理との永遠の友情を誓い、中国からの留学生と共に植樹した「周桜」があります。また、鄧穎超先生の来日を記念した「周夫婦《めおと》桜」も植えられています。「周桜」「周夫婦桜」のもとには、ご夫妻を偲んで多くの人が訪れます。
 私は、尊敬してやまない鄧先生に、詩「縁《えにし》の桜」を捧げました。

 時は去り時は巡り
 現《うつ》し世に移ろいあれど
 縁の桜は輝き増して
 友好の万代なるを語り継げり
 ……

 うれしいことに、詩をもとにして「桜花縁《おうかのえにし》」という曲が生まれました。中国大使館の関係者にもご参加いただく創大の観桜《かんおう》会で披露されるなど、日中両国の青年に歌い継がれています。
 国交正常化後、新中国から初の正式な留学生を受け入れたのは、創価大学です。その創大から中国への留学生は、1000人を超えています。創大生が日中友好の先頭に立っていることほど、創立者としての喜びはありません。
 中国は、老朋友《ラオポンヨウ》(古い友人)を大切にします。長く友情を育んでいくことを重んずる「友誼の国」「信義の国」です。
 いやまして両国の間に永遠に万朶と友好の花が咲き続けることを、私は願ってやみません。未来部の皆さんが、私が築いた日中友好の「金の橋」を渡り、平和と友情の道をさらに大きく開いてくれることを楽しみにしています。

 周総理も、鄧先生も、「友情の偉人」でした。名もなき民衆を、わが家族のように大切にし、たった一度の出会いですら忘れない、慈悲と真心の英雄でした。
 「自分と縁《えん》あるものを、一つ一つ大切にし、決して断絶してはならない」――これは、周総理の若き日の決意です。
 大変な時に、友情の真価がわかります。皆さんも、友人と意見がぶつかったり、ちょっとしたことで誤解してしまったりすることもあるでしょう。しかし、そうしたことを乗り越えるたびに、友情は鍛えられるのです。本物の友情は築けるのです。
 ゆえに、焦らずに新たな出会いを重ね、自ら声をかけて友情を結び、育んでいってください。
 自らが「善き友」になっていけば、「善き友」の連帯は、さらに広がります。そのなかで、自分では気がつかない自分の善い点も発見できます。友情こそ、人生を力強く生きる勇気の源泉なのです。
 ゆえに、私は申し上げたいのです。君よ、貴女《あなた》よ、平和な地球を築きゆく「友情博士」たれ! と。

参考文献は、アーノルド・J・トインビー著 『試練に立つ文明』 深瀬基寛訳(社会思想社刊)、陳舜臣著 『九点煙記―中国史十八景―』 (毎日新聞社刊)。

第12回 デンバーの湖     (2015.3.1付 未来ジャーナル)

青春詩人よ、詩心で希望の明日を開け


 この春、卒業を迎える皆さん!
 晴れの門出、誠におめでとう!
 皆、本当によく頑張りました。
 私は、一人一人の健闘を讃えて、皆さんのご家族や、未来部の担当者の方々と一緒に、大拍手を送り、祝福の万歳を叫んでおります。
 卒業は、ここまで自分を育んでくれた方々に感謝を表し、その恩返しに、より立派に成長していくことを誓う出発でもあります。
 わが卒業生が、一人ももれなく、偉大な勝利の青春を飾りゆかれることを、私は祈ります。

 私がお招きいただいた、世界の大学の卒業式も、それぞれに清々《すがすが》しい決意が漲っていました。
 特に、野外で行われたアメリカの名門デンバー大学の卒業式は、実に晴れ晴れとした、伸びやかな式典でした。
 コロラド州の州都デンバーは、全長4500キロに及ぶロッキー山脈の大自然に抱《いだ》かれています。
 「平原の女王都市」とも呼ばれ、1年のうち約300日が晴天という気候です。交通の要衝として栄え、全米最大規模の空港もあります。多様性あふれる国際都市であり、教育都市でもある。“アメリカ人が移り住みたい街” の第1位に選ばれたことがあります。
 この憧れの地に立つのが、1864年創立のデンバー大学です。
 卒業式は、抜けるような青空の下、卒業生とそのご家族、さらに留学生とも麗しい交流を重ねてきた市民の方々など、5千人が列席して行われました。1996年の6月のことです。
 この席上、私は光栄にも「名誉教育学博士号」をお受けしました。壇上で紹介され、リッチー総長から名誉学位記を授与していただき、握手を交わしました。すると、そのあと、突然、卒業生に祝辞をと、求められました。事前にお話はなかったので、原稿などは、もちろん準備していませんでした。
 さあ、どうするか……。マイクの前に立った私は、とっさに、心強い味方を見つけたのです。
 それは、天空の太陽でした。また、彼方にそびえるロッキー山脈でした。そして、その上に浮かぶ月でした。この三つの “わが友” を指しながら、私は若き英才たちに語りかけました。
 「太陽は燦々と輝いています。月もまた、皆さま方に輝いています。太陽は情熱。月は知性です。ロッキー山脈は厳然たる信念の姿で皆さま方を見守っています」と。
 そして簡潔に、感謝とお祝いを述べて、「皆さま方の前途に、栄光あれ! 勝利あれ! そして皆さま方が全世界に羽ばたいていかれることを念願して、私のあいさつを終わります。サンキュー!」と結びました。
 皆、明るい拍手と歓声で応えてくれました。
 いつ、どんな時にも、空を見上げ、世界を見渡せば、そこには、共に生きる仲間がいます。
 人間だけではありません。太陽も、月も、星々も、山も、川も、海も、木々も、花々も、鳥も、魚も、虫も……。その仲間たちと楽しく朗らかに、生きる喜びをうたいあげていく──それが「詩心」といってもよいでしょう。

