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新 あの日あの時 19

新 あの日あの時 19     (2009.10.16付 聖教新聞)

池田先生と北京

友好の大樹は民衆の大地に育つ

五輪のエース
 時が止まったかのような静寂が、ひとりの女性を包んでいた。
 バシッ!
 銃口のかすかな煙が消える。射撃場から、ため息が漏れた。
 2008年(平成20年)8月9日。北京オリンピックの開会式翌日である。中国人民の視線は、女子射撃のエースである杜麗《とれい》に注がれていた。
 焦点は「首金」、すなわち第一号の金メダルを、いったい誰が取るかである。
 4年前のアテネでも、彼女が最初に表彰台の真ん中に立ち、中国のメダルラッシュが始まった。
 しかし──金メダル確実と見られたエアライフルで、まさかの5位に沈む。
 あるコラムニストは即座に記事を書いた。
 「彼女の姿は非常に心が痛むものだった」
 「だが私は、日本の哲人・池田大作の言葉を、彼女に心から贈りたい。『青年は、いかなる困難な環境の中からも立ち上がっていく力を持っているのだ』と」
 5日後、別種目・女子ライフル3姿勢の決勝。表彰台の中央には、薔薇のブーケを天に突き上げ、金メダルを手に笑う杜麗が立っていた。

北京の大学生
 北京で本屋をのぞく。
 文字の国らしく、天井までとどく書棚には、びっしり背表紙が並んでいる。
 池田名誉会長の本はどこですか、とたずねる。店員は「ああ」とうなずき、一直線に連れて行ってくれた。
 儒教の大家であるハーバード大学教授ドゥ・ウェイミンとの対談集『対話の文明』。2007年の「良書100冊」に選ばれた。
 中国を代表する大学で、名誉会長について聞いてみる。
 北京大学の1年生。「心理学の先生が、よく読めと言っています。池田先生の言葉は深さがあります」
 清華大学の大学院1年生。
 「日本の作家ですよね。友だちがすすめてくれ、じっくり読みましたよ」
 北京師範大学の教授。「あの創価大学の創立者? 金庸対談には、本当に感動しましたね」
        ◇
 第5次の訪中をしていた池田名誉会長が、北京大学の貴賓室の門をくぐった。
 窓から「未名湖《みめいこ》」が見える。冬には厚く凍りつき、学生がスケートを楽しむが、今は湖面を渡る風が、しだれ柳の緑を揺らしている。
 1980年(昭和55年)4月22日である。北京大学で初の講演を行う会場だった。
 テーマは「新たな民衆像を求めて」。孔子、司馬遷、魯迅が出てきたかと思うと、トインビー、ユゴーの言葉も自在に操る。スピーチが終了するや、学生の中へ。
 「みんなは、日本のことを勉強しているの?」
 「そうです」と流ちょうな返事。日本語学科の男子学生である。
 「質問を出すよ。かつて日本で『土佐』と呼ばれた地方は、何という県かな」
 互いに目を合わせて考え込む。「四国」「高知県です」
 「じゃあ、日本の古代文学で知っている書物を三つあげてみて」
 すぐさま「万葉集」「源氏物語」「竹取物語」と返ってくる。
 「みんな優秀だ。今度は、日本でお会いしましょう!」
        ◇
 86年、北京大学に留学した学生部員がいた。
 ある日、学内の郵便局で背中に視線を感じた。ちょうど窓口で封筒を差し出そうとした時である。
 「君、ちょっと待ってくれ。その封筒は……」
 手にしていたのは、池田名誉会長宛の手紙である。声をかけてきた中国人学生は、やや興奮している。
 「もしかして、君は池田大作先生を知っているのか」
 「僕は、池田先生の弟子なんだ」
 ぽかんと驚く学生。「いいなあ。うらやましいよ」
 当時、歴史家トインビーとの対談集(中国語版)が北京の書店で売り出され、大人気だった。
        ◇
 北京大学に隣接する創価大学「北京事務所」がオープンしたのは2006年。
 当局の正式な認可を受けて、国外の大学の連絡事務所が設置されたのは、ごくわずかである。

釣魚台《ちょうぎょだい》の国賓館
 1984年(昭和59年)の第6次訪中から、名誉会長の宿舎には、釣魚台の国賓館が用意された。
 「あれほど礼を尽くす人を私は知らない」(中国大使館関係者)
 緑色の制服に身をかため、入り口で直立している衛兵にまで、名誉会長は感謝の揮毫を贈った。
 魔法瓶の湯を入れ替えるため、若い男性が建物の2階へ向かう。天井の高い廊下を動く人影が見える。
 名誉会長だった。つかつかと大股である。すさまじい勢いを発散していた。手には5センチはある分厚い報告書の束。歩きながら、一枚一枚に目を通していた。
 「二ーハオ! ごくろうさま」
 ねぎらいの言葉をかけてくれたが、すぐに手元に視線を戻す。
 ばさっ、ばさっ……。わずかな移動の合間も、書類の束が猛スピードでめくられ、処理されていく。
        ◇
 飛び込み取材を仕掛けてきた新聞記者がいた。
 「日本と中国が交流する上で、大切なことは?」と聞いてくる。
 「民衆です」
 間髪を入れず答える。
 「政治や経済の交流を船にたとえれば、民衆が大海原になります。民衆と民衆の交流があれば、政治と経済の船は前進します」
        ◇
 中国側のスタッフが、池田名誉会長と車に乗って国賓館を出た。
 北京の大通りは人の波である。歩道はおろか、車道にまで人があふれていた。
 先導車がランプを回転させる。かん高い警報音が鳴り、人と車の波が、ぱっと割れた。分刻みのスケジュールを確保するための中国側の配慮だった。
 しかし、名誉会長は、車の窓から左右に目を配り、頭を下げている。小声で「すみません」とつぶやいている。
 車を下りると、先導車の運転手にまで謝意を伝えた。
        ◇
 中日友好協会の会長を務めた孫平化。90年5月の第7次訪中では、江沢民総書記、李鵬首相の会見に、それぞれ同席した。
 前年に天安門事件があり、中国政府は国際社会で孤立していた。世界中のマスコミから警戒され、トップの実像も伝わりにくい。
 しかし、名誉会長は両者との会見で、国家を論じるだけでなく、人柄を表すエピソードや、個人的な思い出にまで突っ込んだ。
 孫平化は舌を巻いた。
 「江沢民総書記も、季題首相も、あそこまで話をされるとは……」

