希望の虹 第27回 作家 井上靖さん

第27回 作家 井上靖さん  (2016.6.1付 少年少女きぼう新聞)

えんぴつを持つ勇気!

 1本のえんぴつには、ふしぎな力があります。その力は、えんぴつを持つみなさんによって、いくらでも引き出すことができます。
 それが「文を書く」という挑戦です。「作文」という冒険なのです。
 もちろん、書くことは大変です。
 私も毎日、文を書いてきました。それでも、スラスラとは書けないものです。書いては直し、また書いては直して、もとのものとは、まったくちがってしまうことだってあります。
 だから、毎年の「きぼう作文コンクール」に応募してくれる少年少女部のみなさん一人一人に、私から賞をおくって、ほめてあげたい気持ちでいっぱいです。
 私は若い時、人生の師匠である戸田城聖先生から、「書いて、書いて、書きまくれ!」とはげまされました。
 私には、「正しい人生とは何か」「希望とは」「幸福とは」「生命とは」「平和をつくるには」など、戸田先生から教えていただいた真実を、書いて世界に伝える使命があります。
 そして、民衆のため、社会のため、人類のために、みなさんのおじいさんやおばあさん、お父さんやお母さん方と行動してきた歴史を、未来に残す責任があります。
 だから、私はこれからも、書き続けていきます。
 この「書く」という戦いを、みなさんが受け継いでくれることが、私の何よりの喜びなのです。
   *   *   *
 私は、作家の方々からも多くのことを学びました。その1人に、井上靖さんがいます。みなさんのなかにも、ものがたり『しろばんば』や『あすなろ物語』などを読んだ人がいるでしょう。
 井上さんは1907年、北海道に生まれました。お父さんの転勤が多かったこともあって、おさないころは静岡県の伊豆に住むおばあさんにあずけられ、愛情たっぷりに育てられました。夏はカエルの大合唱、秋は虫の声につつまれる自然豊かなところでした。
 そのおばあさんが亡くなり、中学に入ると、今度は親せきの家にあずけられました。それでも井上少年は、さみしくありませんでした。仲の良い友だちがいたからです。その友だちが読書好きだったこともあり、詩や歌、俳句、小説に興味を持つようになりました。
 自分でも詩を作り始めました。
 やがて新聞記者となって活やくした後、作家として名作を次々に発表されたのです。
   *   *   *
 私が井上さんとお会いしたのは、1975年のことです。もう40年以上も前になります。3時間半、語り合っても話はつきず、続きは手紙をやりとりして、月刊誌にのせることになりました。井上さんは67歳、私は20歳年下でした。
 連載が始まる直前、私は3度目の中国訪問をして、日中の教育交流を進めていました。井上さんも、長年、日中友好に力をつくしてこられた方です。
 最初にいただいたお手紙では、ご自身が中国を訪問した時のことを振り返り、記されていました。
 ──揚子江(中国で1番長い川)の岸で、手を赤くして甕(入れ物)を洗っている女性たちを見た。私もまたそのようなところで、そのようにして私の文字を書きたいと、言われたのです。
 自分が特別だから文を書くのではない。悠々たる水の流れとともに、一生けんめいに文を書いていきたい。永遠の時の流れにも失われることのない、人間の誇りをとどめたい──その井上さんの心が伝わってきました。
 このころ、井上さんは、長編小説に取り組んでいました。「今のところは深い霧の中にいるような思いであります。書いてゆくうちに私なりのわかりかたおも方をしてくるかと思います」
 井上さんのような大文豪でも、書く前は、悩むものなのです。ねばり強く書き進めるなかで、何を書けばよいか見えてくるのです。ししんし見えてくるのです。
 手紙では、大切にしている指針も紹介してくださいました。それは、人や物を見る時は「自分の目で見ること」でした。思いこみや、人から聞いた話ではなく、自分の目で正しく見たものを信じることでした。
 その通り、井上さんは、創価学会がうそばかりの悪口をいわれた時も、真実の姿を見つめ、いささかも変わることなく信頼してくださいました。偉大な人とは、友情を貫く人のことです。
 春夏秋冬にわたる私たちの手紙のやりとりは、後に『四季の雁書』として本になりました。「雁書」とは「手紙」を意味します。
 最近、井上さんのご長女が出された本の中でも、お父様と私の交流のことを記してくださっていて、なつかしく拝見しました。
   *   *   *
 井上さんは、子どもたちの詩を大切にされていました。
 第2次世界大戦が終わってまもなく、井上さんは児童向け雑誌の編集にたずさわったことがあります。その時、2人の少女の詩を読んで、おどろきました。
 文をたくさん書いてきた自分自身が、「何もかも初めからやり直さなければならない」と思うほど、心をゆさぶられたというのです。
 〝小学校時代は、みんな、大人の詩人もおよばないほどの、するどい感性をを持っている〟──と。
 「詩を一篇書けば、それはもう誰でも詩人」とも、井上さんは言われています。
 私も戸田先生のもとで少年雑誌の編集をしましたので、井上さんの気持ちがよく分かります。
 みなさんがのびのびと書いた文章が、どれほど光を放っているか。
 そこにこそ、未来の夢がある。人類の希望がある。世界の平和があると、私は信じています。
   *   *   *
 井上さんが人生の総仕上げに書かれた、忘れ得ぬ詩があります。