 ああ、美しきかな、
 ひろびろとした空、
 琥珀《こはく》色に波打つ穀物の穂、
 実り豊かな平原にそびえる
 厳《おごそ》かな紫の山々……

 これは、アメリカの第2の国歌といわれる「アメリカ・ザ・ビューティフル(美しきアメリカ)」の一節です。作詞者のキャサリン・リー・ベイツという女性は、ロッキー山脈の山の頂から望むコロラド州の絶景に胸をふるわせ、この詞を生み出したといいます。
 豊かな大自然に恵まれたコロラド、そしてデンバーの天地は、多くの詩人から愛されてきました。
 私が若き日から愛読してきた民衆詩人のホイットマンも、デンバーにほれ込んでいた一人です。
 デンバーの名所であるフェリル湖は、「コロラドの桂冠詩人」と呼ばれたトマス・フェリルの名を冠した湖です。
 諸行事の合間に、デンバーの友人が案内してくれました。
 創価学会の初代会長である牧口常三郎先生は、大著『人生地理学』で、“山と結合して絶景を表し、人の心を感動させるのが、湖の最も顕著な特徴” と論じられました。
 雪を冠したロッキー山脈の雄姿と、天の鏡のようなフェリル湖――私は眼前に広がる絵巻に胸を高鳴らせ、カメラを向けました。
 写真もまた、「目で詠む生命の詩」です。

 この96年に、デンバーでうれしい再会を果たした友人がいます。
 デンバー大学の副学長で、世界的な国際法学者のベッド・ナンダ博士です。博士とは、94年に創価大学でお会いして以来、交流を重ね、対談集も発刊しました。
 デンバーのご自宅にもお招きいただき、キャサリーン夫人、愛娘アンジェリーさんと、真心あふれる歓迎をしてくださいました。
 ナンダ博士は、1934年、インド北西部のグジランワラ(現在はパキスタン領)に住むヒンズー教徒の家庭に生まれました。
 しかし、12歳の時、インドとパキスタンが別々の国として独立した直後に、 “宗教の違い” によって迫害を受け、故郷を捨ててインドへ移住しなければならなくなりました。
 それでも、ナンダ青年は、負けじ魂を燃え上がらせ、決然と勉学に励みました。インドを代表するデリー大学やアメリカ屈指の名門エール大学で学び、やがて、国際法の大家となり、世界法律家協会の会長を務められました。
 博士が語ってくださった幼き日のエピソードがあります。
 「あの人は悪い人だ」と誰かがいうと、お母さんから、「いいえ、その人にも必ずよいところがあるはずです。私たちに今、それが見えないだけですよ」と、さとされたというのです。
 人間への信頼と目覚めを促されたお母さんの教えを胸に、博士は「自分と異なるものを尊敬する」生き方を貫いてこられたのです。
 その「開かれた共生の哲学」を、ナンダ博士は、東西の創価学園でも、また、アメリカ創価大学でも、詩心豊かに示してくださいました。

さあ、今日も名詩のような一日を勤行から出発!

 「あらゆる知性の宝石を、あらゆる感情の花を民衆の手にあたえることが、詩人たるもののすばらしいつとめ」とは、アメリカの思想家で詩人のエマソンの言葉です。
 私は常々、「指導者は詩を学べ」「詩心を持て」と語ってきました。
 詩心のない人、詩心のない指導者は “機械” のようになってしまうからです。詩こそ、人間性の証しといえるからです。
 実は、未来部の皆さんは毎日、気付かないうちに、詩を読んでいるのです。
 皆さんは朝晩の勤行で、「爾時世尊……」から始まる方便品に続いて、「自我得仏来……」から始まる寿量品の自我偈を読誦していますね。
 自我偈の「偈」とは、「詩」のことです。釈尊の一番大切な教えが、詩として、リズミカルに心に響くように伝えられているのです。
 日蓮大聖人は、この自我偈を、法華経二十八品の「魂」であると仰せです(御書1049㌻)。
 それほど、すばらしい最上の生命の讃歌をうたいあげる儀式が、毎日の勤行なのです。
 私の恩師・戸田城聖先生は、自我偈を「仏自身の経文であり、われわれ自身の経文なのです」ともいわれていました。
 「仏」とは遠い存在ではない。自分自身が永遠の「仏」の生命なのだ──これが自我偈の心です。
 勤行を通して、私たちは、最も強く、正しく、深く、何ものにも負けない、自らの大いなる生命に目覚めていくことができるのです。

 私と妻が友情を重ねてきた、アメリカ・エマソン協会の元会長であるワイダー博士は「詩人は、真実を叫ぶ存在です。詩人は、社会に正義がもたらされるよう声を上げるのです」と述べておられます。
 私は思います。自身の使命に目覚め、何ものも恐れずに真実を叫び、正義の行動と友情の対話を社会に広げゆく創価の友こそ、真の「詩人」にほかならない、と。
 「詩人は自然とおなじように、いつだって陽気でほがらかである」──アメリカの思想家ソローの箴言です。
 私はこの言葉に触れるたび、皆さんのお父さん、お母さん、そして世界で活躍する仲良き創価家族の姿を思い浮かべます。
 若くして妙法を持《たも》った皆さんもまた、朗らかな詩人です。
 「学び」に目覚め、民衆のために学びぬく人は「勉学詩人」です。
 「平和の尊さ」に目覚め、連帯を広げゆく人は「友情詩人」です。
 「父母の愛情」に目覚め、成長する人は「親孝行詩人」です。
 そして「自身の内にある無限の可能性」に目覚め、挑戦の日々を送りゆく人は「青春詩人」です。
 毎朝、最高の生命の詩を読んで出発し、一編の詩のような充実した一日を舞う。毎夜、再び最高の生命の詩を読んで、明日への成長を誓う。
 皆、自分だけの、自分にしかできない詩を綴る偉大な詩人です。偉大な指導者になる人なのです。
 その君に、貴女《あなた》に、絶望や諦めはありません。あるのは希望! 希望あるのみです。

