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わが教育者に贈る 4=完

わが教育者に贈る

第4回 世界に広がる創価教育の光
              (2012.9.21/22付 聖教新聞)

「いじめ」のない社会で「いのち」は輝く


南アフリカ マンデラ元大統領
人間は慈悲と肝要の存在だ。憎むことを後から学ぶのだ。ならば愛することも学べる。

 私は幸運にも、19歳で希有の大教育者・戸田城聖先生にお会いすることができました。
 残酷な戦争によって無数の命が奪われ、国破れて荒廃した戦後の社会にあって、わが師は、仏法という究極の「生命尊厳」の法理を、私たち青年に示してくださったのです。
 戦時中、軍国主義による2年間の投獄にも断じて屈しなかった恩師の信念の言葉は、絶対に信じられる希望の響きをもって、若き命に迫ってきました。
 青年を利用し、犠牲にしてきた権力者と敢然と対峙して、先生は青年を愛し、信じ、自らの心血を注いで薫陶してくださいました。
 先生が一人立って開始された「人間革命」という未聞の平和運動は、自身の内面から智慧と勇気を引き出して、一人一人が現実社会に貢献していくものです。
 その意味で、先生の青年への指導は、人間教育の真髄であったといっても、決して過言ではありません。
 先生の弟子となった私は、この仏法を友に伝えようと、勇気を出して対話を始めました。一生懸命に語りました。しかし、誰も信心しようとはしません。真っ向から反対した友人もいました。
 それでも諦めず、粘り強く対話を続けました。そのなかで最初に入会して、わが同志となったのが、学校の教師をしていた方でした。
 御聖訓に、「我も唱へ他をも勧んのみこそ今生人界の思出なるべき」(御書467ページ)という一節があります。
 私自身、65年間、仏法を語り抜いてきた歴史は、黄金の「今生人界の思出」と輝いております。なかでも格別に忘れ得ぬ第1号の折伏は、不思議にも教育者だったのです。
 また、その後も、多くの若き教育者を仏法に導くことができました。
 各地で活躍しておられる教育本部の皆様は、同じ心で、同じ哲学を掲げ、人間教育に邁進してきた、かけがえのない宝友たちです。
 そして今、妙法の教育者の陣列が、かくも壮大な世界への広がりとなったことを、私は万感の思いを込めて、恩師に報告させていただきたいのであります。
 わが教育本部の同志のご健闘を讃え、私の教育を巡る所感を綴ってきた本連載も、今回で最終回となります。教育関係者の皆様方はもとより、各方面から深い理解や共鳴の声をいただき、心より御礼申し上げます。
 この連載のさなか、教育現場における「いじめ問題」が、社会問題として、これまでにもまして、ニュースにも取り上げられるようになりました。
 そして、現代における「いじめ」は、かつてのいじめっ子や、遊び・ふざけの範疇を遥かに超えて、「いのち」に関わる問題であることが、あらためて認識されました。
 本来、「いのち」を育む希望の世界であるべき教育の場で「いじめ」を受け、死を選ばなければならなかったお子さん方に、私は、仏法者として、追善のお題目を送っております。
 日蓮大聖人は、「命と申す財にすぎて候財は候はず」「三千大千世界にみてて候財も・いのちには・かへぬ事に候なり」(御書1596ページ)と宣言されました。
 一人の「命」は、全宇宙の財宝にも勝ります。この命を最大に光り輝かせていく営みこそ、教育であります。軽んじられてよい「命」など、一人としてありません。この「命」を踏みにじる権利など、誰人にもありません。
 「暴力は断じて否定する」「いじめという暴力を絶対に許さない」。このことを教えることこそ、教育の出発でなけれぱならないでしょう。
 これは、創価学園の創立者として、私の厳然たる精神でもあります。この連載でも強調したように、私は「いじめ」を断固として許しません。いじめは「いじめる側が100%悪い」と訴えてきました。
 しかし、「いじめ問題」がなくならないのは、「すべての大人の責任」です。なぜなら、子どもたちは大人の鏡だからです。大人社会の歪みが、元凶だからです。
 子どもたちを「いじめ」へと突き動かす心の闇に、今こそ光を送らねばなりません。
 現在は、国を挙げて「いじめ問題」に取り組む方針も示され、専門の諸先生方による真摯な議論が重ねられています。
 わが教育本部の皆様方も、「いじめ問題」については、さまざまな場で討議され、それぞれの教育現場でも懸命に努力を続けておられます。
 そうした、すべての方々のご尽力に、私は満腔の敬意を捧げるとともに、私自身、教育事業の総仕上げをする決心です。
 創価教育学の父・牧口常三郎先生は、言われました。「行き詰まったら、原点に返れ」と。
 では、教育の返るべき原点は、どこにあるのか。
 それは、「対話」にあるといえないでしょうか。
 教育は、「対話」より出発し、「対話」に帰着するといってもよいでありましょう。
 牧口先生は『創価教育学体系』で、デンマークの“近代教育の父”グルントヴィと弟子であるコルについて言及されています。このグルントヴィとコルの師弟が目指したのが、“生きた言葉”による「対話の教育」の実践でありました。
 また、牧口先生が、教師の理想とされていたスイスの大教育者ペスタロッチも、「対話」を重視しました。その名を世に知らしめた教育小説『リーンハルトとゲルトルート』は、まさに対話形式で書かれており、家庭での母と子の生き生きとしたやりとりが描かれています。
 教育の活力も、教育の喜びも、教育の触発も、教育改革の知恵も、この「対話」からこそ、滾々と湧き出ずるものでありましょう。
 “人類の教師”と仰がれる釈尊は、「喜びをもって接し、しかめ面をしないで、顔色はればれとし、自分のほうから先に話しかける人」であった、と伝えられます。仏とは、悟り澄まし、権威ぶった存在などではない。むしろ、“快活に気さくに自ら声をかける”──ここに仏の振る舞いがあります。
 それは、人間教育者の真骨頂とも通じているはずであります。
 牧口先生も、小学校の校長として、時間を見つけては、授業の様子をそっと見守り、校内を歩いては、一人一人の児童の表情や体調を気づかい、「どうしたの?」「大丈夫かい?」「話してごらん」等々、優しく声をかけていかれたといいます。
 牧口先生は、勉強のこと、友だちとの関係のこと、家庭のことなど、児童が心につかえていた思いを語り出すのを、じっと聞かれていきました。そして、アドバイスや励ましを送られるとともに、打つべき手を迅速に打っていかれたのであります。
 こうした牧口先生との語らいを、一生涯の宝とし、感謝を捧げた教え子たちは、大勢いました。
 「問題が起こったら、その場、その場で解決しなくてはいけない。問題を放置して残しておけば、必ず事は大きくなる。大きくならないうちに解決するのだ」──これが、牧口先生の信条でした。
 常日頃から、声をかけ、子どもたちが発するサインや変化、言葉にならないSOSを鋭敏にキャッチしていく。こうした心の交流が、ますます大事になってきているのではないでしょうか。
 牧口先生は、教育と医学は「兄弟姉妹のような応用科学」と呼びました。それは、ともに一番大切な「人間の生命」を対象としているからです。アプローチは異なっても、生命力が萎縮するのを防ぎ、生命力が伸び、拡大するのを助ける応用科学ともいえます。
 数え切れない貴重な臨床例の積み重ねが、医学の目覚ましい進歩をもたらし、多くの人命を救えるようになりました。そうした医学の緻密な取り組みから、教育界も大いに学ぶべきだと、牧口先生は促されたのであります。
 その意味において、直系の創価学会教育本部の皆様方が実践事例を積み重ねて、分析し、普遍的な教育技術に高める努力をされていることは、教育の進歩に大きく貢献するものであり、牧口先生もきっと喜んでくださることでありましょう。
 わがドクター部の皆様方のお話を伺うと、医学の最前線においても「対話」が重視されています。
 医療の現場でも、現在は「インフォームド・コンセント」(説明と同意=患者が、医療者から治療の内容や目的などについてよく説明を受け、同意した上で治療が施されること)が行われています。すなわち、同意が得られるまで説明が続けられ、「対話」が重ねられるといいます。
 病院においても、「患者さんの声に耳を傾ける」「相手のことを思いやる」などの「対話の文化」が尊重されて、誠実で心豊かなコミュニケーションの努力と創意工夫が重ねられています。
 御書には、「人がものを教えるというのは、車が重かったとしても油を塗ることによって回り、船を水に浮かべて進みやすいように教えるのである」(1574ページ、通解)と説かれております。
 一人一人の「生命」が持つ本然の可能性を、伸びやかに解き放ち、そして、滞りなく自在に前進していけるように、励まし、導いていく──ここに、教育の本義があり、その潤滑の智慧、推進の力を送りゆくものこそ、対話ではないでしょうか。
 ゆえに、私は、どんなに困難で複雑な現場にあっても、子どもたちを取り巻くすべての皆様に、「それでも対話を!」と申し上げたいのであります。そして、「子ども第一」で、何より「一番苦しんでいる子どもの側」に立って、対話を進めていただきたいのであります。
 親や周囲には心配をかけたくないと、悩みを誰にも言えずに、一人で小さな胸を痛めている子どもたちも決して少なくありません。身近な大人からの真心こもる「声かけ」が、どれほど心を照らす希望の光となることでしょうか。
 「いじめ」のない社会を築いていくことは、「人間の尊厳」を打ち立てる人権闘争であります。
 アフリカの人権の大英雄ネルソン・マンデラ元大統領は、27年半に及ぶ投獄にも耐え抜き、20世紀中には不可能ともいわれた「アパルトヘイト」の人種差別の撤廃を実現しました。
 元大統領は語っています。
 「あらゆる人間の心の奥底には、慈悲と寛容がある。肌の色や育ちや信仰のちがう他人を、僧むように生まれついた人間などいない。
 人は憎むことを学ぶのだ。そして、憎むことが学べるのなら、愛することだって学べるだろう」
 至言であります。
 人間は、誰人も尊厳な存在であり、いじめてはならないし、いじめさせてもならないこと。一人一人を大切にして、皆で共に仲良く明るく生きていくべきであること。また、必ず、そうできること──。このことを、私たちは、あらためて、子どもたちと一緒に学んでいきたいと思うのであります。

