あの日あの時 Ⅳ-13 

あの日あの時 Ⅳ-13     (2009.6.26付 聖教新聞)

池田先生と東京・墨田区

「第3代会長誕生」の地

5月3日の両国
 大田区小林町(当時)の質素な家屋の前に、白木静子が呼んだ1台のタクシーが止まった。
 観音開きのドアがあき、モーニング姿の青年が、さっと乗りこむ。続いて清楚な着物姿の女性が、ゆっくりと車内へ入った。
 1960年(昭和35年)5月3日の火曜日。
 創価学会第3代会長が誕生する朝である。
 池田大作新会長と香峯子夫人を乗せたトヨペットのクラウンは、快調なエンジン音を上げて、都内を東に走りはじめた。
        ◇
 その日は憲法記念日の祝日だった。
 第2京浜(国道1号線)の交通量は思ったより少ない。あちこちの建物に、日の丸が掲揚されている。
 前夜は雷まじりの豪雨だったが、日付が変わるころぴたりと止んだ。
 「日本晴れだね」
 遠くに、かすかな雲が見えるだけの快晴である。
 中央通り、江戸通りを走るコースなら、大田区から20㌔足らずで浅草橋の交差点に着く。そこを右折すると正面に隅田川が見えてくる。両国橋をわたれば墨田区である。
 当時のタクシーの初乗りは80円。小林町から800円ほど、かかっただろうか。
 午前10時半すぎ。運転手の肩越しにドーム型の屋根が見えてきた。就任式が行われる両国の日大講堂である。
 この日は夫妻にとって、結婚8周年の記念日でもあった。しかし、すでに香峯子夫人は「今日が池田家の葬式」と覚悟を定めている。
 戸田城聖第2代会長の推戴式は墨田区内だった。
 いま再び、第3代の会長も墨田区から躍り出ようとしていた。

日曜日の秀山荘《しゅうざんそう》
 本格的なテレビ放送の開始に、世間が沸いた53年(昭和28年)。
 墨田区に住む男子青年部の第1部隊のメンバーは、日曜が待ち遠しくてしかたない。午前中から、いそいそと集まり、東京の南にある大田まで通い続けた。
 目的地は大田区山王2の1898(当時)の秀山荘。
 アパートの入り口は、工員たちの下駄であふれた。
 日本の製造業が輸出で伸びた時代である。墨田の町工場で働く若者たちは残業続きだった。
 「みんな、忙しいんだな。ゆっくり時間がとれるのは日曜日だね。じゃあ、自宅においでよ」
 池田部隊長の提案だった。
        ◇
 アパートの玄関脇に、小さな洋間があった。
 裸足のまま上がりこんだ若者たちの輪の真ん中に、蓄音機が置かれている。
 勇壮な調べが室内を満たしていた。
 池田部隊長が、馬の手綱を引くように両手を前後に揺らして解説を加えていく。
 「うん、ここは戦《いくさ》が済んで、意気揚々と引き上げてくるところだ」
 スッペの「軽騎兵序曲」が、静かな旋律へと変わった場面だった。
 工員たちはクラシックどころか、歌謡曲を聴く機会すらない。ひまな時は錦糸町をぶらついたり、空き地で相撲を取るくらいである。
 部隊長は、質素な生活のなかにも、良質な文化・芸術を求めていく大切さを教えてくれた。
 蓄音機も手回しではなく、電気でレコード盤が回り始めるもの。青年たちから思わず、おおっと声が上がった。
 朝、墨田を出るので、みなが部隊長のアパートに着くのは昼前である。いつも誰かのお腹がグーッと鳴った。
 すかさず部隊長が「みんな、お腹がすいているみたいだね」と立ち上がる。一同、照れ笑いするしかない。
 「ライスカレーを作ってあげよう。戸田先生から作り方を教わったんだ」
 部隊長みずから包丁を握り、野菜を手ごろな大きさに切る。カレーの鍋から、ぐつぐつ音がして、いい匂いが立ちのぼってきた。
 部隊長の書棚にも圧倒された。ゲーテ、トルストイ、ユゴー、ホイットマン……。
 「手に取ってごらん。読みながら待っていてよ」
 戸田会長から個人教授された際のテキストもある。
 みな文豪の全集を手に手に眺めていると、ごろごろとジャガイモが入った豪快なカレーが完成した。
 音楽。文学。芸術──。池田部隊長と一緒にいるだけで、新しい世界が眼前に開けていった。