創大への留学
 「日本の小学生が北京に来ているから、行ってみないか?」
 なにげなく友人に掛けられた一声が、董芳勝《とうほうしょう》の転機になった。北京師範大学に学んでいた1991年(平成3年)の9月である。
 名門の北京第一実験小学校。利発そうな児童が、首にそろいの赤いチーフを巻いている。そこを、交流のある関西創価小学校の児童6人が訪れていた。一目で驚く。
 「なんでこんなに自主性があるのか」。エリート小学生に見られるような、教員の顔をうかがうところがない。
 「この子どもたちを育てた学校には、何かがあるにちがいない」。師範大学に行くほどだから、董は教育への関心は高い。その探求心から96年、創価大学へ留学した。
 創価教育の謎を読み解くキーワードは、創立者だった。
 キャンパスにいると、よく分かった。学生に会って激励するだけではない。遠く離れていても、伝言や書籍が届く。1年365日、片時も学生のことを忘れない……。
 董は現在、准教授として創価大学の教壇に立っている。
        ◇
 北京に生まれた李珍《りちん》は、その生い立ちゆえに過酷な娘時代を送った。
 母親が在日華僑だったため、文化大革命で、白眼視される。「日本の特務(スパイ)!」。父親は衆人の前で吊し上げられた。
 ぬぐいがたい人間不信が残る。夢だった大学進学も半ばあきらめた。
 75年4月、両親が奉職していた武漢大学に、ある知らせが届く。
 「日本から立派な人が来る」。母から聞かされ、一緒に出迎えることにした。
 日本と関わって一家が辛酸をなめた経緯があるので、李珍には違和感もあったが、そこに池田名誉会長が現れた。
 中国側が、日本語で童謡を歌う。
 ♪夕焼 小焼の あかとんぼ……
 歌うほどに、心がひとつに溶け合っていく。
 名誉会長は、一人一人に話しかけてくれた。そのたびに、弾けるような笑いが起きた。李珍の目をじっと見て「日本に留学にいらっしゃい。待っているよ」。
 その7年後、李珍は創価大学へ。
 だが、しばらくして父の訃報が届く。文革時代、労働改造農場に連行されても家族を守り抜いてくれた父である。
 悲しみの中で創立者と再び出会ったが涙が止まらない。
 「頑張れ!」。握手した手に、父の温かさがあった。
 その後、彼女は日中を結ぶ映像プロデューサーになり「大地の子」「新シルクロード」などの名番組に携わる。
 映画「故郷の香り」は2003年、日本の東京国際映画祭でグランプリに輝いた。
        ◇
 昨年秋、中国からの創大留学生OB・OGと、中国在住の創大卒業生が、北京で一堂に会した。
 そこには、新中国からの“留学第一号”だった中日友好協会副会長・許金平《きょきんぺい》もいた。同協会もこの開催を喜んでくれた。
 互いに初めて会う者もいたが、どちらも創立者という一点で、旧知の間柄のように語らいが弾む。日本と中国の垣根は悠々と乗り越えられた。
 創価大学が、日本で初めて新中国の正式な留学生を受け入れたのは1975年──明年で35周年を迎える。
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2009-10-16 : 新 あの日あの時 :
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新 あの日あの時 18

新 あの日あの時 18     (2009.10.9付 聖教新聞)

池田先生とフィリピン

「美しき宝の心」の国

マニラ湾の夕日
 ヤシの木が茂るマニラのホテルの入り口。
 「ようこそ! フィリピンヘ」
 玄関前で日本人客を迎えたジョイ・アルベスは、流ちょうな日本語で頭を下げた。
 従業員の彼女は、名古屋大学に留学した経験が買われている。
 しかし、高級車から出てくる日本人は、たいていアルベスには目もくれず、さっさとロビーヘと向かってしまう。
 「これだから、日本人は……」。最後の言葉は、ぐっと飲み込んだ。
 ホテルは空港から15分。客室から有名な「マニラ湾の夕日」が一望できる。
 どうやら近々、日本の宗教団体のトップが来るらしい。アルベスは「また失望させられるのか」と思ったが、迎える側の地元メンバーの熱意に打たれ、ともに準備に奔走してきた。
 1991年(平成3年)4月19日の午後11時過ぎ。
 池田大作SGI(創価学会インタナショナル)会長を乗せた車がホテルの入り口に止まった。
 車から降りた会長は、アルベスに折り目を正し、深々とおじぎした。
 「うちの人が無理難題を言って、困らせたでしょ。本当に、ありがとうございます」
 アルベスの小さな手を両手で握りしめた。隣に立っていたホテルのマネジャーに語りかける。
 「彼女は本当に陰で良くやってくれたと伺っています。日本から贈り物を持って来たので、渡してもいいですか」
 マネジャーは驚いた様子を見せた後で、にっこりと微笑んだ。
 その深夜。アルベスはSGIメンバーと遅い夕食を共にした。
 「実は私、今まで、日本人は傲慢な人ばかりだと思っていました」
 SGI会長から贈られた写真集に視線を落とすと、大粒の涙をためた。
 「でも、池田会長にお会いして、日本人が好きになりました」