子どもの幸福へ 心一つに団結!
 学校はもとより、家庭にも、地域にも、社会にも、子どもたちを見守る、大人たちの温かくして深い眼差しが、これまでにもまして必要になっています。
 不当な差別や激しい弾圧、理不尽ないじめに、勇気をもって「ノー!」と叫び、大きく歴史を変えた、アメリカの人権の母ローザ・パークスさんは、青少年にこう語られました。
 「私は、大人も子供もみな、人生の模範として尊敬できる人をもつべきだと思っています」
 「母のレオナ・マッコーレーは、私が自尊心と黒人への誇りをいだきながら成長するよう導いてくれました」
 「ローズおばあちゃんは、子や孫へ愛情をそそぎつつ、自身の意志の強さを通し、私に良いお手本を示してくれました。そのおかげで、私自身も強い女性になることができました。   マーティン・ルーサー・キング牧師は、決意と自尊心をもって毎日生きることの大切さを、自ら良い手本となって私に教えてくれました」と。
 このパークスさんの母親も、学校の教師でした。
 心を開いて、相談できる人たちが身近にいる。尊敬を込めて、「その人だったら、どうするだろうか」と思いを巡らせる存在がある。そうした人間のネットワークが、陰に陽に、子どもたちの命を守り、支える力となるのではないでしょうか。
 ともあれ、「異体同心なれば万事を成し」(御書1463ページ)であります。児童・生徒、保護者、教師、そして学校、さらには地域が「子どもの幸福」のために心を一つにして「異体同心の団結」を築いていけば、必ずや新たな時代の幕を開くことができます。
 その団結を生み出すのは「対話」です。そして、この対話の文化が脈打つ社会の姿こそ「教育のための社会」と呼べるものでありましょう。

 釈尊の人柄を伝える経文は『中村元選集〔決定版〕第12巻ゴータマ・ブッダⅡ』(春秋社)。マンデラの言葉は『自由への長い道 ネルソン・マンデラ自伝(下)』東江一紀訳(日本放送出版協会)。パークスは『ローザ・パークスの青春対話』高橋朋子訳(潮出版社)。

「人間をつくる」ことが未来を開く

東北出身の世界市民・新渡戸稲造博士
難局打開の道は何か── 私は ただ教育の一途あるのみと断言してはばからない

 頼もしいことに、今、若き創価の教育者の奮闘が、日本全国、世界の各国各地で光っています。
 ♪世紀の太陽 燦然と
  希望の瞳 輝いて
  一人も残らず 幸福に
  未来を育む 誇りあり
 この青年教育者の愛唱歌「世紀の太陽」の響きが、教育部歌「太陽のマーチ」とともに、私の胸に力強く迫ってきます。
 わが敬愛する教育者の皆様方は、いかなる闇も打ち破って、毎日たゆまず昇りゆく「太陽」です。自らが燃えて、光も熱も惜しまず、皆を照らしゆく「太陽」です。
 太陽が明るく輝いているのは、人知れずに戦い続けて、勝ち抜いているからです。
 青年教育者の愛唱歌は、こう結ばれています。
 ♪創価の精神《こころ》は 平和へと
  世界を結ばむ 使命あり
 この一節の通り、世界を結ぶ「教育の光」が、いやまして重要な時代に入っています。
 昨年の年末には、わが教育本部の代表が「日中友好教育者交流団」として、中国の北京、天津を訪問し、熱烈な歓迎をいただきました。
 男女の青年教育者も多く参加し、有意義な教育交流を大成功で飾り、立派に使命を果たしてくれました。
 日本も、中国も、教育への取り組みは真剣です。そうした中、互いに学び合い、語り合う意義は、計り知れません。
 政治や経済の次元では、多少の波風が立とうとも、教育の交流には、普遍性があり、未来性があります。
 国を超え、民族を超えて、教育者の魂と魂が触れ合う中で、人類の明日へと架ける、希望と信頼の黄金の橋が築かれゆくことを、私は確信してやみません。
 教育本部の交流団が、「私学の雄」と讃えられる人材輩出の最高学府・北京城市学院を訪問した折には、学院の発展をリードする劉林学長が、ご自身の“師弟のドラマ”を語ってくださったことを、感銘深く、お聞きしました。
 劉学長の師匠は、私が「東洋学術研究」誌上で対談を重ねてきた顧明遠先生(中国教育学会会長)です。若き劉学長が書き上げた15万字に及ぶ博士論文を、顧先生は時間をかけて、実に丁寧に読まれ、句読点に至るまで添削してくださったというのです。
 「愛情なくして教育なし」
 これが、顧先生の教育哲学です。それをご自身が実践されてきた姿が目に浮かんできます。まさに教育者の鑑と感動しました。
 「教育とは、氷を溶かす温水です。どんなに固い氷でも、教育の力で必ずや溶かすことができます」とは、劉学長が紹介してくださった顧先生の言葉です。
 その顧先生も、自らが教壇に立たれる北京師範大学に教育本部のメンバーを快く迎えてくださったのです。特に大震災のあった東北の教育者を、心から励ましてくださいました。
 こうした麗しい教育交流に、かつて、日本に留学していた若き日の魯迅先生と、その恩師である藤野《ふじの》厳九郎先生との出会いを思い起こすのは、私一人ではないでありましょう。
 じつは、顧先生のご夫人・周藻《しゅうそう》さんは、大文豪・魯迅先生の姪に当たられる方です。
 魯迅先生の行った教育について、顧先生は次のように語られています。
 「まず第一に学ぶべきことは、彼(魯迅)が教育事業に献身的にどろんこになって取り組んだ精神である」
 「献身的にどろんこになって」、若き生命に関わり、尽くし、育む。この人間教育の不撓不屈の魂が脈打つところ、いかなる壁が立ちはだかろうと、必ず突破できることを、私は信じてやみません。
 顧先生は、私が提案し、教育本部が進めている「教育実践記録運動」の活動にも、大きな期待と関心を寄せてくださっています。
 「一人一人の事例から学び、そこから法則性を見つけ出していくことが大切です。皆さんの活動に、今後も心より期待しています」と、温かなお言葉を寄せていただきました。
 この連載でも、すでに紹介したように、実践記録については、アメリカのジョン・デューイ協会のヒックマン博士も、ガリソン博士も、最大に評価されております。
 世界が認める教育実践記録の運動です。教育本部の皆さんは、今後も自信をもって取り組み、教育技術の向上に努めていただきたいと念願します。
 今、日本も世界も、混迷の時代です。閉塞感を打ち破る希望の光は、どこにあるのか、皆が真剣に求めています。
 「難局打開の道は何か。余は只教育の一途《いっと》あるのみと断言して憚らない」
 ふるさとの東北から世界に雄飛した新渡戸稲造博士は、世界が経済恐慌に陥っている昭和初期に、その光明を「教育」に見出しました。
 本年は、新渡戸博士の生誕150周年です。農学者であり、教育家でもあった博士は、この言葉を、1930年に発刊された創価教育の原典『創価教育学体系』への「序」に認《したた》められました。
 そして博士は、牧口先生が渾身の力を込めて著した同書に対し、「行詰れる現代社会の革新に甚大なる寄与をなすものである事を信じて疑わないものである」と、「尊敬と感動」をもって賞讃したのです。
 この『創価教育学体系』は全4巻から成りますが、戸田先生は、戦後、その内の第2巻を『価値論』として再刊しました。そればかりでなく、世界約50カ国の420を超える大学や研究所に贈られたのです。師の偉大さを世界に宣揚せんとされた恩師の真心に、私は感涙を抑えつつ、この発送の実務に当たらせていただきました。
 それが一つの因となり、現在、創価教育は事実の上で世界に広がり、希望の教育思想として注目されているのです。
 南米ブラジルでは、牧口先生の創価教育学に基づいた教育プログラムに、100万人を超える児童が参加しました。2001年には、ブラジル創価幼稚園が開園し、現在、小・中学校にあたる「ブラジル創価学園」に進展しています。
 さらにブラジルでは、「牧口先生公衆衛生技術学校」が開校しました。アルゼンチンの高校には、創価教育に共鳴し、もったいなくも私の氏名を冠していただきました。すばらしい人材育成をされていると伺っています。
 インドでは「創価池田女子大学」も発展を続けるなど、世界中で創価教育と連帯する教育機関が広がっています。
 創価幼稚園は、ブラジルをはじめ、香港、シンガポール、マレーシア、韓国の海外5カ国・地域に開園。「随一」「モデル校」などと、極めて高い社会的評価を得ています。
 1992年に開園した香港創価幼稚園は、教員の優れた教育実績が評価され、特別行政区政府の「行政長官卓越教学賞」を受賞するなど、充実した教育環境を誇っています。
 「創価教育」の眼目の一つとして、「世界市民」の育成が挙げられます。
 わが教育本部の友も、毎年のように、海外日本人学校へ赴任され、これまで多くのメンバーが貴重な貢献を果たしてこられました。
 SGI(創価学会インタナショナル)の教育者とも連帯し、世界的視野に立った平和・文化・教育の大道を、たゆみなく開いていってくれております。

