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池田名誉会長の人物紀行 第10回

池田名誉会長の人物紀行 「歴史の巨人」と語る
             (2009.10.30付 聖教新聞)

第10回 世界的な科学者・平和運動家 湯川秀樹・スミ夫妻

人間性の拡大こそ焦点!

 列島に大光が差し込んだ。戦後長らく、日本を覆っていた曇天が吹き飛んだ。それは、関西からであった。
 関西で学び育った理論物理学者・湯川秀樹博士の偉業は、敗戦に沈む国民を、どれほど勇気づけてくれたか。
 博士は、原子核の構造に迫る画期的な「中間子理論」を打ち立てられた。日本人初のノーベル賞が発表されたのは1949年(昭和24年)の11月3日。60年前の秋である。
 湯川博士は、その翌年、青春の思い出深き大阪市の、中之島の中央公会堂で講演を行った。自らの研究を支えてくれた関西の天地への感謝を語られつつ、「科学の研究に国境はない。いずこの国の人であれ、真理を発見する可能性を持つ」と、ふるさとの青年たちを力強く励まされたのだ。
        ◇
 師・戸田城聖先生のもと、21歳の私は、少年雑誌の編集長として、すでに世界を舞台に活躍されていた湯川博士を紹介する企画を温めていた。
 『少年日本』と改題した第1号である1949年の10月号では、大科学者アインシュタイン博士を取り上げた。いよいよ湯川博士の業績を通し、少年少女に夢を贈ろう!
 そう胸を膨らませていた10月、経営不振により、雑誌は休刊を余儀なくされた。
 その時、果たせなかった、湯川博士の宣揚を、60年の歳月を経て実現できる喜びに、私の筆は弾んでいる。

努力は必ず勝つ
 博士は、不屈の青春を生き抜いた。その胸奥には、熱い負けじ魂が燃えていた。
 「中間子理論」を最初にまとめ上げた27歳の年、元旦の日記には、記されている。
 「失敗《しま》つたと思つた時に気をとり直すか否かゞ勝敗の分れ目である」(『湯川秀樹日記』朝日選書)
 天才に見える博士も順風満帆な時ばかりではなかったのであろう。
 大事なのは、へこたれないことだ。負けて意気消沈してしまったら、それが本当の負けである。「負けるが勝ち」とは、「次がある」ということである。「次は必ず勝つ」と勇気を奮い起こすことだ。
 なぜ博士は、偉大な業績を成し遂げられたのか。
 そこには「天才は限られてゐる、努力には限りがない」という奮闘があった(前掲書)。「熱情ある所、障碍《しょうがい》なし」という烈々たる気迫があった(同)
        ◇
 博士の愛称は「質問魔」。誰にでも気さくに語りかけ、どんなことでも質問した。
 よく「聞く」ことは、よく「学ぶ」ことである。
 経済雑誌からインタビューを受けた時のこと。訪れた若い記者に、博士の方《ほう》から、親しみやすい関西弁で尋ねた。
 「日本の未来と原子力の研究」についての質問だった。
 「どうやろう?」──生涯、青年の心で探究を続けた博士は、青年だからこそ言える率直な意見を聞きたかったのであろう。
 新進記者の一言一言にうん、うんと頷かれ、それに触発を得たかのように、突然、寄稿を口述されたという(『湯川秀樹著作集5』月報、岩波書店)

報恩こそ偉業の力
 誰からも学ぼうとした博士は、「出会いこそ人生の宝」と達観されていた。
 研究者にとって「若い時の人間関係が重要」とは、博士の持論である。
 特に湯川青年には、仁科芳雄博士という良き師に巡り会えたことが決定的であった。
 仁科博士は、湯川青年から研究の構想を聞くと、「そいつは面白そうじゃありませんか」と、いつも嬉しそうに励ましてくれた。湯川博士が海外での会議に招待された時も、愛弟子のために旅費の工面などに尽力されたのも、この師である。湯川博士が中間子の存在を予測したことには、いち早く賛同し、中間子の質量を最初に測定された(『湯川秀樹著作集7』)
 弟子にとって、師匠の存在ほどありかたいものはない。
 湯川博士は、自分の今日あるは「先生の賜物」と、終生、感謝を捧げられた。
 師恩に応えゆかんとする心こそ、大偉業の力なのだ。
        ◇
 博士は「核兵器の廃絶」を訴え抜いた信念の闘士でもあった。
 人間の生活を便利にするはずの科学の粋が、大量殺戮の兵器を生み出した。科学者として、どうして知らん顔ができようか。
 科学が「万人のための力となり、さらに、力であるよりも前に、万人を幸福にする知恵の一環となるように努力することを、われわれは断念してはならない」と、湯川博士は叫ばれている(『湯川秀樹著作集5』)
 科学は人間の幸福のために!──仏法で説く菩薩に通ずる境地に、博士は行き着いておられたといってよい。
 博士の平和闘争の大いなる原点は、アインシュタイン博士との語らいであった。
 1948年、湯川博士は米国プリンストン高等研究所の客員教授として招聘され、アインシュタイン博士と同僚になった。
 アインシュタイン博士は、湯川夫妻と会うなり、涙をぽろぽろ流しながら語られた。
 「罪もない日本人を原爆で苦しめてしまい申し訳ない」
 以来、二人はどうすれば世界平和が実現できるか、昼夜、語り合うようになった。
 その結論が、世界が一つになって核兵器の廃絶、人類の平和を目指す「世界連邦」という運動の構想であった。

核兵器は人類の敵
 ひとたび決めたら、湯川博士は厳として行動を貫いた。
 1955年、東西の対立が緊迫するなか、「ラッセル・アインシュタイン宣言」が発表された。アインシュタイン博士をはじめ、11人の20世紀を代表する科学者と哲学者が、全面的な核兵器の廃絶を訴えた歴史的宣言である。
 署名者の中には、湯川博士の名も光っていた。私が深い友情を結び、対談集を発刊した、ポーリング博士やロートブラット博士もおられた。
 1975年の8月には、「パグウォッシュ・シンポジウム」が関西で開催された。がんで闘病されていた湯川博士の出席をメンバーが切望し、開催地を京都に決定したのだ。博士は、同志の真心に応えて、車いすで出席し、開会の講演を行われた。
 「核兵器はわれわれ共通の敵であり、すべての核兵器を地球から完全になくすことがわれわれの目標である」(前掲書)。病後ゆえ声は低く、静かな語り口だった。しかし全生命の叫びは、皆の心を打った。
 続いて登壇されたロートブラット博士は感動を語った。
 「病気をおしてこの式に臨んでくださった湯川博士の不屈の勇気を尊敬します。あなたの精神を必ずこの会に生かします」(湯川スミ著『苦楽の園』講談社)
 それは、わが師の「原水爆禁止宣言」の姿とも重なる。
 恩師も自らの病魔と戦いつつ、人類の生存の権利を脅かす核兵器の魔性に挑まれた。
 世界の宝・湯川博士が逝去されたのは、1981年であった。その命日9月8日は、奇しくも戸田先生の「原水爆禁止宣言」の日と重なっており、私と妻は毎年、懇《ねんごろ》ろに追善をさせていただいている。
        ◇
 湯川博士は、平和の松明をスミ夫人に託された。
 「僕は研究があって力を注ぐことはできない。世界の半分は女性なのだから、世界連邦の運動はあなたが頑張ってほしい」──この心を受けて、スミ夫人は、世界連邦運動名誉会長、世界連邦全国婦人協議会会長等の要職を歴任し、核兵器廃絶や世界の連帯を訴え抜いてこられた。
 そのスミ夫人が、御子息で近世演劇研究家として活躍される春洋《はるみ》氏と共に、八王子の東京牧口記念会館を訪問してくださったのは、2004年の5月のことであった。
 私は学会本部での会議のため、直接、御挨拶できなかったが、牧口先生の殿堂にお迎えでき、感無量であった。
 牧口先生の大著『人生地理学』には、湯川博士の父君で、著名な地理学者の小川琢治《たくじ》先生が書評を寄せてくださった縁《えにし》もあるからである。
 “この一千ページもの本を完成せる著者の真摯と勤勉とに驚嘆せずにはいられない”
 若き牧口先生の「研究の幅広さ」「着想の斬新さ」「適切な論旨」を、博士の父君は高く評価されたのである。