一人立てばいい!
 コバルトブルーの海に浮かぶ7000余の島々からなるフィリピン。
 派手な塗装をしたジプニー(乗合自動車)が、大音量の音楽をかけながら疾走する。日曜の朝には、町中の人が石造りの教会に足を運ぶカトリック社会だ。
 1964年(昭和39年)5月12日。火曜日の夜たった。
 男子部の柴田昌男が、マニラ支部の伊藤四郎(支部長)の家に立ち寄った。伊藤と妻・富貴子が、よそ行きの服装をしていた。
 何かあるな……。柴田は直感した。
 じつは数日前、伊藤宅に電報が届いていた。オーストラリアに向かう途中、SGI会長がマニラ国際空港を経由するという。深夜の到着なので、夫妻だけで来るように、とも書かれていた。
 伊藤は悩んだが、柴田にウソがつけなかった。一緒に空港へ向かう。
 午後10時過ぎ。待合室のドアが開いた。
 「夜も遅いのに、わざわざありがとう!」
 SGI会長に声をかけられ、3人はソファに腰を下ろした。
 当時はまだ、日本軍の残した爪痕が人々の記憶に生々しい。反日感情は強い。
 「ハポン(日本人)が来た!」
 日本人メンバーは、町に出て、小石や木の枝を投げつけられることもあった。しかも仏教徒である。カトリックが全人口の8割以上を占める国では異端視された。
 そんな地で信仰に励んできた。SGI会長は温かい口調で語りかけた。
 「大丈夫だ。地涌の菩薩が出現しない国は、絶対にない!」
 その場で、柴田を部隊長に任命した。しかし現地に男子部は、ほとんどいない。柴田の戸惑いを断ち切るように言った。
 「君が一人立てばいいんだ。来年の5月3日、日本に来なさい」
 翌65年の5月3日。柴田は東京の日大講堂で、SGI会長から部隊旗を授与された。

伝説のスピーチ
 国立フィリピン大学。
 フィリピンの最高学府で、日本で言えば東京大学にあたろうか。池田SGI会長に
「名誉法学博士号」を授与している。
 マニラ郊外のケソン市に、メーンキャンパスが広がる同大学。国花・サンパギータの白い花が咲き誇っていた。
 1991年(平成3年)4月21日、卒業式典の席上での授与式だった。
 壇上のSGI会長は、卒業生が前を通る度に、椅子から身を乗り出す。拍手を送り、呼びかける。
 「よくやった!」
 「勝ったね!」
 日本語を解さない学生にも、心は確実に伝わる。前を通り過ぎる時、うれしそうな笑みを浮かべる。
 ホセ・V・アブエバ総長も穏やかに見守った。
 学生の列は、途切れなく続いた。
 1時開が経過すると、随行メンバーは、だんだん不安な顔になった。
 常夏の島。気温は30度を超え、じっとしていても汗が噴き出る。会場にクーラーはない。扇風機だけである。
 それでも、スーツの上にガウンをまとったSGI会長が、身体全体で歓呼を送っている。
 この直前に経営学部で記念講演を行ったばかり。疲労はピークのはずだ。体調は大丈夫なのか。役員が香峯子夫人に尋ねた。「学生がかわいくて、しかたがないんですよ」。静かに微笑んだ。
 ようやくSGI会長の謝辞になった。用意した原稿を伏せ、話しはじめた。
 「マニラを訪れ、私は思いました。“世界一荘厳なる旭日”を仰ぎ、“世界べ尊厳なる夕日”を望む皆様の心もまた、“美しき宝の心”であると」
 拍手が一斉に沸き上がった。鳴りやまない。この日、一番の大歓声である。スタンディング・オベーションが起こった。
 2年後。アブエバは授与式を振り返り、誇らしく語った。
 「あの後、学生たちが『池田会長のスピーチ原稿をください。もう一度、心に刻んでおきたい』とやって来ましたよ。学生たちの伝説になっています」

イケダ・ホール
 授与式の3年前の1988年(昭和63年)。アブエバは国立フィリピン大学の総長になった。
 その時、一人の男を紹介された。大学職員や警備員にも「アキ」と呼ばれていた人物である。SGIの新津《にいつ》泰昭《やすあき》。10年以上も大学に渉外で通い詰めている。
 日本人か。アブエバの脳裏に、少年時代の苦い記憶がよみがえる。16歳の時、アブエバの両親は日本車に拷問されたあげく、虐殺されていた。
 しかし、新津から、学会の歴史を知り、顔つきが変わった。初代会長は、命を賭して軍部権力と戦い獄死。これが学会の平和の原点になっているという。
 90年4月。アブエバは日本でSGI会長に会った。
 「貴国に対し、日本の軍国主義は、あまりにも残酷な侵略をしました」
 フィリピンも創価学会も、軍部に蹂躙された。その学会が、こうして謝罪してくれている。
 この人は、本当に日本人か!。
 「戦争のリーダーは多くいたが、平和のリーダーは、わずかしかいない」。アブエバが強く要望して、93年5月11日、フィリピン大学に、その名を冠した「イケダ・ホール」が開設した。

振り返ったリサール
 SGI会長は、フィリピンを公式に3回、訪問している(91年4月、93年5月、98年2月)。
 アキノ大統領、ラモス大統領をはじめ、幅広い人物と会見し、日比友好の道を開いてきた。
 その一人が、リサール協会の会長だった口ヘリオ・M・キアンバオである。
 二人は、幾度もフィリピンの国民的英雄ホセ・リサールをめぐって語り合った。
 1896年12月30日、リサールは35歳の若さで非業の死を遂げる。
 処刑の直前。リサールは、ひざまずかなかった。目隠しも断った。銃弾を後ろから受けながら、振り返ろうとし、鋭い眼光を残したまま、仰向けで倒れた。
 その場面をめぐって、SGI会長は、キアンバオに質問した。
 「リサール博士は、なぜ、振り返ろうとされたのでしょうか」
 そこまで知っているのか。見識の深さに度肝を抜かれながら、キアンバオは答えた。
 「『私は正しい!』という、リサール博士の毅然たる意志だったと思います」
        ◇
 98年2月13日の午後8時半。テレビ局「ラジオ・フィリピン・ネットワーク」が特集番組を放映した。
 この4日前、SGI会長は「リサール国際平和賞」を受賞していた。その理由に迫った番組である。
 ラストシーン。リサールに続き、SGI会長の顔が映し出された。
 「リサール博士も、池田博士も、名もなき民衆の力と強さを信じる。そして、共に限りない人々に希望を贈り続けている」
 番組のタイトルは「旭日の騎士・池田大作氏の横顔」。
 民衆の苦悩の闇を破り、暁を呼ぶ旭日──タイトルそのものが、SGI会長への限りない讃辞を表していた。
2009-10-09 : 新 あの日あの時 :
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新 あの日あの時 17