子どもの歓声が名曲のように!
 牧口先生の思想も、郷土から世界を展望し、学び、また郷土に立ち返って、わが地域の発展に貢献し、潤していくことを志向されていました。
 80年前の1932年2月、牧口先生は、郷土・新潟の母校である荒浜の小学校に、自身の『創価教育学体系』第2巻を寄贈しています。いかに郷土の教育を大切にされていたか、この一点を見ても明白です。
 牧口研究の海外における第一人者であられるデイル・ベセル博士(米インタナショナル大学元教授)は、創価教育の先見性として、「『新しい人間』の確立と、より人道的な社会機構の創造」という点を強調されていました。
 そして、「人類が将来、この地球上に生存しようとするなら、より理解ある新しい人間と、より人道的な社会機構がどうしても必要となる。こうした現状を考える時、牧口の教育思想は現代にこそ、その意義と重要性を持つものであると思う」と断言されていたのです。
 この博士の発言から、はや40年近く経ちました。いよいよ、創価教育の真価を発揮していくべき時代に入っているといってよいでしょう。
 ──それは牧口先生、戸田先生の悲願であった創価小学校が誕生して、日々新たな喜びが生まれる中でのことでした。
 1年生の教室の脇を通った時、中から、明るいにぎやかな歓声が、はじけるように聞こえてきました。
 私は一緒にいた先生に申し上げました。
 「あの声が、ベートーベンの名曲のように聞こえたら、一流の教育者ですね」と。
 子どもたちの元気な声こそ、伸びゆく「生命」の象徴です。世界の「平和」の希望の音律です。人類の「前進」と「創造」の源泉です。
 この子どもたちの歓喜の声が轟きわたる「教育の世紀」へ、私は教育本部の皆様方と手を携えて、さらに全力を尽くしていきたいと、決意を新たにしています。
 さあ、子どもたちの幸福のために! 人類の輝く未来のために! 希望に燃えて、新しい教育の勝利の扉を開きましょう!
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2012-09-29 : わが教育者に贈る :
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わが教育者に贈る 3

わが教育者に贈る

第3回 地域社会に教育の陽光を
            (2012.4.28/29/30付 聖教新聞)

相談できる先生は「希望の灯台」

御聖訓に説かれた東洋の英知

陰徳あれば陽報あり


 日蓮大聖人が教えてくださった金言に、「陰徳あれば陽報あり」(御書1178ページ等)とあります。
 陰で人知れず善の行動を積み重ねた人こそが、必ず最後は真実の栄光に包まれるという、生命の厳たる因果の理法であります。
 私は、この「陰徳あれば陽報あり」の仰せを、「立宗の日」を記念して、妙法の人間教育者の皆様方にあらためて捧げたいと思うのであります。
 人を育てること、人を励ますこと──それは、まさしく、たゆみない「陰徳」の労作業だからです。
 教育は、人間それ自身、なかんずく若き多感な生命に関わっていく聖業であるがゆえに、言い知れぬ労苦の連続でありましょう。
 時として、こちらの誠意がなかなか通じないこともある。思うように目に見える結果が出ないこともある。真心の努力が報われず、割に合わないように思えることもある。
 それでも悪戦苦闘を突き抜けて、ただただ子どもたちの生命の可能性を信じて、祈り抜き、尽くし抜いていく。見返りなど欲せず、賞讃など求めようともしない。しかしこ必ず必ず「陽報」は現れます。
 時が来れば、たとえば、目をみ作るような子どもたちの成長となり、奇跡のような勝利の晴れ姿となって光るでしょう。また、教え子たちや、その家族からの消えることのない感謝と敬愛となって還ってくることもあるでしょう。
 そして、自らの蒔いた「陰徳」の種が大樹となって育ちゆく未来を見つめながら、尽きることのない喜びと充実と満足に包まれていくのではないでしょうか。
 この生命の宝冠こそ、人間教育者の偉大なる「陽報」なりと、私には思えてなりません。
 その尊き模範が、教職を立派に勤め上げ、豊かな経験を生かしながら、地域社会の依怙依託となって活躍してくださっている、わが創価の「教育名誉会」の方々であると、私は声を大にして申し上げたいのであります。
 「教育名誉会」の先生方の大きなサポートをいただきながら、わが教育本部は、社会的な活動として、「教育相談室」と「人間教育実践報告大会」(人間教育フォーラム)を、力強い両輪として推進してきました。それぞれに多忙を極めるなか、この活動にボランティアとして時間を割いてくださっている皆様方に、本当に頭が下がります。
 「教育相談室」は、今年で開設44年になります。
 設置された1968年(昭和43年)の当時は、ベトナム戦争が続き、人権運動の闘士キング博士が暗殺され、東欧の「プラハの春」は踏みにじられ、アフリカのビアフラでは子どもたちが飢餓に苦しんでいました。日本は高度経済成長で、こぞって富の豊かさを追求する一方、公害が深刻化し、大学での学園紛争も激しさを増して、青少年の心が揺れ動く真っただ中でした。
 このとき私は、長年、教育現場での難問に全力で奮闘されてきた熟練の先生とじっくり懇談しました。その苦労を伺い、功労を讃えながら、私は「あなたの貴重な経験・知識を、地域で生かしてみてはいかがですか」と提案しました。やがて、第1号の「教育相談室」が、東京に誕生したのです。
 教育はあくまでも普遍性の次元ですから、信仰の有無を問わず、地域社会に広々と開かれた相談室としてスタートしました。
 本年3月には、大分県にも開設され、現在は全国35カ所にまで発展しています。来談者の総数も、36万7000人を超えました。
 御書には、「植えた木であっても、強い支柱で支えれば、大風が吹いても倒れない」(1468ページ、通解)と説かれています。
 良き教育者が身近で見守ってくれていて、いざという時に相談できるということは、何より心強い支えではないでしょうか。
 相談内容は、当然、一律ではなく、さまざまなケースがあります。一人一人の話に真摯に耳を傾け、時には、お子さん方と一緒に遊んだり、運動したりしながらと、工夫を凝らし、誠心誠意、取り組んでくださっています。
 何度も面談を重ねて、一歩ずつ、よりよく変化していくことを粘り強く見守り続けていくなかで、お子さん自身が大きな成長のきっかけをつかむことができたという、嬉しい報告も届きます。
 また、すれ違っていた母と子の心の距離を縮める機会ともなる。さらには、父親とも関わることで、家族全体が大きく変わることができ、好転していったケースも少なくないようです。

「教壇の教師」と「地域の先生」と
 愛するお子さんのことで悩む保護者にとって、どうしていいのか分からない状況に追い込まれてしまったとき、教育本部の皆様方からの的確なアドバイスが、どれほど“希望の光”となっていくことか。
 「地域の希望の灯台」とは、教育相談室を担当してくださっている先生方にお贈りした言葉です。相談室は、文字通り、暗夜の荒海を照らす「希望の灯台」のような光を放っています。
 現在、相談事例の7割を占めるのは、「不登校」に関することだと伺いました。原因はそれぞれ、さまざまだと思いますが、子どもを取り巻く社会自体が閉塞している昨今の時代状況のなかで、お子さん方も親御さん方も、どんなに苦しんでおられることか。そうしたご家族に応援の手を差し伸べる意義は、あまりにも深く、尊い。
 「教壇の教師」として、また「地域の先生」として、誇りも高く献身してくださる皆様方に、最大の敬意と感謝を表します。
 教育相談室は、幅広い年齢層が対象となっています。
 異なる一つ一つの状況に合わせ、丁寧に対応していくことで、現実に子どもが学校に戻ることができた事例も、数多くあります。親も子も、真心のサポートを得て、苦境を乗り越える力を湧きたたせ、強く朗らかに成長することができたのです。
 このたびの東日本大震災の被災地では、子どもたちの心のケアが叫ばれています。仙台教育相談室のメンバーが、避難生活を送る子どもたちのもとを訪れ、一緒に遊ぶなど楽しい交流のひとときに、明るい歓声が響いたと伺いました。
 悩む心に寄り添い、誠実に傾聴する皆様方の振る舞いは、菩薩そのものです。
 日蓮大聖人は、菩薩について、「自身を軽んじ他人を重んじ悪を以て己に向け善を以て他に与えんと念《おも》う者」(御書433ページ)と仰せになられました。
 人々の苦しみや悲しみに同苦し、自らが労苦を引き受けて、皆に希望と勇気を贈っていく戦いこそ、菩薩の真髄です。
 それは、教育相談室に脈打つ精神そのものなのです。
 ある中学生は、いじめから不登校になりました。母と一緒に、すがるような思いで教育相談室に行きました。
 迎えてくれた担当の先生は何も問い質そうとはせず、常に優しい笑顔で、一緒に楽しく卓球をしてくれたといいます。
 「この先生は味方だ。全てを受け入れてくれる人なんだ」──その安心感を支えに、高校へ進学し、歯を食いしばって通い抜きました。その後も専門学校で学び抜いて、立派に介護士の資格を勝ち取りました。
 「あの苦しんだ日々があるから、今の自分がある。今、自分が生きているのは、あの先生のおかげです。恩返しをしたい。自分も人のために役立つ仕事をしたい」との誓いからです。今は、同じ悩みを抱えた後輩たちのためにも、教育本部の方々と手を携えて献身してくれています。
 「一つ一つ勉強し、研修しながら、悩める子どもや親たちの相談を受け止めてこられた教育相談室の皆さんのご努力に心から敬意を表したいと思います」等と、識者の方からも多くの声が寄せられています。
 この教育相談室の活動が、時代に即応しつつ、地域の教育力の向上に、ますます重要な貢献を果たしていかれるよう期待しています。