 デンバーの広宣流布の出発は、わずか数人でした。しかし、それから30年。私が訪れた96年には、数千の地涌の連帯に広がっていました。
 「開拓の心」に燃える英雄たちに、私は呼び掛けました。
 「ロッキー・マウンテンの無限の天空が、皆さまの無限の希望を象徴しています」
 「希望をもち、希望を、ひとつひとつ実現しながら、毎日を『忍耐』と『勇気』で生き抜いていただきたい」と。
 皆さんの目の前にもまた、「未来」という果てなき大空が広がっています。
 大山脈の如き信念に生きる君と私には、貴女と私には、その天空を自由に駆け巡る「勇気の翼」がある。そして「師弟の翼」がある。
 新たな旅立ちの日を迎える、愛する皆さんに、私が22歳の時に詠んだ詩「若人」の一節を贈ります。

 若人よ
 今日の戦いに 勇敢であれ
 明日の理想を 祝福せよ
 過去の夢を 忘れ去れ
 未来の夢に 起《た》ち上がれ

 若人よ
 進め 進め
 永遠に 前へ──

 「アメリカ・ザ・ビューティフル」の歌詞はハロラン芙美子著『アメリカ精神の源』(中央公論社刊)から。エマソンの言葉は『エマソン選集6 代表的人間像』 酒本雅之訳(日本教文社刊)。ソローは『市民の反抗』飯田実訳(岩波書店)。

第11回 ドミニカの庭園      (2015.2.1付 未来ジャーナル)

一番苦しんだ人が一番幸福に

 はじめに、自由自在に地球を一周する思いで、思い浮かぶ国の名前をあげてみよう。みんな、幾つくらいあげられるかな。
 実に、たくさんの国があるね。
 私が世界への旅を開始して、今年で55周年。今、私たちSGI(創価学会インタナショナル)の平和と文化と教育の連帯は、192カ国・地域にまで広がりました。
 いずこにも、大変なところ、目立たないところで、民衆のため、社会のために奮闘している友がいます。そうした “真の英雄” に、一人でも多くお会いし、労苦をねぎらいたい、讃えたい。そして、一緒に未来への平和と繁栄の道を開いていきたい。この思いで、私は世界中を走ってきました。
 その一つが、「カリブの宝石」と呼ばれる中米のドミニカ共和国です。尊き友の心がダイヤモンドの如く光る国です。28年前の1987年2月に訪問しました。

 カリブ海で2番目に大きな島・イスパニョーラ島の3分の2を占めるドミニカ共和国は、九州と高知県を合わせたほどの広さで、約1000万の人々が暮らします。
 晴れ渡る青空、太陽に輝く白い砂浜、澄みきった大海原、人情豊かで陽気な人々──。まるで、おとぎの国のような天地です。世界王者となった、野球の強豪国でもあります。
 1492年、新大陸に到達したクリストファー・コロンブス(クリストバル・コロン)がヨーロッパ人として初めて、この島に上陸しました。翌年、移住者たちによって建設された最初の町が、今日の首都サントドミンゴでした。
 スペインの植民地として栄えたサントドミンゴには、今でもいたるところに、中世からの街並みが残っています。新大陸で最初の病院や大学も、ここで誕生しました。旧市街は、ユネスコの世界遺産に登録されています。
 大変、日本に親しみを持つ国です。それは、日本から移住した方々が、汗と涙と努力によって信頼を勝ち広げてきたからです。
 第2次世界大戦後、荒廃した日本では、国の政策として中南米への移住が奨励され、ドミニカ共和国にも大勢の日本人が渡っていきました。
 しかし、豊かな耕地と聞かされていた土地は、石だらけで灌漑の設備もなく、実際には耕作は不可能でした。ジャングルに分け入り、バナナやオレンジで空腹をしのがねばならない人もいるほどでした。移民ではなく「棄民《きみん》(国から棄てられた人々)」といわれ、最終的には8割以上の方々が、この国を去らねばならなかったのです。

 ドミニカの広宣流布は、移住の苦労を重ね、踏みとどまった草創の数少ない同志から始まりました。1966年に支部を結成し、来年で広布50周年の佳節を迎えます。
 日本から送られてくる聖教新聞や大白蓮華を、皆でボロボロになるまで回し読みして、この地に生きる使命を何度も確認し合いました。そして、「良き市民」として、誠実に粘り強く信頼の根を張り、社会に尽くしていったのです。
 支部ができた翌年、桜の咲くころに、日本に一時帰国した友と、懇談する機会がありました。日焼けした頬を涙でぬらしながら、苦労を語ってくれました。
 私は、心で涙しながら、この尊き開拓の丈夫《ますらお》に語りました。
 「ドミニカの大地に信心の根っこを張り、あなたが大樹として育ってください」
 「今は苦しいかもしれないが、必ずいっぺんに花咲く時が来ます。仲良く、団結して、包容力をもって進んでください」
 この友は、ドミニカSGIの中心者となり、良き同志と力を合わせて、社会で実証を示していきます。やがて日系人協会の会長も務めるようになりました。
 87年2月、夜のサントドミンゴ近郊の空港で、出迎えてくれた彼の肩を抱き、私は「もう大丈夫だよ。長い間、本当によくがんばったね」とねぎらいました。多くの友が、小旗を振って歓迎してくださいました。鼓笛隊が歓迎の演奏をしてくれ、未来部員も目を輝かせていました。
 異体同心の団結で、人材と幸福の花を爛漫と咲き薫らせていたのです。雨が上がった空には、ふくよかな月と、またたく星座が見守ってくれていました。
 「冬は必ず春となる」(御書1253㌻)です。信心を貫いた人が、最後には必ず勝ちます。
 4日間の滞在中、行事の合間のひととき、宿舎の窓から外に目を向けると、彼方に、陽光に照らされた海がエメラルド色に輝いていました。眼下には、美しく整備された緑の庭園が広がっていました。そして、そこには黙々と庭の整備を続ける方がいました。
 自分がなすべきことに、黙々と取り組む陰の人がいて、皆の心が輝く。その人こそ “真の英雄” だ──ドミニカの同志の姿と重ね合わせ、私は合掌する思いで、静かにシャッターを押しました。

