忘れ得ぬあの瞬間 第14回

忘れ得ぬあの瞬間
名誉会長と共に80周年へ
    (2010.4.13付 聖教新聞)

第14回 初の学生部総会

一日も悔いを残すな

 「私は、学生部の皆さんにお会いすると、希望がわいてくる。皆さんを信頼し、尊敬しています」
 快活な32歳の新会長。
 世田谷区民会館に詰めかけた若き学徒の顔が、ぱっと明るくなった。
 1960年(昭和35年)6月26日に行われた第3回学生部総会。
 池田名誉会長が第3代会長に就任してから初の総会である。
 開会前、「形式は抜きにしよう。学生諸君とは、あくまで実質的に話し合おう」と、自ら胸章をはずして臨んだ名誉会長。
 「私の青春時代は、貧しく、そのうえ病弱で、いつ死ぬかわからぬ体であり、十分に勉強することもできませんでした……」
 率直な言葉が、友の心にストレートに響く。
 「しかし」──名誉会長の声に力がこもった。
 「恩師・戸田城聖先生と巡りあい、訓練を受け、信心を全うし抜いてきたために、今は、『私は日本一の幸福者である』と確信をもっています!」
 嵐のような拍手がわき起こる。
        ◇
 名誉会長は、学生部結成の時から、恩師のもと、あらゆる手を尽くして、俊英たちを育てた。激励し、激励し、激励し抜いた。
 若き心に「大目的の柱」を打ち立てたい。どんな学生が信心しているのか、どんなことで悩んでいるのか、逐一、教えるようにと学生部の幹部に求めた。
 彼らは毎日、10人、20人と学生部員に会っては、名誉会長に伝えた。
 お腹をすかしている学生はいないか。心を砕く名誉会長。学業で挫折しそうな友がいれば、「皆で応援を」とアドバイス。
 「あの学生は、今どうしているか」と心配することも、たびたびだった。皆、宝の人材として、名誉会長は克明に覚えていた。
 個人指導に徹し、御書を通して励ました。一人また一人と感激して立ち上がり、英知光る「戦う学生部」の伝統がつくられた。
        ◇
 1960年、日米安全保障条約の改定への反対運動が大規模に広がった。
 4月、東京大学に入学した学生部員。一向に授業は始まらない。正門にもバリケードなどが築かれた。
 高まる反対運動の波。連日の街頭デモ。国会デモ。
 しかし6月23日、新安保条約が発効。その3日後が学生部総会であった。
 権力への、やり場のない怒り。矛盾をはらむ社会を変革する道は、どこにあるのか。煩悶する中、学生部総会に参加した──.
 歴史を顧みれば、学生部の誕生は、権力悪との対決の真っただ中であった。
 真実の平和と民主主義を勝ち取る闘争。それが学生部の使命なのである。
        ◇
 全国各地から総会に集った学生部員たち。名誉会長の叫びは、気迫に満ち、若き魂を揺さぶる。
 ──偉大なる宗教には、燃え上がる信仰が必要である。情熱あふれる信仰で、一切の文化建設に、自分自身の生活の勝利に、全力をあげていきたい。それが、正しい人生観であると、私は信ずるものです。
 人の何倍も勉強し、人の何倍も信行学を実践した人が、大勢の人を指導していける。今は、その実践期です。一日も悔いのないよう、信心を根本として進んでください。
 そして、皆さん自身が幸福になるとともに、人々を幸福にしていく社会のリーダーになっていただきたいのです──
 目を輝かせる参加者。
 そうだ、人間が変わらなければ、何も変わらない。民衆の力を、もっと強めよう。そのために学会の庭で思う存分、戦おう!
 名誉会長が会場を出る。一歩一歩、階段をおりる。待ちかまえる学徒の列。
 ありがとう──声をかけながら、名誉会長は、一人一人に慈眼を注ぐ。
 創価の英才が日本中、世界中で、民衆のために活躍する姿を胸に描きながら。
2010-04-15 : 忘れ得ぬあの瞬間 :
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忘れ得ぬあの瞬間 第13回