ひるがえる三色旗
 第1部隊の前任の部隊長は、胸をそり返して、のしのしと歩くクセがあった。
 気に入らない後輩には当たり散らす。へたに肩をもったりすれば「貴様まで俺に盾突くのか」と、ねちねち嫌みを言われる。活動から遠のく者も出た。
 しかし池田部隊長になって、がらりと変わった。
 「君たちは、だいぶ睨まれているようだね。でも心配することはない。僕が守ってあげるから、安心してついてきなさい」
 下町の人は、妙な遠慮や気兼ねを嫌う。
 池田部隊長は、さっぱりとした気性で、腹に何の隠し立てもない。
 金属プレスエ場で働く青年がいた。ある日、部隊長が近所の銭湯「丸風呂」に連れていってくれた。
 青年は洗い場で、はっと息をのんだ。
 部隊長の背中の肉に厚みがない。肺を病んだ人に独特のやつれ方である。
 「僕は、結核でね。25か26、うまくいって30歳までしかもだない身体と医者に言われているんだよ」
 深刻な病状にもかかわらず、口ぶりには屈託がない。めそめそした感傷など微塵もない。
 青年は感激した。これほど死魔と戦いながら、部隊長は墨田のために命を削ってくれているのか。
        ◇
 後年、宗門事件が起きたとき、墨田区の同志は、微動だにしなかった。
 区内には、常泉寺や本行寺など大きな寺がひしめいている。戦前は大石寺よりも身入りがよく、檀徒への影響力も大きかった。
 ある意味で、墨田は宗門に飲みこまれる危険が最も大きい地域だった。
 しかし、庶民の目は鋭い。
 噺家の古今亭志ん生が十八番《おはこ》にした貧乏話も、墨田の長屋が舞台だった。苦労人が多い分、誰が欲に目がくらんでいるか、すぐ分かる。
 一人の草創の幹部が語っている。
 「人間は中身さ。坊主は寺を立派にして、人の目をくらまそうとばかりしていた」
 「池田先生は違ったね。『風呂』と『飯』だ。一緒に戦ってくれた。あったかい思い出が肌身に染みついてらあ」
 第2次宗門事件が起こった翌年の91年(平成3年)12月3日。
 墨田入りした名誉会長は深くうなずいた。
 新しくなった墨田文化会館は、無数の三色旗で埋め尽くされていた。

聖教を頼みます
 墨田は聖教新聞の購読層が厚い。「どこを回っても、聖教が多いなあ」。大手新聞の販売拡張員も驚いている。
 原点は、戸田第2代会長の時代にあった。
 聖教新聞に、まだ配送システムがないころ。
 日曜になると、各支部の担当者が信濃町の旧学会本部へ新聞を取りにいった。
 墨田の担当は、第1部隊で池田部隊長から訓練を受ける青年だった。
 彼が新聞の束を抱えて帰ろうとした時である。
 本部の2階へと続く階段の途中で、仁王立ちしている戸田会長と出くわした。
 真剣な表情である。一瞬、たじろいだ。
 ところが──。
 「ご苦労様です。大事な大事な聖教新聞を、よろしく、よろしく頼みます」
 戸田会長は深々と、その長身を折ったのである。
 青年も慌てて頭を下げた。そっと顔を上げると、まだ会長は頭を低くしたままである。こんな姿を見るのは初めてだった。
 ここまで、聖教を大事にしてくださっている……。
 後に青年は、聖教新聞が戸田会長と池田部隊長の師弟二人で創刊されたことを知る。

周総理と隅田川
 かつては墨田を「東京のすみっこだから」と冷やかす人もいた。
 池田第1部隊長は違った。
 「ここが、世界の中心になるよ」
 昭和20年代の後半、墨田区押上の広田弘雄の家は、第1部隊の拠点だった。ブリキのおもちや工場である。
 「我々は、戸田先生の直弟子の襟度をもって、立派な指導者になるんだ」
 池田部隊長が白扇をぱっと開いて立ち上がる。部隊歌だった「星落秋風五丈原」の指揮を執りはじめた。
 またたく間に、東京の一隅の小さな拠点に、広大無辺な師弟の世界が広がった。
        ◇
 「創価学会の池田大作会長が、日本の中国への敵視政策を捨てて、両国の国交正常化を主張」
 この特電が、北京・中南海の執務室にいる周恩来総理の耳に届いたのは、68年(昭和43年)9月11日である。
 名誉会長の歴史的な日中提言から3日後のことだった。
 提言発表の舞台は、隅田川に近い日大講堂である。
 この日をさかのぼること50年前の1918年(大正7年)の春4月──。
 日本に留学中だった19歳の周青年は、友人と荒川堤へ出かけた。
 その帰り、市電の車中から、万朶の桜に彩られた隅田川を目に焼きつけている。
 それから半世紀を経て、日中の春の到来を呼びかける名誉会長の第一声が、墨田の地から北京に届いたのである。
        ◇
 押上のブリキのおもちや工場の周辺も、今や大きく様変わりした。
 すぐ近くでは、世界一の高さとなる観光タワー「東京スカイツリー」(610・58㍍)が、2011年12月の完成をひかえている。
 澄みわたる空の下で、墨田は世界の中心になる──。
 若き日、名誉会長は展望した。その通り、世界が仰ぎ見る大都市が誕生しようとしている。
2009-06-27 : あの日あの時 :
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あの日あの時 Ⅳ-12 

あの日あの時 Ⅳ-12     (2009.6.19付 聖教新聞)

池田先生と東京・板橋区

全東京を勝利に導く「錦州城」

幸せにする責任
 文京支部の池田大作支部長代理は、焦げ茶色の門をくぐり、カラカラと引き戸を滑らせた。
 座談会が開かれている。20人ほどの顔が一斉に、こちらを向いた。
 「ご主人、突然ですが、お邪魔いたします」。家の主《あるじ》で日銀マンの長野徳一に、丁寧にあいさつした。同支部の板橋班で班長をしている。
 1953年(昭和28年)6月11日、木曜日。まだ板橋区板橋町のあたりは、バラック小屋が目立つ。長野宅が、ひときわ立派に見える。
 支部長代理を迎えた座談会は活気に満ち、3人が入会を希望した。
 続いて信仰生活の心構えを説いた。「信心したからといっても、人生に悩みが無くなるわけではありません」
 すると横から小声でつつく人がいる。「せっかく入信したのに、変なこと言わないでください」
 長野の妻、きよゑである。まだ信心の日は浅い。班長の夫に対しても少々、不満があった。
 支部長代理は向き直り、正面から、彼女を見すえた。
 「あなたは病弱と聞いています。ご主人は、あなたの身体を心配して真剣に祈っている。もし、その心が分からないとすれば、あなたは決して良い奥さんとは言えませんよ」
 彼女は、はっと胸を突かれた。
 「私は皆さんの同志です。あなたを幸せにしなければならない責任がある。だから、きちんと言わせていただきました」
        ◇
 長野徳一が、日本銀行を定年退職した。
 1957年(昭和32年)1月7日、支部長代理が、ねぎらいに訪れた。
 長野宅の仏壇には、控えめな果物が供えられていた。
 「長野さん、御本尊には、もうちょつと立派な品をお供えしましょう。結局、食べるのは自分たちです。それだけ大きな境涯になれますよ」
 日銀マンに「心の財」を積む生き方を教えた。
 手作りの人材育成である。
 第3代会長が躍り出た60年(昭和35年)5月、長野夫妻は地区部長、地区担当員になっていた。
 板橋から折伏の旋風を巻き起こし、その名を全国に轟かせた。