 この訪問で、私はバラゲール大統領とお会いしました。
 質素で「預金口座をもたない大統領」としても有名です。週末にはヘリコプターで何百キロも移動し、地方の村を訪ね、人々の要望に真剣に耳を傾けてきた奉仕のリーダーです。だから、全土の地名が、すべて頭に入っていました。
 大統領は少年時代から、天才詩人として名を馳せました。貪るように本を読み、詩の才能を培い、胸中に人間愛を育みました。
 14歳で詩集を発表し、17歳で文学賞を受賞。大学に進学しましたが、ほとんど独学でした。遠距離通学と仕事のため、大学に通うことすら難しかったからです。それでも、時間をこじあけて、猛勉強。優秀な成績を収め、フランスへの留学も勝ち取りました。やがて、弁護士、ジャーナリスト、政治家として大活躍していきます。
 内戦後の混乱から安定へ、大統領として、「奇蹟」と呼ばれる繁栄へ導きました。私がお会いしたのは、ひとたび政権から離れた後、86年の選挙で、もう一度、大統領に選ばれた半年後のことでした。
 バラゲール大統領は環境保護にも力を入れ、国土には今、豊かな森と農地が広がり、その先見は世界の指導者が称賛しています。
 私は大統領との会見の席上、大統領が青春時代につくった詩「自立」を朗読しました。
 「僕はいつも毅然さと誇りを保ち続けてきた。それを失うようなことを微塵も考えたことはない。
 僕は決して自分に鎖をはめることを望まなかった」
 「それはただ、自立、自由意志を求めつつ完璧な自分自身を宿した人間になりたいからだ」
 自分は自分らしく、自分自身に生き切る。ありのままで誇り高く進むのだ!──青春の魂の叫びが響いてきます。
 大統領は、長年の激務と白内障で、両目の視力を失っておられました。私が日本語で詩を朗読し、通訳がスペイン語で読み上げている時、大統領が穏やかな表情で、うれしそうに聞いてくださった光景は、今も忘れられません。目には、光るものがあったようにも見えました。
 大統領は謳っています。
 「何ものもわが旗を切り裂くことはできない 柏の木は折り曲げられても 決して軋《きし》まず その枝にとまった鳥の囀《さえず》りに耳を傾ける」
 青春の誓いに生き抜く──その信念の旗を高く掲げ続ける人は、どんな苦難も嘆かない。いかなる逆境にあってさえも、自分を頼りにする者を抱擁し、断じて見捨てることはない、と。
 青春の信念の道を、一生涯、一歩また一歩と歩み抜いた人こそが栄光をつかむことができます。
 労苦を教師に! 努力を友に!
 苦しみの中でも、生命の讃歌を朗らかに謳い上げながら!

青春は強気でいけ! 真の勝利者とは最後まであきらめない人
 大統領とお会いした後、私は最高位勲章「クリストバル・コロン大十字勲章」を拝受しました。授章式を終えた後、宿舎に戻った私は、待っていたドミニカの友に、直ちにメダルをお見せしました。この栄誉は、ただただドミニカの同志たちの功労への勲章である。ゆえに、一人一人の胸につけて差し上げたいとの思いからでした。
 一番苦しんだ人が、一番幸福になる権利があります。
 一番苦労した人が、一番の栄光と勝利の人です。
 一番努力した人が、一番大きな花を咲かせていけるのです。
 これが妙法の世界です。宇宙と生命と人生を貫く、厳粛なる因果の理法です。
 苦労した人は、友の痛みに誰よりも同苦できます。
 ドミニカの同志は、2010年に起こった隣国のハイチ大地震の際にも、いち早く救援に当たってくれました。
 さらに、同じカリブ海に浮かぶ、キューバの同志とも励まし合いながら、平和のスクラムを仲良く広げてくれています。
 「陰徳あれば陽報あり」(御書1178㌻)とは、日蓮大聖人の仰せです。人知れぬ労苦は、必ず大きな果報となって現れます。
 花は、咲く時期も、咲き方も、それぞれ異なる。人間もそうです。努力は、いつか必ず花を咲かせます。だから、決してあせることはありません。
 栄光と勝利と幸福の花を!
 自分にしかない使命の花を!
 その花がまた、周囲に笑顔を広げていく。社会に、世界に、春を告げる大輪となるのです。
 2月は、「立春」を迎えます。まだまだ厳しい寒さのなか、 “勝利の春” を目指し、勉強やクラブ活動に懸命に励む皆さんの雄姿が浮かんできます。特に、奮闘する受験生の健康と栄光を、私は祈らずにはいられません。
 ドミニカの思想家ペドロ・エンリケス・ウレニャは、「行動をしないよりは、未熟であっても試みることが大切である」と、挑戦の大切さを教えています。
 誰が見ていようがいまいが、地道に積み重ねた努力は、間違いなく自身の力となります。
 労苦こそ、青春の “根っこ” です。ほかの人には分からなくても、少しずつ、しかし着実に、心身を育む養分を蓄え、人格をつくっているのです。
 最後まであきらめない人が、真の勝利者です。最後まで努力し抜いた人が、偉大な幸福博士です。
 今月11日は、戸田城聖先生が誕生して満115年の佳節です。先生は、私たち青年に、「人生は強気でいけ!」と励まされました。
 私も、皆さんに、「一度しかない青春を強気でいけ!」「『絶対に勝つ』と決めて頑張り抜こう!」との言葉を贈りたい。
 私がこれまで世界で訪問できたのは、54カ国・地域です。訪れたい国は、まだまだたくさんあります。でも、行けなかった国々とも、後継の皆さん方が、私に代わって友情を深め、平和の連帯を強めてくれると確信しています。
 だから、私は幸福です。