新 あの日あの時 17     (2009.9.26付 聖教新聞)

池田先生とサンパウロ


青年を伸ばす「太陽の都」

市長は見た
 オレンジ色の屋根が続くリベルダージ(東洋人街)を、1台の車が風を巻くように走り抜けていく。
 2008年(平成20年)6月20日。
 ブラジルのサンパウロ市。
 南半球は秋から冬へと移る時期である。午後7時も過ぎれば、秋風が頬に心地よい。
 ポインセチアの赤い花が、ひときわ鮮やかに咲く年、サンパウロの冬は冷え込むという。さて今年は……。
 市長のジウベルト・カサビは、車を降り、長身をぐんと伸はした。
 眼前にブラジルSGI(創価学会インタナショナル)の平和講堂がそびえている。
 まもなく講堂を会場として、市の慶祝議会が行われる。カサビは市を代表して、池田大作SGI会長に「銀のプレート」を献呈する。
        ◇
 サンパウロは、幾度となくSGIを顕彰してきた。
 初代会長の名を冠した市立「牧口先生公衆衛生技術学校」。第二代会長の平和闘争を讃える「戸田城聖公園」は市民の憩いの広場だ。
 この日、カサビは名代の池田博正副理事長に、銀のプレートと「市の鍵」の授与決定通知書を贈った。
 「市の鍵」はサンパウロの最高栄誉。どうしても池田会長に直接、手渡したい。
 翌年、自ら訪日団を組んだ。09年5月。サンパウロ郊外のグアルーリョス国際空港を飛びたった。
 見送りの人波から、友人の声が聞こえた。SGIの壮年部メンバーであるカルロスが、陽気な声でエールを送ってくれた。
 「市長! 私の師匠のスケールに驚かないでくださいね!」
        ◇
 「ようこそ! 市長!」
 カサビが乗ったエレベーターの扉が開く。池田会長が両腕を広げて立っていた。
 5月13日、聖教新聞社(東京・信濃町)で「市の鍵」の授与式が挙行された。
 こぼれるような笑顔を浮かべ、カサビが右手を差し出す。
 「市長は美男子ですね!」
 カサビの精悍な顔立ちが、ほころんだ。
 ウィットにあふれる言葉に、同行の市議から甲高い声が上がる。思いがけない提案があった。
 「市長、ぜひご両親の桜を、創価大学に植樹させていただこうと思います」
 ありかたい。厚情に言葉を失う。
 ブラジル人は家族のきずなを大切にする。つい先年、母を亡くしたばかりだった。そのうえ医学者の父の健康まで気遣ってくれるとは……。
 日本まで来てよかった。東洋の宗教指導者は、世俗から遠く離れた人ではなく、人間の心のひだまで敏感に感じ取る人たった。
        ◇
 翌日。宿舎でカサビは国際通話の受話器を取った。
 電話の相手は、空港で見送ったカルロスである。
 カサビは声を張り上げた。
 「アミーゴ! 君の言った通りだ。途方もなく大きいスケールだったよ!」

日本人移住100年祭
 サンパウロ州の人口は約4500万人。そのうち日系市民は約100万人。ブラジル全日系人の7割にあたる。
 カズアキ・シンジョウも、その一人。沖縄から移民船に揺られ、一家でサンパウロに辿り着いたのは1959年(昭和34年)。
 待っていたのは土ぼこりが舞う荒野だった。
 慣れないバナナ栽培。肌が焦げるような太陽の下で鍬をふるう。出てくるのは石ころばかりである。
 ひと旗揚げたい。腕まくりで乗り込んだ父は、たちまち鍬より酒のコップを手にするようになった。
 喘息にあえぐ母と姉。薬がない。医者に診せる金もない。ほどなくバナナ園を手放し、都市部へ移った。
 露天商やクリーニング店を細々と営み、何とか糊口をしのいできた。
 そんなシンジョウー家が移民仲間に折伏されたのは69年である。
 まず健康を取り戻した。仕事も軌道に乗った。うつむいていた家族が太陽を見あげて笑うようになった。あまりの短時日の変化に驚いた親戚が、次々と入会した。
        ◇
 池田会長が初めてブラジルを訪れたのは60年10月。海外初の支部をサンパウロで結成した。
 だが4年後に軍事政権が生まれると辛酸の時代がはじまる。座談会場のそばに、目つきの鋭い政治警察の監視が立ち続けた。
 その渦中の66年ごは2度目のブラジル訪問を果たす。
 朝の来ない夜はない。会長の確信は微動だにしない。帰国の折、居合わせた女性たちに語った。
 「時代を変える本当の原動力は、女性の祈りと、生活に根ざした活動だ。女性の力は大地の力である。大地が動けば、すべては変わる」
        ◇
 日本人の移住開始から100周年となる2008年。サンパウロで慶祝記念式典が開催された。
 式典委員会からSGIに、出演者と役員の応援を依頼された。
 サンパウロ都市圏出身の役員を率いるのは婦人部のリーダーだった。
 あのシンジョウの妻シルビアである。
 子どもや甥、姪たちも、それぞれ創価班、牙城会、青年部の合唱団、女子部ダンスグループの一員として式典を支えた。
 シンジョウの家が、うらやましい──。
 友人たちが驚いている。これほど青年をしっかり育てられるシステムが開かれているとは!
 「鼓笛隊に入りたい」「息子を立派に育ててほしい」
 青年が伸びゆくブラジルSGIに、入会を希望する人は多い。