婦人部への期待
 東京牧口記念会館には、スミ夫人が贈ってくださった貴重な写真が展示されていた。
 湯川博士がアインシュタイン博士らと散策する情景を収めた写真で、自宅の応接間に飾られていた宝である。
 御夫妻は、人生の試練も、毅然と勝ち越えてこられた。
 アメリカから帰国後、御次男を突然の病で亡くされた。
 「泣くに泣けない哀しさでしたね。秀樹さんの研究の邪魔にならないように死に物狂いで育てた子ですから」
 だが夫人は悲しみを胸に秘めて、前へ前へ進まれた。
 創価の女性運動にも多大な期待を寄せてくださっていた。京都国際文化会館でも、講演会を行ってくださった。
 「私は、学会の婦人部が平和のことを願う気持ちが、本当によくわかります。共に世界平和を願うものとして、とても心強い存在です」
 「『世界平和』といっても、遠く海外だけの話ではありません。隣にいる相手と仲良くする気持ちが、世界の平和へとつながっていくのです」
 スミ夫人は、96歳で天寿を全うされるまで、「一日も早く世界平和を実現したい」と語り続けておられた。
 その荘厳な御生涯は「女性の世紀」の鑑として永遠に仰がれ慕われゆくことだろう。
 「はばたきの
   ひろがりて千代に
        平和なれ」
 5月3日を祝賀してスミ夫人が自ら認め、私と妻に贈ってくださった、湯川博士の忘れ得ぬ句である。
        ◇
 湯川博士の探究は、あとに続く青年のためでもあった。自身が優れた学者になり、日本の国際的な地位を高めて、若い世代が大いなる希望を持って勉強できる道を開いておきたいと願っておられた(『湯川秀樹著作集7』)
 あの大阪・中之島の中央公会堂での講演でも、多くの大研究が20代、30代の新進の頭脳によって提唱され、進展されたことを力説された。博士の視点は、常に未来を託す青年に置かれていたのである。
 45年前、私は、英知の学生に語ったことがある。
 「願わくは、正しき哲学をもって、人類に貢献でき得る大科学者、すなわち『湯川博士』が出てもらいたい」
 嬉しいことに、今、学園・創大出身者をはじめ、世界的な研究を進める創価の科学者も陸続と育っている。
 湯川博士は言われた。
 「自らの努力によって人間性自身を開拓し拡大してゆく可能性をもっているのが人間であります」(『湯川秀樹自選集第1巻』朝日新聞社)
 そして博士は、科学ばかりでなく、芸術や宗教も、「人間の大きな可能性のあらわれ」と意義づけておられた。
 焦点は「人間性」の開拓であり、拡大である。
 博士は明快に語られた。
 「最後には、正しい者には正しい者にふさわしい恩賞を与えられる」
 真理の探究と平和の創造に戦い抜いてこられた博士の大確信であるにちがいない。
 博士の講演から7年後、私は同じ中之島の中央公会堂で、関西の友と師子吼した。
 「正義は最後に必ず勝つ」
 今ふたたび、中之島の中央公会堂で、愛する関西の青年たちと、平和と正義の勝鬨を挙げゆく日を、私は心待ちにしている。
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2009-10-30 : 人物紀行「歴史の巨人」と語る :
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池田名誉会長の人物紀行 第9回

池田名誉会長の人物紀行 「歴史の巨人」と語る
             (2009.10.18付 聖教新聞)

第9回 ルネサンスの巨匠 レオナルド・ダ・ビンチ

努力なくして勝利の完成なし

 「汝、奮起せよ!」「精神は鍛錬なしには堕落する」
 ルネサンスの巨人は、そう鼓舞しているようであった。
 1999年の11月3日。創価大学の本部棟に完成した、レオナルド・ダ・ビンチの像と、私は向き合った。
 ブロンズ像の高さは、台座を含め、約4・8メートルにもなる堂々たる偉容である。
 米国の高名な社会活動家ブラスナー博士が寄贈してくださった宝である。彫刻家・平田道則先生の渾身の力作だ。
 真理を射貫く鋭き英知の眼《まなこ》。創造への燃え盛る情熱を象徴する髪と髭。利き手であった左手は羽ペンを持ち、右手のノートに、迸る思念を書き付けようとしている。
 彼は、その生涯において、1万ページともいわれる膨大なノートを書き綴った。
 米ソを結んだ大実業家アーマンド・ハマー博士のオフィスにお招きいただいた際、その人類の至宝であるダ・ビンチのノート(レスター手稿)を拝見した思い出がある。
 「もっと良く知るために」(三神弘彦訳『パリ手稿H』岩波書店)とは、ノートに繰り返し記された彼の求道の真情である。
 絵画、彫刻はもとより、音楽、建築、数学、幾何学、解剖学、生理学、動植物学、天文学、気象学、地質学、地理学、物理学、光学、力学、土木工学等、彼の探究の翼は限りなく広がり続けた。
 「その偉大さの前には、芸術家、科学者、哲学者というように線を引くことが、おそらくは無益であろうと思われる」と、ドイツの大哲学者ヤスパースは感嘆している(カール・ヤスパース著、藤田赤二訳『リオナルド・ダ・ヴィンチ』理想社)
 創立以来、私は「創造的人間の建設こそ、創価大学の使命なり」と訴え続けてきた。その最高最大のモデルこそ、レオナルドに他ならない。
 世界中から来学される知性を、創大生・短大生は、この像の前で歓迎する。人類が共に仰ぐ万能の世界市民が、その光景を見守っているのだ。
      ◇
 「幸運は、みずから努力する人にのみ宿る」(『リオナルド・ダ・ヴィンチ』)──これがレオナルドの信条であった。ゆえに、「他人の労苦で、その身を飾ろうとする」(小野健一他訳『知られざるレオナルド』岩波書店』)人間を軽蔑した。
 そして、「執拗な努力よ。宿命の努力よ」「可愛想に、レオナルドよ、なぜおまえはこんなに苦心するのか」(杉浦明平訳『レオナルド・ダ・ヴィンチの手記 上』岩波文庫)。そう自らに問うほど、奮励努力した。
 現存する彼のデッサン(素描)は、900種ともいわれる。地道な労作業の結晶だ。こうした膨大な努力の蓄積なくして、「モナ・リザ」や「最後の晩餐」は誕生しなかったことを知らねばなるまい。
 レオナルド研究の第一人者であられる裾分一弘博士から、貴重な著書を頂戴した。博士の研究書には、レオナルドが後輩の画家に贈った、アドバイスが記されている。
 「建物の頂上に達するためには、一段一段登ってゆく必要があり、さもないと頂上に達することは出来ない」(『レオナルド・ダ・ヴィンチ』中央公論美術出版)
 忍耐こそ希望の母であり、執念こそ勝利の光である。
 「大なる苦悩なくしては、如何なる完成せる才能もあり得ない」(『リオナルド・ダ・ヴィンチ』)──かつて、私が学生部の英才に託した、レオナルドの結論である。