ブンと飛ぶぞ!
 「おめでとうございます。お祝いに、一曲!」
 仏壇の横に立った青年部の池田室長が、ぱっと扇子を開いた。
 57年(昭和32年)2月8日。板橋区志村清水町にある清水嘉吉宅では、入仏式が行われていた。和室は青年たちで埋まっている。
 手拍子が鳴る。戦時中に歌われた「荒鷲の歌」の歌詞を少し変え、彼らは室長の指揮に声を合わせた。

♪正義の学会 知ったかと
 今宵また飛ぶ 荒鷲よ
 ………… …………
 ブンブン荒鷲ブンと飛ぶぞ

 家の主の清水も、共に歌った。戦争が終わって12年。軍人だった清水は、久方ぶりに全身の血が荒ぶった。
 若鷲が翼を広げるようなスケールの大きい指揮だった。
 「まちがいない。学会を背負って立つ人だ」。清水は「ど」がつくほど真面目で、頭の固いタイプだった。
 「俺はこれでいく!」。一度、決めたら、テコでも動かない。「ブンブン荒鷲だ。池田室長の指揮で、板橋はブンと飛ぶぞ!」
        ◇
 清水の妻・良子にとっても忘れがたい一日となった。
 これまでも青年部を我が子のように可愛がってきた。新潟の出身なのでコメには困らない。炊きたてを、たらふく食べさせた日もあった。
 そんな彼らが仏間を埋め尽くし、室長を先頭に総立ちしている。
 “とうとう、この日が来たんだ”
 良子は、戸田会長の指導を思い返した。清水夫妻は、子宝に恵まれなかった。神奈川県で偶然、戸田会長に指導を受ける機会があり、その悩みを打ち明けた。
 「そうか。だけど、自分の腹を痛めた子どもだけが、子どもではないぞ。いつか、これが我が子と思える子に恵まれる。そういう境涯になれる日が、きっと来る」
 夫妻にとって、希望の言葉となった。
 今、眼前にある光景こそ、まさに、それだ。
 私には、こんなにたくさんの子どもがいるじゃないか!
 池田室長と共に進む青年たち。この青年たちを育てよう。青年を大事にしよう。
 これが板橋の伝統精神になった。

トップは板橋
 1971年(昭和46年)夏、池田名誉会長は、ある決断を下した。
 前年には言論問題が起きた。今、再び、本陣を強くしなければならない。
 東京の各区で記念撮影会を開き、首都をくまなく回ることにした。
 どこからスタートするか。最初が肝心だ。全東京に上げ潮が満ちるかどうか、ここで決まる。
 熟慮のすえ、名誉会長は、トップバッターに板橋を指名した。
 タテ線時代の板橋は、文京・杉並・足立支部の会員が混在していた。そのためか、いま一歩“個性”が、はっきりしない。
 「これからは、今まで知ることのできなかったところへ行かなくちゃいけないな」。名誉会長は、ことあるごとに語っていた。
 撮影会は10月に決まった。区の中心者である中村俊雄、秋山栄子は頭を抱えた。
 懸案は山積みである。参加者の人選、設営、参加対象外の会員への配慮、テーマの設定、催し物……。
 記念撮影会は、板橋にとっての試金石だった。
        ◇
 10月17日、撮影会当日。
 東武東上線の上板橋、ときわ台で降りた人が、川越街道の方へ列をなしていく。
 東新町《とうしんちょう》の私立城北高校が会場だった。
 車で会場に到着した名誉会長は、まず校庭に向かった。
 屋台が並ぶ。鉄板では焼きソバ。串に刺した鶏肉……。
 名誉会長は、香ばしい煙に包まれながら、すべての出店を回った。誰もが元気一杯だった。
 体育館へ。テーマの垂れ幕は「板橋は仲良く地域社会を開発してまいります」。6年前、板橋会館の入仏式で名誉会長が語った指導である。
 場内の設営には、造花があしらわれている。参加できなかったメンバーが、唱題の数に応じて、花をこしらえたという。
 17グループに分かれての撮影もスムーズだった。アトラクションの演技も、源義経をモチーフに、感動的だった。マイクを手に名誉会長が立ち上がった。
 「全東京の模範となる記念撮影だった。ありがとう!」
 帰りの車の中で、流れる住宅地を目にしながら、つぶやいた。
 「板橋は力がある」

