スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
-------- : スポンサー広告 :
Pagetop

池田SGI会長指導選集 「幸福と平和を創る智慧」 第2部 人間革命の実践 第13章 「年はわか《若》うなり福はかさなり候べし」 13-1〜13-8

池田SGI会長指導選集 「幸福と平和を創る智慧」

第2部 人間革命の実践

第13章 「年はわか《若》うなり福はかさなり候べし」

この章を読むに当たって

 日蓮大聖人は「年は・わか《若》うなり福はかさなり候べし」(御書1135㌻)と門下を励まされています。
 誰人も、年齢とともに生身の体の老化は避けられません。しかし、年輪を重ねるごとに、ますます若々しく生命を輝かせ、福徳を豊かに積みつつ、共に励まし合い、共々に人間革命の勝利の人生を飾っていく――これが、妙法を行ずる創価家族の人生の旅です。
 長年、信心に励んできた父親が認知症を患い、とまどいながら懸命に奮闘する一家を、池田SGI会長は、その介護の労をねぎらい、こまやかに激励しました。
 「心配することはありません。たとえ脳に刻まれた記憶が消えたとしても、生命に刻まれた福徳は消えない。広宣流布に尽くした功労は永遠に消えないのです。
 今、お父さんは、一家一族の宿命転換を担い、偉大な総仕上げの戦いをしてくれている。そう捉えて、題目を送り、温かく見守って差し上げてください。どうしてだろうと思い煩《わずら》ったり、世間体を気にしたりする必要などありません。
 お父さんは今、一面、楽しい夢を見ているといえるかもしれない。今まで多くの人の面倒を見てきたから、今は皆から守られている。すごい境涯です。
 ご家族は苦労が絶えないでしょうが、必ず変毒為薬できます。それが皆の励ましになります。
 何があろうと、悠々と、堂々と、家族と共に、同志と共に生き抜いていく。これが信心です」と。

 13-1 豊かな「第三の青春」を


 一般的に、修学期などを「第一の人生」、自立して仕事等に励む年代を「第二の人生」、そして、それらを終えた後の人生の総仕上げの年代を「第三の人生」と捉えます。この「第三の人生」を、どう豊かに生きていくか――。SGI会長の指導には、そのための大切な指針がちりばめられています。


【池田SGI会長の指針】
◎『「第三の人生」を語る』から
            (1998年10月刊)

 仏教は生老病死の解決を眼目としている。しかし、日蓮大聖人の仏法の真髄は、その「四苦」を乗り越こえることだけにあるのではない。
 御書に「四面とは生老病死なり四相を以て我等が一身の塔を荘厳するなり」(740㌻)とあるように、仏法ではさらに一重深く、四苦そのものが「一身の塔」、すなわち「生命の宝塔」を荘厳する宝に変わる、と説いているのです。
 「愚者にとって、老年は冬である。賢者にとって、老年は黄金期となる」という言葉もある。
 いっさいは、自分の心をどの方向へ向けていくかに、かかっているのです。
 老いを、たんに死にいたるまでの衰えの時期とみるのか、それとも、人生の完成へ向けての総仕上げの時ととらえるのか。老いを人生の下り坂とみるのか、上り坂とみるのか――同じ時間を過ごしても、人生の豊かさは天と地の違いがあるのです。
        ◇
 「第三の人生」は「第三の青春」でありたい。青春は、年とともに消え去っていくものではない。自分がどう思うかです。いくつになっても、前向きの挑戦の心があるかぎり、ますます深みを増し、ある人は黄金に、ある人はいぶし銀に輝いていくのです。
 広く「第三の人生」の重要課題を言えば、いかに最後の最後まで自分らしい生き方を貫き、周囲に示しきっていけるかということです。
 亡くなった人の記憶や思い出、生き方の規範が、残った人を大きくつつみ込んでいく、ともいえるでしょう。
 「第三の人生」で、周囲に何をあたえ、残していくか。それは、財産や名誉や地位などいっさいをはぎ取った後に、生死を超えて厳然と残る〝人間としての生き方〟しかないのです。
        ◇
 御書に「人のために火を点《とも》せば、自分の前も明るく照らされる」(1598㌻、趣意)とあるが、高齢社会では、〝人のために点す〟心が大切です。それが、最後は自身をも照らすことになる。
 仏法では、「皆が恩ある衆生だから、皆の成仏を祈っていきなさい」(御書1527㌻、趣意)と教える。
 人間が大切にされている。人間関係が大切にされている。そこに長寿社会の急所がある。
 大切なのは、生きているうちに、どれだけ「生命の質」を高めることができるかです。長く生きることだけが、長寿ではない。たとえ短命に終わっても、充実した生をまっとうできれば、その人は、手応えのある人生を生きた分、長寿といえるでしょう。
 大切なのは、きょう一日を、広布の前進とともに悔いなく生ききることです。いくつになっても、生きる目標を胸中に燦然と輝かせていくことです。その日々の積み重ねしかないのです。
        ◇
 自行化他の修行に励み、南無妙法蓮華経と唱えぬいた思い出は、三世に永遠です。たとえ認知症になっても消えることはない。厳然と「魂の日記帳」に綴られているのです。
 人生の最高の誉れは、学会活動です。人のために祈り、動くことで、自分も幸福になる。これほどの価値ある人生はないのです。
 御書にも、「どこまでも一心に、南無妙法蓮華経と自分も唱え、人にも勧めていくのです。まさに、それだけが、人間界に生まれてきた今世の思い出となるのです」(467㌻、趣意)と仰せです。
 だから、なんの心配もいらない。信仰で積んだ福徳は、老いることはないのです。認知症になっても、生命に冥伏されているのです。
 根本的には、たとえ認知症になった人でも、人生の先輩として、また今日の繁栄を築いた先達として、尊んでいく気風が社会全体に広がっていかなければならない。このまま高齢化が進めば、いやおうなしに万人が介護にたずさわる社会になるのですから。
 長寿社会とは、競争よりも協調が、効率よりもゆとりが、物の豊かさよりも心の豊かさが、求められる時代です。自分が「してもらう」のではなく、わずかでもいい、自分には「何ができるのか」を考える時代です。いくつになっても、わが身を律しながら、貢献の道を探っていく。それが、「価値創造」の生き方です。
        ◇
 哲人プラトンは、〝年をとったら、若い人の生き生きとした姿に、あなたの若い日を重ね合わせながら、若い人の動きをエネルギーの源にしなさい〟とアドバイスしたと言います。
 老若男女が集う学会の座談会は、年配者が若者から、みずみずしい生命力を吸収する。反対に、若い人が年配者の経験や知恵を学んでいける。
 仏法にいっさい、ムダはないのです。高齢社会の先取りです。
 ともあれ、つねに希望に生きるのです。理想に生きるのです。命あるかぎり、この世で果たさん使命あり、です。
 アメリカの詩人ロングフェローは謳いました。
 「老いは、装いこそ違え、青春に勝るとも劣らぬ好機なり。あたかも、黄昏過ぎし夜空に、白昼隠れて見えぬ星の、満天に輝けるに似たり」
 ともどもに、星降るようなすばらしい満天の夜空のような総仕上げの人生を描いていきたいものです。
        ◇
 人生、最後の最後まで戦いきった人は、美しい。
 ですから、生涯、青春の心と行動が大切なのです。〝自分は年をとったから、ほどほどにしてもいいだろう〟などという逃げの人生であってはならないのです。
 釈迦教団の長老たちも、多くは年をとるにつれて枯れてしまった。〝自分には立場もあるし、それなりの悟りも得たんだから、これで十分だろう。長い間、修行もしてきたんだ。師匠の釈尊の悟りはすばらしい。しかし、自分たちにはおよびもつかない。このままでいいんだ〟――と安住してしまっていた。
 そこで釈尊は、舎利弗への授記を通し、〝そうではない、一生涯、仏道に精進し続けるのだ、そこにしか仏になる道はない、頑張れ〟と、叱咤・激励をした。長老たちも、自分たちの情性に気がつき、あらためて、戦いを再開し、歓喜した。
 それで、今まで絶対に成仏できないとされてきた二乗も仏になれることになったのです。
 「月月・日日につより給へ」(御書1190㌻)が、法華経の精神であり、学会の魂なのです。
        ◇
 アメリカの詩人サムエル・ウルマンの有名な「青春」の詩に、

   青春とは人生のある期間ではなく、
   心の持ちかたを言う。

   青春とは臆病さを退ける勇気、
   安きにつく気持を振り捨てる冒険心を意味する。
   ときには、二〇歳の青年よりも
   六〇歳の人に青春がある。
   (『青春とは、心の若さである』作山宗久訳、TBSブリタニカ)

 とあります。若さとは、年齢で決まるものではない。燃え上がるような広宣流布の情熱があるかぎり、九十歳でも青春そのものなのです。
 避けられぬ死と老いを前にして、人生のうえでも、社会のうえでも、自分らしく、いかに活力にあふれた、輝かしい最終章を生きていけるか。それが高齢社会を迎えた二十一世紀の日本の最重要の眼目です。
 その問いに事実のうえで正しい解答を示すことができるのは、日蓮仏法しかないのです。創価学会しかないのです。その大確信で、ともどもに、「われ、かく生きぬいたり」との勝利の歴史を綴りながら、広宣流布という希望の大遠征に進んでまいりましょう。

 13-2 挑戦また挑戦の総仕上げを

 ここでは、仏法で説く「不老不死」の深き意義を示しながら、「老い」のもつ黄金の価値について語っています。


【池田SGI会長の指針】
◎『「生老病死と人生」を語る』から 
          (2006年11月刊)

 「老いとの戦い」──それは、新しい挑戦を避ける「臆病との戦い」といってよい。
 「もう、これでいいだろう」という妥協。若い人を育てようとしないエゴ。過去への執着。そんな心の隙間に「老い」は忍び寄ってきます。
 最後まで戦い続ける人が、一番尊く、一番若い。その人こそが、不老の生命であり、人生の勝利者なのです。
 思えば、あの文豪ゲーテが、畢生の傑作「ファウスト」の第2部を完成させたのは、80歳を超えてでした。
 私たち創価の父・牧口先生も、人生の総仕上げを「前進また前進!」「挑戦また挑戦!」の歴史で飾っておられます。
 仏法に巡りあったのは、57歳の時です。59歳で、創価教育学会を創立されました。70代に入ってからも、はつらつと遠い九州へも汽車に揺られて、個人指導や折伏に訪れておられます。「我々、青年は!」──これが、牧口先生の口癖でした。
 牧口先生は、亡くなられる約1カ月前、獄中から「カントの哲学を精読している」と、はがきをつづっておられます。この燃えるような求道心、挑戦の心こそ、若さの源泉でしょう。
 「不老不死」といっても、もちろん、「年を取らない」とか「死なない」ということではありません。それは「境涯」のことであり、「生命力」のことです。
 法華経には「若し人病有らんに、是の経を聞くことを得ば、病は即ち消滅して、不老不死ならん」(法華経「薬王品」602㌻)とあります。
 また御聖訓には「法華経の功力を思ひやり候へば不老不死・目前にあり」(御書1125㌻)と仰せです。
 つまり、妙法を信受していくならば、いかなる病にも負けず、年を取っても若々しい生命力で前進し、三世永遠にわたって崩れることのない幸福境涯を築き上げることができるとの御約束です。
 これは、決して特別なことではありません。常に新鮮な息吹で、快活に、さっそうと活躍されている、わが大切な大切な「多宝会」(高齢者の集い)の皆さま方の姿こそ、その模範です。
 一面から言えば、「老い」は嫌われる宿命をもっています。なぜなら、その延長線上に、避けられない「死」を想起させるからです。
 しかし人生の各時期には、それぞれ、かけがえのない固有の価値があるものです。
 では、本来、「老い」の意義とは何か──。
 それは、若かりし日を思い、感傷にひたる時期などではありません。最も荘厳にして悠然と光を放ちゆく深紅の夕日のごとく、最も生の充実を図るべき、人生の総仕上げの時ではないでしょうか。
 そこには、暗く佗しい「老い」のイメージはありません。
 「はればれとした老人の顔には、なんとも言えない曙のようなところがある」(『レ・ミゼラブル3』『ヴィクトル・ユゴー文学館4』辻昶訳、潮出版社)とは、文豪ユゴーの至言です。
 しかし残念なことに、「死」という根本問題から目を背けた現代社会は、そうした「老い」のもつ黄金の価値まで見失ってしまったように感じます。
 御聖訓に「先《まず》臨終の事を習うて後に他事を習うべし」(御書1404㌻)とあるように、死から目をそらすのではなく、死を真正面から見つめていかねばなりません。そうすれば、必然的に「老《ろう》」も人生に正しく位置付けられる。「老い」の真の価値も輝いていくのではないでしょうか。
 仏法の永遠の生命観から見るならば、「死」は新たな「生」への出発です。
 御書に、妙法は「生死《しょうじ》の長夜を照す大燈《だいとう》」(991㌻)とあります。
 妙法という永遠の法を手にした人に、死の恐怖はない。不安もないし、動揺もない。「生も歓喜! 死も歓喜!」と、生命の旅路を自在に遊戯していける。
 「生老病死」の苦悩の人生を「常楽我浄」の歓喜の人生へと転換する、根本の方途を説き明かしたのが、この仏法なのです。

 13-3 すこやかな長寿の秘訣

 大いなる目的に向かって、「希望」と「愉快な心」と「使命感」を持ち、朗らかに前進するところに、長寿の秘訣があると語っています。

【池田SGI会長の指針】
◎本部幹部会、全国婦人部幹部会、諸精霊追善勤行法要でのスピーチから
         (1992年9月25日、東京)

 「長生き」の秘訣は何か。個人差もあり、さまざまな考え方がある。私どもでいえば、唱題行が根本であることは当然である。
 そのうえで、 一般的に、心のもち方が大きく関係しているといわれる。
 たとえば、①「くよくよしない」ことが大切とされる。
 釈尊は、ある仏典で言われている。
 「過去を追うことなかれ。未来を願うことなかれ。過去は捨て去ったもの。未来はいまだ来ていない。ならば、現在することをおのおのよく心得て、揺るがず、動ぜず、それを正しく実践せよ。ただ、きょう、まさに作すべきことを熱心になせ」(「中部経典」四、『南伝大蔵経』第十一巻を参照)
 過去にいつまでもとらわれて苦しんだり、どうなるかわからない未来のことで、思いわずらうのは愚かである。それよりも、ただ「きょう、なすべきこと」を、立派に果たせ。「きょう」という一日を一生懸命、ていねいに生きることだ。こう説くのである。
 長生きされている方は、だいたい楽天的な方が多いようである。いい意味での楽観主義で、楽しく毎日を送っていただきたい。
 また、②「目標をもって生きる」ことである。
 フランスのド・ゴール元大統領は、個人にとって「希望の終わりは、死の始まり」と語っている。
 「希望」が「生命」なのである。希望を失うことは、人間としての生命を失うことである。そして信仰とは、永遠に「希望に生きる」ことである。みずから希望を生みだし、希望を実現し、さらに、より大きな希望に向かって、いよいよ元気に進み続ける。その原動力が「信心」なのである。
 ③「ユーモア、笑いを忘れない」ことも大切である。
 ヨーロツパには、「愉快な心はお医者さん」という古い言葉もある。
 哲学者のカントも、「大声の笑いは、肉体にとって医師の働きをする」と論じている(趣意、『判断力批判』)。
 ユーモアとは、ふざけではない。伸び伸びと開かれた心であり、心のゆとりである。
 「愉快な心」をもって生きたい。そのためには日々、人生に〝勝つ〟ことである。堂々たる生命力をもつて、前へ前ヘと進むことである。
 さらに、④「何らかの仕事、使命に励む」ことである。
 ノーベル平和賞も受けたシュヴァイァー博士は、「私は、仕事ができるうちは死ぬつもりはないんだ。そして、仕事をしているかぎり、何も死ぬ必要はない。だから私は長生きするよ」と言っていたそうである。事実、九十歳を超えて生きぬいた。
 〝自分には、なすべき使命があるんだ。使命があるかぎり、死ぬ必要はない。死ぬはずがない〟――この〝確信〟が長寿への生命力のもとであったと考えられる。
 ほかにもあるかもしれないが、こうした諸点も、すべて仏法のなかに、学会活動のなかに含まれている。
 広宣流布という「大目的」に向かって、「希望」と「愉快な心」と「使命感」をもって、朗らかに進む創価学会。その学会とともに進む皆さまの人生が、だれよりも充実した、すばらしい人生となることは当然である。
 大聖人は、四条金吾の夫人に「年は・わか《若》うなり福はかさなり候べし」(御書1135㌻)――年は若くなり、福運は重なりますよ――と約束しておられる。
 この「妙法の大功力」を実感できる皆さまであっていただきたい。

 13-4 わが生命に永遠の宮殿を築く

 仏法者の終局の目的は「仏になること」です。それを見据えていくならば、人生の晩年は、豊かな経験や知恵を生かして、いよいよ人々に尽くし、わが仏の境涯を完成させていく、希望と向上の好機であると語っています。

【池田SGI会長の指針】
◎全国代表研修会でのスピーチから 
      (1997年2月1日、静岡)

 大聖人は、身延から遠く離れた佐渡の老夫婦、国府《こう》入道夫妻に、励ましの手紙を送っておられる。
 大聖人は、夫妻に、こう言われている。
 「いづくも定めなし、仏になる事こそつゐ《終》のすみか《栖》にては候いしと・をもひ切らせ給うべし」(御書1323㌻)――どの地も、永久のものではありません。仏になることこそ、〝ついのすみか〟(最終の住まい)であると、心を決めていかれることです――と。
 「ついのすみか」――最後にたどりつくべき安穏のわが家、安住の地。それは、どこにあるのか。それは、ここにある。自分の中にある。自分が自分の胸中に開く仏界こそ、永久の「安住の地」なのである。
 環境で決まるのではない。どんなすばらしい住まいに住んでいても、自分がわびしい心であれば、安穏とはいえない。
 喜びの人生とはいえない。また今はよくても、それが永久に続くわけではない。自分自身の生命の中に、仏道修行で築いた「安穏の官殿」こそ、三世永遠である。
 この国府入道夫妻は、同じ佐渡の阿仏房、千日尼の夫妻と、いつも一緒に活動していた。大聖人は、その友情をあたたかく見守りながら、仲良く心を合わせていけるよう、こまやかに配慮されている。
 守りあい、励ましあう友がいる幸福――それは、年配になればなるほど、ありがたさを増していくにちがいない。その「宝の友情」のスクラムを、学会は、地域に、社会に広げているのである。
 釈尊は、高齢者を大切にする人は、みずからが「寿命」と「美しさ」と「楽しみ」と「力」を増していくと説いている。因果の理法のうえから、たしかに納得できる道理である。
 「老人を尊敬する社会」こそ「人間を尊敬する社会」であり、それでこそ「生き生きと栄えゆく社会」となろう。
 御書には、法華経を引かれて、「長寿を以て衆生を度せん」(657㌻)とある。
 「長寿」とは、根本的には、法華経の如来寿量品で明かされた「如来の長遠の寿命」のことである。法華経を行ずる人には、わが胸中に「永遠なる仏の生命」がわいてくる。
 「更賜寿命(更に寿命を賜う)」といって、生命力が強くなり、寿命を延ばすこともできる。
 しかも、菩薩は、自分のためだけに長生きしようとするのではない。みずからの経験や、慈悲と一体の知恵を生かして、いよいよ人々に存分に尽くすために、長生きしようというのである。微妙にして、しかも重大な一念の違いである。
 大聖人は、「地涌の菩薩」を率いる指導者のことを、「上行菩薩と申せし老人」(御書1458㌻)と仰せである。
 仏法上、これには深き意義があるが、ここでは「老人」という言葉に否定的なイメージがまったくない。むしろ反対に、荘厳なまでの偉大さがうかがわれる。
 たとえば――。揺るぎない信念の固さ。たゆみなき慈愛の行動。何ものをも恐れぬ勇気。絶妙な対話の力。決定《けつじょう》した忍耐の心。何ともいえぬ気品と威厳。何が起こっても、自在に解決していく大海のごとき知恵――など。
 「人生の達人」のもつ人徳が、馥郁と薫っている―― そうした姿が浮かんでくる。これが、悪世の真っただ中で、人間主義を広げゆく、「地涌の菩薩」の姿といえよう。