小宇宙と大宇宙
 レオナルドの労苦の精華に圧倒されたことがある。
 1994年の6月3日。ダ・ビンチが仕えたミラノ公の「スフォルッツア城」を訪れた時のことである。「アッセの間」と呼ばれる部屋一面に描かれた、彼の装飾画をイタリアの友と鑑賞した。
 世界最古の伝統を誇るボローニャ大学の講演で、「レオナルドの眼と人類の議会」を論じた2日後のことである。
 そこには、壁面から天井へと枝を発する大樹が、すさまじい迫力で描かれていた。
 なかんずく、その根っこが圧倒的な活力に充ち満ちて、鮮烈に描かれていた。
 風雨に揺るがぬ大樹には、必ず厳然たる根がある。人が知らないところで、強さの土台が築かれるという生命の奥義に、レオナルドの慧眼は注目していたのであろうか。
 岩盤を深々と引き裂く根から出発して、円柱の如く立ち上る樹幹を走り、天井を覆う枝へと伸びゆくダイナミックな生命力の脈動が、そのまま伝わってくる。
 レオナルドは、地質学等の研究を通して、地球も一つの生命体であると確信していた。肉は土、骨は山脈、血は泉、海の干満は呼吸や脈拍などと、人間の生命と宇宙の活動とを相応させていた。
 「脈は江河に法《のっ》とり骨は玉石に法とり皮肉は地土に法とり」と説く仏法の知見とも、深く一致している。人間の内なる小宇宙と、外なる大宇宙は不離一体なのだ。
 ゆえにレオナルドは、尊き生命の蹂躙を許さなかった。
 「人間の生命を奪うことこそ兇悪この上ないことだ」
 「まことに、生命を尊重しないものは生命に値いしない」(『レオナルド・ダ・ヴィンチの手記 上』)
 彼のノートに記された生命尊厳の叫びである。私は、全同志の代表として、イタリア共和国から功労勲章を拝受した際にも、御礼の中で、この点に言及させていただいた。
 戦時中、レオナルドの名画をナチスの魔手から護り抜いたフランスの美学者ルネ・ユイグ氏は、私との対談の中で語っておられた。
 「『モナ・リザ』の微笑と仏陀の微笑のあいだに、ある種の関係が認められる」
 宇宙の真理を追究したレオナルドと、東洋の哲学との共鳴は、今後、一段と解明されていくテーマであろう。
 「モナ・リザ」については、フランスの文化の闘士アンドレ・マルロー氏とも語り合ったことが懐かしい。
 作家をはじめ多彩な活動で知られる氏は「現代のダ・ビンチ」とも呼ばれた。「モナ・リザ」の日本出展にも多大な尽力をしてくださった。
 語らいでは、「死の超克」そして「永遠なるものへの接近」という氏の芸術観の真髄も話題になった。
 死を見つめ、永遠を見つめる。そこから、いかに生を充実させていくか。その真の道を開いていこうとされたマルロー氏ならではの洞察だ。
 氏とは、「モナ・リザ」の永遠の微笑を生んだルネサンスの精神的豊かさ、さらにそれを絵画として結実したレオナルド自身の永遠なる生命の輝きについても、論じ合った。
 レオナルドは綴った。
 「蓄財の主の名声は消えてしまう。徳の栄誉の方が、財宝のそれよりもいかに偉大であろう。いかに多くの帝王や皇子が、消え去ったことか。彼らの記録は今日に何も遺されていない」「一方金銭的には貧困の中に生き、しかし精神的には豊かな人生を送った者が如何に多くいたことか」(『レオナルド・ダ・ヴィンチ』)
 いささか唐突かもしれないが、心豊かに友を励まし、生老病死の苦悩を打開しゆく創価の母たちは、「永遠の常楽我浄の微笑」を湛えていると、私は宣言したいのだ。
 美の巨匠レオナルドは、若い女性にこう忠告している。
 「君は気付かないのであろうか。青春の輝く美しさは、凝りすぎた装飾のために、かえってその素晴らしさを失ってしまうことに」(高階秀爾監修、後藤淳一訳『レオナルド・ダ・ヴィンチ』創元社)
 「若さ」に勝る美はない。その宝を一段と光り輝かせるものは、内なる生命の太陽である。そう、レオナルドは語りかけているようだ。

生涯、挑戦の人生
 「樹は高ければ高いほど風の通過によって撓《たわ》められる」とレオナルドは達観している(『レオナルド・ダ・ヴィンチの手記 上』)。偉大な人生の常として、彼も嫉妬の誹謗に晒された。だからこそ、正義は力を持ち、賢明であらねばならないと。
 レオナルドのノートには、鍬が地面を掘り起こす図が描かれ、こう添えられている。
 「よこしまな者どもを根こそぎにするために」(『パリ手稿H』)──正義の闘魂が凝結した一言だ。
 さらにノートには、槍を握っている手の図を描いて、「不屈。始める人のことではなく、続ける人のこと」とも綴られている(『パリ手稿H』)
 レオナルドは生涯、挑戦の人生を生き抜いた。
 1973年の5月。私は欧州の青年たちと、レオナルドが最晩年を過ごした「クルーの館」を訪問した。
 亡くなった寝室には、銅板に彼の言葉が刻まれていた。
 「充実した生命は長い
 充実した日々は
 いい眠りを与える
 充実した生命は
 静寂な死を与える」
 わが師匠の戸田先生も、死をよく睡眠に譬えられた。
 ──ぐっすり眠って起きれば、元気が戻る。妙法と共に生きる生命は、ひとたび「方便現涅槃」の姿を示して、また元気に新たな使命と福運の人生を始められるのだ、と。
      ◇
 創大のダ・ビンチ像の設置を、多くの識者が喜ばれた。レオナルドの手記の翻訳でも知られる杉浦明平先生からも祝賀のメッセージを頂いた。
 先生は語っておられた。
 「レオナルドを学べば学ぶほど、人間の無限の可能性に驚きました。『一人の人間がここまでできるのか』と」
 そして、創価の青年に──「自分で考え、自分ですべての責任を持っていただきたい。レオナルドのように、万能の力を身につけていただきたい。その可能性は、だれにもあるのです」と期待を寄せてくださったのである。

逆風を飛翔の力に
 人間が空を飛ぶことを夢見たレオナルドは、鳥の飛翔を鋭く観察し、記している。
 「翼を開いて逆風をそれにとらえ、それによって高く上昇する」(『レオナルド・ダ・ヴィンチの手記 下』)──逆風を飛翔の力に変える。これが、天高く舞いゆく生命の法則だ。
 今、創価大学では、学業をはじめ知性輝く成果を挙げた秀才たちに創大ダ・ビンチ賞が贈られる。経済学検定試験で日本一を勝ち取る学生なども続々、躍り出てきた。21世紀の若きダ・ビンチたちの価値創造の活躍が、私は何よりも楽しみだ。
 ダ・ビンチ像は、きょうも、微動だにせず、俊英たちに期待の眼差しを注いでいる。
 「わたしは世を裨益《ひえき》する(=世のために尽くす)ことに疲れをしらぬ」(『レオナルド・ダ・ヴィンチの手記 上』)
 その魂の声が、私は聞こえてくるような気がする。

 本文中に明記した以外の主な参考文献=久保尋二著『宮廷人レオナルド・ダ・ヴィンチ』平凡社、ケネス・クラーク著、丸山修吉・大河内賢治訳『レオナルド・ダ・ヴィンチ 第2版』法政大学出版局、シャーウィン・B・ヌーランド著、菱川英一訳『レオナルド・ダ・ヴィンチ』岩波書店、瀬木慎一著『レオナルド・ダ・ヴィンチ 伝説と解読』ニュートンプレス、セルジュ・ブランリ著、五十嵐見鳥訳『レオナルド・ダ・ヴィンチ』平凡社、田中英道著『レオナルド・ダ・ヴィンチ』講談社学術文庫、ブルーノ・ナルディーニ著、富永昭訳『レオナルド・ダ・ヴィンチの生涯』筑摩書房、I ・B・ハート、花田圭介・今井道夫訳『レオナルド・ダ・ヴィンチ小伝』法政大学出版局。『レオナルド・ダ・ウィンチの手記』は現代表記に改めた。
2009-10-18 : 人物紀行「歴史の巨人」と語る :
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池田名誉会長の人物紀行 第8回

池田名誉会長の人物紀行 「歴史の巨人」と語る
             (2009.8.27付 聖教新聞)