 樹木も、空も、雲も、風も、鳥も、
 みな生きている。
 静かに生きている。
 陽の光りも、遠くの自動車の音も、
 みな生きている。
 生きている森羅万象(宇宙)の中、
 書斎の一隅(片すみ)に坐って、
 私も亦、生きている。

 この宇宙のありとあらゆるものには「いのち」があります。
 それを言葉にして書き残す時、その瞬間から、「いのち」は未来に向かって生き続けていくのです。
 文を書くことで、自分の思いを形にできます。それは、永遠の宝物になります。その文を読んだ人にも、思いが伝わります。
 お父さん、お母さんへの感謝を書けば、親孝行です。大事な友人のことを書けば、友情のドラマになります。本の感想を書けば、その本と一生の友だちです。
 えんぴつを持つ勇気を出せば、文は書けます。思い切って書き始めれば、知恵が出てきます。あきらめずに書き続けていけば、みんな、「ペンの勇者」なのです。
 今年の夏も、伝統の「きぼう作文コンクール」があります。多くの先輩たちが、このコンクールをきっかけに、文章の力をつけ、大きく成長してきました。みなさんにとっても、自分の可能性を広げるチャンスです。
 さあ、大空を見上げ、自分自身の「いのち」をかがやかせながら、思いを言葉にしてみよう。
 君にしか書けない文がある。あなたにしかつづれない詩がある。なぜなら、みなさんは「生まれながらの詩人」なのだから!


※井上靖の言葉や詩は、井上靖著『わが一期一会』(毎日新聞社)、黒田佳子著『父・井上靖の一期一会』(潮出版社)、『井上靖全集 第一巻』(新潮社)から。参考文献は、井上靖著・竹内清己編『作家の自伝18 井上靖』(日本図書センター)、井上靖著『幼き日のこと・青春放浪』(新潮社)、浦城いくよ著『父 井上靖と私』(ユーフォーブックス)、松本昭著『人間復活──吉川英治、井上靖、池田大作を結ぶこころの軌跡』(アールズ出版)ほか。
2016-05-24 : 希望の虹 :
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希望の虹 26 ノーベル賞を二つ受賞した ポーリング博士

第26回 ノーベル賞を二つ受賞した ポーリング博士            (2016.5.1付 少年少女きぼう新聞)

のびのびと学びの道を

 草や木が、いっせいに色とりどりの花を咲かせ、新しい葉をのばしていきます。
 みなさんも新しい気持ちで、授業で新しいことをたくさん習い始めていることでしょう。知らなかったことが、一つ一つ分かるようになると、とてもうれしいものです。これが発見の喜びです。
 この発見の喜びを、一生涯、大切にした、世界的な大科学者がいます。
 私が尊敬する、ライナス・ポーリング博士です。
 博士は化学という理科の分野で、世界中の役に立つ不滅の歴史を残されました。また、奥様と力を合わせ、世界平和にも貢献されています。
 私も何度もお会いし、科学や健康、平和のことを話し合ってきました。
 この5月3日で開学15周年となるアメリカ創価大学には、ポーリング博士夫妻の名前がついた建物があります。ポーリング博士のように偉大な人物が、次々と羽ばたくように、との願いがこめられています。
 博士は子どものころから、のびのびと学び、大人になっても、常に新しい気持ちで学び続けました。
 今回は、この尊い学びの道について、考えてみましょう