人材輝く「金の橋」
 オープンしたばかりの板橋文化会館。香峯子夫人が、婦人部の声に耳をかたむけながら、サラサラとメモを取っている。
 1977年(昭和52年)11月10日、ヤング・ミセスの「体験談大会」が開催された日である。
 高島平団地の石井益子。団地で活動する現状を、つぶさに語った。
 間取りは1DKか2DKがほとんど。子どもが2人になれば手狭になり、引っ越していく。せっかく地区幹部クラスに育てても、人材が外へ出てしまう。
 まだ留守番できる年でもなく、会合には、赤ん坊、幼児があふれる。
 拠点にできる広さもない。家具の少ない老夫婦のお宅を借りたり、立つたまま会合をしたり──。
 一つ一つの話に頷きながら、メモを走らせる夫人。
 「そうですか。大変ですね。ありがとうございます。必ず本部に戻って伝えます」
 その晩、名誉会長から一枚の色紙が届いた。石井は、その文字を見て、はっとした。
 「霊山は 今ここなりと 君立ちて 高島平の 人々つつみぬ」
 団地が霊山──。考えてもみなかったことである。
 霊山とは、釈尊が法華経を説法したとされる地で「仏の国土」という意味もある。
 仏国土は、どこか遠くにあるのではない。高島平を霊山と決めることだと気がついた。そう考えれば「人材がいなくなる」のではない。高島平から東京中、日本中へ「人材を送り出している」ことになる。
 かつて中山道の最初の宿場だった板橋は、いわば旅人の通過点にすぎなかった。
 池田名誉会長夫妻の視点は違った。
 板橋は「金の橋」である。この橋を渡る人、この橋に縁した人は、一人残らず人材である。全学会を勝利に導く使命がある。そう捉えていた。
 77年(昭和52年)10月15日、名誉会長は板橋の青年に訴えている。
 関西には、広宣流布の錦州城の誇りがある。板橋にも同じ自覚を与えた。
 「板橋こそ、関東、そして東京における難攻不落の錦州城たれ!」
2009-06-19 : あの日あの時 :
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あの日あの時 Ⅳ-11

あの日あの時 Ⅳ-11     (2009.6.14付 聖教新聞)

池田先生と東京の北多摩

「一番、強くなったところに行こう」

団地広布の模範

 ♪勝利の旗に 金の城
  誉れに生きる 我が友は
  いつも心に 先生を
  いつも心に 先生を……

 衛星中継の大画面から、新しい団地部の歌が、村山緑が丘会館(旧・村山会館)の広間に流れる。
 そのとたん、会場を埋めつくした武蔵村山団地のメンバーが、どよめいた。
 2008年9月に、本部幹部会の席上で、新団地部歌「輝け『幸福の城』」が発表され、全国に中継された。
 「いつも心に先生を」。これこそ村山総区の精神そのものだからである。
        ◇
 “団地会館”の愛称で親しまれる同会館。ここまで、池田大作名誉会長が足を延ばしたのは、1969年(昭和44年)の7月6日(日曜日)である。
 午前中に学会本部で勤行会があり、村山の海藤チヨが思わず「先生、村山に来てください!」と叫んだ。
 ──今や4000世帯の公営団地が、当時の北多摩郡村山町に完成したのは66年(昭和41年)の春だった。
 森と畑しかなかった地に、新住民が一挙に入居してきた。学会も、23ブロック、2総ブロック(現在は支部)が組織された。
 団地の会員たちは、寂しさがぬぐえなかった。北多摩は、東京の北西の外れ。そのうえ武蔵村山には、鉄路もなく、バス便しかない。
 こんな片田舎では、ずっと池田先生は来てくださらないのでは……。
 皆のやむにやまれぬ思いが、名誉会長への願いの背景にあった。
      ◇
 その7月6日の午後、松尾愛子は、団地の部屋を飛び出した。車で学会本部を出発した名誉会長が、団地近くの村山会館に到着したという。
 舗装されていない砂利道を松尾は長靴で急いだ。雨が降ったわけでもないのに、その日も足元がぬかるんでいた。そんな悪路を越えて、名誉会長が来てくれたのである。
 松尾たちが会館に近づいた時、一台の車とすれ違った。
 池田先生、先生だ!
 やがて伝言が届く。
 「村山は必ず素晴らしい地域に変わるよ」
 だから、この日から、美しい人間関係の団地にしようと皆で誓った。団地の自治や防犯、高齢化が進むと、お年寄りへの声掛けなどにも率先して動いた。
 2004年1月18日。
 「一番、強くなったところに行こう」
 名誉会長は武蔵村山文化会館へ出発した。

外交戦の舞台
 北多摩は、創価学園に近い。名誉会長は創立者として、学園訪問の前後などに幾度も立ち寄っている。
 1979年(昭和54年)10月31日には、東大和市内でソ連の高官と会談した。
 相手は、この日、東京創価小学校を視察したソ連高等・中等専門教育省次官のソフィンスキーである。
 次官を乗せた黒塗りのセダンが学園を出発し、西武拝島線の高架下を抜け、富士見通りの商店街に入っていく。小原正保が営む「満月」で食事をしながらの懇談になった。
 おもねるような外交辞令など一つもない。名誉会長は、ずばりと本質を突いた。
 「日本人は正直なところ、ソ連は怖い国だと感じています。このままでは、嫌われたままです。反省すべきではないでしょうか」
 同様の直言は、モスクワでソ連の首脳や、対日外交政策の指揮をとるコワレンコ(共産党中央委員会の国際部副部長)たちにも試みてきた。
 クレムリン宮殿であろうと、東大和の商店街であろうと、その姿勢は微塵も変わらない。
 名誉会長は同行した幹部に語っている。
 「言うべきことは、はっきりと言わねばならない。日本のためにも。社会のためにも。外交戦とは、こうやってやるんだ」
 この富士見通りの商店街では、翌80年(昭和55年)3月6日にも、歩いて町内を回っている。
 青果店「八百富士」の主人は名誉会長の姿に魅了された。「今日のレタスは美味しそうですね!」と品定めした。イモを焼く壷の前では、戦時中に焼きイモを頬ばった思い出を振り返った。
 隣の肉屋「越木屋」では青年部員たちへの差し入れのため、焼き鳥を買い求めた。
 名誉会長の気さくな人柄に、学会を見る商店街の目は大きく変わった。