忘れ得ぬあの瞬間
名誉会長と共に80周年を勝利
    (2010.2.3付 聖教新聞)

第13回 沖縄を初訪問

断じて二度と戦争はさせない

 「3日間で3年分の仕事をしてくるのだ! そして、沖縄に支部を結成しよう!」
 第3代会長就任後、全国と各部の激励を、一通り終えた池田名誉会長が、いよいよ世界に打って出た。その第一歩が沖縄だった。
 終戦から15年。沖縄は、まだ米国の施政権下。渡航手続きに10日もかかる“外国”であった。
 真剣勝負の3日間。
 昭和35年(1960年)7月16日──日蓮大聖人の「立正安国論」上呈700年のその日に、名誉会長は旅立った。
 東洋広布を夢見た、恩師・戸田第2代会長の“形見の懐中時計”をたずさえて。
 17時半に沖縄着。その後、宿舎で打ち合わせ。19時半から各部別の指導会。続いて、班長・班担当員以上の幹部会。この席上、支部結成が提案された。終了後、人事検討は深夜まで及んだ。
 沖縄初の本紙の通信員、伊志嶺安進さん(副圏長)は、この日の感激を一気に綴った。
 「午後9時50分。『ああ、ついに沖縄に支部ができたのだ』。感激の大拍手がどよめき、安見新支部長の目には、涙が光っていた……」
 17日──3年前、大阪事件で不当逮捕された名誉会長が出獄した日。沖縄支部の結成大会が、那覇市内で盛大に開かれた。
 1万人以上の友が喜々として集った。その列は開会前、会場から600㍍離れた琉球政府の行政府ビル前まで連なった。
 道ゆく人が「祖国復帰への決起大会ですか?」と尋ねるほどの熱気だった。
 結成大会に続く祝賀の集いで、名誉会長は「黒田節」を舞った。
 「心も軽やかに舞を舞うように、前進の指揮を頼みます。劇のごとく、勝利の人生を共々に飾っていきましょう!」と。
 18日──東京へ帰る日の午前、沖縄戦の激戦地であった南部戦跡を視察した。
 沖縄戦ほど、権力の魔性の恐ろしさを物語るものはない。あの時、沖縄は、本土のための「捨て石」とされた。本土防衛の時間稼ぎのため、米軍を沖縄に釘付けにしようとした作戦からであった。
 結果、沖縄は「国内唯一の地上戦」を強いられた。沖縄の犠牲者は12万人以上。住民の約4分の1が亡くなったといわれている。
 ──夏の強い光が、シャツの白い生地に反射する。
 ひめゆり部隊に動員された女子学徒たちを慰霊する「ひめゆりの塔」。名誉会長は、若き乙女らが命を散らしたガマの上に立つ「慰霊碑」で追善の祈りを捧げた。朗々たる題目の音声が響いた。
 ガマとは、自然にできた洞窟・鍾乳洞。戦争中、住民や日本兵の防空壕等の役割を果たした。
 名誉会長は強く言った。
 「二度とこの悲劇を繰り返してはならない」
 鉄血勤皇隊として配属された男子学徒の慰霊塔「健児之塔」でも、「皆さんの尊い犠牲は、絶対に無駄にしません。必ず沖縄を平和の楽土にしてみせます。ご安心ください」と力強く。
 さらに、同行の友に語った。
 「そこに生きる人の境涯が変われば、国土は変わる。
 最も悲惨な戦場となったこの沖縄を、最も幸福な社会へと転じていくのが私たちの戦いだ」
 昭和37年の訪問でも、南部戦跡を訪れている。
 昭和39年12月2日、名誉会長は小説『人間革命』の最初の原稿を沖縄本部で記した。
 「戦争ほど、残酷なものはない。戦争ほど、悲惨なものはない」から始まる「黎明」の章だった。
        ◇
 「ただいま帰りました!」
 飛行機のタラップを下りた名誉会長が、さっそうと空港ロビーヘ向かう。
 白の開襟シャツ。紺のズボン。
 3日前の出発時とは異なり、すっかり日焼けしている。
 18日の午後6時40分。沖縄初訪問の全日程を終え、羽田の東京国際空港へ元気に戻ってきた。
 本紙は報じた。
 「沖縄に支部誕生す。海外支部の第一陣、仏法西に巨歩を進む」
 名誉会長は空港ロビーで、出迎えた友に笑顔で語った。
 「さあ10月はアメリカだ!」
 「来年は、南米支部をつくりましょう! もう日本なんか狭苦しいよ(笑い)」
        ◇
 沖縄初訪問の3日間──着いた瞬間から激励に次ぐ激励だった。
 「まさに一分一秒も無駄にしない気迫を感じました」と同行者。
 地元新聞社の記者も言った。
 「いろんな人が沖縄に来るけれども、ここまで一人一人を激励される指導者はいない」
 名誉会長は、これまで沖縄を17回訪問しているが、「1日を1年分にする」強い一念と、「一人を徹して励ます」間断なき行動は、今も変わらない。
 初訪問から50星霜──。 
 沖縄は、皆が憧れる「東洋のハワイ」となった。
 世界中が模範とする「広宣流布の最初の地帯」と輝く。
2010-02-07 : 忘れ得ぬあの瞬間 :
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忘れ得ぬあの瞬間 第12回