 13-5 わが生涯を芸術のように

 近代看護の創始者であるナイチンゲールの晩年の姿を通して、最後まで使命の炎を赤々と燃やし続けていく荘厳な生き方を示しています。

【池田SGI会長の指針】
◎『「女性の世紀」に寄せて――ナイチンゲールを語る』から
                 (2002年3月刊)

 ナイチンゲールは看護学校の学生たちに約束した。
 「私は、自分の生命の最後の時まで毎日毎日努力して学びつづけることでしょう」
 「他者を看護しながら学ぶことが不可能になったときには、看護されながら、つまり《私を》世話してくださる看護婦さんの看護を見ながら学ぶことでしょう」(「ナイチンゲール著作集』湯槙ます・薄井坦子・小玉香津子・田村真・金子道子・鳥海美恵子・小南吉彦訳、現代社)
 この言葉通りに彼女は生きた。生き抜いた。
 看護学校を創立した40歳のころ、彼女の体力は限界にきていた。頭痛。吐き気。呼吸困難の発作。体の不調に絶えず悩まされた。長時間、話をすると、ぐったりとした。
 多くの人が、早すぎる死を心配した。実際、危ない場面も何度もあった。それでも、彼女は立ち止まらなかった。
 「忙しくて死んでいる暇などありません」(ザカリイ・コープ『ナイチンゲールと医師たち』小池明子・田村真訳、日本看護協会出版会)
 そう言って、病魔を笑い飛ばした。
 自由に動けなくても、まだ、書くことができる――彼女のベッドの傍らには、常に鉛筆やペンがあった。彼女が書いた論文、統計だけでも膨大であった。そのうえ、手紙は1万3000通にも上ったという。
 医者から「書くこと」を止められても、「だからこそ、私はなおいっそう書き続けるのです」と一歩も引かなかった。
 「私があの報告書を仕上げていなかったら、私が『守り得た』はずの健康など、私に何ほどの意味があるでしょう」
 これが彼女の変わらぬ信念だった。
 わが身を赤々と燃やして輝く〝戦いの炎〟――それがナイチンゲールだった。
 やがて視力まで衰えた。それでも彼女は、ぴしゃりと言い放った。
 「とんでもない。私は断じて心が冷えたりなどしません」(セシル・ウーダム=スミス『フロレンス・ナイチンゲールの生涯』武山満智子・小南吉彦訳、現代社)
 80歳を超え、まったく目が見えなくなった。それでも、彼女は「絶望」とは無縁だった。
 まだ聞く耳がある!
 まだ話す口がある!
 訪れた客が驚くほど、彼女は社会の動きに精通していた。
 仏典は教えている。〝手がなくとも足がある。足がなくとも目がある。目がなくとも口がある。口がなくとも命がある〟と。
 この決心で、命ある限り、法を弘めていく。それが仏法者の魂である。
 釈尊も、自分の臨終の間際に訪れた一人の修行者にまで法を説き、帰依させ、最後の弟子としたのである。
 戸田先生は、よく語っておられた。
 「人生の幸不幸は、最後の数年間で決まる。途中ではない」
 ナイチンゲールの晩年は、生涯のなかでも、いっそう美しく、いっそう豊かに彩られている。
 彼女自身が、最晩年を「生涯の最良の日々」と語っていた。
 晩年の彼女ほど、人々から愛され、慕われた女性もいないだろう。
 「だれでもみんな、あなたの名前を聞くと明るくなる」と敬われた。
 「フローレンス・ナイチンゲールのように!」―― これが女性たちの合言葉になった。
 指導や助言を求めて、イギリス中から、世界中から、多くの人々が彼女のもとに来た。
 世界の王族や政治家たちも、「一目め会いたいと、こぞって彼女を訪ねた。しかし、どんな高位の人間でも、「看護に関心を持つ」人でなければ、彼女は会わなかった。
 彼女は若い人を大事にした。「世界を継ぐべき人たちと交わっていきたい」と願って。
 看護の仕事がしたい!――そう希望する少女たちから何百通という手紙が届いた。そのほとんどに返事を書いた。
 最後の最後まで、やるべきことを見つけ、挑み、「未来の種」を植え続けていったのである。
 「生涯を一個の芸術とすることこそ、すべての芸術のうちで最もすばらしいものだと私は考えています!」(エドワード・クック『ナイティンゲール〔その生涯と思想〕』中村妙子・友枝久美子訳、時空出版)
 そう語った通りの人生を生きた。
 1910年8月13日。芸術のごとき人生は、静かに幕を閉じた。90歳。ナイチンゲール看護学校の創立50周年の佳節であった。彼女の生前の希望で、葬儀は質素だった。
 ナイチンゲールは、死を「限りない活動への旅立ち」と捉えていた。
 御書には、「自身法性の大地を生死生死と転ぐり行くなり」(724㌻)と仰せである。
 妙法を信ずる人は、自身の「法性の大地」すなわち「仏界の大地」の上を、「生も歓喜」「死も歓喜」と進んでいける。
 生命は永遠である。だからこそ、この一生で、絶対に崩れない「常楽我浄」の生命を築き上げることだ。
 そのために、正しい信仰が必要であり、人に尽くしゆく正義の行動が不可欠になる。
 ひとすじに広宣流布に生き抜いた人は、「歓喜の中の大歓喜」の永遠の幸福の軌道を歩んでいけるのである。

 13-6 「一日の命は三千界の財《たから》にもすぎて候」

 「一日一日を丁寧に生きる」―― これがSGI会長のモットーです。きょう一日生きることが、どれほど尊いか。その無限の生命の価値を輝かせていく一日一日を、と呼び掛けています。

【池田SGI会長の指針】
◎『全国壮年部幹部会、九州総会でのスピーチから
           (1992年10月10日、東京)

 大聖人は「一日の命は三千界の財にもすぎて候なり」(御書986㌻)―― 一日の命は、三千世界(宇宙)の全財宝よりも尊いものである――と仰せである。
 「一日、生きる」、その生命は、あらゆる財宝を集めたよりも尊貴である、と。
 きょうの「一日」が大切である。私も、一日一日を大切に、会員の方々のために尽くして生きようと決めている。これが私の信条である。
 さらに「法華経にあわせ給いぬ一日もい《活》きてをはせば功徳つもるべし、あらを《惜》しの命や・をしの命や」(同㌻)――法華経に巡りあわれたのだから、 一日生きておられればその分、功徳が積もるのである。なんと大事な命であろう。大事な命であろう――と。
 皆さま方は、使命ある大事な生命である。外見は世間の人と同じように見えたとしても、広布に生きる学会員の「一日」は、その〝生命時間〟から見れば、永遠に通じる尊い一日なのである。
 どうか「きょうも楽しかった、勝った」「きょうも悔いがなかった」「充実の歴史をつくった」といえる一日一日を、ていねいに積み重ねていただきたい。

 13-7 〝最初の誕生日〟

 最後まで一日一日を大切にして自らの使命に生き抜いたガルブレイス博士のエピソードを紹介しながら、日々、勤行・唱題し、学会活動に励んでいくことが、生命の根本の健康法であると語っています。

【池田SGI会長の指針】
◎「7・3」記念本部幹部会でのスピーチから
                (1997年7月3日、東京)

 世界的な経済学者のガルブレイス博士(ハーバード大学名誉教授)も、90歳というお年で、今なお、新しい著書を書き、どんどん仕事をしておられる。
 博士とは、20年来の交友である。ある時は、ボストンの博士のご自宅にお邪魔し(1993年)、また、ある時は、東京で(1978、1990年)、お会いした。
 ハーバード大学での私の2度目の講演には、講評者として出席してくださった。(1993年。講演は「二十一世紀文明と大乗仏教」)
 9年前(1990年10月5日)、聖教新聞社で博士が言われた一言が、たいへん印象に残っている。
 「私は再来週(10月15日)、82歳になります。それを、私にとって〝最初の誕生日〟と思うつもりです。人間は、年をとればとるほど、ますます学んでいくべきだと信ずるからです」
 いつも若々しい博士の人生哲学である。
 博士は「健康法」を、こう言われた。
 「何よりも大事なことは――朝起きた時、『きょう一日の計画が決まっていない、考えていない』といったことが、ないようにすることです!」
 朝を「さあ、きょうも!」と元気に出発することである。
 その意味で、みずみずしい一日の出発をする「朝の朗々たる勤行・唱題」が、どれほどすばらしい健康法か――。
 勤行・唱題は、小宇宙である自分自身を、大宇宙の根本のリズムに合致させゆく崇高な儀式である。
 御本尊へ合掌し、勤行・唱題する。その声は、すべての仏・菩薩、諸天善神のもとに届いている。そして、日には見えないが、全宇宙の仏・菩薩、諸天善神が、その人を守り囲んでいく。その〝真ん中〟に自分がいることになる。
 題目をあげるということが、どれほど、すごいことか。すべての仏・菩薩、諸天が味方になるのである。だから人類を救う力がある。救う使命がある。
 博士は言われた。
 「年配者の最大の誤りは、仕事から引退してしまうことです。やるべき仕事がなくなれば『肉体的努力』と『精神的な努力』を、しなくなってしまう。とくに『精神的な努力』をやめることは、非常によくありません」
 いわんや、信心に「引退」はない。広宣流布への学会活動は、生命力を増す「最極の精神の努力」であり、生命の根本的な健康法なのである。

 13-8 生きるとは学び続けること

 「第三の人生」の模範の軌跡を残したアメリカの国民的画家グランマ・モーゼスの生き方を通して、年輪を増すごとに創造の輝きを一段と放ちながら、紅葉《こうよう》の如き見事な人生の総仕上げであれ、と語っています。

【池田SGI会長の指針】
◎『心の四季』から
                  (1993年5月刊)

 アメリカの女流画家グランマ・モーゼスは、美しい田園の郷愁に満ちた絵と、素朴な作風そのままの人柄とで、世界中から愛された。〝八十の手習い〟と言ってもいいような年齢から亡くなる101歳までに、ナイーブ・アート(素朴派絵画)を代表する1500点の絵を描き残したという驚異的な事実は、よく知られている。
 「思い返してみると、わたしの生涯というのは、一生懸命に働いた一日のようなものでした。仕事は遂行され、わたしは充足を感じます。わたしは幸福で、満足でした。(中略)そして、人生とは、わたしたち自身が創るものなのです。常にそうであったし、これからもそうであり続けることでしょう」
 これは彼女の自叙伝(『モーゼスおばあさんの絵の世界』加藤恭子訳、未来社)の結語であり、まさに人生の達人の言葉である。
 よく知られるように、彼女は平凡な農村婦人であった。1860年にアメリカの片田合に生まれてからずっと、農作業にたずさわる。12歳でお手伝いとして住みこみ、料理、家事、病人の世話など何でもやった。だから学校教育は、小学校がやっと。27歳で結婚してからも、脇目もふらずに働いた。
 10人の子どもを産み、そのうち5人は幼時に亡くした。あとの子どもたちも、結婚したり、農場をもって独立した。夫トーマスは、彼女が66歳のときに病死した。モーゼスおばあさんが絵を描き始めたのは、75歳であった。
 雪道を行く赤い馬そり。青々と萌えだす野草。うち開けた谷間。メープル・シロップを作る人々……。彼女の胸の中には、美しい思い出という名画がいっぱいしまわれていたのだろう。その一枚一枚を、記憶を頼りに、胸の中から取り出していったのだ。
 それまでは、大家族をきりまわし、土と汗に日々まみれていた農婦人である。その彼女が、この年齢になって、どうして新たに目覚めることができたのだろう。
 いや、そうではない。彼女は、いつも目覚めていたのである。
 若いころ、わが家でのバター作り。彼女はそれを店に卸してみる。上手に作るので、気に入られ、どんどん値が上がり、取引量も増え、大きなビジネスに成長した。ふと、ポテト・チップスを作ってみる。これも商売になった。
 彼女は言う。「もちろん苦しいこともありました。でもわたしはそれをほとんど払いのけましたし、苦しいことは忘れるように自分自身に教えこむ努力もしました。そうすれば、ともかく最後には、困難は逃げ去るのです」(同前)
 常に「いま」を輝くほどに、彼女は生きたのだ。いや、闘ったのだ。不満もなく、愚痴もなく、主婦の仕事を縦横にやりこなし、それを胸いっぱいエンジョイしながら、しかも主婦という立場に縛られず、きょうという一日を彼女ならではの〝創造の輝き〟でいつも満たしていたのである。
 彼女が若いころに絵を描いていたとか、研究していたという形跡はない。まったくの独学である。
 驚くべきことに、そんな彼女の絵が、その年齢にもかかわらず、どんどん進歩していった。20数年で1500点の絵を描くこと自体が、大いなる研鑽であった。 一時代を画す彼女のナイーブ・アートも、そうした日々の積み重ねの上に、おのずと開いた人生の″新しい花〟であったにちがいない。
 75歳からの選択――。彼女は描いた、ただ己心の伸びやかな喜びを満喫しながら、創造の翼のはばたくままに。
 私は思う。どんな人の中にも、自分らしい創造の翼は必ずある、と。それは芸術の分野に限ったことではない。日々の家事や地域の中でも、その翼を大いにはばたかせることは可能なのだ。そのことを、モーゼスおばあさんの生涯は教えてくれる。
 人生の年輪が増すごとに、創造の輝きを一段と強く放ちゆく人には、″老い〟はない。それは、常に人生の「現役」であることを、自負しているからではないだろうか。
 「生きる」ということは、生涯かけて学ぶことである。また「人生とは、私たち自身が創るもの」なのである。そのスタートが何歳であっても遅くはないこと、さらに、それには学歴などは要らないことも、モーゼスおばあさんは教えている。
 私はそこに、たぐいまれなる「自律」と「自立」の魂をみる。自らを律しつつ、自ら立つ。このとき人は、人生という名の舞台の上で、いつも〝主役〟を演じ続けることができるにちがいない。
スポンサーサイト
2015-08-31 : 池田SGI会長指導選集 :
Pagetop

池田SGI会長指導選集 「幸福と平和を創る智慧」 第2部 人間革命の実践 第12章 桜梅桃李 12-1〜12-9

池田SGI会長指導選集 「幸福と平和を創る智慧」

第2部 人間革命の実践

第12章 桜梅桃李

この章を読むに当たって

 「信仰するというのは、何か型にはまってしまうような気がします」――未入会の青年の率直な声に、かつて池田SGI会長は、こう答えました。
 「日蓮仏法は桜梅桃李と説きます。梅は梅、桃は桃――皆が桜になろうというのではなく、自分が最も自分らしく生き抜いていくための信心です。日蓮大聖人の御書には、『はたらかさず・つくろわず・もとの儘』とあります。ありのままでいいんです。ありのままの自分が尊いんです。取り繕った分、気取った分、自分が弱くなってしまう。
 『ありのまま』と『そのまま』は違います。そのままでいい、というのでは成長はない。自分とは何か、何のために生きるのか――それを追求しながら、努力して、努力して、努力し抜いていくなかでこそ、自分自身の使命の花を咲かせることができる。それが、桜梅桃李の実践なのです。
 人間革命なくして、真に自分自身に生きることはできません。この人間革命を目指していくという『型にはまる』のであれば、悔いのない青春ではないですか」
 この確信あふれる激励に、青年はほどなく入会しました。
 誰もが、かけがえのない使命の種を持っています。それを芽吹かせ、思う存分に咲かせていくための人生です。
 「信心とは」――SGI会長は語っています。「人を羨んだり、自分を卑下したりしないこと。自分自身に生き切り、自分にしかできない使命を、自分らしく果たしていくこと。そして、自分が尊敬できる自分をつくっていくことだ」と。

 12-1 されど我は咲くなり

 東北の山形を訪問したSGI会長は、仏法の桜梅桃李の原理をわかりやすく示しながら、自分自身の使命に生き抜く尊き人生を、と呼び掛けました。


【池田SGI会長の指針】
◎山形県総会でのスピーチから 
        (1983年4月18日、山形)

 山形へは9年ぶりの訪間となった。一日も早く山形の友のもとへとの思いをいだきながら、新潟から列車の旅をした。車窓には、山々の残雪のなかにも、青い水の流れ、木々の緑が広がっていた。黄色いレンギョウの花も、雪柳も、水仙も、桜も、自然を彩って、生きいきと咲き薫っていた。
 それらを眺めながら「桜梅桃李の己己の当体を改めずして……」(御書784㌻)との御聖訓を思い起こしていた。
 この御文は、われわれの生き方の根本的姿を御教示くださっている。
 桜は桜のままに咲き、みずからの使命に生きている。梅も、桃も、李もそうだ。
 われわれ一人ひとりの人間も同じでなくてはならない。一人ひとりが個性をもっている。また人格をもち、尊い生命をもった存在である。ゆえに、あくまでも自分らしく、主体性をもって生きていけばよいのである。
 自分にしかない使命、生き方があるものだ。あの人のようでなければならないということはないのである。
 桜には桜としての生命と因縁がある。梅も桃も李も同じくそれぞれその生命となった因縁があるだろう。と同じく、信心の眼《まなこ》より見れば、自分自身のこの世に生まれた使命と、それぞれの因縁があるといってよい。それを、それぞれ心から楽しく自覚できるのが、この妙法である。
 妙法の信心の力によって自分のなかにある仏界を涌現させていくことが、人生にとって根本の幸せなのである。
 皆さんのなかには、東京などの大都会にいる人々をうらやましく思っている人もあるかもしれない。また、はなばなしい職場で働き、大きい家に住みたいと思っている人もいるかもしれない。
 しかし、澄んだ空気、月の輝き、星辰のまたたき、朝空にうかぶ蔵王をはじめ、かすかに白い鎧を着た美しい山々の自然は、とうてい東京では見られない。とともに人生の幸福境涯というものは、その国土世間、その職場、その家々の大小で決まるものではない。
 他のものはよく見えるのが、人間の常である。山形におられる方々は、大都会に生きることが幸せそうに見えるかもしれないが、大都市の人々は、山形のこの美しき自然環境にあこがれる。
 ゆえに、その地域にあって、日先の次元に惑わされることなく、要は己の力を存分に発揮し、使命を果たしていくことである。
 ある文人が「見るもよし、見ざるもよし、されど我は咲くなり」とうたったが、私どもの行動はすべて御本尊がお見通しである。
 ともあれ、桜梅桃李の原理のごとく、だれ人が見ていようが見ていまいが、あくまでも妙法につつまれて自分らしく生きていくことが大事なのである。

 12-2 性格をより良く輝かせるために

 小説『新・人間革命』では、学生部の会合に出席した山本伸一会長が、〝気が弱い〟という自分の性格に悩むメンバーを励ます様子が綴られています。

【池田SGI会長の指針】
◎小説『新・人間革命』第16巻「入魂」から
       (2006年10月刊)

 〝優しさ〟と〝気の弱さ〟は、一つの性分のあらわれ方の違いといえるだろうね。性分が〝優しさ〟として生かされれば長所となるし、〝気の弱さ〟となってあらわれれば短所となってしまう。そして、性分が常に短所となって作用すれば、それが不幸の原因にもなる。
 たとえば、カッとなる性格の人は、職場でもすぐに喧嘩をしがちだ。すると、周囲から疎んじられ、人間関係もうまくいかなくなる。場合によっては、会社を辞めることにもなりかねない。
 その要因は自分の性分にあるから、どこに行っても同じようなことを繰り返してしまう」
 「人間の性分自体は変わらないが、信心によって、自分の性分を良い方向に生かしていくことができる。御書には『桜梅桃李の己己《ここ》の当体を改めずして無作三身と開見《かいけん》すれば……』(784㌻)と仰せです。
 桜は桜、梅は梅、桃は桃、李は李と、それぞれがありのままの姿で、自分を最大限に生かしながら、幸福になる道を説いているのが仏法なんです。
 すぐにカッとなる人というのは、情熱的で、正義感が強いということです。信心に励めば、つまらぬことでカッとなるのではなく、悪や不正を許さぬ正義の人になる。また、誰かの言いなりになってしまう人というのは、優しさや人と調和する力がある。その長所の部分が引き出されていくんです。そうなっていくことが人間革命なんです。
 それには、具体的にどうしていけばよいのか──これが大事です」
 「根本的には、唱題に励み、生命を磨き抜いていくことです。自身を見つめ、自分の問題点や生命の傾向性を自覚していくことが大切です。
 たとえば、誰にでも、〝不幸は人のせいだと考えてしまう〟〝堪え性がない〟〝人の意見を聞かない〟等々、それぞれ欠点がある。それは自身の成長や幸福を妨げる一凶となる。
 ところが、人間は、言われなければ、なかなかこの一凶に気づかない。だから、それを厳しく指摘し、切磋琢磨してくれる、先輩や友人をもつことが必要になる。
 この自分の一凶と戦い、転換していく、真剣な祈りがなくてはならない。
 さらに、学会活動のなかで、自分を鍛え抜いていくことです。御書には『くろがね《鉄》をよくよくきた《鍛》へばきず《疵》のあらわるるがごとし』(1083㌻)と仰せです。
 自分に負けず、一つ一つの活動に勝利していくなかに、鍛えがあり、自身の一凶に打ち勝つ人間革命の道がある。学会活動の場は、自分の生命を鍛え上げる道場です。広宣流布の使命に生きようと心を定め、自身を鍛え抜くなかに、宿命の転換もあるんです」