平和と健康の町に
 緑豊かな地である。
 映画『となりのトトロ』の舞台として知られる森も広がっている。
 文学作品のモチーフにもなった。
 堀辰雄の『風立ちぬ』。
 福永武彦の『草の花』。
 それには理由があった。当時は「死病」と言われた肺病の昭和の文人たちが、この地で静養していたからである。
 療養に向いている環境だったため、昭和初期から戦後にかけ、重い病に苦しむ人の病院や治療所が多かった。
 そうした地域柄、どうしても「死」や「孤独」の陰がつきまとう。そんな空気にも学会員は負けなかった。
 昭和40年代初頭。
 国立療養所東京病院(当時)では、こんな合言葉が飛びかっていた。
 「池田先生も結核を克服されました。私たちも健康になりましょう」
 通称「清瀬の療養所」。集会室で地域の学会員が患者たちを励ましながら、共に“座談会”を開いていた。
 名誉会長も病院が多い北多摩を折々に気にかけてきた。
 学会員が入院すると聞けば、お見舞いのメッセージを届ける。「お世話になります」と伝言を託した。
 1978年(昭和53年)5月、立川文化会館でも、名誉会長が心配して声をかけた。
 「病院にいる人たちは、どうしているかな……」
 相手は中村京子。北多摩女子部のリーダーのころから、病院での激励に尽力してきた。今もベッドの上で、苦しむ人がいる。題目を必死にあげて治療している人がいる。
 「先生、必ず平和と健康の町にします!」
 中村は、清瀬で戦う皆の決意を代弁した。
 「そうだ! その心意気だ。必ず変毒為薬できる」

立川文化会館で
 78年6月30日の昼下がり、立川文化会館の駐車場にはゴザが敷かれ、名誉会長を囲んで車座ができていた。
 東久留米で拡大の結果を出し、その喜びを報告に来た渡辺光子らが、思いがけず名誉会長に歓待されたのである。
 ラジオカセットレコーダーが用意してあった。
 「これから荒川へ会合に行くんだ。この歌を今晩、発表するよ」
 役員が再生ボタンを押すと、スピーカーから力強い曲が流れてきた。学生部歌「広布に走れ」である。前夜に完成したばかりだった。
 ゴザの上で、名誉会長は歌詞に込めた思いを語った。
 3番の「この船たしか」という箇所を強調した。
 「『この船』とは、創価学会のことだ。何があってもついていきなさい。絶対に幸せになれる」
        ◇
 村山圏の創価班は、しばしば名誉会長が滞在する立川文化会館に着任した。
 78年8月21日。残暑が厳しい夜たった。
 山田三利は、裏門で任務に着いていた。
 大きな会合の予定はない。それでも名誉会長の近くで会館を守ることができる。誇らしかったし、嬉しかった。
 夜の8時半を回ったころである。
 山田のもとに会館職員が駆け寄ってきた。
 手渡された色紙を見て、驚いた。
 「夜の門 君が守りて 幸の城」
 名誉会長の鮮やかな文字。奥書きには「八時二十六分」とあった。
 執務のなか、私たちにまで気を配っていただき申し訳ない……。
 色紙を抱きしめ、山田は深々と頭を下げた。

蘭春の東村山
 桜の美しい地である。
 2007年4月、多摩湖畔の水道道路に沿って、桜の木々が枝いっぱいに薄紅色の花をつけていた。
 桜をめでる人波の中に、かつての東村山市長・熊木令次がいた。
 何度も立ち止まって、桜のアーチを見上げる。
 “池田先生から頂戴した桜の苗木が、見事な大樹に育ったなあ……”
 31年前の76年(昭和51年)、熊木は、名誉会長から桜の苗木を贈呈したいという提案を受けた。
 東村山を大事にしてくれる心が嬉しかった。それが今や、春になると数千人もの人出で賑わう桜の名所である。
        ◇
 なぜ苗木を贈ったのか。
 池田総務が戸田城聖第2代会長の遺族を多摩湖畔に案内したのは、60年(昭和35年)4月10日である。
 その日の日記。
 「蘭春──風塵──東村山まで往く。桜あり、しばし心麗《うらら》か」
 この4日後、池田総務は学会本部で第3代会長就任の3度目の要請を受け、ついに受諾する──。
 恩師逝いて2年。第3代として立ち上がる日を前に、東村山は一服の桜花の清涼を与えてくれたのである。
 名誉会長は忘れていなかった。だからこそ苗木を寄贈したのである。
 広宣流布の大将軍として、すべての攻撃の矢面に立つ。その覚悟は、いかばかりだったか。
 81年(昭和56年)10月26日、名誉会長は東村山文化会館(現・東村山平和会館)で力強く呼びかけた。
 「私の心境は戦闘艦と同じです。どんな矢でも鉄砲でも受けていく。信心だけは強く、強く! そして、とにかく学会を強くしていこう!」
2009-06-14 : あの日あの時 :
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あの日あの時 Ⅳ-9

あの日あの時 Ⅳ-9     (2009.5.30付 聖教新聞)