第8回 革命と情熱の詩人 バイロン


勇み立て! 青年ならば前進だ

 若き日に
  読みたる感動
    バイロンの
  姿を見つめむ
    君らの英知に

 青春の魂は恐れを知らぬ。
 若き英国の詩人バイロンは、渾身の叫びを上げた。
 「我れ絶望に屈服せず!
 我れ我が苦悩と戦いぬ」
 青年ならば、前進だ。勇敢に前へ進む限り、希望という友が微笑み、ついてくる。
 バイロンは18世紀末から19世紀初めの激動の世界を駆け抜けた。フランス革命があり、反革命の応酬があった。英傑ナポレオンの台頭があり、その没落があった。
 時代は大きく揺れ動いていた。だが若き勇気の詩の英雄は、社会を翻弄する激流にも決して屈しない人間の尊厳を、勇壮に謳い上げたのだ。
 詩人は、民衆が苦悩する歴史の激戦地へ馳せ参じて、正義の旗を決然と打ち立てた。
 波瀾万丈の36年──。その大情熱の闘争は、「19世紀のヨーロッパの民衆運動」を力強く鼓舞していったと讃えられる。
 今、21世紀の世界市民の民衆運動を快活に創り広げているのが、創価の青年だ。
        ◇
 青春の命は、道を求める。
 バイロンは見抜いていた。
 「野心の生命も辛労もすべては悉く空無なり」
 「善は空しき名にあらず」
 わが命を燃焼して悔いなき、確かなものとは何か──真の生の充足を求めて、バイロンは人生を旅した。
 彼が実質的な最初の詩集を発刊したのは、19歳である。
 「詩人が留意すべきことは」
 「喜ばせることと向上させることだ」──やがて、詩心の深き使命を自覚する。
 私かバイロンの書を手にしたのは、戦後まもない、神田の古本屋街である。当時の読書ノートにも、書き留めた。
 幸運にも、私は19歳にして、永遠の師・戸田城聖先生に巡りあうことができた。
 「正しき人生とは」。私が尋ねると、簡明直裁な、しかも誠実な答えが返ってきた。
 この人なら、信じられる!
 その感動と感謝を、私は即興の詩に託して朗誦した。
 「嵐に動かぬ大樹求めて
 われ 地より湧き出でんとするか」
 天あり、地あり、師匠あり──最も正しき生命の歓喜と向上の道へ! わが青春の師弟の旅は、ここに姶まった。
        ◇
 それは1972年の5月。大歴史学者トインビー博士は、私との対談が一区切りつくと、御自宅の側《そば》のホーランド公園へ案内してくださった。眩き緑の中を、博士ご夫妻と家族のように散策した。
 この公園は、19世紀のイギリスの政治・文学に大きな影響を及ぼしたホーランド卿の邸宅があった場所である。そこは、バイロンはじめ最高峰の文化人らが集い合う「対話の広場」であったという歴史を、博士は私に紹介してくださった。
 博士とは、イギリスの教育が誇るパブリックスクールをめぐっても語り合った。
 トインビー博士はウィンチェスター校の出身。バイロンはハロー校の出身であった。
 それぞれ、試練の挑戦に雄々しく応戦し、不撓不屈の若き心身を鍛えた母校である。

若き「負けじ魂」
 青春は悩みを力に変える。
 バイロンは、生まれつき足が不自由であった。それゆえ、いわれない悪口を浴びせられた。誇り高いバイロンの心は、傷つき、苦しんだ。
 しかし、その分、若き「負けじ魂」を燃え上がらせた。水泳やクリケットの名手として、敢然と活躍する。
 また、当意即妙の機知に富んだ堂々たる雄弁を磨き、周囲を心服させていった。
 青年には柔軟な頭がある。その頭を思う存分に使うことだ。愚昧ではならない。どんな局面でも、活路を開く智慧は泉の如く汲み出せるのだ。
 自ら苦労を重ねたバイロンは、卑怯ないじめを断じて許さなかった。ある時、強暴な上級生が一人の下級生を殴りつけていた。通りかかったバイロンは「半分、僕を殴りたまえ」と申し出たのである。
 バイロンが庇った少年は、のちに大首相として名を上げるロバート・ピールである。
 虐げられた人の側に立ち、傲り高ぶる者に立ち向かう。バイロンの一貫した信条だ。
 学園時代に正義の闘魂を錬磨したバイロンは、やがて英国上院で熱弁を振るった。産業革命による機械化に伴い、解雇された労働者を擁護した名演説は有名である。権力者の横暴、欺瞞、虚偽、虚栄を、痛烈に攻め抜いた。
 バイロンは叫んだ。
 「私の義務は、正しき目的のためにすべてを賭することにある」
 今春、私は創価学園の愛唱歌「負けじ魂ここにあり」に新たに5番の歌詞を贈った。
 「正義の誇りに 胸を張れ」──この一節には、バイロンを凌ぐ英雄詩人よ、躍り出でよ!との願いも込めている。

世界が前にある
 青春の勇気は無敵である。
 「如何なる空の下をも行かん、/我に洸《こう》たる勇心あり」
 「勇気は如何なることでも成し遂げるものだ」──これが、バイロンの心意気であった。
 新しい詩歌の道を創り開くバイロンは、卑劣な匿名の悪罵を浴びせられた。
 文豪ビクトル・ユゴーも、そのバイロンを偲んで、「凡ての勝ぐれた人々のように、たしかに慥《たしか》に讒謗の餌食となった」と綴っている。
 しかし、誹謗されて萎縮するようなバイロンではなかった。ならば、いまだかつてない大傑作を生み出して、あっと言わせてみせると、いやまして闘志を奮い立たせた。
 惰性や堕落や嫉妬が渦巻く既成の権威に、自分が負けてしまえば、後に続く新しき世代の道が閉ざされてしまう。その先頭に立って、堅忍不抜の努力と開拓を重ねたのだ。
 バイロンは「全世界がわたしの前にある」との気概で、心広々と精神闘争に打って出た。
 壮大な長編詩「チャイルド・ハロルドの遍歴」、詩劇「マンフレッド」、叙事詩「ドン・ジュアン」等々──何ものにも縛られぬ魂の自由を謳歌し、人間精神の勝利を宣言した詩作は、狭小な悪評などものともせず、全世界からの賞讃を勝ち得ていった。
 かのドイツのゲーテも、ロシアのレールモントフも、日本の高山樗牛も、バイロンを激賞してやまなかった。
 若き世界市民は勝った。
        ◇
 青春は最前線に躍り出る。
 バイロンの勇戦が世界史に不滅の光彩を放った時──。それこそ、ギリシャ独立闘争への参加であった。
 当時、ヨーロッパ文明発祥の大恩の天地ギリシャは、大国の軛の下にあった。
 隷属から立ち上がったギリシャの勇士の陣列に、世界の民衆詩人たるバイロンは、熱き血潮を燃やした。
 ──時は来た。今こそ行動の哲学を完成させゆくのだ。
 さあ行こう!
 バイロンは、私財を擲ち、自ら義勇軍を率いて、ミソロンギの天地へ上陸した。
 1824年のことである。
 戦況は、悪戦苦闘の連続であった。それでもバイロンは忍耐強く陣形を整え、率先の行動で同志を励ました。
 「自由を欲するものは、自ら起って戦わねばならぬことを知らないのか。/勝利は自らの腕によって得られるのだということを知らないのか」
 困難が起こるほど、バイロンは生命の充実を感じた。民衆のために、苦労して戦うほどの名誉はないからだ。
 「青春を悔いるならば、なにゆえに命を永えるか」
 甘ったれた青年には、何もできない。いざという時、狡賢く傍観する臆病な青春は、佗しい後悔を残すだけだ。
 使命の戦線に勇んで駆けつけ、若き生命を捧げゆけ!
 これが、バイロンの不退の決意であった。誉れ高く一人立つ獅子の勇気を、バイロンは謳い、そして体現した。
 学会精神と響き合う心だ。
 「革命は死なり」とは、戸田門下の青年の覚悟であった。
 ゆえに私は青年部の室長として、聖教新聞に「革命詩人・バイロン──生涯を情熱で貫く」と題し寄稿した。
 昭和32年6月、学生部誕生の直前である。夕張炭労事件に続いて大阪事件が競い起こらんとする渦中であった。
 バイロンを通して「実行だ、闘争だ、前進だ」と訴えた私の師子吼に、全青年部が応え、猛然と立ち上がってくれた。今も同じだ。