忘れ得ぬあの瞬間
名誉会長と共に80周年へ
    (2009.12.1付 聖教新聞)

第12回 北海道で幹部会

君が幸福に! それが広宣流布

 “先生だ!”──池田会長を乗せた車が着いた。拍手が鳴り、歓声がわき上がる。
 札幌の中島スポーツセンターの近く。ドアが開いて、姿を現した慈顔の新会長。すぐそばを、函館支部や、女子部の代表らが囲む。一人一人に温かな眼差しを注吉、手を振り、握手を交わしながら、ゆっくりと会場へ向かった。
 1960年(昭和35年)5月22日。新会長を迎えて第1回の北海道総支部幹部会。
 正午からの開始予定にもかかわらず、午前10時過ぎには、人波で埋まった。
 入場整理券は発行されていたものの、列車で、バスで、全道から、とめどなく押し寄せる友また友。その数、1万6000余人。場外にも、大勢あふれている。
  皆、この日を、どれだけ待ちわびていたか。どの顔も、歓喜と興奮で上気している。
        ◇
 第3代会長就任後、300万世帯の達成へ、地方指導を開始した池田新会長。関西に続き、その舞台に選んだ天地こそ、恩師・戸田第2代会長の故郷・北海道であった。
 仏法の正義を明らかにした「小樽問答」(昭和30年)。
 75万世帯の試金石となった、「札幌・夏の陣」(同年)。
 横暴な権力から同志を守り抜いた「夕張炭労事件」(同32年)。
 広布史に輝く北海道の「三大闘争」である。
 それは、若き池田会長が恩師と不二の心で、開拓の同志と築き上げた“師弟勝利の金字塔”にほかならなかった。
 「先生、北の守りはお引き受けします!」
 出陣の大会は、北海道幹部の大宣言で幕を開けた。
 支部旗・部隊旗の授与。
 「支部旗・部隊旗は、折伏の旗印です」──一人一人にしっかと手渡す池田新会長。息をのむ迫力。峻厳な空気が会場いっぱいに流れる。
 北海道の5月、外はまだ肌寒い。しかし、あふれる熱気で、参加者の顔には、うっすらと汗がにじんでいる。
 式次第は進み、新会長が登壇した。諸天も寿ぐかのような日差しが、天井ガラスから壇上に、キラキラと差し込んでいる。
 「北海道の皆様、大変しばらくでございました!」
 場内を揺るがす大喝采。皆、あまりの喜びで、顔がくしゃくしゃである。
 席上、新会長は、「豆腐とおから」の例を用いた戸田会長の指導を紹介した。
 ──広宣流布といっても、あくまで大切なのは、一人一人が幸福になることだ。
 学会員の幸福を「豆腐」に例えるならば、広宣流布は「おから」で、つまり、その副産物で、自然のうちに成し遂げられるのだ──と。
 一人一人の幸福の中に、広宣流布がある!
 ゆえに君よ、わが人生の勝利を断固と開きゆけ!
 烈々たる気迫の新会長。
 「師弟の三代城」に、今再びの“共戦”の炎が、赤々と燃え上がった。
        ◇
 終了後、池田会長は、場外でたたずむ大勢の同志にも声をかけ、激励を重ねた。
 そして、北海道本部へ。女子部「北海道華陽会」の集いに出席し、初代の北海道女子部長を務めた嵐慧子さんら若き乙女たちに、万感の期待を込めて語った。
 「広宣流布は、女子部がしっかりしていれば、大丈夫です!」
 「明るく美しく清らかであることが折伏であり、慈悲です。信心から迸る美しさ、清らかさが大事なのです」
 あれから明年で50年──。
 麗しき“華陽のスクラム”は今、「池田華陽会」となって、全世界を希望の光で照らしている。
2009-12-01 : 忘れ得ぬあの瞬間 :
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忘れ得ぬあの瞬間 第10回