「よき実践」こそ最高の教育理論

米デューイ協会・ヒックマン元会長
教育実践記録は貴重な事例研究 世界の教師たちも読んでほしい

 「教育相談室」とともに、新生の波動を広げている社会的活動が、「人間教育実践報告大会」や「教育セミナー」です。
 全国レベルの人間教育実践報告大会は、1976年(昭和51年)に開かれた東京・立川での第1回大会から、これまでに34回の歴史を重ね、各地で方面・県単位の大会も行われてきました。
 発表される教育本部の先生方の奮闘の模様が、毎回、大きな感動と共感を呼んでいます。当代一流の識者の方々からも、その意義を深く汲みとった講評をいただいています。
 「外から与えられた教育理論ではなく、子どもと直接触れ合い、だれよりも子どものことを知る教師の実践に裏打ちされた教育理論こそ今、必要なのです」と言われ、教育本部が蓄積してきた「慈愛」と「知恵」と「勇気」の3つの“実践知”を高く評価してくださる先生もおられます。
 また、ある先生は、「素晴らしい実践は、即、素晴らしい理論です」と賞讃してくださっています。
 “実践即理論”──個々の教育者の「実践」が「理論」として共有されれば、また新たな「実践」を生み出していく力となります。一人一人の教育現場での経験から、必ず良き知恵が触発され、さらに現場で生かされていきます。
 「教育社会にも一顧されない様な旧来の教育学を棄て、新しい教育学を実証的、科学的に蘇生せしめて、実際の教育生活に密接なる関係を保たせようとしたのが、この創価教育学である」
 こう宣言された牧口常三郎先生も、人間教育実践報告大会の展開を、いかばかり喜んでくださることでしょうか。皆様方の、地味に見える日々の努力こそ、創価教育の父・牧口先生に直接つながる価値創造の行動であります。
 ジョン・デューイ協会の会長を務められた南イリノイ大学のラリー・ヒックマン教授は、創価の「教育実践記録」について、「教室での問題解決のための非常に貴重な事例研究(ケーススタディ)」になると評価してくださいました。そして、「適切に編集し、世界各地の教師たちにも読めるよう出版していただきたい」とも望まれていました。
 現場に徹し抜いた人間教育の具体的な事例にこそ、全世界に通ずる普遍性の広がりがあるのです。
 さらに、この春に発刊された対談集『地球を結ぶ文化力』の中で、共著者である中華文化促進会の高占祥主席は、私が「教育実践記録」や「教育相談室」について紹介すると、次のような信念の言葉を贈ってくださいました。
 「青年は祖国の未来です。民族の希望です。人類の春です。家庭の朝日です。
 青年は、一つの“いまだ磨かれざる玉の原石”です。真誠をもって彫刻し、磨かなければなりません。
 青年は、一株の苗のようなものです。愛の心をもって、水を注がなければなりません。
 ……学校での教育だけではなく、あらゆる社会のすべての人々が言葉で教え、身をもって教えることが大切ではないでしょうか」
 どんなに遠大な社会変革の構想があっても、ただ演説するだけでは、世界は変わりません。
 眼前の一人の若き命に関わり、真心を込めて励ましを贈っていくことこそ、希望の未来を創り開きゆく最も確実な布石であります。
 その意味から、これからも、日々、胸を張って、黄金の実践記録を積み重ねながら、使命の大道を歩み抜いていただきたいと念願するものです。
 さて、「教育相談室」の相談内容でも、また実践報告大会の発表でも、「いじめ」やそれを背景としたものが少なくありません。
 いじめが原因で、未来のある青少年が自殺したというニュースほど、胸の掻きむしられる悲しみがあるでしょうか。
 「人格の尊重」「生命の尊厳」を、すべての根底にしなければならない。私の創立した創価学園では、「いじめ」も「暴力」も、断固として許しません。この問題については、私自身、これまでも幾たびとなく言及してまいりました。
 教育現場の先生方のお話では、年々、いじめの様相も変化し、捉え所がないほど複雑になってきているようです。しかし、現象面の変貌にかかわらず、いじめで苦しむ子どもがいるという事実は変わらない。
 「いじめられてもいい子」など、断じておりません。「いじめられる側にも原因がある」などと、いじめを正当化させても決してならない。
 「いじめは、いじめる側が100%悪い」──この本質を絶対に見失ってはなりません。
 最も重要なことは、「早期発見」です。クラスのちょっとした変化を見逃さない鋭敏な感性を磨くことです。そのためには、常に子どもたちと対話し、心の交流を重ねていくことが肝要ではないでしょうか。
 その上で、いじめが分かった時に何より大事なことは、いじめそのものを二度と起こさないようにすることです。“犯人捜し”は二の次です。かえって事態を悪化させてしまう場合さえあるからです。
 まず、いじめがあったという事実を、クラスならクラス全員が、きちんと見つめることです。加害者はもちろん、はやし立てた子も、傍観した子も含めて、誰一人として「自分は関係ない」という人はいないことを明確に伝え、「いじめは絶対にいけない」という意識を子どもたちと共有して、皆で乗り越えるために力を合わせることです。
 いじめは被害者を傷つけることはもちろんのこと、実は加担した子ども自身の生命をも傷つける罪悪であるからです。
 どの子も等しく、「幸福」になるために生まれてきています。
 御聖訓に断言されている通り、「いのちと申す物は一切の財の中に第一の財なり」(御書1596ページ)なのです。
 「いじめ」という“暴走”を生む、一つの原因に「差異」の排除があります。だからこそ、子どもたちと共に、一人一人の個性を大事にすること、また個性に違いがあるゆえに、相互の対話が大事であることを学んでいきたいと思います。
 私が共に対談集を発刊したデンマークの教育者ヘニングセン博士(国民高等学校アスコー校・元校長)は、「私たちは『差異のある世界』に生きています。ゆえに、『差異を認め合う』ことが、最も大切な点です。そして、『差異を認め合う』ことは、本当の対話のための必須条件なのです」と語られていました。
 差異を認め合う勇気を持って、対話に踏み出すことから、新しい道が必ず開けます。私自身、この信念で、今も世界との対話を続けております。

「子どもの声が届く社会」を!

 人は互いの多様性から学び合い、「差異」をむしろ価値創造の源泉とすべきです。「自由」と「放縦」、「幸福」と「快楽」、「差異」と「差別」をはき違えていると言われる現代社会にあって、子どもたちが「差異」を通して何を学ぶべきか、見つめ直す必要があるのではないでしょうか。
 また最近は、子どもたちが家庭においても、決して守られているとはいえない状況があります。その弱い存在の子どもたちが、自分より弱い立場にある子どもを見つけて、いじめているケースもあると聞きます。背景には、社会で抑圧されている大人の歪みが、子どもたちに投影されてしまっているという、いじめの連鎖があります。
 子どもたちを取り巻く環境を、「子どもの幸福」を根本思想とする「教育のための社会」へと転換していくことが、切実な課題です。そのための学校、家庭、地域、行政を含めた、子どもを守るネットワークの構築が求められます。
 「教育のための社会」とは、何にもまして「子どもの声が届く社会」といえましょう。
 子どもたちの小さな叫びに耳を傾け、それに応えていく社会であってこそ、大人も子どもも幸福で平和に生きることができる。子どもの幸福を追求することは、大人の喜びと生きがいにつながっていきます。
 子どもの声を代弁し、子どもの命を守り抜く、一人の教育者の声にこそ、その子を救うのみならず、家庭を救い、社会のありようをも変える力が秘められていると、私は祈りを込めて強く申し上げたいのです。

我らの使命は「生命の安全地帯」

インドネシア・ワヒド元大統領
家庭や学校、隣人からも誠実と寛容を教えられた

 2010年10月、創価教育の80周年を記念するシンポジウムが神奈川文化会館で開催されました。その折、教育実践記録の3000事例を対象にした分析結果の報告を受けたことを、私は鮮明に覚えております。
 そこでは、教師に望まれる子どもへの「5つの関わり」が抽出されていました。
 その5つとは──
 1.「信じぬく」
 2.「ありのまま受け容れる」
 3.「励まし続ける」
 4.「どこまでも支える」
 5.「心をつなぐ」
 教師のみならず、人材を育成する上で、心すべき「関わり」「結びつき」の指標といってよいでしょう。
 私は教育提言「『教育のための社会』目指して」で、「人間が人間らしくあること、本当の意味での充足感、幸福感は、“結びつき”を通してしか得られない」と指摘しました。
 “結びつき”は相互作用です。子どもは一方的に大人から庇護される存在ではありません。やがて独り立ちし、自ら他者と結びつくことを学びゆく、一個の尊い人格です。
 ゆえに、子ども自身が「自分の人生を切り開く力」を養うとともに、「人とのつながり」「心の結びつき」を大事にできる感性を育んでいくことが、不可欠であります。
 子どもが悩みや苦しみに負けず、一緒に力を合わせて困難を乗り越えていけるように、懐深く支えていく大人の存在が何より大切です。
 信頼できる大人が見守り、励ましてくれることは、子どもたちに安心と向上をもたらしていきます。
 私が対談した、忘れ得ぬインドネシアの哲人指導者・ワヒド元大統領がしみじみと語っておられました。
 「祖父や父だけでなく、学校の先生や地域の人たちからも、誰に対しても誠実に接し、寛容の精神を持つことの大切さを教えてもらいました。
 私が尊敬するのは、どんな困難があっても、決して退かない精神がある人です。たとえ逃げ出したくなるような状況にあっても、自らを鼓舞するだけでなく、多くの人にも同じ実践ができるようにする存在であります」
 いかなる苦難にも、若き生命が伸び伸びと成長するための盤石なる安全地帯が、わが教育本部です。ここに我らの重要な使命があります。
 教育現場が、いかに厳しい状況にあろうと、「子どもが主役である」との視点を堅持し抜いていきたい。「自らが価値創造していく力」と「他者と結合していく力」を、子どもたちが身につけることが、幸福へ前進していく最善の道だからです。
 自ら価値創造し、他者とつながっていく──これは、仏法を実践する基本である「自行化他」にも通じています。
 この両翼こそが、子どもたちが人生の大空へ羽ばたき、幸福を勝ち取っていく原動力といってよいでありましょう。
 「教育は、人間生命の目的である」──これは、世界的な名門学府であるアメリカ・コロンビア大学の仏教学者、ロバート・サーマン博士の信条です。私は「社会のための教育」から「教育のための社会」へというパラダイム(思考的枠組み)の転換を、このサーマン博士との交流から着想しました。
 博士は、そのことを大変に喜んでくださいました。ご自身も「教育のための社会」というビジョンを、「釈尊の教えに学んだものです。仏の立場から見れば、人間はすべて、かけがえのない宝物です。そして、その宝物である人間は、生涯にわたり(地獄や奴隷のような状況から解放される)自由と機会を与えられた存在なのです」と述懐されています。
 仏法の中から、最高の人間教育の真髄を美事にくみ上げられたのです。慧眼です。
 博士は、こう結論されました。
 「人間は何のために生きるのか──それは学ぶためである」と。
 私も全面的に賛同いたします。
 学ぶことは、生きることです。
 生きることは、学ぶことです。
 そこに、生命の成長があり、人生の幸福があります。
 あえていえば、「人は、自らを教育するために生まれてきた」のです。
 迫害の中でも学ぶことを手放さなかった大詩人ダンテは、自著に次の箴言を記しました。
 「われ若し片足を墓に入れるとも、知識を得ることを欲するであろう」
 すべての子どもたちが「教育」という人生の究極の目的が果たせるよう、日夜、教育現場で奮闘し、「教育相談室」や「人間教育実践報告大会」(人間教育フォーラム)などを通じて地域・社会の教育力の向上に取り組んでおられる教育本部の皆様は、私にとって、喜びも苦しみも分かち合う無上の同志です。
 法華経には、生命尊厳の極理を弘めて人々を救おうとするならば、「如来の室」に入り、「如来の衣」を着し、「如来の座」に座って説くべきであると示されています(法師品の「衣座室の三軌」)。
 もともと仏法の弘教の方軌ですが、私は人間教育の要諦にも通ずると拝してきました。
 「如来の室」とは「仏の大慈悲心」のことです。敷衍して申し上げれば、大きな慈愛の中に、子どもを包み込んで、「抜苦与楽」の対話をしていくことです。「教育相談室」という「室」それ自体が、そうした慈悲に満ちているといっても、過言ではないでしょう。
 「如来の衣」とは「柔和忍辱の心」です。何があっても揺るぎなく、柔和な笑顔で子どもたちを受け止めて、忍耐強く励まし続ける力です。
 さらに「如来の座」とは、少々難しい表現で「一切法空」と説かれ、あらゆるものに不変の実体はないと知る智慧を意味します。ややもすれば、先入観念など、教育現場で陥りがちな思い込みを排し、現実の課題に柔軟に即応して、どこまでも「子どもの幸福」のために自在の智慧を発揮していくことでしょう。また、「御義口伝」に、如来の座について「不惜身命の修行」(御書737ページ)と仰せの如く、わが身を惜しまず戦い抜くことが、その極意です。
 私たちは、この仏と一体の慈愛と忍耐と智慧を、いやまして光らせながら、「教育のための社会」へ、また「いじめのない社会」へ、そして「すべての子どもたちが幸福に輝く社会」へ、勇気凛々と邁進していこうではありませんか!