大統領に会わせたい
 「こんなにお若い方だったのか!」
 ブラジル大統領府の文官長ジョアン・アブレウは、SGIの担当者から手渡された一冊の写真集を開き、驚いた。
 1984年(昭和59年)。首都のブラジリアにある大統領府。
 大統領には各界から来客が引きもきらない。会うに、ふさわしい人物か。最終的な人物の見たてがアブレウの重要な職務だ。
 膨大な報告書類や資料に、入念なチェックを入れる。
 写真集を手に取ったのも、そのためだった。池田会長と各国の指導者の交流の様子が収められている。
 憲法学者のアブレウは最高裁判所で判事を務めた経験を持つ。
 前年の83年、海外の都市を訪れた際、歴史学者アーノルド・トインビーと池田会長との対談集を買い求めた。
 あまりにも高度で広範にわたる内容なので、てっきり池田会長も高齢の方だと思いこんでいた。
 興奮の面持ちで写真集を閉じたアブレウが、会見へのゴーサインを、政府関係者に告げる。
 こうして数年間にわたって準備されてきた大統領ジョアン・フィゲイレドと池田会長の会見が、ついに現実のものとなった。
        ◇
 84年2月21日午後5時25分。フィゲイレドは、池田会長と香峯子夫人を大統領執務室で迎えた。
 文官長のアブレウも会談の機会を得た。ようやく書物の中でしか知らなかった人物と会える──。
 といっても、会見のスケジユールを調整する立場である。40分間、池田会長を独り占めすることで、大いに満足した。

一歩も引くな
 「先生! どうか、どうかブラジルに来てください!」
 日系2世のジュリオ・コウサカが身を乗り出して訴えたのは、1983年(昭和58年)7月である。
 鹿児島県の霧島で行われた研修会。ブラジル男子部の中心者として参加した。
 「必ず行くよ。広宣流布は私の生涯の使命だ」
 翌84年2月、会長は18年ぶりにブラジルを訪問。だが、出迎えのメンバーにコウサカの姿はなかった。
 ブラジルSGIの機関誌の内容に、軍事政権から横槍が入った。編集担当のコウサカは責任を問われ、組織役職と併せて解任されていた。
 サンパウロ市内で行われた勤行会。会場の隅にコウサカがいた。唯一出席が許された行事だった。
 会長は言いきった。
 「20年、頑張れ。真の信用を勝ち取るには、最低20年が必要だ」
 85年4月、コウサカは再び訪日した。時差の抜けない体で飛行機を乗り継ぎ、会長のいる四国へ飛んだ。
 徳島、愛媛、奈良、和歌山……各県で創立55周年を祝賀する青年平和文化祭が開かれていた。
 四国3県、関西4府県を18日間で訪問する強行軍。コウサカは会長に同行した。
 行く先々で青年の圧倒的な演技を目の当たりにする。すごい。さすが日本だ!
 だが会長の視点は違った。
 「あの方は今も元気かな?」
 「あの功労者は、どうしてる?」
 青年の檜舞台を切り開いた功労者、陰の人に光を当てていた。真の将軍学とは何か。身をもって教えた。
        ◇
 2008年9月。コウサカはブラジルSGIの理事長に就任する。軍事政権の横暴に拳を震わせた日から、25年が経っていた。
 会長は短い伝言を託した。
 「リーダーは一歩も引いてはいけない。力強くいきなさい。何事も引いたら負けだ。本当の勝負は『これから』だよ」
 南米最大の都市・サンパウロ。「太陽の都」の前進はブラジルのみならず、世界を照らしゆく。
2009-09-26 : 新 あの日あの時 :
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新 あの日あの時 16

新 あの日あの時 16     (2009.9.6付 聖教新聞)

池田先生とアフリカ

人類の希望の新大陸を

マンデラの願い
 東京・赤坂のオフィス街。
 貿易振興をテーマにしたビジネスセミナーが終わり、受講していた創価大学の教員が、仲間と連れ立ってカフェに入った。
 1998年(平成10年)の春。日本は金融不安の渦中にあり、国際的な信用も失墜気味である。
 それでも、そのカフェが活気づいたのは、南アフリカの事情にくわしい企業人が、創大の教員に、ひとつの秘話を明かしたからである。
 ──3年前の夏、南ア大統領のネルソン・マンデラが日本に来た。アフリカ民族会議(ANC)の副議長として90年に初めて日本の土を踏んで以来、3度目である。
 マンデラには、どうしても会いたい日本人がいる。だがスケジュール表のどこにも、空きがない。
 日本側の関係者も口々に言う。今回は国賓としての来日である。民間人との会見は無理だ。滞在期間も短い……。
 それでもマンデラは納得しない。27年半、約1万日の投獄にも屈しなかった男だ。アパルトヘイト(人種隔離政策)の分厚い壁にくらべたら大した障壁ではない。
 「こっちの持ち時間なら構わないだろう?」。南ア大使館主催のレセプションを欠席することに決めた。
 これには、さすがの日本側も折れた。95年7月5日、迎賓館で会見が実現した──。
 話し終えた企業人が、飲みかけのコーヒーカップをテーブルに置き、創価大学の教員を見た。
 「その民間人というのはね。おたくの創立者だよ。田会長。まったく凄い人だ」