強気で攻めよ!
 青春の勝利とは、不滅の栄光を残しゆくことである。
 バイロンは、志半ばにして病に倒れた。
 「進め! 勇め、我に倣って進め! 恐れるな!」
 これが遺言となった。最後の一瞬まで、強気で攻めるのが、勇者の真髄である。
 その気迫は、死によっても消え去ることはなかった。
 バイロンの自由と正義の戦いは、やがて世論を動かし、政治を動かして、祖国イギリスはギリシャ支持の声明を発するに至った。そして、ついに独立は成ったのである。
 ギリシャの国民の手で建てられた「英雄の園」には、バイロンの名を刻印し、讃える大理石の柱がある。
 「ここに勇者の碑あり、彼は自由を愛したり、ゆえに来たりてギリシャのために死せり」と。
 民衆から捧げられる感謝こそ、青年の永遠の誉れだ。
 「私の中には、拷問にも時にも屈しない何か、この身が滅んでも生きつづける何かがある」──バイロンの英国の墓碑に刻まれた詩句である。
 ゲーテは「バイロンの大胆さ、勇敢さ、雄大さ」を讃えた。大作「ファウスト」にも、バイロンをモデルとする青年を登場させている。
 その青年は叫ぶ。
 「ながめているだけなのか
 いや、苦難をともにする」
 「すべての戦う人びとに、
 ぼくの参加が大きな力となるように!」
 「いざ、彼の地へ!
 誉れに向かって、道はひらかれている」
 創価の青年よ! 未来の人類から仰がれゆく、大いなる勝利の歴史を、断固、残し飾りゆけ! バイロンの如く!


❶丸川仁夫他訳『バイロン全集第5巻』那須書房❷岡本成蹊他訳『バイロン全集第3巻』③東中稜代著『バイロン初期の風刺詩』山口書店④阿部知二訳『世界詩人選4 バイロン詩集』小沢書店❺熊田精華他訳『バイロン全集第4巻❻岡本成蹊他訳『バイロン全集第1巻❼榎本秋村訳『ユウゴオ論説集』春秋社書店⑧田中栄一訳『バイロン』評論社❾アンドレ・モウロア著、木村毅訳『バイロン』改造社⑩鶴見祐輔著『バイロン』潮文庫⑪笠原順路編『対訳バイロン詩集』岩波文庫⑫エッカーマン著、山下肇訳『ゲーテとの対話(中)』岩波文庫⑬池内紀訳『ファウスト第2部』集英社文庫⑭山下肇他訳『ゲーテ全集3』所収、潮出版社。
白抜き文献は現代表記に改めた。
他に『阿部知二全集第13巻』河出書房新社、楠本晢夫著『永遠の巡礼詩人バイロン』三省堂、等を参考にした。
2009-09-04 : 人物紀行「歴史の巨人」と語る :
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池田名誉会長の人物紀行 第7回

池田名誉会長の人物紀行 「歴史の巨人」と語る
             (2009.8.9付 聖教新聞)

第7回 韓国のジャンヌ・ダルク 柳寛順《ユ グワン スン》

乙女よ立ち上がる時は今!

 「救国の乙女が
 平和と幸福の礎
 勝利の果実を我らに
 もたらした」(森田稔訳)
 ロシアの作曲家チャイコフスキーの傑作オペラ「オルレアンの少女(ジャンヌ・ダルク)」の一節である。
 この世に、正義の信念に生き抜く乙女の声ほど、強く、尊く、美しいものはない。
 15世紀のフランスには、ジャンヌ・ダルクが登場した。20世紀の韓国には、柳寛順が躍り出た。時代の光明は、尊き使命に舞いゆく乙女の生命から発する。そして今、創価の華陽の乙女たちが、人類から仰がれ讃えられゆく平和と正義のスクラムを広げている。
        ◇
 その乙女の像は、今まさに行進せんとする姿に見えた。
 ソウルの奨忠壇《チャンチュンダン》公園の一角。優美なチマ・チョゴリを纏い、大きな松明を掲げて、足を踏み出している。何と誇りと勇気に燃えた顔《かんばせ》か!
 「韓国のジャンヌ・ダルク」柳寛順の瞳は、澄み渡ったソウルの天空のもと、彼方の未来を見つめていた。
 1990年の9月22日、ソウル・湖巌《ホアム》ギャラリーで、東京富士美術館所蔵の「西洋絵画名品展」が盛大に開幕した。韓国で初となる本格的な西洋美術展である。
 その前日、同館の創立者として、私は少年の日より憧れの韓国に遂に第一歩を印した。文化大恩の国へ、芸術交流を通して、せめてもの報恩の道を開くことができ、万感胸に迫る思いであった。
 開幕式の後、夕刻には帰国という過密な日程。その中、たまたま宿泊先近くの公園で巡り合ったのが、この柳寛順の銅像だったのである。
       ◇
 韓国の小学校では、彼女の讃歌が歌い継がれてきた。
♪やよいの空を仰ぎ見て
 ユガンスン姉《ねえ》さん思い出す
 牢の中でもマンセ《万歳》さけび
 青空も見ず なくなった
   …… ……
 今もあの声きこえそう
 青空見上げ 呼んでみる
           (姜小泉作詞、仲村修訳)
 愛する祖国が最も苦難の嵐に晒されていた時に、命を賭して立ち上がった乙女。その恐れなき音声は、人々の心に深く響き続けているのだ。
 柳寛順は1902年(別説あり)、忠清南道《チュンチョムナムド》の天安《チョナン》郡に生まれた。3人の男兄弟と共に、兎を追い、栗拾いや茸採りをして、野山を駆け回る活発な少女だったようだ。
 母・李少悌《イソジェ》は、近所の貧しい家と食べ物を分かち合う慈愛の女性であった。寛順も母の差し入れを携えて、使いに行くのを誇らしく思ったという。母から「思いやりの心」を受け継いだ寛順は近所の幼い子らの面倒をよく見る、心優しい乙女でもあった。
 1910年、日本は恩義を踏みにじり韓国を併合する。それ以前から、悪逆非道な支配が、寛順の一家にも影を落としていた。
 父・柳重権《ユジュングォン》は、志が高く、勇気ある教育者だった。地域の有志と独立を目指し、「民衆の啓発」に尽くした。「教育こそ祖国独立の基盤」との信条で、私財を抛って、興湖《フンホ》学校を創設したのである。
 しかし、経営に行き詰まってしまった。日本人のあくどい高利貸しから借金をし、むごい取り立ての拷問に遭った父は、自らが運営から身を引くことによって、学校を守った。
 この不撓不屈なる父の「信念の炎」は、愛娘・寛順の命に烈々と燃え盛っていった。
        ◇
 1916年、14歳になった彼女は、故郷の天安を離れ、ソウルの梨花《イファ》学堂(現・梨花女子大学の前身)の学寮に入った。彼女の村を訪れたアメリカの女性宣教師が、才能を見抜き、その推薦で給費生となったのである。多くの善意に支えられての学校生活に深く感謝し、報恩の心で真剣に学び、努力する寛順であった。
 人の嫌がる仕事も自ら引き受け、皆から慕われる太陽のような存在と光っていった。
 私には、親元を離れて寮や下宿で鍛えながら学ぶ、創価学園生や創大・短大生、アメリカ創大生、そして尊き留学生の友らの姿重なり合う。

最後の一人まで
 時代は大きく動いていた。1919年2月8日、東京から独立運動の火の手が挙がった。これを契機に3月1日、ソウルで「独立万歳!」を叫ぶ運動が沸き起こった。それは地方ヘー気に拡大した。
 万歳運動は、学生が先駆を切った運動である。と同時に、女性が決然と立ち上がった覚醒運動でもあった。封建制度の殻に閉ざされていた女性たちが、太極旗(韓国の国旗)を作り、次々と身を投じていったのだ。
 「万歳」──それは、理不尽に蹂躙された祖国を断固と護り、人間の尊厳を示す命懸の魂の勝鬨であった。
 学校が休校となり、寛順は天安に帰省した。陰険なる官憲の監視を前に、故郷の人々は、いまだ息を潜めていた。
 わが故郷も、敢然と立ち上がる時が来た!
 寛順は、独立運動を呼びかけるため、地元の有力者など周辺の村々を回り始めた。
 乙女は訴えた。「自由をもてずに生きることは、生きていることになりません」
 使命に燃ゆる寛順の熱誠の訴えに、一人また一人と、村人は奮い立っていった。
 真剣の二字に貫かれた乙女の対話が、心を開き、心を掴み、心を揺り動かしたのだ。彼女は、20日間、数百里を歩き通し、語り抜いた。
 「最後の一人まで!
 最後の一瞬まで!」
 運動の拡大に執念を燃やす寛順のモットーであった。