第10回 ネパールの頂      (2015.1.1付 未来ジャーナル)

君よ、粘り強く最高峰の青春を

 新しい一年の始まりに当たり、皆さんに、一つ質問をします。
 「王」という文字は、「三」という字を書いて、「一」の字を縦に書き表すね。これは何を意味していると思いますか?
 日蓮大聖人の御書には、「三」は天と地と人を表し、それを貫いて少しも動かない存在を「王」というと説かれています
 そして、その王の象徴こそ、世界一の大山脈・ヒマラヤなのです。

 王者の山・ヒマラヤは──
 何ものにも揺るがない父の如く、堂々とそびえています。
 全てを優しく包み込む母の如く、人々を見守っています。
 肩を組んで試練に挑む皆さんの如く、天空を目指しています。
 20年前の1995年11月。私は、美しき精神の大国・ネパールを訪れました。
 名門・国立トリブバン大学での式典などを終えた後、首都カトマンズから車で1時間ほど走り、郊外へ向かいました。“ヒマラヤを仰げる丘へ”と、地元の方々が真心こめて案内してくれたのです。
 ただ、天候によって、必ずしも見られるとは限りません。この曰の夕刻も、到着するまでは、あいにく雲が出ていました。
 カメラを手に少し歩くと、それまで頂をおおっていた雲が、カーテンのようにサッと開《あ》きました。そして白雪を身にまとった王者の峰が、夕日の“スポットライト”に浮かび上がったのです。
 チャンスは一瞬でした。
 シャッターを切ることびできた、ほんの数秒間だけです。あたりは天の照明をゆっくりと落とすように、夕闇に包まれていきました。夕ごはんのしたくをする煙も上がっています。
 一瞬の出あい。しかし、天を衝くヒマラヤは、無言にして無限の励ましを贈つてくれました。

 「世界広布新時代 躍進の年」、私は皆さんに呼びかけたいことがあります。
 それは、この一年、自分自身の最高峰を目指そうということです。
 私の恩師・戸田城聖先生は、「青年は、望みが大きすぎるくらいで、ちょうどよいのだ」とよく、言われました。
 大きな希望を抱いて最高峰に挑むことは、青年の特権です。そこに青春の「躍進」が生まれます。
 「躍進」の「躍」には、「足」があります。また右側の「翟《てき》」は、鳥が羽ばたいて飛び立とうとする姿に由来するといいます。
 大地にどっしりと足をつけ、他人と比べて焦るのではなく、自分らしく粘り強く努力を重ねていく。そして、希望の大空を見つめ、無限の可能性の翼を広げて、飛翔していくのです。
 常に、高みへ向かって、少しずつでも前進していく人が、青春の勝利者です。
 ネパールにも、そうした皆さんの仲間が、いっぱい光っています。

 ネパールは、インドと中国の間に位置します。大きさは、北海道の2倍ほどです。
 世界最高峰のエべレスト(標高8848㍍)を頂点としたヒマラヤ山脈をはじめ、亜熱帯のジャングルなど、壮大な自然に抱かれた国土に、30以上もの民族が調和しながら暮らしています。
 仏教の創始者・釈尊が誕生したのも、ここネパールです。
 ネパールは、“微笑んでいる人たちの国”といわれます。また、多くの偉大な詩人を生んだ「詩心の大国」です。
 ネパールを代表する人道主義詩人サマは謳っています。
 「エべレストのごとく、常に毅然として揺るがず、心に真実と美と永遠を抱こう」と。
 ヒマラヤ山脈を撮影した日、私は、あの丘で、地元の村の子どもたちと忘れ得ぬ友情を結びました。20人ほどいたでしょうか、珍しそうに、異国から来た私たちを遠巻きに見ていました。
 私が「おいで、おいで」と招くと、ニコニコと人懐こく寄ってきてくれました。皆の澄んだ瞳が、宝石のようでした。あどけない笑顔は、蓮華の花のようでした。美しい心が、ひときわ輝いていました。
 私は、国の宝、世界の宝である“未来の使者”たちに、心を込めて語りかけました。
 「ここは仏陀(釈尊)が生まれた国です。仏陀は、偉大なヒマラヤを見て育ったんです。あの山々のような人間になろうと頑張ったのです。堂々とそびえる勝利の人へと自分をつくり上げたんです。みなさんも同じです。すごい所に住んでいるのです。必ず、偉い人になれるんです」
 皆、真剣な眼差しを向けてくれました。通訳の方を通しての語らいでした。それでも、心と心は通い合っていました。私には、それがはっきりと分かりました。
 私は、涼やかな目を見つめて言いました。
 「皆、勉強して、偉くなってください」
 最高峰の人格の人・釈尊の生まれた国の若人たちよ、徹して学び続ける求道の青春を! そして、最高峰の価値ある人生を! 私はそう願って、やみませんでした。
 皆、ニッコリと白い歯をこぼして応えてくれました。その場を去る時、一生懸命に手を振り、走って追いかけてまで、私たちの車を見送ってくれた姿が、命に焼きついて離れません。
 車中、私の胸には、2日前にお会いしたネパールのビレンドラ国王の言葉がよみがえっていました。国王は穏やかな笑みをたたえつつ、こう語られました。
 「教育がいかに大切か、私たちは知っています。教育は若き世代に対し、将来、彼らが直面するであろう困難と諸問題に打ち勝つ力を与えます」
 「学は光」です。私は子どもたちの未来に光あらんことを、心から祈らずにはいられませんでした。
 うれしいことに、私が出会った子どもたちは、立派に成長し、理学療法士や公務員、ドライバーなどとして、ネパールの天地で活躍していると聞いています。