 12-3 自己自身に生きよ

 SGI会長は、戸田第2代会長の祥月命日を記念して行ったスピーチで、戸田会長の指導を紹介し、「自分自身に生きる」ことの大切さを強調しています。

【池田SGI会長の指針】
◎「4・2」記念各部代表懇談会でのスピーチから
(1993年4月3日、東京)

 「自己」を知り、「人間」を知り、「生命の尊さ」を知る──ここに宗教の重要な意義がある。
 戸田先生は、こう語られている。(巻頭言「自らの命に生きよ」、『戸田城聖全集』第1巻。以下同じ)
 「貧乏して悩むのも、事業に失敗して苦しむのも、夫婦げんかをして悲哀を味わうのも、あるいは火ばちにつまずいて、けがをするのも、結局、それは皆自己自身の生活である。
 すなわち、自己自身の生命現象の発露である。かく考えるならば、一切の人生生活は、自己の生命の変化である。ゆえに、よりよく変化して、絶えず幸福をつかんでいくということが大事ではないか。
 されば、自己自身に生きよ……いや、自己自身に生きる以外にはないのだ、ということを知らなければならない。あの人が、こうしてくれればよいのだとか、この世の中がこうであれば幸せなのだといって他人に生き、対境(=そとにある対象)に生きるということは間違いではないか。
 しかし、人間の力というものは弱いものである。自己自身に生きていると、いかに力んでみても、他人に支配され、対境に支配されやすいものなのである」
 「そこで、自己自身の生命が、もっとも強く、もっとも輝かしく、もっとも幸福であるためには、十界互具、一念三千の仏法に生きる以外にはないと、吾人(=私)は信ずるものである」と。
 生命力が強い人は幸せである。確信が強い人は幸福である。人生を切り開ていける。
 「弱い人」は不幸である。また、不幸を自らつくりだしてしまう。仏法の信仰は、自分自身が最も強くなるためにある。ゆえに、すべてを「信心」で受けとめ、「信心」で乗り越えていこうという生き方に、永遠の「幸せの道」がある。いちばん尊いのは「自分自身」である。皆さま方である。そのことを、大迫害を受けながら教えてくださったのが大聖人であられる。そして、この〝仏法の真髄〟を、そのまま信受し、民衆に教えたのが牧口先生、戸田先生なのである。
 われらは大確信をもって、大聖人直結の「この道」をまっしぐらに進んでまいりたい。
 戸田先生は、青年部に、こう指導された〈昭和32年(1957年)6月、男子部幹部会『戸田城聖全集』第4巻。以下同じ〉。
 「若い時代にとくに大切なものは、自分の心を信ずるということである。自分の心というものは信じがたい。中心が動揺し、迷っている若い時代は、ことにありがちである」
 「私はアメリカのポパイという漫画を見た。ポパイは、あれは弱くて負けてばかりいるが、ホウレン草を食べるとすぐ強くなる。たちまち敵を投げとばしてしまう。あれはホウレン草というものを信仰しているのである」
 「自分の心にひとつの確信なくしては、生きていけません。自分は御本尊様を信じている。だからどんなに困ってもかならず助かっていく、だいじようぶだ。この確信があれば、なにをしてもよろしい。
 人生に生きる道であるなら、正しいと思ったなら、御本尊様を信じて、御本尊様を確信の芯にするのです。病気、貧乏であろうと、絶対、克服できる。それには、信というものが、かならずなくてはならない」
 「その心が強ければ強いほど、いかなることがあっても、青年は敗れることはない。青年はみずから信ずるものをもたねばならない。みずからの心を信じなけれならない。この心はあぶないものであるから、御本尊様によってこの信をたてるのです。そうすれば、一生涯、ゆうゆうと生きていけると信じます。この立場にみずからも生き、他人をも指導していってほしい」と。
 青年をこよなく愛し、先生は何よりも喜ばれたのである。だれよりも青年に期待を寄せる先生であられた。信心の確信に満ち満ちた青年の活躍を、先生は何よりも喜ばれたのである。

 12-4 かけがいのない自分を大切に


 アメリカSGIの友との質問会において、「自分に自信が持てない」という率直な悩みに、温かな励ましのエールを贈っています。

【池田SGI会長の指針】
◎アメリカSGI文化本部代表との質問会から
  (1992年8月7日、長野)

 みんな、自信なんかありません。むしろ、ないのが普通です。
 かえって「自信がある」などという人は、傲慢な場合が多く、まわりとケンカばかりして、みんなに嫌われたりする。
 人間は自信がありすぎても不幸であるし、自信がなくても不幸である。
 要するに、大事なことは、〝自分らしく〟輝き、〝自分らしく〟一日一日を勝ち取
り、〝自分らしく〟人生を向上させていくことではないでしょうか。目的に向かって、自分で自分を錬磨していくような前進であればいいのです。
 所詮、自分は自分であり、人は人です。人と比べてどうかではない。自分の人生です。自分が心の底で現実に何を感じているかです。
 仏法では「桜梅桃李」(御書784㌻)「自体顕照」と説きます。桜は桜。桃は桃です。桜は絶対に桃なれない。なる必要もないし、なっても不幸でしょう。
 〈自体顕照=万法の本体(自体)を照らし、真理を顕すこと。 「曾谷殿御返事」(御書1055㌻)に「仏になる道は豈境智の二法にあらずや、されば境と云うは万法の体を云い智と云うは自体顕照の姿を云うなり」とある。ここでは、妙法への信仰によって、自身の生命の本来の働き、使命を発揮していく意味で使われている〉
 自分も、どこまでも自分である。なりたくても、絶対に他人にはなれない──その、かけがえのない自分を、大事にし、励まし、満足できる自身になることです。
 その根本は唱題です。妙法を唱えることによって、ありのままの姿で無作の「仏」と輝いていくことになる。ここに根本的な、最高の自信があり、この「自体顕照」の光が我が身を飾り、荘厳にしていくのです。
 堂々たる自信を持っていただきたい。〝最高の人生〟を〝美しい心〟で生きておられるのだから──。

 12-5 個性は鍛えの中に輝く

 中学生の後継の友に向けた『希望対話』では、個性とは何か、自分らしく生きるとはどういうことかについて、わかりやすく語っています。

【池田SGI会長の指針】
◎『希望対話』から 
                 (2003年6月刊)

 「個性的」になろうと思って、流行の格好をしてみる。ところが、その結果、個性的どころか、反対に、「みんな同じ」に近づいてしまう。それでは、つまらない。
 意地悪く見れば、「個性的」というひとつの「型《かた》」があって、それに合わせているようにさえ見える。しかも、その「型」は、じつは多くの場合、マスコミや商売の人たちが「つくった」ものだったり、わざと「はやらせた」ものだったりすることも非常に多い。
 だから、本当は「個性的に生きる」というのは、結構、大変なんです。個性的に生きるためには、自分というものを、しっかりもっていないといけない。「自分の目」を開いて、ものごとを見、「自分の耳」を澄ませて人の話を聞き、「自分の頭」をフル回転させて考え、「自分の信念」を貫く勇気が必要だ。
 それよりはむしろ、「みんなと同じ」という「型」に入っていたほうが「楽」なんです。
 だから、いろんな束縛から自由になろうとするときでさえ、何か人の決めた「型」に入ろうとする。日本人は、「右むけ右」の「ファッショ(全体主義)」になりやすいのです。
 本当の個性は「見た目の個性」なんかではない。内から外へと、にじみ出てくる「中身の個性」です。
 こんな言葉もある。
 「個性とは、この世界で、その人しかもっていない宝の一品である」
 その「宝」が何かは、なかなかわからないかもしれない。しかし必ず、自分だけの「宝」をもっている。もっていない人は、ただの一人もいない。絶対にいない!
 いるとしたら、「自分なんか、ダメなんだ」と、自分で決めつけてしまった人だけです。その決めつけが、自分で自分の「宝」を壊してしまうのです。
 もちろん「自分らしさ」といっても、それが、何《なん》なのかわからない――そういう人も多いでしょう。わからなくて当然なのです。
 むしろ「これが自分らしさだ」「これが自分の個性だ」と思っているものが、人の借りものにすぎない場合も多い。だから「今の自分」が自分のすべてだと思ったら、大きな間違いを犯してしまう。「人間は変わる」ものだからです。
 「今の自分」は、もっと素晴らしい「未来の自分」への出発点でしかない。
 たとえば「私は口べただから、人前に出ないよ出ないようにしよう」――こういうの「自分らしい生き方」ではない。
 口べただけれども、いじめている人を見たときには、堂々と注意していける自分になっていこう。いざというときには、勇気を出して「正しいことは正しい」と言える自分になろう――こう一生懸命に努力していくなかに、〝はじめから口達者な人〟とは違った、あなたならではの持ち味が光ってくる。これが「自分らしさ」です。
 「自分らしさ」とは――自分のもっている力を、ぎりぎりまで、しぼり出して努力したときに、初めて輝き始めるものなのです。
 自分を鍛えないと、できない。「鍛え」の中からしか、「個性」は輝かない。ちょうど「剣《つるぎ》」を炎の中で鍛えるみたいに。
 「個性」というのは、人生を切り開いていくための「自分だけの武器」なんです。「宝剣」なんです。
 そして、見事に自分の個性を鍛え上げた人は、美しい。だれが見ても、ほれぼれ
するほど美しい。すぐ消えてしまう「一時の美」ではなく、ずっと続く「一生涯の美」です。
 何より、その人自身の心が、夏の高原の青空のように、晴れ晴れとしている。その人は、人をうらやまない。人を妬まない。
 人の個性の「足を引っ張る」人が多い日本です。「出る杭は打とう」とする狭い心の日本です。それは、自分自身が、あっちを見たり、こっちを見たり、ふらふらと、ぐらついていて、個性がなく、自信がないから、他の人を妬むのです。
 その反対に、努力、努力で個性をぞんぶんに鍛え上げた人は、他の人の個性の開花を喜ぶものです。応援するものです。人の成功が、うれしいものです。人のために、尽くせるものです。
 そういう大きな心の、本当に「美しい人」に、みなさん、なってください!「あの人の生き方に憧れてしまう!」と言われる人になってください!

 12-6 自分が太陽になる

 SGI会長は、『青春対話』の中で、高校生をはじめとする青年に向けて、自分にしか果たせない使命を見つけ、輝かせていくために大切なことについて語っています。

【池田SGI会長の指針】
◎『青春対話』から 
                 (1993年3月刊)

 自分は自分らしく生き抜くところに、自分としての価値が光る。
 仏法では「自体顕照」と説く。自らの体《たい》を、本来の自分を顕現させる。顕し、輝かせていく。そして周囲を照らしていく。これが最高の「個性」であり、「独創性」です。
 大事なのは「じっとこらえて今に見ろ」の精神です。青春は、あせってはならない。君たちの人間としての真価が問われるのは十年後、二十年後、三十年後です。その時にどうかです。その時に使命を果たしたかどうかです。
 すべての人に、自分でなければできない、自分の使命がある。使命がなければ生まれてきません。
 世界には、たくさんの山がある。高い山、低い山。世界には、たくさんの川がある。長い川、短い川。しかし、みな山であり、みな川であることに違いはない。
 穏やかな万葉の奈良の山もあれば、勇壮な阿蘇がある。壮大な白雪のヒマラヤもあります。それぞれに美しいし、味がある。川も、 鮭の故郷となる石狩川もあれば、詩情の千曲川もある。対岸が見えないだ大黄河があり、アマゾン川がある。その川にしかない魅力がある。
 人間も、それぞれの使命があって存在するのです。いわんや若くして、妙法に縁した君たちです。君には君でなければできない、君の使命がある。必ずある。そう確信し、誇りをもってもらいたい。
 (自分の使命を見つけるにはためには)じっとしていたのではわからない。何でもいい、何かに挑戦することです。その努力の積み重ねのなかから、自然に方向性が決まつてくるものです。だから、今、自分がやるべきことは何なのか、それを避けてはいけない。
 「目の前の山を登れ」ということです。山に登れば、ともかく足は鍛えられる。鍛えられた分、次のもっと大きい山に挑戦できる。この繰り返しです。そのための生命力を自分の中から、わきたたせていくのが唱題です。
 題目をあげて、「目の前の山に登れ」。登った山頂から、もっと広い人生が見えてくる。自分だけの使命も、だんだんと、わかってくるのです。
 「使命があるんだ」ということを忘れない人は、強い。どんな悩みがあっても、負けない。悩みを全部、希望へのエネルギーに変えていけるのです。
 「自分が太陽になる」ことです。そうすれば、すべての闇は消える。
 何があっても、「私は太陽なんだ」と、悠然と生きるのです。もちろん、太陽といっても、曇の日もある。しかし曇っていても、太陽は太陽だ。人間も、苦しんでいても、心は輝きを失ってはならない。
        *
 だれにでも、自分にしかできない自分の使命がある。しかし、その使命は、努力もしないで、いつかだれかが教えてくれるわけではない。自分で見つけるのが根本です。
 宝石だって、初めは鉱山の中に埋まっている。掘り出す努力をしなければ埋まったままです。掘り出してからも磨かなければ原石のままです。
 諸君は、皆、絶対に宝石をもっている。全員が「宝石を秘めた山」です。それを埋めたまま一生を終わってはつまらない。
 「だれでも、何かの天才である」という言葉がある。音楽や文学やスポーツの天才だけが天才ではない。人と話す天才、友達をつくる天才、人を和やかにする天才、看護の天才、ジョークの天才、物を売る天才、節約の天才、時間を守る天才、忍耐の天才、地道の天才、優しさの天才、チャレンジの天才、楽観主義の天才、平和の天才、人を幸福にする天才……。
 「桜梅桃李」です。桜は桜、梅は梅です。自分らしく咲けばよいのです。自分の宝石、自分の天分が必ずある。それがわかるためには、どうすればいいか。
 限界まで努力するしかない。勉強でもスポーツでも何でも、限界まで全力疾走して初めて、自分の力が引き出される。
 いちばん大切なことは、そうやって「限界まで努力する」習慣を身につけることなのです。ある意味で、結果は大した問題ではない。高校時代の成績等は、それ自体が人生を決めるのではない。ただ、「限界まで努力する」習慣が身についた人は、その後、何をやっても、その習慣を発揮して、必ず頭角を現すものです。自分の天分も光らせることができる。
 「人間は自分の夢以上にはなれない」とも言われる。夢は大きくていい。そのうえで、夢は夢、現実は現実です。大きな夢を実現するためには、現実を冷静に見つめて「死にもの狂いの努力」が必要なのは当然です。戸田先生は「青年は、何かで第一人者になろうというだけの執念をもつことだ」と言われた。執念です。自分の宝石を光らせることは、なまやさしい努力ではできない。

 12-7 伸び伸びと着実な前進を


 かつてインドを訪問したSGI会長は、メンバーと闊達な質問会を行いました。そのなかで、壮年メンバーの真剣ゆえの悩みを、大きく包み込むように激励しています。

【池田SGI会長の指針】
◎記念勤行会での質問会から
         (1992年2月16日、インド)

 (SGIの指導として、「雄弁」や「知性」「慈愛」などが目標に挙げられていますが、自分はなかなか実行できません」との壮年の声に)
 ありのままの自分でよいのです。題目をあげきりながら、自分らしく、伸び伸びとと進んでいけばよいのです。自体顕照です。本来の自分自身を輝かせていくのが大聖人の仏法です。そうでなければ、偽善者になってしまう。
 人間革命への努力は、当然、必要ですが、つくられた「雄弁」や、つくられた「慈愛」、見せかけの「知性」など必要ありません。
 日々、題目をあげて、皆の幸せを祈っていく。また、できる限り人に親切にし、優しくし、自分の人格を磨ていく。そうした努力を重ねることは大切でしょう。
 しかし、なかなか奥さんも大事にできないのに、他人を大事にできるわけがない(笑い)。「慈悲」なんか、なかなか出るものではありません。このことは戸田先生も、よく言われていた。
 ありのままの「凡夫」そのもので進んでいく。題目根本に、少ししずでも向上していく。これが正しい姿であり、人間らしい生き方ではないでしょうか。仏法は無理のない、万人に開かれた大法なのです。

 12-8 皆、尊い使命がある

 誰も皆、かけがえのない使命があり、かけがえのない個性がある。この仏法の洞察に立てば、互いの個性を認め合い、違いを尊重する百花繚乱の世界が広がっていくと語っています。


【池田SGI会長の指針】
◎『青春対話』から 
                 (1993年3月刊)

 春が近づいてきた。梅が咲き、桃が開き、もうすぐ桜の季節になる。
 「冬来たりなば、春遠からじ」(「西風に寄す」から)と詩人のシェリーは歌ったが、どんなに苦しく寒い冬が続いても、冬は必ず春となるのです。
 これが宇宙の法則であり、生命の法則です。だから人間も、どんなにつらい冬が続いても、希望を捨ててはいけない。希望をなくさない限り、必ず春が来る。春とは「開花」の季節です。
 何度も言うように、仏法では「桜梅桃李」と説いている。桜には桜の美しさがある。梅には梅の香りがある。桃には桃の彩りがある。李には李の味わいがある。
 人それぞれに使命があり、個性があり、生き方がある。それを認め、尊重することです。それが自然です。
 現に、花たちの世界はそうなっている。百花繚乱です。
 ところが人間の世界は、違いを尊重できないで、「差別」をしたり、「いじめ」をしたりする。人権の破壊です。ここに根本的な不幸が生まれる。
 だれもが、人間として、人間らしく開花し、人間としての使命をまっとうしていく権利がある。自分にもある。人にもある。それが人権です。
 人権を尊重しないだけでなく人権を侵害するのは、すべての秩序を破壊しているようなものです。人権を大切にし、人を尊敬できる――そういう「自分自身の確立」が必要です。

 12-9 多様性輝く調和の世界を


 SGI会長は、ハワイの東西センターで行った記念講演の中で、桜梅桃李の法理に触れながら、仏法に脈打つ多様性の尊重、縁起観に根ざした自他共の尊厳について論じました。他者の多様性を敬うことが、自らの本然の輝きを増していくのです。

【池田SGI会長の指針】
◎東西センター記念講演「平和と人間ための安全保障」から
 (1995年1月26日、アメリカ) 

 仏典に「 桜梅桃李の己己の当体を改めずして」(御書748㌻)とあります。すべてが桜に、あるいはすべてが梅になる必要はない。なれるはずもない。桜は桜、梅は梅、桃は桃、李は李として、それぞれが個性豊かに輝いていけばよい。それが一番正しいというのであります。
 もとより「 桜梅桃李」とは一つの譬喩であって、それが人間であれ、社会であれ、草木国土であれ、多様性の重視という点では原理は同じであります。
 「自体顕照」というごとく、自らの本然《ほんねん》の個性を、内から最高に開花させていく。しかも、その個性は、いたずらに他の個性とぶつかったり、他の犠牲のうえに成り立つものではない。相互の差異を慈しみながら、花園のような調和を織り成していく。そこに、仏教の本領があるのであります。
 仏典には、「鏡に向って礼拝を成す時浮べる影又我を礼拝するなり」(同769㌻)――鏡に向かって礼拝すれば、映る姿もまた、私自身を礼拝するのである――という美しい譬えがあります。
 仏教の精髄ともいうべき、万有を貫く「 因果律」のうえから、他者の生命への尊敬が、そのまま鏡のごとく、自身の生命を荘厳していくという道理が示されているのであります。
 このように、人間や自然の万象は、縁りて生起する相互関係性のなかで、互いの特質を尊重し、生かし合いながら存在していくべきことを促しているのが、仏教の縁起観なのであります。

 12-10 自他共に向上する智慧

 SGI会長は、1998年の「SGIの日」記念提言において、調和と共生の世界を構築しゆく視座として、桜梅桃李の思想を提示しています。この哲理に立脚するとき、自他共に向上する智慧が薫発され、いかなる差異も新たな価値創造の源泉となる。そのためにも、 一人一人の可能性を引き出す人間教育が大切であると論じています。