轟く「万歳!」
 ついに、天安郡で最も大きな市が開かれる並川《ピョンチョン》市場で、決起する運びとなった。
 決行の前夜。寛順は夜更けの暗く険しい山道を登った。翌日の独立運動の蜂起を確認する合図を発信するためだ。
 息を弾ませながら頂上に着き、松明に火を灯す。高々と掲げ、暗闇に目を凝らした。
 すると、四方八方の山々から、次から次へと蜂火が挙がっていった。その紅の光は24力所にも広がったという。
 明けた4月1日の正午、並川市場には数千人の人々が続々と集まってきた。群衆の前に、ひときわ大きな太極旗が打ち立てられた。運動の主宰者が独立宣言文を読み上げたあと、柳寛順が壇上に立ち、演説を始めた。
 「独立万歳の叫びは三千里の村々に欠けることなく伝わっています。我々が脱落していいものでしょうか、みなさん我々も独立をかちとるため万歳を叫びましょう」(姜徳相著『朝鮮独立運動の群像』青木書店)
 話し終えた寛順は、声高らかに「朝鮮《チョソン》万歳!」と叫んだ。すると、仲開か太極旗を掲げて、「万歳!」と呼応した。それを、きっかけに、市場は「万歳!」「万歳!」の連呼が轟き渡っていった。
        ◇
 デモ行進が開始された。大きな太極旗を手に先頭に立つのは、寛順の両親である。
 徹底した非暴力の平和的な行進だった。にもかかわらず、恐怖に駆られた官憲が小銃の引き金を引いた。この銃撃で、寛順の父・柳重権が倒れた。さらに残忍な無差別発砲で、多数の同志が犠牲となった。その中には寛順の母・李少悌もいたのである。
 寛順は目の前で、最も尊敬する正義の父と母を相次いで奪われた。そして自らも、不当に囚われの身となった。

悪を見過ごすな
 牢獄では過酷な拷問が続いた。しかし、いかに脅されようと、彼女は屈しなかった。
 移送の車からも、編み笠を彼らされたまま、群衆に「独立万歳!」と叫び抜いた。
 共に獄に入った同志が溜息をつくと、叱咤した。
 「拷問がつらいといっても、悪逆を黙って見過ごしているよりも、楽なことではないか! 断じて戦おう!」
 一人の乙女が、どれほど強靭にして、崇高な精神闘争を貫き通せるか。あまりに神々しき歴史が、ここにある。
 秋が深まる頃、同じ牢の女性が別の部屋で出産した。赤ん坊を抱いて戻ってきた母親に、寛順は「おしめ」を手渡した。温かい。寛順が自分の体に当てて温めていたのだ。
 彼女は一方的な裁判に臨んでも、祖国への誇りと正義の信条を堂々と言い放った。
 だが残虐な拷問と栄養失調で、体の衰弱は激しかった。寛順は面会の兄に語った。
 「物たりないけれど自分は義務を果したと思う」(『朝鮮独立運動の群像』)
 1920年の10月12日、気高き一生の幕は閉じた。
        ◇
 乙女たちが命を抛って燃え上がらせた「三・一独立運動」の火は、中国の「五・四運動」に運動した。アジア・アフリカ諸国の独立運動にも、その精神の大光は広がった。
 創価の父・牧口常三郎先生と戸田城聖先生が師弟の出会いを結んだのも、この時代であった。全世界の民衆が、自分自身の幸福の万歳を、愛する祖国の繁栄の万歳を、そして人類の平和の万歳を誇らかに叫びゆくためには、生命の尊厳と平等の大哲学が絶対に必要である。両先生は、いまだかつてない壮大な世界市民の連帯を築き始めたのだ。
 日本の軍部権力と戦い抜いた師弟は、韓国そしてアジアヘの思いは格別に深かった。戸田先生が自らの獄中闘争を振り返りつつ、韓国の殉難の乙女たちの話をしてくださったことも忘れられない。その目には涙が光っていた。
 私も、高等部や創価学園生に、折りに触れ語ってきた。
        ◇
 寛順の座右には、ジャンヌ・ダルクの伝記があった。ジャンヌの如く、永遠に光を放つ使命の青春を走り抜くことを固く決意していたのだ。
 今、寛順ゆかりの梨花女子大学でも、創価の女子学生が母校愛を光らせ学んでいる。
 韓国の国花は「無窮花《ムグンファ》」。その名の通り、夏から秋へ窮まることなく咲き誇る花だ。
 韓国でも、日本でも、世界中で、華陽の友が「正義と友情の華の対話」を、朗らかに勇敢に繰り広げている。
 一人ももれなく健康で「幸福勝利の青春万歳を!」と、妻と祈りゆく日日である。



 本文中に明記した以外の主な参考文献=朴殷植著、姜徳相訳『朝鮮独立運動の血史 1・2』平凡社、早乙女勝元編『柳寛順の青い空 韓国で歴史をふりかえる』草の根出版会、柳大河著『柳寛順物語』新幹社、梁東準・太田哲二・全順子著『韓国偉人伝』明石書店、成律子著『朝鮮史の女たち』筑摩書房
2009-08-09 : 人物紀行「歴史の巨人」と語る :
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池田名誉会長の人物紀行 第5/6回

池田名誉会長の人物紀行 「歴史の巨人」と語る
             (2009.7.10/11付 聖教新聞)

第5/6回 民主主義の父 リンカーン㊤㊦

「正義は力なり!」と 
勝負はこれからだ


 さあ、今日という一日を、思う存分に戦い切ることだ。一切は、そこから開ける。
 「今日の苦闘は、今日だけのものではない。
 それは、壮大な未来のためのものでもある」
 こう語りかけ、青年を励ましてくれる先哲がいる。誰にも増して、悪戦苦闘の人生を生き抜き、人類の未来を切り開いた、筋金入りの苦労人だ。
 その人こそ、アメリカ合衆国の第16代大統領エイブラハム・リンカーンである。
        ◇
 1960年の10月、私は、世界への平和旅を、アメリカから開始した。
 首都ワシントンDCでは、ギリシャ神殿を思わせる白亜の殿堂を訪れた。リンカーン大統領の記念堂である。
 大理石で造られたリンカーンの大座像が迎えてくれた。広い額、高い鼻、鋭くも温かい眼光からは、聡明な頭脳と強靭な意志が伝わってくる。
 その顔《かんばせ》こそ、「ひとかたならぬ苦労によって崇高な人間性という秘宝が姿をあらわした」と讃えられた尊容である(マリオ・M・クオモ/ハロルド・ホルザー編著、高橋早苗訳『リンカン民主主義論集』角川選書)
 壁に刻印されているのは、かの有名な「ゲティスバーグ演説」の一節である──。
 「人民の、人民による、人民のための政治をこの世から消滅させてはならないのです」(前掲書)
 万人の生命の尊厳と平等を説き明かした仏法哲学を掲げ、平和のため、人類の幸福のため、この「人民根本」の理念を実現していくことが、広宣流布の展開であると、私は同行の青年たちと強く語り合った。
 昨年、このリンカーン記念堂から程近い「大使館通り」の一角に、創価のワシントンDC文化会館が誕生した。
 学識者を招いての平和講演会なども、活発だ。ロビーに飾られたリンカーン大統領の肖像が、わが愛するアメリカの友を見守っている。