 ライナス・ポーリング博士は、1901年、アメリカ西部のオレゴン州で生まれました。私の師匠・戸田城聖先生(1900年生まれ)とは、1歳ちがいです。
 お父さん、しっかり者のお母さん、それに2人の妹がいました。小さいころから、麦畑で働く大人と話をしたり、チョウを追いかけたり、学校で野球やかくれんぼをしたりして、すくすくと成長していきました。
 ポーリング少年は、薬局で仕事をしているお父さんが、いろんな薬を取り出して、まぜ合わせたりするのを見るのも大好きでした。そうして、身の回りのいろいろなものに興味を持つようになります。さらに、本もたくさん読みました。お父さんの持っていた、ぶあつい本も次々と読み終えました。
 ところが、9歳の時、大好きなお父さんが、病気で亡くなってしまったのです。少年は深く悲しみましたが、お母さんや妹たちを支えなければいけないと思い、負けませんでした。
 本を買えないので、多くの虫や、きれいな石を集めては、図書館で昆虫や石の本を借りて調べました。そのたびに「もっと知りたい」という気持ちがわいてきて、これは何だろう、なぜだろうと考えるようになりました。
 ある寒い朝、列車に乗ろうとしていたポーリング少年は、冷え切った地面を歩き回った後、目をかがやかせて、お母さんに言いました。
 「歩いているとあまり寒くないのはなぜだかわかったよ。地面に足がついている時間が半分になるんだもの」
 自分が〝ふしぎだな〟と思ったことについて、ポーリング少年は、いろいろ考え、自分なりの答えを出しました。なかには、正しくない答えもあったことでしょう。
 でも、それでいいのです。正しい答えは、もちろん大事ですが、知らないことや新しいものに興味を持って、見たり、聞いたり、調べたり、考えたりすることは、それだけで、すばらしいことです。
 ある日、友だちが家で理科の実験を、まるで手品のように見せてくれました。ワクワクすることが起こる理科が、大好きになりました。
 働きながら高校に通い、さらに大学へ行きました。「私が青年時代に主に興味をもったのは、世界についてでききるかぎり学ぶことでした」とポーリング博士は言っています。
 そうやって、新しいことを知ろうと努力し続けるなかで、だれも説明できなかった物質の仕組みについて新発見をして、1954年にノーベル化学賞を受賞したのです。
 そんなポーリング博士にも、大きな失敗がありました。長い時間をかけて熱心に研究してきたことがあったのですが、その結果が、まちがっていたのです。それでも博士は、へこたれませんでした。研究を重ねて、世界中の学者たちから尊敬される、〝大博士〟となりました。
 さらに、博士は、科学の研究を戦争に使うことに反対し、平和のためにも働き続けました。そして、1963年にノーベル平和賞がおくられました。
 今まで、一人の研究や行動でノーベル賞を2回受賞した人は、ポーリング博士のほかにいません。
 私が博士とはじめてお会いしたのきは、1987年のことです。ある時、「頭のよくなる薬はありませんか」と聞いたことがあります。
 すると博士はニッコリされて、こう答えてくださいました。
 「やはり努力、努力しかありません。いかなる試練に直面しても、あきらめないで、自分は、やれば必ずできるという自信を持って、探求し抜くことです」
 まさに、博士の生き方どおりの答えでした。何があっても負けないで「学びの心」「挑戦の心」を持ち続けることが、何よりの〝頭のよくなる薬〟なのです。
 自分から学ぼうとする人が、勝利者です。自分らしく学び続ける人が、勝利博士・幸福博士です。

 1997年10月には、博士の息子さんで医師のポーリング・ジュニア博士が、ご家族の方といっしょに、私の創立した関西創価学園に来られました。
 そして学園生のみなさんに、〝一人一人が自分で考え、自分で決める力を持つことが大事です〟と話してくださいました。
 新しいこと、知らないことを学ぶといっても、むずかしいことではありません。自分ができることから始めればいいんです。
 たとえば、道ばたに花を見つけて図かんで調べれば、大発見です。
 本を読んで知らない言葉を見つけて辞典を開けば、大博士です。
 あしたの時間割を見ながら、〝どんな勉強をするのかな〟と教科書を開いたり、ノートやえんぴつを準備したりすることも、新しいこと、知らないことを学ぶ挑戦です。
 特に、予習をすることは、授業での理解を深め、自分で考える力をのばしてくれる、大事な取り組みです。
 今年は、未来部の英会話コンテスト「E-1グランプリ」に、少年少女部も参加できるようになると聞きました。語学博士へのチャレンジは、世界へのとびらを開きます。
 さあ、気持ちいい青空の下で、新しいことに挑戦してみよう!
 自分が知らない何かを見つけて、調べてみよう!
 ポーリング博士のように、のびのびと学びの心を広げながら!
 あきらめない挑戦の心を燃え上がらせながら!