【池田SGI会長の指針】
◎第23回「SGIの日」記念提言「万年の遠征――カオスからコスモスへ」から
                          (1998年1月26日)

 真の教育とは(イデオロギー教育などのように)人間を一様性の鋳型にはめこもうとするのではなく、人間と人間、師匠と弟子という、精神と精神との撃ち合いのなか、人間の内なる善性を薫発し、自己抑制や他者への共感を通じて、多様な個性を開花させゆく直道であります。
 仏法の知見には、「桜梅桃李」といって、桜は桜、梅は梅、桃は桃、李は李というように、それぞれの差異を認め合ったうえで、皆が平等に、自分自身を光輝あらしめ、麗しい人間共和の世界を築いていく、人間や文化の多様性を最大に尊重し、生かし、また調和させゆく哲理があります。
 この点、牧口初代会長の教育哲学にも造詣が深く、アメリカ哲学界の権威の一人であった、今は亡きデイビッド・ノートン博士は、この「桜梅桃李」という仏法思想の意義を、教育という観点から次のように語っております。
 「来るべき再編された世界のために、教育者が果たすべき責務は、生徒たちの中に自分たちのものとは違った文化、信条、実践に対する理解と尊敬の念を育むことです。これはちょうど、桜、梅、桃、李のそれぞれが、独自の美の側面を表しているように、他の文化や信条、実践が、真実と善の側面を具現しているとの認識の上に立ったとき、初めて可能になると思います。このことは、生徒たちが、一番慣れ親しんでいる信条、実践が真実と善を独占しているという考え方――つまり、パロキアリズム(偏狭性)、狭量な心――を捨て去ることを意味します」(「世界市民と人間教育」、「聖教新聞」1991年10月27日付)と。
 思えば、戸田第2代会長は、東西冷戦のイデオロギー対立が鮮しさを増ますなかで、戦後いち早く「地球民族主義」を主張しましたが、これは今日的にいえば、狭隘なナショナリズムや自己中心主義からの脱却を目指す「地球市民主義」と同根であり、その先見的な思想であったといえるでしょう。
 「文明の衝突」論に見受けられるように、文明間の対立は不可避であるとの見方が一部でありますが、私は、仮に衝突するとしても、それは文明と文明ではなく、それぞれの文明に〝宿痾〟のようにひそむ野蛮(蛮性)同士であろうと思うのです。短兵急な押し付け合いではなく、忍耐強く、長い時間をかけて接触を続けていくならば、本来、文化とは人間性を豊かにするものであり、文化間の差異はむしろ新しい価値創造の源泉と捉えるべきものなのです。
 そこで宗教が薫発すべきは、〝自他ともに向上するための智慧〟であらねばならない。仏典に、「妙と申す事は開《かい》と云う事なり」(御書943㌻)とあるように、人間の生命には、どこまでも可能性を開き、向上しようという特性があり、その特性を最大限に発揮させていくための宗教こそが、今まさに要請されているのであります。これまでの人類の歴史には、宗教が原因となって血で血を洗う悲劇が幾度となく引き起こされました。その流転を止めるためにも、「まことの・みち《道》は世間の事法」(御書1597㌻)と仰せのごとく、宗教は「民衆に応える」「社会的課題に応える」という点を第一義とし、また平和的競争の精神基盤となるものでなければならないと思われます。
 ともあれ、戸田第2代会長が難じていた狭隘な自己中心主義を乗り越え、同じ地球社会に生きる隣人として、牧口初代会長の提唱した人道的競争=「共創《きょうそう》」を通し、希望の未来を開いていく――私どもSGIが目指す「人間革命」運動の眼目はこの一点にあります。
2015-07-03 : 池田SGI会長指導選集 :
Pagetop

池田SGI会長指導選集 「幸福と平和を創る智慧」 第2部 第11章 11-1〜11-7

池田SGI会長指導選集 「幸福と平和を創る智慧」

第2部 人間革命の実践

第11章 「病によりて道心はをこり候」


この章を読むに当たって

 生老病死は戦いです。なかんずく、病とどう向き合い、どう乗り越えていくかは、万人が直面する課題といえます。仏法の叡智は、病気を、忌《い》むべきものではなく、仏の境涯を開きゆく人間革命の契機と捉えます。
 かつて、池田SGI会長は、夫が病に倒れた婦人部の友を、力強く励ましました。
 「断じて健康にしてみせるという強い祈りに立つことです。その一念通りに開かれていきます。それが一念三千の仏法です。
 病魔に紛動されてはいけない。『私たちの人生は楽しい人生だ。何があっても幸福な人生だ』と決めていくのです。『どんな状況であろうと、最高に幸福な我が家を築いてみせる』―― この一念でいくんです。
 『南無妙法蓮華経は師子吼の如し・いかなる病さはり《障》をなすべきや』です。たとえ病気であったとしても、それが幸福への妨げにはならない。むしろ『病ある人仏になる』と捉えるのが仏法です。
 仏法の眼から見れば、三世から見れば、全て、幸福になるための、成仏していくための姿なのだから、何も心配ありません。ご主人と一緒に、朗らかに、堂々と、勝利の人生を生ききってください」
 仏法に生き抜く人は、何があっても楽しく、何があっても朗らかに、病をも人生勝利の原動力に変えていくことができます。本章では、この仏法の智慧に基づいた池田SGI会長の哲学と洞察を収めています。

 11-1 病気と闘いが生命を健康にする

 御書に「このやまひは仏の御はからひか・そのゆへは浄名経・涅槃経には病ある人仏になるべきよしとかれて候、病によりて道心はをこりて候なり」(1480㌻)と仰せです。病気によって、信心を深め、仏の境涯を開くことができるのです。ここでは、そうした病気の捉え方を明確に示しています。

【池田SGI会長の指針】
◎『健康の智慧』から 
                  (1997年2月刊)

 「生」「老」「病」「死」を四苦といって、仏法は「病苦」を人間の根本的苦悩の一つとしています。その解決をめざすという点では、医学も目的は同じだと思います。心身ともに、はつらつと、充実した日々を生きるには、何が必要なのか――。
 「病気がない」だけが「健康」なのではない。一生涯、何かに挑戦する。何かを創造する。前へ前へと自分の世界を広げていく――この〝創造的人生〟こそ真の〝健康人生〟ではないだろうか。
 戸田先生は、現代人に二つの誤りがあると言われていた。一つは「知識と智慧」の混同。もう一つは「病気と死」の混同です。
 「知識と智慧」はイコールではない。その関係については、いろいろ論じられます。
 今、医学と仏法について、大ざっぱに言えば、医学は「知識」を使って病気と闘う。一方、仏法は、人間の「智慧」を開発して、自身の生命のリズムを調整する。また生命力を高める。そうすることによって、医学知識の助けを得ながら、みずから病気を克服する、という関係になるのではないだろうか。
 要するに、「医学」を無視したり、否定するのは愚かです。それでは〝狂信〟になりかねない。病気を克服するためには、「医学」を賢明に活用することです。その「智慧」を引き出すのが仏法です。
 「健康」も「智慧」です。「長生き」も「智慧」です。「幸福」には「智慧」が必要なのです。「健康の世紀」とは、「智慧の世紀」と言えるでしょう。
 「病気」と「死」について、「病気」は必ずしも「死」にはつながらない。御書に「病によりて道心はをこり候なり」(1480㌻)と仰せのように、病気が自分自身を見つめ、生命と人生を見つめる大きなきっかけになる場合がある。
 病気と闘うからこそ、人生の裏表もわかるし、不屈の精神力も鍛えられるのです。私自身も幼いころから病弱だった。結核のせいもあって、医師から、30歳まで生きられるかどうか、と言われた体です。しかし、だからこそ病弱な人の心もわかるようになった。だからこそ、一瞬一瞬を大切に生きよう、片時もむだにせず、生あるうちになすべきことをなそう、と完全燃焼で生きてこられたのです。
 体が健康でも生命が病んでいる人は、たくさんいる。体が病気でも、生命それ自体は健康である人もいます。また、生きているかぎり、何らかの病気はあるでしょう。だから、どう病気と上手につきあうか、という智慧が大事なのです。

 11-2 「少老病死」を「常楽我浄」に

 SGI会長は折々に、病気と闘う友に、病に負けずに常楽我浄の人生をと、温かな励ましを送っています。


【池田SGI会長の指針】
◎『若き君へ――新時代の主役に語る』から
  
             (2012年7月25日、26日、27日、「聖教新聞」掲載)

 「生老病死」は誰も逃れられない。その意味で、一生が病との闘いです。ゆえに、病気を恐れることはない。しかし、侮ってもいけません。迅速に具体的な治療に励むことが大切です。
 御聖訓には「この病は仏のお計らいだろうか。そのわけは、浄名経、涅槃経には病がある人は仏になると説かれている。病によって仏道を求める心は起こるものである」(御書1480㌻、通解)と御断言です。
 病気という苦難を糧にして、自分の信心を強め、境涯を深め広げていくことができるのです。
 病気との闘いは、妙法に照らして、永遠の次元から見れば、すべてが幸福になり、勝利するための試練です。
 健康は、何があっても負けない自分自身の前向きな生き方の中にこそあるのです。「生老病死」の苦しみを転じて、最高の「常楽我浄」の人生を勝ち抜いていくのです。これが「創価」の生命です。
 病気になることは、決して敗北などではない。信心が弱いからでもない。広宣流布に生き抜く中で起きた病気という苦難は、成仏を阻もうとする魔の働きである。ゆえに、怯んではならない。
 勇敢に立ち向かって、一生成仏を勝ち開いていく勇気を教えられているのです。
 大事なことは、病気になった時にこそ、いよいよ強盛の大信力を奮い起こしていくことです。今こそ、信心の偉大な力を発揮するのだ! 人間として大きく飛躍するのだ! と腹を決めて、題目を唱えていくのです。
 「南無妙法蓮華経は師子吼の如し・いかなる病さはり《障》をなすべきや」(同1124㌻)です。あらゆる病苦を打開する根源の力が、妙法にはある。妙法は最強の「生命の大良薬」です。戸田先生もよく「人間の体は一大製薬工場だ」と言われていました。
 今、受けている治療が最高の効果を発揮していくよう、全身に仏の大生命力を現して病魔を打ち破っていくよう、祈り抜き、祈り切ることです。信心を根本に戦っていくならば、必ず一切を変毒為薬できます。
 「妙とは蘇生の義」(同947㌻)です。
 大聖人は、病気の家族を抱えた門下に、こう仰せです。
 「それは、決して鬼神の仕業ではないでしょう。十羅刹女が、信心の強さをお試しなのでしょう」(同1544㌻、趣意)
 諸天善神が守らないわけがない。絶対に一家で乗り越えられると励ましてくださっています。
 御書には、「大闇《おおやみ》をば日輪(=太陽)やぶる」「法華経は日輪のごとし」(1114㌻)とも仰せです。妙法を唱え、実践する私たちの胸中には、赫々たる希望の太陽が昇る。あらゆる闇を打ち晴らし、どんな宿命の鉄鎖をも断ち切っていけるのです。
 自他共の病気との闘いの中で、人間として本当に輝く健康体を勝ち取っていくことができる。ゆえに、一切を御本尊に任せて祈るのです。臆さず、粘り強く、戦うのです。断じて負けてはいけない。一歩も退いてはいけない。最後は必ず勝利するのだから!
        ◇
(うつ病など心の病について)
 長い人生だし、決して焦る必要はありません。専門家に相談して、じっくりと適切な治療を行っていただきたい。
 皆、いろいろな状況がある。一律に「こうすればいい」という処方箋はありません。
 でも、一点。妙法を持《たも》った皆さんが不幸になることは絶対にないと、私は断言できます。
 周りの人は、病気で苦しむ本人を温かく、また長い目で見守りながら、ご家族に真心からの励ましを送っていただきたい。
 側《そば》で支えてくださっている方々は大変です。時には工夫して、休息をとっていただきたい。
 心の病を抱えた人を大切にすることは、本当に深い慈悲の境涯を開いていくことです。豊かな人間性の社会を築いていくことです。
 ともあれ、悩んだ人ほど偉大になれる。つらい思いをした人ほど、多くの人を救っていける。偉大な使命があるんです。これが仏法です。菩薩道の人生です。
 戸田先生は「時には、〝貧乏菩薩〟や〝病気菩薩〟のように見えるかもしれない。しかし、それは人生の劇を演じているんだよ。正真正銘の地涌の菩薩なんだ」と、よく言われていた。
 また「大病を患った人は人生の深さを知っている」と語っておられた。全部、意味があるのです。
 日蓮大聖人は「三千大千世界(大宇宙)に満ちる珍宝をもってしても、命に替えることはできない」(同1975㌻、通解)と仰せです。病気の姿を現していても、その生命の偉大さ、尊さ、素晴らしさには何の変わりもありません。皆さん全員が、一人も残らず、最高に尊貴な宝の存在なのです。

 11-3 題目は生命力の源泉

 病気と向き合い、病気を人間革命の契機としていく原動力こそ、題目であると訴えています。

【池田SGI会長の指針】
◎代表幹部会でのスピーチから 
         (2005年8月15日、長野)

 私と妻は、全ての同志の「健康勝利の前進」を毎日、真剣に祈っている。
 なかには、病と懸命に闘っておられる方もいらっしゃるだろう。しかし、病気だから不幸なのではない。病気だから立ち上がれないということはない。妙法を持《たも》った人間が、不幸になるわけがない。
 スイスの哲学者ヒルティは言う。
 「病気は、より高い人生の階段を登ってゆく通路にすぎない」(『病める魂』斎藤栄治訳、『ヒルティ著作集』8所収、白水社)
 病気をした人は、その分、人のことを思いやれる。慈愛が深まる。病気は、いろいろなことを教えてくれる。死を見つめたり、生きる意味を考えたり、人生のかけがえのなさが見えてくるものだ。すべて、より高い人生の頂へと登っていくための通路なのだ。教科書なのである。いわんや、妙法を根本にすれば、 一切が「幸福のエネルギー」となり、「向上の糧」となっていくのである。
 戸田先生は、大確信をもって言われた。
 「(御本尊の利益は)生命力が絶対的に旺盛になるということである。生命力が旺盛であれば、悩みだ、苦しみだ、貧乏だなどと、いろいろな愚癡をいう世界が、明るい楽しい世界に変わる」
 「題目の力は偉大である。苦しい業を感ずる生命が、あたかも美しい花園に遊ぶがごとき、安らかな夢のごとき状態に変化するのである」
 苦しい時こそ題目。行き詰まったら題目だ。題目をあげれば、生命力がわく。勇気きがわく。状況も変えていける。信心は、 一切の勝利のエンジンなのである。

 11-4 病も価値創造の原動力に

 仏法の智慧は、病気をも価値創造の力にしていくことができます。病魔と闘い、断じて生き抜こうとする強い一念に立ってこそ、偉大な人間革命を成し遂げることができるのです。


【池田SGI会長の指針】
◎『御書の世界』から
               (第3巻、2005年3月刊)

 よく戸田先生が語られていた。
 「病気になるのも自然の道理です。同時に、病気になった体から、病気を治す力
ちからも人間には備わっている」
 御書に「三界《さんがい》之相《しそう》とは生老病死なり」(753㌻)と仰せです。病気そのものも人生の一つの相である。
 病気になるから人生の敗北があるのでは断じてない。
 まして、「病気になったから信心がない」などと、周囲の人が決めつけるのは、あまりにも無慈悲です。病気と闘う友には、心から励ましてこそ同志愛です。
 門下が病気になった時は、大聖人御自身が、全力で励まされている。
 病気と闘う力の究極が、南無妙法蓮華経の師子吼です。
 「南無妙法蓮華経は師子吼の如し・いかなる病さはり《障》をなすべきや」(御書1124㌻)との仰せを絶対に忘わすれてはならない。
 病気との対決を通して、新たな生命の充実をもたらしてこそ価値創造の人生です。だからこそ、あらゆる障魔と戦い抜く師子王の心が大切になってくる。
 「負けない魂」「負けじ魂」です。だからこそ日々、「信」「行」にわたり、また自行化他にわたって南無妙法蓮華経と唱え、いかなる病魔にも狂わされない強き信心の一念を鍛えていくことが大切なのです。
 大聖人は、富木尼が重い病気になった時に、何度も何度も激励を繰り返されていました。勇気を吹き込まれていた。
 〈大聖人は「尼ごぜん又法華経の行者なり御信心月のまさるがごとく・しを《潮》のみつがごとし、いかでか病も失せ寿《いのち》ものびざるべきと強盛にをぼしめし身を持《じ》し心に物をなげかざれ」(975㌻)と激励されています〉
 「なげかざれ」です。戦う心が大切です。法華経の行者としての気迫です。また「身を持し」とも仰せです。病気を治すための、しっかりとした行動が大事です。
 最初から〝病気に負けよう〟なんて思っている人はいない。しかし、病気のために、生活や仕事に支障をきたし、弱気になり、絶望感が募るような場合もある。
 おそらく、富木尼の場合も、なかなか良くならないことから、あきらめの気持ちが芽生えてしまったのかもしれない。大聖人は、〝生きて生きて生き抜きなさい〟と指導されている。
 〈富木尼に与えられた「可延定業書」に、「命というものは、この身の中で一番貴重な宝です。一日であっても命を延ばすならば、千万両もの莫大な金にもまさるものです。(中略)早く志の財を積み重ねて急いで急いで病を治しなさい」(同986㌻、趣意)とある〉
 もちろん、信心していて短命の場合もある。しかし、必ず深い意味がある。人生の価値は寿命の長さで決まるものではない。
 「百二十まで持《も》ちて名を・くた《腐》して死せんよりは生きて一日なりとも名をあげん事こそ大切なれ」(同1173㌻)と仰せです。
 ただ、ここで大聖人が富木尼に強調されているのは、「志の財」と仰せのように、「生きぬこうとする意志」です。意欲と言ってもいいかもしれない。
 私たちの一日の生命は、広宣流布に直結した生命です。一日の活動が、そのまま広宣流布の大願成就につながっていく。
 だから絶対に病魔、障魔に負けてはならない。
 大聖人は、病は仏の御《おん》はからいであると仰せられている。病によって求道心が起こるからです
 私たちが、現実社会の万人に向かって、慈悲の振る舞いをするための長寿であり、健康です。
 もちろん、自分自身のために健康・長寿を祈っていくことは当然です。まして不節制や油断から、自分の健康を損ねてしまっては反価値的行為です。
 生活は賢くなければいけない。その日のうちに疲れを取るとか、疲れたら休むとか、賢明な行動で健康は勝ち取るものです。健康は賢者の勲章です。
 そのうえで、何のための健康なのか、何のための長寿なのか。法のため、家族のため、同志のため、民衆のため、わが使命の実現のため、広宣流布の大願成就のための健康・長寿です。
 大事なことは、広宣流布のなかで戦う生老病死です。その姿そのものが、三世永遠の常楽我浄の実証です。
 生老病死は忌むべき苦悩ではなく、常楽我浄の凱歌をとどろかす生命の舞台です。私たちは、生老病死のドラマを通して、人間勝利の歓喜の劇を演じているのです。

 11-5 題いかなる病も幸福への障害にはならない

 小説『新・人間革命』では、関西を訪問した山本伸一会長が、体調が優れない壮年部の友を励ます場面が描かれています。

【池田SGI会長の指針】
◎小説『新・人間革命』第10巻「桂冠」から 
        (2001年10月刊)