 ネパールの大詩人デウコタは詠みました。
 「我々は、この世界を理解しなくてはならない。臆病であってはならない。世界を直視し、勇気を奮い起こすのだ。
 この世に生きている間に、大空へと翼を広げるのだ」
 この詩を私が一緒に味わった、かけがえのない友人が、ネパールのマテマ元駐日大使です。
 大使こ自身も、この詩の如く生き抜いてこられました。
 私が大使と初めてお会いしたのは94年。大使が、トリブバン大学の副総長を務めておられた時に、東京にお迎えしました。
 大使はネパールではなく、インドで生まれ育ちました。当時の独裁政権にご家族が立ち向かい、数十年にわたる亡命生活を余儀なくされていたからです。
 大使が若き日、最も影響を受けたたのは、「貧しい人々のために行動しなければ」と、勇敢に戦った、親せきのおじさんの存在でした。
 おじさんは、政府の要職に就いていました。しかし、そうした地位を投げ捨てて、民衆の真の幸福のために立ち上がったのです。独裁政権によって、おじさんは処刑されましたが、その不屈の精神は、大使の命に深く刻まれました。
 おじさんは常に自身を導く「人生の灯台」であると、大使は私にこう語つてくれました。
 大使は勉学に励んで、イギリスに留学し、やがてトリブバン大学の教壇に立つことになります。
 70年代、学生たちが民主化を求めて運動を開始した時、大使も共に断固と立ち上がりました。権力から圧迫を加えられ、辞職しても、負けじ魂を燃え上がらせ、一貫して民衆のために働きました。そして、明年、ネパールは民主化を果たすことができたのです。
 徹して学び、行動する「勇気」。これこそ、一流の人物に共通する、人生で最も大切な美徳です。
 2l世紀の世界は、紛争やテロ、貧困や人権、環境問題をはじめ、重大な課題が山積しています。若き皆さんの活躍を待ち望んでいる人々が、たくさんいます。
 私はこの「勇気」の二字を、人類の宝である、君たち、貴女《あなた》たちに贈りたい。そして、その勇気の翼、未来の翼で、世界を駆け巡ってもらいたいのです。

悩んだときこそ決意の題目! 一歩また一歩と挑め
 私はトリブバン大学で、「人間主義の最高峰を仰ぎて──現代に生きる釈尊」と題する講演を行いました。その中で、“ヒマラヤの如き悠然たる境涯を確立することが、世界平和の原点”ということを訴えました。
 心の大きな人は、他人に嫉妬しません。心の豊かな人は、つまらぬ縁に紛動されません。
 皆さんには、何があっても悠然と乗り越えていく自身を築き上げるための、信心があります。題目があります。
 日蓮大聖人は仰せです。
 「須弥山(世界の中心の最高峰の山)の始めは一つの塵である。一を重ねれば二となり、二を重ねれば三となり、このように十、百、千、万、億……となっても、その生みの母はただ『一』なのである」(御書1237㌻、趣意)
 今の一歩の努力、一人の友情、一つの親孝行が、ヒマラヤの如き自身を創ります。
 その活力は題目です。なかなか一歩を踏み出せないなと思う時でも、決意の題目を唱えて、一歩また一歩と挑んでいけば、必ず一日一日と持続していけるのです。

 ヒマラヤ山脈は現在もなお、1年間に数㌢ずつ高くなっているといいます。 人間も同じく、最高峰の人は、常に成長し続けます。
 戸田先生も、一生涯、勉強し続けた偉人でした。亡くなる直前まで、私に「今日は何の本を読んだか」と尋ねられ、「私は『十八史略』(中国の歴史の物語)を読んだよ」と言われながら、将軍学を教授してくだざいました。
 ネパール滞在中のある夜、妻が「あら! 流れ星!」と空を見上げました。
 私は感慨を込めて答えました。
 「戸田先生が喜んでくださっていつるね」と。
 いつでも、どこでも、私の胸には、悠然たるエべレストの如き、世界最高の師匠がいます。ゆえに、弟子である私も、永遠に挑戦をやめません。日々勉強であり、日々努力です。
 そして、私の心には、未来部という成長し続ける人材山脈がそびえ立っています。これほど心躍る絶景はありません。
 最高峰を仰いで人生を登はんする人に、停滞はありません。後退も、敗北も、絶対にありません。最後は必ず、勝利の眺望を楽しむことができる。
 ここに「師弟」の道があります。愛する君たちよ、世界の友とスクラムを組んで、いよいよ高く、いよいよ朗らかに、いよいよ堂々と、人間の王者へ、育ちゆけ!
 これが、私の祈りであり、願いなのです。

 冒頭の質問の出典は、御書1422㌻(内房女房御返事)から。「王」の字の成り立ちについては“点・地・人を統合する者”との考え方が、古くから東洋思想に見られる。
2015-05-23 : 未来の翼 世界が君を待っている :
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未来の翼 第6回 不屈の都 モスクワ

第6回 不屈の都 モスクワ      (2014.9.1付 未来ジャーナル)