※ポーリングの少年時代の言葉は、A・Serafini著『ライナス・ポーリング ─その実像と業績─』加藤郁之進監訳(宝酒造)から。参考文献は、テッド・ゲーツェル、ベン・ゲーツェル著『ポーリングの生涯 化学結合・平和運動・ビタミンC』石館康平訳(朝日新聞社)、村田晃著『ライナス・ポーリングの八十三年』(共立出版)、トム・ヘイガー著『オックスフォード 科学の肖像 ライナス・ポーリング』梨本治男訳(大月書店)ほか。
2016-05-07 : 希望の虹 :
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希望の虹 25 「赤毛のアン」の作者 モンゴメリ

第25回 「赤毛のアン」の作者 モンゴメリ  (2016.4.1付 少年少女きぼう新聞)

きょうも、朝の太陽はのぼる!

 希望の春がやって来ました。
 1年生のみなさん、入学おめでとう。進級したみんなも、新しい出発だね。朝の太陽とともに、1日1日を、元気いっぱいにスタートしよう!
 たとえ、くもりの日でも、雨がふっても、雲の向こうには、休むことなく太陽がのぼります。
 太陽が顔を出すと、明るくなり、あたたかくなって、花や木も、動物や虫たちも、元気になります。
 みなさんがさわやかに「おはよう!」とあいさつすることは、朝の太陽の光のように、ご家族や友だちの心を照らすのです。
 みなさんは、『赤毛のアン』という本を読んだことはありますか。悲しいできごとがあったり、失敗をしたりしても、朝になったら元気になって、太陽のように明るく生きた少女の物語です。カナダの女性ルーシー・モード・モンゴメリが書いたお話で、世界中で読まれ続けています。
 きょうは、朝の光とともに、『赤毛のアン』の世界に、行ってみようよ。
   *   *   *
 作者のモンゴメリは、1874年の11月、カナダの東部にあるプリンス・エドワード島で生まれました。モンゴメリがまだ2歳にもならないうちに、お母さんは病気にかかり、亡くなってしまいます。お父さんは、仕事で島をはなれたため、おじいさんとおばあさんに育てられました。
 両親がいないさびしさをなぐさめてくれたのは、島の美しい自然です。家の周りには、きれいな森や海や湖が広がり、小川が流れ、色とりどりの花が咲いて、動物たちもたくさんいました。モンゴメリは大好きな花や木、場所に名前をつけては、自然を友だちのように大切にして成長していきました。
 小学校の入学式の翌日のことです。モンゴメリは学校をちこくしてしまいました。だれにも気づかれないよう、こっそりと教室に入り、自分の席に、すわりました。
 しかし、大失敗! あわてていたので、ぼうしをかぶったままだったのです。それを見たクラスのみんなは、大笑い。モンゴメリは、あまりのはずかしさで、教室からぬけ出してしまいました。大人になっても、この日のことは忘れられませんでした。
 でも、そんな思いをしたからこそ、モンゴメリのお話には、自分のことがいやになったり、友だちのことがうらやましくて、さみしくなったりした子どもたちへの「はげまし」にみちています。
 その時はくやしいこと、いやなことも、長い人生の中では、必ず力になって、役に立っていくものです。すばらしい信心をもっているみなさんにとっては、なおさらです。大事なのは、何があっても負けないこと、失敗してもくじけないことなのです。
   *   *   *
 モンゴメリは本を読むのが大好きでした。家にある本は暗記するぐらい、何度も読みました。9歳のころから「日記」をつけ始め、楽しいこと、悲しかったことなど、何でも書きました。そして、作家になる夢を大きく育てていったのです。
 卒業したモンゴメリは、19歳の時、学校の先生となりました。作家になる夢を忘れられず、家に帰ると机に向かい、作品を書き続けましたが、なかなか進みません。