 「寿量品に『更賜寿命』(更に寿命を賜う)とありますが、死ななければならない寿命さえも延ばしていけるのが仏法です。強盛に信心に励んでいくならば、ほかの病が克服できないわけがありません。どうか、たくさんお題目を唱え、うんと長生きをしてください」
 「大聖人は、病の原因について、天台大師の『摩訶止観』を引かれて、こう述べられています。『一には四大《しだい》順《じゅん》ならざる故に病む・二には飲食《おんじき》節ならざる故に病む・三には坐禅調わざる故に病む・四には鬼《き》便りを得《う》る・五には魔の所為・六には業の起るが故に病む』(御書1009㌻)」
 ──この意味を詳述すると、次のようになる。
 最初にある「四大順ならざる」の四大は、地・水・火・風をいう。東洋思想では、大自然も、また人間の身体を含めた宇宙の万物も、四大から構成されていると教えている。「四大順ならざる故に病む」とは、気候の不順等で大自然の調和が乱れると、人間の身体に重大な影響をもたらし、各種の病気が発生することをいう。
 第二の「飲食節ならざる故に」と、第三の「坐禅調わざる故に」は、飲食と生活の不節制のことである。
 生活のリズムが乱れ、その結果、食生活が不節制になったり、また、運動不足や睡眠不足になると、内臓や神経、筋肉の病気につながっていくことをいわれたものである。
 さらに、第四の「鬼便りを得る」の鬼は、身体の外側から襲いかかる病因であり、細菌、ウイルス等々の病原性微生物もあれば、外界からのさまざまなストレスも、ここに含まれるといえる。
 第五の「魔の所為」とは、生命に内在する各種の衝動や欲求などが、心身の正常な働きを混乱させることである。この「魔の所為」によって、仏道修行を妨げるための病が起きる。
 第六の「業の起るが故に」は、生命の内奥から起こる病気の原因である。生命自体がもつ歪み、傾向性、宿業が、病気の原因になっている場合をいう。仏法では、この生命の歪みを「業」ととらえているのである。
 病気の原因は、このように六種に分けて考えることができるが、具体的な病気について分析してみると、これらのうちの、幾つかの原因が重なり合っている場合が多い。
 インフルエンザの流行を例にとれば、ウイルスが原因であり、それは「鬼便りを得る」にあたると考えることができる。しかし、この「鬼便りを得る」には、気候の不順等、つまり「四大順ならざる」ことが引き金になったり、「飲食節ならざる」生活から体力を弱め、それが機縁になったとみることもできよう。
 さらに、その奥には、仏道修行を妨げようとする魔の働きがあったという場合もあるし、人によっては、「業」まで考慮しなければならない場合もある。
 伸一は、この病の起こる六つの原因を、御書の御文に即して、詳細に説明していった。
 「つまり、病気を防ぐには、まず、環境の変化に適応できるように、衣服などにも十分に気をつけることが大事です。また、規則正しい生活をし、暴飲暴食を慎み、運動不足、睡眠不足にならないようにすることです。
 これで、三番目までの病の原因は除けます。この予防のための知恵を働かせていくことが信心です。また、医学の力を借りることによって、第四の細菌などによる病の原因も、除くことはできます。ただし、どんな病気でも、それを、どれだけ早く治せるかどうかは、生命力によります。その生命力の源泉こそ、信心なんです。
 また、同じ病気であっても、その根本原因が『魔』と『業』によるものである場合には、いかに医学の力を尽くしても、それだけでは治りません。
 御本尊への強い信心によって、『魔』を打ち破り、『業』を転換していく以外にないんです」
        ◇
 (〝糖尿病で、インシュリンの注射を続けているが、医師から、一生、治らないと言われ、人生の希望を断たれたように感じている〟との壮年の声に)
 「強盛に信心に励んでいくならば、持病があっても、必ず希望に満ちあふれた、最高に幸福で、充実した人生が歩めます。御書には、『南無妙法蓮華経は師子吼の如し・いかなる病さは《障》りをなすべきや』(1124㌻)と仰せです。南無妙法蓮華経は師子吼です。その声を聞けば、どんなに獰猛な動物も逃げ出すように、いかなる病も、幸福への、また、広宣流布への障害にはなりません。
 現代人は、みんな〝半健康〟であるといわれるぐらい、なんらかの病気をかかえているし、年齢とともに、体も弱っていきます。
 では、病気だから不幸なのか。決して、そうではない。病に負けて、希望を失ってしまうから不幸なんです。広布の使命を忘れてしまうから不幸なんです。
 体は健康でも、精神が不健康で、不幸な人は、たくさんいます。反対に、病気をかかえたり、体が不自由であっても、自らも幸福を満喫し、人をも幸福にしている同志もいる。
 生命の根源においては、健康と病気は、本来、一体であり、〝健病不二〟なんです。ある時は、健康な状態として現れることもあれば、ある時は病気の状態となって現れることもある。この両者は、互いに関連し合っているがゆえに、信心に励み、病気と闘うことによって、心身ともに、真実の健康を確立していくことができるんです」
 インシュリンの注射を続けることは、大変かもしれない。でも、考えてみれば、人間は、毎日、食事をし、睡眠をとらなければ、生きていけないではないですか。そこに、もう一つ、やることが加わっただけだと思えばいいではないですか。打ちひしがれていても、何も開けません。
 あなたの場合は、病気をかかえていても、『あそこまで、元気に生きられるんだ』『あれほど、長生きができるんだ』『あんなに幸福になれるんだ』と、同じ病をもった方が、感嘆するような、人生を歩んでいってください。そうすれば、仏法の力の見事な証明になります。それが、あなたの使命です。絶対に、自分に負けてはいけない。頑張るんです。挑戦し抜くんですよ
 広宣流布に生き抜く人を、大聖人がお守りくださらないはずがありません。
 大聖人は、南条時光が病にかかった時、お手紙に、こう記されています。
 『鬼神め《奴》らめ此の人をなやますは剣《つるぎ》をさか《逆》さまに・のむか又大火をいだくか、三世十方の仏の大怨敵となるか』(御書1687㌻)
 日蓮門下を病で苦しめる鬼神は、『剣《つるぎ》を逆さまにして飲むことになるぞ。大きな火を抱き、身を焼かれることになるぞ。全宇宙の仏の大怨敵になるぞ』と、鬼神をも激しく叱咤し、門下を守ってくださっている。
 私たちは、この大聖人の大確信、御一念に包まれているんです。
 ですから、皆さんも、『鬼神めらめ! 絶対にお前たちなどに負けるか!』という大信念と不屈の心をもつことです。勇気を奮い起こすことです。
 かつては、私も病弱で、医者からは、『三十まで生きられないだろう』と言われていた体です。しかし、今は、元気になり、どんな激務にも耐えられるようになりました。
 皆さんも、必ず健康になれます!」

 11-6 信心とは律じ抜くこと

 病病気の苦しみや死の恐怖を乗り越えて、荘厳な生のドラマを綴り残した一人の少女の話を紹介しながら、たとえ病気を抱えたままであっても、強盛な信心を貫いていけば、必ずや勝利の人生を飾っていけると語っています。


【池田SGI会長の指針】
◎『青春対話2』から 
                  (2000年9月刊)

 「生と死」の法則 は、全宇宙に通じる普遍的なものです。しかし、その表れ方は、どこまでも個別的であり、人によって千差万別です。あまりにも複雑に、いろいろなものがからみ合っている。
 たとえば、「定業《じょうごう》」と言って、その人の過去世の行いによって、寿命とか根本的な軌道が決まっている面がある。
 また「不定業《ふじょうごう》」と言って、報いを受けるかどうか決まっていないものもある。病気に譬えれば、定業は「重病」であり、不定業は風邪みたいな「軽病」です。
 だれが悪いのでもない。「自分は、どうして、こんな家に生まれたんだろう」「自分は、どうして、もっと美人に生まれなかったんだろう」とか悩む人もいるだろうが、全部、自分の過去の「行い」が招いた結果です。
 業《ごう》とは「行い」のことです。心に思ったこと、口で言ったこと、実際にやったこと、そういう「行い」が、すべて自分の生命に刻まれる。善の行いをすれば、幸福な善い結果が、悪の行いをすれば、不幸な悪い結果が、いつか出てくる。
 生命に刻まれた善悪のエネルギーは、死によっても消えない。次の生へも続いて、持ち越していく。「エネルギー不滅の法則」に似ているかもしれない。
 そういう「宿業」も、しかし日蓮大聖人の仏法では全部、転換できるのです。
 定業も転換できる。いな、転換しなければならない。
 どんな苦しいことがあろうと、最後の最後まで生きぬき、戦いぬき、勝たねばならない。最後に勝てば、その人が「人生の勝者」です。途中で決まるのではない。最後に勝てば、それまでのすべてが「意味があった」と言える。
 最後に負ければ、それまで、どんなに順調でも、すべて無意味になってしまう。
 (たとえ病気が治らなくとも)本当に強盛な信心を貫いて死んだ場合は、その人は「勝った」のです。
 自分が病気で苦しみながら、最後まで広布のために祈り、友のために祈り、周囲の人を励ましながら亡くなった人も、いっぱいいます。
 そういう生き方、死に方が、どれほど多くの人に「勇気」を与えたかわからない。すぐに健康な体で生まれてきます。
 ある少女は、11歳のときに脳腫瘍になり、14歳で亡くなった。
 しかし、病院の大人の人たちにも「明るさを分けてあげる」くらい快活に振る舞っていた。病気が、どんなに苦しかったか、わからない。しかし彼女は題目をあげぬいて、皆を励ましていった。
 そして最後には、お見舞いにきた人に、こう言っていた。
 「私ね、病気なんて、どうなってもいいんだ。自分のこと祈るのなんか、もうやめたの。私より不幸な人がいるんだもの。その人が、この信心をやって、一日も早く御本尊のすばらしさをわかるように、一生懸命、祈るんだ」
 そして家族にも、にこやかに、こう語ったそうだ。
 「もし、この病気、お父さんがなったらどうする? 困るでしょ! お母さんがなっても困るし、弟がなったら乗り越えられない。だから、私がなってよかったんだよ」
 「私は、きっと生まれる前に、こうなることを約束してきたんだと思うの。だから私を知っている人たちが、私の姿を通して何かを感じてくれたら、それで幸せ」
 私も、少女の闘病を聞いて、「バラの花」を贈った。
 「福光」としたためて扇を贈ったり、あやめが群れ咲く風景を撮った写真も贈った。
 本当に喜んでくれたようです。
 少女が、周囲の人に残した言葉は「信心とは、信じて信じぬくものよ」の一言だった。
 彼女は、その一言を、自分の生き方で示しきったのです。
 葬儀には、長い長い弔問の列が続いた。14年半の生涯に、1000人を超えるであろう人々に、妙法の偉大さを少女は語り続けたのです。
 彼女は「勝った」のです。私はそう思う。全部、意味があった。いな、自分の戦いで、自分の苦悩に意味を与えた。
 〝前世で約束してきた〟という言葉があったが、「願兼於業《がんけんおごう》(願《ねがい》、業《ごう》を兼《か》ぬ)」と言って、「あえて願って、苦しみの姿で生まれ、その苦しみと戦い、打ち勝つ姿を見せて、人々に仏法の力を教える」生き方がある。菩薩の生き方です。
 信仰者が、初めからすべてに恵まれていたならば、人々は仏法のすごさを知ることができない。
 だから、あえて悩みの姿で生まれて、「人間革命」してみせるのです。劇です。ドラマみたいなものです。

 11-7 病魔を笑い飛ばして


 病魔に負けずに晴れやかに勝ち越えた婦人部の友の姿を通して、何があろうと希望を失わず、冬を春に変えていく強盛な信心を貫くことの大切さを語っています。


【池田SGI会長の指針】
◎『母の詩』から 
                    (1997年8月刊)

 ある日、婦人部の会合の終了後であった。私のよく知る婦人が入院するという報告を受けた。学生時代からずっと見てきたし、ご両親もよく存じ上げている。
 あごの下にしこりができ、気になったので診てもらったところ、まだ病名は定かではなかったが、どうも軽い病ではないらしい。日ごろ、まったく健康で、元気いっぱいに活動してきた彼女である。まさかと思った。本人自身、どれほど不安なことだろう。
 そう思った私は、すぐに歌をよみ、伝言として託した。

 堂々と 生き抜ぬけ 勝ち行け
    病魔をも 笑い飛ばして
     長寿の 王女と

 その翌日、あらためて色紙にしたためて、贈らせていただいた。
 いよいよ入院するという前日、重ねて伝言した。
 「心配することはありません。毅然としていきなさい。妻も祈っています。安心して、何と言われようとも、病気に対して臆病ではいけない。負けるようではいけない。心配することはないよ。お元気で」と。
 そして、翌日(入院日)も、またその翌日も、私は、伝言を託した。連日、検査が続いているはずだったから、少しでも励ましたかった。
 「ともかく朗らかにいきなさい。三世の生命観に立てば〝生も仏、死も仏〟ではないか。生きていて苦しんだのでは損をする。何があっても朗らかにいくことが大事です」と。
 私の代わりに、婦人部の方にお見舞いに行ってもらった。彼女はとても元気で、私の伝言を本当に喜んでくれ、しっかり病魔と戦う決意で祈っている、と報告してくれた。
 半月後、検査結果が出るという前日、私はまた伝言を、電話で伝えてもらった。
 「元気にしていますか。私がしっかり祈っているから大丈夫だよ。必ず良くなる。病気をしたことで、祈りが深くなるし、体験となって力になる」と。
 検査の部果は、悪性のリンパ腫。お腹の奥に、握りこぶし台の腫瘍も認められた。手術はできないので、化学療法で抗ガン剤を点滴で投与。月1回ずつ10回続ける。2、3カ月入院し、あとは通院で行うとのこと。
 医師からは、髪の毛が抜けること、食べられなくなったり、気分が悪くなるなどの強烈な副作用があることが伝えられたという。
 それまで、痛いとか、苦しいとか、自覚症状はまったくなかっただけに、彼女は初めて″命にかかわる〟という実感をもった。お年をとられたご両親はじめ家族の衝撃は大きかった。どれほど心痛され悩まれたか、察するにあまりある。
 彼女からは、決意の手紙が届いた。
 「先生の重ねての激励のおかげで、冷静に受け止めることができました。『病魔を笑い飛ばして』との言葉どおり、朗らかに戦いきって、必ず乗り越えてみせます」
 心が決まった人は強くなる。腹を決めた祈りは、生命力をますます強めていく。  病棟は、皆同じような病の患者ばかり。いかにも辛そうな姿、苦しさのあまり死んだほうがましと言う人。側《そば》で見ていれば、その厳しさは十分わかる。不安も恐怖もあって当然であろう。しかし彼女は毅然として挑んだ。
 第1回の抗ガン剤投与は、不思議と何の苦しみも痛みもなく、無事終わった。喜びにあふれた報告を聞いて、私はうれしかった。
 まもなく髪が抜け始めた。しかし、2回目も無事終了。そして退院が許された。食欲も減退することなく、かえって太るほどだったという。しかも、腹部のしこりは、3分の1に縮小していた。
 その報告が訪問先のロシアに届いた。私はさっそく「おめでとう、無理をしないように」と伝言。妻も絵葉書に「まずは第一段階の勝利です。これからは、焦らずに、完全勝利の日まで、ご養生なさってください。病魔を笑い飛ばしてください」と書いて送った。なんとか、このまま全快してほしいと祈りながら――。
 その後、通院しながら毎月の抗ガン剤投与も順調に進み、終了した。腹部のしこりはほとんど消えていた。約一年間、免疫機能の低下するなか、決して油断はできなかったが、髪が抜けた以外、何の苦しい症状もなく、出勤もし、病気と言わなければわからないほど、明るく元気で過ごせた闘病生活であった。医師も、本当にびっくりされたようだ。
 喜びと感謝にあふれた手紙が、彼女から届いた。逐一、経過は聞いていたが、本当に良かったと思う。私の「病魔を笑い飛ばして」との一言を、いつも自分に言い聞かせ、心の支えにしたとあった。
 今、以前にもまして活躍する彼女のもとに、病気の人からの相談がとみに増えたという。彼女が大病を乗り越えたことを知ってのうえである。
 彼女は、その一人一人に真心こめて、自分の体験を語り、激励している。体験にもとづく確信からの励ましほど、安心と希望を与えるものはない。
 自分自身だけでなく、多くの同じ悩みをもつ人たちに希望を与え、救うことができる。それが、病気を克服した、もう一つの意味であろう。
 いろいろなことが人生には起きる。常に変化、変化である。
 結局、大事なことは、何があっても負けないこと。戦うこと。希望を失わないことである。
 人生も、「これ以上無理だ」とあきらめる自分、「もうこれくらいでいいだろう」と妥協しそうになる自分との戦いである。「断じてあきらめない」「断じて負けない」と、自己との闘争に勝ちゆくことだ。
 苦労を避けてはならない。断じて悩みに勝たなければならない。自分の宝は自分でつくる以外ない。自分自身が自分自身で「良かった」「勝った」と言える人生の価値を創ること、その人が栄光の人、人格の人である。
2015-06-12 : 池田SGI会長指導選集 :
Pagetop

池田SGI会長指導選集 「幸福と平和を創る智慧」 第2部 第10章 10-1〜10-8

池田SGI会長指導選集 「幸福と平和を創る智慧」

第2部 人間革命の実践

第10章 宿命を使命に

この章を読むに当たって

 「宿命を使命に変える」――この大いなる人間革命の生き方を、池田SGI会長は常々、呼び掛けてきました。
 あるとき、夫人を若くして病気で亡くした友を、こう力強く励ましました。
 「強く生きるんだよ。決して負けてはいけない。
 戸田先生も若いときに奥様と娘さんを亡くされた。先生は、『人は、伴侶や子どもを亡くしたり、大病を患ったり、借金で苦しんだり、大変な宿命に直面してこそ、深い次元の人生を、使命の人生を生きていくことができる』と言われていました。
 誰しも愛別離苦は避けられません。今は順調そうに見える人も、いつか辛いことに直面する。そのときに、あなたは、大きな境涯で皆を励ましていく存在になっていける。宿命を使命に変えていくんです。
 奥さんは、あなたを仏にしようとしてくれている。今こそ、仏になるときなんだよ」
 いつしか壮年の目には、深い使命の光が輝いていました。
 人生は、ある面、思い通りにいかないことの連続といえます。しかし、宿命を使命に変える強い一念の転換があれば、冬は必ず春となります。いな、冬をそのまま春としていけるのです。
 自分の大切な「命」を、何のために「使う」のか。使命を深く自覚した瞬間から、宿命転換と人間革命のドラマは大きく展開していきます。

 10-1 願兼於業の法理

 法華経では、菩薩は人々を救うため自ら願って悪世に生まれてくると説きます。この「願兼於業」の法理を通して、信心に生き抜く人は、いかなる苦悩に直面しても、宿命を使命に変えていけると語っています。

【池田SGI会長の指針】
◎山梨最高協議会でのスピーチから 
        (2006年9月3日、山梨)

 戸田先生は、教えてくだっさた。
 「人生に、苦しみというものはある。
 苦しみがなければ、遊楽という楽しみを、しみじみと味わえないのである。そこが、よくわかると、生きていること自体が楽しくなる。
 それが、信心の極意である」
 さらに先生は、こう指導しておられた。
 「いかなる組織や団体でも、大きくなれば、さまざまな問題や事故はあるものだ。これは必然である。
 しかし、それらの問題を解決しながら、さらに大きく発展させていくのが、妙法の力であり、価値創造なのである」
 苦しみを楽しみに。
 困難を飛躍の力に。
 その原動力が、信心である。学会活動である。
 大変な戦いを乗り越こえた分、宿命を転換できる。より大きな自分になれるのである。
 「信心をしてきたおかげで、こんなにも健康になりました」――。
 私のもとには日々、こういう声が、大勢の方から寄せられる。何よりもうれしい。
 戸田先生は、病気を抱えた同志に対して、こう励まされた。
 「石につまずき、大地に倒れたら、大地に手をついて立ち上がるだろう。
 同じように、病気という宿命を使命にかえ、信心で乗り越えていきなさい」
 「人生に病気がなければおもしろくありません。法華経には、仏も病気になることが説かれています。天台大師が釈していうには、衆生は皆、病気をもっている。そこで、その衆生を救うには、仏自身も、病気をもっていないとつきあいにくいからです」
 法華経には、「願兼於業」(願《ねがい》、業《ごう》を兼《か》ぬ)の法理が説かれている。
 菩薩は、人々を救うことを誓い、その誓いを果たすために、自ら願って悪世に生まれてくるというのである。
 信心に生き抜く時、いかなる苦悩に直面しようと、「宿命」を「使命」に変えていける。
 そして我らには、ともに戦う同志がいる。励ましがあり、希望がある。
 生き生きとした生命と生命の触れ合い――それが、どれほど、健康長寿の活力の源泉となっていることか。
 学会こそ、最極の、「常楽我浄」の安全地帯なのである。

 10-2 地涌の菩薩の誓願に生きる

 末法における広宣流布を誓願し、立ち上がった「地涌の菩薩」としての生き方こそ、何よりも尊い使命であると、青年に語っています。

【池田SGI会長の指針】
◎『御書と青年』から
                   (2012年9月刊)