カイカン・ソング
 大西洋に面した、西アフリカのガーナ。
 ♪ブロックを一つ、もう一つ シャベルが一本、また一本……
 工事現場から、太鼓のリズムに合わせて「カイカン(会館)・ソング」が聞こえる。
 79年(昭和54年)、首都アクラではガーナ会館が建設中だった「カイカン・ソング」のビート乗って杭を打ち込む。セメント入りのバケツを頭に乗せて、ステップを踏む。
 メンバーは赤土の道を歩いたり、卜口トロと呼ばれる小型バスに乗って工事現場までやって来る。
 露天商やパイナップル農園の労働者もいれば、主婦、政府高官までいる。それぞれシャベルやハンマーなどの工具を持参。自分たちの手で会館を完成させたい。思いはひとつだった。
 ある日、メンバーのもとにプレゼントが届けられた。映写機と映画「人間革命」のフィルム。池田大作SGI(創価学会インタナショナル)会長からである。
 狭い部屋に肩を寄せ合い、即席の上映会を開いた。
 日本の創価学会の歴史を知って驚いた。もともと学会は、満足な会館ひとつないと
ころから開拓していったのか……。
 できうる限り、立派な会館にしたかった。針金やガラスを調達するため、町中の店を当たり尽くした。
 ドアノブはナイジェリア、鍵はトーゴまで足を運んだ。
 起工から足かけ7年。経済の混乱による中断を幾度も乗り越え、アフリカ初のガーナ会館が完成した。

ガーナの英雄
 ガーナ共和国の大統領ジェリー・ローリングスが、2㍍はあろうかという堂々たる体躯を演壇に運んだ。
 97年(平成9年)12月1日、信濃町の聖教新聞社で、創価大学名誉博士号の授与式が行われた。
 厚い胸板に、隆々と盛り上がった肩、大きな手。ガウンのような民族衣装が似合う。
ガーナの議場で、その野太い声を響かせて腐敗を一掃。伝説の英雄「ロビンフッド」にも譬えられる。
 授与式のスピーチが進むにつれて、口調が激しくなってきた。
 アフリカの民は貧困と対立に喘いでいるのに、先進国は何をしているのか!
 同席者たちが、ハラハラし始めた。
 軍人出身。激しやすい。怒りを隠そとしない。一度、火がつくと、もう誰も止められない。
 スピーチが終わった。と同時に池田SGI会長が立ち上がっだ。
 大統領の肩をポンと叩く。
 「ならば、一緒に戦いましょう! 徹底して話し合いましょう!」
 1時間後。会見から戻った大統領は、にっこり上機嫌である。
 あの「怒りのローリングス」を一変させるとは。
 随行していた外交関係者が一驚した。

アフリカの総意
 聖教新聞社の1階ロビーにナイジェリアのドゴン=ヤロ駐日大使が入ってきた。
 母国の伝統的衣装と帽子を身につけている。真っ白い服が、精悍な黒い肌を引き立てていた。
 夢だった池田SGI会長との会見が実現したのは、1988年(昭和63年)4月26日だった。
 対談中、うれしい言葉があった。
 「貴国は、アフリカでも格段に多くの大学を持つ教育大国ですね」とSGI会長。ナイジェリアの経済力に注目する人は多い。だが、教育に目を向けた人は初めてだった。
 「ピカソもアフリカ美術に強い影響を受けました。ジャズなど多くの音楽の淵源もアフリカです」
 数多くのリーダーと会ってきたが、これほどアフリカに敬意を払ってくれた人は見たことがない。
 「池田会長は、ジャイアント(巨人)だ!」
        ◇
 91年(平成3年)秋。
 在東京アフリカ大使館の定例会が行われていた。
 東京に大使館を置く26力国の代表が一堂に会している。
 ナイジェリアのドゴン=ヤロが発言を求めた。
 「アフリカの総意として、SGIの池田会長に賞を贈りたい」
 「おー、ミスター・イケダ!」「あの方か!」
 大使たちの記憶がよみがえってきた──。前年の10月31日、彼らは在京アフリカ大使館主催のレセプションに出席していた。
 折から来日していたアフリカ民族会議副議長のネルソン・マンデラがスピーチに立ったのである。
 「きょうは、ある方とお会いした。日本を代表する仏教団体のリーダーだ。青年の大歓迎にも、とても感動した。うれしかった」
 マンデラの発言が、大使たちの脳裏に残っていた。むろん、アフリカに対するSGI会長の提言や行動もよく知られている。
 ドゴン=ヤロの提案は全会一致で採択され、SGI会長に「教育・文化・人道貢献賞」が贈られることが決まった。
 授賞式は91年11月29日。
 在東京アフリカ外交団として、SGI会長のもとにずらりと勢ぞろいした。
 日本の一民間人のためにアフリカが一つになる。異例のことだった。
        ◇
 その直後のことである。
 いつものように朝、英字新聞を開いたドゴン=ヤロが破顔した。
 なに、宗門が学会を破門した?
 正義の人が、時代遅れの聖職者たちに妬まれる。古今の歴史が物語っている真実じゃないか。
 やっぱり会長はジャイアントだ!