 そこで、朝1時間早く起きて、文を書くようにしました。冬はこごえるほど寒い部屋でコートを着て、ペンをにぎりました。やがて、少しずつ自分の作品が新聞や雑誌にのるようになります。そして33歳で『赤毛のアン』を出版することができたのです。
 モンゴメリは、夢に向かって朝一番に努力しました。来る日も来る日も、たゆまずのぼる太陽とともに、朝をがんばりぬいて、夢をかなえたのです。
   *   *   *
 『赤毛のアン』もまた、そんなすばらしい朝の出発のお話が、たくさん出てきます。
 ──物語のはじまり、小さい時にお父さん、お母さんをなくしたひとりぼっちの少女アンは、ある駅にいます。
 むかえにきてくれたのは、年老いたマシュウさん。妹のマリラさんといっしょに、農場の手伝いができる「男の子」を、しせつからもらうことにしていました。それが、いきちがいがあって、「女の子」のアンがくることになってしまったのです。
 マシュウやマリラもびっくりしましたが、一番悲しかったのは、アンです。自分が来たのはまちがいだったことを知って、食事ものどを通らないほどでした。
 しかし、次の日の朝、アンが目をさまして窓から外を見ると……。
 「朝だ。こんなにも気持ちよく晴れわたった朝だ。それの窓の外では、サクラの花が満開だ。悲しみの黒雲なんか吹きとばしてしまえ!」「朝があるってほんとにすばらしいことじゃない?」と、元気を取りもどしていくのです。
 木々も、花も、小川も、森も、朝のすべてが、アンをはげましてくれているように思えました。
 そんなアンを、マシュウもマリラも好きになって、いっしょに仲良くくらしていきます。そうしてアンは二人にとって、かけがえのない宝物になっていくのです。
 物語が進むと、アンがすばらしい成績で進級し、先生になるための学校の入学試験を受ける場面があります。
 アンは、算数が苦手でした。いよいよ、あしたはその試験の日です。アンは、自分に言い聞かせました。
 「あたしが幾何(算数)で失敗しようがしまいが、太陽は相変わらずのぼったり沈んだりするんだわ」
 そうです! 何があっても、太陽はのぼるのです。暗い夜のような、さみしく、つらい時がずっと続くように思えても、朝は必ずやってくるのです。
 だから、うまくいくかどうか心配するよりも、思い切ってやってみることです。うまくいかなかったら、また、挑戦すればいいんです。太陽が、またのぼるように!
   *   *   *
 『赤毛のアン』には、続きのお話が、たくさんあります。
 『アンの青春』という物語には、大人になったアンが、小さな村の先生になって、がんばる姿が書かれています。
 うまく教えられない自分がいやで、落ち込むアンを、マリラがはげまします。その真心のおかげで、アンは次の朝、晴ればれとしていました。そして、大好きな詩をうたいます。
  「朝ごとに、
  すべては新しく始まり
  朝ごとに、
  世界は新しく生まれ変わる」
 みなさんにも、毎日毎日、新しい朝が来ます。たとえ、きのうまで失敗続きでも、悲しいことがあっても、新しい朝が来て、新しい一日が始まるのです。
 「きょう」という一日は、まだ何も決まっていません。それどころか、自分でどうするか決めることができる、希望にみちた一日なのです。「きょうは、がんばるぞ」と心に決めれば、少し大変なことがあっても、その通りにしていくことができます。
 だから、まず朝を元気いっぱい出発しよう! 私たちには、その最高の元気を引き出せる勤行・唱題があります。
 勤行ができない時は、題目三唱でもいい。題目には、全宇宙に向かって、「おはよう」のあいさつをおくるような、すごい力があります。はつらつと、題目をとなえれば、エネルギーが満タンです。
 さあ、朝だ! 光だ! 希望だ!
 きょうも元気に飛び出そう!