民衆詩人の讃歌
 リンカーン大統領と同時代を生きた、民衆詩人ホイットマンは語っている。
 「私の親愛なる愛しき母親の次に、他の誰よりもリンカーン大統領を、私は最も親しく、そして身近に感じるのだ」
 彼らが共に生きた19世紀半ば、アメリカは奴隷制度の是非をめぐり南北が分裂し、激しい憎悪をもって自国民が争う状態が続いていた。
 だがリンカーンは、厳然と民主主義の精神を貫きながら、自由と平等の国の建設へ舵取りをしていった。
 「穏やかで、率直で、義に篤く、意志強く、周到な指揮ぶりで、/どんな国どんな時代にも例を見ぬ史上最悪の罪を敵にまわし、/諸州寄りつどう連邦を救ってくれた」(酒本雅之訳『草の葉㊥』岩波文庫)
 リンカーンを讃嘆したホイットマンの詩の一節である。
 ホイットマンはリンカーンによって素晴らしい詩想を得、リンカーンはホイットマンによって輝きを増した。二人の詩心と信念は、米国を希望の方向へ前進させたのだ。
        ◇
 今年は、リンカーンの生誕200周年である。この佳節に、米国史上初のアフリカ系の元首として、バラク・オバマ大統領が誕生した。
 母国再生の指揮を執り、理想を追い求めつつ、徹して現実主義者であり続けるオバマ大統領に、リンカーンを重ね合わせる人は少なくない。
 オバマ大統領も、リンカーンを深く敬愛し、「比類なき偉人が大統領を務めたおかけで、私の物語は可能になった」と感謝を捧げている。
 私が交友を結んだ世界的な経済学者のサロー博士は、「最も評価される歴史上の指導者は」との問いに、リンカーンを挙げられた。
 先般、お迎えした、英国の名門クイーンズ大学ベルファストのグレッグソン学長も、リンカーンの深き精神性と明確なビジョンを高く評価されている。
 私も、実業家の松下幸之助氏から「今までの世界の歴史において、偉大な政治家と思う方は誰か」と問われ、明快にリンカーンと答えた。

激戦の中で磨け
 なぜ、リンカーンが偉大か。
 何よりも、常に庶民を愛し、人々の苦しみを、わが苦しみと感ずる深き慈愛の心にあふれていた。
 あの南北戦争の際、女性たちから寄せられた夫や息子の除隊願いの大部分を受け入れたことも、よく知られる。
 青春時代、私が編集長を務めていた雑誌「少年日本」でも、リンカーンと少年との麗しい逸話を紹介したことがある(1949年12月号)。
 南北戦争のさなか、大統領のもとで働く少年給仕は、必死に働いて得たお金を、病気に苦しむ父と母に仕送りして支えていた。
 その状況を知ったリンカーンは、健気な少年に真心の金貨を贈り、こう語ったという。
 「明日、早速、お母さんに送ってあげるがいい。
 どんなに貧乏していても、君のような孝行者を子に持った母親が羨ましいと、大統領が申しましたと手紙に書いてあげなさい」
 リンカーンの振る舞いは、民主主義を体現していた。
 地位や立場に関係なく、誰とでも友人となり、親切で、思いやりのある言葉をかけていったとの証言が多々ある。
 それは、リンカーンが若くして、人生の茨の道を歩んできたからにちがいない。
 1809年の2月12日、ケンタッキー州の開拓農民の子として丸太小屋で生まれた。
 正規の学校教育を受けたのは、1年にも満たなかった。9歳の時に、愛母と死別する。青年時代には、営んでいた雑貨店が破産し、多大な借金を抱えたこともあった。
 しかし、彼は屈しない。努力を惜しまなかった。働きながら読書に励み、思索を重ね、文章を綴り、自らの見識を養った。そうして得た知識を、庶民との交流で智慧に変えた。実社会という総合大学の中で自身を磨いたのである。
 世界の一流の人物に共通する足跡であり、わが創価の多くの同志が歩んでいる道だ。
 リンカーンは苦難を前に一歩も退くことなく、借金も、十数年かけて完済した。
 誠実、勇気、忍耐──艱難は、その人間力を鋼の如く鍛え上げていった。
 大統領に就任した際、閣僚に7人の大学出身者がいた。
 もしシーソーの一方に7人が乗っても、片方にリンカーンが乗れば、彼の重みで相手の7人は空高く跳ね飛ばされてしまうだろう。そう評されたくらいである。
 この話を通して、戸田先生も、よく語ってくださった。
 ──庶民の中にこそ、英知がある。労苦の中でこそ、実力は磨かれる。わが青年部は、激戦の中で、どんなに威張り腐った連中にも、断じて負けない力をつけよ、と。

虚偽には抗議を
 州議員の時代のことである。リンカーンの人気と名声を嫉んだ対立候補が、公衆の面前で卑怯な人身攻撃を始めた。その男は、立身出世を企んで自らの信念を曲げ、かつての盟友も裏切る変節漢であった。
 リンカーンは正義の弁舌で戦った。当意即妙のユーモアを交え、虚偽を毅然と正した。
 獅子の雄弁の前に、相手は一目散に退散したという。
 「抗議すべき時に沈黙する者は、卑劣な人間となってしまう」とは、彼の信条である。
 そしてまた、「真実は中傷に対する最上の弁明である」と確信していたのだ(石井満著『リンカン』旺文社文庫)
 「言論の自由」は民主主義の誇り高き柱の一つである。
 それは、根拠のない虚偽を流す自由ではない。人々を騙す欺瞞を語る権利でもない。真実と公正な社会を築くためにあるのだ。
 ゆえに、リンカーンは、言論の暴力を許さなかった。
 「正しい証拠と公正な議論を虚偽と欺瞞にすりかえる権利は誰にもないのです」とは、リンカーンの獅子吼である(『リンカン民主主義論集』)。

起死回生の作戦
 リンカーンは、逆境を撥ね返す勝負強さを持っていた。
 土壇場に追い込まれても、底知れない粘りがあった。
 大統領再選の選挙の際も、そうであった。
 長期化する南北戦争への不安から、勝利は遠のいていた。「リンカーンはもう駄目だ」「勝つのは不可能だ」と、味方からも見放された。
 絶体絶命のリンカーン陣営が取った起死回生の作戦──それは、出征している北軍の兵士たちも、確実に投票の権利を行使できるように万全の態勢を整えることであった。
 最後まで、気を緩めることなど決してなかった。
 結果は逆転勝利! 作戦は見事、難局の突破口を開いた。
 断じて諦めない追撃の布石に勝因があった、と分析する歴史家もいる。
 「断固として立つなら、敗れることはありません」
 「遅かれ早かれ、勝利はかならずめぐってくるのです」(前掲書)
 これが、百戦錬磨のリンカーンの勝負哲学であった。

民主主義の父 リンカーン

今日を勝て!
勝って証明を


 ロシアの文豪トルストイはリンカーンを讃えて言った。
 「全世界を包みこむ人道主義者だった」と(マリオ・M・クオモ/ハロルド・ホルザー編著、高橋早苗訳『リンカン民主主義論集』角川選書)
 世界に開かれ、世界のために貢献する。人類とつながり、人類から信頼される。
 この世界市民の先駆の道を、リンカーン大統領は歩んだ。それは、日本の民主主義の夜明けにも連動している。
 わが関西の出身で、幕末期、日本最初の新聞を横浜で創刊した浜田彦蔵は、リンカーンとの出会いを宝としていた。
 「大統領は大きな手をさしのべて、日本のような遠いところからよく来てくれましたね、といい、まごころのこもった握手をかわした」(近盛晴嘉著『ジョセフ彦』日本ブリタニカ)
 いささかも権威ぶらない。対等に親切に迎えてくれた。人間指導者の握手の温もりは、青年の行動の熱となった。
 彦蔵は、合衆国憲法をモデルに「信教の自由」などを備えた憲法の草案を提出したことでも、知られている。
 リンカーンも彦蔵も追求した「人道」を、人類の指標として高らかに掲げたのが先師・牧口常三郎先生である。
 先生は「ちっぽけな島国根性で『蝸牛(カタツムリ)の角の争い』をしている時代ではない」と戒められた。
 その心を心とする、創価の平和と正義と人道の連帯は、世界192力国に広がった。
 今や、「民主主義の殿堂」たるアメリカ連邦議会からも、意義深さ顕彰を拝受する時代に入っている。
 世界が、我ら創価の前進そして勝利を祈り、待ってくれていることを忘れまい。