 ヘニングセン博士の言葉は『明日をつくる“教育の聖業”』(潮出版社)。ワヒド元大統領の言葉は『平和の哲学 寛容の智慧』(潮出版社)、ダンテが記した箴言は『饗宴』に引かれたセネカの言葉(中山昌樹訳、日本図書センター)=現代表記に改めた。
2012-04-30 : わが教育者に贈る :
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わが教育者に贈る 2

わが教育者に贈る

第2回 教師こそ最大の教育環境なり
            (2012.3.2/3付 聖教新聞)

教育は子どもを信じ抜く戦い

青年教育者の誓願の祈り

全生徒から信頼される先生に
全教職員から信頼される先生に
全保護者から信頼される先生に


 「教師こそ最大の教育環境なり」──これは、私が教育本部の皆さん方と深く共有する信念です。
 まもなく卒業の季節を迎えます。若き命は、学校から巣立っても、お世話になった先生のことは、いつまでも忘れないものです。皆さんの中にも、そうした先生との出会いが教育者を志すきっかけとなった方がいるでしょう。
 私も、この年代になってなお、小学校で担任してくださった先生方のことを、尽きることのない感謝を込めて思い起こします。手島先生、日置先生、竹内先生……先生方が着ていた服の色合いまで、鮮やかに記憶に蘇ります。
 小学5、6年生の担任であった檜山浩平先生は、当時、25、6歳。今の皆さん方と同じく、情熱に溢れた青年教育者でした。
 ある日の授業中でした。私のすぐ後ろに座っていた同級生が突然、具合が悪くなって嘔吐してしまいました。皆、びっくりして、教室中が大騒ぎになりかけました。その時、先生は、すばやくその子のもとへ駆け寄り、介抱しながら、凛とした声で呼びかけました。
 「みんな静かに! 大丈夫だよ」
 その声に安心して、クラスは落ち着きを取り戻しました。さらに先生は、ぞうきんを使って手際よく掃除してくださったのです。
 先生は、とっさの出来事にも少しも慌てず毅然と、しかも、こまやかに、行動してくださいました。
 「先生はすごいな!」
 私の心に、深い感嘆とともに、リーダーの一つの手本が生き生きと刻みつけられました。
 現在、私は、中国教育学会の会長を務められる大教育者・顧明遠先生と対談を進め、中国と日本の教育の課題、また人間教育の理念と実践などを巡り、意見を交換しています。
 両国の教育交流に早くから尽力されてきた顧先生は、福島県にも度々訪問されており、東日本大震災にも心からのお見舞いを寄せてくださいました。
 「福島県の美しい風景、文化教育を今も印象深く覚えております」と振り返られ、参観された模範的な環境教育への感銘も語っておられました。
 私と同年代の顧先生は、戦争で苦しんだ少年時代に、厳として守り育んでくれた先生方への感謝を語られながら、「教育の大計は教師が根本です」と力説されておりました。
 教師の役割について、「子どもたちを愛し、正しい教育方法を常に探求し、知識と人格の両方を育てること」と指摘されるとともに、「教師の生徒への愛は、親子の血縁を超えて、民族への愛であり、人類の未来への愛の表現なのです」とも強調されています。
 顧先生が大震災の被災を案じておられた福島でも、教育本部の方々が、まさに、わが子にも勝る愛情をもって、子どもたちを厳然と守り、育まれています。昨年秋の「東北人間教育フォーラム」で、代表の方が行った素晴らしい実践報告の内容にも、私は感動に胸を熱くしました。
 東北をはじめ全国、全世界で、わが創価の若き人間教育のリーダーたちは、児童・生徒への慈愛を真剣な祈りに込めて、日々努力を重ねています。
 祈りから朝をスタートし、満々たる生命力を湛えて、使命の最前線に颯爽と躍り出る。ここに「仏法即社会」「信心即生活」という日々の充実と勝利を開く根本があります。
     ◇ ◆ ◇
 ある年の春、大学を卒業して教育者としてスタートする学生部の友に、私は、朝の勤行の時に3つの具体的な祈りを心がけるよう、アドバイスをしたことがあります。
 第1に「全生徒から信頼される先生にさせてください」
 第2に「全教職員から信頼される先生にさせてください」
 第3に「全保護者から信頼される先生にさせてください」
 ──以上の3点です。
 心は自在です。祈りも自在です。
 たとえ新任の教員であっても、祈りを通して、「生徒」「教職員」「保護者」という3つの次元から、学校全体のことを、わが一念に納めながら、力強く新風を起こしてもらいたい──そうした願いを託した指針です。
 今回は、この3点を敷衍しながら、今春から教壇に立つフレッシュマンをはじめ、青年教育者の皆さんの何らかの参考になればとの思いで、所感をつづらせていただきます。
 第1は「全生徒(全児童)からの信頼」です。
 子どもからの信頼を勝ち取るには、まず、自分が子どもを信頼することです。すなわち、一個の人格として尊敬し、その可能性を信じ抜くことです。どんな子どもに対しても、公平にこの姿勢を貫いていく時、「一人」の心と、信頼の絆が結ばれる。それが「全生徒からの信頼」に広がります。

どの子も公平に人間として尊重

 私が共に対談集(『明日をつくる“教育の聖業”』潮出版社刊)を刊行したデンマークの著名な教育者・ヘニングセン博士が、教師として心掛けるべきことの第一に挙げておられたことがあります。それは、「才能、能力、考え方に関係なく、あらゆる学生を人間として尊重しなければならない」という点です。
 現代社会は、効率が優先される社会です。いわゆる“優勝劣敗”の原理が働き、さまざまな格差が増幅されてしまう面があります。
 学校も、そうした現実社会の冷たい風波から免れることはできないかもしれません。
 しかし、教育者の慈愛が脈打つ教育現場には、一切を超克して、凍えた子どもたちの心を抱きかかえて、温める人間の情熱があります。
 それこそが「信頼」の力ではないでしょうか。
 創価教育の父・牧口常三郎先生は、若き日、辺地で貧困に苦しみ、恵まれない境遇の子らの教育に体当たりで取り組みました。
 当時、最も光の届かない家庭の子どもたちでした。
 だからこそ、若き熱血の教員・牧口青年は叫んだのであります。
 「等しく生徒なり、教育の眼《まなこ》より視て何の異なる所かある」
 「彼等の唯一の庇蔭《ひいん》(庇ってくれる存在)は教師あるのみ」
 世間の眼差しがどんなに冷酷であろうとも、「教育者の眼」は子どもの尊厳と可能性を信じ抜いていくのです。
 社会の烈風がどんなに荒れ狂おうとも、「教育者の慈愛」は子どもを断固として守り、未来への道を開き切っていくのです。
 自分のことを見捨てず、信じ抜いてくれる先生がいる──そう思えることが、子どもたちにとって、どれほど生きる勇気となり、伸びゆく力となるか、計り知れません。
 学校には、勉強の成績という大きな物差しがあります。もちろん学びの場である以上、大事な基準であることは間違いありません。
 ただし、未来への無限の創造力を秘めた若き生命の全体に光を当てるならば、それは、あくまでも現時点での一つの物差しに過ぎない。
 創価学園に1期生が入学した年の師走、私は成績が伸び悩んで、進級が危ぶまれる高校生たちと面談し、励ましを贈ったことがあります。
 当初、生徒たちは、叱られるのではないかと緊張してやってきました。私は、その心をほぐしながら、体調や通学時間のこと、家の状況など、具体的に尋ねていきました。何か勉強の妨げになっている問題があれば、できる限りの応援をしたかったからです。その中で、本人たちが自分から「勉強、頑張ります!」と決意を語ってくれました。
 私は、「成績が悪かったからといって、卑屈になってはいけない。今度こそ、今度こそと、挑戦していくんだよ」「得意科目をつくろう」「1ミリでも、2ミリでもいい。決してあきらめずに努力して、前進していくことが大事だよ」と勇気づけました。
 一人一人が、それを一つの転機として発奮してくれました。猛勉強を重ねて、やがて堂々たる大学教授となった友もいます。
 しかも、何より嬉しいことは、わが学園生たちが、そうした社会的な肩書に傲るのではなく、悩み苦しむ庶民の人間群に飛び込んで、世のため、人のために、泥まみれになって戦い続けてくれていることです。
 私は、学園生や創大生、また学園・創大を受験してくれたメンバーをはじめ、若き友を一人また一人と見守り、その成長と勝利を祈り抜いてきました。ゆえに、大確信をもって言い切れることがあります。
 それは、「どの子も必ず伸びる」「人間はみな成長できる」「生命はもっともっと光り輝かせることができる」ということです。そして、ここにこそ人間教育の希望があり、ロマンがあると、私は信じています。