池田先生と東京・練馬区

「名馬、千里を行く」ごとく

江古田のB長会
 戸田城聖第2代会長が逝去した1958年(昭和33年)。青年部の池田大作室長は、悲しみにくれる会員を全魂で奮い立たせていった。
 練馬にも向かった。
 西武池袋線の江古田駅に近い拠点を訪ねたのは、その年の夏である。駅前の商店街を抜けた先にある熱田宅でブロック長会があった。
 夕立で濡れた道を走ってきた林清は、最前列に陣取っていた。会場に現れた開襟シャツの精悍な青年を見て、声を上げそうになった。
 あの時、戸田先生の陰で寄り添っていた方ではないか!
 ──その3年前の秋に行われた城東支部(当時)総会。
 池田室長は恩師の脇に影のようにひかえ、万一、何かあれば、瞬時に飛び出す構えを崩さなかった……
 熱田宅で質問会が始まった。誰もが戸田会長亡き後の学会に、少なからぬ不安を抱いていた。
 その心の弱さを、池田室長の確信みなぎる言葉が吹き飛ばした。
 生涯、学会とともに!
 恩師との誓いを裏切るな! 
 会長を失ったばかりの学会である。世間の目も厳しい。室長は諄々と語りかけた。
 「近隣の人は、私たち学会員の行動を見ています。信仰を持《も》ったものとして、まず立派な社会人にならなければなりません」
 人としての振る舞いを一貫して説いた。

北町広布の歌
 座談会の会場から、歌声が聞こえてくる。

 ♪あの家も この家も
  星に囲まれ 歌声が
  お伽の都と 讃えてる
  共に築かん 北町広布

 本年2月の「青年・勝利座談会」。
 練馬区北町の支部では、青年部の指揮で伝統の「北町広布」の歌を大合唱した。
 副本部長の古屋巌も、ともに口ずさんだ。若い力の台頭に、感慨は尽きない。
        ◇
 78年(昭和53年)7月8日。北町の支部の代表が、都内で名誉会長から食事に招待された。支部長だった古屋は緊張で料理がのどを通らない。名誉会長は温かく声をかけてくれた。
 「一番苦労した人を、一番励ましてあげる人になろう」
 さらに意表を突く発表があった。
 「歌をつくったよ。信心している人も、してない人も、関係なく歌えるように考えた。この北町が栄えるような歌だよ」
 学会の各部に、次々と愛唱歌が生まれていた時期である。しかし名誉会長が自ら手がけた「支部の歌」は「北町広布」の歌だけだった。
 東京の外れにある、こんな小さな支部にまで……。古屋は、この1年間の日々を深く思い返した。
 ──支部に衝撃が走ったのは、77年(昭和52年)の夏のことだった。
 中心者たった夫婦が退転。後に学会を反逆する幹部と関係があった。完全に師弟の正道を見失っていた。
 そんな恩知らずどもに、この北町を壊されてたまるか!
 古屋は支部内を一軒また一軒と回った。平静を装っていても、内心は揺れている会員もいた。そんな時、名誉会長から揮毫が届く。
  「北一」。墨痕あざやかな二文字である。
 北町が一番戦い、一番強くなることを誓った。
 その後、二度にわたる宗門事件が起きた。北町は微動だにしなかった。

グラントハイツ
 光が丘駅前大通り。一人の婦人が車を降り、空を見上げた。ここがグラントハイツ?
 あの頃からは、見違えるような街並みになっている。
 アメリカ総合婦人部長のカズエ・エリオットだった。名誉会長が初めて北米大陸を訪問したとき、真っ先に出迎えた。アメリカ広布の草分けである。
 98年10月、東京での研修会終了後、エリオットは、かつて共に戦った練馬の同志と光が丘を訪れた。
 林立する団地、駅、ショッピングモール……。滑走路も鉄条網もなくなっている。
 この地で戦った当時の面影は丸でなかった。
 草創期、国際結婚したエリオットは、鶴見支部練馬班の班担たった。
  ここには、進駐軍の将校の宿舎であるグラントハイツがあり、周辺の田柄や旭町も折伏に歩いた。
 56年(昭和31年)だったか、静岡で戸田会長に質問したことがある。
 「私の主人はアメリカ人です。どうしたら折伏できるでしょうか」
 会長はメガネの奥からエリオットの目をジッと見据えて言った。
 「どこにいっても、どんな相手でも『南無妙法蓮華経』を広宣流布することに変わりはない」
 エリオットの迷いがパッと晴れた。
 彼女たちの苦労が実り、グラントハイツでも信心を始める人が増えた。その中から米国に戻るメンバーも現れ、今日のアメリカ広布の礎になっていく。
 グラントハイツは、仏法の輝きを世界に伝える“光の丘”になった。