君よ、貴女《あなた》よ、負けじ魂の名優たれ!
春の来ない冬はない。苦しくとも粘り強く、自分を鍛え上げよ


 モスクワ大学のキャンパスがある「雀《すずめ》が丘」の展望台からは、壮大なスケールの首都の街並みが一望できます。
 ロシアの大文豪トルストイの名作『戦争と平和』にも、この「雀が丘」の近くからモスクワの街を眺めた様子が描かれています。
 「すべてが薄い澄んだ大気のなかで、目の痛むほどかがやき、胸は秋の香りの高い空気を吸い込んでたくましくなり……」と。
 そう、秋は、トルストイがいうように、「香りの高い空気」を大きく深呼吸しながら「たくましく」伸びていく季節だね。皆さんも、この秋、心も広々と、一回りも二回りも「たくましく」成長していってください。
 私には、世界都市モスクワで育った、多くの素晴らしい友人たちがいます。その一人、宇宙飛行士のセレブロフ博士は、病弱だった少年時代に、スポーツに挑戦して心身を鍛え、さらに勉学にも励んで、数学や物理のオリンピックに出場しました。
 博士は、「一人ひとりの素質は粘土のようなもの」で、「それを次第に形につくり上げていくのが『努力』です」と語られています。
 皆、それぞれの課題に挑み、自分自身をじっくりとつくり上げていく「努力の秋」そして「充実の秋」にしていこうよ!

 私がモスクワを初めて訪れたのは、ちょうど40年前──1974年の秋9月のことでした。今のロシアがまだ、ソビエト連邦(ソ連)だった時です。
 第2次世界大戦後、世界は、アメリカを中心とした資本主義の西側諸国と、ソ連を中心とした社会主義の東側諸国に、大きく二分され、激しく対立していました。いわゆる東西の「冷戦」(冷たい戦争)と呼ばれる時代です。両陣営の“壁”を象徴する「鉄のカーテン」という言葉もありました。
 西側陣営である日本にとって、ソ連はいわば「敵国」。ソ連に関する正確な情報はほとんどなく、多くの日本人が“冷たい”“怖い”というイメージを抱いていました。
 こうした状況は、日本にとっても、ソ連にとっても不幸なことだと、私は考えていました。“ソ連が怖い”のではなく、本当は、“知らないことが怖い”のだと。
 だからこそ私は、ソ連の人々の素顔を、自らの目で確かめ、多くの人に伝えたいと思ったのです。
 ソ連に行く前には、「宗教者が、宗教否定の国へ何をしに行くのか」などの批判の声が巻き起こりました。当時、ソ連と中国も対立を深めていたので、私が中国に続いてソ連を訪問することも、なかなか理解されませんでした。私は迷わず、「そこに人間がいるから、行くのです」と答えました。

 平和を願う、同じ人間に会いに行く──これが私の決心でした。
 その初訪ソの折、とある街中で結婚式を終えたばかりの若い二人に出会いました。後に「雀が丘」でも同じ光景を見掛けたことがありますが、ロシアでは新婚の二人で名所を回る習慣があるのです。
 すると突然、同行してくれていたモスクワ大学の方々が、「にがいぞ、にがいぞ!」と“声援”を送りました。初々しい夫婦に、わざと「にがい」と言って、ますます「あまく」仲よくさせる──ロシアの人々の愉快な慣習と温かな心に触れ、私も妻と一緒に、心から祝福の拍手を送りました。
 こうした人間味あふれる情景を、日本の人たちに伝えたい。それが私の偽らざる真情でした。
 「人間」こそ、一切の根本です。
 平和も、文化も、教育も、人間から始まり、人間に帰るのです。この「人間主義」のバトンを、後継の皆さんに受け継いでもらいたい。私は、そう強く願っています。

 ロシアは、ユーラシア大陸を横断する、世界で一番面積の大きい国です。それは日本の約45倍、海面を除いた地球の面積の8分の1に当たります。
 また、この大地は、人類の宝ともいうべき芸術・文化を生み出してきました。特に19世紀には、音楽ではチャイコフスキー、文学ではプーシキン、トルストイ、ドストエフスキーなど、世界的巨匠が次々と活躍しました。
 私も若き日から、こうした巨匠たちの傑作に親しんだ一人です。ロシアの芸術作品に表現された、人間への限りない愛情と信頼、生命の讃歌と深い精神性に、私は胸を熱くしたものです。
 これまで6度、ソ連・ロシアを訪れてきましたが、母なる大地に育まれた、おおらかで情に厚く、辛抱強いロシアの人々の素顔に、何度も心温まる思いがしました。
 ロシアの人々にとって、20世紀は激動の時代でした。ロシア革命、2度の世界大戦、そして独裁政権による粛清(方針に反する者を排除すること)──それでも明日への希望を失わず、民衆は断固として前進してきました。
 トルストイは、皆さんと同年代の時、日記にこう綴っています。
 「忍耐と勤勉。そうすればぼくの欲するすべてのものを得るであろうと確言」
 忍耐ほど、自分を鍛え上げてくれるものはありません。「粘り強さ」こそ勝利を開く秘訣なのです。
 たとえ今、どんなに苦しくとも、春の来ない冬がないように、それが永遠に続くことはありません。だから断じて負けてはいけない。戦い続ける人が、必ず勝利します。
 日蓮大聖人は「仏を能忍《のうにん》(難をよく忍ぶ人)と名づけるのである」 (御書935㌻、通解)と仰せになられました。
 世界が渇望する人間主義の未来を担いゆく皆さんです。一人も残らず、かけがえのない使命を持った君たち、貴女たちです。それだけに、試練も苦難も多い。
 ゆえに、この「能忍(よく忍ぶ)」という一点を、心に留めておいていただきたいのです。
 40年前、ロシアには、SGI(創価学会インタナショナル)のメンバーは一人もいませんでした。今、モスクワをはじめロシアの大地には、地涌の菩薩が躍り出て、社会に貢献しています。
 世界最高峰の学府・モスクワ大学と創価大学の間では毎年、交換留学生の往来を重ねています。