「教育のための社会」の旭日に


牧口先生

劣等生なんていない 皆が優等生になれる

 学校全体の調和と発展を願う青年教育者の祈りは、児童・生徒を包み、さらに、その子どもたちに関わる教職員にも広がっていくものでしょう。
 祈りの第2の項目は、「全教職員からの信頼」です。
 教育現場は、教育という「総合芸術」の舞台です。共に働く教員の方はもちろん、とくに、学校を陰で支えてくださる職員の方を大切にすることを心がけていきたい。
 学校は、ともすれば教員が主、職員が従になりがちです。しかし、職員の方々の尊き陰徳の支えなくして、子どもたちの健やかな学校生活も、学校の確かなる運営もできません。陰の人を大切にする感謝の心こそ、学校という世界を信頼で結合し、麗しき人間教育の園とする力ではないでしょうか。
 2001年、カリフォルニア州オレンジ郡に開学したアメリカ創価大学(SUA)も、実に多くの方々の真心があればこそ、目覚ましい大発展を遂げることができました。
 学生生活の一切の原動力である食事を担当する学内食堂のスタッフも、食習慣の異なる世界の各国から集った学生たちのためにと、それはそれは真剣に心を配り、工夫を凝らしてくださっています。
 その中に、“SUAのお母さん”と慕われる調理スタッフの婦人がいました。「わが命である学生を、よろしくお願いします」との私の心に応えて、50代から大学の調理科で学び磨いた料理の技と、心づくしの“おふくろの味”で学生たちを力づけてくれたのです。体調を崩して寮で心細く寝込んでいる時、このお母さんの温かな差し入れに感涙した学生など、エピソードは枚挙に暇がありません。
 昨年、SUAの卒業生たちは、このお母さんの10年間の勤務に最大の尊敬と感謝を込めて、同窓生の総意として、真心からの賞を贈呈したと聞いています。
 最先端の学識への旺盛なる探究とともに、お世話になった方々の恩義に報いていこうとする豊かな人間性の涵養が、SUAの誇り高き伝統となって光っています。
 SUAを訪問した多くの世界の識者の方々も、この点に注目しておられました。連載の第1回でご紹介したデューイ協会のガリソン博士は、学生や教授陣が、大学の職員と親しく心を通わせ、対話を交わす姿を見て、「これだけでも私は、SUAが実に素晴らしい学舎《まなびや》だと感じました」と、私との対談で語っておられました。
 ともあれ、それぞれの学校に、目立たなくとも、なくてはならないスタッフがいます。そうした方々と共に手を携えていく中で、多くのことを学び、自らを省みることができます。
 とともに学校は、どの職場にもまして、朝が勝負です。「朝に勝つ」こと、そして「清々しい挨拶」から一日を出発していきたいものです。
 御書に「釈尊の出世の本懐は人の振舞にて候けるぞ」(1174ページ)とあるように、仏法では「人の振る舞い」を重視します。善き人間としての善き「振る舞い」ができてこそ、真実の人間教育は可能となりましょう。
 さらにまた、自らの教育技術の向上に徹して取り組むことです。
 牧口先生は「いわゆる劣等生とは、みんなが勝手にいっているにすぎない。子どもたちに、考える基本をしっかり教えたうえで、その能力を発揮させれば優等生になるのだ」と主張されました。教授法を徹底して研究し、発展させることを、教師の本分とされたのです。教師の努力と知恵によって、子どもたちの学力は大いに伸ばしていくことができるからです。
 現在、自分の夢だった新聞記者として活躍する青年の話を聞きました。
 転機は小学4年生の時です。当時は、勉強が大の苦手でした。担任の先生は、宿題の出来具合にそって、“花丸”の印を付けてくれたといいます。よくできたら1個、さらに3個、5個と。花丸が多い人の宿題は、みんなが見えるところに掲示されました。
 他人との比較ではなく、子ども一人一人の頑張りを受けとめて、讃えてくれたのです。掲示されるのがうれしく、誇らしくて、どんどん宿題をするようになり、気がつけは学力が伸び、勉強が好きになっていたといいます。
 本来、子どもたちは、皆、わかりたい、知りたいという向学の心を持っています。その思いを、どう引き出し、どう応えていくか──ここに、経験を積み、創意を重ねながら、鍛え上げていく教育技術があります。
 よき先輩教員からも大いに吸収し、よき同僚と大いに切磋琢磨していくことです。開かれた向上の姿勢があってこそ、周囲の教職員から信頼を勝ち取ることができるのです。
      ◇ ◆ ◇
第3に「全保護者からの信頼」です。
 御聖訓には「大悲とは母の子を思う慈悲の如し今日蓮等の慈悲なり」(御書721ページ)と仰せです。
 教育の起点が、子を育む母の慈愛にあることは、あらためて申し上げるまでもありません。
 子どもの幸福の大地は、家庭から広がります。子どもたちを学校へ送り出してくれる保護者の方々との信頼と連携は、誠に重要です。
 ある女性教育者の奮闘を伺いました。
 担当のクラスは荒れていました。一人の男子児童が中心となって乱していたのです。この子さえいなければと思いつめるまで、気持ちが追い込まれたこともあるといいます。
 しかし、祈りを重ねるなかで、問題を抱えた家庭に育ち、そのストレスのために学校で暴れていた、児童の心が痛いほど伝わってきました。
 一番苦しんでいるのは、その児童自身であることに気付いたのです。
 「よし! 私自身が、あの子の一番の安全地帯になろう。すべてを受け止めていこう」と決心し、毎朝、自分から声をかけ、できたことはすぐにほめるようにしたそうです。帰る際には、どんなことがあっても笑顔で見送ったといいます。
 また、その子の良い面を見つけては、一つ一つ、親御さんにも伝えるようにしました。当初、子育てに自信を失っていましたが、明るくなって、学校にも相談に来るようになりました。
 すると、その児童は目に見える形で変わっていきました。友だちに謝れるようになり、仲良く過ごせるようになっていきました。親御さんも、「息子はこの1年間で本当に変わりました。たくさんお手伝いしてくれ、笑顔が増えました。本当にありがとうございました」と、涙を流し語ってくれたそうです。
 教育は、学校制度の中だけで行うものではありません。
 家庭、地域、社会……子どもたちを取り巻く環境を、その子の教育のために、最善の環境にしていくこと──私は、それを「教育のための社会」の一側面として提言してきました。
 学校と家庭、学校と地域、それぞれが声を掛け合い、力を合わせて、子どもたちを守り、育んでいくこと。そのチームワークが、今ほど要請される時代はありません。良識豊かに学校と教師を支えていく保護者の協力も、ますます大事になっています。
 保護者から教師への信頼は、教師が安心して子どもたちのために尽くせる自信となります。
 一般社会に、いわゆるクレーム(苦情)が渦巻いている世相のなかで、学校に寄せられる声にも、さまざまなものがあることでしょう。
 教師の人知れぬ苦労を、保護者をはじめ社会全体が理解し、温かくサポートしていくことを、忘れてはならないと私は思います。
 そのうえで青年教育者の皆さん方に、お願いしたいのは、一つ一つが勉強であると心を定めて、誠実に、聡明に、毅然と、そして忍耐強く、「子どもの幸福」のため、家庭と共に前進していくことです。
 また、若い教育者である皆さんには、自分自身が一人の子どもとして親孝行をしていただきたい。その努力は、保護者の心の機微を理解し、汲み取ることにも通ずるはずです。「親を思う子の心」と「子を思う親の心」は響き合わないわけがないからです。
 ある時、第一線で苦労を重ねる先生方と、語り合ったことがあります。
 ──仏法の“永遠の生命観”から見れば、今世で出会う人は、すべて何らかの宿縁がある。うんと手のかかる子や、難しい保護者の方などは、自分がきっと過去世に何かでお世話になった方と思い、その恩返しと決めて、真心込めて接していこう。それくらい、大らかな悠々たる気持ちで、人間教育の聖業を断行していこうではないか、と。
 御書には、こう仰せであります。
 「一度妙法蓮華経と唱うれば一切の仏・一切の法・一切の菩薩・一切の声聞・一切の梵王・帝釈・閻魔・法王・日月・衆星・天神・地神・乃至地獄・餓鬼・畜生・修羅・人天・一切衆生の心中の仏性を唯一音に喚び顕し奉る功徳・無量無辺なり」(557ページ)
 私たちの唱える題目には、ありとあらゆる人の生命から、仏性という最極の善性を呼び覚ましていく響きがあります。朝の強盛なる祈りから、「子どもの幸福」という大目的に向かって、全生徒、全教職員、全保護者の力を引き出し、結集しゆく、希望の回転が着実に始まるのです。
 大事なことは、毎日毎日、太陽のように、たゆまず、我慢強く持続していくことでしょう。
 どうか、「祈りとして叶わざるなし」の信心を根本に、大仏法の「勇気の力」「忍辱(忍耐)の力」「随縁真如の智慧」を光らせ、一つ一つ“勝利の実践記録”を打ち立てていってください。
 青年教育者のはつらつたる挑戦が、みずみずしい教育環境を創造します。ここにこそ未来を照らす偉大なる旭日があると、私は確信してやみません。
2012-03-04 : わが教育者に贈る :
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わが教育者に贈る 1