人民のために!
 1861年の3月、リンカーンは、大統領就任式に臨んで語っている。
 「人民が選挙によって私を選び、演説の中で述べられた希望を実現するための道具としてくれたわけです」(『リンカン民主主義論集』)
 自分を選んでくれた人民に、いかに応えてゆくか──。出発点が明快であった。
 さらにまた、リンカーンは、大統領の就任式で宣言した。
 「なぜ、国民の究極の正義をあくまでも信頼しようとする姿勢がないのでしょうか?
 それ以上の、あるいはそれに匹敵する希望がこの世に存在するでしょうか?」(前掲書)
 すべての為政者が耳を傾け、心すべき警鐘であろう。
 リンカーンには、この確固たる哲学があった。理念があった。ゆえに、現実処理のみに追われ、自己保身に汲々とするのではない。現実に深く根差しつつ、常に人民を信じ、人民のためにと、リーダーシップを発揮していった。
 国家の命運を担う大統領として、奴隷制度は悪であるとの断固たる信念に立ちつつ、冷静に事態を分析し、最大限に智慧を働かせて、でき得る限り、穏健な路線を進んだ。
 政治の目的は、「個人の幸福」と「社会の繁栄」との一致にあるとは、恩師・戸田城聖先生の慧眼であった。
 その理想を実現するためには、どんなに時間がかかろうとも、どんなに苦労があろうとも、人民の大地から、人民の手づくりで、リンカーンの如き哲人指導者を育て上げていく以外にない。これが、戸田先生の結論であった。
        ◇
 数多《あまた》の犠牲を払って、なお続いた南北戦争──。
 火薬の臭いが漂う緊張した空気のなか、彼は第2期の大統領就任演説で、こう訴えた。
 「なんぴとにも悪意をいだかず、すべての人に思いやりを示し」と(同)
 それは、道徳を基盤とした政治こそ真の民主政治であるとの信条に裏打ちされていた。リンカーンは、一党一派の利益や一部勢力の便宜のために働くのでなく、国家百年の大計、さらには全世界的視野に立っていたといってよい。
 彼は北部の出身であった。しかし、常に連邦全体の発展に焦点を当てていた。
 また当時、世界に民主国家と呼べる国は皆無に等しかった。彼は、アメリカの民主主義を確立することによって、世界の民主主義を擁護するチャンスと責任が生まれると考えていたのだ。
 そのためには、「自由を愛する世界中の人びとが」心を一つにすることだ。
 そうすれば、「われわれは連邦を救うだけにとどまらない」「あとにつづく数百万人の幸福な自由人と世界中の人びとは立ち上がり、末代までもわれわれを賞賛するだろう」と、リンカーンは確信してやまなかった(同)
 この信念の通り、1863年1月に「奴隷は即時、無償解放される」と宣言した。
 世界史に、そびえ立つ自由と平等の燦然たる金字塔を打ち立てたのである。

雄弁家=戦う人
 リンカーンは言った。
 「私の哲学に、偶然はない。すべての結果には、原因があるものだ。過去は現在の因であり、未来の因は現在にある。
 すべては、有限から無限へと続く終わりなき鎖のようにつながっているのだ」
 要するに、坐して黙しているだけでは、何も開けない。
 リンカーンは、一貫して言論で民衆を力強く鼓舞していった。
 直接、語りかけただけではない。南北戦争の渦中には、当時、全米にネットワークを広げていた電報を価値的に活用した。軍事電報局を拠点として、遠く離れた最前線の指揮官に直接、打電し、指令や激励を、時には夜を徹して送り続けたのである。
 リーダーが安住していては、人の心を動かすことなどできない。まして油断は大敵である。
 即座に報告を入れよ!
 即座に手を打つのだ!
 これは、かのアショカ大王が貫いた鉄則でもあった。
 今、この時に、できることは何か。勝利のため、なすべきことは何か。頭を絞り、智慧を出し、声の限りを尽くして、皆に勇気を贈ることである。真の雄弁家とは「戦う人」の異名である。
 言論闘争とは、いつ、いかなる場所にあっても直ちに起こせる戦いである。
 私も、どこに身を置いても常在戦場の決意で、日本はもちろん、世界の友に激励の手を打ってきた。夜行列車の車中で原稿を書いたことも、移動の車から和歌を発信したことも、数を知れない。
 雄弁の本質について、リンカーンは論じている。
 それは、「言葉や文章のうまい並べ方」ではない。「真摯で情熱的な口調と態度」にある。そして、「目的および正義の重要性にたいする強い確信と偉大な誠実さにのみ由来する」というのである(同)
 大事なのは、格好ではない。
 真剣であり、真心である。
 誠実であり、勇気である。
 情熱であり、確信である。
 友の心を歓喜と感動で揺さぶり、敵には舌鋒鋭い破邪顕正の矢を放っていくのだ。
 御聖訓には、「一《ひとつ》の師子王吼れば百子力を得て諸の禽獣皆頭七分にわる」(御書1316㌻)と説かれる。

宗教こそ不可欠
 リンカーンは「信教の自由」を尊重してやまなかった。
 「宗教の公然たる敵、またはその嘲笑者であるのがわかっている人を公職に推す気にはとうていなれない」とは、あまりにも有名な言葉である(B・P・トーマス著、坂西志保訳『リンカーン伝㊤』時事通信社)
 宗教をあざ笑うような無知にして驕慢な人間こそ、民主主義の破壊者である。
 ホイットマンも洞察した。
 「崇高で真摯な宗教的民主主義が厳然として指揮し、古臭いものを分解させ、表面を脱皮させて、それ自らの内面的な生命の原理から、社会を再建し民主化してゆく」(鍋島能弘訳「民主主義の予想」、河出書房新社『世界大思想全集、哲学・文芸思想篇25』所収)
 真正なる宗教性こそ、民主主義の建設に不可欠なことを展望していたのである。
 こうした世界の民主主義の趨勢を踏まえつつ、恩師は、政治を鋭く監視していくことを青年に託されたのだ。

女性から始まる
 ある日ある時、リンカーンは涙を浮かべながら語った。
 「今の私があるすべては、そして将来、私がなすことのできるすべては、天使のような母のおかげである」
 母への尽きせぬ感謝、そして報恩──そこにこそ民衆へ奉仕する力の源泉がある。
 ホイットマンは謳った。
 「女性の正義のなかから、あらゆる正義が開かれ現れる。
 女性の共感のなかから、あらゆる共感が開かれ現れる」
 リンカーン、そしてホイットマンが、わが創価の母たち、女性たちの「正義」と「共感」の連帯を見つめたならば、何と賞讃し、何と詠嘆したことだろうか。
 この尊極の母たち、女性たちの笑顔が明るく満開に咲き薫る人間社会にこそ、民衆の勝利の実像があるのだ。
        ◇
 歴史を変える戦いは、最も苦しい試練の時にこそ、最後まで頑張り抜く「執念」で決まることを、リンカーンは、繰り返し訴えていた。
 2007年9月8日──。恩師の「原水爆禁止宣言」50周年を記念して、ニューヨークのクーパー・ユニオン大学で、核兵器の廃絶を世界に呼びかける「市民平和フォーラム」が盛大に開催された。
 会場となったキャンパスは、リンカーンが、奴隷制度の是非を問う歴史的な演説を行った、ゆかりの場所である。
 「市民平和フォーラム」へのメッセージを、私は、そのリンカーンの演説で結んだ。
 「正義は力であるとの信念をもち、この信念に立って、自身の義務であると信じることを最後まではたそうではありませんか」(『リンカン民主主義論集』)


 本文中に明記した以外の主な参考文献=高木八尺・斎藤光訳『リンカーン演説集』岩波文庫、本間長世著『リンカーン』中公新書、井出義光著『リンカーン 南北分裂の危機に生きて』清水新書、本間長世著『正義のリーダーシップ リンカンと南北戦争の時代』NTT出版、巽孝之著『リンカーンの世紀』青土社
2009-07-11 : 人物紀行「歴史の巨人」と語る :
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