※参考文献は、「険しい道 モンゴメリ自叙伝』山口昌子訳(篠崎書林)、モンゴメリ著『赤毛のアン』村岡花子訳(旺文社)、モンゴメリ著『アンの青春』松本侑子訳(集英社)、奥田実紀著『名作を生んだ作家の伝記 6 「赤毛のアン」の島で~L・M・モンゴメリ~』(文溪堂)ほか。
2016-05-07 : 希望の虹 :
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希望の虹 No.12 「三重苦」を乗り越えた ヘレン・ケラー

第12回 「三重苦」を乗り越えた ヘレン・ケラー  (2015.3.1付 少年少女きぼう新聞)

出会いは 最高の宝もの

 卒業するみなさん、おめでとう!
 6年間、よくがんばったね。
 みちがえるように、りっぱに成長したみなさんに、私は、ご家族とともに大拍手を送ります。
 みなさんを、おうえんしてくださった学校の先生方にも、感謝を忘れないでいこうね。
 私も、お世話になった小学校の先生方のことを、今でもなつかしく思い出します。先生方のおかげで、私は学ぶ喜びを知りました。世界の広さや夢を持つことの大切さ、誠実と努力の尊さを教わりました。
 きょうは、有名なヘレン・ケラーと、そのヘレンをはげまし、育てたアン・サリバンという偉大な先生との出会いの物語を通して、学んでいきましょう。
   *   *   *
 みなさん、両手で自分の左右の目をかくしてみてください。何も見えないでしょう。
 では、今度は両手で左右の耳をふさいでみてください。何も聞こえなくなりましたね。
 最後に、言葉をしゃべらずに、お父さん、お母さんにお願いごとをしてみてください。通じましたか? むずかしいですね。
 ヘレン・ケラーは、この「見る」「聞く」「話す」の三つのことができない「三重苦」を背おいながら、明るく朗らかに生きた女性です。
 ヘレンは、1880年6月、アメリカで生まれました。ところが、1歳7カ月になった冬、急に高熱を出し、それが何日も続きました。お父さんとお母さんは、一生けんめい看病し、なおってほしいと願いました。その思いが通じたのか、やがて熱は下がりました。
 しかし、両親が話しかけても返事をしません。ヘレンは病気のせいで、目で見ることも、耳で聞くこともできなくなった。そして、しゃべることも忘れてしまったのです。
 やがて首をふったりすることで、自分の気持ちは伝えられるようになりました。しかし、うまく伝わらないことや、気に入らないことがあると泣きさけび、八つ当たりせずにはいられませんでした。
 そんなヘレンをなんとか助けてあげたいと手をつくしていたお父さん、お母さんのもとに、一人の乙女がしょうかいされました。学校を最優秀の成績で卒業したばかりの、アン・サリバンです。
 サリバンは、8歳でお母さんを亡くし、お酒を飲むばかりで働かないお父さんと小さな弟の貧しい家庭に育ちました。彼女自身も、目の病気で苦しんでいました。
 つらいことに負けないで生きる人は、ほかの人が苦しんだり、悲しんだりする気持ちが、よく分かります。やさしくなれるのです。
 サリバン先生は、へレンが7歳になるころから、家庭教師となりました。ヘレンの可能性を信じ、根気づよく教えてくれる先生を、ヘレンは信頼していきました。
 ヘレンは、指の形でアルファベットを一文字ずつ表す「指文字」を覚えました。それをサリバン先生はヘレンの手のひらに書いて、言葉を教えました。
 でも何度教わっても、ヘレンには「どんなものにも、それぞれに名前がある」ということが理解できなかったのです。
 ヘレンは、「コップ」と、その中の「水」の区別がつきません。ある時、先生は、庭の井戸で水をくみ上げ、ヘレンの手にコップを持たせて、水の出口の下に引きよせました。コップから冷たい水があふれて、ヘレンの手の上をいきおいよく流れていきます。
 先生は、ヘレンのもう一方の手に、何度も指文字で「WATER《ウォーター》(水)」と書きました。
 ヘレンは、ハッと気付きました。今、手の上を流れているものには、「水」という名前があるのだと、ついに分かったのです。
 そして、父、母、妹、先生などの言葉の意味を知り、どんどん学んでいきました。「心の目」が開いたのです。「心の耳」が聞こえたのです。学びの光が、心の中にさしこんだのです。
 ヘレンは、先生の手と自分の手を重ねて、指文字でお話ができるようになりました。点字という、ブツブツともりあがった、たくさんの点でできた文字を読み取ることで、本も読めるようになりました。さらに努力を続けて、口でお話もできるようになり、文章まで書けるようになりました。
 喜びに満ちたヘレンの学びの前進は、止まりません。
 そのそばには、いつもサリバン先生がいたのです。
   *   *   *
 ヘレンには、大きな夢がありました。大学に入ることです。目指したのは、私も2度、お招きを受けて講演をしたアメリカ最高峰のハーバード大学です。
 友だちはみんな、むりだからやめた方がいいと言いましたが、サリバン先生とヘレンの「師弟」は、心一つに大学を目指しました。
 最愛のお父さんが亡くなるという、悲しいできごともありました。けれ ども多くの人の支えもあって、みごと、ハーバード大学の女子学生が学ぶラドクリフ大学に合格できたのです。
 さらに、勉学に取り組んで、すばらしい成績で卒業することができました。
 その後、ヘレンは、目や耳が不自由で苦しんでいる人が、幸福に生きられるように働きました。世界の国々を訪問して平和を訴え、人々をはげまして回りました。
 日本にも、3回訪れています。初めて来た80年ほど前の4月は、桜が満開のころでした。ヘレンは、“困っている人を助けようとする時、あなたの笑顔は光りかがやきます” と語りました。
 ヘレンが書いた手紙の一つは、創価学会がおこなっている「21世紀 希望の人権展」や「世界の書籍展」でも展示されて、感動をよんでいます。
 手紙には、こう書かれています。
 「光も音もない世界でも、太陽や花や音楽を楽しむことができるなら、それこそ心のふしぎさを証明するものです」──その心に秘められた力を引き出してくれたのが、師匠・サリバン先生だったのです。
   *   *   *
 ヘレンとサリバン先生の「師弟」を、世界中が称賛しました。
 イギリスの名門グラスゴー大学は、1932年の6月15日にヘレンに「名誉博士号」を贈り、二人のことをほめたたえています。
 じつは、その62年後(1994年)の同じ日に、私はグラスゴー大学から「名誉博士号」をお受けし、そこで「恩師・戸田城聖先生との出会い」をたたえていただいたのです。
 ヘレンは、サリバン先生の代わりの人は「考えることはできません」と、最大の感謝をこめて、ふりかえっています。
 私も、戸田先生以外の「人生の師匠」を考えることができません。先生と出会えたことで、今の私があります。先生のおかげで、最高の人生を歩めました。世界の平和を目指し、世界中の人と出会い、友情を結ぶことができました。
 そして今、少年少女部のみなさんとこうして出会うことができました。
 戸田先生との出会いが私の最高の宝ものであるように、みなさんこそ、私にとって、そして人類の未来にとって、最高の宝ものなのです。
 卒業するみんな、おめでとう!
 進級するみんなに、勝利あれ!