 「諸法実相抄」では、「皆地涌の菩薩の出現に非ずんば唱えがたき題目なり」(御書1360㌻)といわれています。題目を唱えられるということ、それ自体が、いかに深い宿縁であるか。
 大聖人は「日蓮と同意ならば地涌の菩薩たらんか」(同㌻)とも仰せです。広宣流布に生き、題目を唱えゆく青年は、皆、最も尊極な地涌の菩薩なのです。
 友の幸福を願い、広宣流布を願って題目をあげていく。学会活動をし、折伏に挑戦していく。
 それ自体が、立派な「誓願の祈り」であり、「誓願の実践」なのです。
 地涌の菩薩は、法華経の涌出品で大地の底から現れ、末法における広宣流布を誓願した。私たちは、その誓願のままに創価学会員として生まれ、戦っているのです。
 私たちは、誓願の祈りで、深く強く結ばれている。
 創価学会は「我、地涌の菩薩なり」との自覚で立ち上がった仏勅の団体です。
 どれほど尊いか。この地涌の菩薩の覚悟がなければ、三類の強敵をはね返して、悪世末法に広宣流布を進めることはできません。
 地涌の菩薩は、最も大変な時に、最も大変な場所に勇み立って出現する。
 今、直面している困難は、信心の眼《まなこ》で見れば、自ら願った使命です。そう確信して前進することが、「誓願の祈り」の証です。
 仕事のこと、経済苦、人間関係の悩み、病気の克服など、目下の課題に打ち勝つために、猛然と祈ることです。自分自身が、断固として勝利の実証を示していくことが、同じような苦しみに直面する友を励ます光となる。
 「宿命」を「使命」に変える。これが「願兼於業」の祈りです。
 勇気を奮い起こして、自他共の幸福を祈ることだ。そこに深い慈悲がある。
 自分だけでない。人の幸福を祈る中で、自分の悩みを悠々と見下ろせる境涯が開かれていくのです。
 自らの悩みを抱えながら、それに押しつぶされない。「難来るを以て安楽」(同750㌻)と広宣流布のため真剣に祈り、勇敢に学会活動に打って出る。広布の祈りは、仏・菩薩の祈りです。
 大きな悩みを引き受け、大きく祈った分だけ、大きな境涯を開くことができる。気がついたら、小さな悩みは全部、包まれ、乗り越こえられている。ここに「煩悩即菩提」の原理があります。
 自分の人生の課題を祈ることと、人々の幸福を願う広宣流布への祈りとは、一体です。共に前進の力です。
 自分の勝利が、広宣流布の実証になる。広宣流布を進める創価学会の大発展を強盛に祈っている人は、どんなことにも負けない自分自身になる。王者のような境涯を必ず開《ひら》けるのです。
 地涌の菩薩は、いかなる時も「其の心に畏るる所無なし」(法華経466㌻)である。常に「随喜の心」を発《おこ》し、舞を舞うが如く戦う。
 地涌の使命に目覚めることは、汝自身の生命の本源を知ることだ。なぜ生まれてきたのか。なぜ生きゆくのか。その究極の意義を知ることです。自分の永遠の使命に目覚める以上の歓喜はない。これほどの充実はない。これに勝る誇りはありません。
 大聖人は、流罪の佐渡の地で、愛弟子と共に「喜悦はかりなし」(御書1360㌻)と宣言されました。地涌の生命を現すことは、人間の無窮の内発性を開花させることです。これは人類の意識を根底から変革し、至上の高みへ飛翔させ、結合させゆく平和の大偉業なのです。

 10-3 偉大な人間革命のドラマを

 小説『新・人間革命』では、山本伸一会長が日本からブラジルに渡ったメンバーらと交わした質問会の中で、夫の死によって自身の宿命を悲観し、希望を失った婦人部の友を励ます場面が描かれています。

【池田SGI会長の指針】
◎小説『新・人間革命』第1巻「開拓者」から 
       (1998年1月刊)

 質問会も終わりに近づいたころ、会場の最後列で、何度か途中まで手をあげかけていた婦人がいることに、伸一は気づいた。
 彼は声をかけた。30代半ばと思われる、やつれ切った顔の婦人であった。
 「何か質問があるんですね。どうぞ、おっしゃってください」
 彼女は力なく立ち上がって言った。
 「あのー、私の夫は病気で他界してしまいました。これからどうやって生きていけばよいのか……」
 婦人の一家は、契約労働者として入植し、農業に従事していた。しかし、働き手の夫を失ってしまった以上、もう農業を続けることはできない。彼女には、まだ小さな何人かの子どもがいた。いっそ死のうかと思っていたところ、同じ入植地の学会員から仏法の話を聞き、一週間前から信心を始めた。すると、サンパウロ市内の工場に仕事が決まり、住まいも提供してくれることになったという。
 「でも、子どもを抱えて、何もわからない異国の地で生きていくことを思うと、不安で仕方ないのです。私は、つくづく業が深い女なんだと思います。でも、そんなことを考えると、これから先、まだ何が起こるかわからなくなり、やり切れない気がするんです……」
 伸一は、微笑を浮かべて言った。
 「大丈夫、信心をしていく限り、必ず幸せになれます。そのための仏法です。それに、あなたが今、不幸な目にあい、辛い思いをしているのは、あなたにしかない尊い使命を果たすためです。宿業なんかに囚われて、惨めな気持ちになっては、いっさいが負けです」
 婦人は不可解な顔で伸一を見た。彼女は、紹介者の学会員から、夫と死に別れなくてはならないのは、過去世で罪を犯し、悪い宿業を積んだからだと教えられてきたのである。
 確かに仏教では、人に悪をなしたことによって、悪の報いを得、不幸な人生を歩まねばならないと説いている。しかし、それだけでは、人間は過去世の罪などわからないだけに、茫漠とした不安をいだきながら、罪悪感をもって生きねばならないことになる。また、運命は、既に定められたものとなり、人間を無気力にしてしまうことにもなりかねない。
 日蓮大聖人の仏法は、こうした表面的な因果応報の枠を突き抜けて、根本の因果を明かし、久遠元初の、本来の清浄な生命に立ち返る方途を示している。その方途が、地涌の菩薩の使命を自覚し、広宣流布に生きるということである。
 伸一は言った。
 「仏法には、願兼於業ということが説かれています。これは、仏道修行の功徳によって、幸福な環境に生まれてくるところを、自ら願って、不幸な人びとの真っただ中に生まれ、妙法を弘通するということです。
 たとえば、もともと女王のような何不自由ない生活をしていた人が、信心して幸せになりましたといっても、誰も驚きません。しかし、病気で、家も貧しく、周囲からも蔑まれていた人が、信心をすることによって幸福になり、社会のリーダーになれば、仏法の偉大さの見事な証明になります。みんなが、信心したいと思うようになるでしょう。貧乏で苦しみ抜いた人が、それを乗り越えることができれば、生活苦に悩むすべての人に、希望を与えることができます。また、病気に悩んできた人が元気になり、健康になれば、病苦の友の胸に、勇気の灯をともすことができる。更に、家庭の不和に泣いた人が和楽の家庭を築き上げれば、家族の問題で悩んでいる人たちの模範となります。
 同じように、ご主人を亡くされ、しかも、言葉も通じない外国の地で、あなたが幸せになり、立派に子どもさんを育て上げれば、夫を亡くしたすべての婦人の鑑となります。信心をしていない人も、あなたを慕い、あなたに指導を求めに来るようになるでしょう。つまり、苦悩が深く、大きいほど、見事に仏法の功力を証明することができる。宿業とは、使命の異名ともいえるんです。
 私も、貧しい海苔屋の息子です。病弱で胸を病みながら、戸田先生とともに事業の倒産の苦しさも味わってきました。人生の辛酸をなめてきたからこそ、民衆のリーダーとして、こうして広宣流布の指揮がとれるんです」
 伸一は、一段と力を込めて言った。
 「皆さんは、それぞれの事情から、たまたまこのブラジルにやって来たと思っているかもしれない。しかし、そうではありません。地涌の菩薩として、ブラジルの広宣流布のために、この国の人びとを幸せにし、ここに永遠の楽土を築くために生まれてきたんです。いや、日蓮大聖人に召し出された方々なんです。この偉大なる地涌の菩薩の使命を自覚し、広宣流布に生きる時、胸中の久遠の太陽が輝き、過去の罪障は露のように消え失せ、大歓喜と幸福の悠々たる人生が開かれていくんです。
 あなたの苦しみも、仏法の深い眼から見れば、本来は富裕な大女優が、舞台で悲劇のヒロインを演じているようなものです。家に帰れば、何不自由ない生活が待っているのと同じです。しかも、人生劇場の舞台の上でも、ハッピーエンドになるストーリーなんです。心配はいりません。必ず幸せになります。私が断言しておきます。大女優が、悲劇のヒロインを楽しんで演じるように、あなたも、堂々と、その悲しみの淵から立ち上がる人間革命の大ドラマを演じてください。
 人は皆、人生という原野をゆく開拓者です。自分の人生は、自分で開き、耕していく以外にありません。信心というクワを振るい、幸福の種を蒔き、粘り強く頑張ることです。広宣流布のために流した汗は、珠玉の福運となり、永遠にあなたを荘厳していきます。どうか、ブラジル一、幸せになってください」

 10-4 どんな宿命にも必ず意味がある

 SGI会長は、『開目抄講義』の中で、「宿命を使命に変える」という仏法者の境涯に立てば、いかなる難も人間革命の原動力にしていくことができると語っています。

【池田SGI会長の指針】
◎『開目抄講義』から 
       (2006年6月〈上巻〉 8月〈下巻〉刊)

 大聖人は、(「開目抄」において)御自身が受けられている大難は、実は衆生を救う願いのために、あえて苦しみを受けていく菩薩の願兼於業と同じであるとされています。そして、菩薩が衆生の苦しみを代わりに受けていくことを喜びとしているように、大聖人も今、大難という苦しみを受けているが、悪道を脱する未来を思えば悦びである、と言われている。
 願兼於業こそ悦びであるとの仰せは、本抄の一番最後の結論部分と一致します。
 「日蓮が流罪は今生の小苦なれば・なげかしからず、後生には大楽《だいらく》を・うくべければ大に悦ばし」(御書237㌻)
 願兼於業とは、仏法における宿命転換論の結論です。端的に言えば、「宿命を使命に変える」生き方です。
 人生に起きたことには必ず意味がある。また、意味を見いだし、見つけていく。それが仏法者の生き方です。意味のないことはありません。どんな宿命も、必ず、深い意味があります。
 それは、単なる心の在り方という次元ではない。一念の変革から世界の変革が始まる。これは仏法の方程式です。宿命をも使命と変えていく強き一念は、現実の世界を大きく転換していくのです。その一念の変革によって、いかなる苦難も自身の生命を鍛え、作り上げていく悦びの源泉と変わっていく。悲哀をも創造の源泉としゆくところに、仏法者の生き方があるのです。
 その真髄の生き方を身をもって教えられているのが、日蓮大聖人の「法華経の行者」としての振る舞いにほかならない。
 「戦う心」が即「幸福」への直道です。
 戦うなかで、初めて生命は鍛えられ、真の創造的生命が築かれていきます。また、いかなる難があっても微動だにせぬ正法への信を貫いてこそ、三世永遠に幸福の軌道に乗ることができる。一生成仏とは、まさに、その軌道を今世の自分自身の人生の中で確立することにほかなりません。
 「戦い続ける正法の実践者」こそが、大聖人が法華経を通して教えられている究極の人間像と拝したい。
 その境地に立てば、難こそが人間形成の真の基盤となる。「魔競はずは正法と知るべからず」(御書1078㌻)と覚悟して忍難を貫く正法の実践者は、必ず妙法の体現者と現れる。そして「難来るを以て安楽と意得可きなり」(同750㌻)、「大難来りなば強盛の信心弥弥悦びをなすべし」(同1448㌻)という大境涯に生きていくことができるのです。
        ◇
 大聖人は本抄で、「鉄《くろがね》を熱《やく》にいた《甚》う・きたわざればきず隠れてみえず、度度《たびたび》せむれば・きずあらはる、麻子《あさのみ》を・しぼるに・つよくせめざれば油少きがごとし」(同233㌻)と仰せです。
 また、他の御書においても、「宿業はかりがたし鉄《くろがね》は炎《きたい》打てば剣となる賢聖《けんしょう》は罵詈して試みるなるべし」(同958㌻)――宿業ははかりしれない。鉄は鍛え打てば剣となる。賢人・聖人は罵られて試されるものである――、「各各・随分に法華経を信ぜられつる・ゆへに過去の重罪をせめいだし給いて候、たとへばくろがね《鉄》をよくよくきた《鍛》へばきず《疵》のあらわるるがごとし」(同1083㌻)――あなたがたは、法華経を懸命に信じてきたので、過去世の重罪を責め出しているのである。たとえば、鉄を十分に鍛え打てば内部の疵が表面に現れてくるようなものである――と仰せです。
 護法の実践で鍛え上げられた生命は、謗法の悪業という不純物をたたき出し、三世永遠に不滅となります。無始以来の生死の繰り返しのなか、この一生で日蓮大聖人の仏法に巡り合い、謗法を責め、自身の生命を鍛えあげることで宿命転換が実現し、永遠に崩れない仏界の境涯を胸中に確立することができる。それが「一生成仏」です。
 この日蓮仏法の透徹した実践は、私たちの人生における苦難の意味を一変させます。
 もはや、苦難は避けて通るべきマイナス要因ではなく、それに打ち勝つことで自分自身の成仏へと向かっていく積極的な要素となるのです。もちろん、苦難の渦中にいる人にとってみれば、苦難と戦うことは楽なことではありません。辛いこと、苦しいことを待ち望んでいる人などはいません。なければないほうがいいと考えるのが人情です。
 しかし、たとえ現実に苦難に直面したとしても、大転換の秘法を知って、「悪と戦ったからこそ、今、自分は苦難にあっている」と理解し、「この苦難を乗り越えた先には、大いなる成仏の境涯が開かれている」と確信していく人は、根本的に強い人生を生き抜くことができる。
 この究極の仏法の真実を、生命の奥底で体得しているのが、わが創価学会の同志であると確信します。
 その証《あかし》に、わが同志は、苦難に直面した時に「強い」。そして何より「明るい」。それは、宿命転換という生命の根源の善のリズムを、すでに体験的に知っているからです。また、自分は経験していなくても、会得した他の同志の姿に日常的に接しているからです。
 宿命と戦いながら広宣流布の信心に立つ人の姿には、すでに願兼於業という仏法の究極の真実が映し出されています。
 どんな苦難も恐れない。どんな困難も嘆かない。雄々しく立ち向かっていく。この師子王の心を取り出して、「宿命」を「使命」に変え、偉大なる人間革命の勝利の劇を演じているのが、わが久遠の同志の大境涯といえます。
 したがって、仏法者にとっての敗北とは、苦難が起こることではなく、その苦難と戦わないことです。戦わないで逃げたとき、苦難は本当に宿命になってしまう。
 生ある限り戦い続ける。生きて生きて生き抜いて、戦って戦って戦い抜いていく。この人生の真髄を教える大聖人の宿命転換の哲学は、従来の宗教の苦難に対する捉え方を一変する、偉大なる宗教革命でもあるのです。
 〝大変な時ほど宿命転換ができる〟〝苦しい時こそ人間革命ができる〟〝いかなる苦難があろうと必ず最後は転換できる〟――この大確信に生き抜いていくのが、日蓮仏法の信心であります。そして、日蓮大聖人に直結して、この宿命転換の道を現実に歩み、宗教革命の大道を世界に開いているのが、わが創価学会であります。この誇りと喜びをもって、さらに前進していきましょう。

 10-5 題目こそ変毒為薬の力

 題目こそ宿命をを使命に変える力です。粘り強く題目を唱え抜いていけば、いかなる悩みや悲しみも幸福に変えていくことができると語っています。

【池田SGI会長の指針】
◎ブラジル記念講堂でのスピーチから
      (1993年3月3日、ブラジル)

 この娑婆世界は「堪忍《かんにん》」の世界とされる。耐え忍ばねばならない。さまざまなことが、つねにある。どんな悲しみも、どんな苦しみも、どんな宿命も、全部、悠々と乗り越えて、最も幸福な境涯を得ていけるのが、日蓮大聖人の「仏法」であり、創価学会の「信心」である。
 自分や家族の病気、また死、経済苦、人間関係の悩み、欲しいものが得られないつらさ、その他、生きているかぎり、ありとあらゆる戦いがあり、苦しみがある。これは避けようがない。どうしようもない人生の現実である。
 「信心」とは、「唱題」とは、それらをことごとく変毒為薬する力である。苦しみの毒が、幸せという薬に変わる。
 煩悩即菩提で、悩みが悟りに変わり、幸福に変わる。悩み、悲しみが大きければ大きいほど、より大きな幸福に変えていける。これが題目の力である。ゆえに妙法を唱える人は、何ものも恐れない。恐れる必要がない。
 木も、小さいうちは、少しの風にも揺れる。大木になれば、どんな嵐にも揺るがない。人間も、生命力が弱ければ、少しの悩みの風にも紛動されてしまう。
 娑婆世界である以上、風を止めることはできない。自分が強くなる以外にない。自分が大本になれば、どんな大風も平気である。むしろ楽しんでいける。そういう人生、生命へと、人間革命していくための信仰なのである。
 目には見えないが、木は毎日、生長している。私たちの唱題も、目には見えないが毎日、自分自身を福運の大木へと育てている。
 10年、20年、学会のなかで信心が貫いていけば、やがて必ず、大樹となった福運が、はっきり目にも見えるようになる。
 妙法は宇宙の最高の宝である。唱題することは、毎日、わが生命に宝を積み重ねていることになる。一方、生命のなかの過去の罪業は、清浄な水に濁った水が押し出されるように、洗い流されていく。
 だから、完全に清浄になるには、ある程度、時間がかかる。初めのうちは、少し濁った水、すなわち自分の宿命との戦いがある。それも唱題の力で軽く受けているのである。ゆえに「持続」することである。やがて、すっかり生命が清浄になれば、どんどん、すべてがよくなってくる。
 福徳に満ち満ちた、何ものにも壊されない「絶対的な幸福」の境涯に、必ずなっていく。何があっても、楽しい。名声やばずがなくても(笑い)満足である。一瞬一瞬が、最高に充実している。喜びに満ち、すべてが美しく見える。何を見ても、ぱっと正邪がわかり、本質がわかる。何があっても、人のことを考えてあげられる。そういう自分になっていく。
 だから、幸福への道は決してむずかしいことではない。広布の世界のなかで、ともかく題目をあげぬいた人が、最後には勝つ。必ず「絶対の幸福境涯」、すなわち「仏」の境涯をを得ていけるのである。根本は、これひとつ覚えておけば、人生は永遠に盤石である。

 10-6 わが宿命転換のドラマが友の希望に


 ここでは、釈尊の受難の意味に触れながら、私たちがさまざまな難を乗り越えることが、後継の同志にとって希望になり、励ましになると語っています。

【池田SGI会長の指針】
◎中部総会でのスピーチから 
          (1989年1月29日、愛知)

 なぜ釈尊のような仏が、いわれなき誹謗を受けなければならなかったのか。
 この点について、釈尊は、仏典の中で「それはすべて、未来の仏道修行者のためである」と明かしている。
 すなわち、仏道修行を行っていると、いろいろな人から謗《そし》られたり、迫害を受けたりする。それでイヤになって、信心をやめようとする人も出てくるだろう。そうしたとき〝仏でさえ、あのような、いわれない誹謗を受けているではないか〟と思い起こして、みずからを励まし、ふたたび前進していくことができるように、あえて方便として、今、このような難を引き起こしている、というのである。
 信心に励んでいる人が、未来永劫にわたって退転しないように、その歯止めとなるように、仏みずからが難を受けていく――これが仏の慈悲である。
 私どもの現在のさまざまな難や労苦も、一面からいえば、すべて末法万年にわたる広宣流布のためにあるといってよい。長い長い未来のために、一つの「原点」となるものを示し、広布の「図式」と「模範」を残しゆくためである。
 そして〝なるほど、あのときはこうだった。これがいつの時代も変わらない難の構図なのだ。だから負けてはいけない。すべて、信心で乗り越えていける。だから戦おう〟というように、後世の友が、そこから、限りない勇気と、希望と、励ましをくみとっていく源泉ともなるにちがいない。
 その意味で、私どもの信心のうえでの数々の苦難との戦いは、この短い一生という劇場で、壮大なる広布と人生の永遠の勝利にも通じゆくためのドラマと一大叙事詩を、演じ詠っているといえるかもしれない。
 また広げていえば、幹部であっても当然、病気になったり、家族に不幸があったりする場合がある。しかし、それは病気で苦しんでいる人や、家族に事故があって悩んでいる人にとっては、〝私も負けないで頑張ろう〟との大いなる励ましともなるにちがいない。
 ともあれ、御聖訓に照らし、難と戦い、妙法広宣に懸命に進む勇者には、仏の加護は厳然とある。広布に励む仏子を、必ず守っていく――これが釈尊の御心であり、そして大聖人の大慈大悲であられる。
 その強盛な祈りは、全宇宙の仏界の力用を揺り動かし、さらに一切の菩薩、二乗、諸天の働きとも共鳴しあいながら、所願満足の大勝利の人生を開いていくことを、皆さま方は確信していただきたい。

 10-7 人生勝利の逆転劇を!