わが教育者に贈る

第1回 青年から『共育』の新時代を
            (2012.2.1/2/3付 聖教新聞)

我らは永遠に「人間教育」が起点

 厳しい寒さが続いております。各地で大雪の被害が甚大になり、雪の事故も起きていると伺っています。心よりお見舞い申し上げます。
 また、こうした中、子どもたちの無事安全を、わが子以上に心配してくださっている教育本部の皆様方のご苦労が思われてなりません。
         ◇
 「『人間性を形成する』──これこそはわれわれの世紀の誉れだ」
 ドイツの大文豪ゲーテが若き日に師と仰いだ、文学界の指導者ヘルダーの叫びです。
 教育は、人から人へ、人間性の真髄を生命深く育み、伝えゆく聖業です。
 教育は、たゆまずに人間を創り、文化を創り、平和を創る力です。
 教育は、人生の黄金の柱、社会の黄金の柱、未来の黄金の柱です。
 学会は「創価教育学会」として、この教育から出発しました。いな、私たちは永遠に「人間教育」を起点とします。
 初代・牧口常三郎先生も、教育者でした。
 第2代・戸田城聖先生も、教育者でした。
 そして、第3代の私も、教育こそ人生の総仕上げの事業と定めてきました。
 牧口・戸田両先生の悲願であった、創価学園・創価大学、また、世界各地の創価幼稚園、さらにアメリカ創価大学を創立し、師の構想の通り、社会に人類に貢献しゆく英才を育成してまいりました。
 この3代にわたる大情熱を直接に受け継いで、最前線の現場で献身してくださっているのが、敬愛する教育本部の皆様方なのです。
 日夜、子どもたちのため、どれほど真剣に祈り、悩み、努力を重ねておられることか。人間教育の不二の盟友である皆様方のことは、私の胸奥から離れたことはありません。
 とりわけ、教育の危機が憂慮される現代にあって、幾多の難問に直面しながら、懸命に力闘されている、誉れの青年教育者の友に、私は少しでもエールを送りたいと常に思ってきました。
 これまでも折々に、教育への提言を発表してきました。今回は、青年教育者の方々と、わが創価大学のキャンパスで語り合うような思いで、教育に関する所感を綴らせていただきます。
        ◇
 「無上宝珠」──『創価教育学体系』では、子どもたちの生命が、この最大の尊称で呼ばれております。
 子どもたちの生命こそが、何ものにもかえ難い尊極の宝である。その生命に関わるがゆえに、教育こそが「人生の最高にして至難の技術であり、芸術である」と、厳粛に宣言されているのであります。
 牧口先生と若き戸田先生との師弟の結実である『創価教育学体系』が発刊されたのは、1930年(昭和5年)の11月18日です。
 それは、関東大震災から7年後でした。さらに前年から世界恐慌の嵐が吹き荒れ、直前には日本の首相が国粋主義者から狙撃されるという騒然とした時代でありました。
 そうした渦中に、「1千万の児童や生徒が修羅の巷に喘いでいる現代の悩みを、次代に持ち越させたくない」との断固たる決心をもって出版されたのであります。

マハトマ・ガンジーの信念
内なる灯火が輝くときそれは全世界を照らす

平和を実現するなら子どもから
 ──宝の中の宝である子どもたちの生命を、絶対に守り抜くのだ。子どもたちを、断じて不幸にしてなるものか。子どもたちの幸福こそを第一義とするのだ──。
 まさしく、乱世の真っ只中で、この師子吼をもって、創価教育は誕生したのであります。
 昨年3月の東日本大震災によって、あまりにも多くの尊き命が奪われました。御家族の悲しみは、いかばかりか。私は、毎日、懇ろに追善回向の題目を送らせていただいております。
 言語に絶する悲劇の中から、後世への教訓を留めることが、失われたかけがえのない命に報いることになるならば、「釜石の奇跡」と呼ばれる事例は、その一つでありましょう。教育界にも大切な大切な教訓を残してくれました。
 岩手県釜石市では、津波によって多くの犠牲者が出ました。
 この耐え難い被害に遭いながら、市内の小・中学校のほとんどの児童・生徒が、津波から逃れることができたのです。
 これは、学校にいた児童・生徒はもちろん、下校していた子どもたちも、多くが自分自身で判断して高台に避難したことによるものです。ここ数年、繰り返し行われてきた「防災教育」の賜でした。
 自らの力で自分たちの大切な命を守り、何があっても互いに信じ、助け合いながら生き抜いていく──この「人間への信頼」「自立の心」を育むところに、人間教育の根幹があるといえましょう。
 教育とは、大人が考える以上に子どもたちの心を錬磨していくものであると、「釜石の奇跡」は、あらためて気づかせてくれました。
 さらに今、復興へ刻苦奮闘されている被災地の方々の励みとなっているのもまた、健気な子どもたちの明るい姿であると伺っております。
 もとより、大震災が子どもたちにもたらした衝撃は、言い尽くせないでしょう。
 しかし、それでもなお、子どもたちは太陽の心を輝かせて、家庭に地域に、希望を贈ってくれています。
 「被災地の学校に、再び子どもたちの笑顔が戻り、楽しく賑やかな快活な声が響いている。その平凡な日常が、実は何よりも尊く、何よりも素晴らしいことであると、心新たに感動しました」
 こう東北の教育者の方が、語っておられました。
 子どもたちを慈しんでやまなかったインドの非暴力の英雄マハトマ・ガンジーは、明言しております。
 「もし私たちが、本当に世界の平和を実現したいと願うなら、それは子どもたちから始めなければならない」
 「内なる灯火《ともしび》が輝くとき、それは全世界を照らす」というのです。
 子どもたちの幸福の「内なる灯火」を一人一人、今日も明日も、ともしながら、世界の平和へ、希望の光を広げていく炎こそ、教育本部の皆様方の熱情でありましょう。

 ヘルダーの言葉は『世界の名著38』所収「人間性形成のための歴史哲学異説」小栗浩・七字慶紀訳(中央公論新社)。

教育は「子どもの幸福」のために

民衆詩人ホイットマンの教育者観
・初めは一歩一歩の導きを
・自立できるよう励ましを
・知を愛することを教えよ

 わが教育本部は、今、人間教育者モットーを掲げ、力強く前進しています。
 一、「子どもの幸福」第一の教育者たれ!
 一、人間革命の道を勝ち開く教育者たれ!
 一、生命の輝きで実証示す教育者たれ!
 牧口先生・戸田先生が体現された創価教育の精神は、ここに脈々と躍動しています。
 第1項目の「幸福」とは、人から与えられるものではありません。
 地位や財産を手にしても、それで幸福とは限らない。また、今、幸福のようであっても、それがいつまで続くかわからないのが現実です。真の幸福は、どのような境遇にあったとしても、「今から」「ここから」、自分で創り出していくものです。
 牧口先生は「子どもの幸福」を「価値創造の能力を涵養するにあり」と示されました。つまり、子ども自身に「如何なる方面にでも活路を開拓して進行することの出来る能力を持たせんとする」ことです。
 自身の関わる子どもたち一人一人から、日々、この「幸福を創る力」すなわち「価値創造の力」を引き出していく教育の営みは、何と誇り高さ挑戦でありましょうか。
 それはモットーの第2項目にあるように、教育者自身の「人間革命の道」でもあります。そして、第3項目にある通り、わが「生命の輝き」を生き生きと放ちながら、子どもたちと共に学び、共々に成長し続けていくことでありましょう。
 牧口先生は述べられました。
 「教授の目的は興味にあり。智識そのものを授けるよりは、これより生ずる愉快と奮励にあり」
 はじけるような学ぶ喜び、わくわくするような探求の楽しさを、子どもたちと分かち合う。そして新しい世界を広げながら、知恵と創造性を育んでいく学習の在り方が促されております。
 多くの大人が、残念ながら、いつしか学ぶことをやめ、成長を止めてしまう中で、学びの場、成長の場に身を置いて、自らを向上させていけることは、教育者の特権であるといっても過言ではありません。
 アメリカの民衆詩人ホイットマンは、理想の教育に関連して自身の教育者観を語りました。
 「初めは、良き導き手となって一歩一歩を先導し、ただ書籍から教えようとするのではなく、自分で考え行動できるように、その心の働きを磨き鼓舞してあげることである。そして“知を愛すること”を教え込むことだ」
 ホイットマンは、教師としての経験もありました。たしかに、優れた授業は、一編の詩のように、若き心を鼓舞してやまない芸術そのものです。
 とはいえ、現実は厳しいでしょう。特に、いまだ経験の浅い青年教育者の皆さんには、失敗や試行錯誤もあるに違いない。
 しかし、偉大な教育者であられた牧口先生も、若き日には授業で悪戦苦闘する、皆さんと同じ青年教育者の一人であったことを、思い起こしていただきたいのであります。
 牧口先生は、北海道尋常師範学校(現・北海道教育大学)に学ぶ21歳の時、教員の欠員が出たため、急遽、教生(教育実習生)として初めて教壇に立つことになりました。
 牧口先生は、当時の心境を、率直に回想されています。
 「生れて始めて教壇に上ったのであるから、その狼狽振りは思いやられる。それでもまあ子供等が云うことを聞いたものだ、と今でも冷や汗がでる」と。
 この折、牧口青年が一番、苦労したのが、綴り方(作文)の授業です。十分な知識や経験もなく、教科書もない中で、知恵を絞りながら、懸命に教案の作成に取り組みました。
 実は、この時、牧口先生が必死に考案した綴り方の指導方法は、子どもたちが自らの力で作文が書けるよう、段階的な誘導を目指した、きわめて優れたものだったのです。
 のちに牧口先生は、この指導教案こそ、『創価教育学体系』の全編を貫く思想の中核になったと位置づけられています。
 自ら「戦々恐々たる暗中模索の新米教師の初陣」と述べた、若き日の渾身の挑戦が、やがて創価教育学の土台となり、源泉となったのです。
 「創価教育の父」が、青年教育者の皆さんに、「今の苦労は必ず未来に花開くよ」と、限りない励ましを危ってくれていることを忘れないでください。
 いかなる道であれ、最初から名人、達人と言われる人などおりません。皆さんは若いのです。失敗を恐れず、明るく、たくましく、前へ前へ進んでいけばよいのです。
 法華経を実践する根本の魂は、「勇猛精進」です。