 ナターリヤ・サーツさんも、私と妻の大切な友人です。
 サーツさんは、世界初の「子どものためのオペラ劇場」である「国立モスクワ児童音楽劇場」を創設し、総裁を務めた方です。
 最初の出会いは1981年5月。「雀が丘」から、ほど近い児童音楽劇場で、「ナターシャおばさん」と慕われるサーツさんが、笑顔で迎えてくれました。
 大きな身振り手振りで、あふれ出る感情を表現される姿は“天真爛漫な少女”のようでした。私と妻の間に入って手を取り、自ら素敵な劇場を案内し、ご自慢の子どもたちを紹介してくださいました。
 サーツさんは、9歳でお父さまを亡くされました。さらに最愛のご主人も独裁政権によって粛清され、自身も「人民の敵の妻」として5年間、強制収容所に入れられました。美しい栗色の髪は、瞬く間に白くなってしまいました。
 最大の心の支えだったお母さまも、空爆で亡くなりました。お母さまは被弾した後も、サーツさんの舞台衣装を抱えて友人の家までたどり着き、絶命されたのです。
 収容所から出た後、その友人宅を訪れたサーツさん。夜、お母さまが息を引き取ったというソファに横になり、静かに目をつぶっていると、お母さまの夢を見たそうです。夢の中で、お母さまは語り掛けました。
 「歌うのよ、ナターシャ、何があっても歌うのよ。人生って、それは楽しいものなんですから」
 サーツさんは、絶望の淵から顔を上げました。いかなる困難にも、度重なる悲しみにも、負けることなく、前へ進みました。そして、子どものための芸術活動に献身する人生を歩み抜いたのです。
 サーツさんは語っています。
 「何でも簡単にできたことは一度だってなかった。常に困難があって、むしろそれをのり越えるのが好きだ」と。

 サーツさんが心掛けていた「困難を勝ち越える知恵」があります。
 それは──つらくて仕方がない時は、もう一人の自分が舞台に立っている姿を想像すること。そして、あたかも自分が演出家のようになって、舞台上の自分にウインクしながら、「ちょっぴりやっかいになってきちゃったね。さあ、ナターシャ、あなたがどうやってここを切りぬけるか、みものだわ」と語り掛けるという方法です。
 人生、そして青春は「劇」です。
 楽しい出来事もあれば、思わぬハプニングもある。苦闘の時期や胸躍る大逆転の瞬間、時にはほっと一息つく幕間もあるでしょう。いろいろあるから、おもしろい。
 だから、君がつらい時、貴女が苦しい時こそ、それは、「さあ、ここからだ!」「いよいよ勝負の時が来た!」という“青春勝利の舞台の見せ場”なのです。
 大聖人は、苦難にも負けずに前進する弟子の戦いを、「未来までの・ものがたり」(御書1086㌻)と讃えておられます。
 最高の妙法を持《たも》つ皆さんの奮闘は、必ずや未来の後輩が、世界の人類が、「あの人の負けじ魂の劇を見よ!」と仰ぎ見る物語となっていくのです。

 冷戦を終結させた元ソ連大統領のゴルバチョフ氏と初めてお会いしたのは、1990年7月27日のことです。
 この時、大統領の日本初訪問の実現が危ぶまれていました。モスクワのクレムリン宮殿で、私は開口一番、「きょうは、大統領と“けんか”をしに来ました! 火花を散らしながら、何でも率直に語り合いましょう。人類のため、日ソのために!」と切り出しました。
 するとゴルバチョフ氏は、一気に表情を崩し、はずむ語らいの中で、その次の年の“桜の咲くころ”に日本を訪問したいと希望を語られました。トップニュースとして、世界に発信されました。
 翌年の4月、氏はその約束を守り、ソ連の最高指導者として初の訪日が実現し、両国にとって歴史的な友好の春が花開きました。
 後年、その氏を、わが関西創価学園にライサ夫人と共にお迎えできたことも、金の思い出です。(97年11月)。氏と共に茨の道を歩んだ夫人が語られた言葉を、学園生たちも大切にしています。
 人生には、さまざまな痛手を受けることがあります。心の傷が癒えないこともあります。必ずしも夢のすべてを実現できるわけでもありません。しかし『達成できる何か』はあります! 何か『実現できる夢』は必ずあるのです!
 だから、最後に勝利する人とは、たとえ転んでも、立ち上がり、再び前に進む人です」
 わが人生という舞台で、自分が誇れる「何か」を残せば、たとえ途中がどうであろうと、それは勝利劇です。へこたれないで朗らかに、わが使命を信じ抜き、戦いのドラマを最後まで演じ切った人が真の勝利者です。君たち、貴女たちの「名演」が、どれだけ多くの世界の友を鼓舞し、勇気づけていくことでしょう!
 さあ、君たち、貴女たちにしか綴れない、「自分自身の物語」の幕が上がりました。
 名俳優の君、名女優の貴女の負けじ魂の舞を、父母も、創価家族も、私も、そして、未来の地球の若人たちも、大喝采を送りながら、見つめています。

トルストイの言葉は、トルストイ著『戦争と平和』藤沼貴訳(岩波文庫)、『トルストイ全集18 日記・書簡』中村融訳(河出書房新社刊)。セレブロフは、、アレクサンドル・セレブロフ/池田大作著『宇宙と地球と人間』(潮出版社刊)。サーツは、『私か見つけた「青い鳥」 ナターリヤ・サーツ自伝』斎藤えく子訳(潮出版社刊)から。
2014-08-26 : 未来の翼 世界が君を待っている :
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