光が丘文化会館
 2007年11月7日、光が丘ドームで「平和の文化と子ども展」が開幕した。
 練馬区元教育委員長の内山和子があいさつに立った。読売新聞の社長夫人である。
 「いつも、聖教新聞が一番早く届くんですよ」
 集金に来る配達員の人柄にも好感を抱いていた。大泉会館の近くに住み、会員の姿をつぶさに見てきた。
 「池田先生は、素晴らしい人たちを育てられているんですね」
        ◇
 練馬には、平和や文化の次元で、貢献してきたメンバーも多い。
 総区婦人部長の岩渕真理子は、音楽大学の出身。1976年(昭和51年)7月に、名誉会長から「母」の詩に曲をつけるよう頼まれた。
 岩渕は苦心して届けたが、ある楽節について名誉会長から指摘された。
 途中から転調して、自分では一番の聴かせどころと気に入っていた部分である。
 「これでは難しい。みんなが喜んで歌える曲にしてもらいたい」
 口ずさむと、たしかに歌いにくい。作曲に夢中で、実際に歌う会員のことを忘れていた。岩渕が作り直した歌を届けると、名誉会長は「いい曲になったね」と心から喜んでくれた。
        ◇
 中村玲子の夫・輝夫は、民主音楽協会の渉外担当だった。イスラム諸国と交流する道を開いてきた。
 中東圏で「お前は何をしに来たんだ」と銃口を向けられたこともある。
 中村が身を案じても、夫は「池田先生のお仕事のお手伝いだ。ありがたいことじゃないか」と。決して中東行きをやめない。92年の名誉会長の中東歴訪にも同行し、陰ながら大成功に尽力した。
 その後、夫は病に倒れ、帰らぬ人となった。
 中村玲子が、光が丘文化会館に招かれたのは、98年10月25日である。この日、名誉会長は同会館を訪問し、代表200人に、勇気の信心で進むことを訴えている。
 駆けつけた中村は声を振り絞って「先生!」と叫んだ。
 「中村の妻です。生前はお世話になり、本当にありがとうございました」
 名誉会長は、中村が子ども3人を抱え、一家を支えていることも知っていた。
 「人生は劇場だ。広布も社会も家庭も劇場です。勝つか負けるかだ。のびのびと人生を生きなさい!」
        ◇
 この日、光が丘文化会館に訪問したことで、名誉会長は練馬区内にある全ての会館に足を運んだことになった。三原台の練馬文化会館、向山の城西平和講堂、東大泉の大泉会館、上石神井の石神井会館、豊玉上の桜台会館。すみずみまで、名誉会長の足跡が刻まれている。
 練馬は馬を練り、名馬を育てた天地。ある時、練馬の使命を語っている。
 「どこか苦戦していると聞けば、すぐに駆けつける。それが学会精神だ」
 勝利の決定打を放つためなら、千里を行く。それが「練馬」だ!
2009-05-30 : あの日あの時 :
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あの日あの時 Ⅳ-8

あの日あの時 Ⅳ-8     (2009.5.22付 聖教新聞)

池田先生と東京・足立区

勝利を決する大東京の勇者

飾らない強さ
 「足立、よくやったね」
 「はい!」
 池田大作名誉会長が、広布の前進めざましい地域の名を挙げると、足立区の4人の男子部員が、勢いよく立ち上がった。
 2001年(平成13年)12月13日、本部幹部会(東京牧口記念会館)の席上である。
 「みんな、お仕事は?」
 名誉会長が前方の4人に声をかけると、次々と元気な声が返ってきた。
 「サラリーマンです!」
 「ラーメン屋です!」
 「建設会社です!」
 「ゴミ屋です!」
 産業廃棄物を処理する菊池浩幸が、ひときわ大きな声を張り上げた。
 すかさず名誉会長が「足立の人は飾らないね。かっこよく『高級中華料理店です』とか、言えばいいのに」とユーモアで包みかえしていく。
 その中の一人、舎人にあるラーメン屋「きらく」の2代目、中村洋一も頭をかいた。
 見栄も気取りもない。「率直だね。だから足立は強い!」と名誉会長は語る。
 足立への信頼は青年時代から抜群である。

師弟を貫け
 都心から走ってきた車が、荒川にかかる西新井橋をわたった。土手を回りこんだ車から戸田城聖第2代会長が降り立つ。
 道は、ぬかるんでいた。戸田会長は革靴が汚れるのも構わず、早足に歩き出した。
 1955年(昭和30年)の春4月である。
 河原の芦を刈った空き地で、野外集会が始まった。
 300人ほどを前に、戸田会長が用意された台にあがった。背後では千住火力発電所の通称「お化け煙突」が煙をモクモクと吐きだしている。
 戸田会長の、ややかん高い声が川風に乗って、聴衆の耳に届いた。
 シンプルな集会だが、よく準備がされていた。これには理由がある。
 戸田会長を足立に迎える先発隊として、青年部の池田室長が、1カ月前から奔走してきたのである。
        ◇
 ひと月前の3月1日のことだった。
 池田室長を王子駅から乗せたバスが、化学工場の脇を抜けていく。
 江北橋に出ると、視界がぱっと開けた。一面の田んぼに、小屋がぽつん、ぽつんと建っている。
 まだ、バス通りに荷車を引いた牛が、のっそり歩いている時代だった。
 足立の第1・第2ブロックを担当することになった池田室長が、高野町(現・江北4丁目)のバス停で降りた。
 溶接業「藤田工業所」の看板を見上げ、足立の支部長、藤田建吉の家に入った。
 足立区に住む会員が初めて集まった連合座談会だった。
 藤田の家は建て増しを繰り返した古い一軒家で、やけに柱が多かった。その陰で、身を隠すようにしている会員もいる。
 会場に、池田室長のからっとした声が響いた。「支部長の坊主頭は、ジャガイモ頭と呼ばれているそうですね」。笑い声があがった。参加者は、ぐいぐい室長の話に引き込まれていく。
 途中から質問会に変わった。場内の青年が「どう祈れば、功徳が出ますか」と手をあげた。
 室長は深くうなずきながら「皆さんのちっぽけな願いぐらい、今すぐにもかなう。その秘訣は……」と青年を力強く見つめた。
 柱の陰からも、別の青年が我がことのように身を乗り出している。
 室長は「それは、師弟を貫くことです!」と信心の奥底を分かりやすく語った。
 こうして戸田会長を迎える下地を、人知れず、つくっていったのである。