※ ヘレン・ケラーの言葉は、岩橋英行著 『青い鳥のうた ヘレン・ケラーと日本』(日本放送出版教会)、ヘレン・ケラー著『わたしの生涯』岩橋武夫訳(角川書店)から。参考文献は、砂田弘著『おもしろくてやくにたつ子どもの伝記7 ヘレン・ケラー』(ポプラ社)、村岡花子著『伝記ヘレン・ケラー 村岡花子が伝えるその姿』(偕成社)、アン・サリバン著『ヘレン・ケラーはどう教育されたか』槇恭子訳(明治図書出版)ほか。
2015-03-06 : 希望の虹 :
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希望の虹 第11回 南アフリカ マンデラ元大統領

第11回 南アフリカ マンデラ元大統領  (2015.2.1付 少年少女きぼう新聞)

苦難は希望に変えられる!

 新しい一年が始まって1カ月。
 みんな、元気かな?
 はりきって目標を立てたけど、「三日ぼうず」でとぎれてしまったという人もいるかもしれない。
 でも、たとえ三日でも、がんばったことは、それだけ前進できたということです。だから、また、きょうから、挑戦すればいいんだ。
 あきらめないチャレンジのくりかえしのなかで、強くなるんです。
 本当に強い人というのは、たおれない人ではありません。何度、たおれても、また立ち上がって、前へ進んでいく人です。
 その人間の「真の強さ」を示し切ってこられた偉人が、私も尊敬する、南アフリカ共和国のネルソン・マンデラ元大統領です。
   *   *   *
 マンデラさんの国・南アフリカは、長い間、まちがった法律で「白人が上」「黒人が下」と決められていました。その国を、だれもが同じ人間として平等に大切にされ、だれもが夢や目標をもって生きられる「虹の国」に変えることを目指して、立ち上がったリーダーが、マンデラ青年です。
 そのために、いじめられ続け、自由をうばわれました。それでも、断じて負けませんでした。そして、自由を勝ち取り、黒人初の大統領となって、夢を実現したのです。
 多くの人は、何十年も続いてきた差別をなくすのは「むりだ」「むずかしい」と思っていました。しかし、マンデラさんは、「必ずできる!」と心に決めていました。
 あきらめない人には、希望がある。希望があるから、がんばれる。その人が、まわりに希望を広げるのです。
 私は2度、お会いし、平和のために語り合いました。おととし、95歳で亡くなられましたが、マンデラさんの笑顔は、今も私たちの心にかがやきわたっています。
   *   *   *
 1918年の7月18日、マンデラ少年は、南アフリカの小さな村で生まれました。外で友だちと遊ぶのが大好きな、元気な男の子でした。
 9歳のころ、お父さんが病気で亡くなったため、父親の友人のところへあずけられました。お母さんや妹たちと、はなれて暮らし、さびしい思いもしましたが、新しい家族や友だちと仲良くなり、すくすくと成長していきました。
 しかし、そのころの南アフリカには、肌の色のちがいによる差別がありました。それは、マンデラさんの青年時代に「アパルトヘイト」という、もっときびしい「国のきまり」になってしまいます。
 白人と黒人は、同じ所に住めない。結婚できない。黒人は教育も満足に受けられず、政治にも参加できませんでした。レストランや乗り物やトイレも別々。「黒人と犬は立ち入り禁止」という、ひどい、ひょうしきが立っている場所もありました。
 マンデラ青年は、こうした差別を目の当たりにし、多くの正義の友と語り合いながら、平等を勝ち取るために、力をつけていきます。
 学びに学んで弁護士となり、苦しんでいる人によりそいながら、行動を開始しました。そして “すべての南アフリカ国民の権利を守ろう” と人々に呼びかけ、連帯を広げていったのです。
 しかし──白人の政府は、人々が団結するのをおそれました。抗議をするために集まった、武器を持たない人々に向かって、警官が銃をうち、死人やけが人が出るような、悲しい事件も起こりました。