努力し抜く命に人の努力は映る

 社会事業の中で子どもの教育に携わった、アメリカの人権の母エレノア・ルーズベルトも語っています。
 「人生に勇敢に真正面から取り組む人は、経験とともに成長するものです。人格は、このようにして築かれていくのです」と。
 教育者自身が常に前向きに創意工夫を続けている息吹は、そのまま子どもや生徒たちの心を勇気づけ、無言のうちに励ましとなるものです。
 自分が努力し苦労している命には、人の努力や苦労も、鏡の如く映し出されます。わが生命の鏡を研ぎ澄まして、子どもたちの頑張りを見逃さず、ほめてあげられる教育者でありたいものです。
 子どもたちは、一生懸命に努力したことをほめられたり、喜ばれたりすることが、何よりも嬉しいものです。その時、子どもは幸福を実感するともいえましょう。
 被災地の子どもたちも、自分たちの笑顔によって、皆が元気を取り戻す姿を見ることが嬉しい。だからこそ、つらくとも笑顔を見せてくれる。何と、いじらしいことでしょうか。
 御書にも「ほめること」が持つ力について、「金はやけば弥《いよいよ》色まさり剣《つるぎ》はとげば弥利《と》くなる」(1241ページ)と譬えられています。
 子どもたちの生命に具わる、黄金のような善性も、宝剣のような才能も、大いにほめて伸ばしていきたい。
 その子ならではの「よい点」や「頑張っていること」を見つけ出して、時に応じて真心こめて讃えていただきたいのです。

共に学び共々に成長を


アメリカの教育者デューイ
一人の人間、一つのグループのなし遂げたことが次の土台に

 私は、牧口先生・戸田先生が敬愛してやまなかったアメリカの教育哲学者ジョン・デューイ博士をめぐって、デューイ協会の会長を務められた2人の碩学、ラリー・ヒックマン博士とジム・ガリソン博士と有意義な語らいを重ねてきました。
 デューイ博士の教育哲学の中心は、「成長」であります。
 お二人との鼎談では、その「成長」とは、人と人との関係を通し、社会の中で磨き深められていくものであり、個人の成長は自ずと他者の成長、社会の成長にも寄与するものであることを語り合いました。
 一人の「個人の成長」が「他者の成長」を促し、周囲や社会の成長をも促していく──まさに、偉大なる「人間革命」の原理です。
 ゆえに、教師自身が成長すれば、子どもたちも必ず成長します。また、教師自身が成長するためには、子どもたちの成長に学ぶことです。
 教育は「共育」──教師も生徒も共に育って、成長していくことなのです。
 自身も大教育者として、多くの青年を育ててこられたガリソン博士は、こう語られていました。
 「教師は、生徒たち一人一人を観察し、実験を試み、省察して、彼らのことを学びながら、あくまでも思いやりのある、深い共感を最も大切にしなければなりません。
 よき教師は、生徒たちと一緒に学ぶことを、また生徒たちについて学ぶことを、大いに楽しむものです」
 「子どもたちから学ぼう」「一緒に成長しよう」とすることは、一人一人の人格を最大に尊重することになる。その心は、必ず伝わります。
 「子どもを尊重せよ」「子どもの考え方にたいして、その仲間であり、子どものもつ友情にたいして、友であれ」
 これは、アメリカ・ルネサンスの哲人エマソンの呼びかけでした。
 一人の人間として、大切な友として、子どもたちに接する時、その子が自分でも気づいていない長所まで如実に見えてきます。
 教師の信頼と期待にあふれた一言一言こそ、子どもたちを大きな自信と安心感で包み、その可能性を伸びやかに開花させていく力となるでしょう。
 いわんや皆さんは、自他共の生命を最高に光り輝かせていける大哲学を持っています。
 女子部が学ぶ御書30編の一つ「一生成仏抄」に、こう仰せであります。1月度の座談会でも研鑽した一節です。
 「只今も一念無明の迷心は磨かざる鏡なり是を磨かば必ず法性真如の明鏡と成るべし、深く信心を発《おこ》して日夜朝暮に又懈《おこた》らず磨くべし何様にしてか磨くべき只南無妙法蓮華経と唱へたてまつるを是をみがくとは云うなり」(御書384ページ)
 日々、妙法を朗々と唱えゆくことは、わが生命を明鏡の如く磨き上げていく力です。毎日、太陽が新鮮な陽光を放ちゆくように、信仰は、どんなに厳しい試練の時にも、決して負けない「生命の輝き」を発していく究極の光源なのであります。
 とともに、心がけていきたいことは、身近な存在である経験豊富な先輩をはじめ、良き教育者から学ぶことでしょう。
 若さ日の牧口先生が、綴り方の授業に挑戦した際、当時の北海道尋常師範学校附属小学校の主事(現在の校長職)であった岩谷英太郎先生が、高く評価してくれました。牧口先生の教案は、“子どもが作文の出来ない原因を巧みに見抜いている。これは、他のあらゆる学科にも通じる”とほめてくれたのです。
 それが、大きな励みになったことを、牧口先生は終生深く感謝されていました。
 かのデューイ博士も、シカゴ大学の実験学校(付属小学校)などで、現場の先生たちと苦楽を分かち合い、共に学び合った。その中で、大きな啓発を受け、自らの教育哲学を鍛え、発展させていったのです。だから深かった。
 昨今、教育現場は多忙を極め、職場の上司や同僚に相談したくても、互いに時間に追われて相談できず、孤立してしまう場合も少なくないと伺っています。その意味で、教育本部の先輩・同志は、何ものにも勝る、ありがたい存在です。
 長年、教育本部の皆様が積み重ねてこられた教育実践記録は5万事例を突破しました。さらに月刊誌「灯台」に連載されている実践記録集「『教育の世紀』の若き太陽」も教育界から注目されています。その一つ一つに、教育現場の生きた知恵が光り、困難を勝ち越えた尊いドラマが結晶しています。
 こうした先輩方の実証は、青年教育者の皆さんにとって得難い手本であり、励ましです。ぜひとも学んでいただきたい。また信頼できる「教育名誉会」(退職教育者の集い)の大先輩もおられます。遠慮なく相談していただきたいのであります。

何があっても強く朗らかに
 大事なことは、一人で悩みを抱えないことです。先輩たちも、皆、悩んだのです。皆さんは、一人ではありません。孤独になって、悩みに押し潰されてはならない。乗り越えられない壁など、絶対にないのです。
 何があっても、頭《こうべ》を上げ、胸を張って、強く朗らかに生きることです。自分のために! そして、愛する子どもたちのために!
 私は、宮城県の被災地で奮闘する一人の女性教育者の話を伺いました。彼女が勤務する中学校は、津波で甚大な被害を受け、大切な教え子も犠牲になりました。
 いったい、どうすればいいのか──悲嘆に暮れ、呆然とする彼女を支えてくれたのは、母校の創価大学・関西創価高校の旧友たちの励ましでした。日本中、さらに世界からも真心のエールが連日、届きました。
 懐かしい友の声に触れ、自身の胸のうちを聞いてもらうと心が落ち着き、勇気がわいてくるのを感じたそうです。「子どもたちのために、自分がまず立ち上がろう!」と。
 今、その彼女に続き、生徒たちもまた深い悲しみから立ち上がって、成長しているといいます。
 デューイ博士は語っています。
 「一人の人間が、或は、一群の人々がなし遂げたことが、それに続く人々にとっての、足場となり、出発点となる」
 わが教育本部の方々が、地道にして誠実な努力によって開いてこられた前進の歩みは、現代の暗き世相に大いなる希望を贈り、未来を開く不滅の足跡となるに違いありません。
 若き皆さん方は、この麗しき人間教育の連帯の輪を、さらに大きく広げながら、スクラムを組んで勇気凛々と進んでいっていただきたい。
 デューイ博士の名著『民主主義と教育』では、次のような視点が示されています。
 「社会的観点から見れば、依存性は弱さよりむしろ力を意味するのであり、それは相互依存を伴うのである」
 相互の関係性の中で人間の成長をとらえていたデューイ博士は、個人が自立して人から頼りにされることを重視していました。さらに、人を頼りにすることも「弱さ」ではない。むしろ独善を排して連帯を強める「力」であると考えたのです。
 支え合い、励まし合って生きるのが、人間です。そこに人間性の源泉もあります。
 御書には「されば仏になるみちは善知識にはすぎず、わが智慧なににかせん、ただあつ(温)きつめ(寒)たきばかりの智慧だにも候ならば善知識たいせち(大切)なり」(1468ページ)と説かれております。
 また、「麻の中のよもぎ(蓬)・つつ(筒)の中のくちなは(蛇)・よ(善)き人にむつ(睦)ぶもの・なにとなけれども心も・ふるまひ(振舞)も・言《ことば》も・なを(直)しくなるなり」(1591㌻)と仰せです。
 この世の希望であり、未来の宝である子どもたちのために悩む──何と尊く誇り高い悩みでありましょう。それ自体が、地涌の菩薩の悩みであります。「煩悩即菩提」の法理に照らし、悩みは智慧に変わります。子どもたちや、その家庭の幸福と安穏を祈ることは、仏の祈りであります。
 ゆえに、青年教育者の皆さんに、きょうも、希望あれ! 勇気あれ! 連帯あれ! 成長あれ! そして、皆さんこそ混迷の時代を照らす「教育の世紀の太陽」であれ! と願ってやまないのです。

 エマソンの言葉は『人間教育論』市村尚久訳(明治図書出版)。デューイは『誰れでもの信仰』岸本英夫訳(春秋社)、『民主主義と教育』松野安男訳(岩波文庫)。
2012-02-03 : わが教育者に贈る :
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