団地のビワの木

 第3代の会長を辞任してから、名誉会長は足立の地で語った。
 「大変に批判中傷をされてきましたけれど、本質は、庶民と仮面のエリートの戦いです。人類が千年、二千年と続けてきた戦いです」
 82年(昭和57年)12月、年の瀬の足立平和会館での指導だった。
 続けて、名誉会長は「足立は取りもなおさず、庶民の区です。学会は庶民です」と、明快に言いきった。
        ◇
 竹の塚の松本美津も、そうした庶民の一人である。
 夫は事業に失敗したあげくに死別した。その後、再婚したものの2間に6人暮らし。4人の子どもの病気や不登校、非行に悩んでいた。
 そんな松本に、思いがけない転機がやってきた。
 85年(昭和60年)6月21日。足立で名誉会長を迎えて懇談会があり、その役員になったのである。
 松本は会場の近くにある、竹の塚7丁目アパー卜の団地に暮らしていた。
 懇談会が終わると、出口に名誉会長が現れた。
 「ありがとう。陰で支えてくださった皆さんで分けてください」と、丸いオレンジ色の果実を配ってくれた。初夏に旬を迎え、甘くなるビワの実である。まだ手の温かさが残っていた。
 松本は、持ち帰ったビワを家族で6等分した。食べ終わると、その種を団地の庭に植えた。
 ビワと一緒に成長することを子どもたちと約束した。
 8年後──ビワが成木になった。白い花をつけ、まんまるの実が枝をしならせている。同じ団地の女性から、声をかけられた。
 「松本さん、ついに池田先生の木に花が咲いて、実がなりましたね」
 ビワに負けず、4人の子どもも立派に育った。
 竹の塚だけではない。綾瀬、宮城、江北などでも、同じように名誉会長の思いを大切にしている友がいる。あの日のビワの種から育ち、足立区内に、30本以上が成木となって根を張っている。
 本年1月11日、松本が投稿した一文が全国紙の朝刊に載った。
 「尊敬する人の言葉に『幸福は忍耐という大地に咲く花』とある。この言葉が大好きで、私は指針にしてきた」
 もう初夏である。
 今年も足立でビワの木が、丸い実をつけている。

一番先頭に立て
 名誉会長は、たとえ東京を離れた時でも、決して足立を忘れない。
 創立75周年の佳節へ学会が前進していた夏、名誉会長は長野県で最高幹部との協議を続けていた。協議会でのスピーチ、長編詩、随筆などの執筆を進めながら、さまざまな報告を受けていく。
 足立の地区婦人部長会の開催が報告された時だった。すぐさま「これは、誰が行っているんだい」と確認をとる。
 会場の足立文化講堂には、3人の婦人部幹部が入る予定になっていた。「そうか。たくさん幹部が行っているけれど、現場は『走っています!』という気持ちだよ」
 どれほど足立の現場の底力がたくましいか。名誉会長は、誰よりも知り、誰よりも信頼している。すでに足立の会合は始まっていたが、長野から伝言を託した。
 「今や、足立が東京の代表である」
 「一番先頭に立っていけ」
 「声は大事な武器だ。朗らかに撃っていくんだ」
 足立文化講堂につめかけた約1500人の婦人部員は、名誉会長の一言一言に、会場が揺れるほど沸きたった。

氷川の地で
 84年(昭和59年)の5月4日、奥多摩の氷川は厳しい冬を耐えた桜が満開だった。
 名誉会長が、2棟の研修道場の前で白い帽子を取り、深々とお辞儀した。
 足立区宮城の土田健一は、その姿が涙でかすんで、よく見えなかった。土田たちが中心になって、青年部の人材グループ「栄光会」が築きあげた研修施設だった。
        ◇
 ここは、30年前の54年(昭和29年)9月に、戸田会長が水滸会の野外研修を行った地である。
 名誉会長を迎え、後継の青年が集いたい。信仰を錬磨する施設も建てたい。それが、当時の青年部の願いだった。
 そうなれば、建設関係の仕事に従事する栄光会の出番である。もともと栄光会は、発足当時から、足立、大田、江戸川、荒川など下町の職人が主力だった。
 足立の土田も、二つ返事で現場に飛んできた。足立の志願者は、400人を超えた。
 しかし、奥多摩の自然は厳しい。
 台風や豪雨もある。氷点下10度を下回る日もあった。
 同じ足立の渡辺健司(舎人の塗装業)や木村弘美(皿沼の建築業)も、仕事を片づけ、東京の東から西へ車を走らせた。
        ◇
 道場内。木の香の芳しい栄光会館で、開館記念の勤行会が行われた。名誉会長が、恩師の思い出を語りはじめる。
 「戸田先生は、常に『一人立て』と教えられた。私も難あるごとに『そうだ、一人立てばいいのだ』と深く決意した。これが水滸会の精神だ」
 勤行会終了後、名誉会長が多摩川の河原へ続く162段の階段を下りた。
 「戸田先生を囲んだ時と同じだね」
 キャンプファイアが焚かれた。30年前と同じ、師を求める真っ赤な陣形がそこにあった。
 帰り際、名誉会長は、栄光会の奮闘に感謝して、足立の友に色紙を手渡した。
 「立」の一文字が、どっしりと躍っていた。
 「足立」は「足で立つ」と書く。
 名誉会長は、折々に語ってきた。
 「どこか一個所が勝てば、全部が勝ち続いていく要。それが足立だ」
 一人立つ足立。東京と全国をリードしゆく広布の勇者である。
2009-05-22 : あの日あの時 :
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