忘れ得ぬあの瞬間
名誉会長と共に80周年へ
    (2009.10.1付 聖教新聞)

第10回 第1回の本部幹部会

 燃え上がるような熱気が、会場に渦巻いていた。
 昭和35年(1960年)5月27日、東京の台東体育館。池田第3代会長が誕生して第1回の本部幹部会である。
 「支部旗は折伏戦の旗印です。よろしく頼みます!」
 「はい! 断じて守り抜きます!」
 緊張した面持ちで壇上の中央に進み出る新支部長。その一人一人に気迫あふれる声をかけ、新会長が直接、支部旗を手に託していく。
 会長就任の5月3日に、全国で23の新支部が誕生。それから約3週間後の本部幹部会で、首都圏の横須賀、新宿、城北、墨田、中野、武蔵野の6人の代表の支部長に支部旗が授与された。
 「戸田先生の7回忌までに、300万世帯の弘教の達成を!」──歴史的な会長就任式で、池田会長は訴えた。恩師の遺訓を断じて実現せんとの誓願の大師子吼に、全同志が奮い立った。
 5月度の折伏成果は、実に4万5千世帯。前月を1万世帯も上回る爆発的な大躍進だった。
 本部幹部会で、池田会長から支部旗を受けた墨田の初代支部長。青年部時代、学会の中で複数の役職を兼務し、両立は無理だと悩んだ。意を決して、部隊長だった池田会長の自宅を訪れた。
 「よく来たね! 一緒に銭湯へ行こう」──湯船につかりながら話に耳を傾け、懇々と励ましてくれた。
 「君も立派な指導者になれる。頑張りなさい。広宣流布は青年部が絶対にやるのです」
 「『無量義は一法より生ず』とある。一法とは南無妙法蓮華経です。真剣に唱題するのです。勇敢に戦うのです」
 不動の原点となった。
 300万世帯達成を担つたのは、戸田第2代会長の下、池田会長が体当たりで育てた若きリーダーたちだった。
        ◇
 続く6月、首都圏の各地で支部幹部会が開催された。
 9日、池田会長は向島・城北・墨田の3支部合同幹部会に出席。富山や愛知からも支部員が参加し、会場に来たバスの数は62台にもなった。
 「無我夢中で、弘教に走りました」。当時、地区部長として奮闘した友は言う。
 「青年部時代、池田先生は激励のため、わが家にも足を運んでくださいました。心から尊敬していた先生が、いよいよ会長になられた。
 皆、歓喜に燃えていました。新しい時代が始まった!
 先生とともに、断じて広宣流布をやるんだ!──と」
 自宅の地区拠点には、いつもにぎやかな青年たちの声が響く。座談会には必ず新来者の姿があった。病気、経済苦、家庭不和……悩みを抱える友を全身全霊で励ました。
 「師弟の誓い」は、「苦悩に沈む人を救うのだ」との大情熱となって燃えた。怒濤の勢いで広がる幾万、幾十万の弘教の一つ一つに、人間革命の偉大なドラマがあった。
 会長就任から1ヵ月。その歓喜は、うねるような熱波となって、全国の津々浦々を包んでいった。
2009-10-13 : 忘れ得ぬあの瞬間 :
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忘れ得ぬあの瞬間 第9回