月桂冠を君に
 2001年(平成13年)8月16日。創価大学のアフリカ訪問団が、ケニアの首都ナイロビにあるセント・ジョージ小学校を視察した。
 男の子が駆け寄ってきた。
 「きょうはイケダセンセイも来てるの?」
 この場には創立者が来ていないことを伝えると、少し残念そうな顔になったが、こんなメッセージを託された。
 「そうなんだ。僕たち、センセイに会えるのをずっと楽しみにしてるの。センセイに会ったら、そう伝えてね!」
 続いて開かれた交歓会。
 一人の少女がすっと立ち上がり、朗々と詩をそらんじていく。身ぶり、手ぶりを交え、豊かな情感を表現する。
 現地通訳が教えてくれた。
 「創立者の詩です。桂冠詩人でいらっしゃいますね」
 一行は再び目を丸くした。
 少女の父親は、ナイロビ大学の教授ヘンリー・インダンガシ。
 ケニア作家協会の会長。口承文学協会の会長などを務めた。SGI会長とも対談を重ね、交換教員として創大に滞在した経験もある。
 インダンガシ家では毎晩のように、娘へSGI会長の詩を読み聞かせてきた。この小学校で教員をする妻も、会長の詩を教材にしている。
        ◇
 八王子の東京牧口記念会館。SGIの春季研修に参加しているメンバーの前でご田SGI会長がマイクを握った。2004年(平成16年)3月のことである。
 「ご苦労さまです。一番、遠くから来た人は?」
 コフィ・コアメ・レミと、ズーズー・コアシ・ポールが手を挙げた。
 はるか西アフリカのコートジボワールから、3カ月分の給料を旅費に充てて、日本まで来た。かつて象牙海岸と呼ばれた地である。
 壇上からSGI会長が手招きした。「遠い所から、よく来たね!」
 青年部のコフィの頭に「月桂冠」を載せた。勝者の証しである。二人の肩に腕をかけ、ぐっと引き寄せる。「福運だよ! 勇気だよ! 忍耐だよ!」
 帰国後、コフィは300力所の会合を猛然と回り、1万人以上のメンバーに、その感動を伝えた。
 アフリカ人の心に勇気と希望を贈ってくれた人は誰か。
 アフリカ人の未来のために、祈り、行動してきた人は誰か。
 ──アフリカの庶民は、誰よりもよく知っている。
2009-09-06 : 新 あの日あの時 :
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新 あの日あの時 15

新 あの日あの時 15     (2009.8.26付 聖教新聞)

池田先生と埼玉県

新時代を開く「関東の師子王」

3代会長と川越
 「この戸田の名代として、毅然と行ってきなさい!」
 師の厳命によって、青年部の池田大作班長が、埼玉・川越の御書講義に討って出だのは1951年(昭和26年)の秋である。
 戸田城聖第2代会長の事業を一身に支える苦闘の真っ只中だった。池袋駅から東武東上線で約45分。発車ベルの鳴る電車に、飛び乗ることもあった。
 成増駅を過ぎると埼玉に入る。大和町(現在の和光市)、朝霞、志木、鶴瀬、上福岡、新河岸──。
 やがて埼玉が大発展する日を祈りに祈りながら、電車に揺られた。
 53年2月10日の日記。
 「埼玉、川越地区に講義。──『佐渡御書』。受講者。約五十名。次第に、人材、人物が、輩出して来た様子」
 その5日後の2月15日。
 川越会館(当時)で志木支部の総会があり、戸田会長が出席した。
 さすがは大作だ! よくぞ埼玉を育ててくれた!
 総会は大成功に。この日、戸田会長は川越にある旅館「佐久間」に投宿した。
        ◇
 この旅館「佐久間」には牧口常三郎初代会長も泊まっている。
 1907年(明治40年)10月、川越中学(当時)で講演するために滞在した。
 女性教育に力を入れていた牧口会長は、3日間にわたり、学資がなくても学べる女性のための「教習所」の実現を市民に呼びかけている。
 「佐久間」の創業は1894年(明治27年)。皇族や文豪の常宿として愛されてきた。島崎藤村も、ここで小説『夜明け前』を執筆した。
 そんな名だたる賓客をもてなしてきた「佐久間」だが、戸田会長を迎えた日のことは、いまだに語り草になっている。2代目の女将・佐久間スミが「すごい方が来られた!」と家族に熱っぽい口調で語っている。
 その人柄に魅了され、わざわざ信濃町の学会本部まで、旅館の将来などを相談しにきたほどである。
 3代目社長の佐久間勇次。
 「歴代の会長が市民のために足を運ばれた川越です。学会の川越文化会館も素晴らしい。新しい名所ができたような思いです」

香峯子夫人と共に
 明治時代、埼玉の川越で女性の幸福を願った牧口会長。
 名誉会長の香峯子夫人は、その牧口会長が出席した座談会に参加した経験をもつ。香峯子夫人もまた折にふれて埼玉の女性を勇気づけてきた。
 82年(昭和57年)8月、長野県。
 関東から参加したメンバーの研修が終わり、香峯子夫人が、ねぎらいの声をかけた。めざとく関東女子部長だった栗和田《くりわだ》薫を見つけた。
 「親孝行してくださいね。あなたがリーダーとして戦われていること自体が、立派な親孝行ですから」
 栗和田は、これまで胸の内にしまってきた思いを語り出した。
 母と姉妹4人で信心を貫いてきたこと。第3代会長の辞任を知った時の悔しさ。病弱だった母が、聖教新聞の配達をしながら、100世帯を超える弘教を成し遂げたこと……。
 香峯子夫人は静かに、すべてを聞いてくれた。
 「お母様を大切にしてくださいね」
 翌日、栗和田の母に名誉会長から一首の和歌が届く。
 「埼玉の 陰の陰なる母ありぬ その名忘れじ その名薫れと」
 池田名誉会長が、全埼玉の婦人部、女子部に贈る思いで詠んだ歌であった。
        ◇
 89年3月12日、埼玉婦人部の代表が、香峯子夫人と懇談していた。
 「どうしても関西を超える戦いをしたいんです!」
 夫人は少し困ったように微笑んだ。
 「関西は主人がつくった組織ですから……。皆さんらしく戦うことが重要ではないでしょうか」
 その年の10月。
 関西入りした池田名誉会長は、京都の会合に出席した。
 「“大変な時こそ、まかせてください。関西は何倍もやりまっせ”との心意気。それが『関西魂』の素晴らしさである」と讃えた。
 続いて、埼玉に刻まれた史実を通してスピーチした。
 ──埼玉の行田市に、忍城《おしじょう》という美しい城がある。戦国時代、城主と軍兵《ぐんぴょう》が出陣した隙に2万もの豊臣勢が押しよせた。城には年配者と女性しかいない。絶体絶命である。
 しかし城主の妻が、わずか300の兵と立ち上がる。城を落としてなるものか。妻みずから泥にまみれて堀を掘り、ついには豊臣勢を圧倒した逸話を通じた指導だった。
 埼玉は、埼玉らしく!
 不朽不滅の歴史を築け!
 名誉会長夫妻は、常勝関西の地にあっても常勝埼玉にエールを送ったのである。