 SGI会長は、随筆の中で、宿命を使命に転換して偉大な人間革命の人生を開いていったアメリカSGIの婦人部の友に光を当て、最大に讃えています。その人でなければ果たせない尊い使命を担った菩薩の集いが、SGIなのです。

【池田SGI会長の指針】
◎「随筆 人間世紀の光」〈〝母の勝利〟を讃う おお幸福博士に万歳!〉から

                   (2004年1月19日「聖教新聞」掲載)

 日本中の街々で、世界中の国々で、わが尊き広布の母たちは、強く、また強く、断固として生き抜いている。
 そうした一人に、アメリカSGIの婦人部の方がおられる。
 日本で国際結婚した彼女が、幼い長男を連れて渡米したのは、1966年(昭和41年)のことであった。
 軍人の夫がベトナムヘ従軍すると、彼女は、英語も不自由ななか、力仕事などで生計を立てた。夫の帰還後も経済苦は続いた。
 やがて次男を授かったが、自分で体を動かせない、重いハンディキャップを背負っていた。医師からは施設に預けるように告げられたが、彼女は自らの手で育ててみせると決めた。洋服、着物、鍋……売れる物は全部売った。それでも食事代にも事欠いた。
 なぜ、こんなに苦しまねばならないのか。宿命の波浪はあまりにも厳しかった。
 しかし、日本で地区の幹部として戦ってきた彼女は、絶対に逃げなかった。昼は働き、夜は広布の最前線を必死に走り抜いた。
 ある晩、彼女は、いつもの如く仏前に端座した。朗々たる祈りが深夜に及んだころ、豁然と光が差し込む思いがした。
 〝私は誉れある学会員だ。私には御本尊がある。何も怖いものはない。絶対に幸福になれないわけがない〟
 「歓喜の中の大歓喜」(御書788㌻)の涙があふれた。
 今、ここで、生活に戦い、人生に戦い、広宣流布に戦う──その生命に幸福の旭日は赫々と昇りゆくのだ。
 「我れ等は仏に疑いなしとをぼせば・なに《何》のなげ《歎》きか有るべき」(同978㌻)とは、大聖人が女性の門下に贈られた一節である。
 法華経には、「願兼於業」という透徹した法理が説かれる。菩薩は、苦悩の人びとと同苦するが故に、人びとを救うことを誓い、自ら願って悪世に生まれてくるというのだ。いかなる苦悩をもち、いかなる境遇にあろうが、その人でなければ果たせぬ尊き使命がある。それを深く自覚した時、すべては変わる。
 久遠の「大願」を果たすために、私たちは、今ここに生まれてきた。宿命は即、使命となり、わが勝利の逆転劇を荘厳する舞台となるのだ。
 いかに現実が多事多難であろうとも、ここから離れて、幸福の大地はどこにもない。
 そうした強き母の後ろ姿を見て育った長男は、名門のエール大学の卒業を、見事に首席で勝ち取った。
 若き英邁な経済学者の彼は、やがてアメリカ創価大学(SUA)の初代学生部長に就任。新しき世界市民の育成に尽力を開始した。
 2001年8月、SUAのオレンジ郡キャンパスの第1回入学式に、彼女と、ご主人の晴れやかな笑顔があった。体を動かせないといわれた次男も、今や走ることさえできるようになり、会合にも参加されている。
 この1月、79歳になった彼女は毅然と語る。
 「全然、年をとった気はしません。広布のために、一生涯、創価の正義と真実を叫び続けます!」
 母は勝ったのだ!
 いずこの地でも、「この母ありての広布かな」と、どんなに讃えても讃えきれない、偉大なる母たちの大行進曲が、来る日も来る日も奏でられている。
 私と妻は、広布に戦い、生きゆく女性たちの無限の幸福の人生を、真剣に懸命に祈りゆく毎日だ。
 創価の太陽の母たちよ! 「勇気」と「正義」と「勝利」の歓声を、さらに響かせゆくのだ。そして強く愉快な賢き声を、一段と朗らかに共鳴させながら、前進されんことを、私は、一生涯、祈りゆくものである。

 10-8 最も苦しんでいる人が仏になる

 仏法は、宿業を自らが「地涌の菩薩」として立てた誓願ゆえの憐みと捉え、宿命を使命に変える「一念の転換」の重要性を教えています。

【池田SGI会長の指針】
◎『法華経の智慧』から
              (第2巻、1996年11月刊)

 戸田先生も。「初めから立派過ぎたのでは人びとの中に入っていけないからわれわれは仏法を弘めるためにわざわざ貧乏や病気の姿をとって生まれてきたんだよ」「人生は芝居に出ているようなものだよ」と、しばしば言われていた。
 また、「戸田は妻を失い、娘まで亡くした。事業も失敗した。そういう苦悩を知っているからこそ、創価学会の会長となったのだ」とも言われていた。
 苦労もない、悩みもないというのでは民衆の心が分かるわけがない。人生の辛酸をなめた人であってこそ、人々を救うことができるのです。
 自分の苦しみを「業」ととらえるだけでは、後ろ向きになる。それを、あえて「使命のために引き受けた悩みなのだ」「これを信心で克服することを自分が誓願したのだ」と、とらえるのです。
 願兼於業は、この「一念の転換」を教えている。宿命を使命に変えるのです。自分の立てた誓願ゆえの悩みであるならば、絶対に乗り越えられないはずがない。
 インドの国父、マハトマ・ガンジーは言っています。
 「私がもし生まれてくるとしたら、不可触民として生まれてきたい。悲しみや苦悩や彼らに与えられた侮辱を分かちあい、みずからと不可触民をその悩める境遇から救い出すよう努めるために」
 この心は「願兼於業」に通じると思う。慈悲です。「ともに生きる」ということです。
 いちばん苦しんでいる人の中に、生まれてくるのです。
 いちばん苦しんでいる人の中に、仏はいるのです。
 いちばん苦しんでいる人を、いちばん幸福にするために仏法はあるのです。
2015-06-11 : 池田SGI会長指導選集 :
Pagetop

池田SGI会長指導選集 「幸福と平和を創る智慧」 第2部 第9章 9-1〜9-9

池田SGI会長指導選集 「幸福と平和を創る智慧」

第2部 人間革命の実践

第9章 仏法は勝負

この章を読むに当たって

 精一杯頑張っているのに、仕事においても活動においても思うような結果が出ないと悩むアメリカSGIの友に、かつて池田SGI会長は、こう語りかけました。
 「大丈夫! そうやって悩みながら、もがきながら、祈って、動いて、苦労しているときが、一番、人間革命ができる。一番、宿命転換が進むんです。
 だから、焦る必要はありません。今は勝利の因をじっくり創ることです。種をしっかり植えることです。その種を、鳥にもっていかれるかもしれない。そしたら、また植えればいい。若芽のときに折れることもあるだろう。そしたら、また植えればいい。そうやって何回も何回も繰り返していけば、最後は大森林地帯となっていく。これが、仏法の法則です。
 朝の来ない夜はない。必ず朝が来ると信じるのが、この仏法です。大切なのは、やめないこと。諦めないこと。常に何か行動していくことです。挑戦していく限り、必ず前進していける。戦っていること自体が勝利です。負けないことが勝つことなのです」
 人間革命の前進には、さまざまな困難や障害が立ちはだかります。それらに向き合い、怯まずに挑戦し続ける中にこそ、わが胸中に人生勝利の仏の生命が燦然と輝いていくことを、SGI会長は繰り返し語ってきました。
 「仏法は勝負」――なぜ仏法は勝負を重んじるのか。何と戦い、何に勝つのか。勝利の人生のために何が大切か。この重要な哲学をSGI会長の指針から学んでいきます。

 9-1 仏法は勝負、人生も勝負

 この節では、「仏法は勝負」の意義について、御書を拝しながら語り、胸中における仏と魔との戦いに勝つことが根本であると強調しています。

【池田SGI会長の指針】
◎『御書の世界』から
        (第3巻、2005年3月刊)

 「仏法は勝負」という原理は、表現はさまざまですが、大聖人の御書全編にわたって拝することができる。なかんずく、端的な表現として「四条金吾殿御返事」(別名「世雄御書」)に「仏法ともうすは勝負をさきとし」(御書1165㌻)と明快に仰せです。牧口先生も、この仰せを引用し、ここに「宗教の生命」があると述べられている。(『牧口常三郎全集』10)
 仏法は勝負であり、人生も勝負です。
 仏法は、仏と魔との戦いという生命の根本の闘争に万人が勝っていけるために説かれたと言っても過言ではない。
 魔を打ち破って成仏を遂げるか、魔に負けて迷妄の人生を送るか。人生における仏法の意義は、究極するところ、この根本的な勝負に勝つことにあるのです。
 この仏法究極の生き方においては、人生のあらゆる局面は、勝負、勝負の連続になる。それがまた、人生の実相です。
 そして、この戦いに挑戦する人にとっては、人生に起こるさまざまなことは、それが世間のことであっても、すべて仏道修行に通じていく。すなわち「仏法は勝負」との原理に適っていくのです。
 大聖人は、「仏をば世雄と号し」と仰せです。「世雄」とは現実社会における勇者のことです。勇敢に魔と戦い、しかも仏界の生命力を現しながら、世間法のなかで正しく生きぬいていくのが仏です。
 大聖人が在家の門下の中心者である四条金吾に「仏法は勝負」と教えられているのは、仏の「世雄」の生き方を継ぐのが、仏法者であることを示されていると拝することができます。
 「仏法は勝負」といっても、結局、何によって勝つのか。それは「心」です。
 「仏法は勝負」と強調されているのは、いかなる困難にも立ち向かっていく強靭な心をもて、ということです。臆病な心では、胸中の魔にも、社会の魔にも勝てないからです。
 「臆病にては叶うべからず」(御書1192㌻)です。
 〝わが門下よ、断じて世間の荒波に負けるな〟〝卑劣な魔軍に負けるな〟という、大聖人の万感こもる励ましです。「法華経に勝る兵法なし」の原理もそうです。
 「法華経の信心」とは、観念論でも抽象論でもない。現実の社会で勝利するための具体的な智慧を発揮しゆくものでなくてはなりません。
 大聖人御自身が、師子王の心で、勝利また勝利の大闘争を続けてこられた。決定《けつじょう》した一念にこそ諸天善神も動くのです。
 「諸天善神等は日蓮に力を合わせ給う故に竜口《たつのくち》までもかちぬ、其の外の大難をも脱《まぬか》れたり」(御書843㌻)と仰せです。偉大なる勝利宣言訓です。
 人生も、生活も、社会も、変化、変化の連続です。そして、変化は、良く変わるか悪く変わるか、中途半端はない。だからこそ、信仰も勝負、宗教も勝負を決する以外にないのです。

 9-2 人間革命とは自分との戦い

 人間革命は常に自分との戦いであり、信心を妨げようとする魔の働きとの闘争です。「仏法は勝負」とは、自分自身との戦いに勝つことであると呼び掛けています

【池田SGI会長の指針】
◎男子青年部幹部会でのスピーチから
        (1990年6月26日、東京)

 「仏法は勝負」ということについて、少々、申し上げておきたい。
 戸田先生は、よく教えられた。「信心は、人間の、また人類の行き詰づまりとの戦いいだよ。魔と仏との闘争が信心だ。それが仏法は勝負ということだ」と。
 前進していれば、当然、行き詰まる場合がある。その時は、いちだんと題目をあげ、行動することだ。そうすれば、また必ず大きく境涯が開けてくる。ふたたび前に進んでいける。
 この限りなき繰り返しが信心である。
 その自分との戦い、行き詰まりとの戦い、魔との闘争に、勝つか負けるか、それが〝勝負〟なのである。しのぎをけずるような厳しき自己との闘争を忘れれば、もはや堕落である。遊戯である。ぬるま湯にひたっているような安逸は、もはやそれ自体、敗北の姿なのである。
 日蓮大聖人は仰せである。
 「夫《そ》れ仏法と申すは勝負をさきとし、王法と申すは賞罰を本とせり、故に仏をば世雄と号し王をば自在となづけたり」(御書1165㌻)
 ――そもそも仏法というのは勝負を第一とし、王法(政治、社会)というの賞罰を根本とする。ゆえに仏を「世雄」と号し、王を「自在」と名づける――。
 賞罰にはランクがあり、相対的なものである。百点のうち十点とか六十点とか、また勲章の等級とか、〝より良い〟また〝より悪い〟と比較できるのが賞罰である。
 これに対し、勝負とは絶対的なものである。勝つか、負けるか。中間はない――。
 仏とは、この勝負に〝勝った人〟のことである。「世雄」とは、人間の世(世間)にあって、最強の勇者ということである。
 このほか仏典には、〝仏の別称(別名)として、次のような表現が使われている。
 「戦勝《せんしょう》」「勝導師《しょうどうし》」「勝陣《しょうじん》」「勝他《しょうた》」「勝他幢《しょうたどう》」(幢《どう》とは、はたほこ、王将である象徴)。また「健勝破陣《けんしょうはじん》」すなわち魔軍の陣を破り、勝つ健者、勇者。「十力降魔軍《じゅうりきごうまぐん》」すなわち十の力で魔軍を降《くだ》し全滅させる強者――これが、仏なのである。
 すなわち、魔との勝負に「勝つリーダー」(勝導師)こそ仏だというのである。勝ってこそ仏法、勝ってこそ信心なのである。
 魔軍との戦いについて、大聖人は、こう描写されている。
 「第六天の魔王・十軍のいくさを・をこして・法華経の行者と生死海の海中にして同居穢土を・とられじ・うばはんと・あらそう、日蓮其の身にあひあたりて大兵を・をこして二十余年なり、日蓮一度もしりぞく心なし」(御書1224㌻)
 ――第六天の魔王が、十の軍隊をもって戦争を起こし、法華経の行者と〝生死の苦しみの海〟の中で、同居穢土(娑婆世界のように、六道の凡夫と四聖〈声聞、縁覚、菩薩、仏〉が同居する国土)を、「取られまい」「奪おう」と争う。日蓮は、その身にあたって、仏の大軍を起こして二十余年になる。その間一度も、退く心はない―― 。
 魔の十軍とは、煩悩の軍隊のことである。『大智度論』(大正新脩大蔵経25巻)では次の十種を挙げている。
 すなわち
 ①欲。五欲にとらわれて、修行を怠るようになる。
 ②憂愁。気がふさぎ、ものうくなってくる。
 ③飢渇《けかち》。うえとかわきにさいなまれる。
 ④渇愛。愛欲や執着によって堕落していく。異性への愛着や、酒などの快楽におぼれる姿も、これに関係していよう。
 ⑤睡眠。まったく眠るなということではなく、惰眠を続けるような真剣でない生活であり、態度といえよう。眠りをさくような向上への努力もせず、要領よく生きていく人生をも含むかもしれない。
 ⑥怖畏《ふい》。おそれに負けて臆病になる。
 ⑦疑悔《ぎげ》。修行者をそそのかして、疑いと悔いを起こさせる。
 ⑧瞋恚《しんに》。怒りの心によって、修行が妨げられる。
 ⑨利養虚称。名利と虚名にとらわれて、成仏への道を踏ふみはずす。
 ⑩自高蔑人《じこうべつにん》。自己を高くし、人を見くだす。
 これは、これまでの反逆者に共通する傲慢な生命であった。また彼らは、要するに、この十の魔軍にみずから敗れ、捕らわれて、向こうの陣についてしまった者たちである。
 この魔軍を打ち破る武器は何か。それはただ一つ、信心の利剣以外にはない。
 ゆえに広布のリーダーは、第一に〝信心強き〟勇者でなければならない。そうでなければ、どんなに優秀なリーダーに見えたとしても、根本的次元における魔との〝生命の戦い〟に勝利することはできない。
 「信心」が強いかどうか、それが真の強者か否かの基準なのである。
 ともあれ、この御文のとおり、宇宙という「生死《しょうじ》の海」(苦しみの海)を舞台に、仏と魔との戦いが繰り広げられていると、大聖人は仰せである。
 宇宙全体が〝勝負の世界〟なのである。創造の力と破壊の力。〝調和《コスモス》〟へのエネルギーと〝混乱《カオス》〟 への乱気流。〝結びつける〟慈愛の力と〝切り離す〟憎悪の力。生と死、光と闇、幸福と不幸、前進と後退、上昇と下降、開放と閉鎖、希望と絶望、〝生かす〟エネルギーと〝殺す〟衝動――。幸福になりゆく法則に従うか、反対に、黒い不幸の世界に化《か》していく天魔に従属してしまうかである。
 絶対に私どもは、永遠に幸福になりゆく法則に従い、崩れざる常楽の世界をつくりゆかねばならない。これが仏法者の使命である。

 9-3 仏法は釈尊の「心の戦い」から始まった

 小説『新・人間革命』では、極端な苦行では悟りは得られないことを知った釈尊が、菩提樹の下で、いよいよ成道する場面が描かれています。それは、無明という己心の魔を打ち破っていく仏法勝負のドラマでもありました。

【池田SGI会長の指針】
◎小説『新・人間革命』第3巻「仏陀」から
        (1998年11月刊)

 菩提樹の下で、釈尊の思惟は続いた。
 仏伝によれば、この時、悪魔が釈尊を誘惑したとある。その誘惑の方法は仏伝によって異なるが、優しく語りかけたとしているものもあることは興味深い。
 〝お前はやせ細り、顔色も悪い。まさに死に瀕している。このまま瞑想を続ければ、生きる望みは千に一つもない……〟
 悪魔は、まず生命の危機を説き、生きることを促したあと、バラモンの教えに従っていれば、そんな苦労をすることなく、多くの功徳を積むことができると説得する。そして、釈尊のやっていることは、無意味であると語るのである。それは、己心の激しい葛藤劇であったととらえることができる。
 釈尊は迷い、心は千々に乱れた。体力も消耗し、衰弱のなかで、死への恐怖もわいてきたのであろう。また、あの激しい苦行からも、何も得られなかっただけに、今の努力も、結局は無駄ではないかという思いも、頭をもたげてきたであろう。
 ともあれ、欲望への執着が、飢えが、眠気《ねむけ》が、恐怖が、疑惑が、彼を襲った。
 魔とは、正覚への求道の心を悩乱させようとする煩悩の働きである。それは、世俗的な欲望への執着となって生じることもあれば、肉体的な飢えや眠気となって現れることもある。あるいは、不安や恐怖、疑惑となって、心をさいなむこともある。
 そして、人間はその魔に惑わされる時には、必ず自己の挫折を、なんらかのかたちで正当化しているものである。しかも、それこそが、理に適ったことのように思えてしまう。
 たとえば、釈尊の〝こんなことをしても、悟りなど得られないのではないか〟という考えは、それまで大悟を得た人などいないだけに、一面、妥当なことのように思えよう。
 魔は「親の想《おもい》を生《な》す」(御書917㌻)といわれるが、往々にして魔は、自分の弱さや感情を肯定する常識論に、すがる気持ちを起こさせるものだ。
 だが、釈尊は、それが魔であることを見破り、生命力を奮い起こし、雑念を払うと、高らかに叫んだ。
 「悪魔よ、怯者《きょうしゃ》はお前に敗れるかもしれぬが、勇者は勝つ。私は戦う。もし敗れて生きるより、戦って死ぬほうがよい!」
 すると、彼の心は、再び平静を取り戻した。
 辺りは、夜の静寂に包まれ、満天の星が、澄んだ光を地上に投げかけていた。
 魔を克服した釈尊の心はすがすがしかった。精神は澄み渡り、晴れた空のように一点の曇りもなかった。
 彼は三世にわたる生命の永遠を覚知したのである。
 その時、生まれて以来、心の底深く澱《おり》のように沈んでいた、あらゆる不安や迷いが消え去っていた。自己という存在の、微動だにしない深い根にたどりついたのだ。
 彼は、無明の闇が滅して、智慧の光明がわが生命を照らし出すのを感じていた。そして山頂から四方を見渡すかのように、彼の境地は開かれていった。
        ◇
 法楽を味わった釈尊は、しばらくすると、深い悩みに沈んだ。それは新しい苦悩であった。彼は木陰に座り、何日も考えていた。
 〝この法を説くべきか、説かざるべきか……〟
 彼の悟った法は、いまだかつて、誰も聞いたこともなければ、説かれたこともない無上の大法である。光輝満つ彼の生命の世界と、現実の世界とは、あまりにもかけ離れていた。
 人びとは病を恐れ、老いを恐れ、死を恐れ、欲望に身を焼き、互いに争い合い、苦悩している。それは「生命の法」を知らぬがゆえである。しかし、衆生のために法を説いたとしても、誰一人として、理解できないかもしれない。
 釈尊は孤独を感じた。それは未聞の法を得た者のみが知る、「覚者の孤独」であった。
 ある仏伝によれば、この時も悪魔が現れ、釈尊を苦しめたとされる。それは、法を説くことを思いとどまらせようとする、己心の魔との戦いと解《かい》せよう。
 釈尊は布教に突き進むことに、なぜか、逡巡と戸惑いが込み上げてきてならなかった。
 彼は悩み、迷った。魔は、仏陀となった釈尊に対しても、心の間隙を突くようにして競い起こり、さいなみ続けたのである。
 「仏」だからといって、決して、特別な存在になるわけではない。悩みもあれば、苦しみもある。病にもかかる。そして、魔の誘惑もあるのだ。ゆえに、この魔と間断なく戦い、行動し続ける勇者が「仏」である。反対に、いかなる境涯になっても、精進を忘れれば、一瞬にして信仰は破られてしまうことを知らねばならない。
 仏伝では、逡巡する釈尊の前に、梵天が現れ、あまねく人びとに法を説くように懇請したとある。それは、自己の使命を自覚し、遂行しようとする釈尊の、不退の意志の力を意味しているといえよう。
 彼は、遂に決断する。
 〝私は行こう! 教えを求める者は聞くだろう。汚れ少なき者は、理解するだろう。迷える衆生のなかへ、行こう!〟
 釈尊は、そう決めると、新しき生命の力が込み上げてくるのを感じた。一人の偉大な獅子が、人類のために立ち上がった瞬間であった。