 世の中がくるっている時は、正義の人がいじめられます。
 太平洋戦争中、民衆の幸福を訴えた創価学会の初代会長・牧口常三郎先生、第2代会長の戸田城聖先生も、正しいゆえに、ろうごくに入れられました。それでも、お二人は信念をつらぬき通して、牧口先生は、ろうごくで亡くなられたのです。
 1962年、マンデラさんたちもまた、国家にさからった罪でたいほされ、裁判にかけられました。
 マンデラさんは、そこで堂々と主張しました。
 ──南アフリカは、そこに住むすべての人々のためのものであり、この理想のために私は生きぬく。理想を実現するためなら、私は死ぬこともおそれない、と。
 判決は、刑務所から一生、出られないという「終身刑」。マンデラさんが46歳の時のことでした。
 刑務所の生活は、ひどいものでした。体の大きさに合わない服に、そまつな食事。ひとりぼっちにさせられ、お母さんが亡くなっても、息子を事故で亡くしても、お葬式にいけませんでした。
 それでもマンデラさんは、屈しませんでした。大変になればなるほど、ほがらかでした。
 なぜなら、「苦難は希望に変えられる」と信じていたからです。
 マンデラさんは、ろうごくでも「通信教育」で、大学の勉強をしていきました。たくさんの本も読み続けました。人間は、どんな環境でも学ぶことができるのです。その姿は、困難ななかで学ぶ人々にとって、大きなはげましとなっています。
 そうしたマンデラさんの生き方に、見はり役の看守たちでさえ、味方に変わっていきました。
 入獄して16年後、マンデラさんは、ようやく娘のゼニさんと面会できました。彼女は産んだばかりの赤ちゃん、つまり、マンデラさんの孫を連れてきて、名前をつけてほしいと頼みました。
 彼がつけた名前は「ザジウェ」。「希望」という意味でした。この子が大きくなるころには、差別が昔話になり、みんなが仲良く暮らす「虹の国」になっているという希望を、その名にたくしたのです。
   *   *   *
 断じて正義の戦いをやめないマンデラさんをはじめ、南アフリカの民衆の戦いは世界の人々の知るところとなり、政府へ、ひなんの声が続々とあがりました。その声におされて、政府はついに、マンデラさんをかいほうすることにしました。
 じつに27年半、1万日におよぶろうごくでの戦いを勝ち越え、1990年2月11日に、マンデラさんは新たな一歩をふみ出しました。
 私もひときわうれしく、そのニュースに大拍手を送りました。その日は、生きておられれば、私の師匠である戸田先生の “90歳” のお誕生日だったからです。(今年は生誕115年)。
 マンデラさんは、その後、応援してくれた方々への感謝を伝えるために、世界を回りました。
 私が初めてお会いしたのは、この年の10月。ろうごくで読んだ雑誌の中に私の言葉が紹介されていて、マンデラさんは私をごぞんじだったのです。
 私は、多くの青年たちと熱烈に歓迎しました。72歳のマンデラさんは「英知の思想は不滅です」と出会いを喜ばれ、私たちは固い友情を結びました。
   *   *   *
 生きているかぎり、希望はあります。希望がなくなる時は、自分で自分のことを「もうダメだ」とあきらめた時だけです。
 苦しみだって、成長するためのバネになる。もしも、希望がなければ、自分で希望をつくろう! 見つけよう!
 マンデラさんは叫びました。
 「人生最大の栄光は一度も転ばないことではなく、転ぶたびに立ち上がることにある」と。
 ししの子のみなさんが一人ももれなく、希望あふれる人生を歩みゆくことを私は信じています。
 日蓮大聖人は、「冬は必ず春となる」(御書1253㌻)とはげまされています。
 君よ、あなたよ、平和な未来の春を呼ぶ、希望の太陽たれ!
2015-02-04 : 希望の虹 :
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