川口で文化祭
 1985年(昭和60年)9月29日午後、川口市立芝スポーツセンターに到着した。埼玉青年平和文化祭に出席するためである。
 名誉会長は体調をくずしていた。それでも来賓の到着を知ると、畳をバンと叩き、勢いよく立ち上がった。
 文化祭が幕を開けた。
 東京の北区、足立区に隣接する川口市の名物「キューポラ」(鋳物工場の溶銑炉)の火をイメージしたダンスが始まった。
 青年たちが、炎暑のなかで練習を重ねた演技が続く。
 名誉会長は、拍手を送り続けながら、来賓に声をかけ、飲み物にも気を配った。
 終了後の懇談会では、川口の同志の近況に耳を傾けた。
 奮起した川口は、埼玉屈指の組織に発展。3年後、待望の川口文化会館が落成した。

テレビ埼玉の社長
 埼玉西武ライオンズ。
 浦和レッズ。
 大宮アルディージャ。
 埼玉のスポーツファンは、ホームチームの試合を中継する「テレビ埼玉」を愛してやまない。
 社長の岩崎勝義。創価学会に興味を抱いたのは「人間教育実践報告大会」に招かれてからである。
 埼玉県深谷市で行われた。胸を打つエピソードに涙があふれた。
 テレビマンとして、この団体の本質に迫るうと、特別番組を手がけてきた。
 切り口は豊富にある。
 まず「母」という角度。
 名誉会長の長編詩をモチーフにした「母に贈る歌」。2000年(平成12年)から3年にわたり「母の日」に放映した。
 中国という側面も、見逃せない。
 02年は日中国交正常化から30周年の節目だった。「世代から世代へ伝える“金の橋」を制作。中国ロケも敢行し、名誉会長の足跡、功績も取材できた。
 文化交流。
 06年5月、「大ナポレオン展」が埼玉で開幕されることを知り、特番を組んだ。子孫であるナポレオン公と名誉会長の会見映像も流した。
 「番組をつくる以上、池田先生、学会のことも徹底的に調べさせていただきました」
 現場のプロデューサーやディレクターはもちろん、営業部門も巻き込んだ。
 「未来を築く教育や、郷土を守る農村にも光を当てている。池田先生は大変に素晴らしい」

笑顔で進め!
 85年(昭和60年)の師走。
 第3埼玉県(当時)の代表が聖教新聞社の前で名誉会長に出会った。
 「どこから来たの?」
 平川良子たちが答える。
 「第3埼玉です!」
 具体的な地名がイメージできないせいか、少し首を傾げた名誉会長。
 「中心は、どこ?」
 圏婦人部長が次々と声をあげる。
 「春日部です!」「越谷です!」「三郷です!」「久喜です!」「羽生です!」「熊谷です!」
 それぞれの地域名を聞き、「分かった。本当にご苦労様! またね」。心から、ねぎらってくれた。
 埼玉の東部から北部に広がる地域である。県民の間でも知名度が高いとはいえない。
 “勝つことだ。見事な勝ち名乗りを上げて、先生に知っていただくしかない”
 ことあるごとに活動の結果を報告し、86年11月24日、その夢が三郷で実現した。
 この日、名誉会長は三郷文化会館を初訪問。三郷市、八潮市をはじめ第3埼玉の代表らが集った。
 懇談の際、こんな場面もあった。
 三郷婦人部の岩田栄子が悩みを打ち明けた。長男の下肢がマヒしていた。その息子を抱きかかえ、婦人部本部長として活動してきた。
 池田名誉会長の指導は明快だった。
 「信心は明るくするものだ。感傷に涙する婦人部ではいけないよ」
 その確信に圧倒される。
 「太陽のごとく! 明るく前を向いて生きなさい。それが仏法だ」
 その夜、和歌が届く。
 「香《かぐわ》しき 秋の実りにつつまれし 笑顔と笑顔の 三郷城かな」
 笑顔で進め! 新たな指針を胸に進む三郷には、勝利の城がそびえる。
 岩田の長男も、三郷圏の男子部主任部長になった。

師弟の埼玉たれ
 2000年(平成12年)9月に行われた埼玉の記念大会。名誉会長はメッセージを寄せ、呼びかけた。
 全員が、師子王となって、戦い、走れ! これが日蓮仏法の真髄であり、創価学会の魂であるからだ。埼玉よ、世界一の埼玉として、永遠に、その名を残せ!」
 「私は、埼玉の大勝利を待っている。夢に見た埼玉の大勝利を待っている」
 埼玉は立ち上がった。
 機関紙誌の拡大、記念展示等の参加人数も常にトップに立つ。
 いざ戦いとなれば、東京、神奈川、関西も押し上げる「関東の要」である。
 後継の陣列も整った。
 08年9月には、3万6000人の広宣流布の闘士が、さいたま市のさいたまスーパーアリーナに堂々と集結。
 その波動は、来賓として参加したブラジル青年部の代表の心も動かす。本年5月、ブラジルの地でも2万人の文化総会が行われた。
        ◇
 07年5月8日、埼玉池田研修道場で、名誉会長は新たな指針を示した。
 「師弟の埼玉になりなさい。創価の三代は自分を捨てて、会員を守ってきた。その心が異体同心につながる。勝って、また会おう!」
 「関東の師子王」埼玉が新時代を勝ち開く。
2009-09-03 : 新 あの日あの時 :
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