 9-4 まず今日、自分に勝つこと

 ここでは、トインビー博士がSGI会長との対談で強調していた「自己超克」の話を通して、〝一人一人が自分に勝つ〟ことが、社会を変え、人類の歴史を動かしていくという、人間革命の根本を語っています。

【池田SGI会長の指針】
◎香港・マカオ最高協議会でのスピーチからから
        (2000年12月4日、香港)

 この対談で(「二十一世紀への対話」)でトインビー博士が強調されていたことは何か。
 その一つは「自己超克」ということであった。わかりやすく言えば、「自分に勝つ」ということである。利己主義に支配された小さな自分を乗り越え、人々の幸福のために尽くしゆく、大いなる自分を開くことである。
 人類の危機を転換していくためにも、この「自己超克」が不可欠であるというのが、二十世紀最大の歴史家であるトインビー博士の洞察であった。それは、まさに「人間革命」を意味しているといってよい。
 博士は、「この自己を超克する戦いは、 一人一人の人間の行動のなかにあるのです」と言われていた。それぞれが「自分に勝つ」ことが、結局、大きな社会の発展につながり、やがて、人類の歴史をも動かしていく。
 二十一世紀の新しい舞台で、勝ちぬいていくために、何が大事か。その勝負も、まずきょう、自分に勝つこと。きょう、自分を革命していくことから始まると銘記したい。
 信仰は、無限の力の源泉である。宗教は「文化の大地」である。「生きる力」「成長する力」「勝利する力」「宿命を打開する力」がわいてくる。「幸福になる源泉」が妙法なのである。
 人間を手段にするのでなく、人間が雄々しく立ち上がり、自身に勝利し、皆と喜びを分かちあっていくのが仏法なのである。
 その正道を歩んでいるのは創価学会しかない。科学の発展も大事である。経済も、政治も、教育も当然、大事である。しかし、もっとも大事な根本は何か。
 それは生命である。生命の変革こそが一切の土台となる。それを教えたのが釈尊であり、日蓮大聖人であられる。
 大聖人は、宇宙と生命を貫く法則を解き明かし、皆が幸福に、平和に、慈愛に満ちて生きていける道を残してくださった。
 尊極の大法が妙法であり、それを持つ皆さまは「世界の宝」の人である。
 仏法の因果は厳しい。ゆえに、妙法に生きぬく人は、生々世々、健康で、美しく、裕福で、立派なリーダーとして、社会に貢献し、人々に賛嘆されながら、大満足の人生を楽しんでいけることを、どうか確信していただきたい。

 9-5 「挑戦」と「応戦」

 ここでは、トインビー博士の「挑戦」と「応戦」の歴史観に触れながら、社会も個人も、あらゆる苦難と戦い続けていく生命力が勝利の道を開くと語っています。

【池田SGI会長の指針】
◎山梨婦人部幹部会でのスピーチから
        (1997年9月30日)

 私の青春時代からのモットーは、「波浪は障害にあうごとに、その頑固の度を増す(いよいよ強くなる)」であります。
 じつは、これは、トインビー博士の歴史理念とも根本的に通じております。
 つまり、「挑戦」と「応戦」であります。何らかの課題や障害がある。その挑戦を受け止めて、自分がもっと強くなる(応戦する)――その生命力があるかぎり、その文明は発展するというのであります。
 戦う生命力がなくなった文明は衰亡していきます。これを博士は、ゲーテの『ファスト』を引いて、説明しております。(「文明の発生」、下島連・山口光朔他訳『歴史の研究』2所収、『歴史の研究』刊行会)
 悪魔に対して、すなわち戦うべき障害に対して、ファウストは言います。
 「もしおれが、これでいいという気になって安楽椅子に寝そべったら、おれは即座にほろびるがいい」(『ファウスト 悲劇第一部』手塚富雄訳、中公文庫)
 もう戦わなくていいんだ。もうゆっくりしていいんだ。もう拡大しなくても、成長しなくてもいいんだ。そう思うようになったら、とたんに滅びていく。要約すれば、これが歴史の鉄則だと、トインビー博士は論じているのであります。
 人生も同じであります。団体も同じであります。何かあればあるほど、それらと戦い、それらを取り込んで、もっと強くなることができます。もっと大きくなることができます。
 大聖人は仰せであります。
 「火に薪を加えれば、火はますます燃えさかるではないか。多くの河の流れが入らなければ大海もないのである」(御書1448㌻、趣意)と。
 法華経の行者は、火のごとく、大海のごとく、難のたびに強く、大きくなるのであります。
 そういう生命力で前進したところが、歴史の勝利者となる。人生の勝利者となる。要は、自分が強くなることです。学会を強くすることです。
 御書に「心の固きに仮りて神の守り則ち強し」(御書1220㌻ほか)――信心の心の固さによって、諸天善神の守りも強くなる―― と。
 一次元から言えば、これは「人だのみをするな」ということであります。
 だれかが守ってくれるとか、だれかが味方してくれるとか、そういう甘い考えは捨てなさい。全部、自分が強くなるしかない。自分が強くなってこそ、諸天善神も守るのだ、勝っていけるのだ――という文証であります。

 9-6 誓願の信心に立て

 1960年10月、池田SGI会長はブラジルを初訪問しました。小説『新・人間革命』では、現地で開かれた座談会で、山本伸一がメンバー一人一人を抱きかかえるように励ます場面が綴られています。そのなかで、農業移住者として奮闘する壮年に、誓願の信心が勝利の実証をもたらすことを語っています。

【池田SGI会長の指針】
◎小説『新・人間革命』第1巻「開拓者」から
        (1998年1月刊)

 四十過ぎの一人の壮年が、兵士のような口調で、緊張して語り始めた。
 「自分の仕事は農業であります!」
 「どうぞ気楽に。ここは、軍隊ではありませんから。みんな同志であり、家族なんですから、自宅でくつろいでいるような気持ちでいいんです」
 笑いが弾けた。日焼けした壮年の顔にも、屈託のない笑みが浮かんだ。
 この壮年の質問は、新たに始めた野菜づくりに失敗し、借金が膨らんでしまったが、どうすれば打開できるかというものだった。
 伸一は聞いた。
 「不作になってしまった原因はなんですか」
 「気候のせいであったように思いますが……」
 「同じ野菜を栽培して、成功した方はいますか」
 「ええ、います。でも、たいていの人が不作です」
 「肥料に問題はありませんか」
 「……詳しくはわかりません」
 「手入れの仕方には、問題はありませんか」
 「……」
 「土壌と品種との関係はどうですか」
 「さあ……」
 壮年は、伸一の問いに、ほとんど満足に答えることができなかった。
 〝この人は自分なりに、一生懸命に働いてきたにちがいない。しかし、誰もが一生懸命なのだ。それだけで良しとしているところに、「甘さ」があることに気づいていない〟
 伸一は、力強く語り始めた。
 「まず、同じ失敗を繰り返さないためには、なぜ、不作に終わってしまったのか、原因を徹底して究明していくことです。成功した人の話を聞き、参考にするのもよいでしょう。そして、失敗しないための十分な対策を立てることです。真剣勝負の人には、常に研究と工夫がある。それを怠れば成功はない。信心をしていれば、自分の畑だけが、自然に豊作になるなどと思ったら大間違いです。仏法というのは、最高の道理なんです。ゆえに、信心の強盛さは、人一倍、研究し、工夫し、努力する姿となって表れなければなりません。そして、その挑戦のエネルギーを湧き出させる源泉が真剣な唱題です。それも″誓願〟の唱題でなければならない」
 「セイガンですか……」
 壮年が尋ねた。皆、初めて耳にする言葉であった。
 伸一が答えた。
 「〝誓願〟というのは、自ら誓いを立てて、願っていくことです。祈りといっても、自らの努力を怠り、ただ、棚からボタモチが落ちてくることを願うような祈りもあります。それで良しとする宗教なら、人間をだめにしてしまう宗教です。日蓮仏法の祈りは、本来、〝誓願〟の唱題なんです。その〝誓願〟の根本は、広宣流布です。
 つまり、〝私は、このブラジルの広宣流布をしてまいります。そのために、仕事でも必ず見事な実証を示してまいります。どうか、最大の力を発揮できるようにしてください〟という決意の唱題です。これが私たちの本来の祈りです。
 そのうえで、日々、自分のなすべき具体的な目標を明確に定めて、一つ一つの成就を祈り、挑戦していくことです。その真剣な一念から、知恵がわき、創意工夫が生まれ、そこに成功があるんです。つまり、『決意』と『祈り』、そして『努力』と『工夫』が揃ってこそ、人生の勝利があります。一攫千金を夢見て、一山当てようとしたり、うまい儲け話を期待するのは間違いです。それは、信心ではありません。それでは観念です。
 仕事は生活を支える基盤です。その仕事で勝利の実証を示さなければ、信心即生活の原理を立証することはできない。
 どうか、安易な姿勢はいっさい排して、もう一度、新しい決意で、全魂を傾けて仕事に取り組んでください」
 「はい。頑張ります」
 壮年の目には、決意がみなぎっていた。
 伸一は、農業移住者の置かれた厳しい立場をよく知っていた。そのなかで成功を収めるためには、何よりも自己の安易さと戦わなくてはならない。敵はわが内にある。逆境であればあるほど、人生の勝負の時と決めて、挑戦し抜いていくことである。そこに御本尊の功力が現れるのだ。ゆえに逆境はまた、仏法の力の証明のチャンスといえる。

 9-7 負けないことが勝つこと

 「負けないことが勝利。諦めないことが勝利。屈しないことが勝利」――これがSGI会長の仏法勝負の哲学です。ここでは、後継の女子部の友に向けて、〝負けないことが勝つこと〟という「負けじ魂」の生き方を呼び掛けています。

【池田SGI会長の指針】
◎「随筆 人間世紀の光」〈「女性の世紀」の若き旭日〉から
        (2004年11月13日「聖教新聞」掲載)

 信心は、即生活である。仏法は、即社会である。ゆえに、生活に勝ち、社会に勝ち、自分自身が幸福にならない信心や仏法は、あり得ないのだ。
 皆、悩みがある。悲しみがある。苦しみがある。しかし、「煩悩」は即「菩提」である。大きく悩んだ分だけ、大きく境涯が広がる。これが、妙法の原理だ。たとえ地獄の業火のような逆境に立たされたとしても、そこを必ず幸福の寂光土へと転換できるのだ。
 苦悩が何もないことが幸せなのではない。負けないこと、耐えられることが、幸せである。重圧を受け「あの人は大変だ」と周りから言われても、平然と、また悠然と、使命のわが道を歩み抜くことだ。そこにこそ「能忍」(能く忍ぶ)という、強い強い仏の生命の力がわいてくるのだ。一番、苦労した人が、最後は一番、幸福を勝ち取れる。幸福は、忍耐という大地に咲く花であることを忘れまい。
 女子部一期生である私の妻のモットーの一つは――
 「今日も負けるな
 今日も勇みて
 誓いの道を
 勝利の道を」であった。
 何があっても、負けない。その人は勝っているのだ。なかんずく、自らが青春時代に誓い定めた信念のために負けない一生を貫き通す人は、最も強く偉大である。
 人を幸福にできる人こそが、真実の幸福者である。
 自分自身が、皆を照らす太陽となっていくところに、本当の勝利があり、独立自尊の幸福の旗が翻るのだ。
 行動のない人生に、勝利の旗はない。行動のない信心に、幸福の旗はないのだ。この尊い意義深き青春を、そして人生を、負けずに、すべての苦難を乗り越えながら、旭日輝く勝利の栄光を胸に、わが道を歩みきっていくことだ。
 これが、本当の人間としての歩み方なのである。これが、仏法である。これが、信心である。「難来《きた》るを以て安楽」(御書750㌻)との、大聖人の重みのある一言を、決して忘れてはならない。

 9-8 人間として最も尊貴な人生とは

 仏法における勝利とは、名声や栄誉を得ることではなく、人間としてどのような価値を残し、どれだけの人に尽くしたかであると語っています。

【池田SGI会長の指針】
◎本部幹部会・東京総会でのスピーチから
         (1993年3月24日、東京)

 「万有流転」――青春時代に心に刻んだギリシャの哲学者ヘラクレイトス(紀元前500年ごろ活躍)の言葉である。
 宇宙の万物、ありとあらゆるものは、例外なく、変化また変化の連続である。どんなに栄華を極めても、最後に奈落の底に落とされる人生模様も、あまりに多い。
 大聖人は、仰せである。
 「或時は人に生れて諸《もろもろ》の国王・大臣・公卿・殿上人等の身と成って是れ程のたのしみなしと思ひ少きを得て足りぬと思ひ悦びあへり、是を仏は夢の中のさか《栄》へ・まぼろしの・たのしみなり唯法華経を持《たも》ち奉り速に仏になるべしと説き給へり」(御書386㌻)――(われわれ衆生は)ある時は人に生まれて、諸々の国王や大臣、公卿・殿上人(貴族)など高位・高官の身となって、これほどの楽しみはほかにないと思い、少しばかりの果報を得て十分であると思い、喜び合っている。しかし仏は、これを、夢の中の繁栄であり、幻の楽しみである、ただ法華経をたもって、すみやかに仏になるべきである、と説かれたのである――と。
 権力者であろうが、大臣であろうが、議員や有名人であろうが、どんなに威張ってみても、仏法の眼《まなこ》から見れば「夢の中の栄え」「幻の楽しみ」にすぎない。
 はかない泡《あぶく》のような栄華を求める人生。また、それらをうらやんで、心を悩ます人生。短い一生を、そうした幻を追って過ごすのでは、あまりにもむなしい。
 それでは、人間として最も尊貴な人生とは、何か――。
 大聖人は、「仏」に成ることこそが、永遠の幸福であり、最高の人生と仰せである。「妙法の当体」たる自分自身を輝かせていく生活である。
 華やかではなくとも、まじめに信心に励んだ人、真剣に広宣流布に励んだ人、不滅の大法とともに生きぬいた人こそが、真の「勝利者」であり「勝利王」なのである。
 広宣流布は三世永遠の偉業である。「この道」に生きぬいた人こそ、三世永遠の楽しみを満喫していける――これが大聖人の御心である。その意味で、学会員こそ世界第一の「英雄」であり、人間の「王者」である、とあらためて断言しておきたい。
 これまでも、何度も拝してきた有名な御文であるが、大聖人はこう仰せである。
 「人身は受けがたし爪の上の土・人身は持《たも》ちがたし草の上の露、百二十まで持《も》ちて名を・くた《腐》して死せんよりは生きて一日なりとも名をあげん事こそ大切なれ」(御書1173㌻)――人間として生まれてくることはむずかしい。あたかも爪の上の土のように、わずかなことである。また、たとえ人間として生まれてきても、その身をたもつことはむずかしい。
 太陽が昇れば消えてしまう草の上の露のように、はかない。百二十歳まで長生きし、汚名を残して死ぬよりは、生きて一日でも名をあげる事こそが大切である――。
 長生きしたから、いい人生とはいえない。何を残したか、どんな価値を生んだか、どれだけの人を幸せにしたかである。
 その意味で、結論的にいえば、広宣流布に生きることが、即、最高の人生となる。広宣流布に生きぬくことは、そのまま、社会への最大の貢献になっている。自他ともに幸福になる。仏法は即社会、そして信心は即生活であり、一体である。
 ゆえに大聖人は、法華経のため、広宣流布のために働き、名を上げなさい、限りある一生に、自分はこれだけやりきったという悔いのない歴史をつくりなさい、残しなさい、と教えられているのである。
 同じ戦うならば、前向きにいかなければ、つまらない。みずから動いて、気持ちよく戦ってこそ喜びも湧く。勢いもつく。
 生き生きと挑戦することである。生き生きと進むところに、福運はついてくる。「仏法は勝負」「仏法は戦い」である。生き生きと戦う人が、最後には勝つ。「信心根本」「唱題根本」で生きぬく人が、必ず最後に勝つ。

 9-9 法華経に勝る兵法なし

 妙法に生きぬく人は、途中に何があろうと、最後は偉大な人間革命を成し遂げ、勝利の人生を飾ることができます。

【池田SGI会長の指針】
◎本部幹部会・全国青年部幹部会でのスピーチから
        (2005年9月14日、東京)

 日蓮大聖人の仏法の根本目的は、広宣流布の拡大である。御書に何度となく、「広宣流布」と記されているとおりである。ゆえに、どれだけ実質的に「広宣流布の大地」を広げることができたか。そこに本当の勝負があるのだ。私たちが目指すのは、どこまでも、仏法の人間主義と、生命尊厳の思想に基づいた「平和と幸福の社会」を築いていくことである。その点で、一歩でも二歩でも前進していれば、それでいいのである。
 もちろん、人生は戦いの連続であり、さまざまな次元で、「勝った」「負けた」はあるだろう。
 いくら強くても、無限に勝ち続けるわけにはいかない。それが〝勝負〟というものだ。恩師の戸田先生が遺言のごとく、詠んでくださった和歌がある。

  勝ち負けは
   人の生命《いのち》の
     常なれど
   最後の勝《かち》をば
     仏にぞ祈らむ

 長い人生である。その間には、自分の思ったようにいかないときもあるかもしれない。しかし、私たちは「法華経に勝る兵法なし」の妙法を持《たも》っている。途中の勝ち負けはどうであれ、最後は、法華経を持《たも》った人が、必ず勝つ。信心根本で生きぬいた人が、必ず勝つのである。それが仏法の大法則である。何の心配もいらない。
 勝っても、負けても、そこからまた「次に勝つ因」をつくっていけるかどうか。それが一番大事である。つねに「今」が出発なのである。わが同志と異体同心の団結を組んで、悠々と、朗らかに、「新たなる勝利」へ向かって進んでいく。そこに「本因妙」の仏法の実践がある。
2015-03-28 : 池田SGI会長指導選集 :
Pagetop
ホーム  次のページ »

プロフィール

Author:fmiokun
FC2ブログへようこそ!

最近のトラックバック

月別アーカイブ

カテゴリー

メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

ブログ内検索

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。