忘れ得ぬあの瞬間
名誉会長と共に80周年へ
    (2009.9.7付 聖教新聞)

第9回 神奈川の幹部会

苦難こそ大成長のチャンス

 新会長を初めて神奈川に迎える喜びが、川崎市民会館(当時)を埋め尽くしていた。
 その数、1万5千人。
 昭和35年(1960年)5月17曰、鶴見・京浜・横浜支部合同の幹部会である。
 場内を揺るがす拍手。真剣な眼差しを浴びて、池田会長が語り始めた。
 「戦後の学会の最初の難は、戸田先生の事業が窮地に陥ったことです。先生は最も苦しまれていた……」。最高の晴れ舞台で、最大の苦難の歳月に触れたのである。
        ◇
 神奈川と名誉会長の縁は幾重にも深かった。
 今からちょうど60年前の昭和24年秋、10月。
 「蒲田の青年部の池田です!」
 詰め襟の学生服で、池田青年は横浜・鶴見の折伏座談会に現れた。
 入信2年余の21歳。誠心誠意、仏法と師匠の偉大さを語り、5人の友が入会を決意している。
 この第一歩に始まり、座談会に、御書講義に、家庭指導に、何度も足を運んだ。そして、昭和25年から26年にかけて、仕事で毎日のように通ったのも鶴見方面であった。
 当時、戸田会長は事業で莫大な負債を抱え、学会の理事長職も退いた。
 池田青年は、その恩師を一人支え、苦闘していた。給料は遅配。続けたかった夜学も断念。胸を病み、倒れ込むように家にたどり着く日々。
 「その時、かつて戸田先生にお世話になった3人の幹部が言ったことが、私は忘れられません」
 壇上の池田会長はそう述べて、3人の言葉を紹介した。
 一人目。「戸田なんかに使われるのはやめたまえ。体まで壊して、ばからしいじゃないか」
 二人目。「戸田につかないで、俺の方の商売をやっていけ」
 しかし、最後の一人はこう励ましてくれた。
 「今こそ信心で立つ時だ。決して御本尊を疑ってはいけないよ」
 師弟が苦境を乗り越えた時、現証は厳然であった。前の二人は学会を去り、人生に敗れた無残な姿をさらした。
 一方、最後の一人は、学会の幹部として皆の信頼を集め、悠々たる境涯を開いている──。
 池田会長は続けた。
 「学会が難を受け、窮地に追い込まれた時、師子王のように敢然と一人立ってこそ本当の信心です。現在の私があるのは、戸田先生が最大の苦難に遭われた時に、一心に仕え抜いた福運であると確信しています」
 「難こそ自身の成長のチャンスです。ひとたび難があったならば、それを喜びとし、敢然と戦う師子王の如き皆さんになってください!」
 広布の長征には、山も谷も、順風も嵐もある。わが友よ、いついつも、不屈の信心で立ち上がれ!──その魂を、この時、打ち込んだのだ。
        ◇
 あいさつを終え、同志の中を“中央突破”で退場する池田会長。
 一人一人と、目であいさつを交わした。
 恩師を護りに護った青春の激戦地・神奈川。
 海を見つめつつ、会長辞任から世界広布へ反転攻勢を開始した神奈川。
 そこには、「正義」と「共戦」の同志がいる。広宣流布の聖火は、今も赤々と燃え続けている。
2009-09-08 : 忘れ得ぬあの瞬間 :
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